コスモス畑のみよちゃんとオバケ教頭先生
プロローグ:
コスモスなんて、だいきらい!
「コスモスなんかだいきらいだ!」
安岡美代子、10歳。東京生まれの、それはそれは可愛い女の子なのに、その日は鬼のような形相で大声を張り上げていました。
「そんなことは言わないで、外に出ましょうよ、みよちゃん!」
担任の桜井先生は困り顔で、教室の窓の外のまぶしいコスモス畑と、美代子を交互にチラリチラリ。忙しなく首を動かします。
「コスモスなんて、だいだいだいきらい!」
美代子はそう繰り返すと、さっさと自分の席に着いて、机の上に筆箱を置きました。中身をからっぽにすると、お手製の布バッグから、小さなスケッチブックを取り出し、何やら描き始めます。
「みよちゃん、それは違うでしょ。先生は、お外でコスモスをデッサンしましょう、と言ったはずよ。みよちゃんの絵は、空想でしょう?」
桜井先生は、美代子の描く絵をのぞきこみながら、静かに言いました。筆箱は、前はきっと、お菓子が入っていたに違いありません。可愛い花柄にハートマークが描かれています。
「くうそうじゃないもの!」
美代子は口を「へ」の字にとんがらせて言いながらも、手は、箱から飛び出しそうなほど、たくさんのお菓子を描いています。
「いつも、箱いっぱいにお母さんが焼いてくれたお菓子だもん!」
とんがらした口の上に、ホロリと涙がこぼれ落ちました。
「困ったわ、困ったわ……」
桜井先生がブツブツ言っていると、教室の扉から、ぬっと教頭先生が顔を出しました。頭にはほとんど髪の毛がないので、顔と頭の境目は、その愛嬌あるまんまるメガネ👓が、かろうじて教えてくれるだけです。
「なになにー?」
困ったことがあると、どこからともなく、のそっと現れるので、影では「オバケ教頭」と呼ばれていました。しかも、「幽霊では、本物の幽霊がかわいそう」と、誰かが言ったとか、言わないとか。
「ああ、美代子ちゃんだね。先生が見ているから、桜井先生は、外の子どもたちのところへゴー!」
教頭先生の言葉に、桜井先生は、
「教頭先生、いくら戦争が終わったからって、いきなり英語はまずいんじゃないですか?」
なんて、笑いながら廊下を走っていきました。
「若いっていいな」
教頭先生は、美代子に近づき、目じりのシワが消えてしまうくらい、笑顔を全開にしました。
「なかなかおいしそうに描けているね。一つ食べたいな」
教頭先生は、絵の中からお菓子をそっと取り出すような仕草をして、口の中にポイ。そして、モグモグし始めました。
それをじっと見つめているうちに、美代子の目から涙は止まり、やがて、ニコッと笑顔が浮かび始めました。教頭先生は、その笑顔のまま、美代子の言葉を待ちます。
「コスモスがだいきらい。コスモスなんて咲かなきゃいいのよ」
教頭先生は、まだ何も言いません。
「コスモスさえ咲かなければ……」
しばらく、教室は静まりかえっていました。美代子とオバケ教頭先生の他には、誰もいません。
「コスモスって、きれいだよなー」
教頭先生が、ちょっと間延びした話し方で、美代子のお菓子の箱の絵を見ながら言いました。なんとそこには、可愛らしいコスモスが、あちこちに描かれています。
「きらいなんだよな?」
また教頭先生は、ニヤリと繰り返しました。
美代子は、そこで自分が言っていることのチグハグさに気がつきました。「あれ?私、どうしちゃったんだろう?」美代子はハテナ?という顔で、教頭先生を見ました。オバケなんかじゃなくて、まるで仏様のような優しい笑顔です。
「コスモスが咲き始めた二年前の秋に、この学校に集団疎開で来たの。そして、今年の夏、戦争が終わるちょっと前に、お母さんも疎開してきたの。やっとお母さんに会えたのに、病気になっちゃって、実家に帰っちゃった。私たちを残して……。それを、コスモス畑から見送ったの。いつもそう。コスモスが咲く頃に、いやなことがある」
