ファイブ・ミラー

花嫁は多重人格者

運命のプロポーズ

涙のプロポーズ

その日、良一は朝から落ち着かなかった。天気予報が「ラッキーアイテムは青」と告げていたから、迷わずネクタイを青と白のストライプにしたというのに、空は朝から小雨模様だ。

『なんでこの空は、初デートの日を応援してくれないんだ。30年間、彼女歴なしの俺の人生の輝かしい一日を……」

自然現象にまで八つ当たりする自分が滑稽だった。日頃は、ホームセンター『ホームディリー』で「カテゴリーキラー」としてエリート街道を突き進む、もっと合理的な男のはずなのに。

そんな息子に向かって、母親の美保子(65歳)は、いつものように手厳しい。

「クギ一本まともに打てないくせにねえ」

先週、良一が意気揚々と手作りした本棚が、地震もないのに突然崩落した一件を指している。

「最初から出来合いを買えばよかったのよ。あなたがいい男に見られたい一心で作ったから仕方なしに……。それに、植木のことなんか何にもわからないじゃない。この前、隣の奥さんに花の品種を聞かれて、『白い花』って答えたんでしょ?あとで笑いながらお礼を言われたわ。『私にもそれぐらいならわかります』って」

良一は苦笑いするしかない。こんな自分がまもなく新店舗の店長とは。大学で経済学を学んでも、ホームディリーの現場では、『スワッ万引きさんご来店』という隠語に飛び出す反射神経と、天気予報とカレンダーをにらみながら在庫を徹底管理する緻密さこそが求められる。

そんな良一にとって、心の安らぎを得られる場所は、開店直後の閑散とした休憩室の隅だった。

そこに、いつも黙々と作業している女性がいた。

掃除のパートさんに聞くと、店内のディスプレイやPOP広告を担当しているアルバイトさんだという。たしかに、値札やキャッチコピーが書かれたプレートが彼女の周りに積まれていた。

長い黒髪を一つにまとめ、私服姿でおしゃれな彼女。他のパートさんたちと異なり、静かにパソコンと手を動かしている。彼女の後ろ姿しか見られない日が続いた。

園芸主任にさりげなく聞くと、「キャッチコピーと一緒に、絵もちょこっと描いてくれる。それが、なんとも言えないセンスでね」と、評判も上々だ。

ある日、誰もいない休憩室で、良一は思い切って声をかけた。

「何か、飲みたいものはありませんか?少し、お休みください」

その女性は、軽く振り向いた。その顔を見て、良一は息をのんだ。 肌は透き通るようで、眼差しは清らかだ。店内でレジを打つパートさんとは別格。野原に咲く昼顔のような可憐な美しさ。

「私、アルバイトで時間が……。終わったらいただきます」

彼女の言葉は丁寧だったが、目はすぐに仕事に戻った。その一瞬で、良一は恋に落ちた。

良一がその話を美保子にすると、母は珍しく目を輝かせ、翌日には買い物客として店に現れた。美保子は強引にスタッフに声をかけ、良一の母だと名乗り、休憩室へ。

良一が駆け込むと、美保子は自動販売機で紙コップに緑茶を注ぎ、その女性のテーブルにそっと置いた。

「こぼれると困ります」

女性は初めて顔を良一に向け、微笑みもせずにその紙コップを良一に手渡した。ちなみに、緑茶は社員無料の飲み放題だ。

母・美保子と彼女の会話はそれだけ。だが、美保子はそれ以来、彼女を『キューポラのある町』の吉永小百合だと呼び続けた。良一は「さすがに母さんより目がいいよ。あの頃の吉永小百合よりずっと年上だと思うけどね」と返すのが精一杯だった。

そんな些細なやり取りをきっかけに、二人は会話するようになった。もちろん、周りに誰もいない時だけ。

良一が聞いた名前は、広瀬さくら。 清らかで、春の木漏れ日のような、なんて良い響きだろう。

「さくらさん。さくらちゃん。さくら」

心の中で何度も繰り返したが、声には出せない。

雪が降った日の帰り、偶然にもさくらの姿があった。アルバイトならとっくに帰宅しているはずなのに。

良一はためらいながらも、口が勝手に動いた。

「さくらさん、駅までお送りしますよ」

車で通勤している良一にとって遠回りになるが、構わない。さくらは感謝の言葉も喜びの顔もなく、「ああ、そうですか」とそっけなく助手席に乗り込んだ。

「棚卸しの手伝いをさせられていたのですか?」

良一が聞くと、「まぁね」と、やはりそっけない。

駅近くのコンビニで彼女を下ろすと、「ちょっと待ってて」とコンビニに走ったさくらが、温かいコーヒーを手渡してくれた。砂糖とミルクも。

「今日はありがとう」

右手で軽く手を振ると、彼女は駅へと走り去った。

『最高だ!さくらさん!』

車の中で良一は決心した。さくらさんを嫁にする。

そして、その日の帰宅後、母親の美保子に宣言した。「さくらさんにプロポーズする」

それが今日、小雨降る日だった。

良一は指定した駅前の車で一時間半待った。待ち合わせのメモには、駅の「どちら側」かを書き忘れていた。それにしても、電話が通じないのはなぜだろう?

更に30分が過ぎ、良一はふとドジな自分に気づいた。駅には、人通りが少ない東口があった。万が一、そちらで待っていたら。

良一が階段を降り、東口の静かなプラットフォームに入った瞬間、柱にもたれて泣いている彼女を見つけた。

小雨に濡れ、涙に濡れたその顔は、ちっぽけで頼りない少女のようだった。

良一が近づくと、さくらの瞳は突然、喜びに変わった。

「うれしい!」

さくらは良一に抱きついてきた。

『なんて可愛いんだ。一生、僕が守る』

理性のストッパーが外れ、良一は、それまで、心奥深くでしか考えていなかった言葉を発した。

「僕と結婚してください」

さくらは良一に顔を向け、涙に濡れたまま微笑みながら、「両親に相談してからお答えします」と答えた。

あの時、なぜ駅前に停めた車を探そうとせず、柱の側でずっと待っていたのか。なぜ、スマホを一度も確認しなかったのか。良一には、全く疑問も不審も湧かなかった。その「不自然さ」に、帰宅した母・美保子が気づくまで。

結婚式までの日々

異変その一:辞令と「猫に頼め」

プロポーズから数日後、良一の人生の「最高潮」を裏付けるように、会社から新店舗の店長への辞令が出た。同時に、さくらはホームディリーのアルバイトを辞めた。

「結婚するから」と職場には伝えたようだが、良一は母、美保子がいるから家事の心配は要らないから、アルバイトを続けてもいいと言ってあった。しかし、さくらが下した決断に、良一は「家庭を優先してくれるのか」と、さらなる愛を感じた。

そんなある日、良一は店内のトイレで、園芸担当の若手ホープが苛立っているのを耳にした。

「俺が字が下手なのは承知している。でも、あのバイトの女の憎たらしいこと!『こんな汚ったない字では読めない。下書きだって、これは酷すぎる』って、なんと五回もやり直しさせるんだ。恐ろしい顔で。こっちは忙しいのに!」

さらに、少し年上の主任らしき声が、同意する。

「そんなのまだ可愛いよ。俺なんて、散々嫌味を言われた。『棚卸しを手伝って欲しい』と言ったら、『猫に頼んだらいいんじゃない』とね。この前、猫の手も借りたいって冗談を言った恨みだろう。冗談じゃなく、本気で言っていたんだ」

「そうだ、そうだ。いつも変なことを言う女だ」

二人の会話は一致点を見つけ、静まった。良一は顔を出すタイミングを失い、彼らが去るのを待った。

良一が知る、繊細で物静かな「吉永小百合」像とはかけ離れた、冷徹で高慢な姿。しかし、良一の決意はそんな些細なことでは揺るがない。

『仕事熱心なあまり、パートの若手に指導が厳しくなっただけだ。俺と結婚するプレッシャーかもしれない』

良一は、「自分の都合の良い解釈」という厚いフィルター越しに、さくらの異変をねじ曲げて受け止めた。

異変その二:最強の両親と美保子の予感

結婚式までの準備は、すべてさくらが担当した。というよりも、さくらの両親である広瀬勝一郎(数学の元教授)と江津子(高校の元国語教師)が、すべてをテキパキと処理してしまった。

招待客のリスト、式場の選定、新婚旅行の予約。良一が口を挟む余地もない。美保子もただ見守るだけだった。

「良一、あなたは本当に何も心配していないの?」

美保子が珍しく不安そうな顔で尋ねた。

「29歳の娘さん、料理とか洗濯とか、家事は大丈夫かしら。聞くところによると、あのお二人はさくらさんに家事をさせていなかったんでしょう?」

良一は笑い飛ばした。

「なんとかなるよ。母さんがいるんだから。母さんの料理が食べられるうちは安泰さ」

美保子は、人生の苦味も多々味わってきただけに、その言葉に楽観的な希望を見出せなかった。亡き夫の佐藤弘の介護の日々、そして流産。人生は、「なんとかなる」では乗り切れないことを、彼女は知っている。

美保子の脳裏に、さくらの完璧すぎる顔と、あの日、休憩室で緑茶の紙コップを突き返した無機質な眼差しが焼き付いていた。

『あの子には、何かの「壁」がある。そして、良一はその壁の向こうを、全く見ていない』

良一、敗れたり!

結婚式まであと一週間。

新店舗の店長辞令が出たばかりの良一は、久しぶりに得た貴重な休日を、花嫁とその両親との最終打ち合わせに費やした。良一の心は、期待と、そして微かな疲労感で満ちていた。

「良一君、新店舗の店長の辞令が出たそうだね。さくらから聞いた。その若さで素晴らしい」

顔を合わせるなり、広瀬勝一郎はそう切り出した。元数学教授らしい、理路整然とした口調だ。

「たまたまです。ただ、母には釘を刺されました。『これからが勝負。でも、一番大切なのは健康よ。どんなに頑張っても、お父さんみたいに年金をもらう前に死んだら、もったいない。くれぐれも働き過ぎないように』って」

良一は、義父になる勝一郎に、母親の言葉をそのまま伝えた。それは、良一なりに「仕事と家庭を両立します」という決意の表明でもあった。

結婚式は、良一の五月開店の新店舗に備え、二月を選んだと勝一郎はきっぱり言った。この時期は雪や寒さで招待客に敬遠されがちだが、都内のホテルは軒並み費用を抑えてくれる。また、勝一郎に言わせれば、教育関係者が多い招待客にとって、最もゆとりがある時期だという。

閑散とした打ち合わせブースで、勝一郎は高級なホテルのコーヒーを一口飲み、本題に入った。

「ところで良一君、新婚旅行の件だが」

勝一郎の口調は、議論の開始を告げる学術会議のようだ。

「君の予定は、あまりにざっくりしすぎだ。二週間も海外に行くのに、もっと細かく日程を組まないとダメじゃないのかな」

良一の計画は、母・美保子の友人でカナダ在住の李さんの家に数日泊まらせてもらい、あとは『李さんに任せる』というものだった。美保子は李さんを「なんでも大丈夫な人」と、絶大な信頼を寄せている。

「李さんは娘さんが社長で、ご自身は会長。息子さんは弁護士。すごいのよ」

美保子はいつもざっくりしている。良一の「なんとかなるさ」という楽観主義は、たぶん、母のこの生き方から来ているのだろう。しかし、美保子は「貧乏暮らしや、なんやかやあったからこその悟りよ。お釈迦さまみたいね」と言って、ひとり笑う。それは、苦労を昇華させた者だけが持つ、達観した笑顔だった。

