ぴょんぴょん物語(3)
寅次郎のサプライズデート
テーマ:
愛と自立。生きる意味、一歩を踏み出す勇気、信頼と慈愛。
登場人物
- ミヨ(佐久間三代子)19歳
- カケル(佐久間翔)15歳
- ラビットララとその家族:エマ、リラ、ビビ、モフモフ
- バンド「ララミーケル」
- サキ(大原咲子)14歳
- トラさん(大原寅次郎)39歳
- お母さん(大原洋子) 38歳(7年前に逝去)
- おばあちゃん(大原波江)65歳
1. サキと寅次郎
秋。サキが一番大好きな季節。なぜなら、コスモスが咲き乱れるからだ。淡いピンクの優しい花びらを見つめていると、いつの間にか心が無になる。

サキは、物心ついた頃から人を憎んだことがない。誰かを羨んだことも、嫉妬したことも一度もない。目の前の全てを、まるで自然のままに受け止める。良い人、悪い人、そんな区別すら、彼女の心には存在しない。
「そんなんじゃ、いつか騙されたり、怖い目に遭ったりするでしょ」
おばあちゃん(波江)に心配されたことがある。そんな時、隣にいた父の寅次郎は、大笑いしながら口を挟む。
「大丈夫!この子はうさぎ年。全くウサギとおんなじでね、危険を察知する天才だ。危ないと思う前に、さっさと逃げ出してるからな」
おばあちゃんは、「ふ〜ん」と鼻を鳴らして黙り込む。
父は面白がって話を続けた。
「この前なんか、知らない男に道を聞かれたらしいんだ」
一瞬、間を取る。
「それでサキがどうしたと思う?」
おばあちゃんは、口元を一直線に結び、「予測不可能ね」と答える。
苦笑しながら、寅次郎は言った。 「全速力で交番に走って行って、『前の詐欺事件の受け子がいた!』と、なんとお巡りさんを引っ張ってきたんだ」 「あらら」おばあちゃんは言葉を失った。 「しかも、それが本当に受け子だったんだよな」父は愉快そうに笑った。
サキの本当の名前は、花が咲く「咲子」。けれど、みんなはサキちゃん、またはさっちゃんと呼ぶ。
そんなサキに、いつにもまして忙しい父、大原寅次郎がデートを誘ってきた。
「サキ、今度の日曜は空いてるか?もし予定がないなら、お父さんとデートしないか?」
突然の誘いに、サキは目をパチクリさせた。 「いいけど……何か用事?」
寅次郎はニヤリと笑う。 「いい所に連れて行ってあげるよ。サキの好きなうさぎもいるし、きっと楽しめる」
2. デートはボランティア?
あっという間に日曜日が来た。
デートという割に、父は全然おしゃれをしていない。いつもの黒のタートルネックのポロシャツに、履き古したお気に入りのジーンズ姿。サキの服装も、「できるだけ、汚れてもいい服でな」と注文された。どう考えても、ロマンチックなデートの雰囲気ではない。
「帰りは、何か美味しいものをご馳走するから」 どことなく言い訳がましい。
朝7時。寅次郎は目覚めのキス(鼻をこすりつけるだけだが)とともにサキを起こしに来た。 「さあ、朝食を食べたら、すぐに出かけるぞ!」
朝食は、目玉焼きとハム。籐籠にはカットされたフランスパン。 おばあちゃんが作る和食の朝食も好きだが、サキは、寅次郎がパパッと作ってくれるこのシンプルな洋食が好きだった。
「食べたらすぐに出かけるよー」歯磨きをしながらハミングする父の声に、サキは眠い目をこすり、なんとか朝食を胃に収めた。
準備を済ませて外に出ると、寅次郎はすでに車のエンジンをかけ、携帯電話で誰かと話している。
「じゃあ、出発!」 サキが助手席に乗り込むやいなや、車は走り出した。荷物を載せるのに超便利なワンボックスの軽自動車。近所のおばさんが「でっかい車だね」と呼ぶ、あの車だ。
サキが助手席から後ろを振り返ると、ありとあらゆるものが雑然と置かれている。 「寅次郎さん、これ、いったい何なの?」
父は運転席のバックミラー越しにチラリと見て、またニヤリとした。何も言わずに運転を続ける。
