花の競演:江戸の化政文化
第一章 寺島村の約束
隅田川の向こう岸、寺島村の辺りは、春になると霞がたなびくような桃源郷へと姿を変える。 文政の世、この地には多くの下屋敷が点在していた。その中でもひときわ異彩を放つ庭があった。
隠居してなおその色香を失わない元役者の桜林は、供の者を連れて堤を歩いていたが、ある一角で足を止めた。 生垣越しに見えるのは、計算し尽くされた配置でありながら、まるで山野がそのまま降りてきたかのような自然な佇まいの庭だった。
「これは見事なものだ。これほどまでに花の命が震えているような庭は、江戸中を探してもそうはあるまい」
桜林は溜息をつき、門柱に掲げられた名札を眺めた。そこは、次期将軍と目される徳川家慶公の下屋敷。 管理を任されているのは、町奉行所でも知られた遠山金四郎景元だ。
「おや、桜林殿ではありませんか。このような場所で何を呆けておいでだ」
背後から声をかけたのは、偶然にも見回りに訪れていた遠山金四郎、その人だった。
「金さん、ちょうど良いところに来てくれました。この庭ですよ。私は一目でこの場所に惚れ込みました。どうにか、この隠居の終の棲家として譲り受けることは叶いますまいか」
金四郎は苦笑いをして、羽織の襟を正した。
「ここは家慶様の御屋敷です。役者上がりの隠居が口にするには、少々荷が重い願いではありませんか」
「承知の上です。しかし、この庭を育てた者の顔が見たい。これほどまでに花を慈しむ心が、この土には染み付いている」
二人が門をくぐると、庭の隅にある小さな小屋から、泥に汚れた一人の若者が現れた。植木屋「稲屋」の次男、染吉。
「どなたかと思えば遠山様。今日は、賑やかな御一行ですね」
染吉は手にした鋏を腰に差し、手ぬぐいで顔の汗を拭った。
「染吉、こちらのお方は桜林殿だ。お前の手入れしたこの庭を、どうしても譲ってほしいと仰せだ」
金四郎の言葉に、染吉は目を丸くした。
「この庭をですか。ここは家慶様の静養の地。私のような者が預かっているとはいえ、滅多なことは言えません」
桜林は染吉に歩み寄り、その節くれだった手をじっと見つめた。
「あんたがこの景色を作ったのか。この牡丹、まるで今にも語りかけてきそうだ」
「花は、手をかけた分だけ応えてくれます。私はただ、この子たちが一番綺麗に笑える場所を探しているだけですよ」
染吉が照れくさそうに笑うと、小屋の奥から、お梅が茶を運んできた。
「お武家様、どうぞ。染吉は花のことになると、周りが見えなくなる質でして。失礼がありましたらお許しください」
お梅の明るい声が、庭の空気をさらに和らげる。
「いや、お梅さん。失礼などとんでもない。家慶様も、父君である家斉公の贅を尽くした暮らしには、常々心を痛めておられる。質素倹約を旨とされるあの方なら、この屋敷を真に愛する者に譲るという話、案外、悪いようにはなさらないかもしれません」
金四郎は庭を見渡し、一つ頷いた。
「染吉、お前はどう思う。この庭が、この方のものになっても、ここで花を育て続ける覚悟はあるか」
「私は、どこであろうと花と生きるだけです。もし桜林様が、私以上にこの花々を愛してくださるのなら、これ以上の喜びはありません」
春の柔らかな日差しの中で、江戸の園芸を揺るがす新しい縁が、今まさに芽吹こうとしていた。
江戸城の奥深く、静かな一室で家慶は遠山金四郎と向き合っていた。 父である将軍家斉の派手な暮らしぶりは、城内の隅々にまで及んでいる。 家慶は、運ばれてきた質素な膳を眺めながら、静かに口を開いた。
「金四郎、寺島の下屋敷を、隠居した役者に譲りたいという話は本当か」
家慶の問いに、金四郎は畳に手をついて答えた。
「はい、桜林という者でございます。あの地の庭と、そこを守る植木職人の腕にいたく感銘を受けたようでして」
「役者に屋敷を譲るなど、前代未聞だと周囲は騒ぐだろうな」
家慶は少しだけ口角を上げた。
「しかし、父上のように多くの側室を抱え、贅を尽くすばかりが将軍の道ではあるまい。私は、無駄な抱え屋敷を減らしたいと考えていたところだ。風流を解する者に譲り、管理を任せるのも一つの節約になろう」
「家慶様の御英断、痛み入ります。あの庭の主、染吉という若者は、花の命を何より重んじる誠実な男でございます」
金四郎の言葉に、家慶は深く頷いた。
「職人が己の技に命を懸けるのは、良いことだ。その男に伝えよ。庭を枯らすようなことがあれば、承知せぬぞとな」
「承知いたしました。必ずや、その意を伝えます」
その頃、寺島村の小さな小屋では、染吉が鉢植えの土を丁寧に解していた。 傍らでは、お梅が使い古した手ぬぐいを縫い直しながら、その様子を微笑ましく見守っている。
「染吉さん、またそんなに土をいじって。爪が真っ黒ですよ」
お梅が呆れたように笑うと、染吉は顔を上げずに答えた。
「土の温かさで、根っこが何を求めているか分かるんだ。お梅、見てごらん。このツツジ、今年は一段と良い花を咲かせそうだ」
「まあ、本当ですね。蕾が今にも弾けそう。でも、あまり無理をしては体に毒ですよ」
「花が咲くのを待っている間は、疲れなんて感じないさ。それより、お梅、今日のおかずは何かな」
「夕餉は、お隣からいただいた大根と、少しばかりのお魚を煮ておきましたよ」
染吉は作業の手を止め、お梅の顔を見て満足そうに笑った。
「お梅の作る煮物は、江戸で一番だ。これを食べれば、明日も一日、木々と向き合える」
「もう、お上手ですね。でも、あの桜林様というお方が屋敷の主になったら、私たちはどうなるんでしょう」
「どうなっても、俺たちがやることは変わらない。この地面を耕して、季節の花を育てる。それだけが、俺の生きる道だからな」
染吉の力強い言葉に、お梅は安心したように頷き、再び針を動かし始める。
小さな小屋には、湿った土の香りと、二人の穏やかな笑い声が満ちていた。 江戸の街が夕闇に包まれる中、職人の家には小さく、温かな灯火が灯った。
飯田町にある大きな看板を掲げた稲屋の本店を背にして、染吉とお梅が寺島村で小さな所帯を持ってから、季節がいくつか巡った。 兄の梅吉が継いだ本店は、大名屋敷への出入りも多く、いつも活気に満ちている。 それに比べれば、分家したばかりの染吉たちの暮らしは、その日を暮らすのが精一杯の厳しさだった。
「いよいよ明日から植木市です。準備はよろしいですか」
お梅が、荷車に積み上げられた鉢植えを確認しながら声をかけた。 染吉は、大切に育ててきたサクラソウの鉢を愛おしそうに撫でている。
「ああ、このサクラソウも、マツモトセンノウも、最高の状態で咲いてくれた。お前が毎日、水やりを欠かさなかったおかげだ」
「いいえ、土を調合し、日当たりを細かく調整していたのは染吉さんではありませんか。私はただ、見守っていただけです」
翌朝、二人は夜明け前から荷車を引いて、市が立つ広場へと向かった。 会場には、見事な枝ぶりのカエデや、雪のような白さが際立つセッコク、そして奇妙な形をしたマツバランなどが所狭しと並んでいます。 しかし、名のある大きな店が並ぶ中で、染吉の小さな店先には、なかなか客が足を止めない。
「おや、あそこにいるのは稲屋の出来損ないの次男坊ではないか」
通りかかった本店の若い衆たちが、冷やかすように笑いあった。 染吉は唇を噛み締めたが、黙って鉢の手入れを続けた。 そこへ華やかな着物に身を包んだ桜林が、金四郎を伴って現れた。
「これはこれは、染吉。相変わらず良い顔をした花たちだ。金さん、見てください。この変化朝顔の葉の細工、まるで波が立っているようではありませんか」
桜林が大きな声で感嘆すると、周囲の客たちが何事かと集まってきた。
「ほう、これは珍しい。セッコクの花付きも素晴らしいが、このオモトの葉の斑の入り方は、並の職人では出せぬ色合いだ」
金四郎も、専門家のような目つきで鉢を覗き込んだ。
「桜林様、遠山様、お越しいただきありがとうございます。このナデシコは、江戸の風に耐えられるよう、根を強く育ててあります」
染吉が静かに説明を始めると、その深い知識と花への情熱に、客たちは次第に引き込まれていった。
「その鉢、私がいただこう。こっちのマンリョウと、カキツバタも包んでくれ」
一人が声を上げると、それにつられるようにして、次々と注文が舞い込んだ。 お梅は、慌てて花を包み、代金を受け取るのに追われた。
「染吉さん、見てください。あんなにたくさんあったサクラソウが、もう残りわずかですよ」
お梅が嬉しそうに耳打ちすると、染吉は深く息を吐いた。
「お梅、これでやっと、新しい土と肥料が買えるな。それに、お前にも新しい櫛を買ってやれる」
「まあ、私はそんなものいりません。染吉さんが、こうして皆さんに認められたことが、何よりの宝物ですから」
市が終わる頃には、染吉の店は空っぽになっていた。 遠くからその様子を見ていた本店の留吉も、少しだけ驚いたような顔をして立ち去っていった。 桜林の支援というきっかけはあったが、それを確かな成果に変えたのは、染吉の真摯な仕事ぶりだった。 二人は夕闇の中、軽くなった荷車を引いて、家路へと着いた。
ある早朝のこと、寺島村の湿り気を帯びた空気の中で、染吉は庭の隅に作られた棚の前に座り込んでいた。 そこには、江戸中の園芸好きが熱狂する変化朝顔の鉢が、幾つも並んでいる。 葉が縮れたものや、柳の枝のように細いものなど、もはや朝顔とは思えないような姿の数々。
「染吉さん、朝からずっとそこを離れませんね。お粥が冷めてしまいますよ」
お梅が声をかけたが、染吉は返事もせずに、一輪の蕾をじっと見つめていた。
「お梅、これを見てくれ。この蕾、他のとは少し様子が違うんだ。縁のところが、まるで雪が積もったように白くなっているだろう」
「あら、本当ですね。でも、朝顔の縁が白くなるなんて聞いたことがありません。普通は一色のものか、斑が入るものでしょう」
染吉は、飯田町の本店を継いだ兄の留吉から言われた言葉を思い出していました。 留吉は、伝統的な庭園の形を何よりも重んじる、堅実な職人でした。
「染吉、余計な細工は身を滅ぼすぞ。植物は、あるがままの姿を愛でるのが一番だ。奇をてらった変化朝顔など、一時のはやりものに過ぎん」
しかし、染吉の胸の内にある好奇心の火は、消えるどころか勢いを増すばかりだった。 彼は、様々な品種を交配させ、土の配合や水の与え方を工夫し、前代未聞の美しさを追い求めていたのだ。 日が昇り、蕾がゆっくりとほどけ始めると、そこには鮮やかな紅色の花びらに、一点の濁りもない白い縁取りが鮮明に浮かび上がった。
「できた。これだ、お梅。覆輪というけれど、ここまで真っ白に、しかもくっきりと縁が抜けるのは初めてだ」
「まあ、なんて綺麗。まるでお花が、白い着物の襟を立てているみたいですね」
お梅が感嘆の声を漏らした時、偶然にも桜林がふらりと庭に現れました。
「染吉、いるか。今日は面白い種が手に入ったから持ってきたぞ。おや、それはなんだ」
桜林は、染吉が抱える鉢を見て、思わず足を止めた。 役者として目の肥えた彼は、その花の放つ異彩を一瞬で見抜いた。
「これは驚いた。染吉、あんたはとんでもない化け物を生み出したな。この白と紅の対比は、舞台の上でもそうはお目にかかれない鮮やかさだ」
「桜林様、お褒めいただき光栄です。でも、これはまだ始まりなんです。この白をさらに広げたり、形を星のようにしたり、朝顔の可能性は無限にあるんです」
染吉が目を輝かせて語る様子に、桜林は声を上げて笑った。
「ははは。留吉殿が聞いたら腰を抜かすだろう。よし、この朝顔を次の市の目玉にしよう。名前は何とする」
「雪の縁、というのはいかがでしょう」
お梅が控えめに提案すると、染吉は嬉しそうに頷いた。
「雪の縁か。それはいい。お梅、この子が江戸中の話題になるよう、もっと大切に育てよう」
好奇心の塊である染吉の情熱が、一つの鉢の中に新しい江戸の景色を作り出そうとしていた。 それは、分家の貧しい植木屋が、やがて歴史に名を刻む職人へと成長していく第一歩でもあった。
ある日のこと、江戸城の奥まった広間に、大御所として権勢を振るう家斉が、上機嫌で家慶を呼び出した。
家斉の周りには、色とりどりの着物を着た側室たちが侍り、まるで花園のような華やかさだった。
「家慶よ、聞いたぞ。お前が寺島の下屋敷を隠居した役者に譲ったというではないか。しかも、そこから江戸中を驚かせるような朝顔が生まれたそうだな」
家斉は、オットセイの粉末を混ぜた特製の飲み物を一気に飲み干すと、豪快に笑った。
「父上、耳が早うございますね。節約のために手放した屋敷でしたが、図らずも世間の注目を集めてしまったようでございます」
家慶は居住まいを正し、淡々と答えた。 その心の内では、側室を何十人も作り、贅沢の限りを尽くす父への強い反発があったが、顔には決して出さないようにしていた。
「良いではないか。役者に屋敷を貸し、そこで稀代の植木職人を育てるとは、心憎い計らいだ。その植木屋が作った雪の縁という朝顔、わしも見てみたいものだ。すぐに城へ持ってこさせよ」
「それはなりませぬ。あの朝顔は、寺島の土と、朝の清々しい空気があってこそ咲くもの。城の中に閉じ込めては、その輝きを失ってしまいます」
家慶が珍しく語気を強めると、家斉は目を細めた。
「ほう。お前がそこまで肩入れするとは、よほど面白い男なのだな。よし、わしが自らお忍びで寺島へ行くとしよう。金四郎を案内役に立てよ」
家斉の自由奔放な物言いに、家慶は静かに溜息をついた。
その頃、寺島村の染吉のもとへ、金四郎が慌てた様子でやってきた。
「染吉、大変なことになったぞ。上様が、お前の朝顔を直にご覧になりたいと仰せだ」
「上様が、この小さな庭にですか。金四郎様、それは何かの冗談でしょう」
染吉は、手に持っていた肥杓を危うく落としそうになった。 傍らで朝顔の支柱を整えていたお梅も、顔を真っ白にして立ち尽くした。
「冗談なものか。家慶様が上手く立ち回ってくださったが、家斉公の好奇心は止まるところを知らない。明日にも、お忍びでお見えになるかもしれん」
「染吉さん、どうしましょう。お迎えする準備なんて、何もできていません」
お梅が震える声で言うと、染吉は深く息を吸い込み、庭を見渡した。
「お梅、準備なんていらないさ。俺たちはいつも通り、花を一番良い状態に保つだけだ。上様だろうと誰だろうと、花の前では皆、一人の客に過ぎないんだから」
染吉の言葉に、金四郎は感心したように頷いた。
「相変わらず肝の据わった男だ。だがな、染吉。家斉公はおおらかなお方だが、同時に最高に贅を好まれる。お前のその素朴な情熱が、どう映るか楽しみだぞ」
家斉の圧倒的な陽の気と、家慶の内に秘めた静かな意思、そして染吉の職人魂が、寺島の小さな庭で交差しようとしていた。
寺島村の朝は、いつになく落ち着かない空気に包まれていた。
粗末な木戸の前に、立派な身なりの男たちが数人、所在なげに立っている。 その中心にいるのは、派手な羽織をさらりと羽織り、屈託のない笑みを浮かべた家斉だった。
「金四郎、ここがその例の庭か。思っていたよりもずっと小ぢんまりとしているではないか」
家斉が声を弾ませると、案内役の金四郎は冷や汗を拭いながら深々と頭を下げた。
「左様にございます。上様、されど、くれぐれも、お静かにお願いいたします」
「分かっておる。わしはただの隠居した親父としてここに来たのだからな」
一行が庭に一歩踏み入ると、そこには染吉とお梅が、緊張で板のように固まって控えていた。 家斉は二人の前を通り過ぎ、棚に並んだ鉢植えの一つ一つを覗き込んだ。 そして、あの雪の縁の前に立った時、その足が止まった。
「これは、なんという美しさだ。紅の海に白い波が打ち寄せているようではないか」
家斉の感嘆の声に、染吉は勇気を振り絞って顔を上げた。
「恐れ入ります。それは、一万に一つ、あるいはもっと少ない確率で現れる突然変異を、幾年もかけて選りすぐったものでございます」
「一万に一つか。面白いな。染吉と言ったか。お前の仕事は、この世の偶然を必然に変えることなのだな」
家斉は庭の隅にある縁側に腰を下ろし、遠くの空を眺めた。
「わしはな、先代の家治公や定信のような、賢い人間ではないのだ。自分でもよく分かっておる。わしの代に優れた家老がいないのも、わし自身にそれだけの徳がないからだろうと、三国志の物語を読みながら思っておったよ」
家慶は背後で黙って父の言葉を聞いていたが、家斉は続けて愉快そうに笑いました。
「だがな、この変化朝顔を見て気が変わった。わしが何十人もの子を成しているのは、ただの道楽だと思っておったが、そうではないのかもしれん。この朝顔のように、一万に一人の類まれなる才を持つ子が、わしの血筋から現れるかもしれんからな」
「上様、それはまた、壮大な考えでございますね」
金四郎が苦笑い混じりに言うと、家斉は染吉の方を向き、力強く頷いた。
「染吉、お前も同じだ。この先の世がどうなるかは分からぬが、お前が残したこの花の種は、百年、二百年先の人々を驚かせるかもしれん。わしは子を増やし、お前は花を増やす。それでいいではないか」
「もったいないお言葉にございます。私はただ、この花たちの命を繋ぐことしか考えておりませんでした」
染吉の答えに、家斉は満足そうに立ち上がった。
「家慶よ、お前がこの屋敷を譲ったのは正解だった。この職人の手があれば、江戸の美はまだまだ尽きぬ。世の中、捨てたものではないな」
家斉は軽やかな足取りで庭を去っていった。 その後ろ姿を見送りながら、家慶は心の中で、父の意外な一面に触れたような不思議な心持ちになっていた。
「染吉さん、上様は本当におおらかな方でしたね」
お梅がようやく大きな息を吐き出すと、染吉は自分の手を見つめた。
「ああ。俺たちの仕事が、遠い未来に繋がっているなんて考えもしなかった。お梅、もっと面白い朝顔を作ろう。上様が仰ったように、誰も見たことがない景色を俺たちの手で残すんだ」
寺島の小さな庭に、新しい時代の風が吹き抜けていった。
家斉が寺島を去った後、その言葉に最も強く突き動かされたのは桜林だった。
彼は数日の間、隠居所に引きこもり、墨の香りに包まれて筆を走らせていた。
「染吉、これを見てくれ。上様の御言葉に触発されて、新しい狂言の書き付けを始めたのだ。名付けて、変化朝顔物語だ。この庭で起きた奇跡を、舞台の上で永遠に残したい」
桜林が広げた紙には、花を愛でる職人と、それを支える女房の情熱が躍動していた。 染吉はそれを読み、深く感銘を受けたが、同時に一つの大きな決意を固めた。
「桜林様、素晴らしい台本です。ですが、私は物語として残すだけでなく、この朝顔の育て方そのものを、江戸の誰もが知ることができる形にしたいのです」
「それは、稲屋の秘伝を世に出すということか。留吉殿が承知しないのではないか」
桜林の懸念通り、飯田町の本店を訪ねた染吉を待っていたのは、兄の激しい怒りだった。
「染吉、正気か。代々伝わる土の配合や交配の仕方を本にして売るなど、職人の看板を捨てるも同然だ。お前は、稲屋の名を地に落とすつもりか」
留吉は机を叩き、弟を怒鳴りつけた。 染吉は畳に額を擦り付け、必死に訴えた。
「兄上、私は独り占めをしたいのではありません。家斉様が仰ったように、一万に一つ、百万に一つの美しい花を後の世に残すには、多くの人の手が必要なのです。私が死んだ後、この技が絶えてしまうことこそが、花に対する不忠ではありませんか」
「勝手にしろ。その代わり、今後一切、稲屋の看板は貸さぬ」
勘当に近い言葉を投げかけられ、染吉は肩を落として寺島へ戻った。 道すがら、お梅が静かにその手を握っていた。
「染吉さん、私はいいと思いますよ。あなたが苦労して見つけた答えが、誰かの庭で新しい花を咲かせるなんて、とても素敵なことです」
それからというもの、染吉の苦難の日々が始まった。 朝顔の種まきから、水やりの加減、肥料の時期、そして変化を促すための秘訣を、絵師に頼んで細かく図解していった。 出版の費用を捻出するために、お梅は自分の着物を質に入れ、染吉は必死になって、棒手振りで花を売り続けた。
「染吉さん、ついに版元が決まりましたよ。あの蔦屋さんが、これほど面白い本は他にないと仰ってくださいました」
お梅が興奮して駆け込んできたのは、秋の風が冷たくなり始めた頃だった。
出版された解説本は、「朝顔百科」と名付けられ、瞬く間に江戸中の話題となった。 これまで一握りの職人しか知らなかった技術が、町人や武士、さらには寺子屋で学ぶ子供たちの手にまで渡った。
「見てください、染吉さん。あちこちの軒先で、あなたが教えた通りのやり方で朝顔が育てられています。来年の夏は、江戸中が雪の縁で埋め尽くされるかもしれませんね」
「ああ。俺の技はもう俺だけのものではない。だけど、それでいいんだ。花が愛されることが、何よりの報いだからな」
染吉の顔には、かつての貧乏暮らしへの不安はなく、ただ清々しい充実感が溢れていた。 伝統を壊すのではなく、広めることで守るという新しい職人の生き方が、江戸の空に高く芽吹こうとしていたのだ。
ある朝顔市の日。入谷の広場は、夜明け前から祭りのような熱気に包まれていた。 染吉が出版した解説本のおかげで、今年は例年になく多くの人々が、自慢の鉢を抱えて集まっていた。
「見てくれ、この縮れ葉。染吉の「朝顔百科」にあった通りに肥料を控えたら、これほど見事な形になったぞ」
立派な身なりの旗本が、隣に並んだ八百屋の親父に得意げに語りかけている。
「へえ、お侍さんのも凄いが、俺のこの獅子咲きを見てくれ。裏長屋の狭い日当たりで、精一杯育てたんだ」
身分の違いを超えて、誰もが花の美しさを競い、語り合う光景が広がっていた。 会場には、派手な着物を着こなした芸妓衆や、贔屓の役者を連れた豪商たちも現れ、まるでお花見のような賑やかさだった。
「染吉さん、あちらを見てください。あんなにたくさんの方が、あなたの本を片手に鉢を眺めていますよ」
お梅が嬉しそうに指差した先には、擦り切れるまで読み込まれた朝顔百科を手に、熱心に意見を交わす若者たちの姿があった。 そこへ、人だかりを割って、飯田町の本店当主である留吉が歩いてきた。 染吉は居住まいを正し、静かに兄を迎えた。
「兄上、お越しいただきありがとうございます」
留吉は黙って、染吉が並べている鉢を一鉢ずつ、じっくりと見て回った。 そして、最後に染吉の顔をまっすぐに見つめた。
「染吉、わしの負けだ。職人の技を隠して守るのが、今までの当たり前だと思っておった。だが、この広場を見てみろ。お前が技を広めたおかげで、江戸中の花が去年よりずっと美しく、力強く咲いている」
「兄上、私はただ、花が好きな人を増やしたかっただけなのです」
「分かっている。お前は稲屋の看板を汚すどころか、新しい時代の看板を掲げたのだな。勘当だなんて言ったことは、水に流してくれ。これからも、兄弟二人で江戸の園芸を支えていこうではないか」
留吉が差し出した大きな手を、染吉は両手でしっかりと握りしめた。
「ありがとうございます、兄上。これからは本店の知恵も、ぜひ皆に分けてやってください」
「ああ、もちろんだ。わしも隠し持っていた秘伝を、少しは本に載せてやらんとな」
二人の和解を見守っていたお梅の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。 そこへ、桜林が金四郎を伴って現れ、大きな声で笑った。
「これはいけない。兄弟で湿っぽい顔をしていては、花が萎れてしまうぞ。さあ、今日は無礼講だ。どの朝顔が一番か、わしが吟味してやろう」
「桜林様、お手柔らかにお願いします。皆、自分の子が一番だと思って連れてきているのですから」
金四郎が嗜めるように言うと、広場はさらに大きな笑い声に包まれた。 武士も町人も、役者も職人も、一輪の花を囲んで心を一つにする。 染吉が夢見た、咲き競う大江戸の景色が、今まさに目の前で爛漫と輝いていた。
第二章
災禍の中で
賑やかだった植木市の興奮が冷めやらぬうちに、江戸の空模様は少しずつ表情を変えていった。 何日も雨が降らず、乾燥した北風が埃を巻き上げる日が続くと、人々は火の用心を呼びかける拍子木の音に怯えるようになった。
「染吉さん、嫌な風ですね。喉がひりひりします」
お梅が濡れた手ぬぐいを口元に当てながら、庭の掃除をしていた。 染吉は、乾ききった土を指で探り、険しい表情で空を見上げた。
「ああ、この風は危ない。せっかく芽吹いたばかりの若い苗たちが、風に煽られて弱ってしまう。お梅、家中の桶に水を溜めておこう」
その夜、嫌な予感は的中しました。 神田のあたりから上がった火の手は、猛烈な風に乗って、あっという間に隅田川を越えて寺島村へと迫ってきました。
「染吉さん、火がすぐそこまで。早く逃げましょう」
「お梅、この鉢だけは。これさえあれば、またやり直せるんだ」
染吉は必死に雪の縁の親鉢を抱えたが、降り注ぐ火の粉に阻まれ、ついに手放さざるを得なかった。 全てを焼き尽くす炎の前で、二人は着の身着のままで逃げ惑った。
火が収まった数日後、黒焦げになった庭の跡に立った染吉は、膝をついて肩を落とした。 丹精込めて育てた花々も、記録を記した紙も、すべてが灰になっていた。
「染吉さん、見てください。あんなに焼けたのに、この隅っこの地面から、小さな芽が出ていますよ」
お梅が指差したのは、焼け残った石の影から顔を出した、名もなき野草の芽だった。
「お梅、そうだな。根っこが生きていれば、また芽は出るんだな。俺は、鉢を失っただけで、技を失ったわけじゃない」
染吉は泥を払い、立ち上がった。 しかし、災難はそれだけではなかった。 大火の後は、極端な冷え込みと雨不足が続き、作物が全く育たない大飢饉が江戸を襲った。
「染吉、すまない。今は花の美しさを語る余裕が誰にもないのだ。家慶様も、民を救うために必死に動いておられる」
訪ねてきた金四郎の顔も、いつになくやつれていた。 染吉は深く頷き、お梅と相談して、観賞用の花壇を全て潰すことに決めた。
「お梅、今は花よりも命を繋ぐものが先だ。ここに、かつて学んだ薬草と、痩せた土地でも育つ甘藷を植えよう」
「はい。でも、染吉さん。この物置の裏の小さな場所だけは、サクラソウを残しておきましょう。お腹が空いても、心が乾いてしまったら、人は生きていけませんから」
お梅が大切に隠し持っていた一鉢のサクラソウを見て、染吉は涙を堪えながら微笑んだ。 二人は飢えに耐えながら、村の人々に薬草を配り、命を繋ぐ手助けを続けた。
やがて、長い冬が明け、少しずつ世の中に落ち着きが戻ってきた頃のこと、 染吉のもとに、一人の見知らぬ若者が小さな包みを持って現れた。
「染吉さんですね。私は数年前、あなたの書いた本を読んで朝顔を始めた者です。火事であなたの庭が全滅したと聞き、私が育てていた雪の縁の種を持ってきました」
それを皮切りに、町人や武士たちが、次々と染吉の庭に種や苗を持って集まってきた。
「染吉さん、あんたが技を教えてくれたから、この種は江戸中で生きていたんだ。さあ、またあの美しい庭を見せてくれよ」
染吉は集まった人々から種を受け取り、震える声でお礼を言った。
「ありがとう。独り占めしなくて、本当に良かった。お梅、この種には、みんなの命の輝きが詰まっているよ」
「ええ。もう一度、江戸中に花を咲かせましょうね、染吉さん」
独りの職人の情熱が、多くの人の手に渡り、災害という荒波を乗り越えて再び大きな花を咲かせようとしていた。 染吉とお梅は、握りしめた種の温もりの中に、確かな未来の光を感じた。
文政十一年の頃、長崎のオランダ商館医であるシーボルトが、江戸参府のためにやってきた。
彼の目的は、日本の動植物の調査と収集だった。
「染吉さん、金四郎様からのお呼びですよ。何でも、異国から来たお医者様が、日本の草木を熱心に調べているとかで」
お梅が不思議そうに告げると、染吉は庭の鋏を置いて顔を上げた。 金四郎に連れられて向かった先は、異国情緒の漂う長崎屋という宿だった。
「お前が染吉か。私はシーボルト。この国の植物は、世界で最も美しいと私は確信している」
現れたのは、青い瞳を持った大きな男だった。 通辞を介して話すその言葉には、染吉と同じような、植物への並々ならぬ熱意がこもっていた。当時、ヨーロッパでは、世界中から珍しい花々を集めることに熱中する貴族が多かった。
「お初にお目にかかります。私はただの植木屋ですが、花の命を愛でる気持ちに国境はないと思っております」
染吉がそう言って、持参した変化朝顔の写生図を見せると、シーボルトは椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
「信じられない。一つの種から、これほどまでに多様な形を生み出すとは。これはもはや芸術であり、科学だ。染吉、この種や苗を、私の国へ持ち帰ることはできないだろうか。あちらの人々にも、江戸の職人の技を見せたいのだ」
「私の花が、海の向こうへ行くのですか。それは光栄なことですが、この子たちは江戸の土と水で育ったものです。遠い旅に耐えられるでしょうか」
染吉は不安を口にしましたが、シーボルトは力強く頷いた。
「そのために、私はこの箱を考案した。ガラスをはめ込み、中の湿気を保つ特別な箱だ。これなら、数ヶ月の船旅も乗り越えられる。染吉、協力してくれないか」
それから数日間、染吉は長崎屋に通い詰め、シーボルトに日本の園芸の真髄を伝えた。 アジサイや、斑入りの植物、そして最新の変化朝顔。 二人は言葉の壁を超えて、土の配合や挿し木の技法について語り明かした。
「染吉さん、今日は随分と遅かったですね。あの青い目のお方は、そんなに植物にお詳しいのですか」
帰宅した染吉に、お梅が温かい茶を差し出した。
「ああ。あの方は、草木をただ愛でるだけでなく、名前を付け、分類し、歴史に残そうとしている。俺が本を書いたのと同じ志を持っているんだ。お梅、俺はあの方に、とっておきの種を託そうと思う」
しかし、この交流が、後にシーボルト事件という大きな嵐を巻き起こすことになります。 シーボルトが持ち出そうとした荷物の中に、禁じられていた日本地図が含まれていたことが発覚しただ。
「染吉、しばらく身を隠せ。シーボルトに荷物を預けた者たちに、幕府の追っ手が及んでいる。お前が渡した植物の苗も、疑いの目で見られているぞ」
金四郎が夜陰に乗じて寺島の屋敷を訪れ、厳しい表情で告げた。
「私は地図など渡していません。ただ、花の種を分かち合っただけです。それが罪になるというのですか」
「理屈は通じぬ。今は嵐が過ぎるのを待つのだ」
染吉とお梅は、自分たちが慈しんできた花々が、国家の争いに巻き込まれていくことに心を痛めた。 しかし、シーボルトは追放されながらも、命がけで染吉から託された植物を船に乗せた。
「染吉さん、あの方はきっと守ってくれます。あなたの花が、世界のどこかで誰かを笑顔にする日が必ず来ますよ」