良一は、勝一郎の挑戦的な態度に、少し苛立ちを覚えた。

「じゃあ、バンクーバーでの滞在は、李さんに任せて、それ以外の移動やケベック観光については、お父上の予定表を参考にさせていただくということで」

渡されたスケジュール表は、まさに圧巻だった。エクセルで作成され、日本とカナダの時差を考慮した分刻みの時間割まで組まれている。良一は、思わず笑ってしまった。

『母さんが言っていたカナダのアバウトさを、このお父さんは知らないんだ』

二月末のモントリオールやケベックは雪が多く、車は渋滞し、飛行機は平気で何時間も遅れる。「できるだけ幅を広げた予定を組まないとね」という母のアドバイスは、経験則に基づく重いものだ。勝一郎は一度もカナダに行ったことがないらしい。しかも、よく聞くと高所恐怖症で、飛行機に乗る気もないようだ。

「お父さん。これからのことは、僕たち二人に任せてください」

結婚前の花嫁の父親とは争いたくない。しかし、勝一郎はまだ納得できない。

「せっかく貴重な時間を使って、このスケジュール表を作ったのだ。さくらのために。君のためじゃない。私たちの大切な子ども、さくらのために作ったんだ」

勝一郎の言葉は、まるで娘は永遠に自分のコントロール下にあると言っているようだった。

「感謝されるべきではないか。君にいちゃもんをつけられたくないな。母さん、そうだよな」

勝一郎の視線を受け、さくらの母江津子は、ただ無言で小さく頷くだけだった。江津子は、勝一郎の意見に反論どころか、自分の意見すら口にしない。その様子に、良一は言葉にできない違和感を覚えた。母、美保子とあまりに違う。

「さくらとよく相談して、最終的に僕たちで決めます」

良一は、勝一郎の圧に屈せず、深々と頭を下げた。

良一の両親は、放任主義ではないが、良一に多くを要求しなかった。「勉強しろ」「一番になれ」と言われたこともない。運動系の部活に入りたいと頼んだときも、「クラスで半分ぐらいの成績を維持するならいいよ」と、とにかくいい加減な答えだった。おかげで、反抗期に反抗する材料すらなかった。

『さくらは、どうだったのだろう?』

良一が何気なく尋ねると、勝一郎は笑い飛ばした。

「むろん、さくらが私たちに反抗するなど、考えたこともなかったよ」

その時、良一は気づいた。勝一郎と良一の男同士の会話に、江津子もさくらも全く興味がないように、ホテルの窓からの景色を見つめているだけだったのだ。

さくらの、あまりにも従順な沈黙。

良一は、その沈黙の裏側に、何か不自然な「重さ」があることを、まだ知らない。

勝一郎との打ち合わせから帰宅した夜、良一は自分のアパートで、勝一郎作の分刻みスケジュール表を広げていた。さくらとは電話で、今日の打ち合わせ内容について話す約束をしていた。

電話が繋がる。

「ねえ、さくらさん」

良一は受話器越しに、甘えた声を出した。

「さすがにお父さんのスケジュールは完璧すぎるよ。九時十五分から十時二十分は『モントリオール植物園の温室見学』だってさ。僕、植物のことは『白い花』くらいしか知らないのに」

良一は、さくらが『可愛いワガママ』を言って、勝一郎の計画を一緒に笑い飛ばしてくれることを期待した。そうすれば、彼女が、厳格な父親の支配下ではなく、自分との愛を選んでいることを確信できるからだ。

「新婚旅行なんだ。僕たちの、初めての二人だけの旅なんだ」

良一は、スケジュール表を半分に折りたたむ音を立てた。

「せめて、この『午後三時の自由時間』は、勝一郎先生の計画にはない僕たちだけの計画にさせてほしいな。例えば、二人でマクドナルドに入り、ハンバーガーを買いに行くとか。それじゃ、だめかな?」

良一は、受話器の向こうでさくらが笑うのを待った。

鏡の裏側:三秒間の断絶

しかし、電話の向こうは一瞬、完全に静まり返った。

(あれ?電話が切れたか?)良一が受話器を確認しようとした、わずか三秒間の静寂の後、全く別の声が返ってきた。

低く、硬質な、感情の抑揚がない女性の声。

「あなたはどなたですか?良一さん?」

良一は、突然の声の冷たさに、背筋が凍り付いた。

「え、さくらさん?今、ハンバーガーの話を……」

さくらの声は、良一の直前の発言を完全に無視し、まるで会話の途中からチャンネルが切り替わったかのように、全く別の話題から始まった。

「新店舗の店長という職は、計画性と規律を要求されます。なぜ、あなたは、自分の立場の重要性を理解しようとしない?」

良一は、自分が知るさくらの声ではないことに、心臓を鷲掴みにされた。話し方、声のトーン、そして直前の会話がまるで存在しなかったかのような断絶。まるで、目の前の女性が自分ではない誰かに、一瞬で入れ替わってしまったかのようだった。

「わ、私は、旅行の自由時間の話を……」

「旅行とは、人生計画のシミュレーションです。その計画を自分たちの都合で変更する?それは、あなたのキャリアに対する怠慢であり、私たち広瀬一族の信用を裏切る行為です」

完璧な論理で良一をねじ伏せようとする、感情を一切持たないビジネスウーマンのような口調。

良一は「深く考えていなかった。ごめん」

良一が謝罪を口にした瞬間、電話の向こうの声が、再び、元の柔らかなさくらの声に戻った。

「いいんじゃない、良一さん。でも、二週間、できるだけ、お父様の計画通りに動いて。それが私への愛の証明よ」

その声は優しく、良一を安心させようとしている。

良一の心には、『愛の証明』という甘い言葉と、数秒前までそこにいた冷徹な論理の女性とのギャップが、深い傷痕を残した。

『今のは誰だ?さくらさんの中に、もう一人、僕を監視している誰かがいるのか?』

良一は、この恐怖を『結婚前のナーバスさ』という言葉で、心の奥底に封印した。なぜなら、彼にとって「広瀬さくら」という完璧な存在は、キャリアと並んで、失ってはならない最大の栄光だったからだ。

結婚式まであと三日

結婚式の三日前。都心の高級ホテルのロビーで、良一は母親の美保子と最後の打ち合わせをしていた。

「それにしても、立派な式場ね。弘さんも生きていたら、きっと喜んだわ」

美保子は亡き夫を偲びながら、会場を見上げた。しかし、すぐに彼女の目は、良一が持っている招待客のリストに向けられた。

「良一、あなた側の会社の人たちはいるけれど……。さくらさんのご友人の欄が、見事に空白ね」

良一は、肩をすくめた。

「そこなんだよ、母さん。僕も気になって、勝一郎先生に聞いてみたんだ」

良一は数日前の勝一郎との会話を思い出した。

良一が「さくらさんの親しいご友人を招待しないのですか?」と尋ねた際、勝一郎は微動だにせず、冷徹に答えた。

「良一君。君は『広瀬さくら』という人間を、まだ正しく理解していないようだね」

その時、横にいた江津子は、勝一郎の言動に全く異を唱えずに、紅茶を啜るだけだった。

「私たちは、さくらの『学習効率』と『精神的な安定』を最優先してきた。そのためには、『ノイズ(雑音)』を徹底的に排除する必要があった」

「ノイズ、ですか?」

「そうだ。学生時代の一時的な友情、世間的な流行、そして『集団的な感情』は、さくらの高い知性を曇らせる。私たちは、さくらが感情的な依存を他人に抱くことを許さなかった。彼女の友人とは、私たち、広瀬夫妻、そしてこれから夫婦になる君、それだけで十分だ」

勝一郎は、『友人』という存在を、娘の人生にとって不要な雑音だと断定したのだ。良一は、その言葉の冷酷さに背筋が寒くなった。まるで、娘を完璧な芸術作品として作り上げ、他の作家に触らせなかったかのようだ。

「なるほどね……。つまり、お父様とお母様が、意図的に娘さんを『孤立』させたのね」

美保子は、静かにリストを折りたたんだ。しかし、美保子には、単なる「親の支配」だけではない、別の予感があった。

「良一。私はね、さくらさんが持っている『完璧すぎる美しさ』の中に、時々、無理をしている小さな子どもの影を見るのよ」

良一は訝しんだ。

「子ども、ですか?」

「ええ。もし、さくらさんが、かつて親友と呼べる友人を一人でも作ろうとしたことがあったとしたら……」

美保子は目を閉じ、静かに語った。

「その子は、さくらさんの『別人格』の誰かと、致命的なトラブルを起こしたかもしれない。例えば、さくらさんが覚えていないところで、その友人を激しく傷つけて、関係を断絶してしまった、とかね」

それは、良一が電話で体験した、『三秒間の断絶』が引き起こす、より深刻な結果の想像だった。

『別の人格に何かひどいことを言われて、その友達が、昨日のことを何も覚えていないさくらに、泣きながら「あなたはもう来ないで」と言ったのかもしれない』

美保子の言葉は、良一が心の奥底に封印した『冷徹な論理の女性』の存在を再び呼び覚ました。あの別人格は、友情さえも、『非論理的なノイズ』として排除するだろう。

「さくらさんが、無意識のうちに、すべてを壊してきた。だから、ご両親は、それ以上壊されないように、最初から『友人のいない完璧な世界』を彼女に与えたのかもしれない」

美保子の洞察は、的を射ていた。しかし、良一は、「自分の愛が、さくらの孤独を埋める」と信じたかった。

「母さん。今は、そう考えても仕方がないかもしれない。でも、僕が彼女の唯一の味方になる。この二週間の新婚旅行で、彼女の『完璧な壁』を壊し、本当のさくらさんを連れて帰ってくるよ」

良一は、新婚旅行を『広瀬さくら救出作戦』のように捉え始めていた。その決意こそが、彼が気づかぬうちに、地獄への切符を強く握りしめていることの証明だった。

結婚式前夜:母の過去

結婚式前夜。良一は荷造りの最終確認を終え、実家で母・美保子と二人きりで最後の夕食を囲んでいた。弘が亡くなって以来、二人の生活は平穏だったが、この夜の美保子は、どこか遠くを見つめているようだった。

「良一。もうすぐあなたは巣立っていくのね。あのさくらさんという、完璧な、綺麗なお嫁さんと」

美保子はそう言って笑ったが、その目は笑っていなかった。

「母さん、何を急にしんみりと。明日は晴れるよ。それに、さくらさんを完璧だなんて、褒めすぎだよ」

「そうね、完璧すぎるわ」美保子はため息をついた。「その完璧さが、私には少し恐ろしい」

美保子は立ち上がり、台所で緑茶を淹れ、良一の前に置いた。

「この前、さくらさんの友人が誰も来ない話を、勝一郎先生の『ノイズ排除論』で納得したと言っていたでしょう?」

「ええ。まあ、理屈としてはね。寂しいけど」

「違うのよ、良一。あの時、私の中にある、昔の傷が疼いたの」

美保子は、リビングボードの奥から、古い手帳を取り出した。その手帳にはさまれた古びた小さな写真には、さくらと瓜二つの女性が写っていた。

「この子はね、私が二十歳の頃の親友。若き日の吉永小百合を、そのまま少し小さくしたような美人だった。あなたにさくらさんを『吉永小百合』だと言い続けたのは、この子の面影を、さくらさんに見たからよ」