目的地にはすぐに着いた。
「さあ、サキ。これから一仕事だ。今日は一日、ボランティアに付き合ってくれ。なんせ、猫の手も借りたい状況でな」
寅次郎はそう言うと、ワンボックスのドアを開け、中から次々と機材を取り出した。
「サキ、カートを借りてきてくれ」 「わかったニャン!」
サキはすぐに気持ちを切り替えた。父は、学校などの予算が限られた団体のために、イベントの設営を無料で引き受けることがよくある。まったくお人好しだ。でも、だから好き。サキはそんなことを考えながら、会場へと向かった。
3. 舞台裏の「寅次郎マジック」と「ララミーケル」
父、寅次郎の指示は、驚くほど的確で、会場は淀みなく整備されていく。どんなに周囲がドタバタしていても、父の周りだけは風のない湖面のように静かな雰囲気だ。それどころか、怒鳴っていたような人でも、寅次郎の前に来ると、叱られた猫のようにおとなしくなってしまう。
「すごいな」 サキは、出来上がっていく舞台よりも、その舞台を築く父の姿に感銘を受けた。もしかしたら、父はこれを見せたかったのかもしれない。サキはそんな想像をしながら、命じられるままにテキパキと動き回った。
予定の30分前、会場は整い、音響テストも無事に終わった。あとは、入場者を待つだけ。
「少し休もうか」 父がどこからともなく現れた。
「今日はな、お前が大好きなうさぎの演奏会があるんだ。どうしても見てほしくてな」
寅次郎はスマートフォンをポケットにしまいながら、サキに笑顔を向けた。
「うさぎが演奏するの?」 寅次郎はさらに笑顔を大きくする。 「いやいや、それはない。ララミーケルっていうバンドだ。うさぎたちが回ったり、踊ったり、賑やかなステージで大評判らしい。楽しみだなぁ」
ララミーケル?聞いたことがない。J-POPのバンドだろうか?サキは疲れも吹き飛び、好奇心の目でキョロキョロと周囲を見回した。
その時だった。一人の少女の前に、あのバンド、ミヨとカケル、そしてラビットララとその子どもたち、エマ、リラ、ビビ、モフモフの「ララミーケル」が、会場狭しと躍動する。

寅次郎の活躍で完璧に整えられた会場、そして「ララミーケル」の躍動感あふれるステージ。サキは生まれて初めて、こんなにも素晴らしい体験をした。興奮は身体を通り越し、制御不可能な衝動となって爆発する。
サキは、気がつけばステージに駆け上がっていた。うさぎたちと、いや、うさぎに同化したように踊り、歌い始めた。
ステージ上のカケルやギターのミヨは、サキの突然の参加を大歓迎。肩を組み、一緒に揺れ動いた。ララたちうさぎも大歓迎だ。特にリラは、サキにくんくんと鼻を近づけ、足元で愛らしい八の字ダンスを始めた。
盛り上がりに盛り上がったステージは、割れんばかりの拍手と、何度も繰り返されるアンコールの挨拶とともに、大成功で幕を閉じた。
4. 隠された才能
実は、音楽に疎い父の寅次郎にも、おばあちゃんにも、いや、サキ本人ですら知らない事実があった。
それは、サキが絶対音感の持ち主だったということだ。
サキの母、大原洋子は7年前にこの世を去った。7歳の誕生日を、母と迎えた場所は病院の中。幼かったサキに残っているのは、ケーキを一緒に食べた嬉しさだけだ。
母・洋子は、自分が生きている間にサキに全てを残そうと、真剣にピアノを弾き、一緒に弾いた。サキがわずか2歳から5年間。それは、ガンを宣告され、闘病生活を送った期間と、ほぼ同じだった。
その成果がサキに絶対音感をもたらした。もちろん、遺伝的な影響もあった。洋子の両親や祖父母も音楽好きで、オルガン、ギター、フルート、ドラム、果ては太鼓まで、様々な楽器が家中に転がっていた。
「昔は、家でホーム演奏会までしたのよ」母は時折、遠くを見つめる目で言った。
