心の深き森

一人の女性の心の迷いを描いた作品(未完成)

第一章:回想

心の森 真実の自分探し** 多重人格の闇と苦悩 **

|登場人物|
|キャラクター1:私、佐藤美保子、33歳 |
|キャラクター2:夫、佐藤弘、33歳|
|キャラクター3:友人家族、
中国生まれのカナダ在住、李(リー)76歳、その一族|
|キャラクター4:友人、広瀬さくら 、30歳|五重人格の持ち主|
|その両親、父、広瀬勝一郎、母、広瀬エツ、妹、広瀬香織|

ケベック|金髪の美男子、レオ・ベルナール|ベルボーイ| 

心の森**真実の自分探し**

70歳になった私、佐藤美保子は、この5年間を「佐藤弘の遺品整理祭り」と名付けて過ごしてきた。一年目は夫の形見と格闘。二年目からは、夫のモノがなくなった結果、際立って目立ち始めた自宅の生活臭と格闘。五年目に突入した今、ようやく自分の持ち物を「どうせ死ぬんだから」という開き直りと半ば諦めの精神で片付け始めたところだ。

そこで出土したのが、分厚い介護のテキスト群。その間に、ちょこりんと挟まっていたのは、手のひらに収まるサイズの、飴色に変色した小さな手帳だった。

「あら、まるでツタンカーメンの墓を発掘した気分ね」

手帳の表紙を払うと、埃がフワリと舞う。それは、私が長い間、心の奥底に封印し、あわよくばそのまま土葬にしたいと思っていた、隠された自分の過去――カナダでの旅の一部始終と、誰にも話したことのない、ある体験の断片が眠っていた。

美保子は、その手帳を膝に抱え、遠い目をしながら、回想を始める。あの日の介護教室から。

プロローグ

 10月10日、この日は私、佐藤美保子にとって特別な日だった。 「今日はね、まさに東京オリンピックの日。開会式よ! 懐かしいな」

私が教室を見渡しながら、半分目をとじ、まるでラジオのノスタルジー番組のDJのように言葉を発すると、若い声がものうげというより、面倒くさげに返ってきた。

「東京オリンピックって、結局、開催されないんじゃないの」 キリキリした若い女性の声。きっと、夜中のネットゲームで寝不足なのだろう。
「入場券、買ったけど、どうなることやら。払い戻しの手続き、面倒くさいんだよなー」 ちょっと細い男性の声。こちらは、アルバイトのシフトとオリンピックの予定を合わせるのに苦労したに違いない。

若い声の主たちは、どちらも私のクラスメート。実は、私は介護教室に通う生徒なのだが、教室内の生徒のほとんどが10代後半から20代の若者たち。70歳に近い私は、まるで原始人か、動く歴史教科書のような扱いだった。

「まあ、いっか。頑張ることにかけては、私、年季が違うんだから」

実技は、反射神経が**サビついた蝶番(ちょうつがい)**のようで、なかなか合格点がもらえない。しかし、座学だけは別だ。特に「認知症患者とのコミュニケーション」や「高齢者心理」といった科目は、実体験が裏打ちとなり、ほぼ満点だった。

夫を自宅で介護するための学びをしたいと申し出たら、即座に入学許可が下りた。一週間に一度の通学。パートを続けながらでも、余裕で通うことができた。

だが、この圧倒的な年齢差は、どうしようもない。 若者たちの話すことは、ゲーム、SNS、オーディション番組。私の話すことは、終戦直後の食糧事情、大昔の流行歌、そして夫の病状。経験値が全く異なり、話すことがまるで、東京とパリ、別々の周波数のラジオのように全く噛み合わない。

(まあ、いいわ。人生、年齢差や性別の差だけが壁じゃない。もっとたくさんの、分厚いコンクリートの壁が、他人の心との間に横たわっているんだから。)

夫のためにと学び始めた介護学。分厚い5冊のテキストの中には、私が長年抱いていた問い――「人間関係や愛も、介護と同じく、スキルが必要だ」という回答の道筋が書かれていた。

夫が入院している間に、介護の資格をとる。それが、私、佐藤美保子の目標だった。

「在宅介護。これこそ、夫の望みだったから」

大腸ガンが見つかってから5年目。4回の手術と、その度に実施した抗がん剤治療。夫の体重は、ピーク時の75キロから50キロにも満たないガリガリの体になってしまった。

「多分、これ以上の治療は、延命に繋がるだけで、無駄でしょう。いつどうなっても、おかしくない状態です」

担当医師は、パソコン画面を見ながら、前の面談と全く同じことをまるでAIのように淡々と繰り返す。無口な夫は、ますますだんまりを決め込む。

「これ以上は、何もできないということですか?」 佐藤美保子の質問に、若い医師は顔も上げずに答えた。 「そうともいえますね」 そこでようやく、彼は生まれて初めて患者の顔を見た。 「それでは、私たち夫婦は、家に帰ります。自宅で介護をしますから」

フサフサした黒い髪をなでながら、医師はしぶしぶ答えた。 「では、それを他のものに伝えます。手続きをしてください」 その最後の一言で、その総合病院とは、まるで別れ話のようにサヨナラを告げた。

その前日に介護の学びはすべて終了し、あとは証明書をもらうだけだった。でも、夫の介護ができれば、資格など二の次でいい。優しい夫は、万事におおらかで、私の暴走気味の行動も、いつも笑って許してくれた

その翌日から、看取りをしてくれる医者探しが始まった。10件以上に電話して、やっと、真夜中でも訪問してくれる奇特な医者を見つけた。奇特と言うより、もはや貴徳

アメリカ帰りの大きな体形のその医者は、こぼれるような笑顔と、理路整然とした病状説明で、介護する私にまで優しく気を使ってくれた。

「奥さん、救急車は呼ばないでください。ご主人の最期の尊厳を守りましょう」

介護の資格をとったとはいえ、看取りは難しい。 義父が水を飲めなくなった時、私は大慌てで救急車を呼んでしまった。延命措置だけはしないでと頼まれていたのに。あの時は、私には死をひとりで受け止める勇気も心構えもなかった。

「今度こそ、後悔しないように」

夫を看取ったのは、退院後、4ヶ月目。時が過ぎるのは、あっという間だった。介護というより、まるで新婚時代に戻ったかのような雰囲気。世間の雑音は全く耳に入らない。夫のベッドサイドの鈴🛎️の音だけが、私の世界を支配する。

「水」 「牛乳」 「トイレ」 単語だけの指示。しかし、必ず、「ありがとう」が返ってくるのが、この世界での唯一の救いだった。用がない時は、私がそばにいて手を握っているだけで、夫は安らかに眠ってくれた。

介護はひまじゃない。洗濯、掃除、料理、買い物、自分の食事。パート仕事も休むわけにはいかない。 4ヶ月があっと過ぎた頃、夫は、 「美保子、来年、桜が見たいな」 とまるで世間話のように言い始めた。

「なんだか、これは予感だわ」

医者が訪問してくれた時に、その予感をいうと、同じ答えが返ってきた。 「奥さん、頑張りましょう。真夜中でもいつでも、この携帯に電話してください。救急車は呼ばないでください」と、携帯電話番号を渡してくれた。

その携帯電話は、三日後の真夜中に役立った。

真夜中の1時過ぎの電話に、医師は即座に対応してくれた。 トイレから、まるでワルツを踊るように、夫を抱き抱え、ベッドに戻る途中のこと。折り畳んでいた私の布団に背を当てて、夫はうっとりした顔で安らかな呼吸になった。あのゼーゼーした荒い呼吸が消えた。 その時、玄関で呼び鈴が鳴り、お医者さんが現れた。まるで、夫がワルツのステップを踏み終えるのを待っていたかのような、完璧なタイミング。本当に、スーパーマンだった。

その日のことは、多分、死ぬまで忘れない。 経験豊富な医者の登場で、どんなに助かったことか。介護資格は、もちろん大切だが、実際に体験することは、「トイレ介助で、体格のいい夫をどう抱えるか」という現実的な知識がさらに重要だと、その時に悟ったなー