お梅の言葉を信じ、染吉は静かに、しかし情熱を絶やさずに、再び土を耕し始めた。 江戸の小さな庭から始まった物語が、見えない糸で世界と繋がり始めた瞬間だった。
変化朝顔の奥深さは、親となる株の選び方から始まる。 染吉は、一見すると何の変哲もない朝顔の鉢を前に、お梅にその理を説いていた。
「お梅、この花自体は普通の色形をしているだろう。だけど、この茎の節の間隔や、葉のわずかな捻れを見てごらん。これが、次の代で化ける種を持っている証拠なんだ」
「まあ、こんなに地味な子が、あんなに華やかな雪の縁の親になるのですか」
お梅が不思議そうに葉を撫でると、染吉は自慢げに頷いた。
「そうなんだ。変化朝顔は、あまりに形が変わりすぎると、自分では種を作れなくなってしまう。だから、その性質を隠し持っている地味な親株を、いかに見抜くかが腕の見せ所なんだよ」
染吉は竹べらを取り出し、丁寧に雄しべの粉を別の花の雌しべへと移していった。 それは、気が遠くなるような繊細な作業だ。
「こうして一株ごとに筆で粉を運び、どの株とどの株を合わせたか、すべて帳面に記しておく。何百という組み合わせを試して、ようやく一握りの美しい変化が生まれるんだ」
「まるで、新しい命を組み上げているようですね。夜になっても土を触っていらっしゃいますが、何をなさっているのですか」
「土の温度を確かめているんだよ。朝顔は、夜の間に根っこがどれだけ休めるかで、花の色の冴えが決まる。あまりに土が熱を持ちすぎている時は、こうして濡らした砂を鉢の周りに敷き詰めて、地熱を逃がしてやるんだ」
染吉は、自ら調合した土を手に取り、その感触を確かめた。
「油粕に米ぬか、それに川砂を混ぜて、一年以上寝かせた土だ。これに、さらに細かく砕いた貝殻を混ぜる。そうすると、花の紅がより深く、白がより清らかに抜けるようになるんだよ」
「だから染吉さんの指先は、いつも土と肥料の匂いが染み付いているのですね」
お梅は笑って、染吉の汚れた手を大きな桶の水で洗い流した。 染吉は、冷たい水の感触に目を細めながら、さらなる工夫を語り続けた。
「冬の間は、この鉢を藁で包み、さらに地中に埋めてやる。そうして種の眠りを深くしてやることで、春に芽吹く力が強くなるんだ。朝顔は夏の花だと思われているけれど、実は一年中、俺たちが片時も目を離さずに寄り添ってこそ、あの奇跡のような姿を見せてくれるんだよ」
「植木職人は、お花のお父さんみたいなものですね」
「ああ。だからこそ、この子たちが一番輝ける瞬間を、俺は誰よりも近くで見守っていたいんだ」
二人は月明かりの下で、まだ小さな双葉が眠る鉢を愛おしそうに見つめていた。 技術という名の深い愛情が、染吉の手を通じて、江戸の土の中に新しい驚きを仕込んでいる。
寺島の染吉の庭には、さらに異様な、しかし息を呑むほど美しい鉢が並ぶようになった。 染吉は、種ができる「正木」と呼ばれる株から、本来は種を結ばないはずの究極の変化、「出芽」の兆しを執念深く探し求めていた。
「お梅、見てごらん。この芽は、双葉の時から形が違う。まるで細い針が束ねられたような形だ。これが順調に育てば、誰も見たことがない花が咲くはずだ」
染吉は、小さな竹の棒を使って、土の表面を慎重に整えながら言いました。 お梅は、その繊細な芽を壊さないように、息を殺して覗き込んだ。
「これが本当に朝顔なのですか。葉っぱが柳の葉のように細くて、おまけにくるりと巻いていますよ」
「そうなんだ。変化朝顔の真髄は、花だけじゃない。葉も茎も、すべてが別の生き物のように変わる。そこが面白いんだ」
数週間後、その鉢には驚くべき花が咲いた。 幾重にも花びらが重なり、中心が盛り上がったその姿は、朝顔というよりも、春に咲く大輪の牡丹そのものでした。
「染吉さん、これはもう魔法ですね。朝顔が牡丹に化けるなんて。色も、深い紫に銀色の縁取りがあって、本当に高貴な佇まいです」
お梅が感嘆の声を上げると、染吉は満足げに額の汗を拭った。
「牡丹咲きというんだ。これを作るには、種ができる株の中で、その性質を隠し持っている親を三代先まで遡って選ばなきゃいけない。偶然に頼るだけじゃ、この姿には辿り着けないんだよ」
染吉の挑戦は、それだけでは終わらなかった。 彼は次に、花の中にさらに小さな花が咲く「二重咲き」や、花びらが細かく裂けて撫子のように見えるものまで、次々と世に送り出した。
「染吉さん、今度は何を見つめているのですか。その鉢、葉っぱが真っ白ではありませんか」
「これは斑入りというけれど、ただの斑じゃない。雪が降ったあとの地面のように、白の中にわずかな緑が点々と残る、雪消の風景を狙っているんだ」
染吉は、一日のうちで刻々と変わる日差しに合わせて、鉢の向きを寸分違わず調整していた。
「光の当て方一つで、葉の模様の出方が変わる。自然の力を借りながら、その限界まで美しさを引き出すのが、俺たち職人の仕事だからな」
「江戸中の人が、あなたの作る花を、まるで宝探しのように待っていますよ」
お梅が微笑みながら言った通り、染吉の庭には、新しい変化の兆しを一目見ようと、身分を問わず多くの見物客が訪れるようになった。 染吉は、泥にまみれた手で一輪一輪の花と語り合い、まだ誰も見たことのない江戸の朝を、その鉢の中に描き出そうとしていた。
染吉が作り出した牡丹咲きの朝顔や、雪消の斑入り葉の噂は、ついに幕府の奥深くにまで届いた。 ある日の昼下がり、寺島村の染吉の庭に、仰々しい行列がやってきた。 先頭に立つのは、金四郎でも桜林でもなく、厳しい表情をした幕府の役人だった。
「稲屋染吉。貴殿の腕前、聞き及んでいる。これなるは、時の老中様よりの仰せである」
役人が差し出した書状には、来るべき上覧の場にて、江戸一番の植木師を決めると記されていました。 それは、幕府お抱えの植木師たちと、市井の職人である染吉を競わせるという、前代未聞の勝負だった。
「染吉さん、どうしましょう。老中様の前で勝負だなんて。もし負けたら、稲屋の名に傷がつくだけでは済みませんよ」
お梅が震える手で茶を差し出すと、染吉は書状を見つめたまま動かない。
「お梅、これは俺一人の問題じゃない。これまで俺に種を託してくれた人たちや、一緒に土をいじってきた仲間たちの期待も背負っているんだ」
そこへ、金四郎が顔を出した。
「染吉、聞いたぞ。相手は御三家に仕える伝説の植木師、勘兵衛だ。あやつは、どんなに難しい草木も自在に操ると言われている。上様も、この勝負を密かに楽しみにしておられるようだぞ」
「金四郎様、私に勝ち目はあるのでしょうか。相手は天下の御用職人です」
「腕前は互角かもしれぬ。だが、勘兵衛は権威を重んじる男だ。お前のような、民草とともに育った職人の自由な発想を恐れているのかもしれんぞ」
染吉は立ち上がり、庭の奥にある、まだ誰にも見せていない一鉢の前に立った。 そこには、花びらが管のように細長く伸び、先端が星のように開く、世にも奇妙な朝顔の蕾があった。
「私は、勝つために花を育てたことはありません。ですが、この子が一番美しいと世間に証明するためなら、どんな勝負でも受けましょう」
勝負の日は、十日後に決まった。 お梅は染吉が作業に没頭できるよう、食事を運び、夜通しで火を灯し続けた。
「染吉さん、このおにぎりを食べてください。あなたは花に命を削りすぎです」
「ありがとう、お梅。でも、見てくれ。この蕾が膨らむたびに、俺の胸も高鳴るんだ。勝負の朝、この子がどんな顔で笑ってくれるか、それだけが楽しみなんだよ」
江戸の街は、この世紀の対決の噂で持ちきりになった。 本店の留吉も、密かに上質な肥料と新しい鉢を染吉に届け、陰ながら弟を励ました。 そしてついに、城内の一角にある広大な庭園で、染吉と勘兵衛が相まみえる日がやってきた。
江戸城の一角、松の緑が鮮やかな吹上御庭に、緊張した空気が張り詰めていた。 一段高い場所には家慶が座り、その傍らでは家斉が身を乗り出すようにして、二人の植木師を見下ろしている。
先に進み出たのは、御用職人の勘兵衛。 彼が披露したのは、五色の花を一つの株から咲かせた、巨大な朝顔のタワーだった。
「上様、これこそが徳川の世の栄華を象徴する、五彩の朝顔にございます」
勘兵衛が誇らしげに口上を述べると、列座した諸大名からは、ほう、という溜息が漏れた。 緻密に計算された配置、一点の乱れもない枝ぶりは、まさに権威の結晶だった。
「染吉、次は貴様の番だ。何を持ってきた」
勘兵衛の鋭い視線を浴びながら、染吉は古びた風呂敷に包まれた小さな鉢を一つ、家慶の前に置きました。 風呂敷を解くと、そこにあったのは、まだ花も咲いていない、ひょろりと細い、茶褐色の葉を持つ奇妙な朝顔だった。
「染吉、これは一体何だ。枯れているのではないか」
金四郎が心配そうに身を乗り出した。 家斉も、これはまた地味なものを持ってきたな、と首を傾げている。
「上様、皆様、どうか今しばらく、この鉢にお目を向けたままでお待ちください」
染吉が静かに頭を下げたその時、雲間から真夏の日差しが強く降り注ぎ始めた。 すると、見る間に変化が起きた。 茶褐色だと思っていた葉が、光を浴びた瞬間に、透き通るような深緑へと色を変えたのだ。
「おお、葉の色が変わったぞ」
家斉が声を上げると、さらに驚くべきことが起きた。 固く結ばれていた蕾が、まるで目覚めたばかりの赤子が手を伸ばすように、ゆっくりと、しかし力強くほどけ始めたのだ。 現れたのは、これまでの朝顔の概念を覆す、針のように細い花びらが何百枚も重なった、真っ白な花だった。
「これは、雪の結晶か、それとも打ち上げ花火か」
家慶が思わず立ち上がった。 花びらの一枚一枚が、風に揺れるたびに真珠のような光沢を放ち、周囲の空気を清涼なものに変えていく。
「上様、この朝顔は、光と風があって初めて完成する趣向にございます。名付けて、陽炎の夢。強い日差しを跳ね返し、見る者の心に涼しさを届けるために育てました」
染吉の言葉に、会場は静まり返った。 勘兵衛の五彩の朝顔は、その圧倒的な存在感ゆえに、かえって暑苦しく感じられた。
「勘兵衛の朝顔は見事な工芸品だ。だが、染吉、お前の花は、今この瞬間を生きている。光を喜び、風と戯れている。わしは、このような清々しい朝顔を初めて見た」
家慶が静かに告げると、家斉が膝を叩いて笑いだした。
「見事だ、染吉。この花は、変化朝顔の極致だな。わしの孫たちにも、この花の潔さを見せてやりたいものだ」
勝負は決した。 染吉は深く額を畳に寄せ、寺島で待つお梅の顔を思い浮かべた。
「染吉さん、やりましたね」
控えの間で待っていたお梅が、駆け寄ってきて手を取った。
「お梅、俺たちの花が、お城の中でもちゃんと笑ってくれたよ。これからは、もっとたくさんの人に、この喜びを伝えていこう」
権威に屈せず、ただひたすらに花の命と向き合った染吉の誠実さが、江戸城の最も高い場所で認められた瞬間だった。
城内での上覧を終え、名声を得た染吉だったが、その心は浮つくことなく、常に土と共にあった。
彼は桜林の隠居所の隣に広がる荒れ地を買い取り、そこを本格的な花の栽培場へと作り替えた。 お梅と一緒に汗を流し、人を雇い入れるようになると、そこは一つの大きな村のような活気を帯びてきた。
「染吉さん、また新しい人たちがやってきましたよ。北の方の村で飢饉に遭い、食い詰めて江戸へ流れてきた若者たちです」
お梅が連れてきたのは、着るものもボロボロで、目に力のない数人の若者たちだった。 染吉は、彼らに温かい麦飯を出してやりながら、静かに語りかけた。
「お前さんたち、体は動くか。ここはただの植木屋じゃない。江戸中に花を届ける、花の問屋だ。やる気があるなら、ここで棒手振りの仕組を教えてやる」
若者の一人が、不思議そうに顔を上げた。
「棒手振りってのは、あの天秤棒を担いで歩く商売のことですか。俺たちみたいな素人に、何が売れるんでしょう」
「ただ売るだけじゃない。俺が育てたこの朝顔やカキツバタ、季節の鉢植えをお前たちに預ける。それを江戸の町で売って歩くんだ。稼いだ金の一部は、お前たちの故郷へ帰るための蓄えとして、俺が預かっておく」
染吉は庭の隅にある天秤棒を指差した。 そこには、色とりどりの花が積み込まれた竹籠が二つ、吊り下げられている。
「いいか、売り方にもコツがある。ただ歩くんじゃない。お屋敷町では品良く、長屋では威勢よく。花は心の薬だ。客が疲れていると思ったら、一番香りの良い鉢をそっと差し出してやるんだ」
翌朝から、染吉の農場からは十数人の棒手振りたちが、一斉に江戸の町へと繰り出していった。
「花はいらんかね、季節の花だよ。お江戸の朝を彩る、稲屋の朝顔だよ」
若者たちの威勢のいい声が、路地に響き渡った。 ある者は武家屋敷の奥様に珍しい牡丹咲きを売り、ある者は長屋の住人に手頃なナデシコを勧めた。 染吉が教えた通り、彼らはただ花を渡すだけでなく、水のやり方や日当たりの工夫を、丁寧な言葉で客に伝えた。
「染吉さん、みんな見違えるように明るくなりましたね。昨日は、一人の若者が、これで田舎に土地を買い戻せると泣いて喜んでいましたよ」
お梅が帳面を整理しながら、嬉しそうに報告した。
「ああ、お梅。花を売ることで、彼らは自分の力で生きる自信を取り戻したんだ。彼らが故郷に戻った時、そこでまた新しい花を育ててほしい。その土地の大名に、税の代わりに花を納められるようになれば、村もまた豊かになるはずだ」
染吉の始めた問屋業は、単なる商いを超えて、困窮する農民たちの自立を支援する仕組みへと育っていった。 棒手振りたちが担ぐ天秤棒は、江戸の美を運ぶだけでなく、多くの家族の未来を繋ぐ架け橋となっていった。
「染吉さんは、花だけでなく人も育てていらっしゃるのですね」
「人は土と同じだよ、お梅。手をかけて、光を当ててやれば、必ず自分だけの花を咲かせるものさ」
夕暮れ時、空っぽになった籠を担いで、充実した顔で戻ってくる若者たちを、染吉とお梅は温かな灯火とともに迎えた。
染吉の農場には、四季折々の移ろいに合わせて、天秤棒に載る主役たちが入れ替わっていった。
「春はサクラソウにツツジ、夏は朝顔にカキツバタ。秋になれば菊やナデシコ、冬は寒椿にマンリョウといった具合だ。お前たちが担ぐのは、江戸の季節そのものなんだよ」
染吉は朝早くから、棒手振りたちに花の扱いを叩き込んだ。 通常、江戸の棒手振りは、一日の商いで二百文から三百文ほどの収益を得るのが精一杯。 しかし、染吉は彼らに渡す手数料を、相場より一割多く設定した。
「染吉さん、これではうちの取り分が少なすぎませんか」
お梅が心配そうに帳面を覗き込むと、染吉は笑って首を振った。
「いいんだよ。彼らには、いつか自分の足で立ち上がってほしいからね。お梅、故郷へ帰るつもりの若者たちの給金は、しっかり別に取っておいてくれよ」
染吉は、若者たちが稼いだ金の一部を、帰郷のための蓄えとして預かっていた。 いよいよ故郷の村へ戻る日が来た若者には、その貯めた金に染吉からの餞別を添えて渡すのが、稲屋の習わしとなった。
「染吉さん、これ、本当にいただいても良いんですか。こんなにたくさん、見たこともありません」
涙を流す若者の背中を、染吉は力強く叩いた。
「故郷へ帰ったら、その金で荒れ地を買い戻せ。そして、俺が教えた通りに花を育てろ。いつかその地の殿様に、米の代わりに花を納められるようになれば、村は必ず救われる」
それから数年の月日が流れました。 ある日のこと、寺島の栽培場に、立派な駕籠を連れた一団がやってきた。 驚く染吉とお梅の前に現れたのは、数年前に涙を流して村へ帰った、あの若者。
「師匠、お久しぶりです。ようやく約束を果たしに参りました」
若者は見違えるほど逞しくなり、その傍らには、穏やかな眼差しをした武士が立っていた。
「稲屋染吉殿とお見受けする。私は、この者の故郷を治める領主である。参勤交代で江戸に来たのだが、この者が持ち帰った種と技が、我が領内の窮状を救ってくれたお礼を伝えに来たのだ」
領主が合図を送ると、供の者が一つの大きな箱を捧げ持てました。 蓋を開けると、そこには江戸では見たこともない、雪深い山奥の寒さに耐えて咲く、燃えるような紅色の新種の百合があった。
「これは、なんと見事な。山百合の気高さと、寒椿のような力強さを併せ持っていますね」
染吉が感嘆の声を漏らすと、若者は誇らしげに胸を張った。
「師匠に教わった土の作り方を、村の気候に合わせて工夫したんです。この百合を殿様に献上したところ、特産品として他領へも売れるようになり、村の借金がすべて返せました」
「染吉さん、あなたの蒔いた種が、遠い異郷でこんなに大きな実を結んだのですね」
お梅が隣で目尻を拭った。 染吉は、若者の荒れた掌を握りしめ、深く頷いた。
「お前が頑張ったからだよ。俺が伝えたのはほんのきっかけだ。花が人を救い、人が花を育てる。これこそが、俺が夢見ていた園芸の姿だ」
かつて飢えに苦しみ、棒手振りの籠を担いでいた一人の若者が、今や一国の産業を支える立派な育て手となっていた。 江戸の片隅から始まった情熱は、天秤棒に乗って風のように走り、日本中の土を豊かに変えようとしていた。
帰郷した若者のもう一人、名を長吉といった。彼は染吉から受け取った餞別と蓄えを手にすると、真っ先に村の北側に広がる見捨てられた荒れ地を買い戻した。
「長吉、あんな石ころだらけの山裾を買ってどうするんだ。米も作れやしないぞ」
村の衆は口々に笑ったが、長吉は染吉に教わった通り、黙々と土を耕し始めた。彼はそこに、江戸で種を分けてもらった特別な椿を何百本と植え付けたのだ。
「染吉さんは仰った。花は目で楽しむだけでなく、人の暮らしを支える宝にもなると。俺はこの山を椿の赤で染めてみせる」
長吉の言葉通り、数年の月日が流れると、かつての荒れ地は見事な椿の森へと姿を変えた。早春に村中を埋め尽くす真っ赤な椿の波は、遠くの街からも見物客を呼び寄せるほどになった。
「長吉さん、これほど見事な花は見たことがありません。まるで極楽浄土のようですね」
訪れた花見客たちが感嘆の声を漏らすと、長吉は微笑んで、村の女たちが丁寧にこしらえた土産物を勧めた。
「ありがとうございます。ですが、この椿の真価は花だけではないんですよ。この実から絞った油を見てください」
長吉は村に絞り場を作り、椿の種から黄金色の油を精製する仕組みを整えた。この油は髪に艶を与え、灯火の燃料としても最上のものとして、江戸の問屋からも注文が殺到した。さらに、役目を終えた椿の古木は、職人たちの手によって、堅牢で美しい櫛や細工物へと生まれ変わった。
「お梅さん、見てください。長吉から届いた手紙ですよ。椿の櫛が江戸の娘たちの間で大評判になり、村に立派な蔵が建ったそうです」
寺島の栽培場で手紙を読んだ染吉は、お梅と共に顔を見合わせた。
「まあ、長吉さんも立派になられましたね。最初は天秤棒を担ぐのもやっとだったのに。今では村の恩人として、皆に尊敬されているようです」
長吉は、椿の利益を独り占めすることなく、村の子供たちの学び舎を建てたり、飢饉に備えた備蓄米を買ったりする資金に充てた。かつて食い詰めて江戸へ流れた若者は、今や村に錦を飾り、その地の産業を一人で築き上げたのだ。
「染吉さん、長吉から新しい椿の苗が届いていますよ。雪の中で育ったから、色がより深いんだそうです」
「ああ。あいつは俺が教えた以上のことを成し遂げた。一輪の花が村を救い、人々の顔を明るくしたんだ。植木屋冥利に尽きるな、お梅」
染吉は届いた苗を大切そうに抱え、遠い故郷で奮闘する弟子のような存在に、静かな声援を送った。
ある日、お梅の愛する旭山桜が花開いた。
お梅は、染吉が変化朝顔の交配に没頭する傍らで、栽培場の片隅に置かれた一才桜とも呼ばれる小さな桜の苗に心を寄せていた。
それは旭山桜という、背丈は低いながらも驚くほど密に花をつける珍しい種類だった。
「染吉さん、この桜は不思議ですね。こんなに小さいのに、まるで山一面の桜を凝縮したような力強さがあります」
お梅が指先で小さな蕾をなぞると、染吉は作業の手を休めてその鉢を眺めた。
「それは旭山といって、若木のうちから花をたくさんつける性質があるんだ。だが、江戸の衆は、やはり上野や墨田川の大きな桜を好むからな。鉢植えでは少し地味すぎるかもしれないよ」
「いいえ、私はそうは思いません。家の中で、手のひらの上に春が乗っているような、そんな贅沢があっても良いはずです」
お梅はそう言うと、自ら進んで旭山桜の世話を始めた。 染吉から教わった土の配合を工夫し、水やりも根を腐らせないよう、細心の注意を払って少しずつ与え続けた。 春が訪れると、その小さな木は、鉢から溢れんばかりの八重の花を、桃色の雲のように咲かせた。
「まあ、なんて愛らしい。染吉さん、見てください。この小さな枝に、これほどの命が宿っています」
お梅が栽培場の入り口にその鉢を飾っておくと、通りかかる人々が一人、また一人と足を止めた。
「お梅さん、その桜は一体どうしたんだ。まるでお雛様の持ち物のような可愛らしさじゃないか」
近所の長屋の住人が声をかけると、お梅は誇らしげに微笑んだ。
「これは旭山という桜です。お部屋の中に置けば、毎日がお花見になりますよ」
その噂は瞬く間に江戸の町へ広がり、ついに名のある浮世絵師たちが、その姿を写し取ろうと寺島村へやってくるようになった。
「これは面白い。巨大な桜を愛でるのが江戸っ子の粋だと思っていたが、この小さな鉢の中に宇宙を見るような趣向、実に新しい。ぜひ、私の絵の題材にさせてほしい」
絵師が熱心に筆を走らせる横で、染吉は驚いたようにその光景を見つめていた。
「お梅、驚いたな。俺が大きな変化を追い求めている間に、お前はこんなに身近な幸せを見つけていたんだね」
「染吉さん、花は驚きだけではなく、安らぎも運んでくれるものです。私はただ、この桜を見て、みんなの心が少しでも温かくなればいいなと思っただけですよ」
お梅の育てた旭山桜の絵が瓦版や錦絵になると、江戸中の商家や武家屋敷から注文が殺到した。 派手な変化朝顔とはまた違う、静かで奥深い桜の美しさが、江戸の園芸文化に新しい風を吹き込んだ。
「お梅さんの桜は、江戸の春を、みんなの掌の中に届けてくれましたね」
金四郎がそう言って笑うと、お梅は少し照れくさそうに、けれどもしっかりとした手つきで、次の新しい苗に水を注いだ。
江戸城の深奥、大奥の広間では、お梅が育てた旭山桜の鉢を囲んで、華やかな衣を纏った女性たちが集まっていた。
「まあ、なんと可愛らしいこと。これほど小さな木に、これほど多くの花が寄り添って咲くなんて」
お美代の方が扇をかざして驚くと、隣のお八重の方も身を乗り出した。
「本当。お部屋の中にいながら、春の香りに包まれるようです」
さらにお万の方も、鉢の周囲を歩きながら感嘆の声を漏らした。
「寺島の植木屋の女房が育てたというけれど、これほど繊細な手つきは、男の職人には真似できぬかもしれませんね」
女たちが賑やかに語らっていると、奥の襖が静かに開き、正室の茂姫がお姿を現した。一同が平伏する中で、茂姫は黙って旭山桜の前に座り込んだ。 茂姫は薩摩藩から輿入れした方で、その心には常に遠い故郷の景色があった。
「……見事なものです。この花の重なり、色の深さ。まるで、鹿児島城下の山々に咲き誇っていた桜のようです」
茂姫が静かに呟くと、その瞳には光るものが浮かんでいた。お梅は、緊張で震えながらも、茂姫の足元で深く頭を下げていた。
「お梅と申します。茂姫様、この桜は、どんなに小さくとも、己の命を精一杯に輝かせようとする強い心を持っております」
「お梅、そなたは分かっているのですね。大きな木だけが美しいのではない。故郷を離れ、狭い場所で生きる者にも、美しく咲く権利があるのだと、この桜が教えてくれているようです」
茂姫がそっと指先で花びらに触れると、大奥の広間に静かな沈黙が流れた。薩摩の厳しい自然と温かな春を思い出し、茂姫は懐かしさに涙をこぼした。
「茂姫様、どうぞお泣きください。この桜は、誰かの心を慰めるために、私の庭で生まれてくれたのですから」
お梅の優しい言葉に、茂姫は小さく微笑み、涙を拭った。
「ありがとう。この鉢は、私が大切に預かりましょう。お梅、これからも女性の心に寄り添うような、そんな花を育て続けてください」
お梅は大奥を出る際、城の大きな門を振り返り、深く息を吐いた。
「染吉さん、私の桜が、高貴なお方の心を救ったのです。花を育てることは、誰かの思い出を守ることでもあるのですね」
寺島に戻ったお梅を迎えた染吉は、満足そうに頷いた。
「お梅、お前の優しさが花に乗り移ったんだな。俺の変化朝顔も、お前の桜には敵わないかもしれないよ」
夫婦は笑い合い、春の風が吹き抜ける栽培場へ戻っていった。お梅の手が作った小さな奇跡は、城壁を超えて、人々の心に深く根ざしていった。
寺島の栽培場に春の柔らかな日差しが降り注いでいる3月3日。
染吉とお梅の間に生まれたお絹が、健やかに一歳を迎え、今日は初めての桃の節句。 家の中には、桜林から贈られた、目も眩むような立派な雛人形が飾られていた。
「お梅、見てごらん。このお内裏様の着物の刺繍、まるで本物の絹のように美しいじゃないか。桜林様も、随分と張り込んでくださったものだ」
染吉がお絹を抱き上げながら感嘆すると、お梅は台所でひしもちを切り分けながら微笑んだ。
「本当に。お絹が生まれた時、あんなに喜んでくださいましたものね。お雛様の穏やかなお顔を見ていると、こちらまで背筋が伸びる思いです」
雛壇には、紅、白、緑の三色が鮮やかなひしもちと、色とりどりのひなあられが供えられていた。 そこへ、お祝いの品を抱えた金四郎や桜林、さらには近所の職人たちが次々と顔を出した。
「染吉、お絹坊の初節句、おめでとう。この人形はな、京都の腕利きの職人に特別に作らせたものだ。お絹がこの人形のように、気高く育つようにとな」
桜林が自慢げに髭を撫でると、金四郎も横からお絹の頬を突っついた。
「桜林殿、これではお絹が将来、高望みをして困るのではないか。だが、これほど美しい雛飾りは、お城の中でも滅多にお目にかかれぬな」
「まあ、金四郎様まで。お絹、よかったわね。皆さんにこんなに可愛がっていただいて」
お梅がお絹を膝の上に乗せると、小さな手は、不思議そうにひなあられの入った器へ伸びていった。
「お絹、それはまだ食べられないよ。こっちのふんわりした白酒の代わりの甘酒を少しだけ舐めてみるかい」
染吉が指先に少しだけ甘酒をつけて口に運ぶと、お絹は目を細めて喜び、座敷は大きな笑い声に包まれた。 外では、お梅が育てた旭山桜が満開を迎え、その桃色の花びらが風に乗って、開け放たれた縁側から座敷へと舞い込んでくる。
「染吉さん、花も一緒にお祝いしてくれているみたいですね」
「ああ。お前が育てた桜と、桜林様の人形、そしてこの賑やかな仲間たち。お絹は幸せ者だな」
お雛様に見守られながら、甘い桃の節句の宴は日が暮れるまで続いた。 一輪の花を慈しむように、新しい命の成長を願う親の思いが、春の宵の中に優しく溶け込んでいった。
ひな祭りの余韻が残る寺島村に、ひときわ華やかな一団がやってきた。 桜林の書いた台本「変化朝顔恋江戸紫」が連日満員の大当たりとなり、その主役を務める当代随一の役者、中村仲蔵が染吉の栽培場を訪れたのだ。
「染吉殿、お忙しいところ申し訳ない。舞台で棒手振りの役を演じているのだが、どうにも型が決まらなくてね。ぜひ本物の動きを拝見したいのだよ」
仲蔵が涼やかな声で挨拶すると、作業をしていた職人や弟子たちは、本物の役者の色気に目を丸くした。 染吉は笑って、一番腕の良い弟子の吾助を呼び寄せた。
「吾助、仲蔵様に手本を見せて差し上げろ。お前が毎日歩いているその姿こそが、江戸で一番の芸だからな」
吾助は緊張で顔を赤くしながらも、慣れた手つきで天秤棒を肩に乗せた。 籠の中には、季節を先取りした菜の花や、芽吹き始めた柳の鉢が揺れていた。
「仲蔵様、まずは足の運びです。ただ歩くのではなく、籠の揺れを腰で逃がしながら、花が驚かないように歩くのがコツなんです」
吾助が腰を低く落とし、天秤棒を少ししならせながら歩き始めると、仲蔵はその一挙一動を食い入るように見つめていた。
「なるほど。花を客に見せるのではなく、花と一緒に歩くということか。その肩の抜き方、実に美しい」
仲蔵は着物の裾をまくり上げると、自分も天秤棒を担がせてほしいと申し出た。 役者が棒を肩に当て、吾助の真似をして歩き出すと、最初は籠が激しく揺れて花がこぼれそうになった。
「おっと、これは難しい。天秤が生き物のようだ」
「仲蔵様、もっと力を抜いてください。籠の重さを地面に逃がすように、膝を柔らかく使うんです」
吾助が後ろから付き添って教えると、次第に仲蔵の動きが滑らかに、そして舞台映えのする優雅なものへと変わっていった。 それを見ていたお梅が、縁側から冷たい麦茶を運んでくる。
「まあ、仲蔵様が担ぐと、ただの天秤棒も立派な小道具に見えますね。お花たちも、有名な役者さんに担がれて嬉しそうですわ」
「ははは。お梅さん、これは最高の修行ですよ。舞台の上で、私は本物の稲屋の職人になりきってみせます」
仲蔵の言葉に、染吉の弟子たちからも歓声が上がった。
その後、仲蔵は弟子たちと一緒に天秤棒を担いで庭を歩き回り、どちらが威勢よく「花はいらんかね」と声を張り上げられるか競い始めた。
「花はいらんかね。江戸一番の幸せを運ぶ、朝顔の稲屋だよ」
仲蔵の通る声が春の空に響き渡ると、本職の弟子たちも負けじと大きな声を返した。 寺島の庭は、歌舞伎の舞台と現実が混ざり合ったような、賑やかで和気あいあいとした空気に包まれた。
「染吉殿、いい弟子をお持ちだ。皆の目が、自分が育てた花のように澄んでいる」
仲蔵が満足そうに汗を拭うと、染吉は深く頷いた。
「花を育てるのも、芸を磨くのも、根っこは同じです。心を込めれば、必ず誰かに届く。今日、仲蔵様が教えてくださったことも、弟子たちの良い励みになります」
別れ際、仲蔵は弟子たち全員に、次の舞台の特等席を約束した。 職人と役者、道は違えど江戸の粋を愛する者同士の絆が、満開の桜の下で固く結ばれた。
堺町の芝居小屋の前は、芝居茶屋の呼び込みと観客の熱気で、冬の寒さを忘れるほどの賑わいだった。 染吉に連れられた吾助たち数人の弟子は、慣れない晴れ着に身を包み、肩をすぼめて中に入った。 仲蔵が用意してくれたのは、舞台のすぐ側にある、役者の息遣いまで聞こえるような立派な席だった。
「染吉さん、俺たちみたいな身分で、こんな場所に座って良いんでしょうか。お城の中に入った時より緊張します」
吾助が震える声で言うと、染吉は優しく肩を叩いた。
「今日はお前たちが先生なんだ。仲蔵様がお前たちの技をどう形にしたか、しっかりと目に焼き付けておいで」
やがて柝の音が響き、定式幕がさらりと引かれた。 舞台の上に現れたのは、見慣れた天秤棒を担いだ仲蔵扮する棒手振りだった。 その足運び、腰の落とし方、そして籠が揺れるのをいなす細かな仕草まで、先日、寺島の庭で吾助が教えた通りだった。