良一は、初めて聞く母の重い過去に、息を飲んだ。

「あの子の両親も、教師だった。私の父親と職場で競っていてね。あの子が私に負けないようにと、ムチを使って勉強を教えていたという。現実は悲しいわね」

美保子は写真を撫でた。

「あの子はね、その親の支配に耐えかねて、見合い結婚を押し付けられた時に、自死を選んだ。当時、片思いの人がいたというのに。私は一生懸命、『理解しているつもり』でそばにいた」

良一は言葉を失った。さくらの両親の職業、完璧主義、そして友人の排除。すべてが、母の親友の悲劇と重なる。

「でも、あの子は、誰にも言わずに、一人で逝ってしまった」

美保子は、そっと両手で緑茶の湯呑みを包み込んだ。

「その後の私の人生は、ずっと『救えなかった自己反省』に苛まれてきたわ。『なぜ気づかなかった?』『もっと寄り添うべきだった』って。でもね、良一」

美保子は深く、深く息を吐いた。

「ある日、ふと思ったのよ。『親友の孤独な心』を、私ごときが、たった一人の人間が『理解できたはずだ』と反省することさえ、傲慢(ごうまん)なのではないか、って」

美保子は、改めて息子の目をしっかりと見た。

「良一、あなたは今、さくらさんの『完璧な壁』を、あなたの『完璧な愛』で打ち破れると、少し傲慢に思っているでしょう?あなたが、彼女の唯一の味方になれると」

「だって、そうでなければ」良一は思わず声を荒らげた。「僕が結婚する意味がない!」

「そうよ、そう。でもね。人の心は、あなたがスーパーの在庫を管理するように、計算通りにはいかないの。『友人の排除』はね、邪魔なノイズではなく、死を招くことさえあるのよ。さくらさんの心の奥底に何があるのか。あなたは、まだ何も見ていない」

美保子の不安は、過去の悲劇の再現への恐怖そのものだった。

第七章:完璧な式

結婚式当日の朝

良一は、ネクタイを締めながら鏡の中の自分を見た。タキシードに身を包んだ自分が、あまりにも非現実的だ。

『あの完璧なさくらさんが、なぜ僕と?』

自問自答を繰り返す良一の脳裏に、数ヶ月前の、伊豆半島へのドライブの記憶が蘇った。

良一は、自分の趣味である「どうでもいい道」を辿るドライブに、さくらを誘った。朝早く出かけた車中、さくらはすぐに助手席でうとうとしていた。

高速道路の出口を出た、まだ夜明け前の薄暗い交差点。良一は、ふと、さくらの肩をトントンと叩いた。

「さくらさん。ごめんね、起こして。道がわからなくなっちゃった。カーナビを信じるなら左だけど、直感は右だ。どっちがいい?」

眠けまなこでぼんやりとしていたさくらは、良一の顔を一瞥し、そして、何の理由もなく、「……右」とだけ答えた。

良一はそのまま、右の道を選んだ。

数十メートル進んだところで、道は行き止まりのように開け、二人の目の前に、真鶴岬の雄大な夜明けが広がった。水平線の端が、鮮やかなオレンジ色に染まり始めている。

その朝日に、さくらの顔が照らされた。

「……きれい」

さくらは、心からそう呟き、その顔には、休憩室や打ち合わせでは決して見せない、子どものような、純粋な喜びが溢れていた。

その時、良一は確信した。さくらは、この「絶景」に感動しているのではない。

「自分の選択で、この景色にたどり着いた」という事実に、感動しているのだ。

勝一郎にも、美保子にも、人生のすべてを決められて生きてきたさくらにとって、「右と左のどちらがいい?」という良一の無責任で、どうでもいい問いかけこそが、初めて手に入れた人生の主導権だった。

『こんな人と時を過ごせたら、どんなにいいか』。さくらはそう思ったに違いない。その「右」という選択こそが、彼女が良一を選び、結婚を決意した、主人格の純粋な愛の始まりだった。

良一は、「自分の無知が、さくらを救う」と信じた。その確信こそが、彼の旅を悲劇へと導く最大の原因となることも知らずに。

最高の幸福と異様な空気

結婚式当日。広瀬勝一郎が結婚式場に手配した都心の超高級ホテルは、良一とさくらの人生最高の舞台となるはずだった。

さくらのウェディングドレス姿は、息をのむほど美しかった。母・美保子がかつて言った通り、吉永小百合の面影を持つその顔は、幸福の光に満ちているように見える。

しかし、披露宴の会場には、目に見えない二つの壁が立ちはだかっていた。

一つは、勝一郎が招待した教育界や政財界の上流階級の張り詰めた空気と、良一側の親族や友人、ホームディリー関係者の遠慮がちな庶民の空気の壁。

そしてもう一つは、さくらの完璧すぎる美しさと、そこから一切の感情の揺らぎが感じられないという不自然さの壁だった。

美保子は、式の間中、さくらを凝視していた。彼女には、さくらの完璧な笑顔が、まるでかつての親友の「悲劇の仮面」のように見えていた。

『あの子は、誰かにスイッチを押されて動いているロボットみたいだ』

美保子の脳裏には、亡き親友の古びた写真と、勝一郎の「ノイズ排除論」がよぎっていた。

トラブル:三秒間の空白

披露宴の中盤。場を和ませようと、良一の大学時代からの友人が、馴れ初めのユーモラスなスピーチを始めた。

「良一から初めてさくらさんの話を聞いたとき、アイツ、『さくらさんは、休憩室で誰とも喋らず黙々と作業しているのが、まるで聖女のようだ』なんて言っててさ!あんな完璧な美人が、まさかホームディリーにいるなんて!」

その瞬間、グラスにシャンパンを注ごうと良一に近づいていたさくらの手が、ピタリと止まった

良一は気づかなかったが、美保子と、広瀬夫妻の表情が一瞬で凍り付いた。さくらの完璧な笑顔が、何の前触れもなく、虚ろな、五歳の子どものような不満顔に変わったのだ。それは、わずか三秒間の断絶

「……ねえ、うるさい」

小さな、甲高い声が、静まりかけた会場の空気を引き裂いた。それは、大人である花嫁の言葉ではなかった。

だが、すぐにさくらの顔は、何事もなかったかのように元の微笑みに戻り、何事もなかったかのようにシャンパンを注ぎ続けた。

美保子は、思わず息を飲んだ。隣にいた広瀬江津子が、過剰なほど明るい笑い声をあげて、場の空気を強引に打ち消した。

「ああ、ごめんなさいね。この子、まだ少し緊張しているみたいで!」

その後の披露宴は、江津子の必死なフォローと、勝一郎の鋭い眼差しに支配され、誰もがその「三秒間の空白」に触れようとしなかった。良一だけは、友人のスピーチが長すぎたせいで、さくらが『少しイライラした』と、都合良く解釈した。

最悪の初夜:消えた花嫁

結婚式のサービスとして用意された、都内のスイートルーム。

高揚感と緊張から解放された良一は、腕の中に妻を抱きしめようとした。しかし、さくらは良一の腕をすり抜け、バスルームに直行した。

「少し、シャワーを浴びてくるわね」

その言葉通り、彼女はなかなか出てこなかった。

一時間。二時間。

良一は不安になり、ドアをノックした。

「さくら?大丈夫かい?何かあった?」

「大丈夫。もう少しだけ」

声は聞こえるが、どこか遠い。良一は、新店舗の店長へのプレッシャー、結婚式での緊張、そして慣れない豪華な部屋に圧倒され、疲れがピークに達していた。

『たしかに、さくらは完璧主義だ。汚れたものを洗い流さないと気が済まないのかもしれない』

良一はそう自己完結させ、いつの間にかベッドに横たわり、朝まで泥のように眠り込んだ

お湯の音は、夜明け近くまでずっと響いていた気がする。良一は、眠りに落ちる瞬間まで、あの水音を聞いていたような気がしてならない。

朝、良一が目を覚ますと、さくらは隣にいなかった。バスルームも静かだ。急いでリビングへ向かうと、さくらは既に身支度を整え、完璧な化粧を終えていた。昨夜のシャワーを浴び続けた疲れなど、微塵も感じさせない。

「おはよう、良一さん。ぐっすり寝ていたから、起こさなかったわ。私、ラウンジで先に朝食を済ませてきたの」

吉永小百合の面影は、その時のさくらには、全くなかった。まるで、無機質なマネキンのようだ。

良一は激しく戸惑った。「なぜ起こさなかったんだ?せっかくの朝食なのに」

さくらは微笑むが、その微笑みは感情がこもっていない。

「ぐっすり寝ていたからよ。それより、私たちはもう夫婦なのよ。朝食ぐらい、別々に済ませてもいいでしょう?」

その言葉は、まるで『他人の生活を侵害しないで』と言っているようだった。最高の初夜の朝は、完璧すぎる妻の冷たい線引きによって迎えられた。

良一の心には、母が言った『さくらさんの心の奥底に何があるのか、あなたはまだ何も見ていない』という警告が、重く響き渡っていた。

新婚旅行の始まり

結婚式の翌朝、良一とさくらはカナダへの出発のため、成田空港にいた。良一の心は、初夜の冷たい線引きによってまだ重く沈んでいたが、目の前のさくらは、非の打ち所のない「完璧な花嫁」に戻っていた。

勝一郎が用意した分刻みのスケジュール表が、良一の手元にある。

「良一さん。手荷物の確認は?スケジュール通り、チェックインカウンターに並びますよ」

さくらの声は穏やかで、その完璧な美しさは、空港という雑然とした場所で、ひときわ目を引いた。良一は、「これが僕の妻だ」という栄光と、「昨日、僕を拒絶した妻だ」という恐怖の間で揺れていた。

カウンターでの手続きはスムーズに進んだが、手荷物検査で立ち止まることになった。

「お客様、失礼いたします。こちらのバッグの中に、持ち込みが禁止されている食品が入っているようですが」

警備員がさくらの小さなリュックサックを指差した。

さくらは困惑した表情を浮かべた。良一が慌ててバッグを開けると、中から出てきたのは、ホテルで出された朝食のビュッフェのリンゴが一つと、半分に割られた硬いライ麦パンだった。

「これは……ホテルの朝食です。つい、うっかり」良一が謝罪した。

「申し訳ありませんが、生鮮食品は持ち込み禁止です。検疫の問題もありますので、こちらで処分させていただきます」

良一がリンゴを受け取ろうとしたその時、さくらが、一歩前に出た。

さくらの顔から、「吉永小百合」の面影が、一瞬で消えた。

代わりに現れたのは、顎のラインが張ったような、男性的で、冷徹な表情だった。声も、昨夜の電話で良一を脅した硬質なトーンに変わっていた。

「待て。それは俺たちのリンゴだ」

その言葉は「私」ではなく「俺」。良一は息を飲んだ。

「君たち、規則と実益を天秤にかけられないのか?このリンゴ一つで、飛行機の安全性が脅かされると本気で考えているのか?その論理的根拠を示せ」

さくらは警備員に向かって、まるで検事を尋問する弁護士のような、鋭い目つきと言葉を投げつけた。周囲の乗客が、異様な雰囲気に足を止める。

警備員もたじろいだ。

「あの、お客様。これは国際線の規律ですので。ご理解を」

「規律?規律とは、目的のない惰性ではない。このリンゴの実質的な危険度と、規律の厳格性が比例しているとは思えないがな。これは、我々の食べ残しだ。捨てるのは資本主義的な浪費だろう」