その介護学校の分厚いテキストを見ながら、そんな過去を振り返っていた。 その時に、ポトリと落ちたのが、小さな古ぼけた手帳。

(そういえば、当時はスマホもなく、カメラも今のように便利じゃなかった。私の旅のお供は、いつもこの一冊の手帳だったわね。)

その手帳には、私が意識的に忘れようとした過去の断片、カナダの旅の一部始終、そして、多重人格という名の、私の未知の世界で味わった苦い体験が書かれていた。思い出したくない過去。誰にも話したことのない体験。

美保子は、手帳の最初のページを開く。そこに記された文字は、自分のものだが、まるで遠い他人の筆跡のように見えた。

第二章 ①

軽やかに始まる「心の森」 真実の自分探しの旅

(夫の失職でパートを始める。その経験談)

第二章 ②

(若き男との不倫一歩手前)

第二章③

転んでもタダでは起きぬ、出会いの巻

『私の結婚生活、もはやコントですか?』

今年、33歳になる佐藤美保子は、ベッドの上で、心の中の毒を吐いていた。

つい昨日の話。朝、体調がジェットコースターの底辺をさまよいながら、夫を送り出した美保子。ようやく重い体を台所へ引きずり、自分も「生命維持のため」に何か食べねば、と朝食の準備に取りかかったものの、体力ゲージはレッドゾーン。二階の布団にたどり着いた美保子を待っていたのは、まさかの「ホラー展開」だった。ヌルヌルと止まらない出血に、痛みと恐怖で頭はパニック。

「実家の電話番号以外、他は覚えてない!」

とっさにかろうじて暗記していた実母の電話番号をダイヤル。離れた実家へSOS。さすがは実母、受話器ごしに一言。「何があったの?」と聞く前に全てを察し、即座に**「それ流産!命に関わるからすぐ救急車!あなたの住所も、弘さんの会社の電話番号もこちらに控えがあるから大丈夫!」**と、まるで緊急司令官のように次々と指示。驚いた両親が、救急車の手配から夫の会社への連絡、病院の手配まで、秒速で済ませてくれた。

ちなみに、この時、美保子と「同居中」の義父と義姉は、階下にいたはず。だが、美保子の叫びは空気に溶けて、呼んでも返事一つない。「会社に行っているはず」の夫の連絡先を暗記していない美保子にとって、実母の存在は、まるで命の綱だった。救急車が家の前に「ドーーーン」と止まって、初めて「まさかウチ?」と、義父と義姉が呆然としていたというオチまでついた。

たった一日の入院だったが、美保子はこの一件で人生を深く、深く、深ーく考えこむようになった。「このコント、いつまで続くの?」と。

第二章④多重人格の闇と苦悩

そんなある日、一本の電話が、美保子の思考を中断させた。 「美保さん、お元気ー?」

電話の主は、以前、美保子が落とし物を拾ってあげたことがきっかけで交流が続く、広瀬さくら。名前は「さくら」だが、満開の桜のように華麗かというと、そうでもない。スタイルは良いし、顔もまあまあ。だが、何かが足りない。美人というには惜しい。メガネを外せばいいのかと思いきや、外すと目を細めるので、まるで怪しい不審者のようだ。

のんびりしたさくらの声は、なぜか美保子の心を安心させ、オアシスのような安らぎを与えてくれる。 「会いたいな」 「即オッケー!」美保子は反射的に答えた。

待ち合わせ場所で、美保子が文庫本片手に30分ほど「読書タイム」を楽しんでいると、当のさくらがトボトボと現れた。彼女曰く、「家から2時間かけて歩いてきた」とのこと。遅刻はいつもの「デフォルト」なので、美保子は動じない。 「ごめん。待たせた?」 さくらは、全く悪びれた様子もなく、申し訳なさそうに謝る。 「大丈夫。私には本があるからね」 美保子もすっかり大らかに構える。さくらとの約束は「30分の猶予」が標準装備なのだ。

広瀬さくらは、美保子とは比べものにならないほど豊かで、ゆとりある暮らしをしているはずのお嬢様。その上、ピュアで、人の悪口や嫉妬など、まるで無縁な「聖人君子」タイプ。美保子がいくら頑張っても、太刀打ちできない「理想の人格者」だ。

つい、美保子は夫の家族への愚痴をこぼしてしまう。 「結婚前はね。『父親は定年後、長野の実家にある相続した土地を耕して、老後をエンジョイする』『姉は婚約が決まってるから、すぐに出て行く』って説明されてたの!ところがフタを開けたら、みんな居る!弟も高校卒業のはずが、近所の悪ガキに誘われて夜遊び三昧!」

ミルクたっぷりのコーヒーを飲みながら、さくらは真剣に美保子の言葉を聞き、ポツリとつぶやいた。 「それって、結婚詐欺じゃなーい?」

「夫はね、『結果的にはそうだけど、自分はみんな出て行くと思ってたから、騙したわけじゃない』って反論するだけ。その結果が今の私の状況なのよ!」

すると、さくらは核心を突いてきた。 「お母さんはなんて言ってるの?」

言われてみれば、流産事件の時に実家を頼ったのは、単に「夫に連絡できず、階下の義父と義姉に気づいてもらえなかったから」という偶然の産物。そもそも、美保子は幼い頃から母の意見を気にしたことがない。母は指示しない人だったから。

「そういえば、流産事件の時に『離婚しようかな?』って母に言ったらね、」 美保子は思い出したように続けた。 「『十年我慢しなさい。その後、何をしようとあなたの勝手。自分で決めた結婚でしょ。10年経てば、また別の考えが生まれるかもしれないし、10年我慢出来たら、おのずと忍耐力ができるから。若い時の苦労は買ってでもせよというしね』

それもアリかな、と今は、じっくり思案中なのだと美保子は語る。

美保子の話を「ふむふむ」と聞いていたさくらは、 「いいね。私なんて、辞めようと思う前に、クビになってしまうから」

さくらは30歳。化粧っ気はなく、服装にも無頓着。多分、恋人はいないだろう。聞くのもためらうほど、彼女の笑顔は少女のようだ。

「どういうこと?」美保子の心のモヤモヤは、さくらの笑顔と発言で嵐のように吹き飛ばされた。 「今回もね、実は暇ができちゃって。この前話した、電話の受付の仕事。なんと**3日で『もう来なくていいよ』**って言われちゃったの」

美保子は驚愕した。『三日?』 一流大学を出て、英語だけでなく、フランス語までマスターしていると言っていたはず。今は考古学が趣味で、エジプト旅行のためにイスラム語まで学びたい、というこの知性溢れる女性が、試用期間もまともに経ず、まさかの3日でクビ?普通、3ヶ月ぐらいは様子を見るものでは?

しかし、その疑問は、美保子の頭を一瞬だけ駆け巡り、すぐに消えた。美保子自身が、次の話題に切り替えたからだ。

「ところで、話変わるけど、私、カナダを旅しようかと思うの」

美保子には、カナダに李さんという友人がいた。浅草の雷門前で知り合ったのは、かなり前。李さんは、戦時中、船の爆撃で唯一生き残った自分を看病してくれた日本人看護師を探していた。美保子の協力もあって、その再会が実現。そのお礼として、「ぜひカナダに来て!」とオファーを受けているのだ。

美保子の話に、さくらは強く心を打たれた様子で、目を輝かせた。 「美保子さん、私もカナダに行きたい!せっかく学んだフランス語を、思う存分使いたい。ケベックにも行きたい。」

同行を必死で頼むさくらに、美保子は「まさか」と思いながらも、思わずオッケーの返事をしてしまった。

その直後、さくらは得意げに話し始めた。 「私ね、フランスに二回も行ってるの。で、二回ともね、スリにあって、お財布からパスポートまで、身ぐるみ全部剥がされたのよ!30人くらいのツアーなのに、なぜ私だけスリに遭うのかしら?」