「あっ、今の。俺が教えた膝の入れ方だ」
吾助は思わず身を乗り出した。 仲蔵が舞台の中央で天秤棒を置き、花を一鉢手に取って客席へ向けて高く掲げた時、その立ち姿のあまりの美しさに、観客からは割れんばかりの拍手と掛け声が飛んだ。
「花はいらんかね。この一輪に、育てた者の魂が宿っているよ」
仲蔵の通る声が劇場中に響き渡った瞬間、吾助の目から大粒の涙が溢れ出した。 隣に座っていた、奥州の村から食い詰めて出てきたばかりの若者、六助も、袖で何度も目を拭っている。
「染吉さん。俺、故郷でお袋に、江戸へ行っても犬死にするだけだと言われて送り出されたんです。でも、こんなに立派な舞台で、俺たちの仕事が、こんなに尊いものとして演じられているなんて。一度でいいから、あのお袋に見せてやりたかった」
「そうだな、六助。お前のおとうにも見せたかったな。お前が担いでいるのは、ただの荷物じゃない。江戸の人の心を明るくする、立派な芸なんだよ」
染吉が静かに語りかけると、若者たちは皆、声を殺して泣いた。 自分たちが毎日、泥にまみれて土をいじり、重い天秤棒を担いで石畳を歩いていることが、これほどまでに誇らしいものだとは思いもしなかったのだ。
「仲蔵様は、俺たちの苦労も、喜びも、全部あの仕草の中に込めてくれた。俺、明日からもっと胸を張って歩きます」
吾助が力強く頷くと、舞台の上の仲蔵と一瞬、目が合ったような気がした。 仲蔵はわずかに口角を上げ、満足げな表情で次の台詞へと移っていった。
芝居が終わって外に出ると、春の夜風が若者たちの火照った顔に心地よく当たった。 彼らの心の中には、かつての絶望や孤独はなく、職人としての誇りと、故郷へ届けたい新しい希望が、満開の花のように咲き誇っていた。
「さあ、帰るぞ。明日の朝は早い。江戸中の人を、あの舞台の仲蔵様のように笑顔にしてやろうじゃないか」
染吉の言葉に、若者たちは一斉に力強い返事をして、寺島への道を駆け出していった。
芝居を観てからの吾助たちは、別人のように活き活きと働き始めた。 彼らはただ花を売るだけでなく、仲蔵が見せたあの立ち姿や、威勢のいい口上を自分たちなりに工夫して取り入れたのだ。
「花はいらんかね。お江戸の春を鉢に詰めて、幸せ運びの稲屋でござる。この一輪が、お宅の縁側を舞台に変えますよ」
吾助は天秤棒を担ぐ際、腰をすっと入れ、仲蔵に教わった通りの美しい型で町を歩いた。 その姿があまりに潔く、いなせなものだったので、若い娘たちや隠居した旦那衆までが、わざわざ吾助が通るのを待つようになった。
「吾助さん、今日の朝顔は一段と色が冴えているわね。あなたのその威勢のいい声を聞くと、朝から元気がもらえるわ」
長屋のお内儀たちが声をかけると、吾助は爽やかな笑顔で、花の育て方を一言二言添えて鉢を渡した。
その評判は、日本橋にある大きな呉服屋、越後屋の出入りの者たちの耳にも届いた。 越後屋の長女であるお美津は、ある日、店の前を通りかかった吾助の姿を偶然目にした。
「まあ、あの方の立ち居振る舞い、ただの棒手振りとは思えません。土の匂いがするのに、どこか品があって、一本筋が通っているわ」
お美津は、自分の仕事に誇りを持って汗を流す吾助の姿に、すっかり心を奪われてしまった。 彼女は、以前から父の相談相手でもあった金四郎を訪ね、その思いを打ち明けた。
それから数日後の夕暮れ時、寺島の栽培場に金四郎がふらりと現れた。
「染吉、今日は折り入って話がある。実はお前の愛弟子の吾助のことなのだがな」
金四郎が真面目な顔で切り出すと染吉とお梅は顔を見合わせた。
「金四郎様、吾助が何か粗相でもいたしましたか」
「いや、その逆だ。日本橋の呉服屋の娘、お美津殿が、吾助をいなせな男だと見初めたのだよ。ぜひ婿養子に迎えたいという、正式な願いが出ている」
その言葉に、奥で道具の手入れをしていた吾助は、驚きのあまり持っていた鋏を落としそうになった。
「私が、あの大店の婿にですか。金四郎様、何かの間違いではありませんか」
「間違いではない。お美津殿は、お前が舞台を観てからというもの、さらに真面目に、そして誇り高く働く姿を見て、この人ならば店を任せられると確信したそうだぞ」
お梅は嬉しそうに吾助の顔を覗き込んだ。
「吾助さん、よかったわね。あなたの実直な仕事ぶりが、お花だけじゃなく、人の心もしっかりと掴んだのよ」
「ですが、私はまだ、お師匠さんの元で花を育てていたいんです。それに、私は田舎から出てきた身。大店の看板を背負うなんて無理なことでございます」
吾助が困惑して染吉を見ると、染吉は深く頷き、弟子の肩を軽く叩いた。
「吾助、呉服も花も、人を喜ばせることに変わりはない。お前がここで学んだ誠実さを、今度は大きな店で生かしてみるのも一つの道だ。お美津殿という方は、お前の外見ではなく、その根っこにある心を見抜いたんだよ」
金四郎は満足げに笑い、懐からお美津からの手紙を取り出した。
「一度、会ってみるがいい。お前が担いできた天秤棒が、思いもよらぬ素晴らしい縁を運んできたのだからな」
吾助の誠実な汗と、仲蔵から教わった職人の矜持が、江戸の真ん中で大きな実を結ぼうとしていた。
金四郎の仲立ちで、吾助はお美津と対面することになった。 場所は日本橋の料理屋、落ち着いた座敷に現れたお美津は、噂通りの気品に溢れた美しい女性だった。 緊張で固くなる吾助に対し、お美津は真っ直ぐな瞳を向けて静かに語りかけた。
「吾助さん。私はあなたの、あの天秤棒を担ぐ姿に心打たれました。あのように誇らしげに働くお方なら、当店の暖簾も大切にしてくださると信じております」
お美津の言葉は温かく、誠実なものだった。 しかし、吾助は深く頭を下げた後、意を決したように顔を上げた。
「お美津様。私のような者にこれほどのお話をいただき、身に余る光栄にございます。ですが、私はやはり、稲屋の職人として土にまみれて生きていきたいのです」
同席していた越後屋の主人が、驚いて声を上げた。
「吾助殿。うちの婿になれば、江戸でも指折りの商家の主になれるのだよ。泥にまみれる苦労も、天秤棒を担ぐ辛さも、もうしなくて済むのだ」
吾助は、自分の大きな掌を見つめながら、静かに、けれど力強く答えた。
「主殿、お言葉ですが、私にとって土にまみれることは苦労ではありません。種が芽吹き、花が咲く瞬間の喜び。そして、その花を担いでお客さんの元へ届ける時の誇り。私は、あの天秤棒を肩に感じる時、自分が一番自分らしくいられるのです」
「お美津様、私は、お嬢様が愛してくださったあの棒手振りの吾助であり続けたいのです。もし、主という立場になってあの棒を置いてしまったら、私は私でなくなってしまいます」
吾助の言葉には、迷いも諂いもなかった。 それを聞いたお美津は、少しの間、寂しそうに伏せ目になったが、やがて顔を上げて晴れやかに微笑んだ。
「やはり、私の目に狂いはありませんでした。自分の生き方をこれほど大切にされるお方だからこそ、私はお慕いしたのです」
お美津は立ち上がり、父親に向かって凛とした声で言った。
「お父様、私は決めました。私が吾助さんの元へ嫁ぎます。越後屋の看板は妹のお市に任せます。お市に婿をとってください。私は、この方が育てる花を、隣で一緒に愛でていたいのです」
今度は染吉と越後屋の主人が驚く番だった。 染吉は思わず身を乗り出した。
「お美津様、それはあまりに大きな決断です。大店の暮らしを捨てて、職人の女房になるというのは、並大抵のことではありませんよ」
「染吉さん、私は贅沢な暮らしがしたいのではありません。吾助さんのように、何かに魂を込めて生きる方と共にいたいのです。お父様、許してくださいませ」
越後屋の主人は娘の固い決意に圧倒されたように溜息をつき、やがて金四郎を見て苦笑いした。
「金さん、これは一本取られましたな。商人の知恵よりも、若い二人の情熱の方が一枚上手だったようだ」
金四郎は扇子をポンと叩いて笑った。
「はっはっは、実に見事な決断だ。吾助、お前、いい女房をもらうな。染吉、稲屋の庭がますます賑やかになるぞ」
吾助とお美津は顔を見合わせ、照れくさそうに、しかし固い絆で結ばれた笑みを交わした。 富や名声よりも、自分の足で土を踏みしめる道を選んだ吾助の男気が、新しい愛の形を寺島の栽培場に呼び込もうとしていた。
日本橋の大店から寺島の栽培場へ、お美津は嫁いできた。
彼女が吾助と世帯を持ったのは、栽培場からほど近い小さな長屋の一角。 朝、一番鶏が鳴く頃には、お美津は着物の袂をたすきで上げ、井戸端で水を汲むことから一日を始めた。
「お美津さん、無理をしないで。昨日も慣れない鍬仕事で、手が豆だらけになっていたじゃないか」
吾助が心配そうに声をかけると、お美津は白く細かった掌を見せて明るく笑った。
「いいえ、吾助さん。この豆は、私があなたの妻として、そして稲屋の一員として歩み始めた証拠ですから。ほら、お梅さんに教わった通り、土の匂いも少しずつ分かってきましたよ」
お美津の凄さは、単なる根性だけではなかった。 彼女は越後屋で培った商いの才と教養を、次々と栽培場の運営に生かしていった。 これまで染吉が頭の中で管理していた複雑な種の交配記録や、各地への出荷数を、お美津は整然とした大福帳にまとめていった。
「染吉さん、この十年の記録を整理しました。どの土を使い、どの天候で、どんな変化が起きたか。これを分かりやすく絵図と文字でまとめれば、新しい育て手にとっても宝の地図になります」
「お美津さん、これほど見事な帳面は見たことがないよ。俺の頭の中にあったものが、まるで形を持って動き出したみたいだ」
染吉が感心して見入っていると、お梅も嬉しそうに茶を運んだ。
「本当ですね。お美津さんが来てから、棒手振りの若者たちに渡す手数料の計算も間違いがなくなって、みんなのやる気がさらに上がっています」
そんなある日、お美津は呉服屋の娘らしい新しい思いつきを口にした。
「染吉さん、ただ花を売るだけでなく、花の模様を施した手ぬぐいや、鉢を包む美しい風呂敷を添えてはどうでしょう。江戸の女性たちは、花の命だけでなく、その美しさを身近な布地でも楽しみたいはずです」
お美津は馴染みの染物屋と掛け合い、染吉が育てた変化朝顔や、お梅の旭山桜を鮮やかに染め抜いた小物を次々と考案した。 花と小物を合わせた組み合わせは、江戸の新しい贈答品として、武家屋敷から町家まで爆発的な人気となった。
「お美津、お前は本当に大した女房だ。俺が土を耕し、お前がその価値を広めてくれる。こんなに心強いことはないよ」
夕暮れ時、吾助がお美津の肩を優しく抱くと、お美津は夫の胸に顔を寄せた。
「吾助さん、私は幸せです。日本橋の立派な奥座敷にいた時よりも、今、あなたの隣で土にまみれて、一日の終わりに温かいお粥を二人で食べている時の方が、ずっと心が満たされています」
長屋の狭い部屋には、お美津が飾った一輪の野の花が、二人の門出を祝うように優しく咲いていた。 教養ある元お嬢様と、誠実な職人の夫婦は、寺島の土を耕しながら、江戸の園芸文化に新しい彩りを加えていった。
お美津が考え出した新しい趣向、お梅が丹精込めて育てた旭山桜の鉢に、その花模様を美しく染め抜いた手ぬぐいや、桜色の紐を添えて売り出したものが、またたく間に江戸中の女性たちの心を掴んだ。
「お梅さん、見てください。この桜色の布で鉢を包むと、花がより一層、華やかに見えるでしょう」
「本当ですね、お美津さん。まるで桜がお洒落をして、お出かけするみたい」
二人が楽しそうに工夫を重ねたその品々は、お絹の健やかな成長を願う親心も相まって、温かな評判を呼んた。 その噂はついに、江戸城の奥深く、静かに余生を過ごす茂姫様のもとへも届いた。
「寺島の稲屋に、女子の幸せを願う見事な桜の小物があるとか。お梅、そして新しく加わったお美津とやら、こちらへ参るがよい」
召し出しを受けた二人は、緊張しながらも、最高の一鉢と色鮮やかな小物を携えて大奥へと向かった。 広間で待っていた茂姫の前に、お美津が慎重に風呂敷を広げた。
「茂姫様、これはお梅さんが育てた旭山桜と、その姿を写した染め物でございます。お絹という小さな命のために作ったもので、江戸の春を丸ごと詰め込みました」
お美津が凛とした声で説明すると、茂姫は差し出された手ぬぐいを手に取り、その細やかな模様をじっと見つめた。 そこには、ただの絵ではない、花を育てる者の慈しみと、家族を思う温もりが宿っていた。
「……まあ。この布に触れるだけで、春の陽だまりに包まれているような心地がします。お梅、そなたの桜は、また新しい形となって私の心を解きほぐしてくれましたね」
茂姫は、手ぬぐいをそっと頬に当て、懐かしそうに目を閉じました。 薩摩の空を思い出したのか、あるいは若き日の自分を重ねたのか、その目尻には一筋の涙が光った。
「茂姫様、どうぞその手ぬぐいで、涙をお拭いください。この桜模様は、何度洗っても色が褪せぬよう、職人が心を込めて染めたものです。皆様の幸せが、いつまでも続くようにとの願いを込めております」
お梅が優しく語りかけると、茂姫はふっと表情を和らげ、軽やかな笑みを浮かべた。
「お美津、そなたの才覚も恐ろしいものですね。ただの花を、これほどまでに人の心に寄り添う宝に変えてしまうとは。大奥の沈んだ空気も、これで一気に春めきそうですわ」
茂姫は傍らの女中たちにも手ぬぐいを分け与え、広間はまるで花が咲いたような賑わいとなった。
「お梅さん、よかったですね。茂姫様のあんなに晴れやかなお顔、初めて拝見しました」
「ええ、あなたと一緒にここへ来られて、本当に嬉しい」
城を後にした二人は、春風に吹かれながら、晴れ晴れとした足取りで寺島へと向かいました。 家では、染吉が吾助とお絹を連れて、新しい苗の手入れをして待っているはずだった。
大奥での出来事は、翌日には江戸中の噂となって広がった。 茂姫様が感涙したという桜の小物は、いつしか「大奥桜」と呼ばれ、諸大名の奥方様たちがこぞって寺島の稲屋を訪ねてくるようになった。
「これでは栽培場が人で溢れてしまいます。いっそのこと、日本橋に稲屋の暖簾を掲げた店を構えてはいかがでしょう」
お美津が帳面を叩きながら、染吉に提案すると、染吉は庭の松を見上げながら考え込んた。
「店を構えるか。俺は土をいじっていれば満足だが、これほどまでに皆が求めてくれるなら、それも一つの道かもしれないな」
「染吉さん、お美津さんの言う通りです。お花を売る場所と、育てる場所を分ければ、もっと丁寧にお客様と向き合えますもの」
お梅も賛成すると、染吉はついに決断を下した。 日本橋の一等地に、これまでにない店が誕生した。 店先には、染吉が育てた最高級の鉢植えが並び、店内にはお美津が意匠を凝らした風呂敷や手ぬぐい、そして花を描いた団扇などが美しく陳列された。
「いらっしゃいませ。こちらは、朝顔の雫を写した手ぬぐいでございます」
お美津が涼やかな声で接客をすると、通りがかった町人たちは、足を止めた。
「おい、見ろよ。植木屋なのに、呉服屋のような品の良さだ。これなら、おっ母さんへの土産にも丁度いいな」
店は瞬く間に繁盛し、いつしか稲屋は「江戸の美」を司る象徴として、その名を轟かせた。 そこへ、再び金四郎が訪ねてきた。
「染吉、驚いたな。日本橋の店がこれほどとは。実はな、今度は幕府から正式な依頼がある。江戸城の庭園を、お前たちに新しく作り変えてほしいというのだ」
「お城の庭を、私たちがですか。それはあまりに大役です」
「案ずるな。お前と吾助が土を耕し、青梅とお美津がそこに物語を添える。お前たちの力が、今の江戸には必要なのだよ。上様も、ただの古い庭ではなく、民草も喜ぶような、新しき美しさを求めておられるのだ」
金四郎の言葉に、染吉はお梅、吾助、お美津たちをしっかり見つめ、口を固く結んで頷いた。
「お梅、吾助、お美津、一緒にやろう。俺たちが寺島で育ててきた命を、今度は天下の真ん中で咲かせるんだ」
「はい、吾助さん。江戸中の人が、その庭を見て、明日への希望を持てるような、そんな景色を作りましょうね」
夫婦と仲間たちの情熱は、ついに一軒の植木屋という枠を飛び越え、江戸という都市そのものを美しく彩る大仕事へと繋がっていくように思えた。 彼らが歩む道には、常に瑞々しい土の匂いと、色鮮やかな花の香りが満ち溢れているはずだったが。
そんな期待は、淡くも消えてしまう出来事が待ち構えていた。
第三章
日本橋に店を構え、飛ぶ鳥を落とす勢いだった稲屋に、突然の嵐が吹き荒れた。
老中、水野忠邦による天保の改革が断行され、長年江戸の商いを支えてきた株仲間が解散を命じられたのだ。
物価を下げるための策だったが、それは信頼で結ばれていた商いの鎖を、無慈悲に断ち切るものだった。
「染吉さん、大変なことになりました。今まで花の仕入れを約束していた農家が、勝手に別の者へ品物を流し始めました。それも、より高い値をつけた得体の知れない商人たちにです」
お美津が真っ青な顔で大福帳を抱えて戻ってきた。
株仲間という後ろ盾を失った瞬間、昨日まで笑顔で取引していた人々が、手のひらを返したのだ。
「お美津さん、落ち着いてください。農家の方々だって、生活がかかっている。少しでも高く買ってくれる方に流れるのは仕方のないことかもしれません」
吾助がなだめるように言ったが、事態はさらに深刻になった。 新しく現れた商人たちは、農家から花を買い叩くだけ買い叩き、代金を支払わずに姿を消すという事件が相次いだのだ。
「信じられません。お金も入らず、花も手元に残らないなんて。農家の方々が泣いています。江戸の町でも、誰を信じて良いか分からず、品物のやり取りが止まってしまいました」
お梅が声を震わせると、染吉は日本橋の店の高い天井を仰ぎ見た。 店には客の姿はなく、ただ静まり返っている。 株仲間が守ってきた信用という目に見えない財産が消えたことで、江戸の流通は完全に麻痺してしまったのだ。
「染吉、すまない。私の力不足だ」
金四郎が、肩を落として店に現れた。 彼の懸命な反対も虚しく、改革は強行されたのだ。権威に逆らうことはできない。
「金四郎様、あなたのせいではありません。ですが、このままでは店を維持することはできません。仕入れの目処も立たず、売るための組織もバラバラです。何より、疑い合う心の中で花を売ることは、私にはできません」
染吉は静かに、けれど決然とした口調で言った。 大枚を叩いて築き上げた日本橋の店舗だったが、染吉たちはそこを畳む決断をした。
「お美津さん、吾助。すまないが、一度原点に戻ろう。日本橋の店は閉める。私たちは寺島へ帰り、もう一度土を耕すことから始めるんだ」
お美津は唇を噛み締めたが、やがて力強く頷いた。
「分かりました、染吉さん。看板は失っても、私たちの腕と、これまで育ててきた花の種は消えません。信用というものが、どれほど尊いものだったか、身に染みて分かりました。今度は形ではなく、心で繋がる商いを一から作り直しましょう」
華やかだった日本橋の店を後にする際、吾助は空になった天秤棒を肩に担ぎ直した。 江戸の街全体が、閉塞感に包まれ、人々の顔からは活気が失われていた。 誰が敵で、誰が味方か分からない。 そんな冷え切った空気の中、染吉たちは再び土の匂いがする寺島の栽培場へと、重い足取りで戻っていった。
「お梅、またあの荒れ地からやり直しだな」
「ええ、染吉さん。土だけは、私たちを裏切りませんから」
夫婦は灰色の空が広がる江戸の町を静かに歩いていった。 栄華を極めた稲屋の、これが新しい試練の始まりだった。
日本橋の店舗を引き払う決意をした染吉は、まず驚くべき行動に出た。店の残務整理で出た潤沢な利益を、すべて幕府へ御用金として献上したのだ。
「染吉さん、正気ですか。これだけの金があれば、寺島で一生遊んで暮らせるのに」
吾助が目を丸くして尋ねると、染吉は穏やかに笑って答えた。
「吾助、これはお上に媚びる金じゃない。俺たちが江戸の商いの道を守り抜くという決意の証だ。これからは、今までのような株仲間の名前に頼った信用は通用しない。仕組みを根底から変えるんだ」
染吉は、お美津の商才を全面的に頼り、新しい商売の鉄則を打ち出した。それは、これまでの江戸の慣習であった盆暮れのツケ払いを一切廃止し、すべてその場で代金をやり取りする現金掛け値なしというやり方だった。
「お美津さん、これからは帳簿の付け方も変えましょう。農家から花を買い付ける時も、その場で現金を渡す。その代わり、品質と納期を約束する契約書を交わすのです」
お美津が提案すると、染吉も強く頷いた。
「ああ、農家は今、現金がなくて困っている。俺たちが即座に金を払えば、彼らは安心して最高の苗を育ててくれるはずだ。口約束ではなく、紙に書いて互いの責任を明確にする。これが新しい信用の形だ」
この動きを陰で支えたのが、遠山金四郎だった。彼は染吉の献身的な御用金献上の事実を逆手に取り、水野忠邦の側近たちに釘を刺した。
「これほど忠義な植木屋を、改革の波で潰しては幕府の恥だ。彼らの新しい試みは、江戸の商いを立て直す実験として見守るべきではないか」
金四郎の根回しにより、稲屋は改革の監視下にあっても、独自の商売を続ける黙認を得た。さらに、薩摩藩の茂姫からも力強い助け舟が出された。
「お梅、お美津。江戸が混乱している今こそ、薩摩の強い植物の種を役立てなさい。藩の屋敷を通して、確かな品質の品を融通させましょう」
茂姫の計らいで、薩摩藩から丈夫な苗や肥料が稲屋へ優先的に届けられるようになった。染吉たちは寺島に戻ると、騙されて途方に暮れていた近隣の農家を一軒ずつ回り、丁寧な説明を繰り返した。
「皆さん、これからは稲屋がその場で現金を払って買い取ります。その代わり、この契約書にある通りの立派な花を育ててください。私たちは逃げも隠れもしません」
最初は疑っていた農家たちも、実際にその場で百文、二百文と現金が支払われるのを見て、次第に目の色を変えた。
「染吉さん、あんたは仏様だ。どこぞの馬の骨か分からない商人に売るより、よっぽど安心だ」
農家たちの信頼を取り戻した稲屋には、再び活き活きとした苗が集まり始めた。お美津が作成した緻密な契約書は、混乱する江戸の商いの中で、唯一の確かな道標となっていった。
「染吉さん、新しい組織の形が見えてきましたね。形だけの株仲間ではなく、現金と契約で結ばれた、もっと強い絆です」
お梅が誇らしげに言うと、染吉は土を握りしめ、遠く江戸城の空を見つめた。
「お梅、これが嵐を乗り越えるための新しい根っこだ。この根がしっかり張れば、どんな改革の風が吹いても、稲屋の花は決して枯れないよ」
絶望の淵から、染吉たちは自らの手で新しい時代の商いを作り出し、再び歩み始めた。
稲屋が始めた「現金掛け値なし」と、農家との間に交わす「書付」による商いは、凍りついていた江戸の流通に小さな穴を開けた。 その噂は、瞬く間に日本橋の商人たちの間にも広がっていった。
「染吉さん、今日は他所の問屋の旦那衆が、こっそり栽培場を覗きに来ていましたよ。私たちがどうやって農家から確実に品を集めているのか、不思議で仕方ないようです」
吾助が泥を拭いながら報告すると、お美津は手元の帳面を整えながら、頼もしく答えた。
「隠す必要はありません。私たちは、ただ当たり前のことをしているだけですもの。品物を受け取ったら、その場でお金を払う。これこそが、今の江戸に一番足りない安心感なのです」
実際、稲屋のやり方は劇的な効果を生んでいた。 代金が支払われない不安から苗の出荷を渋っていた農家たちが、現金を手にしたことで再び肥料を買い、次の種を蒔く活力を取り戻したのだ。 この仕組みをいち早く取り入れたのが、お美津の実家である越後屋だった。
「お美津、お前の言う通りにしたら、織元たちが喜んで最高の絹を回してくれるようになったよ。盆暮れの支払いを待たず、その場で代金を受け取れるのが、今の時勢には何よりの薬になるそうだ」
越後屋の主人が寺島を訪れてそう語ると、染吉も深く頷いた。
「旦那、商いというものは、結局は人の心のやり取りですから。不確かな世の中だからこそ、目に見える証拠と、その場での誠実さが大切なんです」
この新しい商いの波は、やがて町全体へと浸透していった。 疑心暗鬼になっていた魚河岸や八百屋も、稲屋のやり方を真似て、書付による約束と現金での取引を始めた。 すると、どこへ消えたか分からなかった品物が、少しずつ、けれど確実に江戸の市場へ戻ってきた。
「染吉、お前の蒔いた種が、商いの道そのものを変えつつあるな」
金四郎が満足そうに腕を組み、寺島の庭を眺めていた。 彼の傍らには、薩摩藩からの使者が、茂姫から預かった珍しい南国の花の苗を大切に抱えて立っていた。
「金四郎様、私はただ、花が咲くのを待ち望んでいる人たちの元へ、確実に届けたかっただけなのです。園芸も商いも、根っこが腐れば花は咲きません。こうして皆が納得して働ける土壌を整えることが、一番の肥料だったようです」
「染吉さん、お城の方でも、このやり方が評判です。茂姫様が、江戸中の商人が稲屋のようになれば、改革の痛みも和らぐだろうと仰ってくださいました」
お梅が誇らしげに報告すると、お美津も夫の吾助と顔を見合わせて微笑んだ。 かつての株仲間のような古い掟ではなく、新しい時代の「誠実な契約」が、江戸の経済に潤いを与え始めたのだ。
「さあ、みんな、江戸の街に花を届けるよ。今度は、誰にも文句を言わせない、新しい時代の美しさを運ぶんだ」
染吉の号令とともに、吾助たちの天秤棒が再び石畳を力強く叩き始めた。 閉塞感に包まれていた江戸の空に、稲屋が届ける花の香りが新しい時代の到来を告げるように優しく広がっていった。
水野忠邦が推し進めた天保の改革は、わずか二年ほどで限界を迎えた。 無理な贅沢の禁止や株仲間の解散は、物価を下げるどころか江戸の経済をどん底に突き落とし、しかも、以前にまして物価高になり、人々の暮らしを壊してしまったのだ。 町中では、水野のことを「浜松の悪魔外道」と密かに罵る声さえ聞こえるようになった。
「染吉さん、水野様がついに失脚なさいました。江戸の町中、万歳三唱の勢いですよ。お屋敷には石が投げ込まれたとか」
『白河の清き魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき』
民衆は以前の松平定信への狂歌を思い出し、息苦しさを訴えた。
吾助が町から戻ってそう伝えると、染吉は複雑な表情で庭の土を見つめた。
「お上の都合で無理にねじ曲げた川の流れは、いつか必ず溢れ出す。だが、改革が失敗したからといって、すべてが元通りになるわけじゃないんだよ、吾助」
「そうですね。株仲間が戻ったとしても、一度壊れた信頼はすぐには元に戻りません。私たちは、この混乱の中で作り上げた新しい仕組みを、さらに固めていかなくては」
お美津が力強く言うと、お梅も静かに頷いた。
「ええ。お上を頼るのではなく、自分たちで自分たちを守る根っこを張る。それがこの二年の苦しみで学んだことですから」
稲屋は、水野忠邦の改革の失敗に浮き足立つことはなかった。 他店が古い慣習に戻ろうとする中で、染吉たちは「現金での即時支払い」と「書付による品質保証」をさらに徹底させた。 これが、他とは比べ物にならないほど強い体制作りの根っことなった。
「染吉、幕府の権威は地に落ちたが、お前の築いた組織はびくともしないな。むしろ、この二年の間に、誰が本当に信頼できる相手か、皆の目に見えるようになった」
金四郎が栽培場を訪れ、しみじみと語った。 株仲間の看板という借り物の信用ではなく、稲屋自身が持つ「嘘をつかない」という信頼の実績が、江戸で一番の武器になっていたのだ。
「金四郎様、私たちは嵐を耐えるために根を深く張りました。改革という名の冷たい風が吹いたおかげで、かえって病害に強い、逞しい組織になれたのかもしれません」
「その通りよ。今では農家の方々も、自分から書付を持ってきて、今年の作柄を相談してくれるようになりましたもの」
お梅が誇らしげに言うと、お美津も帳面を開いて続けた。
「お父様の越後屋も、私たちのやり方を見習ってから、以前よりもずっと風通しが良くなったと喜んでおります。お上がどう変わろうと、目の前の人と誠実に向き合う。これがこれからの商いの王道です」
水野忠邦が去った後の江戸は、幕府の失墜という重苦しい空気の中にあったが、稲屋の周囲だけは、新しい時代を予感させる活気に満ちていた。 彼らは、国の崩壊さえも糧にして、より強靭で、より慈愛に満ちた商いの形を完成させつつあったのだ。
「さあ、お絹。新しい花を植えようか。この土は、どんな嵐にも負けなかった、お父さんたちの宝物だよ」
染吉がお絹を抱き上げると、幼い娘は無邪気に笑い、その小さな手で瑞々しい土を触った。 壊れた時代を乗り越え、さらに深く根を張った稲屋は、ここからさらなる広がりを見せていく。
改革の嵐が過ぎ去った後、江戸の町は活気を失い、人々の心には深い傷跡が残っていた。
そんな中、遠山金四郎が染吉の元へ大きな相談を持ち込んできました。
「染吉、荒れ果てた江戸の空気を一変させるような大仕事をしないか。お上が管理する広大な空き地を、誰もが立ち寄れる大きな花園にするのだ。これを江戸の復興の旗印にしたい」
金四郎の提案は、かつての庭造りとは規模が違った。それは一部の権力者のためではなく、町人や農家、すべての人に開かれた休息の場を作るという、前代未聞の試みだった。
「金四郎様、それは素晴らしい。今こそ、私たち稲屋が改革の中で育てた根っこの強さを見せる時ですね。お美津さん、この事業の差配を頼めるかい」
染吉に問われたお美津は、目を輝かせて頷いた。
「もちろんです、染吉さん。単に花を植えるだけではなく、そこに従事する農家や職人たちすべてに、私たちの新しい商いの仕組みを広める絶好の機会です。現金での支払いと、確かな書付。これで江戸中の腕利きを呼び寄せましょう」
お美津はすぐさま、各地の農家や職人へ向けて触れを出した。 これまで冷遇されていた地方の若き植木職人や、苗作りの名手たちが、稲屋の信用の元に続々と江戸へ集まってきた。
「お梅さん、見てください。この桜は奥州から、あの珍しい草花は薩摩から届きました。日本中の春を、この一つの園に集めるのです」
「お美津さん、これほど多くの種類の命が一つに集まるなんて、まるで夢のようです。お絹も、この花園で元気に走り回れるようになりますね」
お梅がお絹を抱えながら、造成の始まった大地を見つめて微笑みました。
事業には、薩摩藩からも茂姫を通じて多大な協力があった。南国の色鮮やかな花々が江戸の風景に加わり、これまでにない異国情緒溢れる景色が形作られていった。
「師匠、天秤棒を担ぐ仲間たちも、みんな誇らしげです。自分たちが担いできた花が、こうして大きな一つの世界を作っていくのを目の当たりにして、仕事の重みが変わったと言っています」
