幸せはどこにある?
昔、幸せは山のかなたにあると信じていたことがある。
「山のかなたの空遠く、幸い人が住むという」
カール・ブッセの詩からのイメージだったと思う。
私の母はすこぶる楽天主義者で家に閉じこもっている私に
「勉強ばかりしてないで外に出て遊びなさい」
とよく小言をいった。子供は外で遊ぶのが仕事という考えで、閉じこもっていると体に良くないという考えの持ち主だった。
この考え方は、イギリスのバートランド・ラッセルの考え方と似ている。外国などに行ったことのない母が偉大な数学者と同じ考え?
ラッセルは自分の心の中に小さく座り、周囲を拒絶するのではなく、外の世界にどんどん出ていくことが幸せにつながると述べている。
周りを愛し、称賛し、自分の好きを見つける。そして、もし、努力しても、自分にはこれ以上無理と思ったら、そこでやめる勇気も新たな第一歩を見つけるチャンスかもしれない。これは母の言葉でもありました。母の父親は明治時代の自由な教育を受けて師範学校の校長までされた人だったそうです。
さらにラッセルは自由な余暇を楽しみ、リラックスできる時間の大切さ。それこそが幸せにとって必要だと述べている。
ラッセルの主張
客観的な生き方、自由な愛情と趣味が幸せを招く
簡単そうで、実は難しい考え方かもしれませんね。
客観的に生きる。
自分の内なるものばかりに目を向けているから不幸?
外に目を向けると幸福?
デメリットを考えてみました。
😞外に目を向けて、つい他人と比較し、それに比べ私はと思い悩む人もいる。
😍また自由な愛情と称して浮気を重ねる人は?
😅広い趣味を次々していると奥さんから無駄遣いといわれる。
ラッセルの幸福論は当たり前といえば当たり前。でも、今の日本人にもっともふさわしい幸福論かどうかは怪しい。

日本人の幸せはどこにある?
日本人の多くはラッセルの説とちょっと異なり、個人だけの問題で解決するとは思っていないのではないだろうか。
東日本大震災の頃から「きずな」という言葉が多く使われるようになった。自分の幸せだけでなく、家族や友人、社会とのつながりの中での祈りや願いが幸せにつながると考えられているように思う。個人だけでなく、日本全体が幸せでなければ、自分も幸せにはなれない。これが日本人の幸福感の神髄かもしれない。
外国で感じたことは個人主義が徹底していることでした。
例えば、何か悩みがあって、グズグズしていたとき、友人にそれを言うと、「だったら、精神科のクリニックにいくといいよ」とアドバイスしてくれた。日本だったら「お茶でも飲みながら話を聞くよ」という流れになるだろうに。
欧米やアメリカでは個人主義が重視されている。お金をうまく管理でき、健康で、高い教育を受け、それなりの生活を築いている人が尊重される。もちろん心は楽観主義者。それが幸福を手にした人々であると。
確かに日本でもそうかもしれない。お金、健康、自由な時間が幸福の重要ツール。でも、どんなにこの三大要素がかなっても不幸な人はいる。
足るを知る者は富む
私はお釈迦様の言葉(老子の言葉)と言われる「足るを知る者は富む」という言葉が幸福への足掛かりになるのではないかと思う。
自分が今、持っているものに対して感謝する。はてのない欲望でなく、満足するということが、静かで息の長い幸せへとつながるのではないだろうか。そこに心の安寧が得られるのではないか。
よく考えてみると、日本人には仏教の教えが脈々と続いているのですね。結局、世界の三大幸福論がお釈迦さまや老子の教えに到達してしまいました。
私の幸福論の最終結論。
足るを知る者は富む
次回からは他のテーマでブログを発信します。(Mr. Kazu)
幸福論お疲れさまでした。美味しいもみじ饅頭を食べてから、ゆっくりお休みください💕
Mr. Kazu,素晴らしい幸福論ありがとう。
次回のブログを楽しみにお待ちしてます。