「結婚するのが遅かったのはね、音楽に縁遠い寅次郎さんとどうかなって悩んでたからかも」 母は、30歳で結婚し、32歳でサキが生まれたと同時にガンが見つかった。 「早期発見だから大丈夫って、お医者様は言ってくれたけどね」 その先は、静かに押し黙ってしまった。
一回目の手術の後、母は変わった。まだ3歳にもならないサキに、ピアノを教え始めたのだ。父・寅次郎は反対したが、洋子は静かに首を振るだけで、指導をやめなかった。
彼女の教え方は、自分が弾いて聴かせるか、音と音階、鍵盤の位置を確かめるような、ゆったりとした指導だった。 サキが音楽を好きになるようにと、「この音は、ひばりの鳴き声」「これは、フライパンでジュウジュウお肉を焼く音」などと、何かに置き換えて説明してくれた。
母・洋子が一番好きな音階は「ラ」だった。 「ラっていいわ。大好き」 洋子はうっとりした顔で言った。 「何がいいの?」サキの質問に、母はすぐには答えない。 かなり経ってから、「なんだか、心がラを手招きしているようなの」
母の言葉は全く理解できなかった。寅次郎に聞いても「知らん」の一言。
母は時々、へんてこりんな質問をしてきた。 「あの音は、ピアノだったら、どの音階?」
サキは最初、正直に答えた。 「消防車のサイレンに、音階なんてないんじゃない?」
だが、何度も質問される度に、サキは「多分…」と答えを探すようになった。それが習慣化し、今では、音がするたびに「ああ、これは?」と考え、音階に変換するようになった。
その時に、「ラ」の音が442Hzだと知った。しかし、知ったからといって、何かが変わるわけではない。
母は、一度も絶対音感という言葉を使ったことはなかった。 「音を大切に。それは、あなたの生きる道に繋がるかもしれないから」 それは、母が残した最期の頃の言葉だった。
7歳の春、母は静かに息を引き取った。それから父の寅次郎との生活が始まり、やがて父の母、波江が同居する形になった。あっという間の7年間。寅次郎には、サキのピアノ教室の様子を聞く暇も、反省する暇もなかった。
だから、彼はサキの絶対音感など全く知らなかったし、ピアノ教室でのサキの成績など眼中になかった。
レッスン講師は、ほとんど練習をしている様子のないサキが、なぜあんなに上手に弾けるのか疑問に思っていた。 「一週間後にこの曲をテストする」と言っても、サキは悩む様子がない。講師がサンプルで弾いた曲を、一週間後には完璧に弾きこなしてしまう。 講師自身、完璧に弾いたことなど一度もないため、ただ驚くばかりで、「よく練習したね」と褒めちぎるだけだった。
5. 交流の始まり
ある日、佐久間家に招待状が届いた。 可愛い封筒に、さらに可愛い便箋。ハートマークのスタンプがたくさん押され、丸い字がハートの合間に並んでいた。
「ご招待 ララミーケルの皆さま お元気ですか?先日は、楽しいコンサートをありがとうございました。 そのお礼に、我が家でごちそうをしたいので、ぜひ一度お越しください。うさぎさんたちもぜひおいでください。車でお迎えに行きます」
サキは、父・寅次郎の許可をもらい、ララミーケルバンドを招待した。車で迎えに行くのは、もちろん寅次郎だ。
佐久間家と大原家の合同食事会は大成功。ラビットララ一家もすっかり我が家のようにくつろいだ。

その食事会で、皆が自己紹介をした。
両親を亡くしてから、ミヨとカケルが二人で支え合ってきたこと。ゴミ袋から登場したララ。そして、ララと名付けたのは、ミヨが好きな音階の「ラ」だったから――。
その時、サキだけが口を挟んだ。 「お母さんとおんなじ。お母さんもラが好きだった」
「あらら」19歳のミヨは明るく笑った。
大原家の自己紹介は、年の分だけ、寅次郎の話が長かった。
「ぼくはね。洋子にも不安がられるような、いい加減な人生を歩んできたんだ」
彼はサキの頭を撫でながら、話を続けた。 「高校時代はがむしゃらに勉強した。でも、大学に合格した途端、勉強する気が突然消えた。入学金を持って大学に向かう途中で、道を変えてしまったんだ」