吾助が泥まみれになりながらも、充実した顔で報告した。 そしてついに、江戸の復興を象徴する花園、名付けて「百花繚乱の園」が完成した。
開園の日、門が開かれると同時に、待ちわびた江戸の民衆がどっと雪崩れ込んできた。 色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りが風に乗って町中へと流れていく。 そこには、改革の苦しみでうつむいていた人々の姿はなく、誰もが花の美しさに目を細め、笑顔を取り戻していた。
「染吉、見てみろ。お前の信じた花の力が、これほどまでに人を救う。お上が無理矢理に変えようとした世の中を、お前たちは一輪の花から変えてみせたのだな」
金四郎が感慨深げに呟くと、染吉は土で汚れた自分の手を見つめ、静かに答えた。
「金四郎様、花を育てることは、人を信じることです。そして、信じることは、明日の希望を作ることなんです。この園が、江戸の新しい根っこになってくれることを願っています」
お美津とお梅、そして吾助と仲間たちが守り抜いた誠実な商いの形が、大きな花園という実を結んだ。 江戸の街に、真の意味での春が戻ってきた。
寺島の栽培場には、春の陽だまりのような温かな笑い声が響いていた。 今日は、染吉とお梅、そして吾助とお美津の子供たちが健やかに育ったことを祝う、特別な寄り合いの日。
庭には大きなむしろが敷かれ、お梅とお美津が腕を振るった重箱が並んでいる。 九歳になったお絹は、母親譲りの優しい手つきで、三歳の小さな弟である信三の面倒を見ていた。 六歳の宗助は、吾助の長男である五歳の吾一と、庭の隅で珍しい花の苗を競うように眺めています。 そこへ、三歳のお美代がよちよちと駆け寄っていく。
「さあ、みんな集まっておくれ。今日は大事な話があるんだ」
染吉が威厳を持ちながらも柔らかな声で呼びかけると、子供たちは不思議そうな顔で親たちの前に座った。 吾助とお美津も、晴れやかな表情で控えている。
「お絹、宗助、信三。それに吾一にお美代。明日からは、皆でお師匠様のところへ通ってもらう。読み書き算盤をしっかり身につけるんだよ」
染吉がそう宣告すると、一番年上のお絹が真っ先に目を輝かせた。
「父上、本当ですか。私、もっとお美津さんのようにお帳面が書けるようになりたいと思っていました」
「私も負けないぞ。お父さんのように、花の契約書が書けるようになるんだ」
宗助が拳を握ると、吾助も嬉しそうに頷いた。
「いい心がけだ。お前たちが行くのはな、あの遠山金四郎様の奥方、お恵様が開いている寺子屋だ。お恵様は旗本のお生まれだが、とても気さくで、人は皆助け合って生きるものだと考えておられる、立派なお方だよ」
お美津も、子供たちの着物の襟を整えながら言葉を添えた。
「お恵様は少し変わったお方でね。お武家の娘でありながら、泥にまみれて働く私たちの苦労を心から尊んでくださるの。そこへ行って、心の根っこをしっかり育てるのですよ」
さらに染吉は、男の子たちの顔を覗き込んだ。
「そして宗助、信三、吾一。お前たちは、士学館の道場にも通ってもらう。桃井春蔵先生の元で、剣術を学ぶんだ。花を守るには、心だけでなく体も強くなくてはいけないからな」
数日後、子供たちは緊張した面持ちで、お恵の寺子屋の門をくぐった。 現れたお恵は、上品な着物を着崩すことなく、けれど子供たちの目線に合わせて膝をついて微笑んだ。
「よく来ましたね。ここでは、文字の形だけを覚えるのではありません。その文字を使って、どうやって人の役に立つか、それを一緒に考えていきましょう。金四郎さんも、皆に会えるのを楽しみにしているわよ」
お恵の温かな声に、子供たちの緊張は一気に解けた。 一方で、士学館の道場では、宗助たちが竹刀の鳴る音に圧倒されていた。 しかし、若き達人として知られる桃井春蔵が、鋭い中にも慈しみのある眼差しで彼らを迎えた。
「植木屋の息子たちか。良い目つきをしている。花を育てる繊細な指先を、今度は自分と仲間を守るための力に変えてみせろ。構えろ」
宗助たちは、不器用ながらも必死に竹刀を握りしめた。 寺子屋で学ぶ人の道と、道場で鍛える強い体。 江戸の街が揺れ動く中で、稲屋の次代を担う子供たちは、親たちが築いた「誠実」という土壌の上で、力強く芽を伸ばし始めた。
「お梅さん、子供たちが帰ってきたら、今日は好物の牡丹餅をたくさん作りましょうね」
お美津が楽しそうに笑うと、寺島の空にはどこまでも澄み渡る春の光が広がっていた。
幸せの絶頂のような時間が過ぎ後、悲しみが突然襲った。
寺島の空がどんよりと曇り、冷たい雨が降り続く日のことだった。 四人目の子供を産み終えたお梅は、そのまま肥立ちが悪く、静かに息を引き取った。 残されたのは、お幸と名付けられた赤子と、柱を失ったかのように崩れ落ちた染吉だった。
「お梅、嘘だろう。お前がいない世界で、俺はどうやって花を育てればいいんだ」
染吉は栽培場の隅に座り込み、泥に汚れた手を見つめたまま、何日も動こうとしなかった。 主を失ったかのように、庭の旭山桜も心なしか元気を失っているように見えた。 そんな家の中を支えたのは、九歳になった長女のお絹だった。
「父上、しっかりしてください。お幸が泣いています。お梅お母様が命をかけて守ったこの子を、私たちが守らなくてどうするのですか」
お絹はまだ幼い肩に赤子を背負い、冷たい水で米を研ぎ、宗助や信三の面倒をみた。 お絹の心の中には、苦しむ母親を前に何もできなかった悔しさと、新しい命が誕生する瞬間の神聖な記憶が強く刻まれていた。
「お美津さん、私、決めたんです。私は父上のような植木屋ではなく、お産婆さんになりたい。お母様のように苦しむ人を助けて、赤子とお母さんの両方の命を救えるようになりたいんです」
お美津は、健気にお幸をあやすお絹を抱きしめ、涙を流した。
「お絹ちゃん、なんて強い子なの。お梅さんも、きっと空の上で喜んでいるわ。その夢、私が全力で応援するからね」
お絹の決意を知った弟たちも、姉を助けようと必死に動いた。
六歳の宗助は、父に代わって庭の掃除をし、五歳の信三は、お幸が泣き出すとおどけて笑わせた。 不思議なことに、生まれたばかりのお幸は、家族の悲しみを知っているかのように、夜泣きもせず、誰に抱かれてもにこにこと笑い、健やかに育っていた。
ある日の夕暮れ、お絹はお幸を抱いて、座り込んでいる染吉の前に座った。
「父上、見てください。お幸のこの笑顔、お母様にそっくりだと思いませんか。私はこの笑顔を守るために、一生懸命お産の勉強をします。宗助も信三も、父上の代わりに庭を守ろうと、泥だらけになって働いていますよ」
染吉はお幸の小さな温かな手に触れ、ようやく顔を上げた。 そこには、自分を支えようと真っ直ぐな瞳で見つめるお絹と、汗を流して戻ってきた息子たちの姿があった。
「……すまない。俺は、お前たちに甘えていた。お梅が命を繋いでくれたこの子たちが、こんなに前を向いているのに。お絹、お前の夢は、俺が一番近くで応援させてくれ。お前がお産婆さんになるための道は、この父が必ず切り拓いてみせる」
染吉の瞳に、ようやく力強い光が戻った。 彼は立ち上がり、久しぶりに鋏を手に取ると、伸び放題になっていた旭山桜の枝を丁寧に整え始めた。
「吾助、明日からまた鍛えてやる。江戸一番の桜を、また咲かせようじゃないか」
「はい、お師匠さん。待っていました」
家族の愛という、目に見えないけれど最も強い根っこが、お梅の死という深い悲しみを乗り越えて、再び寺島の土を温め始めた。 お絹の産婆への修行が、お恵の寺子屋での学びとともに、本格的に始まろうとしていた。
お絹が弟子入りしたのは、神田の長屋で長年産婆を営む、お兼という老婆の元だった。お兼は江戸でも指折りの腕利き。だが、その気難しさでも知られていた。お恵の紹介でやってきたお絹を、お兼は鋭い眼光で見定めた。
「植木屋の娘だか何だか知らないけれど、産婆の仕事はきれいごとじゃないよ。血にまみれ、夜通し腰を浮かせている覚悟はあるのかい」
「あります。私は母を亡くしました。あの時の悔しさを、誰かの喜びに変えたいのです」
お絹が真っ直ぐに応えると、お兼は鼻で笑って、まずは床掃除と水の汲み上げを命じた。 朝から晩まで、お絹は赤子の産着を洗い、薬草を煎じ、お兼の道具を磨き上げた。そんなある日の夜更け、長屋の若女房に陣痛が来たと知らせが入った。
「お絹、ついておいで。ただ見てるんじゃないよ、五感を研ぎ澄ますんだ」
暗い夜道を提灯一つで駆け抜け、お絹はお兼の背中を追った。産屋の中は、熱気と独特の匂いに包まれていた。産婦が苦しげに声を上げる中、お絹は足が震えるのを必死に抑えて、お兼の指示を待った。
「お絹、産婦の腰をさすりなさい。手のひらから自分の体温を伝えるんだ。怖がるんじゃないよ、あんたが怯えたら、お腹の子まで怯えて出てこられなくなる」
お兼の厳しい声に、お絹は我に返った。自分の小さな手を産婦の背中に当て、お梅が自分にしてくれたように、優しく、けれど力強くさすり続けた。
「大丈夫ですよ。赤ちゃんも頑張っています。一緒に息を吐きましょう」
お絹が耳元でささやくと、産婦の荒い呼吸が少しずつ整っていった。 数時間の格闘の末、夜明けの光が障子に差し込む頃、産屋に元気な産声が響き渡った。
「……生まれた。お兼様、赤ちゃんが生まれました」
「当たり前だよ。さあ、ぼうっとしてる暇はないよ。産湯の準備をしなさい」
お兼は素っ気ない態度を崩さなかったが、お絹が手際よく赤子を拭き、産着を着せる様子を、密かに満足げに眺めていた。 帰り道、お兼は不意に歩みを止めた。
「あんたの手、いい温もりだったよ。産婦が安心していた。技術は後からついてくるけれど、その手の温かさだけは教えられるもんじゃない」
「ありがとうございます。お兼様、私、もっと学びたいです。命が生まれる瞬間の、あの光のような強さを支えられるようになりたい」
お絹の瞳には、一晩中立ち続けた疲れも見えず、新しい決意の炎が宿っていた。 寺島に戻ると、染吉がお幸を抱いて起きて待っていた。
「お絹、お疲れ様。いい顔をしているな」
「父上、私、お母様が最後に見た景色を、少しだけ分かった気がします。とても、とても尊いお仕事です」
お絹は父にそう告げると、まだ暗い台所で、家族のために朝餉の支度を始めた。 小さな産婆の見習いは、誰よりも早く起き、命という名の花を咲かせるための修行を重ねていった。
お絹が命懸けの修行に励む姿は、弟たちの心に火をつけた。 十歳になった宗助、九歳の信三、そして吾助の三人は、栽培場の隅にある物置に集まり、夜遅くまで秘策を練っていた。
「お姉ちゃんは、自分の道を見つけて必死に歩いている。俺たちも、父上に頼ってばかりじゃいられない。稲屋を新しい時代の植木屋に変えるんだ」
宗助が、自作の図面を広げながら力強く言った。 彼らの作戦は、単に良い花を育てるだけではなかった。同じ土地で同じ花を作り続けると土が痩せる連作の害を防ぐため、計画的に植え替えを行う効率的な栽培方法を考え出したのだ。
「宗助、もう一つ大事なことがある。江戸っ子は、何より初物が大好きだ。誰よりも早く季節の花を咲かせれば、値は十倍にも跳ね上がる」
信三が知恵を絞ると、吾助も大きく頷いて膝を叩きました。
「それなら、房総の暖かい土地に目をつけよう。あそこの農家と契約して畑を借り、江戸よりも一月早く花を咲かせるんだ。正月の祝い花や、初節句の桃。これを独占できれば、利益は計り知れないよ」
三人はこの共同作戦を、恐る恐る染吉に打ち明けた。 かつての染吉なら、分不相応だと叱りつけたかもしれません。しかし、書付と現金での取引を確立した今の染吉は、若者たちの目の輝きを無視できなかった。
「お前たちが、そこまで考えていたとはな。正直に言えば、俺の古い頭では、そんな大胆なことは思いもつかなかった」
染吉は、少し寂しそうに、けれど誇らしげに目を細めた。 彼は、自分にはない新しい発想こそが、これからの江戸に必要だと再認識したのだ。
「よし、分かった。宗助、信三、吾助。その房総の畑を買い取る金は、俺がすべて出そう。失敗を恐れずにやってみなさい。その代わり、俺は俺の役目を果たす」
「父上、それは何ですか」
「俺は、一度は解散した株仲間の筆頭となり、バラバラになった植木屋たちの心をもう一度繋ぎ合わせる。お前たちが新しい花を作っても、それを売るための組織が乱れていては意味がない。お前たちが攻めなら、俺がこの稲屋と江戸の守りを固めてやる」
染吉の言葉に、三人の若者は歓声を上げて手を取り合った。 早速、お美津が作成した厳格な契約書を携え、吾助たちは房総へと旅立った。
一方で、染吉は金四郎の助言を受けながら、かつての仲間たちを一軒ずつ説得して回った。
「皆さん、昔の株仲間に戻るのではない。不確かな世を生き抜くために、互いの技術と信用を分かち合う、新しい絆を築こうじゃないか。稲屋は、そのための金も知恵も惜しみません」
染吉の誠実な訴えに、一度は絶望していた植木屋たちが一人、また一人と立ち上がった。 若者たちの情熱と、染吉の重厚な信頼。二つの力が合わさることで、稲屋は江戸の園芸界を牽引する巨大な組織へと変貌を遂げようとしていた。
「染吉さん、あなたが若者たちの背中を押してくださったおかげで、寺島の空気がまた一変しましたね」
お梅がいない寂しさを抱えながらも、お美津は成長した子供たちと、頼もしくなった染吉の姿に、新しい時代の光を見ていた。
房総の温暖な気候とはるか海の向こうから届く日差しが、江戸より一月も早く花々を呼び覚ました。 早春、まだ江戸の町が寒さに身を縮めている頃、日本橋の稲屋の店先には、見たこともないほど見事な桃や菜の花が並んだ。
「おい、見てみろ。まだ雪がちらついているっていうのに、稲屋の店先だけは春が来ているぞ」
通りがかった商人が驚きの声を上げると、吾助が威勢よく天秤棒を置いて、色鮮やかな花々を掲げた。
「いらっしゃい。房総の陽だまりを、そのまま運んできました。初物の桃、早い者勝ちですよ」
江戸っ子たちは、初物と聞けば居ても立ってもいられない。 価格は通常の五倍、十倍という高値だったが、粋を競い合う大店の旦那衆や武家のお屋敷から、飛ぶように注文が入った。
「宗助、信三、お前たちの読みは正しかった。房総との契約は大成功だ。昨日一日だけで、これまでの三月分に相当する利益が出ているよ」
お美津が目を輝かせて大福帳を叩くと、泥だらけで戻ってきた宗助と信三も、疲れを忘れて笑い合った。
「お美津さん、これだけではありません。房総の農家たちも、初めて見る額の現金を手にして、来年はもっと良い苗を仕入れると張り切っています」
「兄貴、次は大奥の茂姫様へ、この早咲きの桜を届けよう。改革の暗い影を、この花で一気に吹き飛ばすんだ」
若者たちの熱気に押されるように、染吉が筆頭を務める新しい株仲間も、かつてない結束を見せていた。 利益を独占するのではなく、染吉は若者たちが生み出した「初物の仕組み」を、仲間の植木屋たちにも分け与えたのだ。
「染吉さん、いいのかい。自分たちだけの儲けにすれば、稲屋は江戸一番の富豪になれるのに」
古参の植木屋が恐縮して尋ねると、染吉は落ち着いた口調で諭した。
「一人で勝っても、江戸の園芸は守れません。みんなで潤い、みんなで質の高い花を届ける。それが、お上が壊した信用を自分たちの手で取り戻す唯一の道なんです」
この染吉の器の大きさが、再興した株仲間の結束を揺るぎないものにした。 農家には現金と契約で安心を与え、若者は知恵で新しい市場を切り拓き、大人はその土台を固めて守る。 これこそが、稲屋がたどり着いた新しい時代の商いの形だった。
「染吉、見事なものだな。初物の花が、江戸の経済だけでなく、人々の心まで明るく灯しているよ」
金四郎が満足げに店を訪れ、早咲きの梅の香りを深く吸い込んだ。
「金四郎様、これもすべて、若者たちの勇気のおかげです。私はただ、彼らが転ばないように地面を平らにしているだけですよ」
「父上、何を仰います。父上が守ってくれるから、僕たちは思い切り走れるんです」
宗助が照れくさそうに笑い、それを見たお絹も、お幸を抱きながら優しく微笑んだ。 家族の愛と、若き知恵。そして長年培った信頼が、大きなうねりとなって江戸の春を塗り替えて行った。
江戸の復興を祝う賑わいの中、金四郎が深刻な面持ちで染吉を訪ねてきました。
「染吉、茂姫様を通じて薩摩藩から直々の頼みが入った。薩摩の財政を支えるハゼの木が、得体の知れない病に冒されて立ち枯れているというのだ。このままでは藩の存亡に関わる。お前の力で、その木を救ってくれないか」
染吉は驚いたが、お梅を失った後の自分を支えてくれた薩摩への恩を返しに、九州へと旅立つ決意をした。
「吾助、お美津さん。しばらくの間、江戸の留守を頼む。お前たちがいれば、私は安心して土を離れることができる」
「お師匠さん、心配はいりません。宗助たちと一緒に、稲屋の暖簾は命懸けで守ります。薩摩の山を救ってきてください」
吾助の力強い言葉に送られ、染吉は遥か南の地を踏んだ。 そこで染吉が目にしたのは、病に苦しむハゼの木々だけではなかった。藩を挙げて大掛かりな開墾が進み、見たこともない最新の道具が使われ、武士も百姓も凄まじい熱気で働いている姿でした。
「これは、ただの貧乏藩ではない。この薩摩には、江戸の幕府さえも飲み込んでしまいそうな、計り知れない新しい力が渦巻いている」
染吉はハゼの木の根を掘り起こし、土の養分と水の流れを整え、独自の肥料を施すことで、見事に木々を蘇らせた。しかし、その治療の傍らで、彼は時代の大きな地鳴りを聞いたのだ。
江戸に戻った染吉は、一回りも二回りも逞しくなった顔で、寺島の家に家族と弟子たちを集めた。
「みんな、よく聞いてくれ。私は薩摩で恐ろしいほどの力を見てきた。今、世の中は根こそぎ変わろうとしている。幕府という大きな木が、いつ倒れるかも分からない時代が来る」
染吉の重厚な言葉に、宗助や信三、吾一たちは固唾を呑んだ。
「だからこそ、私は宣言する。お上を頼りにするだけの生き方は、今日で終わりだ。たとえ明日、どんな戦が起きようと、どんなに世の中がひっくり返ろうと、私たちは自分たちの足で立ち、花を、植木を、この命の美しさを守り続けなければならない」
染吉は、宗助と信三の肩を強く叩いた。
「宗助、信三。お前たちはこれからも、誰よりも早く季節を読み、新しい種を育てなさい。吾一、お前は父である吾助の背中を見て、この国の土を愛する男になれ。お絹、お前は命を繋ぐ役目。どんな暗い夜でも、赤子の産声は希望の調べだ」
「父上、私たちは負けません。たとえ江戸が火の海になっても、稲屋の苗は必ず守り抜きます」
宗助が真っ直ぐな瞳で答えると、お美津も染吉の目を見つめた。
「染吉さん、私たちの商いの仕組みは、そのための武器ですね。現金と契約、そして人の心。これさえあれば、どんな波風も乗り越えられますわ」
「ああ。私たちの仕事は、平和な時にだけ咲くものではない。荒れた世の中にこそ、一輪の花が必要なんだ。未来がどうなろうと、私たちは植木屋として生き抜こうじゃないか」
家族全員が固く手を合わせ、寺島の栽培場に、明日への決意という名の新しい種が蒔かれた。 時代が幕末という激動の季節へ向かおうとする中、稲屋の若葉たちは、決して折れない強い根を、さらに深く土の中へ伸ばし始めていた。
時は流れ、江戸の町にはどこか殺伐とした風が吹き始めていた。 しかし、そんな不穏な空気の中でも、お絹は一人前の産婆として、真っ白な足袋で江戸の石畳を力強く踏みしめていた。
ある晴れた昼下がりのこと。
日本橋の目抜き通りを、会津藩の壮麗な参勤交代の行列が静々と進んでいた。
「下に、下に」の声とともに、町人たちは道端に平伏し、静寂が辺りを支配している。 その時、その静寂を切り裂くように、風呂敷包みを抱えたお絹が脇道から飛び出してきた。
「どいてください、通してください。一刻を争うのです」
お絹は平伏する人々をかき分け、あろうことか大名行列の真っ只中を横切ろうとした。 周囲の町人たちは、あまりの恐ろしさに息を呑んだ。
「こら、控えろ。何奴だ、行列を乱すとは不届き千万」
槍を持った供の侍が鋭い声を上げ、お絹の前に立ち塞がった。 しかし、お絹は一歩も退きません。
「私は産婆のお絹です。今、近くの長屋で若い母親が苦しんでいます。私が今行かなければ、二つの命が消えてしまうのです。お侍様、刀で私を斬るなら斬りなさい。でも、その後で私をこのまま長屋まで投げ飛ばしてください」
お絹の鬼気迫る表情に、侍も思わず気圧された。
行列が止まり、駕籠の中から一人の男が顔を出した。 会津藩主、松平容保公だった。
「待て。その女子を斬ってはならぬ。何事だ」
容保公が静かに問うと、侍は震える声で事情を説明した。 お絹は駕籠に向かって深く頭を下げ、けれど言葉ははっきりと伝えた。
「殿様。大名行列が大切なのは存じております。ですが、今生まれようとしている命に、上も下もございません。どうか、通してはいただけないでしょうか」
容保公はお絹の汚れた草履と、決意に満ちた瞳をじっと見つめた。 そして、ふっと口元を緩め、周囲の者たちに聞こえるような声で呟いた。
「面白い。天下の行列よりも、たった一人の赤子が大事か。まことに、この江戸の女は逞しい。通してやれ。我らの行列が、新しい命の誕生を邪魔したとなれば、会津の名が泣くというものだ」
「殿、しかし」
「構わぬ。道をあけよ」
行列が二つに割れ、お絹のための道が作られた。 お絹は「かたじけなし」と一言残し、風のようにその間を駆け抜けていった。 その背中を見送りながら、容保公はもう一度小さく呟いた。
「今の江戸を支えているのは、幕府でも大名でもない。あの女子のような、真っ直ぐな命の輝きなのかもしれぬな」
数時間後、近くの長屋からは、大名行列の足音をかき消すような、元気な産声が響き渡った。 お絹は汗を拭い、生まれたばかりの赤子を抱き上げると、遠くで続く行列の音を聞きながら、静かにお梅のことを思い出していた。
「お母様。私、今日、お殿様にも負けなかったよ」
寺島では、染吉が吾助たちとともに、新しい苗を植え付けていた。
お絹が起こした「奇跡」の噂は、またたく間に江戸中に広まり、稲屋の家族愛は、さらに強固な絆で結ばれていくのだった。
寺島の栽培場では、染吉の長男である宗助と、吾助の娘のお美代が、並んで苗の手入れをしていた。
宗助は十八歳、お美代は十五歳。二人は幼い頃から兄妹のように育ったが、最近は互いの顔を見るたびに、耳の裏まで赤くなる有様だった。
「お美代ちゃん、その鋏の使い方は危ないよ。貸してごらん」
宗助が手を伸ばすと、お美代は慌てて手を引いた。
「大丈夫です、宗助さん。私だって稲屋の娘ですもの。でも、そんなに心配してくださるなら、少しだけ、手伝っていただこうかしら」
二人の様子を、物陰から染吉と吾助がニヤニヤしながら覗いていた。
「師匠。あの二人、さっきから同じ枝を三回も触っているぜ。これじゃあ木が枯れちまう」
「まったくだ。吾助、うちの息子は植木の目利きは天才だが、女心に関しては根っこが腐っているようだな」
そんなある日の夕暮れ、宗助は意を決した。お美代が大好きだと言っていた「花菖蒲」を贈って、想いを伝えようと考えたのだ。
ところが、緊張のあまり頭が真っ白になった宗助は、間違えて薬草として使う「菖蒲」の束を抱えてお美代の前に現れた。
「お美代ちゃん、これを受け取ってくれ。僕はお美代ちゃんのことが、この菖蒲のように……いや、とにかく好きなんだ」
差し出されたのは、花のない地味な葉の束だった。お美代は一瞬きょとんとしたが、すぐに顔をほころばせた。
「宗助さん、これ、お花が咲く花菖蒲じゃなくて、お風呂に入れる菖蒲ですよ。でも、私のために一生懸命摘んできてくださったのね」
「えっ、あ、間違えた。花が咲く方を持ってきたつもりが、なんてこった」
赤面して逃げ出そうとする宗助を、お美代が優しく呼び止めた。
「いいえ、嬉しいわ。せっかくだから、今夜はこの菖蒲でお風呂を沸かしてくださいな。宗助さんの焚いたお風呂に入りたいわ」
夜、長屋の裏で宗助は必死に薪を焚べていた。板一枚隔てた向こう側では、お美代が菖蒲の香りに包まれてお湯に浸かっている。
「宗助さん、お湯加減、最高ですよ。菖蒲の良い香りがします」
「そ、そうかい。それは良かった。お美代ちゃん、さっきの言葉、嘘じゃないんだ。僕はいつか、父上のような立派な植木屋になって、お美代ちゃんを幸せにしたいと思っている」
薪がパチパチとはぜる音の中、宗助は火を見つめながら叫ぶように言った。
「まあ。それなら、私もお美津さんのように、しっかりお帳面をつけて宗助さんを支えます。でも、お花の間違いだけは、私が隣で見ていてあげないと駄目ね」
お美代の悪戯っぽい笑い声が聞こえ、宗助は火に照らされているのか、照れているのか分からないほど顔を真っ赤にした。
「聞いたか、吾助。あいつら、風呂場で祝言の約束までしやがったぞ」
物陰で酒を酌み交わしていた染吉が吹き出すと、吾助も肩を揺らして笑った。
「いいじゃないですか。間違えて菖蒲を贈るような不器用な婿殿ですが、火を焚く情熱だけは本物のようですぜ」
翌朝、二人は照れながらも、今まで以上に息の合った様子で庭仕事に励んでいた。 江戸の街に不穏な風が吹こうとも、寺島の栽培場には、新しい夫婦の誕生を予感させる、温かで滑稽な春の風が吹き抜けていた。
時を経て、季節は晩春。よく晴れた日のことだった。
寺島の稲屋は、朝からひっくり返るような騒ぎ。今日は宗助とお美代の祝言の日。栽培場は、ただの宴席ではなく、江戸中の知恵と技が集まった花の迷宮へと姿を変えていた。
「これを見ろよ、稲屋の若旦那のために、奥州から届いたばかりの珍しい牡丹だ。花びらが千枚もあるんじゃないか」
株仲間の植木屋たちが、競うように自慢の鉢を持ち寄った。入り口には、房総の農家たちが担いできた菜の花が黄色い絨毯のように敷き詰められ、春の香りが辺り一面に漂っている。
「染吉さん、おめでとう。うちの座からも、若夫婦に景気づけの差し入れだ」
人だかりを割って現れたのは、当代きっての歌舞伎役者たちだった。お美津が手掛けた小物を愛用している縁で、華やかな衣装に身を包んだ役者が、舞台さながらの見得を切る。
「おやおや、お美代ちゃんの白無垢姿、雪から生まれた花の精のようだね。宗助さん、幸せ者だよ」
役者たちの粋な言葉に、正装した宗助は鼻の下を伸ばし、お美代は頬を染めてうつむいた。そんな中、お絹が大きな重箱を運んできた。お幸もあとからよちよち小さな器を運んでいる。
「さあ、農家の皆さんも、役者さんも、遠慮せずに食べてください。今日は命の洗濯の日です。みんなで笑って、新しい夫婦を送り出しましょう」
祝宴が始まると、そこら中で笑い声が弾けた。お美津の父親である越後屋の主人は、豪華な着物を並べ、農家の人々は自慢の野菜を肴に酒を汲み交わしている。
「染吉さん、見てください。お上の改革でバラバラになった俺たちが、こうしてまた一つになれた。これも全部、あんたと、この若い二人のおかげだ」
古参の植木屋が涙ぐみながら杯を差し出すと、染吉は力強くそれを受けた。
「いや、俺たちの力じゃない。土を愛し、人を信じる心が、これだけの花を咲かせたんだ。吾助、今日は呑もう。俺たちの娘と息子が、新しい時代を作るんだからな」
「師匠。俺はもう、嬉しくて涙で酒の味が分かりませんよ」
吾助が袖で目を拭っていると、宴の真ん中で宗助が立ち上がった。
「皆さん、ありがとうございます。僕は父上や吾助さんのように、どんな嵐にも負けない根っこを持つ植木屋になります。そしてお美代と一緒に、江戸を世界一美しい花の町にしてみせます」
「あら、宗助さん。また菖蒲と花菖蒲を間違えないように、私がしっかり見張っていますからね」
お美代の冗談に、一座は大爆笑に包まれた。
役者が太鼓を叩き、農家が歌を歌い、植木屋たちが花の枝を振る。 身分も立場も超えた、命の輝きに満ちた祝言は、夜が更けるまで続いた。 寺島の空には、何百もの提灯の明かりが、まるで新しい時代の星のように明るく輝いていた。
祝言の華やぎが落ち着いた頃、江戸の町には、黒船の来航以来となる、ざわざわとした落ち着かない空気が漂い始めていた。 寺島の栽培場でも、若者たちの会話の内容が、少しずつ花の育て方から世の中の行く末へと変わりつつあった。
そんなある日の午後、お絹は修行先の帰り道、薬草を熱心に観察している一人の若い男に出会った。 男は着古した着物に袴という姿でしたが、その眼差しには、江戸の職人とは異なる知的な鋭さがあった。
「その草、根っこを煎じると熱さましになりますが、毒もありますから気をつけてくださいね」
お絹が声をかけると、男は驚いたように顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「これは驚いた。産婆の修行をしているお絹さんですね。私は長崎で医学を学んできた、桂木と申します。お恵様から、あなたの聡明さは伺っていました」
桂木は、異国の医学である蘭学を修めた医者だった。けれど、彼は難しい医学書だけでなく、足元の名もなき花々を何より愛する心優しい男だった。 二人は、命を救うという共通の思いを通じて、次第に心を通わせていた。
「お絹さん、私はこの国の古い医術と、異国の新しい知恵を一つにしたい。花が土と水の両方で育つように、人もまた、新しい風を受け入れなければなりません」
「桂木さんの言葉を聞いていると、父が薩摩で見てきたという新しい時代の足音が聞こえる気がします」
お絹の心に、静かだが確かな恋の蕾が膨らみ始めていた。 しかし、その一方で、寺島の家にはまた別の熱気が入り込んでいた。 十八歳になった宗助と、十五歳の吾一が、道場仲間に囲まれて真剣な顔で話し合っていたのだ。
「宗助、江戸の町が、得体の知れない暴徒や不逞浪士に荒らされている。俺たちは桃井先生の門下生だ。このまま黙って花をいじっているだけでいいのか」
道場仲間の熱い言葉に、吾一が身を乗り出した。
「俺も同じ気持ちだ。自分たちの店や家族を守るために、江戸を警護する志願兵の集まりがある。宗助、一緒に行こう」
宗助は、手入れしていたばかりの若木の枝を握りしめました。 父の染吉が守ろうとしているこの平和な園芸の世界を、自分の腕で守りたいという衝動が突き上げてきたのだ。
「待てよ、吾一。俺たちの仕事は、剣を振ることじゃないはずだ。でも、今の江戸を見て見ぬふりはできないな。父上に相談してみよう」
二人が染吉の元へ向かおうとした時、ちょうど奥から染吉が現れた。 染吉の顔には、若者たちの心の揺れをすべて見透かしたような、深い皺が刻まれていた。
「父上、実は道場の仲間から、江戸を守るための兵にならないかと誘われています」
「お師匠さん、俺たち、稲屋と江戸の街を守りたいんです」
染吉は二人の前にどっしりと座り、静かに口を開いた。
