さっちゃんの初恋

72歳のさっちゃん

さっちゃん(さつきさん)、72歳。彼女の指定席は、自宅近くを流れるちょろちょろ川のベンチだ。

小川のせせらぎを聞きながら、うつらうつらと居眠りをするのが日課。そのたびに、決まって中学2年生の秋を思い出す。

「いろんな秋だったなぁ」

彼女の隣には、いつも小学4年生のヒロくんがいる。ヒロくんは、さっちゃんの自転車乗りの師匠であり、詐欺事件を未然に防いでくれた名探偵でもある。最近、彼はこのちょろちょろ川でザリガニを獲っている。とりながら、さっちゃんの話し相手にもなっている。実に賢く、好奇心旺盛な少年だ。

「さっちゃん、また笑ってる。どんな夢見てたの?」ヒロくんが、手に持ったザリガニを見せながら尋ねる。

さっちゃんは優しく笑う。「ふふ。昔の恋よ。…あなたによく似た男の子に、手を焼いた初恋」

ちょろちょろ川の初恋(回想)


中学生になったさっちゃんは、急におしゃれに興味を持った。深い理由があったからだ。

ちょろちょろ川の川岸にある秘密基地は、相変わらずさっちゃんの特別席。そこで、時々、隣町の男の子と出会うようになった。名前は安岡和也(やすおか かずや)。スラリとした背に端正な顔立ち。さっちゃんの理想を完璧に具現化したような人だった。

彼とは、数カ月前、全国的な音楽コンクールで地域代表として並んだことがある。彼が隣にいた女の子の顔をじっと見ていたのが、さっちゃんの心に深く引っかかっていた。「もしかして、あの子が好きなのかも……」という第六感があった。

それでも、さっちゃんは彼が好きだった。彼の名前は親友のよっちゃんから聞き出した。

安岡和也

それから、何度も、安岡和也とノートに書いた。書くたびに彼の顔や姿を思い出した。
「なんて素敵な名前なんだろう」

秘密の観察者

そんな和也君がある日、相棒の柴犬を探して叫んでいた。「ラッキー、ラッキー、どこに行ったんだ!」

さっちゃんは秘密基地からそっと川を覗いた。川岸の浅瀬に、釣り人が捨てた小魚が泳いでいる。案の定、ラッキーはそこにいた。まるでアライグマのように、前足で水面をちょいちょい叩いて小魚と遊んでいる。魚たちは賢くて、なかなか捕まらない。

さっちゃんが思わず笑みをこぼすと、和也君が近づいてきた。

「キミと、どこかで出会ったような気がするよ」

音楽コンクールの一件など、すっかり忘れているようだった。無理もない。さっちゃんは地味で目立たない女の子。和也君がじっと見ていたあの子みたいに可愛くはない。

さっちゃんのドギマギを想像もしない彼は、屈託なく話しかけてきた。「いいところだね、この川」

その日の和也君との会話はそれだけで終わった。

ドキドキを隠す方法

それから、時々ちょろちょろ川の川岸で彼と会うようになった。一番喜んでいるのはラッキーだ。さっちゃんを見かけると一目散に走ってくる。そのたびに、和也君はラッキーに引っ張られてやってくる。

「こんにちは」

「ヒバリが鳴いてるね」「桜がきれいだね」と会話は続いた。しかし、さっちゃんには深刻な問題があった。話そうとしても、声がなかなか出ないのだ。胸がドキドキしてしまい、それを抑えるのに必死でいるうちに、会話のタイミングを逃してしまう。

そこでさっちゃんは、ドキドキを隠すために、ある行動を始めた。

会話が途切れるたびに、川辺の小石を拾い集めるようになったのだ。丸い石、平たい石、変わった色をした石。それを手のひらで転がし、まるで熱心な地質学者のように。

和也君は、さっちゃんのその不思議な行動に全く触れず、優しく見守るだけだった。

期待と崩壊

そんなある日、いつもの場所に和也君が待っていた。

「キミにお願いがあるんだ。」

「な、なになに?」さっちゃんは期待を込めて、次の言葉を待った。

「キミの学校に、田中麗奈という人がいる。実は、その人にこの手紙を渡して欲しい」
その手紙の裏には「安岡和也」と書かれていた。
「安岡和也」いつもノートに書いている名前だ。