その論理は完璧だったが、新婚旅行を楽しむ花嫁の言葉としては、あまりにも異様だった。良一の脳裏に、母の言葉が響いた。

『今度は、誰だ?』

良一は、これ以上事態が悪化するのを防ごうと、さくらの腕を強く掴んだ。

「さくら!やめよう、もう!どうでもいいじゃないか!」

良一が思わず放った「どうでもいい」という言葉が、別人格のトリガーになった。

さくらは良一の腕を振りほどき、冷徹な目で良一を見据えた。

「どうでもよくない!佐藤良一。君は、自分の所有権を、何の抵抗もなく放棄するのか?君の人生計画は、そんなに曖昧でいいのか!」

その「どうでもよくない!」という怒声は、良一の「曖昧さ」を否定する、強烈な拒絶だった。それは、かつて良一の「曖昧な優しさ」に心を救われたはずの主人格とは、全く別の存在だった。

警備員が上司を呼ぼうとしたその瞬間、さくらの冷徹な表情が、スッと消えた。

「……あ。良一さん?何をしているの?」

さくらの声は、元の穏やかで美しいトーンに戻っていた。彼女の瞳には、数秒前の激しいやり取りの記憶は、一切なかった。まるで、長い夢から覚めたように、周囲の乗客の視線に戸惑っている。

「どうしたの?このリンゴ、もういらないんでしょ?捨ててもらえばいいのに」

さくらは、自分のリュックサックからリンゴが出たことさえ、覚えていないようだった。

良一は、警備員に深々と頭を下げ、リンゴの処分を委ねた。冷や汗で全身がびっしょりになっていた。

『これが、「固い壁」なのか……。僕の妻は、僕が知らない間に、全く別の人間に入れ替わっていた。そして、そのことを、妻自身が全く覚えていない』

良一は、新婚旅行の始まりとともに、「五つの心と顔を持つ花嫁」という、恐ろしい現実に直面することになった。彼の脳裏には、勝一郎が作った完璧なスケジュール表ではなく、李さんの連絡先が、最後の生命線のように焼き付いていた。

長いフライトがこれから始まる。良一は、先ほどのリンゴ事件の恐怖と、さくらの「覚えていない笑顔」に押しつぶされそうになりながら、座席に深く身を沈めた。さくらはすでに窓際で静かに目を閉じている。

「さくらさん。大丈夫?」

良一が小声で尋ねたが、さくらは何も答えなかった。

機体が滑走路を走り、いよいよ離陸の瞬間を迎えた。ジェットエンジンが唸りを上げ、体がシートに強く押し付けられる。急上昇に伴う、あの強いG(重力加速度)。

その瞬間、隣のさくらの体が、ビクッと、痙攣したように硬直した。彼女の顔が、苦痛と怒りに歪む。

良一が慌てて声をかけようとしたが、さくらは目を開けたまま、良一に視線を合わせず、前の座席のポケットから機内サービスのメモ用紙とボールペンを取り出した。

そして、暴力的なまでにボールペンを紙に叩きつけ、殴り書きを始めた。

殴り書きと冷たい怒り
良一は、さくらの指が紙を破るのではないかと心配になるほど乱暴な筆跡を、恐る恐る覗き込んだ。

そこには、極太の、乱れた男性の字で、一行ずつ、強く、大きく、書きなぐられていた。

「ヒロシマ ナガサキ」

「ユルサナイ」

「ゲンバク ハンタイ」

「センソウ ハ ハイゼツ」

良一の知るさくらは、繊細で美しい字を書く。この暴力的で、強い怒りの感情が込められた字は、まるで、別の魂が乗り移ったかのようだった。

そして、彼女の瞳は、世界の不公平と抑圧に対する、燃えるような怒りの炎を宿していた。これは、空港でリンゴの所有権を主張した「論理の女性」とはまた違う、「正義と解放」を求める、もう一人の別人格だった。

「さくらさん、落ち着いて!何を書いているんだ!」

良一がメモ用紙をそっと取り上げようとすると、さくらは低い、喉の奥から絞り出すような声で唸った。

「触るな!これはデモのプラカードだ!俺たちの怒りを、世界に示すんだ!誰にも抑圧されてたまるか!」

その言葉は、勝一郎の支配を打ち破ろうとする、叫びのようでもあった。

良一は、彼女の強すぎる力と、その鬼気迫る表情に、どうすることもできなかった。数分の間、さくらは、自分の中の抑圧された怒りを、紙の上に叩きつけ続けた。

機体が上昇を終え、水平飛行に移ったとき、さくらの手の力が、スッと抜けた。

彼女は、ボールペンを放り出し、再び窓の外に視線を向けた。その顔は、先ほどの怒りの表情から一転し、幼い子どものように、疲弊しきっているように見えた。

「……あら、私、少し眠っていたみたい。体が重いわ」

さくらは、あのメモ用紙の存在にも、それが自分の文字であることにも、一切気づいていない。良一は、慌ててメモ用紙をポケットに隠した。

『この人は、本当に、僕が結婚したさくらさんなのか?』

良一の胸は、恐怖で脈打っていた。しかし、彼の中の「愛がすべてを解決する」という傲慢な自信が、この現実をねじ曲げた。

『カナダに着いたら、李さんのところへ行こう。李さんの奥さんが元看護婦長だ。母さんが言ったように、この旅の、唯一の生命線だ』

良一は、勝一郎の完璧なスケジュール表を一旦忘れ、李さん一家のいるバンクーバーを目指すことこそが、さくらを救う唯一の「右の道」だと強く決意した。

長いフライトが始まった。良一は、成田空港でのリンゴ事件の恐怖と、さくらの「覚えていない笑顔」に押しつぶされそうになりながら、座席に深く身を沈めた。

離陸の瞬間、急上昇に伴う強いG(重力加速度)が、隣のさくらの体をビクッと硬直させた。デモ隊長の人格が、怒りに満ちた男性的な文字で「ゲンバク ハンタイ」と紙に叩きつけ、「抑圧」への強い怒りを叫び続けた。

良一がなんとか彼女を落ち着かせ、メモ用紙を隠した頃には、機体は水平飛行に移っていた。さくらは、まるで長い悪夢から覚めたように、再び静かな「主人格」の顔に戻った。

「……良一さん。ごめんなさい。私、少し眠っていたみたい。体が重いわ」

彼女は、自分の手が紙を破るほど乱暴に動いていたことも、そこで何が叫ばれていたかも、一切覚えていない。

飢えた影と暴力的な食事


そんな良一の心臓が、やっと落ち着きを取り戻し始めた頃、機内食が運ばれてきた。

チキンの香りが漂うトレーを、さくらはまるで獲物を見つけた猛獣のように見つめた。

「いただきます!」

さくらは、今まで見たこともない激しさで、機内食に食いついた。その食べ方は、良一が知る、上品で完璧な「広瀬さくら」とはかけ離れていた。咀嚼音は大きく、フォークと皿がぶつかる音も気にしない。チキンを一口で頬張り、口いっぱいに詰め込んだまま、次々にパンを口に運ぶ。

「満たされない飢餓」を抱えているような、その暴力的なまでの食べ方に、良一は驚愕した。

『これは、さくらさんじゃない。まるで、飢えた子どもだ』

良一の脳裏には、勝一郎が語った「ノイズ排除論」が蘇った。完璧主義を強要された幼い頃、食の楽しみさえも制限された、さくらの「飢えた影」が、今、機内食という「手に入った自由」に飛びついているように見えた。

さくらは一切会話せず、夢中でがっつき、トレーの上のものを数分で「食べた」というより「消した」。食べ終えると、満足したように目を閉じ、再び眠ってしまった。

一時間ごとの健忘パニック
しばらくして、さくらが目を覚ました。今度は、怯えた子どものような、不安げな表情だ。

「良一さん……私のパスポートがないの」

良一は戸惑った。「え、さくらさん。ここにあるじゃないか。飛行機に乗れたんだから、持っていたに決まってるだろう?」

さくらは、良一が指差すパスポートを手に取ったが、それを自分のものだと認識できないかのように、不安そうに見つめている。

「でも、さっきまで、なかった。私は、どこかに置いてきた気がするの。私のお財布は?お金がないと、ご飯が食べられないわ」

良一は、そのパニックが記憶の断絶(健忘)によるものであることを悟り、優しくなだめた。

「大丈夫だよ、さくらさん。財布もここにある。僕が全部持っているから、安心して」

さくらは安心したように、また目を閉じた。

しかし、その安心は一時間と持たなかった。

一時間後、目を覚ますと、さくらは再び不安げに良一の肩を揺すった。

「良一さん、ごめんなさい。パスポートがない。私、本当にどこかに置いてきたのよ」

良一は、恐怖と疑問(?)が渦巻く中で、同じ言葉を繰り返し、なだめ続けた。

「大丈夫。ここにあるよ」

その繰り返しが、一時間ごとに続いた。

良一は、パスポートや財布を何度も確認させられ、そして、自分が知っているさくらではない誰かが、自分の妻の体を借りて、何度もパニックを繰り返しているという現実に直面し続けた。

その夜のフライトで、良一は一睡もできなかった。彼の体は、疲労で鉛のように重くなっていたが、心は、「次に目を覚ますのは誰なのか?」という恐怖で、張り詰めたままだった。

これで、カナダ到着までの間に、四つの人格(主人格、冷徹な論理の女性、デモ隊長、そして飢えた少年)の断絶が良一によって目撃されました。

バンクーバーの夜と李さんの瞳
夢か現か
バンクーバー国際空港(YVR)に到着したのは、現地時間で前日の午後四時。九時間におよぶフライトは、良一にとって恐怖と苛立ちの連続で、ほとんど眠ることができなかった。しかし、窓際に座っていたはずのさくらは、いまも良一の左隣を、すやすやと愛らしい寝顔で歩いている。

『あれは全部、僕の寝不足による夢だったのかもしれない』

良一は自分だけがなぜか一人相撲をしているような感覚に襲われた。時差は十七時間。一日得したような気分になったが、足取りはまるで老人のように重い。

入国審査は、単語を並べただけの英語で難なく通過した。税関で「日本」「友人の家」「観光」と答える良一を、審査官は上から下までじっくりと眺めた。身長一七五センチ。佐藤健より少し背が高いだけの、ごく普通の男。

良一は鏡に映る自分を見て、ふと思った。『なぜこんな僕が、さくらと結婚できたんだろう?』神様が、さくらと結婚するために、他の女性を避ける「良一専用レーン」をわざと作ってくれていたのだと、半ば本気で信じ始めていた。

掴んだ腕と李さんの笑顔
最終ゲートを出ると、到着ロビーで白髪の中国系の夫婦が手を振っていた。写真で見た通り、李浩(リー・ハオ)さんと奥様の李芳(リー・ファン)さんだ。

良一がホッとした瞬間、背後にいたはずのさくらが、意味不明な言葉を呟きながら良一の前を通り過ぎていく。

「全く、パスポート……なんか」

『広瀬でなく、佐藤さくら!』

良一が心の中で叫んでも、さくらは止まらない。李さんたちへの挨拶とお礼が頭から抜け落ちているようだ。良一は慌てて、さくらの右腕を掴んだ。その一瞬、さくらの顔が、得体の知れない恐ろしい表情で良一を見た。

「サトウ、サン」

低い、柔らかな声が良一の耳に入った。李浩さんだ。

良一はさくらの腕と荷物を掴んだまま、李さんご夫妻に近づいて行った。

李さんは、日本人と同じ背格好。奥様も同じく、日本人と見間違えるほどだが、その場に立っているだけで、圧倒的なゆとりと違和感のない堂々とした雰囲気が漂っていた。バンクーバーのモダンな空間に、見事にマッチしている。