そう言って、不思議満載の顔で笑うさくらの話を聞きながら、美保子も笑いが止まらない。

彼女の珍道中エピソードは続く。 「尾瀬沼にアルバイトとして、夏の間だけっていう契約で行ったんだけど……」 美保子の「尾瀬沼は素敵だよ」という一言を信じ、「働く」という形で行動に移したらしい。美保子はただ登山を勧めただけなのに。 「それがね。なんと10日も経たないうちに、人手は足りないのは確かだけど、『キミには辞めてもらいたい』って、残念なお言葉をいただいちゃったの」

そんな「なぜ?」だらけの不思議な話が続いた後、トドメが来た。 「この前ね、父と相談して、『30歳だから、自立しようではないか』とね。父がアパートを探してくれて、敷金・礼金まで払って、引っ越し屋さんまで手配してくれたの」

なんてお嬢様!一人っ子でさぞや甘やかされて育ったのだろう。美保子は心の中で「なんて贅沢な!」とツッコミを入れながらも、笑顔で話を聞く。なにせ美保子は18歳で上京し、アパート探しからバイト、大学通学まで全て自力でやったクチだ。生活経験が違いすぎる。

「それで、どうなったと思う?たったの3日で出戻り」 笑いながら、コーヒーのおかわりを頼むさくら。

「三日とは、いかなること?」美保子の質問に、さくらはさらに笑いを深めて答える。 「父の話ではね、私は一日目に『何を食べようか』と考え、二日目に『カレーライスにしよう』と決断し、買い物に出かけ、翌日、『では、作ろう!』と思った時に、あまりにも空腹で、SOSの電話を父にしたそうよ」

「そんな……」美保子は言葉を失う。普通、お腹が空いたら何か食べるでしょう! 「『たしかに。それが点滴だったとは。お釈迦様でも知りませんね』と父に言われてね」

「私ってそんなに面白いの?」 突然、美保子の顔を真剣に見つめて、さくらは尋ねた。あまりに笑いすぎる美保子を見て、彼女は不思議そうだった。

でも、美保子にとって、彼女の存在はありがたいものだった。さくらの話を聞いているうちに、自分の内にある重い悩みなど、遠い霧のように吹き飛んでしまったのだ。 「まぁ、いっか。なんとか人生はなるだろう!」

美保子は、彼女との楽しい会話が、きっと旅先でも続いていくと信じて、さくらの同行を認めた。きっと、楽しい旅になるだろうと、期待を込めて。

まさか、とんでもないことになるとは、この時の美保子は全く予想だにしていなかった。

第三章 ① 空飛ぶお嬢様の秘密兵器

「ねぇ、カナダの友達のところに、ちょっと『リフレッシュの旅』をしてくるけど、いい?」

夫、佐藤弘の答えは、美保子の予想通り。「いっといで」と、蚊の鳴くような小声だった。

会社や自分の家族には「キング・オブ・オレ様」なのに、なぜか妻である美保子には、どこまでも従順。義姉が**「多分、逃げられては困るからでしょう」**と、愛のない(だが的確な)一言で分析した通りなのだろう。本当は「愛があるから」と言ってほしかったが、美保子の辞書に「愛」の項目は既に薄くなっていた。

美保子は水面下で着々と準備を進めていた。自分の持ち物を整理し、いつでも家を出られるように。心の奥底では決めていた。旅から戻ったら、その足で離婚。荷物は業者に全部任せよう、と。

そんな妻の「離婚カウントダウン計画」を知る由もない義姉は、出発の朝まで「カナダのお土産、期待してまーす!」。義父に至っては「カナダって、何県の?」と、地球儀を一周させるような不思議な質問で美保子を送り出した。

そんなこんなの波乱含みの旅立ち。

成田空港。父親に荷物を持たせ、丁寧に見送られながら歩いてくる広瀬さくらを見て、美保子は改めて「雲の上の人」認定をした。「これから飛行機に乗るんだから、雲の上はまだ早いか」と、一人ツッコミを入れながら。

しかし、その雲の上の人が、今、地上の父親と何やら揉めている。美保子が近づくと、さくらが父親・勝一郎から何かを強引に奪い取ろうとしている真っ最中だった。

「美保子さん、さくらったら、信州から届いた蕎麦を李さんへのお土産として持って行くと聞かないんですよ!」父親の悲痛な叫び。

「だってお世話になるんだから、当たり前でしょう!」さくらの口調は、美保子が今まで聞いたこともないほど強く、そしてキツイ。美保子はこの豹変ぶりに一瞬たじろいだ。

「さくらちゃん、落ち着いて!飛行機に乗る時って、食べ物の持ち込みとか、出入国検査で引っかかることが結構あるから。お父さんに預かってもらった方が絶対安全だよ!」

美保子の説得と笑顔に、さくらはハッと我に返ったかのように、しぶしぶと蕎麦を勝一郎に渡した。「蕎麦事件」の決着である。

「ワガママな娘ですが、よろしくお願いします」

深々と頭を下げる父親。彼は日本の最高学府を卒業し、予備校の名物講師、通称「数学の神様」。参考書も多数出版する知性の塊だ。だが、そんな神様でも、生身の人間、娘・さくらには全く歯が立たない。

「人それぞれ、人生の難題を抱えているのね」美保子は、さくらを見ながら妙に納得した。

いざ、搭乗前の身体検査と荷物検査。さっさと通過する美保子と違い、さくらは見事に「引っかかりまくり」。引き戻されたので何があったのか見えなかったが、しばらくしてプンプンと機嫌を損ねて入ってきた。

「梅干し、取られちゃった」 「え……?」 「果物ナイフも取り上げられてしまったわ」

二回もフランス旅行に行っているのに、その辺の国際ルールはすっかり抜け落ちているらしい。

美保子は、先ほどの「蕎麦事件」といい、今回の「梅干しとナイフ事件」といい、さくらの物への尋常ではない執着心に強い違和感を抱いた。そして、フツフツと疑念が湧き始めた。「この旅、本当に大丈夫だろうか?」

第三章② パスポートどこ行った? 〜まさかの容疑者〜

成田からバンクーバーまで、約10時間の空の旅。「寝ているうちにカナダに着けば最高!」と美保子が横になろうとしたその時、隣でさくらがゴソゴソと動き始めた。

白い紙に文字を書いている。日記だろうか?きっと今日の珍体験をメモしているのだろう、と美保子は勝手に納得し、詮索せずに眠りにつくことにした。

しばらくして、「トントン」と肩を叩かれた。さくらだった。

「ないの。お財布とパスポート」 「え、そんなわけないでしょ。さっきまで持ってたじゃない」

美保子の言葉など、さくらの耳には届かないらしい。さくらはキャビンアテンダントに向かって、さらに近くの外国人乗客にまで、日本語で繰り返す。 「私のサイフとパスポートを見かけませんでした?!」

「そのうち見つかるわよ」美保子が再び声をかけると、さくらはムッとした表情になったが、それ以上は何も言い返さなかった。

美保子はそのまま深い眠りについた。

だが、食事で起こされてしまった。「10時間ぐらい、何も食べなくても生きていけるのに」と寝ぼけ眼でボーっとしていると、再び「トントン」と、今度は少し強めに肩を叩かれた。

隣のさくらだ。 「よく寝られるわね。良い子は育つ。確かに」

…これ、褒めてる?それとも、嫌味?美保子は判断に迷ったが、次に続いた言葉に、ボーっとしていた頭が一気に覚醒した。

「美保子さん、もしかして、あなたが私のサイフとパスポートを盗んだんじゃない?」

「仰天!」という言葉では足りないほどの衝撃。 「私、寝てたのよ!どうやって盗めるっていうのよ!」

美保子は、以前スーパーで万引きを疑われ、店長を呼んで違法行為だと訴えた時の、あの「とてつもない嫌悪感と恐怖」を思い出した。**やっていないことを疑われる。**これは当事者にとって、最大の悪夢だ。

美保子は、自分は盗んでいないし、見たこともないと強く言い切った。そして、深呼吸して一言付け加えた。 「もう一度、ゆっくりとポーチのポケットをすべて丁寧に調べなさい。疲れたから寝る」

美保子は強引に背を向け、そのまま眠りについた。

その間、美保子は夢でも見ていたのだろうか?