美代子は、トツトツと、しかも、きれいな標準語で話しました。まさに東京生まれのお嬢様。頭もクラスでダントツ、しかも可愛い。
教頭先生は、そんな美代子の悲しみを、真剣に受け止めました。
戦争という大きな渦の中で、子どもたちは、環境をグルグル変えざるを得ない。両親と別れ、いつ会えるかもわからない。子どもは何も知らないからいい、なんてことはないのです。子どもなりに考え、苦しんでいる。教頭先生は、世界の大きな流れの中で、何も出来なかった自分を責めていました。
「みよちゃん、コスモスは何も悪くないよ」
美代子は黙って、うんうん頷き、手をとめました。そして顔を上げると、
「わたし、今度の日曜日に、お母さんのお見舞いに行く。コスモスをたくさん持って行こう。お母さんが大好きな花だから!」
美代子はそう言うと、
「教頭先生、ありがとう!」
教頭先生も、にっこり笑って、
「ごちそうさま!」
第二章:オバケ教頭のプレゼント
次の日曜日、朝早く。教頭先生が、美代子の疎開先の家にやってきました。父方の家には、たくさんの親戚の兄弟が疎開してきていて、足の踏み場もないほどです。特にお父さんがまだ帰還していない美代子の家族は、さらに狭い部屋で寝起きしています。お母さんがいない今は、きっと、もっと大変なはず……。
教頭先生は、つい美代子に「かわいそうに」という感情を抱いてしまいました。が、美代子は、そんな心配を吹き飛ばすような元気な姿で出てきました。
「おはよう教頭先生!何かご用ですか?」
明るい声でした。
「大丈夫かな?と思ってな」
「大丈夫?何が?」
美代子はキョトンとします。
「たしか、日曜日にお母さんのお見舞いに行くって言ってたよな?」
「もちろんです!ほら、準備中!」
玄関には、小さな赤い靴が置いてあります。
「じゃあ、重いけど、お土産だ」
教頭先生は、背中に背負っていた布製のカバンから、これまた麻の布地の袋を取り出しました。
「これは小麦粉だ。お母さんに何か作ってあげるといいよ」
それだけ言うと、教頭先生は、足早に去っていきました。
「教頭先生、元気そう!そして、ありがとう!」
美代子は、母親がいる実家には何度か行っているので、だいたいの道はわかっています。でも、念のために、おばあちゃんに住所を聞きました。
「しかたないんだよ。病人を抱えるほど、余裕ないし。おまけにふじのやまいだしね」
住所を美代子に書きとらせながら、おばあちゃんは、どこか冷たい声で言いました。
「ふじのやまい?」
富士のお山の病気って、なんだろう?
美代子は、歩きながら、ずっと考えていました。ふじのやまい?ふじのやまい?
二時間以上歩いた頃、見覚えのあるコスモス畑が見えてきました。懐かしい。たしか、すぐ近くに、大きな赤い鳥居⛩️があったはず。美代子は、軽やかになった身体をスキップさせながら、進んで行きました。
「あった、あったー!」
鳥居よりずっと大きな、立派なクスノキが。
「おかあさん!おかあさん!」
小さな声が、どんどん大きな声になっていきました。
縁側には、お母さんそっくりのおばあちゃんが立っていました。
「せっかく来てくれたのに、ごめんね」
おばあちゃんは、美代子を見るなり、すぐに謝りました。
「お母さんには会わせることができないんだ。お医者様から、止められているんだよ」
美代子はガッカリしました。
「ふじのやまい?」
美代子の言葉に、おばあちゃんは軽く頷きました。
「ずっと何も食べないんだ。食べたくないって」
美代子は考えました。せっかく教頭先生から小麦粉をもらって、背中に背負っている。これで何か作ってお母さんに食べてもらおう!歩きながら、ずっと考えてきたことです。
実行しよう!