「お疲れ様」

李さんの奥様、芳さんが、良一の腕からさくらを奪い取るように自分に向け、ハグをした。

その瞬間、さくらの瞳から大粒の涙が溢れ出した。

良一はただ立ち尽くした。さくらは、そのまま芳さんに抱き抱えられるように、駐車場まで歩いて行った。

『いったい、どうなっている?』

丘の上の家と多国語の道
車中、李さんは英語、片言の日本語、そして、良一が大学で第二外国語に選んだ錆びついたドイツ語を交えて、陽気に話しかけてきた。

「ヨウイチくん、カナダ、どうですか? ワタシはテニス、ガッコーヘ行くのがシゴト!」

李さんは七十六歳には見えないほど若々しい。テニスで鍛えているからねと笑顔で答える。

その間、さくらは、李さんの奥様にもたれかかって、まるで幼い子どもが母親に抱かれているように、穏やかな寝息をたてていた。

芳さんはそんなさくらを、優しいというよりも、何かを見極めようとするような目で見つめていた。良一は、『病人を見る目に近い』と、後で思った。

約二十キロの道のりを走り、丘の上に立つ李さんの住居に到着した。広々としたモダンな空間は、良一のアパートとは比べるべくもない。

ドイツ語の距離感

さくらが、芳さん(李さんの奥さん)の支えで、寝室に運ばれ、良一と李さんはリビングのソファに座った。

李さんは、良一に親しげに話しかけてきた。

「ヨウイチ、イブニングティーをどうぞ。長いフライトで、とても疲れているでしょうから」

良一は遠慮なく紅茶を受け取り、李さんに深く感謝の意を伝えた。

「ヘル・リー」良一は、勇気を出して、覚えているドイツ語で話しかけた。「ディー・フライエ・ゲボレン(自由は生まれる)。ワタシ、イッヒ、感謝します」

良一は、さくらを『自由』という言葉で救いたかった。

李さんは、良一のドイツ語を聞くと、目を細め、流暢なドイツ語で返した。

「Ach so, Freiheit! (ああ、自由か!)良い言葉だが、Freiheit ist nicht kostenlos(自由はタダではない)。それは責任が伴う。そして、Deine Frau(あなたの妻)には、Viele Sorgen(多くの心配事)があるようだ」

李さんの瞳は真剣だった。良一は、ドイツ語という『壁』を介したことで、李さんがさくらの異変に気づいていることを悟った。

芳さん(李さんの奥さん)は、英語で良一に話しかけてきた。

「うちの奥さんは、元ロンドンの赤十字の婦長だったんだ」と李さんはいった。

「すごい人なんだ。毎年クリスマスの募金はなんと一千万円。それをポンと寄付続けて10年も……」

「良一さん。さくらさんが、泣いたのを覚えていて?」
芳さんが良一に話しかけてきた。

「はい。バンクーバー飛行場を出た時ですよね。芳さんに抱きついた時……」

「あの子の涙は、喜びではないわ。安心と、そして、極度の緊張からの解放の涙よ。長いフライトだったものね」

自由でなく、解放と芳さんははっきりと言った。

芳さんはそれ以上深くは詮索しなかったが、その眼差しは、元看護婦長としての鋭さを持っていた。

李さんは立ち上がった。

「もう夜だ。食事は軽くスープだけにして、今夜はたっぷり寝なさい。明日からが、本番だ」

芳さんは、良一を寝室に案内してくれた。さくらはすでに、清潔なベッドの中で、深く眠っている。芳さんは、良一にそっと囁いた。

「良一さん。あなたの奥さんは、とても繊細。夜中に何かあっても、驚かないで。なにかあったら、私に任せて」

その言葉は、まるでさくらの『異変』を全て知っているかのような含みを持っていた。良一はただ、頷くことしかできなかった。

李さんの家に着き、初めて得た安全基地と肉体の限界に、良一はベッドに横たわると、すぐに意識を失った。あのフライト中の恐怖と寝不足から解放され、その晩はぐっすりと眠り込み、翌朝まで何も気づくことはなかった。

朝の目覚めと予期せぬ外出

早朝の目覚めは、驚くほど爽快だった。

良一は起き上がり、ベッドから離れた。床まで届く遮光カーテンを勢いよく開ける。

「バンクーバーの三月は、もうこんなにも春なのか」
窓の外に広がる景色に、思わず息をのんだ。広大な敷地を活かした庭園は、日本の回遊式庭園を小さく模したような造り。池には優美な曲線を描く小さな橋が架かり、驚くべきことに、そのほとりには淡いピンクの桜がちらほらと花をつけている。 その光景にしばし呆然とし、良一は慌てて、背後のベッドを確認した。

ベッドには、さくらが毛布を被り、まだ深い眠りの中にいる。 (夢ではなかった。これは、現実だ)

「良一さん」 柔らかな、しかしどこか弾むような声が、ドアの向こうから聞こえた。

「もう、お目覚めですか?」 流暢な日本語。李さんだ。 良一は素早くドアを開けた。
「これから、朝めし。朝ごはん、ブレックファースト、朝がゆ」 李さんは良一に伝わるよう、様々な言い回しでメニューを説明してくれる。
「とにかく、出かける」 良一は、最後の言葉に戸惑いを覚えた。 「出かける?」 李さんは満面の笑みで、バンクーバーのダウンタウンへ向かうと言う。
「もちろん、さくらも、一緒」

李さんはそれだけ言い残すと、颯爽と去って行った。 良一はさくらを揺り起こす。 「さくら、出かけるよ」

さくらは、まだ夢うつつといった様子だ。大きなあくびをした後、少女のように尋ねた。
「今から?どこへ?」 不服そうな顔だったが、「李さんがそう言っている」と聞くと、すぐに諦めたように支度を始めた。良一は庭に出て、さくらの身支度を待つ。

庭からの眺めは、まさに壮観だった。眼下に広がるバンクーバーの街並み。 (なんてすごい。昨日、家の前に六台、車が止まっていたが……)
「六台?」と良一が呟くと、日本庭園の奥から声がした。 「いや、七台ある。娘がいま乗っている、トヨタの小さな車」 李さんがいつの間にか背後に立っていた。「あはは」と笑いながら、李さんは日本語で答える。 「娘は、わしと違って、リーズナブルがモットーだ。わしだって、普段は小さな車だがな」

良一は目を見開いた。日本では大型セダンに当たるであろう車を、「小さな車」と言うのか?

「車庫には、バンクーバーに三台しかないと言われるキャデラックが入っている。そうか、ということは、しめて八台あるのか」 李さんは、自分で納得したように深く頷きながら、庭園のわき道から去っていった。あちこちに出入り口があるようだ。

良一が、バンクーバーの遠景をうっとり眺めていると、待っていたさくらの準備が整ったらしい。 「良一さん」 そこに立っていたのは、疲れを見せない、昨日よりもさらに美しいさくらだった。 「いま、いつなの?何時何分?なぜ、朝から出かけるの」 さくらは、まるで状況が理解できない少女のような微笑みを浮かべて話しかけてきた。 「李さんが朝ごはんだって言っていたんだ」 良一はさくらの右手を握り、昨夜の記憶を頼りに迷路のようなリビングへと向かう。

「遠いな。家の構造がわからない。地図が必要だ」 長い廊下、いくつもの部屋を横切り、階段を登ると、玄関のある広いホールに出た。 「こっちよ」 いくつもある扉の一つから、李さんの奥さん、ファンさんの顔が現れた。 「まず、ここで一休み」 奥さんがウーロン茶を出してくれた。ありがたい。

熱いお茶をゆっくりと味わっていると、リビングのやや中央にある、木製の柱のようなものから、李さんが滑り落ちて来た。 「三階から、直通エレベーターだ」 笑いながら言う李さん。本当に七十六歳なのだろうか?木登りを楽しむ少年のような、屈託のない笑顔を見せる。 「上には、ヨガができる部屋があって、毎日、十分間の瞑想タイムを設けている」

昨日より、かなり上達した流暢な日本語で李さんが言った。どうやら、日本語を思い出したらしい。

「あら?私、英語がかなり理解できる。昨日の機内アナウンスが、あんまり速くて、よくわからなかったけど、李さんの言葉がよくわかるわ」 さくらが嬉しそうに言った。

『さくら、李さんは日本語を話しているんだ』 良一は声に出さず、心の中で言った。李さんご夫妻は、そんな良一たちの会話を聞いていたのかどうか、早く行こうと促した。

朝がゆとチャイナタウン

一行は李さんの運転する「小さな車」で、バンクーバーのチャイナタウンへと向かった。 三月の肌寒い朝、ダウンタウンの喧騒とは違う、アジア特有の熱気が漂う街だ。 「コンジー(おかゆ)の専門店だ。疲れた時には、これがいちばん」

李さんの案内で入った店は、朝早くから活気に満ちていた。 「朝からこんなに人がいるなんて」 さくらは驚いたように、周囲を見回す。カウンターでは、せいろの湯気が立ち上り、店員は広東語と英語を威勢よく飛び交わせている。 席に着くと、ファンさんが良一とさくらに優しく言った。 「長旅、疲れたでしょう。胃に優しいものを。これが、私たちのおもてなしよ」

良一が頼んだのは、海老と豚肉が入った『艇仔粥(ティンチャイチョウ)』。米の粒がとろけるほど煮込まれ、干し貝柱や出汁の風味がじんわりと広がる。体中に優しさが染み渡るようだ。

「…美味しい」 さくらは、鶏肉と椎茸の『鶏肉粥(ガイヨッチョウ)』をゆっくりと口に運んでいる。その顔には、昨日の緊張から解放されたような安堵の表情が浮かんでいた。
そんなさくらを李さん夫妻は笑顔で眺めている。

李さんは良一に語りかけた。 「わしはな、ここで育ったが、故郷は広東省だと思っている。この『コンジー』の味が、わしのルーツを教えてくれる」

食事が一段落したところで、芳さん(李さんの奥さん)が腕時計を見た。 「ごめんなさい、私はここで失礼するわ」 「え?」 さくらが驚いて顔を上げた。 「いつもの、ボランティアの時間だ」と李さんが代わりに答える。

芳さん(李さんの奥さん)は、朝早くから中華街の周辺で、ホームレスや貧しい人々にパンなどの食料を配る赤十字のボランティアをしているのだという。 「私と李は、このバンクーバーで多くの恩恵を受けた。だから、それを少しでも地域に還元したいの。さあ、あなたたちもゆっくりね」 芳さんは、良一とさくらに、にこやかな笑顔を残し、人混みの中へ消えていった。

豪華な朝食を済ませ、帰宅した李さんは、良一とさくらをリビングに招いた。

「良一、さくらさん。実は、私の友人でケベック在住のドクター・ベルナールが、さくらさんの体調について、多分、専門的な見解を示すことができます。彼は精神医学において非常に優れている。どうか、一度診察を受けていただきたい」

李さんは、良一の母・美保子さんへの感謝を込めた純粋な善意で、この計画を進めていた。

「昨夜、美保子から国際電話がかかってきた。さくらさんはせっかくだから、病院に行ったほうがいいとね。妻も同じ意見だ」

「この旅をお二人の門出を心から祝い、万全な状態になってほしいのです」

「なぜ? 私はどこも悪くないのに?」

さくらの顔に冷徹な表情が浮かんだ。 「お断りします。私は病気ではありません。この種の感情的な問題は、合理的な判断を鈍らせるだけ。良一さん、あなたは李さんの厚意に甘えるべきではない」