何事もなく、飛行機はバンクーバーに到着。そして、何事もなく、二人ともカナダに入国審査を終えた。

「なんだ、パスポートはあったんじゃない」

美保子はホッとしながら、右側を歩くさくらを見た。そこにはいつもの、にこやかなさくらが微笑んでいた。

「あれはなんだったのだろう」

美保子は、さくらの「盗んだんじゃない?」発言があまりに衝撃的すぎて、まるで自分が悪い夢を見ていたかのように、自分自身を疑ってしまった。

第三章 ③ 春のバンクーバーで、突然の「英語脳」開花

バンクーバーの2月末。日本はまだ冬の気配なのに、ここは桜並木が公園をまるで「夢の国」のように飾っていた。

空港まで迎えに来てくれた李(リー)さんは、御年76歳。だが、その若々しさはまるでテニス雑誌から飛び出してきた紳士のよう。しかも、「私は12ヶ国語が話せるのよ」とサラッと言ってのけ、錆びついた日本語で、よりによって美保子ですら歌えない美空ひばりの名曲を披露してくれた。李さん、多才すぎます。

そんな李さんの車中で、事件は再び勃発した。

「美保子さんがサイフを盗んだ」

突然、さくらが口火を切った。美保子は「また始まったか!」と頭を抱えたが、さすがは李さん。「美保子がそんなことするはずがない」と、美保子の弁護に回ってくれた。

それに対して、さくらがさらに妙なことを言い始めた。 「私、英語がすごく上達したみたい!だって、李さんの英語がすごくよくわかるの!」

李さんはニコニコ笑っている。 「さくらちゃん、落ち着いて。李さんは今、バリバリの日本語で話しているのよ。通じるのは当たり前でしょう?」

美保子が優しく訂正するのを、さくらは静かに聞いていた。しかし、数分後、再び「美保子にサイフを盗まれた」と、エンドレスループに突入!せっかくの李さんとの感動的な出会いが、なんだか妙な「探偵ごっこ」になってきた。

美保子はこの状況にピリオドを打つべく、思い切って行動に出た。さくらのポーチを取り上げ、中身をガサゴソ。そして、出てきた。

「さくらちゃん、ほら、ここにあるでしょう!パスポートと、お財布も!」

李さんは、運転席から一部始終を見ていたが、何も言わずただ頷いた。そして、美保子にだけ聞こえるように、早口の英語で一言。 「She must be kidding.(彼女は冗談を言っているに違いない)」

テニスコートを指差し、「あそこの会員でね」と誇らしげに語る李さん。76歳にして、人生を謳歌しているその姿は、美保子に「私も人生、リセットできる!」という希望を与えてくれた。

長い坂道を登った先に、李さんの家はあった。崖を利用したモダンなデザインで、まるで秘密基地。いとこの息子が設計したという。

庭の案内がまた規格外だった。地下からは日本庭園、二階は中国風庭園、そして三階にはイタリアから運んできた彫刻像が並ぶイタリアの庭。あまりに部屋が多すぎて、美保子は「ここでかくれんぼしたら、一生見つからないな」と真剣に思った。

美保子たちは、日本庭園に面した地下のゲストルームに案内された。「バンクーバーにいる間はずっと泊まっていい」と言われたが、李さんにこれ以上「お騒がせコンビ」として迷惑をかけるわけにはいかない。

翌日から、李さんお勧めのホテルに泊まることにした。

私、佐藤美保子は、大の書店好き。バンクーバーの美しい本屋さんで一日中過ごすのが至福の時だ。

「英語もフランス語も得意!」と言っていたさくら。一人で行動できるはずだが、「最初は二人で」というので、朝、カフェに入った。

向こう側のスタッフは忙しなく働いている。美保子は熱いコーヒーとクロワッサンを指差し、「プリーズ」と注文。代金を払い、「レシート、プリーズ」と言えば、無事ミッション完了だ。

テーブルで待っていると、さくらがぶつぶつ、プンプンしながらトレーを持ってやってきた。

「やんなっちゃう。頼んだものが違うわ」

トレーの上には、なぜか冷たいミルクと、妙に硬そうなクッキー。「こんなもの頼んでないもの」と、さくらは不満顔だ。美保子は「見ざる聞かざる」とばかりにクロワッサンを食べ始めた。

「どうやって、そのクロワッサンをオーダーしたの?」さくらは羨ましそうに尋ねる。

「簡単よ。『それ、ちょうだい』って指さしただけ。あとはお金を払う。それだけよ」

さくらは心底感心したように、「英語ができなくても、通じるのね?」と言う。

「全くできないわけじゃないわ。でも、人生、度胸と指差しよ!」美保子は、身振り手振り、片言英語、笑顔を駆使して自分の要求を難なく通してしまう、タフな荒波航海術を改めて実感した。

美保子はこの時、「さくらはきっと、学校英語は満点だけど、実戦能力ゼロの典型的なお嬢様なのね」と安易に考えていた。まさか、注文カウンターで、既に別の人格に切り替わっていたなど、知るよしもなかったのだ。

第三章 ④ 豪華ディナーで目覚めた「食い殺され」パニック

|バンクーバー4日目。美保子にとって、この旅で最も楽しみにしていたイベントがやってきた。李さん一家からの夕食のお誘いだ。

「家族みんなで作った料理をぜひ食べてほしい。ホテルに迎えに行くから、準備して待っててね」という李さんのメッセージに、美保子は「ご馳走!」と聞いてワクワク。広瀬さくらも、今日は朝から機嫌がいい。太陽のせいか、それとも夕食の予感か。

夕方、ホテル前に横付けされた車を見て、美保子は思わず目を擦った。ロールスロイスだ。

李さん曰く、「バンクーバーに3台しかない代物。こんな時に乗らないと出番がないからね!ホテルのスタッフに私たちがどれだけすごいかを見せつけたいのさ!」とのこと。

美保子は心の中で(貧乏生活に慣れすぎた私には、足が床に届く軽自動車の方が落ち着くのにな…)と思いながらも、セレブな雰囲気を楽しんだ。

あっという間に李さんの大邸宅に到着。玄関を入ると、応接間から賑やかな笑い声。そこには、美保子が見たこともないほど大きな、しかも回る円卓が!豪華絢爛な料理が次々と運ばれ、テーブルは宝石箱のようだ。

李さんの娘さん、息子さん(有能な弁護士らしい。見ただけで裁判に勝てそう!)、さらには奥さんやそのお姉さんまで、みんなが笑顔で挨拶してくれる。「みんなで作った料理ですよ」と。

通訳がなくても、美味しい料理とワインがあれば、楽しい時間はあっという間に過ぎる。美保子は、ほどほどに食べて「もうお腹いっぱいです」と断り、会話と雰囲気に集中した。

ところが、隣のさくらを見たら、驚いた。勧められるがままに、さくらはすべてを食べている。どう見ても限界突破しているはずなのに、決して断らない。まるで**「食を断るのは失礼」**という謎の使命感に駆られているかのようだ。

食事が終わり、弁護士の息子さんにホテルまで送ってもらう。

ホテルに戻り、美保子が「どっこらしょ」とベッドに腰を下ろした瞬間、さくらが突如、大声を出した。

「李さん、私を殺す気かもしれない!」

美保子は飛び上がった。「大変!推理小説でよくある、食中毒事件勃発!?」と一瞬焦ったが、どうやら違う。

「え、どうしてそう思うの?」恐る恐る聞き返す美保子。

「だって、あんなにご馳走攻め…**食べすぎて死んじゃう!**李さんは、私を殺そうと狙っているんだ!」

これは笑い飛ばせる状況ではなかった。さくらの目は真剣で、マジで怖い。

「お腹いっぱいなら、『もう結構です』って断ればいいじゃない」

美保子の合理的な言葉はさくらの耳には届かない。「李さんに殺されるぅ!」と何度か叫んだ後、さくらはそのままベッドの上でダウン。泥のように眠ってしまった。

ところが、深夜。今度はさくらがベッドの上で踊り出した。

「ママに殺される!宿題をしないと殺される!助けて〜!!」

その夜、さくらは「宿題」と「ママの殺意」に怯える叫びを何度も上げ、ベッドの上で奇妙なダンスを繰り返した。美保子は、ただただ恐怖のどん底に陥り、布団をかぶって夜明けを待つしかなかった。

翌朝。

さくらは、昨夜の狂乱が嘘だったかのように、笑顔で「おはよう!すっきり!」と挨拶。その何事もなかったかのような切り替えの早さが、また恐ろしい。美保子は、朝食を食べるさくらを、遠くから眺めるしかなかった。

李さんのおかげで、ケベックへの旅は飛行機もホテルも全て手配済み。そんな親切な李さんを「人殺し」呼ばわりした昨夜のさくらの言葉が忘れられず、美保子はさくらと気安く話すことができなくなっていた。

どうしたらいいのか?