「お前たちが江戸を思う気持ちは立派だ。だが、一度、剣を持って人を斬れば、その手は二度と優しい花の芽を育てることはできない。それでも行くと言うのか」
「それは……」
宗助が言葉に詰まると、染吉は続けて言った。
「今の時代、正義は一つじゃない。お前たちが守ろうとする江戸が、明日には形を変えているかもしれない。行くなら、それを覚悟して行きなさい。だが、俺はここを動かない。どんな火が飛んできても、この苗たちを守り抜く。それが俺の戦いだ」
染吉の言葉は、若者たちの熱い心に冷や水を浴びせるような厳しさと同時に、逃れられない時代の重みでもあった。 恋に揺れるお絹と、正義感に燃える宗助と吾一。 平和だった稲屋の家族に、抗うことのできない大きな歴史のうねりが、ひたひたと足元まで迫ってきていた。
その頃、江戸の街に、正体不明の熱病が流行り始めた。
人々はそれを新しい時代の毒だと恐れ、長屋のあちこちで苦しむ声が上がった。 そんな中、お絹は桂木とともに、家々を回って懸命に看病を続けていた。
「お絹さん、水を持ってきてください。この病を抑えるには、体を清潔に保ち、清らかな水で薬草を煎じることが一番です。古い迷信に頼っていては、救える命も救えません」
桂木が汗を拭いながら言うと、お絹は手際よく手桶を運び、病人の額を冷やした。
「桂木さん、お産婆の仕事で学んだ清潔の大切さが、こんなところで役に立つなんて。命を救う道は、お産も病も同じなのですね」
二人が病魔と戦っている頃、夜の江戸の町では、宗助と吾一が揃いの羽織を身にまとい、夜警の任に就いていた。 志願兵として道場仲間に加わった二人の手には、植木鋏ではなく、冷たく光る真剣が握られていた。
「宗助、あっちの路地で怪しい影を見た。最近は、攘夷を叫ぶ浪士たちが夜な夜な騒ぎを起こしているらしい。気をつけろよ」
吾一が低く囁くと、宗助は刀の柄に手をかけ、周囲を警戒した。
「ああ、分かっている。父上は剣を持てば手が汚れると言ったけれど、誰かがこうして見張っていなければ、お絹さんたちが安心して看病もできないからな」
その時、暗闇から抜き身の刀を持った数人の男たちが現れた。
「幕府の犬どもか。目障りな、そこをどけ。我らはこの腐った江戸を立て直すために動いているのだ」
男たちが斬りかかってくると、宗助は反射的に刀を抜き、相手の刃を受け止めた。 火花が散り、金属の擦れる嫌な音が響いた。
「江戸を立て直すだと。お前たちが暴れるせいで、泣いている子供や病人がどれだけいると思っているんだ」
宗助は道場で鍛えた腕を振るい、男たちを追い詰めた。けれど、相手の腕に刃がかすめ、赤い血が地面に滴るのを見た瞬間、宗助の指先がわずかに震えた。 土を耕し、命を育んできたその手にとって、命を傷つける感触は、耐え難いほどの重圧だった。
翌朝、夜勤を終えた宗助と吾一が、疲れ果てて、寺島の栽培場に戻ってきた。 そこには、一晩中看病を続けて泥のように眠るお絹と、彼女を優しく見守る桂木の姿があった。
「宗助、戻ったか。怪我はないようだな」
染吉が静かに出てきて、二人の刀を見つめた。
「父上……。俺、昨夜、人を斬りそうになりました。江戸を守るためだと思っていたのに、今は自分の手がひどく汚れているように感じます」
宗助がうつむくと、染吉は何も言わずに、宗助の泥だらけの手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「お前の手はまだ、花の芽を覚えている。汚れたなら、また土を触ればいい。お絹たちが命を救い、お前たちがその場を守る。今はそうして、家族全員でこの嵐をやり過ごすしかないんだ」
染吉の言葉に、宗助は涙をこらえて頷いた。 桂木はそっと近づき、宗助の強張った肩に手を置いた。
「宗助さん、私たちが戦う相手は人間ではなく、目に見えない病や、人々の心にある不安です。あなたが夜を守ってくれたから、私はお絹さんと共に、昨夜は三人の子供を救い出すことができました。感謝します」
医者と産婆、そして志願兵。 バラバラの道を歩んでいるようでいて、彼らは皆、自分たちのやり方で「稲屋の庭」という江戸の平和を守ろうとしていた。
江戸の街を襲った熱病は、お絹と桂木の献身的な働きによって、ようやく峠を越えようとしていた。 夕暮れ時、寺島の栽培場の片隅で、二人は久しぶりに穏やかな風に吹かれていた。
「お絹さん、あなたのおかげで多くの命が助かりました。あなたの産婆としての知恵と、清潔を重んじる心根は、これからの新しい医学にどうしても必要なものです」
桂木が真剣な眼差しで見つめると、お絹は少し照れくさそうに微笑んだ。
「いいえ、桂木さんが異国の知恵を惜しみなく教えてくださったからです。私こそ、目に見えない小さな汚れが病の元になるなんて、初めて知りました」
しかし、桂木の表情はどこか寂しげで、遠くを見つめていました。彼は、お絹の手をそっと取り、静かに切り出した。
「実はお絹さん、私は近いうちに再び長崎へ向かいます。長崎には、まだ私たちが知らない、命を救うための膨大な知識があるのです。今、優秀な外科医のお医者さんが来ています。学んできたいと願ってます」
お絹の胸が、どきりと大きく跳ねた。ようやく心を通わせ始めた人が、自分から遠く離れた場所へ行こうとしている。その現実に、足元が揺らぐような思いだった。
「長崎へ……。それでは、しばらく、お会いできないかもしれませんね」
「そうかもしれません。ですが、私は今のままの知識では、いつか来るもっと大きな流行病から江戸の人々を守る自信がありません。私は、あなたのような産婆さんが、もっと安全に、もっと多くの赤子を取り上げられるような、そんな確かな医学の基礎を持ち帰りたいのです」
桂木の言葉には、一人の男としての恋慕よりも、医者としての強い使命感が宿っていた。お絹は涙をこらえ、真っ直ぐに桂木を見つめ返した。
「分かりました。桂木さんは、土を耕して新しい花を咲かせる父上と同じなのですね。私は江戸で、あなたが帰ってきた時に恥ずかしくないような、最高の産婆になって待っています」
「お絹さん、ありがとうございます。あなたがそう言ってくれることが、私にとって何よりの力になります。どうか、この種を預かってください。異国の、丈夫で美しい花が咲くそうです。これが咲く頃には、私も新しい知恵を持って戻ります」
桂木が手渡したのは、小さくて黒い、けれど生命力に満ちた数粒の種だった。 二人の会話を、影でそっと見守っていた染吉と、末娘のお幸がいた。お幸は、姉の寂しさを察したのか、お絹の裾をぎゅっと握りしめた。
「お絹、いい男だな。自分の夢のために、一番大切なものを置いていける奴は、いつか必ず大きな仕事を成し遂げる。お前が選んだ男だ、信じて待ちなさい」
染吉が背後から声をかけると、お絹はついに堪えきれず、父の胸で声を上げて泣きだした。 翌朝、桂木は誰にも見送られることなく、提灯一つを腰に下げて江戸を立ちさった。
宗助と吾一が守る夜の静寂の中、お絹は一人、桂木から託された種を寺島の柔らかな土に埋めた。
「桂木さん、私は負けません。この種が芽吹き、大きな花を咲かせるまで、私は江戸の命を繋ぎ続けます」
愛する人との別れは、お絹をただ悲しませるだけではなかった。それは、彼女をより強く、より深い慈愛を持つ産婆へと成長させる、新しい修行の始まりでもあった。
桂木が長崎へ旅立ってから一年が過ぎた冬の夜のこと。寺島の稲屋に、会津藩の紋が入った提灯を掲げた武士たちが、血相を変えて駆け込んできた。
「産婆のお絹どのはおられるか。急ぎ会津藩邸へお越しいただきたい。敏姫様が産気づかれたが、お容体が芳しくないのだ」
染吉と宗助が驚いて飛び出す中、お絹はすでに産婆の道具をまとめた風呂敷を肩にかけていた。
「父上、行ってまいります。会津の殿様には、昔、道を開けていただいた恩がありますもの」
お絹は差し向けられた早駕籠に飛び乗り、雪が舞い始めた江戸の町を駆け抜けた。藩邸の奥御殿は、重苦しい静寂と、張り詰めた緊張感に包まれていた。
「お絹か。よく来てくれた。敏姫を、どうか救ってやってくれ」
廊下で待ち構えていたのは、かつて大名行列の中でお絹を通した、あの凛々しい松平容保公だった。その瞳には、一藩の主としての威厳よりも、妻と子を案じる一人の夫としての切実な祈りが宿っていた。
「殿様、お任せください。私はこの日のために、桂木さんから教わった新しい知恵と、お兼様から受け継いだ技を磨いてきました」
お絹が産屋へ入ると、敏姫は青白い顔で息も絶え絶えの状態でだった。御典医たちが匙を投げかけ、周囲の腰元たちはすすり泣いている。
「皆さん、泣いている暇はありません。お湯を絶やさず、部屋を温めてください。姫様、私がお手伝いします。赤ちゃんの心音はまだ力強いですよ。一緒に頑張りましょう」
お絹は敏姫の手を握り、桂木に教わった通り、腹部を優しく、かつ的確に押さえながら呼吸を導いた。数時間が経過し、夜明け前の最も深い闇が訪れた頃、お絹は敏姫の耳元で強く囁いた。
「姫様、今です。新しい時代の光を、この子に見せてあげてください」
その直後、産屋の静寂を破るように、この世で最も力強く、瑞々しい産声が響き渡った。
「……おめでとうございます。元気な若君でございます」
お絹が手際よく赤子を処置し、敏姫の胸元へ届けると、場にいた全員が崩れ落ちるように安堵の溜息をついた。報告を受けた容保公が部屋の入り口まで歩み寄り、深く頭を下げた。
「お絹、礼を言う。お前は我が藩の宝を、いや、江戸の未来を救ってくれた」
「いいえ、殿様。若君がご自分の力で、この乱れた世に生まれてこようと決めたのです。私はただ、その背中を少し押したに過ぎません」
お絹が汗を拭いながら微笑むと、その姿は亡き母、お梅に驚くほど似ていた。
数日後、会津藩から稲屋へ、山のような褒美の品と、容保公直筆の感謝状が届いた。
しかし、お絹にとって何よりの幸せは、桂木から託された種が、栽培場の片隅で、力強い緑の小さな芽を覗かせたことだった。
「父上、見てください。芽が出ました。あのお産を乗り越えた今日、この子が顔を出してくれたんです」
「ああ、お絹。お前が繋いだ命が、この芽を呼び寄せたのかもしれないな」
染吉は娘の成長を眩しそうに見つめ、冬の柔らかな日差しの中で、新しい命の息吹を噛み締めていた。
江戸の町に不穏な風が吹いても、長屋の朝はいつもと変わらぬ賑やかさから始まっていた。
人々は物を捨てることを知らず、壊れたら直し、使い古したら別の形に変えて、命を全うさせる知恵を持っていた。
染吉はこの江戸の循環こそが、最高の花を育てる秘訣だと確信していた。
「吾助、今日も下肥買いが戻ってきたよ。江戸の百万人の命を支えた食事が、こうして巡り巡って、私たちの花の最高の肥料になるんだ」
染吉が栽培場の大きな桶を見つめて言うと、吾助も感心したように頷いた。
「師匠、本当ですね。町から出る灰は土を健やかにし、使い古した草履や古布は細かく刻んで土に混ぜれば、冬の寒さから根を守る布団になります。江戸の町全体が、大きな一つの畑のようなものですな」
そこへ、長男の宗助と信三が、町から集めてきた大量の割れた植木鉢や古道具を抱えて戻ってきた。
「父上、見てください。これらはもう物置に眠っていたゴミだと言われましたが、細かく砕いて鉢の底に敷けば、水の通りがこれ以上ないほど良くなります」
「信三、いいところに気づいたな。お前たちが集めてきた古釘だって、水に浸けておけば、鉄分を好む花には最高のご馳走になるんだ。江戸に捨てるものなど一つもないよ」
お美津もまた、商いの観点からこの仕組みを支えていた。 彼女は、古着屋や道具屋と提携し、商売で出た端切れや削り節の残りなどを安く買い受け、それを農家に届ける仲介をしていたのだ。
「染吉さん、農家の方々は、稲屋が届ける江戸のゴミが、黄金よりも価値があると言って喜んでいます。それを肥料にして育った花が、また江戸の町を彩り、人々の心を癒やす。この輪がある限り、私たちは負けません」お美津は自信を持っていった。
お絹も、産婆の仕事の合間に、使い古された産着や布を丁寧に洗い、再利用の準備をしていた。
「父上、命が生まれる場所でも、古い布が新しい命を包みます。土も布も、使い込むほどに優しくなじむのですね」
ある日、会津藩の屋敷を訪れた染吉は、容保公にこの江戸の仕組みを語った。
「殿様、江戸の町がこれほど美しいのは、誰もが物を大切にし、巡り合わせを信じているからです。古くなったものを捨てず、新しい命の糧にする。この心がある限り、江戸の根っこは腐りません」
容保公は、染吉が持参した、古びた茶碗を鉢代わりにした見事な松の盆栽を眺め、深く感銘を受けた。
「染吉、お前の言う通りだ。政治もまた、古いものを切り捨てるのではなく、どう次へ繋げるかが大事なのだな。無駄なものなど何一つないという江戸の流儀、私も見習いたいものだ。江戸を愛する心は、誰にもまけない」
政情が厳しさを増す中でも、稲屋の家族は江戸の町が作り出す循環の輪を大切に守り続けた。 灰を買い、古釘を拾い、下肥を慈しむ。 そんな地道な日常の繰り返しが、どんな高級な肥料よりも、稲屋の花を逞しく、色鮮やかに咲かせていた。
世情が不安定な中でも、例年通り、夏の夜風が隅田川の水面をなで、両国の川開きは賑わいを見せていた。
空に大きな輪を描く火の花が打ち上がるたび、江戸の人々は世の中の不安を忘れたかのように歓声を上げていた。
その人混みの中で、お絹は懐かしい、けれど以前よりも逞しくなった声に名前を呼ばれた。
「お絹さん、お絹さんではありませんか。お探ししました」
「約束通り戻りました。桂木です」
「異国の知恵をこの手に携えて、戻りました」
振り返ると、そこには日に焼けた桂木が立っていた。 お絹は言葉を失い、ただ溢れる涙を拭うことも忘れて、愛する人の姿を見つめた。 二人は打ち上がる花火の下、静かに歩みを進め、川沿いの柳の木陰で立ち止まった。
「長崎で、そして異国の地で、私は多くの死と生を見てきました。けれど、どんな時も私の心を支えていたのは、お絹さんが大切に育てていたあの花の芽。お絹さん、生涯、私の隣にいてくれませんか。二人で、江戸の命を守る場所を作りたいのです」
桂木が真っ直ぐな瞳で伝えると、お絹は何度も深く頷いた。
「はい。私もずっと、その言葉を待っていました。桂木さんと一緒なら、どんな困難も乗り越えていけます」
やがて二人は、神田の地に小さな医療施設、桂庵院を開業した。 そこは、桂木の外科の知恵とお絹の産婆の技を合わせた、新しい形の養生所だった。 診察室には、染吉たちが届けた季節の花が常に生けられ、大きな窓からは陽の光がたっぷりと注ぎ込んでいた。
「桂木さん、患者さんが仰っていました。この部屋に入って花を見るだけで、病の苦しみが半分になった気がするって」
「お絹さん、それが花の持つ命の力ですよ。私たちの薬と同じくらい、この清潔さと明るさが人を癒やすのです」
一方で、かつて志願兵として剣を握ろうとした宗助、信三、そして吾一の三人は、全く別の道を歩んでいた。 染吉から、剣で人を傷つけるのではなく、花で人の心を救えと諭された彼らは、江戸の各地で大掛かりな植木市を企画し始めたのだ。
「おい、宗助。今日は浅草の門前だ。殺伐とした噂ばかりが流れる今だからこそ、とびきり威勢のいい花を並べようじゃないか」
吾一が天秤棒を担ぎ直すと、宗助も力強く応じた。
「ああ。鉄砲や刀では、人の心を救えない。俺たちの武器はこの植木鋏だ。一鉢の花が、長屋の窓辺で誰かを笑顔にできれば、それが俺たちの勝利だよ」
信三もまた、房総から届いたばかりの瑞々しい苗を並べながら、通りかかる人々に声を張り上げた。
「いらっしゃい。不景気な顔をしてちゃ、福が逃げますよ。この花は夜に香りが強くなる、安眠の守り神だ。一鉢いかがですか」
彼らの熱意は、不安に揺れる江戸の庶民に温かな灯をともした。 寺島の栽培場で、その様子を遠くから見守っていた染吉は、隣に座る吾助とお美津に語りかけた。
「吾助、お美津さん、見てごらん。若者たちは自分たちの戦い方を見つけたようだ。古い幕府がどうなろうと、薩摩がどう動こうと、この江戸を愛する者がいる限り、命の営みは途絶えないな」
「ええ、染吉さん。宗助たちが広める花の色が、今の江戸には何よりの良薬です。桂庵院のお絹ちゃんたちも、きっと同じ気持ちでしょう」
お美津がお茶を淹れながら微笑むと、庭の旭山桜が、次に来る春を待ちきれないかのように力強く枝を伸ばしていた。 動乱の足音が近づく中でも、稲屋の家族はそれぞれの場所で、命を慈しみ、明日を信じる種を蒔き続けていた。
江戸の町に流れる風が、いよいよ冷たさを増してきた。
京の都で戦があった、あるいは異国の船がまた現れたといった噂が飛び交い、人々の顔には拭いきれない不安が張り付いている。
しかし、寺島の稲屋では、宗助、信三、そして吾一の三人が、これまで以上に熱い議論を交わしていた。
「宗助兄さん、ただ江戸で花を売っているだけでは足りない。もし本当に火の海になるようなことがあれば、先祖代々守ってきた貴重な花の種や、珍しい木々の苗がこの世から消えてしまう」
信三が、全国の産地が記された大きな地図を広げながら訴えた。これに吾一も拳を固めて同意した。
「ああ、その通りだ。だから俺たちは、全国に散らばったお師匠さんの元弟子たちと手をつなぎたい。江戸が駄目になっても房総で、房総が駄目になっても奥州や薩摩で、稲屋の命を繋いでいく仕組みを作るんだ」
宗助は、じっと地図を見つめた後、奥の部屋で大福帳を整理していた染吉とお美津の元へ向かった。
「父上、お美津さん。僕たちに、稲屋の名前を背負って全国の仲間を束ねる許しをください。単なる商いではなく、日本の植物を守るための強固な組織を作りたいのです」
染吉は煙管を置き、息子の覚悟を確かめるように見つめた。お美津も、そろばんの手を止めて若者たちの顔を順番に眺めた。
「宗助、お前たちの言うことはもっともだ。だが、遠く離れた者同士が手をつなぐには、金よりも何よりも、確かな信用という根っこが必要だよ。お美津さん、あのお話を彼らにしてやってくれないか」
お美津は優しく頷き、一冊の古びた帳面を差し出した。
「いいですか、皆さん。信用とは、約束を守り抜くという積み重ねです。どんなに世が乱れても、代金は期日通りに支払い、約束した苗は必ず届ける。それを十年間、一度も欠かさなかったからこそ、今の稲屋があるのです。全国の仲間を動かしたいなら、まずは彼らの生活を命懸けで保証する覚悟を持ちなさい」
宗助たちは、その重い言葉を深く心に刻んだ。それからというもの、三人は手分けをして全国の門弟や取引のある農家に手紙を書き、実際に足を運んで説得を始めた。
「私たちは、ただの株仲間を作りたいのではありません。万一の時、お互いの種を預かり合い、絶やさないための誓いを立てたいのです。稲屋がその総元締めとして、皆さんの暮らしと苗の行き先を最後まで見守ります」
宗助が各地で誠心誠意訴えかけると、染吉の誠実さを知る旧知の植木屋たちが、次々と賛同の署名を送ってきた。 信三は、各地の土壌や気候に合わせた苗の預かり表を作成し、吾一は、いざという時に重い鉢植えを迅速に運び出すための大八車の改良や、人手の確保に走り回った。
「お師匠さん、見てください。奥州からは耐寒性の強い松の種が、薩摩からは病に強いハゼの苗が届きました。これらはすべて、各地の拠点で分散して育てられます。たとえ江戸がどうなろうと、日本の緑は死にません」
吾一が汗を拭いながら報告すると、染吉は満足げに目を細めた。
「よくやった。これこそが、植木屋にしかできない戦い方だ。お前たちが作ったこの組織は、いつか必ずこの国を救う大きな力になるだろう」
その頃、桂庵院のお絹も、弟たちの活動に刺激を受けていた。
「宗助さんたちが種を守るなら、私は命を守るための薬草の知識を、全国の産婆さんたちに広めたい。お美津さん、そのための手紙の出し方を教えてください」
家族全員が、それぞれの持ち場で新しい時代の防波堤を築いていた。 外の世界では、古い権威が音を立てて崩れようとしていましたが、稲屋の周囲には、何百人もの仲間たちが繋ぎ合った、目に見えないけれど強固な命の鎖が出来上がっていた。
安政の大地震が江戸を襲ったのは、冷たい風の吹く夜のことだった。
大地が激しく波打ち、寺島の栽培場でも古い石灯籠が音を立てて倒れた。染吉はいち早く飛び起き、家族の無事を確かめると、すぐに夜空を見上げた。
「火だ。あちこちから火の手が上がっている。宗助、信三、吾一。準備はいいか」
染吉の鋭い声に、若者たちは迷いなく動いた。彼らがこの日のために作り上げてきた全国組織が、いよいよ真価を問われる時が来たのだ。
「父上、すでに各拠点の仲間へ合図を送りました。吾一、お前は房総から届いている救援物資の荷受けを頼む。信三、お前は奥州の仲間が送ってくれた保存食を、炊き出しの場所へ運べ」
宗助が指示を飛ばすと、吾一は力強く頷いて駆け出した。 江戸の街が炎に包まれる中、稲屋の組織は驚くべき速さで機能し始めた。大地震で江戸の物流が止まることを見越し、あらかじめ周辺の房総や相模の拠点に備蓄していた米や水、そして怪我人のための薬草が、海路と陸路の両方から続々と運び込まれてきたのだ。
「吾一、こっちは相模の仲間が持ってきた干し魚だ。これを握り飯に混ぜて配るぞ。腹が減っては、火消しも救助もできない」
信三が汗だくで米を研いでいると、そこへ桂庵院のお絹が、桂木とともに傷ついた人々を連れて戻ってきた。
「宗助さん、桂庵院だけでは入りきれません。栽培場の納屋を開けてください。奥州の仲間が届けてくれたあの薬草の煎じ薬、あれが今、何より必要なのです」
お絹の切実な訴えに、宗助は即座に答えた。
「分かった、お絹。あそこには全国から集めた最高級の肥料の代わりに、今は命を救うための寝床を作ろう。染吉父上、許可をいただけますか」
「当たり前だ、宗助。木を育てるのも人を育てるのも、根っこは同じだ。稲屋のすべてを投げ打ってでも、江戸の火を消し、命を繋ぎ止めるんだ」
染吉の決断に、全国から集まっていた弟子の植木屋たちも奮い立った。彼らは単に荷物を運ぶだけでなく、植木屋としての技術を活かし、倒壊した家屋から人々を救い出すために、太い丸太を組んで支えを作り、鮮やかな手際で救出作戦を展開した。
一方、大阪でも大火が起こったとの知らせが入ったが、稲屋の組織はそこでも動いていた。
「大阪の仲間の無事が確認できました。あちらの蔵に預けていた種は無事だそうです。江戸が火の海でも、大阪の種があれば、春にはまた花が咲かせられます」
お美津の報告に、染吉は深く安堵した。一箇所が駄目になっても他で補い合う。この分散の知恵こそが、未曾有の災害の中で希望の光となっていた。
「宗助、見てみろ。火の中でも、人々は絶望していない。房総から水が届き、奥州から食料が届く。自分たちは一人ではないと知っているからだ」
染吉が燃える空を見つめて呟くと、宗助は泥に汚れた手を見つめて答えた。
「父上、僕たちが作ったのは、単なる花の組織ではありませんでした。どんな災害にも負けない、人の心の網の目だったのですね」
夜が明ける頃、江戸の火の勢いはようやく収まり始めた。瓦礫の山となった街の中で、稲屋が配った炊き出しの湯気が、復興への最初の産声のように静かに立ち上っていた。
震災と火事の爪痕が残る江戸の町で、お絹と桂木は、親を亡くした子供たちのために小さな家を借りた。
そこは「青葉の園」と名付けられ、行き場を失った十数人の子供たちが身を寄せることになった。
「お絹さん、まずはこの子たちの心に、温かな火を灯してあげたいですね。体は私たちが治療できても、心の傷は一人では治せません」
桂木が優しく子供たちの頭をなでると、お絹は力強く頷いた。
「ええ、桂木さん。幸い、私たちには最高の家族がついています。みんな、今日からここはお前たちの家ですよ。寂しがらなくていいからね」
その日から、稲屋の家族全員による「青葉の園」での教育が始まった。まずやってきたのは、宗助、信三、吾一の三人。彼らは大八車いっぱいに、瑞々しい花の苗と小さな鉢を積んで現れた。
「さあ、みんな集まって。今日は世界に一つだけの、自分だけの植木鉢を作ってみよう。土を触ってごらん。お日様の匂いがするだろう」
宗助が呼びかけると、最初は怯えていた子供たちも、恐る恐る土を手に取った。
「宗助兄ちゃん、この小さな芽から、本当に大きな花が咲くの」
一人の男の子が尋ねると、吾一が隣で膝をつき、一緒に土を固めた。
「咲くとも。お前が毎日水をあげて、声をかけてやれば、花はお前に応えてくれる。根っこがしっかり張れば、どんな強い風が吹いても負けない木になるんだ。お前たちと同じだよ」
信三は、花の色の組み合わせや、季節の移ろいを子供たちに面白おかしく教えた。泥だらけになって笑い合う子供たちの顔には、少しずつ生気が戻っていった。
一方で、お美津は読み書きと算盤を担当した。
「はい、背筋を伸ばして。文字が書ければ、遠くの誰かに自分の気持ちを伝えられます。数字が分かれば、自分の暮らしを守る知恵になります。お絹さん、この子たちは飲み込みが早いわ」
「お美津さん、文字を覚えた子が、さっそくお亡くなりになった親御さんへお手紙を書いていました。書くことで、心が整理されているようです」
お美津が教える算盤の「願いましては」という小気味よい音が、園内に響き渡る。
ある日の夕暮れ、染吉が様子を見にやってきた。子供たちが大切に育てている鉢植えを一つ一つ眺め、染吉は満足げに目を細めた。
「お絹、いい庭になったな。ここは花を育てる場所じゃない。人を育てる場所だ」
「父上、ありがとうございます。子供たちが、自分の育てた花が咲いた時に、生きていて良かったと言ってくれたんです。私はその言葉が何より嬉しくて」
お絹の目には、熱いものが込み上げていた。
宗助たちが教える土の温もり、お美津が授ける生きるための知恵、そして桂木とお絹が注ぐ無償の愛。
「おじちゃん、見て。タチアオイが、こんなに背が高くなったよ」
一人の小さな女の子が染吉の裾を引くと、染吉はその子を抱き上げた。
「立派だねえ。お日様に向かって真っ直ぐ伸びるんだよ。てっぺんまで咲いたときに梅雨が明けるんだ。お前たちの後ろには、稲屋のみんながついているからね」
震災の悲しみを乗り越え、子供たちは新しい家族とともに、希望という名の根を深く下ろしていった。
第四章
江戸の町が復興の兆しを見せ、活気を取り戻し始めた頃、寺島の稲屋では、これまでの常識を覆す「園芸維新」が幕を開けようとしていた。 染吉が若者たちに与えた課題は、自然の摂理を超えて命を育む「室」の技術を極めることだった。
「父上、私はこの唐室を、江戸で一番陽の光を集める場所にしてみせます」
宗助が取り組んだのは、長崎の知恵を取り入れた唐室の改良。これまでの唐室は、紙を貼った障子窓で光を採っていたが、どうしても熱が逃げ、光が足りなかった。 そこへ、長崎から戻った桂木が、見たこともない透明な板を抱えてやってきた。
「宗助さん、これは長崎で学んだ硝子の製法を応用して作ったものです。これを使えば、冬の凍てつく風を遮りながら、春の陽光だけを中に閉じ込めることができます」
「桂木さん、これは素晴らしい。まるで春を閉じ込めた箱のようだ。これなら、斑入りのオモトや繊細なマツバランも、冬を忘れて美しい葉を広げることができます」
宗助は、硝子窓の角度を太陽の動きに合わせて調整し、江戸で最も明るい温室を作り上げた。
一方、信三は、土の持つ不思議な力に着目していた。彼は地下に深く穴を掘り、年中温度が変わらない「穴室」の研究に没頭していた。
「信三さん、お産の現場でも、赤子を一番に守るのはお母様の体温です。土も同じではないかしら。深く潜れば潜るほど、外の寒さからも夏の乾いた暑さからも、苗を守ってくれるはずよ」
お絹のアドバイスを受け、信三は地下二メートルに及ぶ広大な空間を作り、土の湿り気と温かさを一定に保つ仕組みを考案した。
「見てください、お絹さん。この地下室なら、寒さに弱い南国のナンテンも、霜一つ降りずに冬を越せます。逆に夏は、地中の冷たさが苗の蒸れを防いでくれる。土そのものが、苗のゆりかごになるんです」
信三は、土を温めるために発酵した落ち葉を敷き詰め、その熱で一定の温度を保つ工夫を凝らした。
そして、吾助の息子である吾一は、最も商いの最前線に近い「暖室」に挑んでいた。
「吾一、お正月には誰もが花を欲しがります。でも、自然のままでは梅も桜も間に合わない。どうにかして、江戸の人々に一足早い春を届けてあげたいの」
お美津の商売人としての鋭い視点を受け、吾一は室の中に焚き木で熱を送り込み、強制的に春を呼び起こす促成栽培に心血を注ぎ込んだ。
「お美津さん、見ていてください。この暖室の温度を細かく調整して、花のつぼみを騙すんです。今は冬じゃない、もう春なんだよって、木に語りかけるんですよ」
吾一は昼夜を問わず火の番をし、お美津が計算した「最も高く売れる時期」に合わせて、見事な早咲きの桜や梅を咲かせることに成功した。
「吾一、すごいわ。この雪の降る中で、こんなに瑞々しい桜が咲くなんて。江戸中の大店から注文が殺到するわよ。これこそが、稲屋の新しい力ね」
お美津が目を輝かせて大福帳に筆を走らせると、吾一も誇らしげに胸を張った。
三者三様の「室」が生み出す奇跡を染吉は静かに見守っていた。
「宗助が光を操り、信三が土の慈しみを使い、吾一が時を先取る。これこそが、私が夢見た園芸の未来だ。お前たちが作るこの新しい技術が、やがて来る新しい時代の礎になるだろう」
染吉の言葉通り、稲屋の栽培場は、季節の枠を超えた命の実験場へと進化していった。 外では冬枯れの景色が広がる中、稲屋の生垣の向こう側だけは、色とりどりの花々と鮮やかな緑が、まるで別世界のように輝きを放っていた。
安政七年三月三日、雪の降りしきる桜田門外で、井伊大老が暗殺された。
その衝撃の報せは、一気に江戸の町を駆け抜けた。お城の中が右往左往の大混乱に陥り、武士たちが殺気立つ中で、寺島の稲屋にだけは、植物の呼吸に合わせた静かな時間が流れていた。
物語の頁を、もう一度安政の初めへと戻してみる。江戸の町にまだ不穏な空気が漂い始める前、穏やかな光が差し込んでいた頃のことだった。雪がちらつくある日の午後、寺島の稲屋に、一人の身なりの良い、けれどどこか寂しげな眼差しをした武士がふらりと現れた。供も連れず、ただ一人で庭を眺めるその男こそ、後に大老として歴史に名を刻むことになる、井伊直弼その人だった。
「この庭の沈黙は心地よいな。世の喧騒を忘れさせてくれる」
男が低く、落ち着いた声で呟くと、染吉は作業の手を止めて頭を下げた。
「お褒めいただき、恐悦に存じます。雪を待つ木々も、あのお侍様に見守られて喜んでいるようです」
こうして、歴史の荒波に飲み込まれる前の直弼と、稲屋の人々との静かな交流が始まったのだ。