「さくら?」良一が呼びかけると、さくらはすぐに不安げな妻の顔に戻った。 そして、沈黙したまま、静かに下を見ている。

それにしても、なぜ美保子から国際電話が。いつも節約節約と叫んでいる母親が。良一は信じられない出来事をただ受け入れるしかなかった。頭が真っ白になっていた。

しかし、すぐに、「疲労と時差ボケ」だと自分自身に言い聞かせた。が、脳裏には、新店舗の店長という現実的な未来と、さくらの不安定な精神という重すぎる重荷が天秤にかかる。

(もしこのままの状態なら、この結婚は、失敗だったのか?いっそ、成田で別れて、僕は店長という自分の人生だけを…) 良一の脳裏に浮かんだ「成田離婚」の甘い考えは、さくらの父・勝一郎の厳格な教育から逃れたいという、彼の無責任な弱さの現れだった。結婚さえ解消すれば、広瀬勝一郎とは縁が切れる。

李さんは、良一の甘い思考を察したように、出発直前に良一を呼び止めた。

「良一君、君は甘い。『新店舗の店長』という明確な目標があることは素晴らしい。だが、隣にいる妻との関係を『未定』のまま放置しているその『甘さ』こそが、君の最大の弱点だ」 李さんの言葉は、厳しくも愛情に満ちていた。

「人生は、経営と同じだ。最も大切なパートナーを疎かにして、成功などありえない。さくらさんの病を前に、逃げることや甘い考えを持つことは、君の人生そのものを破綻させる。新店舗の店長として成功したいなら、まず妻を救うことに全力を尽くせ。それが、店長としての責任だ」

この李さんの痛烈な指摘は、良一の心に深く突き刺さった。

(そうだ。僕のこのいい加減な考えが、すべてを招いている…) 良一は成田離婚の考えを打ち消し、「新店舗で頑張る」という明確な目的を「さくらを救い、夫婦として帰国する」という使命へと昇華させた。

バンクーバーからケベックへ

「今日一日は、ゆっくりと過ごすといい。さくらさんには最高のアメニティを用意した。そして明日の朝、君の決意を聞かせてもらう」 李さんはそう言って立ち上がると、良一の肩を軽く叩いた。 「チャイナタウンを少し歩いてみるかね?『孫文公園』の桜は、この季節、実に見事だ」

良一は、温かいお粥のおかげで体が満たされ、同時に、重い課題を突きつけられたことで、頭が冴えわたっているのを感じた。 さくらの手を取り、立ち上がる。

「李さん」 良一は、李さんが店の出口に向かう直前に声をかけた。 「そのご提案、重く受け止めます。ただ、結論を出す前に、まだやり残したことがあります」

李さんは立ち止まり、静かに良一を見つめ返した。 「私とさくらは、この後、ケベックに向かいます」

李さんの表情に、わずかな驚きが浮かんだ。 「ケベック…、そうか。いい町だ。しかも近くのモントリオールに知り合いの医者がいる。フランス人医者だ」 李さんは深く頷いた。 「急いだほうがいい。三月のケベックは、まだ冬の名残が強い。」

李さんは、良一とさくらの二人に向き直った。 「バンクーバーの滞在は、このまま君たちの本拠地として利用するといい。移動の手配はわしがさせる。もちろん、費用は後で請求するが」
ニヤリと笑って、大型ショッピングの中へずんずん入って行った。

李さんの楽し気なやり取りで、旅の予定、ホテルからフライトまでまたたく間に完了した。勝一郎の汗水たらしたエクセル表でなく、現実的な予定表。すべてが実践的だった。

良一とさくらはチャイナタウンの喧騒を後にし、バンクーバーを一望できる丘の上の屋敷に戻った。 そこで待っていたのは、李さんの娘だった。 「良一、さくら。ケベックへのフライトは、今晩の便で手配したわ。バンクーバー国際空港のプライベートジェット専用ターミナルから」 「プライベート…ジェット?」 良一は耳を疑ったが、娘さんは笑顔で、「空港まで私がおくるわ」とわかりやすい英語で話した。良一は李さんのスケールの大きさに、もう驚くまいと自分に言い聞かせた。
「父が紹介するお医者さんって、元私の恋人。大丈夫。まだ別れたところだから、親切にしてくれるはずよ」

娘のメイリンは良一にささやいた。

ケベックへのフライト

その夜、良一とさくらは、李さんの用意した最新鋭のプライベートジェットに搭乗した。 機内は、豪華というよりも、静寂と機能美を追求した空間だった。さくらの病状を考慮したのだろう、空調や気圧調整は細心の注意が払われているのが見て取れる。

直通のプライベートジェットなら通常の半分の時間で到着するそうだ。

離陸後、良一は窓の外を見た。遠ざかるバンクーバーの夜景は、宝石を散りばめたように輝いている。 さくらは、ブランケットにくるまり、窓枠に頬を乗せていた。

「ねえ、良一さん」 さくらは、ひそやかな声で言った。 「私、李さんの言葉が、本当に英語のように聞こえるの。日本のニュースのアナウンサーが話すような、ただの日本語じゃない気がする。李さんの話す言葉は、私の頭の中に直接響いてくるみたい」

良一は、その言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。 (それは、昨日からの熱の影響なのか?それとも、さくらの能力が、ここに来て覚醒を始めたのか?) 良一はさくらの手を握りしめた。その手の温もりが、今の良一にとって唯一の現実だった。

「大丈夫だよ、さくら。李さんは、とても流暢な日本語を話すから、そう感じるんだ」 良一はそう答えながら、内心では、この異常な状況に強い危機感を覚えていた。

機内食は、体に優しい野菜のポタージュと、新鮮なフルーツ。それを平らげると、さくらはすぐに眠りについた。 良一は、静かに座席を倒し、目を閉じる。

ケベックの朝

数時間のフライトを経て、夜明け前に良一とさくらはケベック・シティに着いた。 機体から降り立つと、バンクーバーの湿潤な空気とは全く違う、鋭く冷たい空気が肌を刺した。三月のケベックは、まだ本格的な冬の様相を呈している。

「寒…い」 さくらは思わず身を震わせたが、すぐに用意されていた厚手のコートに身を包んだ。

専用車に乗り込み、街へと向かう。雪が残る街並みは、まるで中世ヨーロッパの絵画のようだ。 「あれが、ローワー・タウン…」 さくらは窓の外の石造りの家々を指さし、興奮気味に言った。

李さんが手配してくれたホテルは、旧市街アッパー・タウンにある、歴史的な建物だ。 チェックインを済ませ、部屋に通される。 窓から見えるのは、雪化粧をしたセントローレンス川と、その対岸の街並み。そして、堂々たる『シャトー・フロンテナック』の尖塔。

「まるで、お城だね」 さくらがため息をついた。

「あそこに行ってみたいわ」

さくらは静かに黙っている。さくら自身のことなのに。

過去の珍道中エピソード(ユーモア)

さくらは得意げに話し始めた。 「私ね、フランスに二回も行ってるの。で、二回ともね、スリにあって、お財布からパスポートまで、身ぐるみ全部剥がされたのよ!30人くらいのツアーなのに、なぜ私だけスリに遭うのかしら?」

そう言って、不思議満載の顔で笑うさくらの話を聞きながら、良一も笑いが止まらない。 (危機管理能力はゼロだが、この楽天的な運のなさこそが、僕が愛したさくらだ)

彼女の珍道中エピソードは続く。 「尾瀬沼にアルバイトとして、夏の間だけっていう契約で行ったんだけど……」

母江津子の**「尾瀬沼は素敵だよ」**という一言を信じ、「働く」という形で行動に移したらしい。江津子はただ登山を勧めただけなのに。

「それがね。なんと3日も経たないうちに、人手は足りないのは確かだけど、『キミには辞めてもらいたい』って、残念なお言葉をいただいちゃったの」

そんな**「なぜ?」だらけの不思議な話**が続いた。

「24才の時、父に相談したね。『そろそろ自立したいって』ね。それで、父がアパートを探してくれて、敷金・礼金まで払って、引っ越し屋さんまで手配してくれたの」

なんてお嬢様!一人っ子でさぞや甘やかされて育ったのだろう。良一は心の中で**「なんて贅沢な!」とツッコミを入れながらも、笑顔で話を聞く。 母、美保子は18歳で上京し、アパート探しからバイト、大学通学まで全て自力でやったと言っていたが、ひとりで生活したことがない良一には、さくらの話がピンと来ない**。

「それで、どうなったと思う?たったの3日で出戻り」 笑いながら、コーヒーのおかわりを頼むさくら。

「三日とは、いかなること?」美保子の質問に、さくらはさらに笑いを深めて答える。 「父の話ではね、私は一日目に『何を食べようか』と考え、二日目に『カレーライスにしよう』と決断し、買い物に出かけ、翌日、『では、作ろう!』と思った時に、あまりにも空腹で、SOSの電話を父にしたそうよ」

「そんな……」美保子は言葉を失う。普通、お腹が空いたら何か食べるでしょう! 「『たしかに。それが点滴だったとは。お釈迦様でも知りませんね』と父に言われてね」

「私ってそんなに面白いの?」

久しぶりにさくらの前で笑った。 (普通じゃないか。さくらは自然に治ったのかもしれない)

だが、現実は甘くない。

🚶ケベックの散策と予期せぬデモ隊

翌朝、良一は、鍵をポケットに入れて、ケベックの街中へ出かけた。まだ眠いというさくらをホテルに置いたまま。セントローレンス川と、城のようなホテル(シャトー・フロンテナック!)を見たい!三月始めのケベックは寒い!でも、美保子の防寒着は着膨れ選手権で優勝できるレベルなので、寒さより歩くことの困難さを感じるくらいだ。歩いていると、ポカポカどころか、中から湯気がでそうで気持ちいい。

「でも、コーヒーが、今すぐ、命の次に飲みたいな。」

ちょうどマクドナルドの看板!見慣れた救世主だ。 いつものように、指差し注文。 「カフェ、プリーズ!そして、メルシー!」

日本語が入っているが、まあ、それは国際親善のご愛嬌。通じればすべてよし!

ゆっくりコーヒーを飲んでいると、外をデモ隊がプラカードを掲げて歩いて行く。「わっ!ケベックも元気ね!」と見ていると、なんとなんと、その先頭集団に、さくらがいるではないか!

良一は、コーヒーを噴き出す寸前でこらえ、呆れて、何も浮かばない

「あれは、ケベック独立を表明する党派のデモ隊です」

日本人観光客を引き連れたガイドさんが、拡声器のような声で日本語で説明している。

「アッ!日本人らしき女性もいます!素晴らしいですね!勇気ある行動!」

何が素晴らしいのか、ガイドさんはやたらと褒めている。

良一は、さくらの新たな一面にひたすら驚きながらケベックを散策し、ホテルに戻る。

でも、まださくらはいない。

🚨さくらの行方不明:不規則な人格の暴走

良一は慌ててホテルの部屋に戻ったが、やはりさくらの姿はない。ベッドは整ったままで、外出着もそのまま。彼女がデモ隊に参加していた時の服装のままだ。

良一は、瞬時に李さんの厳しい指摘を思い出した。 (僕はまだ甘い。さくらを一人にした。この予測不能な妻から目を離した!)

彼はフロントに駆け込み、さくらの人相を説明しようとしたが、その時、さくらの中に現れた人格が脳裏をよぎる。

(デモ隊に参加していたさくらは、あの冷徹な「女王」だったのか?それとも、情熱的な「水先案内人」だったのか?全く違う、「新しい人格」**が目覚めたのか?)