さっちゃんは一人でいることが好きで、他のクラスとの交流は、ほとんどなかった。だが和也くんの頼みなら、しかたない。

翌日、すぐに聞き込みを開始した。田中麗奈(たなかれいな)はすぐに見つかった。男子生徒の間でマドンナと呼ばれるほどの人気者だ。休み時間には、他のクラスの男子が廊下の窓に張り付いて、彼女の姿を眺めているという。

さっちゃんは、和也君から渡された手紙を持って、彼女のクラスに出向いた。

たしかに、彼女はとても可愛かった。彼女は手紙を受け取ると「ふ~ん」と一言だけ。ありがとうとも言わなかった。

「まったく、礼儀知らすなんだから。わざわざ探して手渡した私に礼もいわないなんて!」

でも、多分、慣れているのかも。みんなからいつも手紙をもらっているのかも。とても美人だもの。

さっちゃんは無理やり自分を納得させた。

「とても敵わない。私のばかタレ」

その瞬間、さっちゃんの初恋は見事に崩壊した。

初恋にさよならした秋。さっちゃんは、あのとき夢中になって集めた小石を、そっと秘密基地の隅に埋めた。

72年後の真実

ある日、さっちゃんのいるいつものベンチに、ヒロくんが古ぼけた木箱を持ってきた。

「さっちゃん、これ見て!家の裏の倉庫で見つけたんだ。この前亡くなったおじいちゃんの物らしいんだけど」

木箱の中には、中学生が書いたような拙い文字で、ぎっしりと日記帳が詰まっていた。その中に、さっちゃんの見覚えのあるものが挟まれていた。

それは、さっちゃんが中学生の時に必死に集めていた川辺の様々な小石だった。

「これ、さっちゃんが昔、集めてた小石だよね?」

さっちゃんは、驚きで手が震えた。「この石は……私の秘密基地、初恋の場所にあったものよ」

ヒロくんは、日記帳の一番古いページを指さした。

「ちょろちょろ川にいる、いつも石を拾っている女の子。あの子に話しかけたいのに、緊張して全然声が出ない。僕が話しかけると、なぜか一生懸命石を拾うんだ。その姿が可愛くて。僕は、あの子のそばで、その石を拾っているのを眺めるのが好きだ」

さっちゃんは息を飲んだ。日記には、あの音楽コンクールの話も出てきた。

「コンクールで双子の兄、安岡和也が、田中麗奈さんの隣になって、あまりに緊張しすぎて、つい麗奈さんの顔をじっと見てしまったらしい。でも、双子の弟の僕は、舞台袖にいて、さっちゃんの顔をじっと見ていた。僕好みのなんてかわいい女の子なんだろうと」

そして、最後に、安岡和也からの手紙を渡した日のことが書かれていた。

「音楽コンクールの後、どうしてもさっちゃんと仲良しになりたかった。だから、双子の兄(安岡和也)に頼んで、同じ学校のさっちゃんを介して、田中麗奈への手紙を手渡す役割を引き受けた。それをチャンスにさっちゃんと話しができるようになりたかったから。
でも、……俺のバカ。それ以来、なぜかさっちゃんは僕を避けるようになってしまった。」

双子の弟「安岡ヒロシ

さっちゃんの胸が、今、72年ぶりに激しく脈打った。

「ヒロくん……まさか、あなたのおじいちゃんは……双子の弟?私のみまちがい? 勘違い?

「ううん。僕のおじいちゃんは、安岡和也の弟のヒロシ。日記の最後の方には、兄貴に頼まれた手紙を渡すとき、さっちゃんがとても悲しそうな顔をしたって書いてあるよ。そして、そのあとに、さっちゃんのことが大好きだったって、書いてあるんだ」

さっちゃんの頬に、一筋の涙が伝った。

彼女の初恋の相手は、いつも川岸で彼女を優しく見守ってくれていた安岡ヒロシ、声を出せなかった自分と同じように、想いを伝えられなかった双子の弟、ヒロシだったのだ。

安岡和也ではなく、安岡ヒロシ

ちょろちょろ川の河岸で出会った彼はヒロシくんだった。音楽コンクールで見た安岡和也と背丈も顔もそっくりなだった。

「なんてバカなわたし、本当にバカタレ!」

「ヒロくん、あなたのおじいちゃんのお名前は安岡ヒロシ?」

「そうだよ、そして僕の名前は安岡ヒロ」

「そう、あなたの名前はヒロくん。…いい名前ね」

さっちゃんは、古ぼけた木箱を優しく抱きしめ、またひとりくすりと笑った。

知らぬが仏、うふふ。そして、知ってよかった、うふふ。

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