「お客様。こんな寒い日に、ようこそおいでくださいました」
染吉が声をかけると、男は静かに、庭の隅で寒さに耐えて咲く一輪の椿を見つめていた。
「主殿、この椿は見事だ。花びらの重なり、色の深み。まるで、沈黙の中に熱い血を秘めているようではないか」
男の言葉には、ただの愛好家ではない、深い造詣が感じられた。染吉は、この客がただ者ではないと直感し、温かい茶を差し出した。
「お詳しいですね。それは雪椿の類で、私が特に大切にしているものです。冬の厳しさを知るものほど、その赤は美しくなると信じております」
男は茶を受け取ると、ふっと表情を和らげた。かつて近江の埋木舎で、世に出る当てもなく、ただひたすらに茶道や歌、そして草花を友として過ごした日々の記憶が、その瞳に宿っていた。
「左様。花は偽りをつかぬ。世の中は理不尽な風が吹き荒れるが、土に根を張るものは強い。……実はな、私は薬草にも少々興味があってね。この稲屋には、珍しい種があると聞いた」
そこへ、若き日のお絹が薬草の籠を持って通りかかった。男は、お絹が持っていた萩の枯れ枝を指差した。
「娘さん、その萩、根を傷めぬように。秋になれば、それは見事な風情を見せるはずだ。私の故郷の寺にも、風に揺れる萩の名所があってな。私は、あの儚げで、けれど決して折れぬ姿が好きなのだよ」
お絹は、大物然とした客の優しい言葉に、思わず足を止めた。
「まあ、お侍様。萩の良さを分かってくださるなんて。このお方は、お花たちの心をご存知なのですね」
男は小さく笑い、懐から一通の文を取り出した。それは、自らが愛した女性へ宛てた、椿の花を添えるための恋文のようだった。
「私はね、いずれ大きな決断を迫られる時が来るだろう。その時、世間は私を鬼と呼ぶかもしれない。けれど、私の心の中には、いつもこの埋木舎で愛でた花々が咲いているのだ。それだけは、誰にも汚させはしない」
男はそう言うと、染吉が勧めた椿の鉢植えを、愛おしそうに両手で抱えた。
「この椿を譲ってもらおう。これから来る厳しい冬を、この花と共に越えることにする」
男は正当な対価を支払い、名も名乗らずに立ち去った。 その数年後、桜田門外の雪の中で男が倒れたという報せを聞いた時、染吉はあの日の静かな会話を思い出していた。
世間が「赤鬼」と呼び、安政の大獄で多くの血を流したと断じた井伊直弼。 けれど、稲屋の記憶には、一本の萩を慈しみ、椿の赤に己の孤独を重ねた、一人の繊細な風流人の姿が刻まれていたのだ。
「染吉さん、あのお侍様、最後にこう仰ったわ。『花を育てる者は、命の重さを知る者だ。いつか平和な世が来たら、この国中を花でいっぱいにしろ』って」
お絹と染吉は雪が舞う空を見上げた。
井伊直弼が稲屋を去った後、彼が残していったのは一鉢の代金以上の、深い慈しみの心だった。 直弼が手放さなかった椿の鉢の隣に、彼は一包みの古びた紙袋を置き忘れていったのだ。 お絹がそれに気づいて中を開けると、そこには見たこともないほど丁寧に分類された、数十種類の薬草の種が入っていた。
「染吉さん、これを見てください。ただの種ではありませんわ。一つ一つに、効能と育て方が細かな筆遣いで記されています」
お絹が驚いて声を上げると、染吉も身を乗り出してその紙を覗き込んだ。 そこには、埋木舎で孤独な日々を過ごした直弼が、民の病を救いたいと願いながら書き溜めた、薬草の知恵が凝縮されていた。
「これは驚いた。あのお方は、大名というお立場にありながら、土にまみれる民の苦しみを、これほどまでに我がこととして捉えておられたのか。この種は、いずれ世の中が乱れた時に、人々を救う助けになるはずだ、という書き置きまで添えられているぞ」
さて、視線は再び、今の作業場、室作りへ。
ある日、桂木とお絹が、青葉の園で暮らす子供たちを連れて栽培場へやってきた。
「みんな、今日は驚くような魔法を見せてあげるよ。外はこんなに寒いけれど、稲屋の兄さんたちは冬の中に春を作っているんだ」
桂木が優しく語りかけると、子供たちは期待に胸を膨らませて、三つの不思議な室を回ることになった。
まず向かったのは、宗助の唐室。入り口の硝子戸が開いた瞬間、子供たちの口から「わあ」という歓声が漏れた。
「見て、お兄ちゃん。お日様が箱の中に閉じ込められているみたい。外よりずっと明るいよ」
お町が目を丸くして叫ぶと、宗助が硝子を磨きながら微笑んだ。
「これはね、お町。硝子の力で光を透かし、風を跳ね返しているんだ。ほら、このマツバランの斑を見てごらん。光がたっぷり当たるから、こんなに綺麗な模様が出るんだよ」
太助は、宗助の手元を食い入るように見つめていた。
「宗助兄ちゃん、俺にもできるかな。光を集めて、こんなに綺麗な葉っぱを育ててみたい」
「太助、いい目をしてるな。光を読み、葉の声を聴く。それができれば、お前は立派な職人になれるぞ」
次に訪れた信三の地下室では、与一と昌介が、土の温もりに度肝を抜かれた。
「なんだこれ。地面の下なのに、お布団の中みたいに暖かいや。信三兄ちゃん、どうして」
与一が驚くと、信三は足元の落ち葉を指差した。
「これはね、落ち葉が発酵して熱を出しているんだ。お絹さんが教えてくれたんだよ。お母さんの体温と同じで、土も工夫すれば命を温めてくれるって。ここで寝ているナンテンの苗は、春までずっと心地よく夢を見ているんだ」
昌介は土を直接触り、その湿り気と柔らかさに、自分の居場所を見つけたような顔をした。
「俺、土の番人になりたい。冬の間、苗が凍えないように守ってあげたいんだ」
「昌介、与一。土は嘘をつかない。お前たちが手をかけた分だけ、根っこは強く育つんだ。一緒にこの穴室を守ってくれるか」
信三の言葉に、二人は力強く頷いた。
最後に辿り着いたのは、吾一の暖室。そこには、正月の雪を忘れさせるような、満開の梅と早咲きの桜が咲き誇っていた。
「すごい。お正月はまだ先なのに、もうお花見ができる。吾一兄ちゃんは時を操る神様なの」
勝吉と吉蔵が興奮して走り回ると、吾一はお美津と顔を見合わせて笑いあった。
「神様じゃないよ。火を焚いて、木を少しだけ早く起こしてあげているんだ。でも、ただ熱くすればいいわけじゃない。加減を間違えれば、つぼみは死んでしまうんだよ」
お美津がそろばんを弾きながら付け加えた。
「吉蔵、勝吉。商売は、人が一番欲しがる時に届けるのが肝心なの。でも、そのためには、この木たちが無理をしていないか、毎日細かく見てあげなきゃいけないのよ」
「僕、火を焚くよ。江戸の人たちがびっくりして喜ぶ顔が見たいんだ。吾一兄ちゃん、弟子にして」
子供たちの瞳には、親を亡くした悲しみの影は、もうなかった。自分たちの手で何かを育て、新しい命を生み出すという喜びに、自立の心が芽生えていたのだ。
その様子を後ろで見守っていた染吉が、桂木に向かって静かに語りかけた。
「桂木さん、あの子たちの目は、もう立派な植木屋の卵だ。世の中は血なまぐさい噂で持ち切りだが、ここでは新しい命が、土と光と熱を学んでいる。人を育てるのは、花を育てるのと同じだ」
「ええ、染吉さん。あの子たちは、花の世話を通じて、自分たちもまた、誰かに必要とされている大切な命なのだと気づいたようです」
世情がどれほど揺れ動こうとも、稲屋の室の中では、次代を担う小さな若葉たちが、確かな志を持って根を伸ばし始めていた。
師走の風が冷たく吹き抜ける江戸の町に、威勢のよい掛け声が響き渡った。 それは、稲屋の若者たちに引き連れられた、青葉の園の子供たちによる初めての植木市の始まりだった。
「さあ、いらっしゃい。僕たちが室で大切に育てた、冬を忘れた花たちですよ」
太助とお町が、硝子の唐室で磨き上げたマツバランの鉢を抱え、大八車の先頭を歩いた。 その後ろには、地中の温もりで霜一つつけずに育てたナンテンを持つ与一と昌介。 そして、吾一に教わった暖室の技で、見事に紅い花を咲かせた梅の鉢を大切に抱える勝吉と吉蔵が続いた。
「まあ、こんなに寒いのに、なんて綺麗な梅なのかしら。まるでお正月がもう来たみたいね」
通りかかった長屋のおかみさんが足を止めると、勝吉が誇らしげに、けれど丁寧に鉢を差し出した。
「おかみさん、これは僕たちが夜も眠らずに火を焚いて、ゆっくり起こしてあげた梅なんです。この香りを嗅げば、風邪もどこかへ飛んでいっちゃいますよ」
「まあ、頼もしいこと。一ついただく。家の中に春が来るわね」
一鉢、二鉢と売れていくたびに、子供たちの顔には、これまで見たこともないような自信が溢れてきた。
震災で家を失い、親を亡くし、一度は生きる希望を失いかけた彼らにとって、自分の手で育てた命が誰かを笑顔にするという経験は何よりの薬だった。
「宗助兄ちゃん、分かったよ。おいらは助けてもらっただけじゃない。こうして花を通じて、誰かに元気をあげられるんだね」
太助がしみじみと呟くと、宗助は力強くその肩を叩いた。
「そうだよ、太助。お前が毎日硝子を拭いて、光を届けてあげたから、この葉っぱはこんなに輝いているんだ。お前の努力は、ちゃんとこの子が覚えているよ」
植木市の一角では、昌介が年老いた商人に、穴室で育てたナンテンの育て方を熱心に説いていた。
「おじいさん、この子は土の中の温かさを知っているから、急に寒い外に出すとびっくりしちゃうんだ。夜は少し暖かい場所に置いてあげてね」
「ほう、詳しいもんだ。お前さんのような優しい子に育てられたなら、この木も幸せだ。大事にするよ」
子供たちは、売上の銅銭を受け取るたびに、お美津に教わった通り、深々と頭を下げた。 その様子を遠くから見守っていたお絹は、隣に立つ桂木にそっと語りかけた。
「桂木さん、あの子たちを見てください。花を育てることで、自分たちがこの世界にいてもいいんだって、自分の足で立っていいんだって、確信したみたいですわ」
「ええ、お絹さん。命を慈しむ者は、自らの命の尊さにも気づく。あいつらはもう、震災の被害者ではなく、江戸の未来を照らす小さな庭師たちですね」
夕暮れ時、完売した空の大八車を囲んで、子供たちは栽培場の奥にある古い梅の木に向かって手を合わせた。
「お花さん、ありがとう。おいらたちに勇気をくれてありがとう。明日からも、もっともっと大切に育てるからね」
吉蔵が小さな声で感謝を捧げると、他の子たちも一斉に頷いた。 彼らにとって花は、単なる売り物ではなく、絶望の淵から救い出し、自立という光のさす方へ導いてくれた、生涯の戦友だった。
染吉は、その光景を大福帳を閉じて見つめていた。
「吾助、見ろ。あの子たちの根っこは、もう誰にも抜けないほど深く、江戸の土に張ったようだ。稲屋の園芸維新は、あの子たちの心の中で、一番先に花開いたな」
「へえ、師匠。これからの江戸がどう変わろうと、あの子たちがいる限り、この町の緑は安泰ですぜ」
若者たちと子供たちの笑い声が、冷たい冬の空気を溶かすように、寺島の夜に温かく広がっていった。
春の気配が地下の穴室にまで届き始めた頃、信三とお町の間には、なんとも微笑ましい空気が漂っていた。
信三は相変わらず土にまみれて地下室の研究に余念がなかったが、弟子の太助と一緒に唐室から手伝いに来るお町の視線は、いつしか苗木よりも信三の横顔に向けられるようになっていた。
「信三さん、またそんなに泥だらけになって。穴室の温度ばかり気にして、ご自分の体が冷えているのに気づかないんですから」
お町が甲斐甲斐しく手ぬぐいで信三の頬を拭うと、信三は大きな体を縮めて真っ赤になった。
「あ、ありがとう、お町ちゃん。でも、この土の湿り気がちょうどいいんだ。お町ちゃんが来てくれると、地下室まで陽が差したように明るくなるなあ」
「もう、信三さんは土のことしか言えないんですから。ほら、お茶を淹れましたよ。これは唐室の陽だまりで温めておいたんです」
二人の様子を、穴室の入り口から宗助と太助がニヤニヤしながら覗き見していた。
「おい、宗助兄さん。うちのお町は、信三兄さんのことを完全に苗木の一種だと思ってるんじゃないか。あんなに熱心に世話を焼いて」
「太助、あれは手入れじゃなくて愛だよ。信三のやつ、地下にばかり潜っているから、お町という可愛い花が地上で待っていることにようやく気づいたらしいな」
一方で、もっと派手な騒動が巻き起こっていたのは、暖室を任されている吾一の周辺だった。
ある日、お美津の命を受けて、早咲きの桜を旗本の神保家へ届けた吾一は、そこで運命の出会いを果たしてしまった。 神保家の一人娘、お富は、玄関先に現れた吾一を一目見た瞬間、雷に打たれたように固まってしまったのだ。
「……まあ。なんという、涼やかなお顔立ち。母上、あの方はどなた」
お富が震える声で尋ねると、吾一は母譲りの整った顔立ちで、爽やかに微笑んだ。
「稲屋の吾一と申します。お美津の言いつけで、一足早い春を届けに参りました。お嬢様、この桜はまだ蕾ですが、部屋を暖かくしておけば、三日後には満開になりますよ」
その声、その仕草。お富はすっかり恋の病に落ちてしまった。 それからというもの、神保家からは毎日のように「花が萎れた」「枝振りが気になる」と、難癖に近い呼び出しが稲屋に入るようになった。
「吾一さん、見て。あなたが届けてくれた桜が、私の胸の動悸に合わせて震えているようなの。これは病かしら、それとも桜の呪い」
「お嬢様、それは単に風が吹いているだけかと思いますが。そんなに近くで見つめられると、桜も照れてしまいますよ」
吾一は困り果てた顔をしながらも、お美津譲りの機転と愛嬌で、お富の猛烈な誘いをさらりとかわす。 しかし、お富の情熱は止まらず、ついにはお美津の元へ直談判にやってきた。
「お美津様。私、吾一さんのためなら、旗本の身分も捨てて稲屋の肥溜めを担いでも構いません。どうか、嫁にしてください」
お美津は算盤を置くと、美しく目を細めて笑った。
「お富様、それは頼もしいことですこと。でも、うちの吾一は花に恋をしているような男ですよ。お富様が、あの早咲きの梅よりも美しく咲いてくださらなければ、彼を振り向かせるのは難しいかもしれませんわね」
お美津の言葉に、お富は「望むところです」と目を輝かせ、翌日から園芸の修行をすると言い出した。
「お師匠、大変なことになりました。お富様が、振袖をまくって暖室の薪割りを手伝うって聞かないんです」
吾一が染吉に泣きつくと、染吉は腹を抱えて笑い出した。
「いいじゃないか、吾一。花を愛でるお嬢様が、泥にまみれて恋を育てる。これこそ、お前が作った新しい春の形だ。お美津殿に、しっかり仕込んでもらうんだな」
信三とお町のほのぼのとした地下室の恋と、吾一とお富の騒々しい暖室の恋。 不穏な世情などどこへやら、稲屋の周辺には、季節外れの熱い春の風が吹き荒れていた。
神保家のお嬢様、お富の勢いは、もはや誰にも止められなかった。 毎日、お付きの者を振り切っては稲屋に現れ、暖室の前で薪を抱えて立ち尽くす姿は、寺島の名物になりつつあった。
「吾一さん、見てください。この薪の割り方、少しは様になってきたでしょう。お武家の娘だって、愛する人のためなら力持ちになれるのです」
お富が必死に斧を振るうと、吾一は慌ててその手から道具を取り上げた。
「お富様、そんなことをしては指に豆ができてしまいます。旗本の姫君が泥塗れでは、お父上になんと申し開きをすればよいか」
「父のことなど構いません。あの方は徳川の世を守るのに必死です。私は吾一さんと共に、この暖室の火を守りたいのです。、私を稲屋の女にしてくださいな」
お富の真っ直ぐすぎる告白に、吾一はたじたじ。しかし、そんな彼女の熱意に、吾一の職人としての魂も動かされた。 吾一は、お富のために特別な花を育てることを決意した。
「お富様、そんなに仰るなら、この鉢を見てください。これは、寒さの中でも決して色褪せず、夜にだけ特別な香りを放つセッコクです。お富様の情熱を込めて、私が品種を改良しました。名は『お富紅』と名付けようと思います」
「……お富紅。私の名前がついた花。ああ、吾一さん。なんて粋なことを」
お富は感激のあまり、その場で泣き崩れてしまった。 その様子を、お美津が建物の影から満足げに眺めていた。
「ふふっ、あのお嬢様、なかなかの根性だわ。吾一、あそこまで惚れ抜かれたなら、もう逃げられませんよ。さあ、身分という高い垣根をどう飛び越えるか、見せてもらいましょうか」
そして数日後、世間を揺るがす大事件が起きた。 神保家の屋敷からお富が姿を消し、手紙一通だけが残されていたのだ。
「私は武士の娘を辞め、一輪の花として生きます」
お富は、目の覚めるような美しい振袖を脱ぎ捨て、お美津から借りた地味な木綿の着物に着替えて稲屋に現れた。
「吾一さん、来ちゃいました。今日から私は、神保富ではなく、稲屋の富です。さあ、まずはどの肥溜めを運べばよろしいの」
「お、お富様。本当に屋敷を出てきてしまったのですか。そんな、無茶な」
吾一が腰を抜かさんばかりに驚いていると、染吉がどっしりと奥から出てきた。
「吾一、覚悟を決めろ。命を懸けて逃げてきた花を、枯らすわけにはいかないだろう。お富さん、よく来た。今日からお前は、この稲屋の家族だ」
「お師匠様。ありがとうございます。私、精一杯働きます」
お富はさっそく、お美津の隣で算盤の稽古を始めたが、その数字の速いこと。さすがは武家の娘、教育の土台が違った。
「あら、お富さん。あなた、算盤の筋が良いわね。これなら吾一の商売を、百人力で支えられる」
「お美津様、いえ、お義母さま。私、吾一さんの『お富紅』を江戸一番の花にするのが夢なんです」
その夜、暖室の火を見守る吾一の隣に、お富が静かに座った。 外では幕府の行く末を案じる武士たちが忙しく走り回っていたが、この二人の間には、身分を超えた、どこまでも明るい春が訪れていた。
「吾一さん。世の中がどう変わっても、私はあなたと一緒に、新しい花を咲かせ続けます」
「お富さん。いや、お富。分かったよ。二人で、この国の園芸を塗り替えよう」
二人が握りしめた手の中には、どんな時代の荒波にも負けない、強い愛の種が握られていた。
翌日、寺島の稲屋に、雷が落ちたような怒号が響き渡った。 お富の父、旗本の神保平左衛門が、数人の家臣を引き連れて乗り込んできたのだ。
「娘を返せ。不届き千万な植木屋め、我が神保家の家名を汚すつもりか」
平左衛門が玄関先で刀の柄に手をかけたその時、信三が慌てて地下の穴室から顔を出した。その腕には、ちょうど手入れを終えたばかりの一鉢のオモトが抱えられていた。
「静かに。どうか静かにしてください。今、このオモト様は地下の眠りから覚めたばかりで、とても繊細なのです」
信三が必死の形相で差し出したその鉢を見た瞬間、平左衛門の動きが止まった。 それは、信三が心血を注いで育て上げた、葉に美しい白い虎斑が入った見事なオモトだった。
「……これは。まさか、権現様、家康公が江戸城に入られる際に最も愛でられたという、あの伝説の種か」
平左衛門は刀を放り出し、吸い寄せられるように鉢の前に膝をついた。信三は、武士の形相が変わったことに驚きながらも、一生懸命に説明を続けた。
「はい。これは家康公ゆかりの株を、代々守り抜いてきたものです。地下の適度な温もりと湿り気が、この気品ある斑を生むのです。お侍様、この美しさは、どんな宝物にも代えられません」
平左衛門は、震える手でオモトの葉に触れようとして、慌てて手を引っ込めた。その瞳には、すでに怒りの炎はなく、陶酔しきった輝きが宿っていた。
「見事だ。今の幕府は、あっちで騒動、こっちで暗殺と、権現様の教えを忘れ、泥沼の有様。だが、このオモトには、徳川の平和の根源がそのまま息づいているではないか」
お富が奥から恐る恐る顔を出すと、父、平左衛門は驚くべきことを口にした。
「お富よ。お前がここへ来た理由が、今ようやく分かった。お前は、この聖なる植物を守るために、神保家を捨てたのだな。……よし、決めた。私も隠居する。今日から私は、旗本ではない。オモトの守護職だ」
これには、隠れて様子を伺っていた染吉もお美津も、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「お、お父上。隠居して弟子入りだなんて、冗談でしょう。お家はどうなさるのです」
お富が駆け寄ると、平左衛門は晴れやかな顔で笑った。
「家など、息子に継がせればよい。今の乱れた幕府を守るよりも、権現様の愛したこの一鉢を守る方が、徳川への忠義というものだ。信三殿、いや、信三師匠。どうか私を、地下室の番人にしてください」
「し、師匠だなんて。お侍様、困りますよ」
信三が弱り果てていると、染吉がのっそりと出てきて、平左衛門の目を見据えた。
「神保様。植木屋の修行は、お武家の鍛錬よりも厳しいですよ。まずはその立派な着物を脱いで、土を運ぶことから始めていただきますが、よろしいかな」
「望むところだ。江戸の平和は、この小さな鉢の中から立て直して見せる」
それからというもの、寺島の栽培場には、元旗本とは思えないほど熱心に土をいじる平左衛門の姿が見られるようになった。 彼は、武士特有の生真面目さをすべてオモトの観察に注ぎ込み、ついに葉のわずかな色の変化で翌日の天気を当てるまでになった。
「信三師匠。見てください。この三光斑の輝き。これこそが徳川の栄光そのものですな。お美津さん、今日の私の水やりは、百点満点でしょう」
「ええ、平左衛門さん。でも、お喋りしている暇があったら、あっちの肥料を運んでくださいな」
お美津にこき使われながらも、平左衛門は「へへーっ」と嬉しそうに走り回っている。 やがて彼は、江戸中の愛好家から「神保のオモト名人」と敬意を持って呼ばれるようになった。
刀を捨て、鋏と土を手にした元武士。 激動の幕末、誰もが血を流して争う中で、平左衛門は稲屋の地下室という小さな楽園で、誰よりも純粋に、権現様の平和を慈しんでいた。
ある日、寺島の稲屋に、黒塗りの立派な長持をいくつも担いだ、ものものしい役人の一団がやってきた。 先頭に立つ御納戸役の役人は、額の汗を拭いながら、門前で土を運んでいた信三に詰め寄った。
「ここか。神保平左衛門殿がおられるのは。あ、いや、失礼した。オモト名人がおられるのは、こちらで間違いないか」
信三が呆気に取られていると、奥から泥だらけの着物に前垂れ姿の平左衛門が、嬉々として走ってきた。
「なんだ、騒々しい。今、私はオモト様と心の対話をしていたところだぞ。……おや、貴殿は確か、お城の役目方の」
「平左衛門殿。いや、名人。お願いでござる。お城の奥深くにある、あのお宝のオモトたちが、全滅の危機に瀕しているのです。今の江戸城は政の混乱で、腕の良い植木師も皆逃げ出し、見るに堪えぬ有様。どうか、稲屋の地下室で預かってはいただけぬか」
役人が泣きつかんばかりに訴えると、染吉とお美津も様子を見に出てきた。長持の中から現れたのは、元気がなく葉が黄色く変色した、数鉢の格式高いオモトだった。
「おやおや、これはひどい。お城の空気まで淀んでいるのかしらね。こんなに萎えてしまって、権現様がご覧になったら泣いてしまわれますわ」
お美津が呆れたように言うと、平左衛門が鉢を覗き込み、雷のような声を上げた。
「なんたることだ。この『都の城』が、こんなに痩せ細って。貴殿ら、お城で何をしていた。刀を振り回す暇があったら、なぜ水をやらん。なぜ土の声を聴かん」
「申し訳ござらん。今の城内は、異国の船が来たの、浪士が暴れたのと、花を愛でる余裕など一寸もありませぬ。このままでは徳川の宝が枯れてしまう。名人、お助けを」
役人が地面に手をつくと、平左衛門は信三の顔を見た。
「師匠、どうします。これはもはや、江戸城の避難勧告です。お城に置いておくより、我が稲屋の地下室で、子供たちと一緒に育てる方が、この子たちも幸せというもの」
信三は、染吉の顔を窺ってから、力強く頷いた。
「分かりました。お預かりしましょう。ただし、お城の流儀は持ち込まないでください。ここでは、土が一番偉いんですから」
それからというもの、稲屋の栽培場は、お城から「避難」してきた名品たちで溢れかえった。 青葉の園の子どもたちも、お城のオモトと聞いて興味津々で集まってきた。
「ねえ、平左衛門おじちゃん。このオモト、お城にいたのにお腹を空かせてたんだね。僕たちが美味しい肥料をあげれば、元気になるかな」
太助が葉を優しく撫でると、平左衛門は満足げに鼻を鳴らした。
「そうだぞ、太助。お城の殿様たちが忘れてしまった真心を、お前たちが教えてやるんだ。権現様も、立派な御殿より、お前たちの笑い声が聞こえるこの地下室の方が、居心地が良いと仰っているはずだ」
「あら、平左衛門さん。あまりお城の悪口を言うと、またお役人が飛んできますよ。さあ、子どもたち。お城のオモト様に、稲屋の特製スープを飲ませてあげましょうね」
お美津が明るい声をかけると、子どもたちは我先にとじょうろを手に取った。 政情不安で揺れる江戸城を尻目に、稲屋の地下室では、元旗本と子どもたちが肩を並べ、徳川の至宝を救うために汗を流していた。
「見てください、師匠。この葉の艶。稲屋の土を喰らって、お城の時より若返りましたぞ。ははは、ざまあ見ろというものですな。五葉松も生き返りましたな」
「平左衛門さん、言葉が過ぎますよ。でも、本当に見違えましたね」
信三は苦笑いしながらも、平左衛門の変わりようと、オモトの生命力に深く感銘を受けていた。 動乱の幕末。お城の威信は落ちても、稲屋の地下室に避難した緑の命だけは、かつてない輝きを取り戻そうとしていた。
勝海舟と篤姫
春の訪れを感じさせる柔らかな日差しが、寺島の稲屋に降り注いでいた。 そんな昼下がり、質素な身なりをしながらも、隠しきれない気品を漂わせた女性が、一人の小柄な男を連れて現れた。
「ここが、噂に聞く稲屋か。勝、あまり騒ぎ立てるなよ。私はただ、お城から移された五葉松やオモトたちの息遣いを感じに来ただけなのだから」
「分かっておりますよ、御台様。いえ、お篤さん。ここの職人たちは、お城の役人よりずっと話が分かりますから、ご安心を」
勝海舟がおどけた調子で案内すると、地下の穴室から、泥にまみれた平左衛門が這い出してきた。
「なんだ、勝ではないか。お城の騒ぎはどうした。私は今、最高に機嫌が良いのだ。見てみろ、このオモトの輝きを」
元旗本の平左衛門が、篤姫とは知らずに誇らしげに鉢を差し出すと、篤姫はその見事な斑入りの葉に目を奪われた。
「まあ、なんと力強い。お城の奥底で、今にも消えそうだったあの命が、これほどまでに瑞々しく蘇るとは。オモト名人、平左衛門殿、お前の手は魔法の手か」
「いえ、私ではありません。この土、そして毎日一生懸命に世話をする子供たちの真心が、この子を救ったのです」
篤姫が周囲を見渡すと、お絹に連れられた子供たちが、珍しいお客人を不思議そうに見つめていた。太助とお町が、大切に育てている小さな鉢を抱えて歩み寄る。
「お姉さん、見て。このオモト、お城にいた時は泣いていたけど、今はもう笑っているんだよ。僕たちが毎日、おはようって声をかけているから」
子供たちの純粋な瞳と、稲屋に満ちる穏やかな空気。それは、戦の足音が近づく江戸の町にあって、信じられないほど尊い景色だった。 篤姫は屈み込み、子供たちが抱える鉢を優しく撫でた。
「そうか、お前たちが笑わせてくれたのか。勝、見なさい。この小さな鉢の中に、私が守るべき江戸の真の姿があります。古い制度が壊れようと、この子供たちの笑顔と、土を愛でる心を絶やしてはならない」
勝海舟は、空を見上げて深く頷いた。
「御台様、仰る通りです。私は西郷と話をつけてきます。この江戸を、この稲屋の庭のような平和な場所を、火の海にしてたまるもんですか。鉄砲や大砲を並べるより、この一鉢のオモトを守る方が、よほど未来のためになりますな」
そこへ、お美津が温かい茶を運んできた。
「まあ、勝様。そんなに怖い顔をしていては、お花が驚いてしまいます。お篤様も、どうぞ召し上がれ。ここの土が育てた、命の味がしますよ」
お美津の明るい言葉に、篤姫はふっと表情を和らげ、茶を一口啜った。
「お美津と言ったか。良い場所だな。お前たちがこうして命を慈しんでいる限り、江戸は滅びない。私は決めたわ。徳川の役目としてではなく、この子たちの未来を守るために、私は最後まで江戸を離れない」
「私も腹が決まりました。江戸城の明け渡し、血を流さずにやってみせましょう。この五葉松やオモトたちが、またお城へ胸を張って戻れる日のためにね」
勝海舟の言葉には、いつになく強い覚悟が宿っていた。 一国の主であった女性と、時代の舵を握る男。 二人は、稲屋の地下室で育つ小さな命を通じて、守るべきものの本質を確信した。
「お絹さん。私たちは、新しい時代が来ても、この平和な庭を広げていきましょうね」
お絹が微笑んで答えると、子供たちの笑い声が、春の風に乗って高らかに響いた。 殺伐とした世情の中で、稲屋だけは、どんな大きな権力よりも強い、命の光で満たされていた。
江戸の町に、ついに官軍が近づいているという報せが届いた。
一触即発の緊張感が漂う中、染吉の栽培場には、宗助、信三、吾一、そして元旗本の平左衛門が集まり、かつてない規模の相談をしていた。
「父上、江戸が火の海になれば、この名木や種もすべて灰になります。今こそ、私たちが作った全国の組織を動かす時です」
宗助が力強く言うと、染吉は深く頷いた。
「ああ、江戸の園芸の火を絶やすわけにはいかない。全国に散った弟子たちに合図を送れ。船と馬を総動員して、命を逃がそう」
そこへ、篤姫からの密使が染吉の元へ届いた。篤姫は自分の出身である薩摩藩の動向を密かに察知し、軍勢の通らない安全な道を記した地図を届けてくれたのだ。
「宗助、御台様からの地図だ。この道を通れば、西の方角へ苗を運べる。薩摩の軍勢も、この路地には踏み込まないよう手配してくださるそうだ」
「勝先生も、隅田川に船を用意してくれた。吾一、お前は船頭たちをまとめてくれ。信三と平左衛門さんは、地下室の至宝を運び出すんだ」
指示が飛ぶと、稲屋の門前には続々と各地から仲間が集まってきた。かつて染吉から花の育て方を教わり、今は地方で植木屋を営む元弟子たちが、主人の危機を聞きつけて駆けつけたのだ。
「お師匠さん、房総から船を出しました。江戸の名木、私たちが命懸けでお預かりします」
「信州の山奥に、苗を隠すのに最適な場所を確保しました。あそこなら官軍も来ません」
頼もしい声が次々と上がり、江戸中から集められた貴重な鉢植えや、門外不出の種が次々と荷台に積み込まれていった。 隅田川の岸辺では、勝海舟が腕を組んで指揮を執っていた。
「おい、急げ。夜明けまでに荷積みを終えろよ。江戸の文化を船に乗せて逃がすんだ。これは鉄砲玉より重い荷物だからな」
吾一は、勝が手配した蒸気船や和船に、手際よく苗木を運び込んでいった。お富も着物の裾をまくり、重い土袋を抱えて走り回っている。
「お富さん、無理をしないで。それは重すぎるよ」
「いいえ、吾一さん。私も稲屋の女です。権現様の愛したオモトを、一鉢だって戦火に合わせるわけにはいきません」