彼は、渋谷のデザイン研究所に足を向け、そちらに入学金を払ってしまった。 「なぜそうしたのか、自分でもわからない。その先も、ずっと答えが見つからないんだ」
それまで洋服に興味はなかった。デザインも授業で少し学んだだけ。なぜ、あんな高い倍率の研究所に入れたのか、今でも不思議だという。 入学してからも支離滅裂。教養科目だけは成績が良かったが、あとは散々。そんな自分に嫌気が差した時、友人から舞台の裏方を手伝ってくれないかと頼まれた。もちろん、OKだ。
要するに何でも屋。衣装作りから照明、舞台装置まで。「頼まれたらノーと言わない、イエスマン寅次郎」と名を馳せた。そして今、それが職業になってしまった。
サキの母、洋子と知り合ったのは、洋子が今のミヨと同じくらいの年齢の時。可愛かった。
「その可愛い彼女が、舞台裏で泣いていたんだ。どこかで衣装を破ってしまって、これではステージでピアノが弾けないと」
破れた箇所は、どこかに引っかかったというより、意図的に破られたように寅次郎には見えた。その時の寅次郎は、まるでウルトラマン、奇跡を起こす男になった。衣装を受け取り、得意の早技で華やかなドレスにリニューアル。いつも持っているバッグからレースを取り出し、たちまち豪華なドレスへと変身させたのだ。
洋子のピアノの力量は最高。ドレスも超似合っていた。
それから洋子の躍進が始まった。世界中から招待状が来たが、30歳の頃、右手の親指に痛みが始まり、ピアノを諦めた。「それで、ぼく、寅次郎と泣く泣く結婚したんだ」
「お父さん。寅次郎さん。お母さんは、お父さんと結婚して、本当に良かったって言ってたよ」サキが笑いながら口を挟む。 「そりゃあありがとう」寅次郎も笑って応じた。 「まあ、とにかく、そんな具合で今に至ったわけですな」
「詳しい個人情報、ありがとうございます」ミヨも笑顔でお礼を言う。
「寅次郎さんって、まさか寅年?」カケルが目を丸くして聞いた。 「そうだよ。君は?」 「まさかの寅年、15歳」 ミヨがサキの方を向いて言った。 「サキちゃんは、うさぎ年?」 「うーん。そうだよ」 「私たち、うさぎと寅。なかなかいい組み合わせだね」
その日を境に、佐久間家と大原家の深い交流が始まった。
6. ミヨの深い悩み
ミヨは、サキと知り合ったことを心から喜んだが、同時に苦しみも味わっていた。それはおそらく嫉妬かもしれない。
サキには才能がある。どんな音符でも一度見ただけで覚え、どんな曲も一度聴いたら自分の曲として弾ける。
ラビットララの家族も、サキのピアノ演奏には鼻をくんくんさせない。時々、八の字踊りをして喜んでいる。多分、サキとララは、「ラ」の音が周波数442Hzであることを、耳ではなく心で聞き分けているのかもしれない。
「羨ましい、羨ましい。音階が的確に認知できるなんて」 「サキちゃんは、絶対音感の持ち主。天才なんだ!」
それに比べて、「苦しみながら作曲を目指す、哀れな小娘」だと、いじけ虫がどんどん増えていく。
ある日、バイトの帰り、ミヨはいつしか寅次郎の家に向かっていた。サキと寅次郎はすでに帰宅しており、ミヨを大歓迎してくれた。だが、ミヨの顔は沈んだままだった。
「カケルくんも呼ぶね」サキはそう言って、電話をしに席を外した。
「寅次郎さん、私の小さな悩みを聞いてください」
寅次郎は真面目な顔になり、「ぼくでよかったら」とミヨをソファーに座るように促した。
「寅次郎さん、サキちゃんは天才だと思うんです。生まれながらに絶対音感という才能を持っている」 ミヨは言葉を区切りながら、ゆっくりと噛み締めるように話した。 「すぐに音符を覚えてしまう。きっと音楽大学に優秀な成績で入学し、素晴らしい音楽家になれる。それに比べて、私は……」