良一は、自分が愛する妻の「どの姿」を説明すれば良いのかさえ分からず、立ち尽くした。

「マダム・リョウイチは、どのような服を…?」フロント係が尋ねる。

良一は、絞り出すように答えた。 「黒いコート…いや、もしかしたら奇抜なペイントがされた服を…いや、何も持っていないかもしれません!」

一見平和な観光の裏で、さくらの病状は確実に進行していた。そして、その予測不能な人格の暴走が、**「行方不明」**という形で現実の危機をもたらした。

📌緊急の捜索と新たな人格

良一は、李さんに連絡を取り、緊急捜索を依頼する準備を進めた。しかし、その夜遅く、さくらが泥だらけの状態でホテルに戻ってきた。

彼女の顔は、デモ隊の時とはまた違う、荒々しい、しかし強い意志を宿していた。

良一が駆け寄ろうとすると、さくらは鋭い目で彼を制した。

「触らないで。私は…使命を帯びた者

良一の目の前で、第四の人格、「戦士(ウォーリア)」が、ケベックの夜に初めて姿を現した。

「良一、私たちは経済的余裕がないわ。この旅のすべての経費を論理的に見直す」

「いや、李さんが全て手配してくれているから…」

「女王」は良一を無視し、完璧なフランス語で店の主人に話しかけ、観光客向けの割引プログラムを極限まで引き出し始めた。

「良一さん、あなたは無駄な贅肉が多すぎる。さあ、この『論理的な倹約』こそが、私たちの生き残る道よ!」

翌日、ケベック旧市街の美しい石畳を歩いていると、さくらの中に「創造主(クリエイター)」の人格が出現した。

彼女は、良一が着ていた地味なダウンジャケットを指さし、芸術家然とした表情で言った。 「なんて醜い…!この服はさくらの美意識を破壊しているわ!」

創造主は、近くの露店の絵の具と飾り物を勝手に購入すると、その場で良一のジャケットに奇抜なペイントを施し始めた。

「真の芸術とは、日常の破壊から生まれるのよ!さあ、良一!あなたは今日から移動するキャンバス』よ!」

良一は、道行く観光客の奇異な視線を浴びながら、奇抜な落書きだらけのジャケットを着て、「これが、僕の妻の病気の症状…」と、恐怖と滑稽さの間で呆然とするしかなかった。

良一は、さくらの人格の交代が、全く繋がっておらず、予測不能であることを痛感する。しかし、この予測不能な妻とどう向き合い、夫婦の絆を取り戻すのか。それが、店長としての責任を果たすための、最初の試練となるはずだ。

「治るのですか?」

「治癒の可能性はあります。しかし、鍵は五つの人格の存在理由』を知り、さくらさんの心の核へ良一さん自身が辿り着くことです。そのためには、人格が最も強く現れる場所で、彼女たちと対話するしかありません」

良一は、恐怖と絶望に支配されそうになるが、李さんの言葉と店長としての責任感を思い出し、夫婦として病に立ち向かうことを決意する。

モントリオールの絶叫:ピクルスの恨み

🛍️逃避としてのピクルス探求

モントリオールでの三日目。ホテルはモールの外、良一とさくらの二人だけで探した。李さんにも全く頼らないという良一の自立の決意は固かったが、さくらの行動は予測不能すぎて、良一の心配は富士山より高く達してしまった

頭を冷やさないと、「さくら、もう帰ろうよ!」という自分の弱気な言葉に、説得力がなさすぎる気がしたのだ。

翌朝、良一は黙って部屋を出た。 そうだ、買い物をしよう! 大好きなミニキュウリのピクルス。あれを、日本でいう一升瓶ぐらいの巨大な瓶で買って食べよう。酸味の暴力で、嫌なことを胃の底から吹き飛ばせるかも!もちろん、フランスパンも一緒に。

ホテル近くのスーパーで、自分の身長の半分くらいあるピクルスの瓶をゲット。その荷物をホテルに置いて、街中に出る。

アライグマの皮を観光客に勧めている怪しいおじさんと、ジェスチャーのみでちょっとお話し。その流れで、アライグマの皮を頭に無理やりかぶせられ、「ケベックの伝統だ!」と観光客誘致に一役買わされる良一。

モントリオール駅近くのアイススケート場では、楽しそうに滑っている人たち。「いいな、みんな会話を楽しんでいる。それなのに私は、同じ日本人妻とさえ会話ができないなんて……」

そんなセンチメンタルな気持ちも、ピクルスとフランスパンへの強い執念で押し流し、「さあ、今日のランチは昨日買って置いたキュウリとパンがある!帰ろう!帰って食べよう」

心の中をピクルスの酢で満タンにしながら、ホテルの部屋のドアを開けた。

😱ピクルスの牙と瓶の空虚

良一がその先に見たものは……!

目覚めたさくらが、ベッドの上に正座している。 まん丸目で、「どなた?」とばかりにキョトンと良一を見ている。そして、そのキョトンとした口の下には、ミニキュウリのピクルスが、まるで牙のようにぶら下がっている!

(さくらの目の前にいるのは、僕ではないというのか?どの人格だ?この空腹を満たしただけの獣のような人格は…!)

「…………」

良一はあまりの状況に、自身の認識能力を疑った。

しかも、近くに転がっているあの巨大なピクルスの瓶!酢とキュウリがぎっしりみっちり詰まっていたはずの瓶が、空っぽで、カラカラと虚しく転がっている!

キュウリ、全滅!

良一の絶望は、ピクルスへの愛着によって、恐怖を上回る怒りへと転化した。

🥒%*&$#!!!」

何を言ったか、良一は全く記憶がない。フランス語か、日本語か、あるいはピクルス語か。良一もついに心が崩壊、それとも感情が大爆発

業務連絡のみ

その日を境に、良一は、必要最低限の「業務連絡」がある時だけしか、さくらと会話をしなくなった。目も合わせないピクルスの恨みは恐ろしい。

良一の心に、ケベックでの「成田離婚」という甘さではなく、「この予測不能な妻とは、もう二度と心を通わせることはできない」という、現実的な断絶の恐怖が刻まれた。

モントリオールの恐怖は、良一を不安の地獄に落とした。まるで、富士山のお釜へ強風であおられたように、真っ逆さまに落ちて行った

プリンス・エドワード島(PEI)

  

自力での移動と冷たい業務連絡 モントリオールを後にし、良一は自らの手で、プリンス・エドワード島(PEI)へのフライトを手配した。ドクター・ベルナールの冷たい診断と、ホームレスとの出会いがあったが、さくらとの関係の断絶は続いている。 機内でも、良一はさくらと目を合わせない。会話は必要最低限の「業務連絡」のみ。 良一はメモ帳に次の行動予定を書き付け、さくらに突き出す。 「プリンス・エドワード島。到着後、シャーロットタウン市内のホテル。その後、レンタカー手配」 さくらは、そのメモをロマンス小説のプロットのように受け取った。 「まぁ、秘密の旅ね!良一さん、あなたはギルバートのように私を連れ去ってくれるのね!フフフ」 さくらの中に現れた「水先案内人(ナビゲーター)」は、現実の良一と、理想の恋人像を完全に混同していた。良一は、ピクルスの恨みと業務連絡という名の冷たい壁を作り続け、さくらの非現実的なロマンスに一切反応しないことで、夫としての感情を凍らせていた。

 グリーン・ゲイブルズでのロマンス暴走

PEIの玄関口、シャーロットタウンに到着すると、さくらは「水先案内人」の人格に完全に支配された。 「まずグリーン・ゲイブルズへ行きましょう!そこで、人生のすべてを変える、真の希望を見つけ出すの!」 良一は、業務連絡として、「観光」という名目で移動に同意した。彼にとっては、「人格と向き合う」という嫌な仕事のための『現場検証』に過ぎない。 グリーン・ゲイブルズに着くと、さくらは持参した日焼け防止用の大きな麦わら帽子をかぶり、周囲の景観に陶酔し始めた。 「良一さん!見て!この『輝く湖水』!まるで、神が微笑んでいるようね!ここで、一生忘れられない愛の誓いをしましょう!」 さくらは、現実の観光客を無視し、空想の世界のヒロインになりきって、良一に抱きつこうとした。良一は、ピクルスの瓶が脳裏をよぎり、反射的に一歩引いた。 「さくら、周りの観光客に迷惑だ。業務連絡。写真撮影の次は、次の視察地へ向かう」

女王の批判と予算の戦い(ユーモア)

「水先案内人」のロマンスが最高潮に達した時、さくらの瞳が一瞬、冷たい青色に変わった。 「馬鹿げているわ、良一さん」 さくらの声は、「女王(クイーン)」の冷徹な論理に戻っていた。 「『輝く湖水』?単なる太陽光の乱反射よ。そして、この入場料。私たちの旅の収益性を完全に下げている。非論理的なロマンスに感情的な浪費をすべきではない。

業務連絡。旅の予算を再構築しなさい!」 突然、ロマンスのヒロインが冷徹な経理部長に変わったことに、良一は心底から疲弊した。

良一は、観光案内所で借りた公衆電話に逃げ込み、李さんに小声で相談しようとしたが、「誰にも頼らない」という自立の決意を思い出し、電話を置いた。彼は、自力でこの五重人格を「マネジメント」しなければならなかった。

良一の視察:観光経済の分析

「女王」に追いやられた良一は、現実逃避として店長としての視察に没頭した。 彼は、PEIの『赤毛のアン』にまつわる観光経済を詳細に分析した。

(この島は、一つの物語で経済全体を維持している。僕の新店舗も、ただのモノを売るのではなく、「物語」と「暖かさ」を売るべきだ。特に、心の貧乏を抱える人々にとっての安全な物語を)

良一は、美しい灯台や赤い砂浜を見ながら、店長としての使命だけを考えていた。彼にとって、PEIの美しい景観は、さくらの病を治すためのヒントが隠された「業務資料」に過ぎなかった。

良一の心は、ピクルスの恨みと業務連絡で完全に凍り付き、さくらとの間の冷たい断絶は、さらに深まっていた。しかし、この冷たい合理性こそが、彼を絶望の淵から守る最後の防衛線だった。

💔PEIの切なさ:ロマンスと冷たい業務連絡

1. 👒曲がり角の先の「業務」

PEI到着四日目。良一はレンタカーを運転し、さくらを乗せてグリーン・ゲイブルズの周辺を巡っていた。車内は、**「女王」による「ガソリン消費量の論理的検討」か、「水先案内人」による「理想の恋人ギルバートに関する熱弁」しかなく、良一からの応答は「次の休憩地は10分後。業務連絡」**のみ。

さくらは、水先案内人の人格で、突然、道の先に指をさした。 「見て、良一さん!あの曲がり角の先に、きっと人生を輝かせる希望が待っているわ!」

良一は、ハンドルを切りながら、冷たく言い放った。 「業務連絡だ。曲がり角の先にあるのは、次の観光地への標識と、予備バッテリーの残量だけだ」

その時、さくらの表情が一瞬、激しく歪んだ。 「水先案内人」は、良一の冷たすぎる現実主義に傷つき、沈黙した。しかし、良一の心も激しく痛んだ。彼自身の**「甘さ」を克服するために作った「業務連絡」という壁**が、さくらのわずかな希望をも打ち砕いてしまったことに、切なさを感じていた。

2. 🛡️戦士の兆候と母のトラウマの伏線

夕方、有名な赤い砂浜に着くと、さくらは急に体力の限界を超えたように荒々しい行動を取り始めた。

さくらは、赤い砂を手で掻きむしりながら、低い、唸るような声を出した。 「負けられない。もっと強く、もっと完璧に。休むな。勉強しろ…あなたは橋の下で拾ってきた子なんだから…!」

良一の背筋が凍った。これは、深夜に聞いた**「宿題」と「ママの殺意」**を裏付ける、恐ろしいトラウマの断片だ。

(橋の下で拾ってきた子…さくらの母親、江津子さんは、父・勝一郎の攻撃からさくらを遠ざけるどころか、勉強しないことを許さないという名目で、その心を平気で踏みにじっていたのか!)