お父さんがよく言っていた言葉があります。
「畳の上の水練(すいれん)」とか、「机上の空論(きじょうのくうろん)」とか。難しい言葉を、お父さんはやさしく言い換えてくれました。
「ようは、眺めているんじゃなくて、すぐやる!実行することだ!」
(そう言いながら、本を読み始めると何も手をつけなくなるくせに、と、お母さんがボヤいていたこともありましたが。)
「おばあちゃん、私ね、小麦粉を持ってきたの。お母さんの好きな食べ物で、私に作れるもの、何かない?」
美代子の問いに、しばらく考えていたおばあちゃんは、覚悟を決めたように、美代子にキッパリ言いました。
「うどん。手打ちうどんがいい」
「でも、私にできるかな……?」
不安そうな美代子に、母とそっくりなおばあちゃんは、続けました。
「もしかすると、最期の食べ物になるかもしれない。心を込めて作ろう」
美代子はおばあちゃんに聞きながら、うどん作りに没頭しました。美代子が主役で、おばあちゃんは助け役になってもらいました。小さな足で「エンヤコラ、エンヤコラ」と踏んづけたり、大きなまるたん棒で押し伸ばしたり、歩くよりずっと大変でした。
仕上がりが近づいたとき、最後の切り揃えは、おばあちゃんがすると言ったにも関わらず、美代子も少し参加しました。でも、なかなかうまく切れません。ボツボツと途中で切れてしまいます。
「まあ、これも病人には食べやすいかもね」
おばあちゃんは、家族の分も欲しいからと、美代子の持っていた包丁をバトンタッチしました。
麺つゆを作り、二人で手打ちうどんを、お母さんの寝ている部屋に運びました。おばあちゃんは「私はいいから」と、先に入っていきました。美代子は、障子に小さな穴をクルクルと指で開けて、そこから中をのぞきました。
おばあちゃんに助けられて、布団の上に座ったお母さんが、障子の方を見て、ニコッと微笑みました。
中から、おばあちゃんの声が聞こえてきます。「美代子が一生懸命に作ったうどん、食べておくれ」
お母さんは、もう箸を握る力もないようでした。おばあちゃんが箸で一本つまみ、口元へ運びます。お母さんが、口元を細め、ツルツルと飲み込みました。
「やったー!」
美代子は、障子の隙間から聞こえないように、小さく叫びました。
エピローグ:コスモスに水をあげて
その日の夕方、美代子はしぶしぶ家に帰りました。
「これ以上は、うつるといけないから」
お母さんにそっくりなおばあちゃんは、お母さんとそっくりな声で言いました。
第三章
夢から覚めて……
突然、大きな声がしました。
「おばあちゃん、みよおばあちゃん!そこで寝ていたら風邪を引くから、起こしてってママからの命令!」
美代子は、夢から覚めました。
「せっかくいい夢を見ていたのに……。風邪なんて、大丈夫。みよおばあちゃんはすこぶる元気。風邪はふじのやまいじゃないし……」
美代子の言葉に、孫の佐代(さよ)はキョトンとしました。
「ふじのやまい?それって、昔流行った結核(けっかく)のこと?」
美代子は、佐代の言葉に苦笑しました。「そうか。結核は『昔』か……」
美代子は、90歳まで長生きした母が、毎年の健康診断で肺に「あやしい影がある」と言われて困っている、と話していたことを思い出しました。
そのたびに、母は言いました。「美代子の作ってくれたおいしいうどんで、生き返ったんだ。ありがとう」
母の「ありがとう」は、最期の日まで続きました。
「ありがとう、みよちゃん」
そうだ、庭のコスモスに水をあげないと。
すっかり、お母さんのおばあちゃんと同じくらいの年頃になった、もしかすると、もっとずっと年上のおばあちゃんかも。
自分のことは、90年生きても、まだわからない。
美代子はひとり言を言いながら、懐かしいコスモス畑……今は、自宅の庭のコスモスに向かいました。
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おわり