涙を浮かべるミヨを、寅次郎はじっと見つめた。自分探しの旅。今、まさにミヨが歩んでいる道だ。とても苦しく、辛い。でも、誰でも通る道でもある。寅次郎は次の言葉を待った。結論は、できるだけゆっくり考えればいい。
「ミヨちゃん、そんなことはない。もう一度、最初から考えてみよう」
「まず、何か飲み物を持ってくる。サキにも聞いてほしいしな」
サキが戻って来た。 「カケルくん、ララたちにエサをあげたら、すぐ来るって」
寅次郎が台所から、美しいクリスタルのグラスに入った果物ジュースを三人分持ってきた。グラスが光を反射してキラキラと輝いている。
寅次郎は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。今まで見せたことのない、真面目な顔で。
「ぼくは正直、音楽のことはわからない。でも、洋子の悩みはなんでも聞いた。相談に乗るというより、ダストボックス、まさにゴミ箱かな。これは、洋子が20代の半ば頃にぼくに話したことだ。結局、答えは洋子自身が出したがね」
「この前、ララもミヨもサキも、**『ラ』の音が好きだと言ってたよね。『ラ』**は、ギリシャ時代から大切な音だったらしい。一番の基本の音だったそうだ。サキも知っていると思うが、ピアノの調律は、この音階から始まるそうだと、毎年ピアノを調律してくれる人が言ってた。この前、最初から最後まで見ていて、よくわかったんだ」
寅次郎はそこで一息入れた。
「たまたま、その調律師の方と話をしたんだ。とても面白い話をしてくれた」
「その方も若い頃にピアノを学んだそうだ。でも、手が思うように動かない。頭ではわかっているのに、手がついてこない。教授に言われたらしい。『キミは絶対音感はある。しかし、反射神経がイマイチだね』と」
彼はそれでも音楽の道を諦めたくなかった。それで、作曲家の道を相談したそうだ。 でも、そこでも言われたらしい。 『絶対音感のある人は、コピペはできる。誰かの真似、模倣ならね。でも、それでは真にいい曲は作れない。本当にいい曲は、創造力や好奇心、一歩踏み出す勇気ある人しか生み出せない。どうだね、君にはできるかな?』と」
「実は、洋子も同じ悩みだった。洋子も絶対音感の持ち主。サキもそれを受け継いでいる」
「だから、洋子は、自分の命をサキに託した。サキの未来に、絶対音感プラス、音と音の関係性を深く理解し、そこにメッセージをのせることのできる人になってほしいと願いを込めた。でも、彼女は道半ばで挫折した。サキはまだ未完成なんだ」
「ところが、ミヨちゃん、あなたはすでに、洋子の夢見た未来に一歩踏み出している」
「絶対音感がなくても、ラビットララとその子どもたちが、不快な音をシャットしてくれて、素晴らしい曲を生み出している。それはすごいことだ。自分を誇りに思っていい」
寅次郎の長い話を、ミヨだけでなく、サキ、後から来たカケルも静かに聞いていた。
「そうだよ。まだまだ先がある。焦ることはない」 最後の言葉を締めくくったのは、なんとカケルだった。 「さあ、家でラビットララと子どもたちが、首を長くして待ってるよ」
やはり、ミヨはサキが羨ましい。こんなに素敵な父親がいるなんて。 サキもミヨが羨ましく思えた。こんなに素敵な弟とラビットララ一家がいるなんて。
二人の少女は、お互いの気持ちが通じ合ったのか、ニコリと微笑みを浮かべた。
さあ、未来へ向かって進もう。
繋がる心と、それぞれの「生きる意味」
ミヨは、寅次郎の話を静かに聞いていた。その言葉は、まるで長年の胸のつかえを溶かす、温かい水のように、心に染み渡っていく。涙は止まっていた。自分の才能の無さを嘆く嫉妬ではなく、「創造」への畏れだったと気づく。
「寅次郎さん、私、本当にこれでいいんでしょうか。絶対音感がないのに、作曲を続けて……」ミヨの声は小さかったが、以前のような哀れな響きは消えていた。