地下室では、平左衛門が涙を流しながら、お城から預かったオモトを丁寧に梱包していた。
「師匠、この子たちは我ら武士の魂そのものです。必ずや平和な世に戻し、またお城の土へ帰してやりましょうぞ」
「平左衛門さん、大丈夫ですよ。全国の仲間たちが、この子たちの里親になってくれます。さあ、最後の一鉢です」
信三と平左衛門が固く握手を交わし、最後の大八車が稲屋を出発した。 夜明け前、霧の立ち込める隅田川を、数十隻の船が静かに下って行った。それは、江戸の園芸二百年の歴史を未来へ繋ぐ、決死の船団だった。
「父上、行きましたね。種も苗も、みんな無事に江戸を離れました」
宗助が染吉の隣に立つと、染吉は静かに微笑んだ。
「これでいい。形ある庭は壊されても、土と種さえあれば、どこでもまた花を咲かせられる。お前たちが作ったこの絆こそが、一番の宝物だ」
篤姫が守り、勝海舟が道を拓き、名もなき植木屋たちが命を運んだ大作戦。 江戸の町を戦火から守るための無血開城の裏側で、もう一つの、緑の命を守り抜く物語があったのだ。
船団を送り出し、少しだけ静まり返った寺島の栽培場だったが、まだ江戸の夜は明けていなかった。江戸城が無血で引き渡されるという約束が交わされたものの、町には依然として彰義隊を名乗る不満分子や、血気盛んな若侍たちがうろつき、殺伐とした空気が漂っていた。
染吉は、空になった棚を眺めながら、残ったわずかな苗木に水をやっていた。
「宗助、江戸から植物を逃がしただけで終わっちゃいけない。これからが本当の踏ん張りどころだ」
「父上、まだ何かできることがあるのですか。名木はすべて運び出しましたが」
「ああ。避難させたのは、いわば特別な宝物だ。だが、この江戸の長屋の軒先に置かれている名もなき鉢植えや、路地裏の夾竹桃はどうなる。それらが焼かれれば、江戸の庶民の心まで灰になってしまう」
染吉の言葉に、宗助、信三、吾一の三人は顔を見合わせた。避難作戦はあくまで「守り」だったが、染吉が見据えていたのは、混乱の中で傷つく「江戸の心」の救済だった。
「お師匠さん、それなら俺たちに考えがあります。お絹さんの桂庵院と協力して、町中に『花の救護所』を作りましょう」
吾一が提案すると、お美津がすぐに帳面を広げた。
「それは名案ね。大きな木を運ぶのは無理でも、長屋の人たちが大切にしている小さな鉢植えを預かったり、代わりに手入れをしてあげたりする場所を作るの。そうすれば、逃げ惑う人たちも、自分の宝物が無事だと思えば少しは安心できるわ」
翌日から、宗助たちは江戸の各所に「稲屋・預かり所」の看板を掲げた。そこには、お絹が桂木とともに、被災した人々のために用意した炊き出しの粥や、傷薬も備えられていた。
「おばあさん、その朝顔の鉢、うちに預けてください。火が来ない安全な場所に置いて、毎日水をやっておきますから。安心して避難してください」
信三が路地裏で声をかけると、震えていた老女は涙を流して感謝した。
「ああ、植木屋さんの稲屋だね。家は焼けてもいいけど、亡くなったじいさんが可愛がっていたこの鉢だけは……。ありがとう、本当にありがとう」
お絹も、怪我人の手当てをしながら、人々に語りかけていた。
「皆さん、命さえあれば、また花は咲きます。稲屋の兄さんたちが、皆さんの思い出を預かってくれています。どうか、諦めないでくださいね」
一方、平左衛門は、かつての武士仲間が殺気立って町を歩いているのを見かけると、あえて泥だらけの姿で立ち塞がった。
「おい、平左衛門ではないか。何をしている、その汚い格好は。今こそ刀を持って戦う時ではないのか」
「馬鹿を言え。私は今、刀より重い『命の鉢』を運んでいるのだ。貴殿らが壊そうとしているこの町には、何万もの小さな命が息づいている。それを守るのが、真の武士の務めではないのか」
平左衛門の堂々たる物言いに、浪士たちは毒気を抜かれたように去っていった。 彼が行っていたのは、武力による制圧ではなく、誇りによる説得だった。
お美津は、混乱で物価が上がる中、備蓄していた米を惜しみなく放出し、花の預かり所に集まる人々を支えた。
「お富さん、計算はいい。今は損得を考える時じゃないわ。江戸の人の恩を、この算盤より大切にする時なのよ」
「はい、お美津様。私、この江戸の人の温かさが大好きです。お父様が守ろうとした徳川の世は、こんなに優しい人たちの集まりだったのですね」
江戸城の門が開く直前の数日間、稲屋の家族と弟子たちは、文字通り江戸の町を駆け巡り、数え切れないほどの「小さな幸せ」を救い上げた。 それは歴史の教科書には載らない、名もなき庶民たちの園芸維新だった。
上野のお山の方角から、腹に響くような大砲の音が地鳴りとなって伝わってきた。 江戸の空は黒い煙に覆われ、初夏の風は硝煙の臭いを運んでくる。
そんな嵐のような騒乱の中、寺島の稲屋の門を叩く、力ない音がありました。
「誰か、誰かおらぬか」
倒れ込むように現れたのは、彰義隊の羽織を着た一人の若い武士だった。 脇腹からはどくどくと血が溢れ、その手には折れた刀が握りしめられていた。 桂木とお絹がすぐさま駆け寄り、男を抱え上げた。
「しっかりしてください。今、傷を手当てします。お絹さん、止血の布を。それから清い水を」
桂木の指示で、お絹は震える手を押さえながら、男を清潔な奥の間に運んだ。そこは、子供たちが育てた花々が並ぶ、陽だまりのような部屋。 男は、激しい息をつきながら、ぼんやりとした瞳で枕元に置かれた一鉢の菜の花を見つめた。
「……ここは、どこだ。私は、上野で死ぬはずだったのに。なぜ、こんなに花の匂いがする」
お絹が濡れた手ぬぐいで男の額を拭いながら優しく語りかけた。
「ここは稲屋です。もう戦わなくていいのですよ。この菜の花は、私たちが大切に育てたものです。ほら、見てください。こんなに綺麗な黄色をしていますよ」
男の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 彼は震える手を伸ばし、触れるか触れないかの距離で、菜の花の小さな花弁を指差した。
「菜の花か。私の故郷、下野の里にも、今頃は一面に咲いているはずだ。……私は、何を求めてあのお山へ登ったのだろう。主君への忠義か、それともただ、死に場所を探していただけなのか」
桂木が傷口を縫い合わせながら、苦しげに唇を噛んだ。
「あなたは、精一杯生きた。それだけで十分です。今は故郷の野辺を思い出して、ゆっくりと呼吸をしてください」
男は、桂木の言葉に小さく頷いた。外の砲声が遠のき、部屋の中には菜の花の微かな香りと、時を刻む音だけが満ちていた。 かつては人を斬るために磨かれた男の手が、今は菜の花の柔らかさに救いを求めているようだった。
「手が、温かい。……母も、よくこの花を髪に挿していた。ああ、ようやく、風が止まったようだ」
男の瞳に、懐かしい故郷の黄金色の景色が映ったのかもしれない。 彼は最後の一息を深く吐き出すと、満足げな微笑みを浮かべたまま、静かにその瞼を閉じた。
折れた刀は畳の上に転がり、その横には、男の血を浴びることなく咲き誇る、一輪の菜の花があった。
「桂木さん、この方は、ただ帰りたかっただけなのですね。花が咲く、静かな故郷へ」
お絹が声を殺して泣き崩れると、桂木は男の亡骸の横で、静かに手を合わせた。
命を奪い合う時代の激流の中で、その若者は最後の一瞬、戦う武士ではなく、花を愛でる一人の人間に戻ることができたのだ。
染吉と宗助たちは、門の外でその最期を悟り、静かに頭を下げた。
平和を守るための戦いも、義理を通すための戦いも、失われる命の前では等しく悲しい。 稲屋の家族は、名もなき若者の魂が菜の花の香りに乗って、遠い空へと帰っていくのを見送った。
上野のお山を火の海に変えた大砲の音が、隅田川を越えて寺島まで響いていた。 夕闇が迫る稲屋の門前に、二人の若者が重なり合うようにして倒れ込んできた。 一人は薩摩藩の軍服を泥と血で汚した進次郎。もう一人は、前橋藩を脱藩して彰義隊に加わった、浅葱色の羽織もボロボロの清三郎だった。
「誰か、誰か助けてくれ」
清三郎の掠れた声に、お絹と桂木が飛び出してきた。 桂木は二人の脈をとり、すぐさま奥の治療室へと運び入れた。
「お絹さん、こちらの薩摩の若者は肩を深く斬られている。清三郎さんは足の傷がひどい。二人とも、すぐにお湯と清潔な布を」
治療室に横たえられた二人は、隣同士の布団で、最初は殺気立った瞳を向け合っていた。 数時間前まで、殺し合っていた敵同士。 進次郎が、痛みに耐えながら苦しげに言葉を絞り出す。
「……なぜ、俺を助ける。隣にいるのは賊軍の男ではないか。そいつを斬らねば、私の任務は終わらない」
清三郎も、壁を背にして、歯を食いしばった。
「笑わせるな。お前たち官軍こそ、江戸を火の海にしているではないか。殺せるものなら殺してみろ。私はここで、死に場所を見つけたつもりだ」
二人の間に険悪な空気が流れた時、お絹が静かに、けれど毅然とした声で割って入った。
「お二人とも、お黙り。ここでは、官軍も賊軍もありません。あるのは、手当てを必要とする二つの尊い命だけです。桂木さんが必死で繋いだ命を、つまらない意地で無駄にしないでください」
お絹はそう言うと、二人の枕元に一鉢の花を置いた。それは、宗助たちが硝子の室で大切に育てた、季節外れの美しい百合の花。 進次郎は、その花の香りを胸いっぱいに吸い込み、ふっと視線を落とした。
「……この花の匂い。覚えている。数年前、参勤交代で江戸に来た時、この稲屋の門前で見た花だ。あの時、私は江戸の文化の深さに驚き、いつかこの町を自分の手で守りたいと願ったはずだった。なのに、今の私は何を血に染めているのだ」
清三郎も、百合の白さに心を洗われたように、震える手でシーツを握りしめた。
「私も、ただ故郷の母を安心させたくて、強い武士になりたかった。けれど、上野の山で見たのは、命が紙屑のように消えていく地獄だけだった」
夜が更けるにつれ、傷の痛みがおさまってくると、二人の会話から棘が消えていった。 開け放たれた窓から、青葉の園の子どもたちが早朝の作業を始める声が聞こえてきた。
「ほら、見て。あの子たちは、震災で親を亡くした孤児たちです。でも、今はこうして花を育て、自分の足で立ち上がろうとしています。過去に縛られず、新しい命を育むことに喜びを見出しているのですよ」
桂木が窓の外を指差すと、そこには太助たちが一生懸命に土を運び、苗に水をやる輝かしい姿があった。 進次郎と清三郎は、その光景を食い入るように見つめた。
「……あの子たちは、絶望の中から自分たちの手で春を作っているのですね。それに比べて、私はどうだ。生き延びたことに怯え、過去にばかりしがみついていた」
進次郎が涙を流すと、清三郎も隣で深く頷いた。
「進次郎さん。我々が生かされたのには、きっと意味がある。刀を捨てて、あの子たちのように新しい日本を作るための土を耕すべきなのかもしれない」
夜明けの光が治療室に差し込み、百合の花が黄金色に輝き始めた。 昨日までの敵が、今は同じ未来を見つめる友として、しっかりと手を握り合っていた。
「お絹さん、桂木さん。ありがとうございます。この命、もう一度使い道を考えてみます。これからは、壊すためではなく、育てるために生きてみたい」
清三郎と進次郎の晴れやかな顔を見て、お絹は温かいお粥を二人の前に並べた。
「ええ、ゆっくり食べてください。命を繋ぐのは、戦ではなく、一杯のお粥と、一輪の花。そして信じ合う心なのですから」
朝靄の中、稲屋の庭には、新しい時代を生き抜こうとする若者たちの、静かな決意が満ち溢れていた。
江戸城が静かにその門を開く前日の夜、寺島の稲屋からは、かつてないほど多くの大八車が静かに出発した。 車の上には、稲屋の地下室や唐室で命を繋ぎ、見事に蘇ったオモト、そして威厳を取り戻した五葉松や早咲きの桜の盆栽が、丁寧に包まれて載せられていた。
「父上、いよいよですね。お城を元の、いえ、それ以上の美しさに戻して引き渡す。これが私たちの最後の奉公です」
宗助が車を引くと、染吉は深く頷き、夜の闇を見つめた。
「ああ、お篤様のご意志だ。徳川の誇りは、刀の数ではなく、この鉢の中に宿る気品にある。官軍の連中に、江戸の園芸の底力を見せてやろうじゃないか」
夜陰に乗じてお城の奥深くへ運び込まれた植物たちは、信三や平左衛門、そしてお富たちの手によって、元の場所に次々と据え直されていった。 翌朝、官軍の兵たちが城内へ一歩足を踏み入れた時、彼らを迎えたのは殺伐とした廃墟ではなく、瑞々しく整えられた見事な庭園と、芳しい花の香りだった。
「……これは。戦が始まろうという時に、なぜこれほどまでに美しい緑が保たれているのだ」
官軍の将校たちが驚嘆の声を上げる中、篤姫を先頭にした大奥の女性たちが、静かに、そして悠然と姿を現した。彼女たちは、まるでお茶会へ向かうかのような落ち着き払った足取りで、長い廊下を静々と歩んでいく。
「勝。これですべて整いました。徳川は、この美しい江戸の景色と共に、歴史の舞台を降ります。官軍の方々には、この花々を枯らさぬよう申し伝えてください」
篤姫が凛とした声で勝海舟に告げると、勝は深く頭を下げ、その目には熱いものが宿っていた。
やがて、御門が重々しく開き、天璋院(篤姫)たちが城の外へと出てきた。 門の外には、固唾を飲んで見守っていた大勢の江戸庶民が、幾重にも人垣を作っていた。 お絹や子供たち、そしてお美津もその中に混じり、自分たちが育て直した花々に見送られて城を去る姫君たちの姿を、目に焼き付けていた。
「お姉ちゃん、お城からお花が見えるよ。あのお花、僕たちが毎日水をあげたやつだよね」
太助が小さな声で指差すと、お絹は太助の肩を抱き寄せた。
「そうだよ、太助。あのお花たちが、お城の最後を飾ってくれているの。江戸の町を守ってくれた、お守りなのよ」
集まった人々からは、すすり泣く声が漏れた。二百六十余年続いた時代が終わるという、言いようのない寂しさと不安。 けれど、門の内側から溢れ出す圧倒的な花の美しさは、人々の心に不思議な静寂をもたらしていた。
「皆さん、見てください。お城はあんなに綺麗です。徳川様は、私たちの江戸を、こんなに美しいまま残してくださいました」
お美津が人々に呼びかけると、長屋のおかみさんたちが涙を拭いながら頷いた。
「そうだね、お美津さん。お城があんなに輝いているなら、私たちもまた、明日から頑張れる気がするよ」
篤姫の行列が静かに遠ざかっていく中、江戸の民は誰もが地面に膝をつき、感謝の祈りを捧げた。 それは、一つの時代の終わりへの葬送であると同時に、花々が約束する「再生」への希望の瞬間だった。
「宗助。お城は渡したが、俺たちの仕事はこれからだ。この江戸を、世界一の花の都にするんだよ」
染吉が力強く呟くと、若者たちは、自分たちが守り抜いた緑の輝きを誇りに、新しい陽が昇る空を見上げた。
江戸城が明け渡され、世の中がひっくり返るような騒ぎの中でも、植物たちは変わらず芽を吹き、花を咲かせていた。 篤姫から託された徳川ゆかりの苗木や種を手に、宗助たちは大きな決断をした。
「父上、これらのお城の宝を、一部の特権を持つ人々だけのものにしておく時代は終わった。これからは、誰もが等しく緑を楽しみ、心を休められる場所が必要です」
宗助の言葉に、染吉は深く頷いた。彼らが目をつけたのは、上野の戦火で建物が焼失し、黒く焦げた地面が剥き出しになった一角だった。 そこへ、稲屋の若者たちと、青葉の園の子供たちが一斉に集まった。
「太助、そこへお城から下げ渡された五葉松を植えよう。お町は、その足元に撫子と桔梗を散らして。ここは、江戸で一番美しい、みんなの庭になるんだ」
信三が土を整え、吾一が暖室で大切に育てた季節外れの花々を配置していくと、荒れ果てていた戦跡が、またたく間に極楽浄土のような彩りを取り戻していった。
そこへ、横浜の居留地から馬車を走らせてきた、異国の使節団の一行が通りかかった。 彼らは、日本という国が戦に敗れ、荒廃しきっていると考えていたのだが、目の前に広がる光景に、思わず馬車を止めさせた。
「見なさい、あそこにいるのは、つい先日まで刀を持っていたはずの若者や子供たちではないか。なぜ彼らは、破壊されたばかりの場所で、これほどまでに繊細で美しい庭を作っているのだ」
金髪の紳士が驚きの声を上げると、通訳を介して染吉が静かに答えた。
「異国のお方、驚かれることはありません。私たちにとって、花を育てることは生きることそのものです。建物が壊されても、私たちの心にある庭までは壊せませんよ」
使節団の男たちは、大八車で運ばれてきた盆栽や、丁寧に手入れされたオモトの鉢を食い入るように見つめた。
「信じられない。このオモトという植物の、葉の一枚一枚に施された意匠はどうだ。自然の造形をこれほどまでに高め、芸術の域にまで押し上げている民族が、世界のどこにいるだろうか。日本の園芸技術は、間違いなく世界一だ」
彼らは、子供たちが泥にまみれながらも、一株の花を慈しむように植える姿に、深い敬意を抱いたようだ。
「お絹さん、見て。あのお鼻の高い人たちが、僕たちの花を見て、とっても驚いているよ」
太助が不思議そうに言うと、お絹は微笑んで答えた。
「ええ、太助。美しさに国境はないのです。皆さんが一生懸命に育てた命の輝きが、海を越えてきた人たちの心も動かしたのね」
お美津は、驚いている異国の人々に、冷たい茶と季節の菓子を差し出しながら、ちゃっかりと商談を始めた。
「どうですか、この五葉松。あなた方の国へ持って帰れば、きっと王様も驚かれますよ。私たちは、新しい時代になっても、この緑の宝を世界中に届けるつもりです」
異国の使節は、お美津の堂々とした態度と、日本の文化の高さに感服し、その場でいくつかの鉢を買い求めたいと申し出た。 政としての江戸幕府は幕を閉じようとしていたが、稲屋が作り始めた「市民の庭」は、日本人の心の気高さと、世界に誇るべき文化の力を、図らずも異国の人々に知らしめることとなったのだ。
「宗助、見たか。花があれば、言葉が通じなくても手をつなげる。これが、俺たちの新しい時代の戦い方だ」
染吉の言葉通り、上野の丘に吹き抜ける風は、もはや火薬の臭いではなく、新しい時代を祝う花の香りに満ちていた。
数日後、薬草園で収穫されたばかりの薬草を抱えて、お絹と太助、そしてお町は、戦火の傷跡が残る下町の長屋を訪れた。 そこには、病で伏せったまま、明日の食べ物にも事欠く人々が肩を寄せ合って暮らしていた。
「皆さん、稲屋からお薬を持ってきましたよ。薩摩の進次郎さんや、全国の仲間たちが届けてくれた命の草です。さあ、火を起こして煎じましょう。お粥もありますよ」
お絹が声をかけると、埃っぽい部屋から、痩せ細った住人たちが顔を出した。 長屋の差配を務める源兵衛が力なく首を振った。
「お絹さん、ありがてえが、今の俺たちには薬を飲む気力も残っちゃいねえ。お城は明け渡され、上野のお山は焼けた。江戸っ子の意地も、煙と一緒に消えちまったよ」
その時、太助が背負っていた籠から、一鉢の明るい黄色の花を差し出した。 それは、信三の地下室で大切に育てられ、どんな寒さにも負けずに咲いた福寿草だった。
「源兵衛さん、これを見て。この花はね、冷たい地面の下で、じっと春が来るのを信じていたんだ。僕たちも、一度は家族を亡くして一人ぼっちになったけど、稲屋のみんなと花を育てて、こうしてまた笑えるようになったんだよ」
お町も、太助の隣で力強く頷いた。
「そうだよ。お薬を飲んで元気になったら、今度は一緒にこの花を増やそう。江戸の町を、前よりもっと綺麗な花でいっぱいにするんだ」
子供たちの真っ直ぐな瞳と、小さな鉢に宿る力強い生命力。 それを見た源兵衛の目に、かつての威勢のいい輝きが戻ってきた。
「……弱音を吐いてる場合じゃねえな。子供たちにこんな顔をさせて。おい、みんな、いつまで寝てやがる。お絹さんが持ってきてくれた薬を飲んで、さっさと立ち上がれ。江戸っ子が、花一輪に負けてたまるか」
長屋のあちこちから、よし、という声が上がり始めた。 信三が地下室で土の温度を守り抜いた薬草は、煎じられて人々の体に染み渡り、止まっていた血の巡りを呼び起こした。
「お絹さん、苦いけど、なんだか力が湧いてくるよ。不思議だね、あんなに体が重かったのに。ありがてえ」
一人の若い母親が、子供を抱き上げながら微笑んだ。 そこへ、お美津が手配した仕事の知らせが届いた。
「皆さん、元気になったら稲屋へ来てください。新しい町を作るために、たくさんの木を植える仕事があります。お美津様が、腕のいい職人を求めていますよ」
お町の言葉に、男たちは顔を見合わせ、威勢よく拳を突ぜひき上げた。
「おう、やってやろうじゃねえか。焼けた跡地を江戸一番の庭に変えてやる。稲屋の旦那たちに俺たちの底力を見せてやろうぜ」
これが、名もなき町民たちの間に起きた小さな奇跡だった。 薬草が体を治し、花が心を癒やし、そして子供たちの言葉が江戸っ子の魂を呼び覚ましたのだ。
その様子を影から見守っていた染吉と宗助は、そっと目頭を熱くした。
「宗助、見たか。花を配ることは、勇気を配ることなんだな。これこそが、俺たちが目指した園芸の極みだ」
「はい、父上。どんなに時代が変わっても、この江戸っ子の心意気と花があれば、町は必ず蘇ります」
夕暮れ時、長屋の軒先には、太助が置いた福寿草が、沈みゆく太陽を跳ね返すように金色に輝いていた。 人々はもう、下を向いてはいなかった。
寺島の稲屋の一角に、奇妙な光景が広がっていた。 かつては槍や刀を手に、道場できな臭い汗を流していたはずの屈強な武士たちが、二十人も集まって、小さな鉢を前に正座しているのだ。 その中央で、誰よりも威厳を放ち、厳しい視線を飛ばしているのは、元旗本の平左衛門だった。
「こら、そこな元御家人の田中。お前の手元を見ろ。土の詰め方が武骨すぎるぞ。それではオモト様が息苦しくて死んでしまわれる。剣術の稽古ではないのだ、もっと優しく、恋人の肌に触れるように扱わんか」
平左衛門の叱声が飛ぶと、田中と呼ばれた大男が、震える指先でオモトの葉を撫でた。
「平左衛門殿、そう仰いましても、私の手は人を斬ることしか覚えておらぬのです。この小さな芽を掴もうとすると、どうしても指が強張ってしまって」
「言い訳は無用。お前が守れなかったのは徳川の城だけではない。この一鉢の命も守れぬようでは、武士を語る資格はないと思え」
平左衛門は、自らも泥だらけの前垂れ姿でありながら、その言葉には全盛期の旗本以上の気迫がこもっていた。 その様子を物陰から見ていた染吉と信三は、肩を震わせて笑いを堪えていた。
「信三、あれを見ろ。あの平左衛門さん、すっかりお師匠さん気取りだ。武士の意地を、全部オモトの葉っぱの向きに叩き込んでいるよ」
「本当ですね。あんなに熱心に指導されたら、どんなに頑固な侍だって、鉢植えの虜になっちゃいますよ」
平左衛門の私塾には、連日、職を失い、自暴自棄になった武士たちが集まってきた。 彼らは最初、園芸など女子供の遊びだと馬鹿にしていましたが、平左衛門が育てるオモトの、凛とした美しさと気高さに圧倒され、いつの間にか熱中してしまったのだ。
「平左衛門先生、見てください。私が担当しているこの鉢、今朝になって新しい芽が顔を出しました。なんだか、我が子が生まれた時のような心持ちです」
「ほう、見せてみろ。……ふむ、悪くない。だが、まだ根元の湿り気が足りんな。お前の真心が足りない証拠だ。今夜は寝ずの番で、土の乾きを観察しろ」
平左衛門の指導は、かつての武芸修行よりも過酷だった。 夜通しの水加減、指先を研ぎ澄ませた土壌の入れ替え。 一人の若侍が、思わず溜息を漏らした。
「先生。私は昨日、官軍の連中に道で肩をぶつけられ、悔しくてなりませんでした。けれど、このオモトの葉を磨いていると、不思議と怒りが消えていくのです。この緑を見ていると、勝った負けたなど、どうでもよくなってくる」
平左衛門は、その言葉を待っていたかのように、若者の肩を叩いた。
「よく言った。我々は領地を失い、禄を失った。だが、この鉢の中に広がる宇宙は、誰にも奪うことはできん。官軍が鉄砲を持って威張ろうとも、この一鉢の美しさを作れるのは、我ら稲屋の門下生だけだ。それこそが、新しい時代の武士の誇りではないか」
そこへ、お美津が茶菓子を運んできた。
「まあ、平左衛門先生。相変わらずの熱血指導ですね。でも、あまりお弟子さんたちをいじめてはダメですよ。ほら、今日は信三さんが地下室で冷やしておいた特製の甘酒ですよ」
「おお、これはありがたい。おい、貴殿ら。お美津殿のご厚意だ。甘酒を飲んだら、次は鉢の植え替え三千回だ。一人でも弱音を吐く者がいたら、私が竹光で尻を叩いてやるからな」
お弟子さんたちは、お美津の甘酒に一息つきながらも、平左衛門の無茶な課題に「へい、お師匠様」と元気よく答えました。 殺気立っていた元武士たちは、いつの間にか、土の匂いと平左衛門のユーモア溢れる罵倒に、心の傷を癒やされていました。
「父上、平左衛門さんの塾から、将来の園芸名人が何人も出そうですね」
宗助が感心して言うと、染吉は目を細めました。
「刀を捨てて、代わりに鋏を持った、彼らが育てる花は、きっとこの町を、どこよりも平和な場所に変えてくれるだろうよ」
平左衛門の怒鳴り声は、今日も寺島の空に響き渡っていた。 それは、時代の変わり目に迷う男たちが、新しい生き方を見つけたという、喜びの雄叫びのようでもあった。
横浜から蒸気船に乗ってやってきた異国の商人の一行が、寺島の稲屋を訪れた。 その中心にいたのは、大きな髭を蓄えた英国人の商人、ロバートだった。 彼は、お美津の用意した緋毛氈の上に、平左衛門が心血を注いで育てた一鉢の黒松が置かれているのを見て、雷に打たれたように足を止めた。
「ミズ・ミツ。信じられない。この小さな鉢の中に、樹齢百年を超えるであろう大木の魂が宿っている。これは植物なのか、それとも魔法なのか」
ロバートが驚嘆の声を上げると、お美津は優雅に扇を広げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「これは魔法ではありませんわ。私たちの国で盆栽と呼ばれる、一つの命の芸術です。ロバート様、この松の枝振りをご覧ください。厳しい風雪に耐え、それでも天に向かおうとする姿。これこそが、私たちが尊ぶ武士の精神そのものなのです」
そこへ、前垂れを締めた平左衛門が、大きな鋏を腰に差して悠然と現れました。 彼はロバートの目を真っ直ぐに見据え、自らの作品である黒松の横に立った。
「異国のお方。この松の枝一つを曲げるのに、私は数年の月日をかけました。無理にねじ伏せるのではなく、木がなりたい形を見極め、対話をしながら整える。それは、自らの心を律する修行と同じなのです」
「自らを律する修行。それが、あなた方の言う武士道というものか」
ロバートが通訳を介して尋ねると、平左衛門は力強く頷き、松の幹を優しく撫でた。
「左様。刀は鞘に収めてこそ価値がある。この鉢の中には、戦を捨て、平和を愛するようになった男の静かな闘志が詰まっている。たとえ領地を失っても、この鉢の中にある誇りは誰にも奪えん」
お美津は、ロバートが盆栽の奥にある精神性に深く感銘を受けているのを見逃さなかった。
「ロバート様。この盆栽を、あなたの国へ連れて行ってはくれませんか。海を越え、遠い異国の地で、日本の武士の誇りがこれほどまでに美しい緑として生きていることを、世界の人々に知ってほしいのです」
「素晴らしい。私の国の女王陛下も、この静かなる美しさには驚かれるに違いない。ミズ・ミツ、この盆栽をぜひ買い取りたい。これは金貨以上に価値のある、文化の架け橋になるはずだ」
ロバートが提示した金額は、稲屋の誰もが驚くほどの高値だったが、平左衛門は首を横に振った。
「金の問題ではない。異国のお方、この松を運ぶ間、毎日水をやり、声をかけてやってくれるか。この子は生きている。お前の真心がなければ、ただの枯れ木になってしまうのだぞ」
「約束しよう。この木に宿る武士の魂は、私が命懸けで守り抜く」
ロバートが真剣な顔で平左衛門の手を握ると、平左衛門は照れくさそうに鼻を鳴らした。 それを見ていた染吉が、宗助の肩を叩いた。
「宗助、見たか。お美津の知恵と平左衛門さんの意地が、江戸の緑を世界へ飛ばしたぞ。これからは海を越えて花が咲く時代だ」
お美津は、ロバートに盆栽の持ち運び方や手入れの仕方を書いた和紙を丁寧に手渡し、これからの輸出の段取りをテキパキと整えた。
「さあ、お富さん。これから忙しくなるわよ。世界中の人たちが、稲屋の盆栽を待っているんだから」
「はい、お美津様。私、日本の美しさが世界に広がると思うと、胸がわくわくします」
江戸が東京へと変わろうとする激動の中で、染吉や平左衛門が育てた盆栽は、武士の誇りをその枝に宿したまま、遥か異国の地へと旅立っていった。 それは、力による支配ではなく、美しさによる対話という、新しい時代の幕開けを象徴する出来事だった。
二組の門出
五月の空は抜けるように青く、隅田川を渡る風が稲屋の花畑を優しく揺らしていた。
江戸の町を騒がせた戦火の記憶をかき消すように、今日は寺島中が華やかな祝いの色に染まっている。 染吉は、新しく整えられた庭の真ん中で、嬉しそうに目を細めた。
「みんな、今日はめでたい日だ。信三とお町、吾一とお富。この動乱を共に生き抜いた二組の門出を、江戸一番の花々で祝おうじゃないか」
染吉の声に、集まった近所の人々や職人たちがどっと沸いた。 やがて、お美津に付き添われて、二人の花嫁が姿を現した。
まず歩いてきたのは、お町。その衣装を見て、お絹は思わず目頭を押さえた。 それは、かつて桂木がお絹を迎える時に無理をして買い求めた白無垢を、お美津の実家の呉服屋で丁寧に染め直したものだった。 若草色の地にあやめの刺繍が施された着物は、控えめながらもお町の芯の強さを引き立てている。
「お絹さん、見て。お町さん、まるでお姫様のようです」
お美津が耳元で囁くと、お絹は声を震わせて頷いた。
「ええ、本当に。あの着物が、こんなに瑞々しく蘇るなんて。お町、本当によく似合っているわよ」
続いてお富が現れると、今度は広場全体が静まり返り、次の瞬間に大きな驚きの声が上がった。 お富が纏っていたのは、ロバートの夫人から借りた西洋の衣装を、お美津が一度すべて解き、型紙を取ってからお富の体に合わせて仕立て直した、燃えるような赤い絹の着物。 それはまるで大輪の朝顔のように、裾に白い縁取りがなされ、歩くたびに波打つような華やかさを放っていた。
「お、お富さん、それは一体。まるでお城の奥方様か、異国の姫君のようだ」
吾一が口をあんぐりと開けて見惚れていると、お富は頬を染めて微笑んだ。
「お美津様が、これからは世界中の花がこの町に集まるのだから、衣装も新しい時代の形にしましょうって。吾一さん、驚かせてしまいましたか」