困り果てた美保子は、李さんに相談。すると、李さんの奥さん(元ロンドンの赤十字病院の婦長!)が神対応をしてくれた。

「さくらちゃんを一日預かって様子を見るから、美保さんは自由に過ごしてきていいわよ」

相談がてら、李さんがまたあの巨大なロールスロイスで美保子を案内してくれた。景色がいい郊外や、おしゃれな街を回りながら、真剣にさくらの話を聞いてくれる。奥さんとも相談した結果、

「ケベックから戻ったらすぐに帰国できるよう手配し、日本のご両親に空港まで迎えに来てもらった方がいい」

という結論になった。李さん夫妻の親切な言葉は心に染みるが、美保子には「人格が入れ替わっている」ということがまだ理解できない。「単なる性格の変わり者が極まっただけでは?」と思っていた。ただ、専門家である奥さんが**「あれは病気」**と断定したことだけが、重く響いた。

その日、美保子は帰国の日時と詳細を記した手紙を書き、速達で日本のご両親に送った。

李さんの奥さんの献身的な対応のおかげか、さくらは穏やかな様子で、二人はケベック行きの小型飛行機に乗り込むことができた。

しかし、ケベックでは、想像を絶するフランス語人格の暴走劇が待ち構えていた。

第三章 ④

タイトル心の森自分探しの旅 〜多重人格の闇と戦う(主に私とさくらが。あと、たまに弘が巻き添えに)〜
登場人物
キャラクター1:私、佐藤美保子、33歳(カナダ在住、緊急事態発生で胃薬常備)
キャラクター2:夫、佐藤弘、33歳(美保子の胃薬の心配をする優しい旦那様)
キャラクター3:友人家族、中国生まれのカナダ在住、李(リー)76歳、その一族(騒動に慣れてきた?)
キャラクター4:友人、広瀬さくら 、30歳(五重人格の持ち主。つまり、毎日がエブリデイ大忙し!)
新登場キャラクター
父親:広瀬勝一郎、65歳(元・数学のカリスマ講師。人生最大の難問に直面中)
母親:広瀬江津子、60歳(現役国語教師。難解なさくら語に白旗)
叔母:広瀬香織、55歳(さくらの秘密兵器? 精神科医の妹)

第三章 ④さくらの父親とは?

広瀬勝一郎、65歳。かつては**「数学界の救世主!」と崇められた男ですが、最近、人生の難易度が急上昇。なんたって、可愛すぎて天使かと思っていた一人娘・さくらが、ここにきて「人生最大の重荷」**という超ヘビー級タイトルを奪取しちゃったんですから! しかも、このタイトルの防衛戦、30年続行中ときたもんだ。

「わからん!あの子の考えてること、すること、すべてがまるで難解な代数方程式だ!」

勝一郎は頭を抱えます。おまけに、国語の現役教師である妻の江津子先生(ベテラン!)に聞いても、「同じく理解不能よ、あなた。彼女の言語は、もはや古典文学より難解。匙は投げたわ」と、あっさり白旗。

江津子先生は、娘が何を言ってもどうせ「理解不能の宇宙語」だと悟りを開き、生活サポート(食事・洗濯)という**「最低限の平和維持活動」**以外は、さくらに関する全権限を勝一郎に委譲。「あとは、パパの数学脳で頑張って!」とエールを送る(ように聞こえる)徹底ぶり。

そんな広瀬家唯一の光明(?)は、勝一郎の一番下の妹、精神科医の広瀬香織お姉様。時折、香織先生が颯爽と現れては、「ちょっと、さくら、うちのクリニックに来なさい!」と連れ出し、秘密のミッション(たぶん診察)を遂行しているらしいのですが…効果のほどは、まだ未知数。

勝一郎の**「人生のモットー」は、ずばり「数学は裏切らない」**。

物心ついた頃から数字が大好きで、積み木は数字、泣き止む特効薬も数字。外出先では、真っ先に「数字のある場所」を探すという**「生粋の数字フェチ」**。その数字愛は、もちろん今も健在です。

「数学はいい。だって、答えがすっきり、モヤモヤなんて一ミリもない! 人生もそうであってほしい!」

高校時代、その桁外れの数学の才能のおかげで、イジメとは無縁。むしろ、イジメを扇動する親玉が**「先生! この問題、教えてください!」と、頭を下げるという「数学は世界を救う」**を地で行く展開でした。

そして今、勝一郎が執筆した**「わかりやすいと大評判の高校数学の参考書」は、毎年バカ売れ。改訂版も少しの手直しで済むという、まるで「錬金術」のような状態。予備校の給料なんて、この印税に比べたら「月とスッポン」、いや「太陽とちっちゃな星」**くらい差があるんだとか。

だから、生活には困りません。予備校のコマを減らして、**「悠々自適の隠居生活」**を満喫…していると、誰もが思っているだろうな、と勝一郎は苦笑い。

「娘のさくらさえ、**『まとも』**だったらなぁ…」

「まともって、なんだろう」

勝一郎は、カナダからの速達便、佐藤美保子からの手紙を手に、静かに哲学者になります。

美保子といえば、あの**「しっかり者オブ・ザ・イヤー」に毎年ノミネートされるような、常識の塊のような人物。その彼女が、海を越えてSOSを出してくるなんて、一体、さくらはカナダの地で「何を、どでかい花火を打ち上げているんだ?」**

勝一郎は、想像するだけで、背筋が**「ヒヤリ・ハット」どころか、「ヒヤリ・フリーズ(凍りつき)」**。

「とにかく…まず、パスポートと非常用の大金を用意しないとなー。娘のお迎えは、まるで『特攻隊』だ!

数学の難問を解くとき以上に、重い腰を上げる勝一郎なのでした。

第四章(明るく楽しい、ユーモア全開バージョン)

タイトル心の森をハイキング 〜多重人格はどこまでも自由(主に私とさくらが)〜
登場人物キャラクター1:私、佐藤美保子、33歳 (ツッコミと内心の叫び担当)
キャラクター2:夫、佐藤弘、33歳 (影の薄い良識担当、今回は不在)
キャラクター3:友人家族、中国生まれのカナダ在住、李(リー)76歳、その一族 (大いなる親切の塊)
キャラクター4:友人、広瀬さくら 、30歳 (五重人格の持ち主、行動力と教養の化け物)
新登場キャラクター父親
母親
妹、広瀬香織、55歳 (今回出番なし、ひとまず平和)
新 キャラクター李の娘、李スーイェン、38歳 (スピード感あふれる元婚約者暴露クイーン)
李スーイェンの元婚約者、フランス人のレオ、ベルナール (美しすぎる二重人格男子、美保子にとっては「とんだお土産」)

第四章 ①バンクーバーとの別れ

「ザオ シャンハオ! グッドモーニング!」

ホテルのフロント近くで声をかけてきた女性は、李さんの娘、李スーイェン。名前を覚えるより先に、その突き抜けた笑顔に美保子の脳内タイマーがリセットされた。

「さぁ! 飛行場まで、ロケットのように速く、安全にお送りしますね!」

ホテルから飛行場まで、重い荷物を引きずってモノレールか、それともぼったくりタクシーか、と究極の選択を前に悩んでいた美保子は、驚きと同時に「神からのボーナスステージだ!」と心の中でガッツポーズ。しかも、李さんお手製の、宝石のようにキラキラしたカップケーキのお土産付き。日本じゃ「親切にしては悪いかしら」と遠慮の塊になりそうなところを、カナダは違う。親切がマグマのように湧き出てくる!