「ミヨちゃん、ぼくはプロのデザイナーの資格を持ってるわけじゃない。でも、人の心を動かす舞台を作ってる。洋子のドレスもそうだった。技術じゃない、誰かのためにという愛と、一歩踏み出す勇気だ。キミにはそれがある。ララミーケルの曲は、聴く人の心を動かしてるじゃないか」寅次郎は、力強く、それでいて優しい眼差しでミヨを見つめた。
その時、今までずっと黙って聞いていたサキが、口を開いた。
「ミヨさん。私、お母さんが教えてくれた音階はわかるけど、心の音はわからない。ミヨさんの曲を聴くと、なんだか、風が吹く音とか、お母さんが笑ってる時の音とか、私だけの記憶に繋がるの」サキは、まるでコスモスのように、淡く優しい笑顔を浮かべた。「私は、音のルールは知っているけど、物語を作れない。でも、ミヨさんは、ララたちと一緒に、誰も聴いたことがない生きている物語を音にしている」
カケルがうんうんと頷きながら、言葉を継いだ。 「そうだよ、ミヨ姉の曲は、ララたちがいないと完成しないんだ。ララたちが、ミヨ姉が伝えたい慈愛を、聴く人に届けてくれる。それは、絶対音感なんかじゃなくて、信頼の力だ」
**信頼と慈愛。**それが「ララミーケル」の核だと、ミヨは改めて気づく。自分とカケル、そしてララとその子どもたちが築き上げてきた、かけがえのない繋がり。
「私……」ミヨは深呼吸をした。「私、わかった。私が欲しいのは、サキちゃんの絶対音感じゃなかった。私が本当に恐れていたのは、自分だけの音を見つけられないことだった。でも、ララたちがいる。カケルがいる。そして、寅次郎さんとサキちゃんが、私の生きる意味を教えてくれた」
カケルが立ち上がり、ミヨの肩にそっと手を置いた。 「ほら、話がまとまったら、腹減ったな。ミヨ姉、ララたちにも美味しいものあげたいだろ。帰ろう」
ミヨは笑った。この弟の、時々見せる大人びた優しさが、いつも彼女を支えている。
旅の始まり、未来への一歩
翌日、ミヨは曲作りに没頭していた。以前とは違う。義務感や焦りではなく、溢れ出す感情を音にしたいという純粋な喜びに満ちていた。
その曲は、彼女がサキから聞いた、亡き母・洋子の「ラ」への愛、寅次郎の不器用ながらも深い愛、そして、ララたちがミヨに与えてくれた無償の信頼がテーマだった。
数日後、佐久間家で新しい曲を披露した。 ララミーケルのいつものメンバー、ミヨのギター、カケルのボーカル、そしてララ一家の自由奔放なダンス。そして、今日は特別にサキが、洋子の形見のピアノを弾いた。
サキの指先から紡ぎ出される「ラ」の音は、周波数という理屈を超えて、会場全体を慈愛で包み込む。ミヨのメロディは、その「ラ」を中心に、自由に、しかし迷うことなく広がっていく。
演奏が終わった後、ララはサキの足元で、感謝を伝えるように、ぐるぐると回った。サキは泣いていた。それは悲しみではなく、母の愛が、音になって自分の中で生き続けているという喜びの涙だった。
「サキちゃん、絶対音感は、キミが世界から愛を受け取るための窓だ。その窓を通して、キミの心が、僕たちの音楽と繋がって、さらに大きな愛を生み出す。それが、洋子さんの願いだったんだね」寅次郎は、静かに言った。
ミヨは、サキの涙を見て、自分が抱いていた劣等感は完全に消えたことを知った。サキの絶対音感は、彼女にとっての贈り物であると同時に、亡き母の愛という重荷でもあった。その重荷を、ミヨの創造性が、喜びへと変えることができたのだ。
二人の少女は、異なる才能を持ちながら、お互いの存在によって、自分の生きる意味を見つけ、自立への一歩を踏み出した。 ミヨは創造力という勇気を、サキは愛を繋ぐ音という力を得て、二人はそれぞれの未来へと歩み始める。
つづく
Copyright © 2025 painted and written by Michiko Yamada. All Rights Reserved.