二人の花嫁は、色とりどりの花が咲き乱れる小道を、静かに、そして一歩ずつ踏みしめるように歩いていく。 その先では、正装した信三と吾一が、緊張した面持ちで二人を待っていた。 信三はお町の手をしっかりと握り、小さな声で語りかけた。
「お町、俺は地下室で土を守るしかできない男だけど、お前と一緒に、新しい町を花でいっぱいにしたいんだ」
「はい、信三さん。どこまでもついていきます」
太助やお町たち子どもたちは、二人の周りを「おめでとう」と叫びながら走り回り、花びらを撒き散らしている。 その一方で、長年この町で生きてきた老人たちは、ひっそりと目元を拭っていました。
「江戸が終わり、お侍さんの世が消えて、こんなに派手な衣装が似合う世の中が来るなんて、夢にも思わなかったよ」
「不安だねえ。でも、あの子たちのあの輝くような笑顔を見てごらんよ。花がこうして綺麗に咲いている限り、きっと悪いようにはならないさ」
源兵衛が隣の隠居と語り合う声には、寂しさと、それ以上の期待が混じっていた。
「見ろ、あの二組の姿を。過去を惜しむ暇があったら、一輪でも多くの種を蒔け。新しい時代を彩るのは、我らの手で育てる花なのだからな」
お美津は、仕立て直した衣装が五月の光に映えるのを見て、満足げに算盤を弾く仕草をした。
「さあ、お絹さん、染吉さん。湿っぽいのはおしまいです。これからはお祝いの宴ですよ。稲屋の新しい歴史の始まりです」
満開のつつじや皐月が風に舞い、二組の夫婦の門出を祝福していた。 時代が変わっても、この土を愛し、命を慈しむ人々の心がある限り、未来は必ず美しく咲き誇る。 誰もがそのことを確信した。
「信三、吾一。明日からはもっと忙しくなるぞ。世界一の花の都を、俺たちの手で作るんだ」
染吉の力強い言葉が、新しい時代の夜明けを告げるように、青い空へと響き渡った時、稲屋の門前がにわかに騒がしくなった。
そこに現れた影を見て、集まった参列者たちは、持っていた盃を落とさんばかりに目を見開いた。
「平左衛門さん。その頭、一体どうしたんです」
信三が声を裏返して叫ぶと、そこには自慢の丁髷を綺麗に切り落とし、短く切り揃えたざんぎり頭の平左衛門が立っていた。 その姿は驚くほど若返り、どこか晴れやかな覇気に満ちている。
「これからは文明開化の世だ。いつまでも古い頭で盆栽を語ってはいられん。信三師匠、驚くのはまだ早いぞ。これを見ろ」
平左衛門が懐から取り出したのは、菊の紋章が押された一通の公文書でした。
「なんと、イギリスの大使館から正式な要請が届いたのだ。日本の盆栽の神髄を、あちらの紳士たちに教えてほしいとな。私は江戸の旗本から、世界の盆栽教師へ出世することになったのだ」
平左衛門が意気揚々と胸を張ると、お美津が楽しそうに笑いながら、お富の肩に手を置いた。
「平左衛門先生、その心意気ですよ。お富さん、最後のお披露目、皆さんに見ていただきましょうか」
お富が一度奥へ下がり、再び現れた時、広場には今日一番のどよめきが起きた。 先ほどの赤い婚礼衣装の帯を解き、お美津が魔法のように手を加えたその姿は、腰回りを大きく膨らませ、裾を長く引く、見事な西洋の礼装へと変わっていた。 頭には朝顔を象った小さな帽子を被り、手には白いレースの扇を持っている。
「お富さん。本当に君なのかい。まるで見違えたよ」
吾一が頬を赤くしてまじまじと見つめると、お富は扇を口元に当てて、お淑やかに微笑んだ。
「お美津様が、これからは女性も自由に装いを変える時代が来ると仰って。吾一さん、少しは西洋の淑女に見えますか」
その変身ぶりに、集まった老人たちは腰を抜かし、子供たちは大喜びで拍手を送った。 お美津の仕立てた衣装は、江戸の伝統と異国の形を見事に融合させたもので、誰もが「私もあんな服を着てみたい」と溜息をつくほどだった。
「お美津さん。あんたの腕は、もう呉服屋の域を超えている。これからは東京中の女性が、あんたの店に押し寄せることになる」
染吉が感心して言うと、お美津は算盤を小気味よく弾いた。
「花の美しさが世界共通なら、着飾る喜びも世界共通。さあ、平左衛門先生。ざんぎり頭で盆栽を教えるなら、もっと背筋を伸ばしてくださいな」
「わかっている。私は日本の武士道と盆栽が、決して古い遺物ではないことを世界に証明してやる。イギリスの庭を、全部日本の松で埋め尽くしてやる勢いだぞ」
平左衛門の威勢のいい言葉に、場内は爆笑と喝采に包まれた。 婚礼の宴は、単なる祝言の枠を超え、新しい時代への力強い宣言の場となっていた。
不安と期待が渦巻く中、ざんぎり頭の元武士と、西洋のドレスに身を包んだ花嫁。 そして、それを見守る江戸っ子たちの顔には、もはや迷いはなかった。 五月の陽光を浴びて、稲屋の庭に咲き誇る花々は、新しい東京という名の明日へ向かって、いっそう色鮮やかに揺れていた。
「父上。いよいよ明日からは、上野の市民の庭の公開ですね。世界中の人が、私たちの作った庭を見に来ますよ」
宗助が染吉の隣で呟くと、染吉は静かに頷いた。
「ああ。江戸が東京になっても、俺たちのやることは変わらない。ひたすら、命を慈しみ、美しい花を咲かせ続けるだけだ」
江戸から東京に
七月の強い日差しが照りつける中、ついにその日がやってきた。 江戸が東京という名に変わり、新しい時代の幕開けを告げる祭典が、上野の丘で盛大に執り行われたのだ。 戦火で黒く焦げていたはずの地面は、稲屋の面々が心血を注いで植えた草花によって、息を呑むような緑の楽園へと生まれ変わっていた。
「見てください。この日のために育ててきた江戸朝顔が、一斉に花を広げました。まるでお祝いの声を上げているようです」
宗助が汗を拭いながら言うと、染吉は深く頷き、集まった群衆を見渡した。 そこには、身分の差を捨てた多くの人々が肩を並べていた。 一際目を引く一団の中に、勝海舟と、巨躯を揺らして歩く西郷隆盛の姿があった。
「勝先生、見事なものですな。あのお山が、これほどまでに清々しい風の吹く庭になるとは。東京の始まりを祝うには、これ以上のものはありません」
西郷が豪快に笑うと、勝は愛用の扇子で顔を仰ぎながら、感慨深げに答えた。
「西郷さん。大砲で壊すのは一瞬だが、こうして一本の木を育てるには何年もかかる。俺たちが守りたかったのは、この静かな緑の風景だったのかもしれないな」
二人が足を止めたのは、平左衛門が手掛けた巨大な五葉松の盆栽の前だった。 そこには異国の使節たちも集まり、言葉を失ってその威厳に見入っていた。 ざんぎり頭の平左衛門は、お美津が仕立てた黒い礼装に身を包み、堂々と胸を張って彼らに説明をしていた。
「これは平和の象徴です。針金一つ、鋏の一入れにも、和の心を込めております。どうか、この木のように、私たちの国も力強く根を張り、世界にその美しさを知らしめたいものです」
使節たちは、元武士が語る平和への願いに深く感銘を受け、次々と握手を求めてきた。
広場の一角では、お絹と桂木、そしてお町たちが、薬草の香りが漂う特製の冷やし茶を人々に振る舞っていた。 太助や与一たち子どもたちは、色とりどりの花の種を、集まった大人たちに手渡して歩いている。
「おじさん、この種を東京の新しいお家に蒔いてね。来年にはもっとたくさんのお花が咲くよ」
子どもたちの無邪気な声に、かつての戦いで傷ついた人々の心も、雪解けのように解けていった。 お富は吾一の腕に手を添え、赤く輝く西洋のドレスを翻しながら、誇らしげに庭を歩いていた。 その姿は、古い江戸の良さを残しつつ、新しい世界へと羽躍する東京そのもののようだった。
「お美津さん。皆さんの顔を見てください。不安よりも、これからの暮らしへの期待で輝いています。私たちの作った庭が、こんなに人を幸せにするなんて」
お富が涙ぐむと、お美津は懐から算盤ではなく、一輪の白い百合の花を取り出した。
「ええ、お富さん。商いも大事だけれど、今日はこの景色が一番の宝物ね。江戸が東京になっても、私たちが土を愛でる気持ちに変わりはないわ。平和こそが、一番美しい肥料なんですもの」
祭典の最後、染吉は信三や宗助、そして仲間たち全員を呼び寄せた。 上野の丘から見下ろす東京の町は、夏の青空の下でどこまでも広がっていた。 そこにはかつての江戸の誇りと、これから始まる新しい物語の予感が満ち溢れている。
「いいか。今日からここは東京だ。だが、俺たちはこれからも江戸っ子の心意気で、一鉢一鉢に命を込めていこう。この平和な風が、百年先まで吹き続けるように。それが、稲屋の役目だ」
染吉の力強い宣言に、一同は晴れやかな声で答えた。 その声は、色とりどりの花びらと共に風に乗り、新しく生まれた東京の空高くへと舞い上がっていった。 花を愛し、命を繋ぐ。 その不変の営みが、激動の時代を越えて、今、確かな希望となって輝き始めたのだ。
東京誕生
東京という新しい名に町が慣れ始めた頃、寺島の稲屋はこれまで以上に活気に満ちていた。 特に賑やかなのは、イギリスへの盆栽輸出を控えた平左衛門の稽古場。 平左衛門は相変わらず、ざんぎり頭を振り立てて熱弁を振るっていた。
「ロバート殿、この松は金に換算できるようなものではない。あなたの心意気に免じて、これは差し上げよう。武士に二言はないぞ」
平左衛門がそう言って、見事な黒松を無造作に差し出そうとした瞬間、横から小さな、けれど鋭い声が響いた。
「お待ちください。平左衛門先生、そのお言葉、聞き捨てなりません」
割って入ったのは、信三の弟子で、今は稲屋の勘定見習いとなった与一と昌助だった。 二人はお美津から厳しく仕込まれた算盤を腰に差し、平左衛門の前に立ちはだかった。
「先生、今の世の中は、士農工商などという身分はありません。武士の情けで飯は食えないのです。この松の価値は、我ら稲屋の皆が流した汗の対価ですから」
与一が冷静に言うと、昌助も帳面を広げて続けた。
「この松の鉢代、肥料代、そして先生が使った鋏の研ぎ代。すべて合わせれば、金十両は下りません。異国の方も、正当な対価を支払うことが敬意であると仰っていますよ」
「ええい、やかましい。金の話など、武士の風上にも置けん。私はただ、この美しさを理解してもらえればそれで」
平左衛門が赤くなって反論するとお美津が奥から悠然と現れた。
「平左衛門先生。子どもたちが言っていることが正しいのです。これからの東京は、良いものには相応の対価が支払われ、それがまた新しい種を買う資金になるのです。あなたが『金はいらん』と言うたびに、お富さんの新しいドレスが一着消えてしまうと思えば、少しは我慢できるでしょう」
お美津の言葉に、平左衛門はぐぬぬと唸り、ついに降参したように肩を落とした。
「わかった、わかった。与一、昌助。お前たちの言う通りにしろ。全く、今のガキは数字に細かくて敵わんな」
「当たり前ですよ。先生を守るのが、僕たちの新しい役目なんですから」
与一たちが得意げに算盤を弾く姿を見て、染吉は信三と共に微笑んでいた。
染吉は隠居後、宗助に稲屋の看板を正式に譲り、自身は「青葉の園」で、植物の不思議を次世代に伝える語り部となった。
「信三、見たか。子どもたちはもう、俺たちの時代よりずっと先を見ている。お町とのお前の暮らしも、あの二人に見張ってもらった方が安心かもしれないな」
「勘弁してくださいよ、親父さん。でも、お町もお美津さんに似て、最近は算盤の音が早くなってきましたから」
信三が苦笑いすると、隣でお町が「何か仰いましたか」と明るい声を上げた。 お町は、お絹と桂木が経営する薬草園の管理を一手に引き受け、お絹は相変わらず貧しい人々へ無償で薬を配る一方で、お町が富裕層から適正な対価を受け取ることで、運営を安定させていた。
一方、吾一とお富は、横浜に小さな出張所を構えた。 吾一が育てた苗を、西洋ドレスを着こなしたお富が異国の商人たちに紹介する。 その姿は、新しい東京の象徴として評判になった。
「吾一さん、見て。今日もロバート様から、追加の注文が届きましたわ。この朝顔の種が、海を越えてイギリスの庭で咲くなんて、本当に夢のようですね」
「ああ、お富。俺たちが作った緑が世界を繋いでいくんだな。平左衛門さんの頑固も、与一たちがしっかり抑えているようだし、安心だよ」
勝海舟や西郷隆盛も、時折、稲屋の庭を訪れては、土をいじる平左衛門や子どもたちの姿を見て、目を細めている。 かつての権力も身分も、この庭では意味を持たない。
「染吉殿。東京の町は騒がしくなったが、この庭の空気だけは、江戸の良き時代をそのまま引き継いでいるな。いや、江戸よりもずっと豊かだ」
勝がそう呟くと、染吉は一輪の撫子を指差した。
「名前や仕組みは変わっても、人が花を愛で、それを誰かのために育てる心は変わりません。東京がどんなに大きくなっても、私たちはこの一鉢を守り続けるだけです」
平左衛門の私塾からは、かつての武士たちが続々と新しい植木職人として巣立っていった。 彼らは刀の代わりに鋏を持ち、与一や昌助に厳しく収支を管理されながら、誇り高く東京の町を緑に変えていった。
直弼公の薬草の知識
数年後、上野の戦が終わった直後の混乱期。
桂木とお絹が、傷ついた人々を救うために薬草園を広げようとした際、土台となったのは間違いなくこの直弼から託された種と知恵だった。
「お絹さん、直弼公が残してくれたこの薬草の知識がなければ、今の桂庵院はありませんでした。あのお方は、己が悪名を背負ってでも、この国の根幹である民を守り抜こうと、人知れず準備をされていたのですね」
桂木が感極まったように言うと、お絹も優しく薬草の葉を撫でました。
「ええ。安政の大獄で厳しいお姿ばかりが語られますが、私が見たあのお方は、一本の萩が風に揺れるのを、誰よりも優しい目で見守るお方でした。この薬草の苦みの中に、あのお方の本当の優しさが溶け込んでいる気がします」
お絹は薬草の葉を見ながら、さらに続けた。
「あのお方が背負った闇は深かったかもしれないが、あの時、椿を見つめていた目には、確かな慈しみがあった。直弼公、あなたが願った平和な世は、今、ようやく東京という名で始まろうとしていますよ」
その薬草園には、直弼が特に愛した萩の花も、薬効のある植物として大切に植えられていた。 ある日、その庭を訪れた勝海舟は、一面に広がる薬草の緑を見て、ふっと寂しげに笑った。
「お絹さん、ここには井伊公の魂が生きているな。あのお方は、自分が生きて平和を見ることは叶わぬと悟っていた。だからこそ、こうして草花に己の願いを託し、後の世に繋ごうとしたのだ。皮肉なものだな、俺たちが追い落とした男の知恵が、今、新しい東京を救っているとは」
勝の言葉に、染吉は静かに茶を差し出した。
「勝先生。花を育てる者に、敵も味方もありません。直弼公が蒔いた種は、今や東京の土に深く根を張り、身分を問わず、多くの人々の命を繋いでいます。それこそが、あのお方が夢見た真の開国の姿だったのかもしれませんね」
平左衛門もまた、井伊直弼の遺した薬草の知識を熱心に学び、自らの門下生たちに説いていた。
「貴殿ら、心して聞け。この一葉には、一人の男が孤独の中で見出した、命への慈しみが詰まっている。剣で人を斬るのではなく、この緑で人を活かす。それこそが、これからの武士の、いや、日本人の歩むべき道なのだ」
稲屋の庭には、井伊直弼の愛した椿が、今も冬の寒さを突いて鮮やかな赤を灯している。 それは、どれほど冷たい世の風に晒されても、決して絶えることのない「人の情け」の象徴のように、静かに咲き誇っていた。
「お絹さん。直弼公が見たかった景色を、私たちは今、見ているのですね」
お町がそう呟くと、夕暮れ時の薬草園には、萩の葉を揺らす優しい風が吹き抜け、まるであの日の直弼の微笑みがそこに残っているかのようだった。
巴里万博
明治六年のこと、遠く海の向こうの巴里で開かれる大博覧会に向けて、稲屋の一同はかつてない熱気に包まれていた。 お美津が中心となり、日本の美を世界に知らしめるための壮大な計画が動き出したのだ。
「宗助さん、信三さん。今回の巴里万博は、ただの商いではありません。徳川の世から東京の世へ、私たちが守り抜いた命の芸術を、西洋の人々の魂に刻み込む戦いなのです」
お美津の言葉に応えるように、大八車には選び抜かれた盆栽や、精巧な花の意匠を凝らした工芸品が次々と積み込まれた。 平左衛門は、自らが教えた元武士の門下生たちと共に、異国の地へ渡る覚悟を決めていた。
「お美津殿、案ずるな。私のざんぎり頭は、巴里の街でも注目の的になるだろう。何より、この五葉松を見れば、彼らは自然を鉢の中に閉じ込める我らの精神性に、ひれ伏すに違いない」
やがて巴里の会場に日本の展示館が開かれると、そこは連日、黒山の人だかりとなった。 西洋の人々にとって、日本の園芸や工芸は、これまで見たこともない驚きと感動に満ちていた。
「セ・シ・ボン。見なさい、この小さな木を。風に吹かれているような枝のしなり、岩を噛む根の力強さ。この小さな鉢の中に、深い山々の景色が閉じ込められている」
巴里の貴婦人や芸術家たちが、平左衛門の盆栽を食い入るように見つめた。 平左衛門は、言葉の壁を越えて、身振り手振りで盆栽の手入れを実演してみせた。
「異国の方々。これは単なる観賞用の木ではない。一枝を切るごとに、己の迷いを断ち、一葉を摘むごとに、慈しみを育む。私たちの国では、これを道と呼ぶのだ」
その立ち居振る舞いの気高さに、巴里の人々は「東洋の騎士、サムライの芸術だ」と喝采を送った。 一方で、お美津がプロデュースしたお富の装いも、巴里の流行を塗り替えようとしていた。 お富は、日本の絹織物に西洋の裁断を取り入れた、独創的なドレスを纏って会場を歩いた。
「お富さん、見て。画家の先生たちが、あなたの姿を熱心に写生している。日本の色彩と文様が、彼らの創作意欲を刺激しているのね」
お美津が満足げに頷くと、お富も誇らしげに扇を広げまた。
「お美津様、巴里の街の女性たちが、私の着ている着物の柄を真似したいと言ってきましたわ。日本の朝顔や牡丹が、こうして異国の地で新しい美しさとして受け入れられるなんて」
会場の一角では、お絹が提供した薬草の知識を元に、信三が作った「花の香の練り香水」や「薬草の茶」も、健康と美を求める巴里の人々に大好評だった。 彼らは、日本の植物が持つ癒やしの力に驚き、それを日々の暮らしに取り入れようとしたのだ。
「ミズ・ミツ。あなた方の持ってきたものは、単なる物品ではない。自然と人間が調和して生きる、新しい生き方の提案だ。私たちはこれをジャポニスムと呼び、心から敬意を表したい」
博覧会の事務局長が深々と頭を下げた時、お美津の計算を遥かに超えた、文化の巨大なうねりが生まれた。 北斎の浮世絵が包み紙に使われていたことで始まったという日本の流行は、稲屋の植物と平左衛門たちの情熱によって、確固たる芸術としての地位を築いたのだ。
「宗助。巴里の空も、こうして見れば東京の空と繋がっているな。俺たちが寺島の土を耕し、種を蒔き続けたことは、間違いじゃなかったんだ」
平左衛門が巴里の街角で、自慢の盆栽を抱えながら呟いた。 江戸の動乱を生き抜き、死場所を探していた武士たちが、今や海の向こうで「生命の美」を説く伝道師となっていた。 井伊直弼が愛した椿や萩の種も、巴里の植物園に寄贈され、異国の土で新しい芽を吹こうとしていた。
「平和な世であればこそ、花は海を越えられる。お侍の時代が終わったのは、こうして世界中の人と手をつなぐためだったのかもしれませんね」
お絹のその言葉は、巴里の博覧会会場に流れる柔らかな風に乗って、人々の心に深く染み渡っていった。 稲屋の挑戦は、巴里を皮切りに、世界中へ日本の「花の心」を届ける壮大な旅路へと変わっていったのだ。
「さあ、みんな。巴里での成功を祝う暇はないわよ。次はウィーン、そしてアメリカ。世界中の庭を、日本の緑でいっぱいにするんだから」
お美津の明るい声が、巴里の夕暮れに響いた。 江戸から東京へ、そして東京から世界へ。 稲屋の植物たちは、国境という垣根を軽やかに飛び越え、新しい時代の光の中で、いっそう鮮やかに咲き誇っていた。
巴里の博覧会会場で、お美津は一人の精悍な男と運命的な出会いを果たした。 その男、渋沢栄一は、若き日に藍玉の商いで土に触れ、百姓から武士、そして今は新しい国造りのために奔走している実務家だった。 二人は、日本の絹や植物の展示を前に、これからの商いの形について熱く語り合った。
「お美津さん。あなたの商いへの情熱、そしてこの見事な展示の差配ぶり。私は感服しました。あなたは単なる呉服屋の娘ではない。新しい日本の経済を支える、一人の立派な経営者だ」
渋沢の言葉にお美津は驚き少し照れたように算盤を懐に収めた。
「渋沢様、私などはただ、江戸の良きものを異国の方々に知っていただきたい一心で。でも、これからはどうすればこの流れを絶やさずにいけるか、悩んでおりました」
渋沢は、巴里の街の石畳を指差しながらお美津の目を見つめた。
「これからの世は、個人の才覚だけでは限界があります。稲屋の皆さんのように、種を蒔く人、育てる人、守る人、そして売る人。それらを一つの大きな仕組み、つまり会社という形に組織化すべきです。力を合わせ、資本を集めれば、日本の園芸は世界を相手に大きな富を生むことができる」
「会社、ですか。武士の内職や、職人の徒弟制度ではなく、皆が対等に力を合わせる仕組みなのですね」
お美津が問い返すと、渋沢は力強く頷いた。
「そうです。そして何より、あなたのような才覚ある女性が表舞台に立ち、組織を率いるべきだ。西洋では、女性も堂々と社会で活躍している。日本もそうでなければ、真の近代化は成し遂げられません。お美津さん、あなたがその先駆けになりなさい」
その夜、お美津は宿舎で宗助や信三、平左衛門を呼び集めた。 窓の外には、ガス灯が輝く巴里の夜景が広がっている。
「皆さん、私は決めました。東京に戻ったら、稲屋を組織化し、植木と花の会社を立ち上げます。渋沢様が仰ったように、私たちの技術を世界に通用する産業にするのです。信三さんは技術の責任者、宗助さんは全体の差配、そして平左衛門先生には、世界へ盆栽を広める伝道師になっていただきます」
平左衛門は、渋沢の名前を聞いて姿勢を正した。
「あの渋沢殿がそう仰ったのか。元は同じ武士の身でありながら、数字の奥に日本の未来を見ているお方だ。お美津殿、その話、乗った。私の不器用な門下生たちも、組織という規律があれば、もっと大きな仕事ができるだろう」
信三も、新しい挑戦に目を輝かせた。
「お美津さん、会社になれば、もっと大きな試験場や暖室が作れますね。全国から薬草や珍しい花を集め、科学の力で育てる。それができれば、江戸の園芸は、世界一の科学園芸に進化できます」
お美津は、渋沢から贈られた新しい帳面を開いた。
「私は女性ですけれど、渋沢様に励まされました。これからは、誰の陰に隠れることもなく、堂々とこの会社を率いていきます。江戸っ子の心意気と、異国の仕組み。これを組み合わせて、誰も見たことがないような花の王国を作りましょう」
数年後、東京の寺島には「稲屋園芸株式会社」という新しい看板が掲げられた。 そこでは、お美津の指示のもと、与一や昌助たちが最新の簿記を使い、全国へ苗木を出荷する手配をテキパキとこなしていた。 お絹の薬草園も、会社の医療部門として、多くの人々に安価で質の良い薬を届けることができるようになった。
「渋沢様、見ていてください。私たちの会社が、この国の土を、そして人々の心を、もっと豊かにしてみせます」
お美津は、巴里で渋沢と誓い合ったあの日を思い出しながら、新しい時代の契約書に力強く判を押した。 それは、古い身分制度を完全に脱ぎ捨て、女性の自立と、植物の命が共に輝く、新しい日本の姿だった。
「お美津社長。次のウィーンへの出荷準備、整いました」
宗助の声に、お美津は晴れやかな笑顔で答えた。
「行きましょう。世界中の窓辺に、私たちの花を届けるのよ」
渋沢栄一という巨人の導きによって、稲屋は小さな植木屋から、世界へと根を張る大樹へと成長していった。 その根底にはいつも、江戸から続く「命を慈しむ心」が、変わることなく流れ続けていた。
明治の東京は、レンガ造りの建物が並び、馬車が走り抜ける文明開化の音に包まれていた。 しかし、急激な変化の中で街はどこか殺風景になり、江戸の頃の緑が失われつつあった。
お美津は、渋沢栄一から託された「会社」という力を使い、この東京を世界一の公園都市にするための大改造に乗り出した。
「信三さん、宗助さん。今こそ、お城から預かった苗や、私たちが守ってきた技術を、街全体に解き放つ時です。この灰色の街を、深呼吸できる緑の都に変えましょう」
お美津の号令で、稲屋園芸株式会社の総力が結集された。 まず取り掛かったのは、銀座から日本橋へと続く大通りの街路樹計画。 信三は、異国の街並みに負けないよう、けれど日本の四季を美しく映し出す桜や柳の配置を考え抜いた。
「お美津さん。ただ木を植えるだけではありません。地下に水を通し、根が健やかに育つ仕組みを作りました。これなら、馬車が通る振動にも負けず、百年先まで花を咲かせ続けますよ」
信三が胸を張ると、平左衛門も元武士の門下生たちを率いて、巨木の運搬と植樹を指揮した。 平左衛門は、西洋の礼装を泥だらけにしながら、一本一本の木の向きを、まるで盆栽を整えるかのように細かく指示していった。
「こら、そこな若造。その銀杏の向きが悪い。道を行く人々が、どこから見ても勇気づけられるような立ち姿にせんか。木には意志があるのだ、それを引き出すのが我ら職人の務めだぞ」
一方、お絹と桂木は、新しく作られる公園の一角に、誰でも自由に薬草を摘むことができる救済の庭を設けた。 そこでは、お町や子どもたちが、訪れる人々に植物の育て方や効能を丁寧に教えていた。
「おばあさん、このお庭の草はね、お茶にすると風邪が早く治るんだよ。東京の街は忙しくなったけど、ここに来ればいつでもお花が迎えてくれるからね」
太助が誇らしげに語る姿は、かつての孤児から、立派な若き園芸技師へと成長した証だった。
この東京大改造の様子を見に、渋沢栄一がふらりと現場を訪れた。 彼は、お美津がテキパキと職人たちに指示を出し、巨額の資金と資材を管理する様子を見て、満足げに目を細めた。
「お美津さん。実に見事だ。会社という仕組みをこれほどまでに美しく使いこなすとは。あなたが植えているのは木ではなく、この国の未来そのものですね」
渋沢の称賛に、お美津は汗を拭いながら、清々しい笑顔を見せた。
「渋沢様。私は気づいたのです。江戸の園芸は、誰か一人の贅沢のためにありました。でも、今の東京の園芸は、すべての民の幸せのためにあるべきだと。私たちは、この街を大きな一つの庭にしたいのです」
やがて春が来ると、稲屋が手掛けた街路樹が一斉に芽吹き、殺風景だった東京の街は見違えるように輝き始めた。 異国の使節たちが、馬車を止めてその景観を眺め、口々に「東洋の奇跡だ」と驚嘆した。
「宗助。あのお山から逃げてきた時は、明日さえ見えなかった。でも、今はこの街のどこに行っても、俺たちの育てた木が風に揺れているな」
信三が感慨深げに呟くと、宗助も静かに頷いた。
「ああ。江戸は東京に変わり、武士の世は終わったけれど、私たちが土に込めた真心は、こうして街の中に生き続けている。これこそが、命を繋ぐということなのだな」
お美津は、新しい帳面に「東京緑化計画・完遂」と力強く書き込んだ。 けれど、彼女の瞳はすでに更なる未来を見据えている。
「さあ、皆さん。東京が綺麗になったら、次は全国の荒れた土地を緑に戻しに行きますよ。稲屋園芸の仕事に、終わりはありませんからね」
お美津の明るい声が、新しい東京の街に、希望の鐘の音のように響き渡った。 土を愛し、人を想う。 その心がある限り、東京の空には、これからも絶えることなく美しい花々が咲き続ける。
夕暮れ時、上野の山から東京の街を一望できる丘に、桂木とお絹は並んで立っていました。
眼下には、稲屋が植えた街路樹がどこまでも続き、家々の軒先には江戸から変わらぬ朝顔や菊の鉢植えが並んでいる。 桂木は、風に乗って流れてくる花の香りを深く吸い込み、隣に立つお絹に語りかけた。
「お絹さん。不思議だと思いませんか。私たちは遺伝子の仕組みも、生命の理も、言葉としては何も知らなかった。けれど、江戸の民衆はただひたすらに情熱を注ぎ、数えきれないほどの新しい花々を生み出しました。あの執念とも言える美への想いは、一体どこから来たのでしょうね」
お絹は、手元にある一輪の撫子を見つめながら穏やかに答えた。
「それはきっと、この国の人々が、花の中に自分たちの平和を重ねていたからではないでしょうか。形ある建物や城は、戦争が起きれば一瞬で灰になってしまいます。でも、人々が慈しみ育てた花の命は、たとえ親が死に、家が焼けても、その種が誰かの手に渡れば、また次の春に同じ姿で咲き誇ります」
桂木は、かつて江戸が火の海になる一歩手前で踏みとどまった、あの動乱の日々に思いを馳せた。
「もし江戸の町が、ただの石や瓦の塊だったなら、もっと無残に焼き尽くされていたかもしれません。けれど、勝先生も西郷さんも、そして井伊直弼公も、この町に息づく園芸の価値、つまり八百八町の隅々にまで宿る命の美しさを知っていた。だからこそ、決定的な破滅だけは避けたかった。江戸の園芸が、この町を戦火から救ったと言ったら、言い過ぎでしょうか」
お絹は桂木の言葉に深く頷き、遠くに見える家々の明かりを見つめた。
「そうかもしれませんね。花を愛でる心には、敵も味方もありません。一鉢の椿を育てるのにかかる月日を知っている人は、命を奪うことの虚しさを、誰よりも知っているはずです。私たちが守ってきたのは、単なる植物ではなく、戦いのない世界を願う、人々の祈りそのものだったのです」
街のあちこちで、人々が打ち水をして鉢植えの手入れを始める光景が見えた。 その営みは、江戸から東京へ、そしてさらに先の未来へと、決して途切れることなく続いていくはず。
「お絹さん、見てください。あの子供たちが持っている花の種は、百年後の東京でも、きっと同じように誰かを微笑ませているでしょう。形あるものは消えても、慈しみの心は遺伝子よりも強く、人から人へと受け継がれていく」
「ええ、桂木さん。これからも私たちは、この静かな緑を守り続けましょう。この国が、武器ではなく、花で満たされる日が続くように」
二人の背後で、夕闇に溶け込むように寺の鐘が鳴り響いた。 それは、過ぎ去った江戸への鎮魂であり、新しく始まった平和な時代への祝福のようでもあった。
江戸の民衆が命を懸けて育て上げた園芸の精神は、今、東京の風となって、人々の心の中に咲き続けている。
後日談として、平左衛門がイギリスへ渡る際、その荷物の中には、直弼が愛した萩の種が忍ばされていた。 かつて一人の武士が愛し、守ろうとした日本の美学は、こうして時代を越え、海を越えて、新しい命として芽吹いていくことになったのだ。
完