李スーイェンは、片言の日本語と、流暢なジェスチャーでさらに話を続けた。

「元婚約者がね、ケベックに住んでいるんですよ。あちらで案内してくれるように、強制的に頼んでおいたから。彼は今、失業中で、暇を持て余す神! 初対面の人には、それはもう、砂糖をまぶした天使のように優しいしね!」

美保子の頭上に「?」マークが飛び交う。天使なのに強制?暇を持て余す神?意味深を通り越して、すでに「事件の予感」しかしない。スルーすべきか迷っているのを察したのか、スーイェンは突然、両手を広げてドラマチックに告白した。

「まぁ、ようするに二重人格。超優しく紳士的な表層と、攻撃的、暴力的な地層があることがわかった。それで、婚約解消!イエ~イ!」

「イエ~イ!じゃないですよ!」美保子は思わずツッコんだ。「暴力的って、具体的に?」

「聞いてくれる!?ドライブに行ったときよ!オオワシがたくさんいる木を見たくて車を止めて、私たちが『すごい!』って盛り上がっていたら、なんと、彼と車が影も形も消えていたのね!私はオオワシの巣の下でポツン!仕方ないので、通りすがりの家族連れの愛と勇気に助けられ、電話したら、彼、なんと言ったと思う?」

美保子は、想像の斜め上を行く展開に両手を頭上で「お手上げ」ポーズ。

「『オオワシに格好良さで負けた。だから頭にきた』とね!もう、オオワシと戦う元婚約者よ!でもね、前から結婚したら『もしや、この紳士がライオンになるのでは?』と思っていたから、ふんぎりつける大チャンスだったかも!」

スーイェンは、なぜか美保子に話しながら、まるで自分が主人公のドキュメンタリーを放送しているかのように、楽しそうだった。「あら?なぜ私、こんな極秘情報を、しかも下手な日本語で、初対面に近い美保子さんにぺらぺらと?フフフ」と笑いながら、元婚約者の名前を教えてくれた。「レオ ベルナール。金髪の39歳の超美男子(本人曰く)。出口でプラカードを持って、獲物を待つライオンのように待っているから、気をつけて探してね!」

飛行場のケベック行きゲート近く。車から出たさくらと美保子の安全を、まるで爆弾処理班のように確認すると、「じゃ、仕事に行くので!」と、スーイェンは明るい笑顔で、ハリウッド女優のようにさっそうと飛行場から去っていった。美保子は心の中で「とんだお土産をありがとう!」と叫んだ。

さあ、それからが受難の旅。バンクーバーからケベックまでの飛行機は、トロントで乗り換えると、さらに小型飛行機へ。揺れる揺れる!太平洋の小舟どころか、シェイカーの中に放り込まれたカクテル状態!しかも機内アナウンスはフランス語。途中から英語も巻き舌フレンチ訛りになって、もはや呪文。

しかし、美保子は平然としていた。「人間、揺れすぎると諦めがつく」を体現し、指差しと満面の笑み、そして「メルシーボク!」で、すべてが「うまくいっているフリ」で乗り切った。

それをじっと見つめていたさくらが、突然、瞳をキラキラ輝かせ、ランボーの詩をフランス語で朗唱し始めた。「ちまたに雨が……」

周囲の人々が「何事!?」と驚いて見ていたが、さくらが詩を最後まで言い終わる前に、なぜか機内は拍手喝采!まるでゲリラライブ成功!小型飛行機の中には、一瞬にして、奇妙な一体感と温かい雰囲気が流れた。美保子は「多重人格の切り札がまさかの詩の朗読とは…!」と頭を抱えた。

空中分解しないうちに、小型飛行機は奇跡的に無事着陸。

第四章 ②

出口でプラカードを持った金髪美男子は、噂通りの彫刻のようなイケメンで、すぐに見つかった。

「何事かな?彼女(さくら)を見て、みんなが手を振っている。そんな有名人かい?

まず、金髪美男子レオが発した完璧なフランス語。美保子にはなんとなく、レオが「君たち、一体何をしでかした?」と言っているのがわかって、クスッと笑った。

そんな美保子の内心のツッコミなど、完全に無視して、さくらは、なんとランボーの時代の古めかしいフランス語を、流ちょうに話し始めた!

美保子はもとより、レオが目をまんまるくして、顎が外れそうになりながら、さくらを見つめている。彼の顔には「え?私、フランスの歴史上の人物と話してる?」と書いてあった。

自己紹介後、レオはさくらと光の速さで意気投合。美保子の姿は、まるで背景の木のように二人の世界から消えてしまった。

しめた!」美保子は心の中で三段跳び!「助かった。これで、ひとり、自由とカプチーノを求めて行動できる!あの有名なシャトーフロンテナック!あそこにはぜひ、誰にも邪魔されずに行きたい!」

レオのモデルのような歩き方に先導され、さくらと美保子は無事、目的のリーズナブル(ケベックの冬の寒さ並みに)なホテルに荷物を置き、街中を散策。飛行機の中で魂を抜かれた美保子は、ホテルに戻るやいなや「バタンキュー」どころか「バタングッスリ」と寝入ってしまった。

翌朝、美保子は、鍵をポーチにいれて、ケベックの街中へ。セントローレンス川と、城のようなホテル(シャトーフロンテナック!)を見たい!三月始めのケベックは寒い!でも、美保子の防寒着は着膨れ選手権で優勝できるレベルなので、寒さより歩くことの困難さを感じるくらいだ。歩いていると、ポカポカどころか、中から湯気がでそうで気持ちいい。

「でも、コーヒーが、今すぐ、命の次に飲みたいな。」

ちょうどマクドナルドの看板!見慣れた救世主だ。 いつもと同じ指差し注文。

「カフェ、プリーズ!そして、メルシー!

日本語が入っているが、まあ、それは国際親善のご愛嬌。通じればすべてよし!

ゆっくりコーヒーを飲んでいると、外をデモ隊がプラカードを掲げて歩いて行く。「わっ!ケベックも元気ね!」と見ていると、なんとなんと、その先頭集団に、さくらと、あのレオがいるではないか!

しかも、二人が持っているプラカード、昨日、飛行場の出口でレオが持っていた自分の名前を書いたプラカードと同じものを、裏返して使っている!

美保子は、コーヒーを噴き出す寸前でこらえ、呆れて、何も浮かばない。

「あれは、ケベック独立を表明する党派のデモ隊です」

日本人観光客を引き連れたガイドさんが、拡声器のような声で日本語で説明している。

「アッ!日本人らしき女性もいます!素晴らしいですね!勇気ある行動!

何が素晴らしいのか、ガイドさんはやたらと褒めている。あれは日本人らしき女性ではなく、美保子の友人、さくらだ!

「なぜ?政治的なことに関心があったなんて、一言も聞いてない!

ランボーの詩の朗読の次は、いきなりデモの先頭とは。美保子は、深い森の中ではなく、もはや異次元空間に迷い込んでしまったように感じた。

その日、美保子はさくらの新たな一面にひたすら驚きながらケベックを散策し、ホテルに戻る。

でも、さくらはいない。

「多分、レオと二人で、独立への熱い想いを語り合っているのでしょう……。フフフ」

そんな、現実逃避のような想像をしている内に、ひと眠りではなく、多重人格の友人の分までぐっすり眠ってしまったらしい。

午後6時。窓の外は、まるで映画のワンシーンのように雪が舞い始めていた。

しかし、さくらは、まだ帰ってこない。もしかして、独立運動のリーダーにでもなったのかしら? 美保子の明日はどっちだ!?