この荒々しい人格こそ、やがて覚醒する**「戦士(ウォーリア)」未熟な兆候**。「負けられない」「もっと完璧に」という言葉は、母・江津子の冷酷な教育虐待に対する、さくらの命がけの抵抗の現れだった。

良一は、この**「戦士」の悲痛な叫びを聞き、妻の心の闇の深さを知った。自分の「ピクルスの恨み」など、あまりに小さな感情**だと痛感した。

3. 🧠賢者の伏線:知識と無関心

さらにその夜、ホテルの部屋で、さくらは再び全く別の人格の片鱗を見せた。

良一がホテルの観光パンフレットを開いていると、さくらは微動だにせず、天井を見つめながら、図書館の百科事典を読むような知的な声で語り始めた。

「良一。その島の経済基盤は、観光収入ジャガイモの輸出、そして水産資源よ。特に観光客の心理動態は、非現実的なロマンスへの渇望を軸に形成されている…すべて無意味な知識よ」

この**「すべてを知り尽くした」ような、感情のない声は、「賢者(セージ)」の伏線だった。 (この人格は、知識を持っている。だが、その知識は、生きる意志と希望**を全く持っていない…まるで、すべてを知って絶望しているようだ)

良一は、知識の重み生きる希望の軽さコントラストに、身動きが取れなくなった。

4. 💖夫婦の絆再生の伏線

「業務連絡」と「ピクルスの恨み」で心を閉ざしていた良一だったが、さくらのトラウマの深さと、人格たちの苦悩を知るにつれ、彼の冷たい壁微かに溶け始めていた

夜、さくらが戦士の人格のせいで悪夢にうなされ、奇声を上げた。 良一は、業務連絡を無視し、反射的にさくらの手を握った。

さくらは、一瞬、穏やかな「いつものさくら」の目に戻り、良一の手を握り返した。

「良一さん…ありがとう。怖い夢だったの…でも、あなたの手が、温かい

その言葉は、人格ではなく、さくらの心の核から漏れたものだった。良一は、その一瞬の温かさに、「成田離婚」という考えが、いかに冷たく愚かな行為だったかを痛感した。

良一は、業務連絡ではなく、自らの感情で、さくらにそっと囁いた。 「…大丈夫だよ、さくら。僕がそばにいる」

夫婦の再構築:曲がり角の先にある真実

1. 🕯️良一の涙と曲がり角の感謝

「…大丈夫だよ、さくら。僕がそばにいる」

良一が業務連絡ではなく、自らの感情で言葉を紡いだ夜。さくらが再び深い眠りについた後、良一は窓の外、PEIの闇に浮かぶ遠い灯台の光を見つめていた。

(僕は、なんて愚かだったんだ。ピクルスの恨みと、店長という現実に逃げ、さくらの悲痛なトラウマから目を背けていた)

良一は、自らの冷たさ妻の抱える心の傷の深さに、初めて静かな涙を流した。

その時、さくらの寝言が聞こえた。それは、**「水先案内人」**の人格が、いつものロマンスを語る声だった。

曲がり角の先に…虹色の希望が待っているわ…良一さん、ありがとう…」

(曲がり角の感謝…?) 良一は、自分が**「標識とバッテリーだけだ」と、冷たく突き放したにもかかわらず、さくら(水先案内人)が「ありがとう」**と言っていることに、胸を打たれた。

**人格は、良一の「冷たい壁」の裏にある「愛と寄り添う行為」**を、見抜いていたのだ。

良一は、**「成田離婚」**という逃避を完全に捨て去り、さくらと向き合うことを決意した。

2. 📞母の過去:美保子の「自立と孤独」

良一は、PEIのホテルから、日本にいる伯父・一郎に電話をかけた。「業務連絡」ではない、息子としての真剣な問いだった。

「伯父さん。母さん(美保子)が18歳で上京した時の話を聞きたい。どうやって、自力で生活を始めたんだ?」

伯父一郎は、甥の真剣な声に驚きながらも、淡々と答えた。 「美保子はな、『孤独な自立』を選んだ。誰にも頼らず、アパートを探し、夜学に通い、昼は働き…その強い意志こそが、あの女の全てだった」

「自力で全てを、ですか…?」

「そうだ。だからこそ、彼女は李さんという『孤独な恩人』の探索に、あれほど情熱を傾けられた。孤独な心を理解できるからこそな」

良一の脳裏に、さくらの「たった3日で出戻り」というエピソードが蘇った。

(さくらは、父の庇護の下で「甘い自立」を試みた。母の「強い自立」とは真逆だ。そして、さくらの人格の暴走は、「心の貧乏」、つまり「孤独への恐怖」から来ている…)

良一は、李さんが渡してくれた、母・美保子が使っていた古い手帳を引っ張り出した。それは、李さんの恩人を探した時の探索ノートだった。

ページをめくると、PEIの赤い海岸線の地図に、美保子の筆跡で書き込まれた小さなメモがあった。

「この赤い砂浜の、曲がり角の先。きっと、彼の求める『真実』と、孤独を打ち破る『希望』がある」

(母さん…『曲がり角の先』…!)

美保子もまた、「水先案内人」と同じように、目に見えない希望を信じていた。そして、その希望は、李さんの「孤独な過去」、つまり「戦士(ウォーリア)」が抱える「負けられない」という孤独な戦いの原点**に繋がっている。

良一は、美保子のメモの下に、押し花にされた小さな青い勿忘草を見つけた。その裏には、美保子の筆で、さくらへのメッセージのように書かれていた。

「闘いなさい。屈辱に負けず、あなたの『真の強さ』を『戦士』として解き放ちなさい」

夫婦の再構築:最初の対話

良一は、冷たい業務連絡の紙を破り捨てた。彼は、眠っているさくらの横に座り、そっと語りかけた。

「さくら。僕が悪かった。もう、冷たい業務連絡はしない。ピクルスのことも忘れる」 良一は、さくらの髪を優しく撫でた。

「君の中にいる五人の君も、僕の妻だ。そして、君のトラウマも、僕たちのものだ。君の母さん、江津子さんの『冷たい愛』から君を守れなかった、義父、勝一郎が悪いんだ」

良一は、さくらの父(勝一郎)と母(江津子)が、厳格な教育と心ない言葉で、さくらの**「心の貧乏」**を育ててしまった事実を認め、その責任を夫として背負うことを決意した。

その時、さくらの手が、良一の手を強く握った。 「戦士(ウォーリア)」の人格の兆候が、感謝と希望を込めて、良一の愛の言葉に応えていた。

🇯🇵新章:共存を目指す家族のチーム

1. 🛑旅の終結:PEIでの良一の決意

良一は、PEIの赤い海岸線を二人で歩きながら、さくらの手を握っていた。彼はもう**「業務連絡」**の壁を完全に破り、夫としての感情で語りかける。

「さくら。この旅は、ここで終わりにしよう」

さくらの中に現れた**「水先案内人(ナビゲーター)」の人格は、目を丸くした。 「え?なぜ?まだ『真のロマンス』が足りていないわ!曲がり角の先の虹色の希望**を、まだ見ていない!」

良一は、力強くさくらの手を見つめた。 「虹色の希望は、曲がり角の先ではなく、僕たちの家族の中にある。君が一人で抱える必要はない。僕も、母さん(美保子)も、そして専門家も、みんなで君を支える」

良一は、この旅で**「誰にも頼らない」と決めたが、それは「甘さからの自立」のためだった。今は、「病という現実」から逃げず、「専門家と家族に頼る」という、真の強さと合理的判断**が必要だと悟っていた。

「僕たちの新しい戦いは、日本で始まる。君の中の五人のさくらを、としてではなく、家族として迎え入れよう。共和、共存、助け合う関係を、みんなで築くんだ」

さくらの瞳が一瞬、冷徹な「女王」に変わり、良一を査定するように見つめた。 「論理的には合理的ね。しかし、予算と感情のコストが…」

良一は、女王の論理を遮って、初めて夫としての命令を発した。 「感情のコストは、僕がすべて払う。これは、君の病との戦いではなく、僕と君の再構築の始まりだ。行くぞ、さくら」

2. 🏠日本への帰国と美保子の献身

帰国後、良一は新店舗の店長としての着任を延期し、さくらとの生活に集中した。

すぐに動いたのは、母・美保子だった。美保子は、**「孤独な自立」を選んだ過去を持つがゆえに、さくらの「心の貧乏」「孤独な人格」**の苦しみを誰よりも理解していた。

美保子は、介護技術精神疾患の基礎知識を学ぶため、昼間は地域の研修に通い始めた。

「さくらさんの病気は、私が李さんを探した旅と似ているわ。ゴールがどこにあるかわからない。だからこそ、毎日を大切に、丁寧に、寄り添うことが必要なのよ」

美保子は、「お嫁さん」ではなく「家族の一員」として、さくらの不安定な人格の世話を買って出た。

  • 「創造主」が出現した時は、画材を提供し、ホテル備品の破壊を未然に防いだ。
  • 「水先案内人」には、アンのロマンスを現実世界に持ち込まないよう、「美保子流のロマンス小説(ご近所さんのユーモラスな日常)」を語って聞かせた。

新キャラクター:広瀬香織の登場

良一は、父・勝一郎に協力を求め、彼の妹で、長年多重人格解離性障害を専門とする精神科医広瀬香織を紹介された。

広瀬香織は、ドライで知的な美しさを持つ女性だった。さくらの症状を聞くと、彼女は目を細めた。

「良一さん。この病は根治を目指すものではない。私の目標は、『5人の人格』の間に協定を結ばせること。共存(Co-Consciousness)と、協力(Co-Operation)の関係。いわば、『五重人格協和国』を、さくらさんの中に築くことです」

香織は、ドクター・ベルナールの「離婚すべき」という冷徹なアドバイスに対し、こう反論した。 「家族の協力こそが、この病の最高の薬です。孤独な防衛システムである人格たちに、『ここはもう安全な場所だ』と理解させるには、良一さんの揺るぎない愛情と、美保子さんの献身的なケアが不可欠なのです」

五重人格協和国の課題

良一、美保子、香織の「チーム・さくら」が結成されたが、その道のりは当然、困難とユーモラスな混乱に満ちていた。

最初の家族会議で、「女王(クイーン)」の人格が出現し、香織の治療方針を論理的に批判した。

「香織。あなたの治療計画は、予算時間効率の観点から見て、非合理的よ。特に、私(女王)の役割が**『経理部長』として正当に評価されていない。至急、計画を修正し、私の『権威』**を明記しなさい!」

香織は、冷静に微笑んだ。 「女王様。あなたは**『五重人格協和国』の首相として、最も重要な財産(さくら)の管理をお願いします。首相の指示は、良一さんを通して、私たちに業務連絡**で伝えてください」

「業務連絡」の言葉に、良一はモントリオールのピクルスの恨みを思い出し、顔を引きつらせた。しかし、これは夫婦間の断絶ではなく、チーム内での役割分担としての「業務」だ。良一は、「女王」との「業務連絡ゲーム」という名の果てしないマネジメントに、再び身を投じることになった。

**「五重人格協和国」の建国は、始まったばかり。「戦士」の真のトラウマ、「賢者」の深い絶望、そして「水先案内人」**の夢を、この新しいチームがどう受け止め、共存へと導くのか。