雪が粉雪パニックのように吹き荒れ始めたケベックのホテルのフロント。部屋の鍵を握りしめ、「さくらはどこだ!」と心配のマグマが噴火寸前の美保子の前に、ベルボーイがハリウッド西部劇の脇役のような顔でレオを案内してきた。

ベルボーイは「アンマリ英語がデキナイのですが」と、美保子の中学生レベルの英語と奇跡的にマッチする単語を使いながら詫びた。

こちらの方が、あなたの日本の友人を連れ去った張本人です」と言わんばかりの紹介に、美保子の表情筋がピクつく。

レオはものすごい早口でフランス語を話し、それを脳内同時通訳しながら、たどたどしい英語に変換していく。まるで高性能の同時通訳機と壊れたラジオの連携だ。それでわかった。

さくらとレオは意気投合した後、レオが支援する**『ケベック独立を目指す党』のデモ「ノリと勢い」で参加が決定。美保子が見たのは、そのノリの末路**だった。

ところが、「エイエイオー!」とプラカードを持って歩いているうちに、さくらはデモの先頭でロケットのようにハッスルし始め、レオをまるでただの通行人のように置いてきぼりに。途中で休もう、抜け出そうと声を掛けても、さくらの中の人格は**「そんなヒマはない!」とばかりに返事なし。やがて、「独立の情熱」**の中にさくらを見失い、仕方なくホテルに戻っているのではと、迷子の飼い主のようにここに来た。

スィートハートは、まだ戻ってない?」最後は子犬を探すような目でレオが英語で美保子を見つめる。

美保子は、**「ええ、彼女はあなたのスィートハートじゃありません」**と言いたいのをぐっと飲み込み、心の中でつぶやいた。

『デモの興奮で、新しい人格が誕生したの!?』

サガソウ!」ベルボーイが力強い日本語で明確に言った。 「オッケー!」美保子とレオが**「世界共通語で意思疎通完了!」**とばかりに、同時に言った。

ところが、ベルボーイくん、美保子の肩をしっかり掴み、「ユーはココ」とソファを指差し、「待っている。ココ。ユア」。単語を並べた**完璧な「待機命令」**だ。そして、レオを連れて、雪の戦場へと出て行った。

美保子は**「私はデモ隊長でも迷子でもないのに、なぜ待機命令?」とソファでフリーズ**。ドアが開くたびに、「さくらがプラカード持って凱旋帰国か!?」とドキドキしながら待つこと1時間。

雪だるまのような集団がドアから入ってきた。レオとベルボーイ、そして、ベルボーイのコートにミノムシのように包まれたさくら。

さくらは何も言わない。ただ大粒の涙を流している。まるで独立運動の敗残兵だ。 「ホテルが恋しくなって、わからなくなったみたいです」

レオとベルボーイに**「感謝感激雨霰!そして二度とさくらとデモに行くな!」**と内心叫びながら、ひたすらお礼を言って、さくらを部屋まで連れて行った。

正直、今のさくらが**『どの人格』**なのか、美保子には全くわからない。何も言わずに、風呂にお湯を溜め、人差し指で「湯船」を指すだけ。ジェスチャーで「お風呂に入って、その感情を洗い流せ!」と強く勧めた。

何も言わない。何も言えない。…私の今日の夕食はピクルスの汁だわ」

翌朝、美保子は黙って部屋を出た。さくらの行動が予測不能すぎて、心配が富士山より高く達してしまった。頭を冷やさないと、**「さくら、もう帰ろうよ!」**という自分の言葉に、説得力がなさすぎる気がしたのだ。

そうだ、買い物をしよう! 大好きなミニキュウリのピクルス。あれを、日本でいう一升瓶ぐらいの巨大な瓶で買って食べよう。酸味の暴力で、嫌なことを胃の底から吹き飛ばせるかも!もちろん、フランスパンも一緒に。

ホテル近くのスーパーで、自分の身長の半分くらいあるピクルスの瓶をゲット。その荷物をホテルに置いて、街中に出る。

アライグマの皮を観光客に勧めている怪しいおじさんと、ジェスチャーのみでちょっとお話し。その流れで、アライグマの皮を頭に無理やりかぶせられ、「ケベックの伝統だ!」と観光客誘致に一役買わされる美保子。

ケベック駅近くのアイススケート場では、楽しそうに滑っている人たち。「いいな、みんな会話を楽しんでいる。それなのに私は、同じ日本人とさえ会話ができないなんて……」

そんなセンチメンタルな気持ちも、ピクルスとフランスパンへの強い執念で押し流し、「さあ、今日のランチはキュウリとパン!帰ろう!

心の中をピクルスの酢で満タンにしながら、ホテルの部屋のドアを開けた。

美保子がその先に見たものは……!

目覚めたさくらが、ベッドの上に正座している。 まん丸目で、「どなた?」とばかりにキョトンと美保子を見ている。そして、そのキョトンとした口の下には、ミニキュウリのピクルスが、まるで牙のようにぶら下がっている!

…………

美保子はあまりの状況に、自身の認識能力を疑った

しかも、近くに転がっているあの巨大なピクルスの瓶!酢とキュウリがぎっしりみっちり詰まっていたはずの瓶が、空っぽで、カラカラと虚しく転がっている!

キュウリ、全滅!

なんてこった!

今まで、ランボーも、デモ隊長も、迷子事件も、多重人格の奇行も、すべて我慢してきた。でも、これは許さない!

🥒%*&$#!!!」

何を言ったか、美保子は全く記憶がない。フランス語か、日本語か、あるいはピクルス語か。美保子もついに心が崩壊、それとも感情が大爆発

それから、美保子は、**必要最低限の「業務連絡」**がある時だけしか、さくらと会話をしなくなった。目も合わせない。ピクルスの恨みは恐ろしい

帰国するまで、美保子の内心は**「酢漬け」**のような地獄の時間を過ごした。

美保子は、飛行機に乗る前、さくらの**「奇行の再発」**を防ぐため、キャビンアテンダント全員にさくらを見守ってくれるよう涙目で頼んだ。「自分だけのチカラでは、もう限界が来ていますから……!

一週間後、ピクルス全滅事件以外は大きな騒動もなく、美保子は何とか、生きて無事に帰国することができた。 (この後、美保子は帰国後1年間、キュウリのピクルスを見たくもない病にかかったという)

第四章 ③

カナダからの帰国は、ケベックからモントリオールへ列車で行き、そこから成田へ一本道の直行便!モントリオールまでレオが道連れになってくれることになった。

しかし、さくらとレオは、あの雪の迷子&ピクルス事件から、まるで磁石のN極とN極のようにひとことも喋らない。というか、さくらはあの日以来、フランス語を封印。それどころか、ケベック人がフランス語を話していても、「どこの国のBGMかな?」といった顔つきだ。

美保子は、**「そのうち、私のことまで識別できなくなるのかな? 私も人格の一つ扱い!?」**と恐怖を覚えたが、「でも、あと少しで日本!寿司と味噌汁が私を待っている!」と自分を鼓舞して立ち上がった。

モントリオールの朝は、車がまるで動く置物のように混み合っていた。どこも同じ。人間も同じ。でも、個性だけはひとり一人宇宙のように違う!

美保子は、モントリオールの教会に向かうレオと別れを告げた。レオは、「自分の人生、性格をなんとかしたい!」と、急転直下で牧師を志すらしい。「悪魔のような自分を、神で浄化するんだ!」とのこと。牧師が向いているかどうか、もう少し時間をかけて、教会で懺悔しながら考えるらしい。

その情報は、例の優しいベルボーイからのものだ。付箋までついていた。「お金持ちのおぼっちゃまは、職業選びも、まるでガチャポン**のようにのんきです」**と。

モントリオールから成田までは、約14時間。体感時間はバンクーバーからケベックまでより短いかもしれない。

美保子は、**「さくらのことは、プロ(キャビンアテンダント)に任せよう!」と覚悟を決め、「逃げるが勝ち!」**とばかりに、飛行機に乗るなり、目を瞑った。

「目を開いたら、そこは成田!…でありますように!」

隣りのさくらは、ブツブツと何かの呪文を唱えながらメモしている。寝る前にちょっと覗いてみた。

『李さんにお礼の品、信州そば(4人前)を渡す。賞味期限は3日。』

まだ、蕎麦にこだわり続けている!

物欲のない美保子は、人から何かをもらうのが苦手で、余計に理解できない。「食べない蕎麦をもらったら、李さん、どうするかな? 蕎麦アレルギーだったらどうする!?」

まぁ いいか。これもさくらワールドよ。寝るぞ!

飛行機の中で映画を見る予定だったが、100%寝る!と決意。食事もしない!ただひたすら寝よう!美保子は逃避行のプロとなった。

第五章 ①

成田空港で

広瀬勝一郎は、心臓が口から飛び出しそうな状態で待っていた。成田に着いてから約2時間。待合室の椅子でじっと待つ。一緒に来た妻、江津子、妹の香織は、**「何かいいお土産はないかな〜」**と買い物。**この家族の余裕はどこから来るのか。**勝一郎にとっては、もうひとつ心臓が欲しいぐらいだ。

ドキドキ、バクバク、この老体、いつまでもつだろうか

「さくらが出てきたら、即、連れ去るように連れて帰ろう。あとは妹の香織に後始末を頼んで」

勝一郎は、他の嬉しそうに待っている人々に比べ、まるで葬式帰りのように不幸そうなのは自分だけではないかと、老眼と近眼が並行してやってきた目で周囲を見回した。

第四章④

美保子とさくらが、奇跡的に何事もなく、成田空港に到着。ほとんどオンタイムで、みんな足早に歩いていた。

帰国組のチェックはシンプル。「おかえりなさい!」と笑顔で言われ、緊張で固まっていた美保子は、思わず「サンキュー!」と言い返し、「ここは日本よ!」と自分で自分に軽いツッコミまで入れた。

出口で待っていたのは、広瀬勝一郎、江津子、そして、勝一郎に知的なオーラを足したような女性ひとり。

お父さんとお母さんのロイヤル出迎え」美保子は軽く指差した。

「香織、あとは頼んだからな!」 「美保子さん、ご迷惑をおかけしました!また後ほど!

勝一郎と江津子は、さくらをまるで家宝を運ぶように抱え、半ば引きずるように出口へ向かった。

呆然と立ちつくす美保子の前に、先程チラッと見た女性が近づいてきた。 「佐藤さん、佐藤美保子さん。私、広瀬香織、**勝一郎の妹です。さくらの叔母です。**少し、お時間ください。」

そう言うと、美保子を比較的空いているレストランに誘った。

美保子は、食欲もなく「一刻も早く、風呂に入って寝たい!」。どこかのホテルにでも寄りたい気分だった。

「お疲れのところごめんなさい」

香織は、勝一郎と面影が似て、とても理知的だった。**「理詰めで攻めてくるタイプかな?」**と、さくらで懲りていた美保子は、もう人間関係から宇宙へ逃げ出したかった

「佐藤さん、本当に、本当にご迷惑をおかけしました。さくらを連れて帰ります」

あれ?さくらさんのこと、理解しているどころか、背負っている! 美保子は心の中深くでつぶやいた。 「飛行機でカナダに行ったと聞いて、私の心臓が凍りつきました!」 「大変な事件を起こすかもしれない! なんでそんなことを許したのって、お兄さんを3時間は怒鳴ってしまったわ

「あの病気は治ったように見えても、潜在意識の地下室に潜伏しているだけ。いつ頭をもたげるか、わからない。まして、飛行機なんて、人格交代のトリガーよ!

美保子は、**「カナダに行こうと口走った私も悪かったんです」**と頭を下げた。

「美保子さん、それは違う! 病気を隠していた本人と両親が100%悪い! こんなことになった全責任は両親にあるわ。勝一郎と江津子さんから、旅の迷惑料と、あなたの精神安定剤代を預かってきたの。どうか、受け取ってください。」

香織は、美保子の前に丁寧に封筒を置いた。 「受け取れません。私、ピクルスを守れなかったから」美保子は固辞した。

「それより、さくらさんの病気? 完治するんですか?」美保子はためらいながら、自分の未来のためにも聞いた。 「とても難しい病気ね。多分、治療は一生、マラソン。それも完走は難しいかも。」

香織は、複雑な指の動きをした。癖というより、長年の苦悩の表れだろう。

「治すというより、各人格と仲良く暮らす方向にする方法はいくつかあるの。まず、どんな愉快な(?)人格がさくらの中にいるかを知らないとね。」

美保子は、待ってましたとばかりに口を挟んだ。 「それなら、わかるわ!ひとりはメソメソしていた2、3歳の女の子。次は私のピクルスを完食した5、6歳の男の子。次は私が泥棒だとわめいた20代の女性。それから、ケベックでデモに参加していたたくましい男性。フランス語を流暢に話していたのは、本人、代表的なさくらさんなのかしら?」

まぁまぁ……なんて大勢!まるで人格の見本市ね! 私が10年かけて、断片的に取り出してきた人格が、一気に海外旅行で爆発したよう。」香織は、目を瞬きながら、ため息と感心のミックスを漏らした。

「でもね、私が一番辛かったのは、人格が交代すると、前の人格との記憶のバトンタッチができていないこと! ピクルスを食べた男の子は、自分がピクルスを食べたことを覚えていないんです!」

「そうよ!反省しないし、時間の空白があるし、同じことを何度も繰り返しているの!」美保子は、長年の鬱憤を香織にぶつけた。

「それで、この先、さくらはどうなるの? 私も人生相談したい!」美保子は自分のためにも聞いた。 「方法としては、トラウマの原因を聞き出す。それから、すべての人格と円卓会議を開いて、お互いが仲良く、協調して生活できるようにする

美保子はまた自分の意見を言う。 「どうやって、2、3歳の女の子と、デモ参加の乱暴な人格者と協調するの!? むりむり!しかも、お互いの存在を知らないんでしょ?

美保子はひとつ提案した。 「正しいと思う人格者を残し、あとは催眠術か何かで封印する!

「たしかにその方法もいいかなと思うけど、そうすると、さくら自身が壊れてしまう。今まで、自分を支えてくれた地盤がなくなってしまう感覚かもしれない」

美保子は、香織の答えに**「お手上げ🤷‍♀️」**なポーズをとる。

「方法としては、安定した環境、凸凹なことがない人生。それしかないかな」香織の言葉には、未来への希望が、モントリオールの混雑のように見えない

課題が大きいわね! でも、頑張る」美保子は、自分の人生の課題も一緒に乗り越える決意をした。

香織は深く頭を下げて、レジに向かった。

残された美保子も立ち上がる。空港の公衆電話を見つけ、家に電話する。

「もしもし……」

その声ですぐわかったらしい。 「おー美保子!生きていたか! 楽しかったか? 元気だったか? ケガなんかしなかったか!?」矢継ぎばやに質問が来た。まるで機関銃のようだ

「……すぐ帰るよー!

カナダに出発する前に抱いていた離婚という二文字は、ピクルスの瓶と一緒にすっかり消えていた。

覚えている。記憶にしっかり残っている。 夫は、美保子を忘れないでいてくれた。 それだけで、ピクルス完食事件も帳消し。これ以上の幸せなど贅沢

美保子は電話の前で、さくらのことでも、ピクルスのことでもなく夫の愛に感動して泣き崩れた。

完結の文章

こうして、美保子の**「心の森自分探しの旅」は、「奇行の友人さくらと行く、多重人格の迷走ツアー」**という、予想外の喜劇として幕を閉じた。

彼女の人生から**「離婚」という重いテーマは消え、代わりに「さくらという名の、予測不能で、手のかかる、でもどこか憎めない、愉快な課題」**が残された。

美保子の新しい人生のテーマは、夫の愛をエネルギーに、さくらを笑いながら見守ること

美保子は、知っている。人生は、時にはピクルスの瓶が空になるほど予想外で、ユーモラスなことが、また明日も起きるのだと。

さあ、日本で待っている、夫と、蕎麦と、次の冒険に、「おかえりなさい!」

第五章 ②

つづく