お江戸は花盛り植木屋職人お咲の事件簿4

お江戸は花盛り 植木屋職人お咲の事件簿4

序章 

宝暦四年。世は米の値段が下がり、武士の生活が苦しくなる一方で、食うに困らぬ花や飾り物に金が糸目をつけぬ時代。常識の値打ちが、静かに崩れ始めていた。

古家陽一郎は与力として、その矛盾に満ちた江戸の街で、地道に勤めを果たしていた。陽一郎の家には、妻子を亡くした十年以来、笑い声は絶え、残るは、養父母から受け継いだ屋敷と、その庭に咲き乱れる花々と趣味の変化朝顔と五葉松のみだった。

夜の帳が下りる頃、手燭の光が届かぬ庭の隅。陽一郎がそっと見つめる紫陽花の根元には、彼がこの世で初めて与えられた、冷たく湿った土の匂いの記憶があった。

古家陽一郎は、十年前に妻と生まれたばかりの子を同時に亡くして以来、表情に明るさを欠き、両親が残してくれた「植木屋お咲」に一人暮らし。お役目の与力の仕事は、ほどほどにして、趣味の盆栽に心を傾ける日々を送っていた。

、古家陽一郎の屋敷は、梅雨が明けたばかりの湿った熱気に包まれていた。与力の仕事から戻った陽一郎は、庭の朝顔に水をやった後、縁側で涼んでいた。十年前に亡くなった妻、お美代の笑顔が、夏の夕暮れ時になると、ふと心に浮かぶ。

その時、下男の六蔵が、冷たい水差しを携えてやってきた。

「旦那様、どうぞ。庭の朝顔も、そろそろ来年の種を考える頃合いでございますな」

陽一郎は、受け取った杯を傾けながら、庭を眺めた。

「ああ、六蔵。しかし、この美しい花を眺めていると、時折、過去の美しさが心に蘇るものだ」

六蔵は、陽一郎の言葉の真意を察し、静かに座った。

「奥様…お美代様のことでございますか」

「そうだ。もう十年だ。十年経った。しかし、この縁側で二人で夕涼みをした時の、あの女の笑い声だけは、どうにも消えてくれぬ」

陽一郎は遠い目をした。

初めての川下り

「六蔵よ、覚えているか。わしらが所帯を持ってすぐの頃、お美代を隅田川の川下りに連れて行った時のことを」

「ええ、存じております。奥様が、生まれて初めての舟遊びだと、まるで雀のようにはしゃいでおられましたな」

陽一郎は、目を細め、微笑んだ。

「そう、雀どころではない。あの者は、貧しい旗本の三女として育った。贅沢など、知らぬ。隅田川で舟遊びなど、夢にも思わなかったのだろう」

「陽一郎様が、奥様を喜ばせるために、大変な無理をなさいましたな」

「無理ではない。わしは、あの女の笑顔が見たかったのだ。あの頃、わしは養父母を流行り病で相次いで亡くし、心底、枯れ果てていた。だが、お美代が、そんなわしを、そのスミレのような優しさで、温めてくれたのだ」

陽一郎は、当時の情景を思い出し、言葉に力を込めた。

「舟が、水面を滑る。夕焼けの色が、川に映る。お美代は、まるで子供のように、手を叩いて笑った」

「あなた、見て!水がこんなに綺麗に流れていく。風が涼しいわ!」 「お美代、喜んでくれたか」 「こんなに嬉しいことはないわ。生まれてはじめてなの。ありがとう、あなた」

「わしまで、生まれてはじめての喜びを知った心地がした。わしを、人に戻してくれたのは、あの女だった」

命の隣合わせ

六蔵は、言葉を選びながら口を開いた。

「奥様は、本当に可憐でございました。しかし、まさか、めでたいお産で、ああいう不幸に見舞われようとは…」

陽一郎の顔から、笑みが消えた。

「ああ。逆子であった。医者の手も及ばぬ、不運。わしは、廊下で、ただ神仏に祈るしかできなかった。そして、運命は、残酷な言葉を残した」

陽一郎は、手の甲をきつく握りしめた。

「あなた、赤ちゃんはげんき」

「それが、最後の言葉だ。まだ二十歳であった。可憐なスミレの女が、命の重さを知らぬまま、逝ってしまった。六蔵。生と死がこれほど隣合わせだとは、あの時、心に突き刺さって、初めて知った」

「旦那様…」

「十年経って、心の痛みは薄れた。しかし、次の妻を娶る意欲は、どうにも湧かぬ。また、わしが愛した女を、命の隣合わせに立たせてしまうのではないか。そう思うと、怖くてたまらないのだ」

六蔵は、深く頭を下げ、同情の念を込めて言った。

「旦那様のその優しさ、奥様は草葉の陰で、必ずや見ておられます。しかし、旦那様。これから先、古家家という武士の家をどうされるおつもりでございますか」

陽一郎は、再び庭の朝顔に目を向けた。その鮮やかな色が、亡き妻の短い命と、自分の消えない孤独を、無言で訴えているように見えた。

「わしには、まだ、答えが見つからぬ。だが、花だけが、わしに明日への希望を見せてくれる。花だけが、命の恐ろしさではなく、美しさを教えてくれるのだ」

陽一郎の胸には、再婚という「武士の務め」と、朝顔という「孤独を癒す道」との間で、深い迷いが横たわっていた。

朝顔の種と迷いの心

庭の静寂と下男の言葉

宝暦四年、梅雨明け間近の湿気が古家屋敷の庭に重くのしかかっていた。与力の仕事から戻った古家陽一郎は、襦袢姿になり、手拭いで額の汗を拭いながら、自分の「秘密の花園」へと足を踏み入れた。

今年の朝顔市の興奮はまだ冷めやらぬものの、陽一郎の胸には、金銭に対する複雑な感情が渦巻いていた。庭に並んだ選抜中の朝顔の鉢を前に、彼は蹲る。

「美しいな。しかし、お前たちに、なぜ百両もの値がつくのか」

陽一郎は、指先で朝顔の葉を優しく撫でた。

その時、背後から声をかけられた。下男の六蔵である。六蔵は、年老いてはいるが、陽一郎の亡き父の代から古家家に仕える古株であった。

「旦那様、また朝顔を見つめていらっしゃいますな」

陽一郎は立ち上がらず、振り返らずに答えた。

「六蔵か。この花に見入ってしまう。まるで、人の世の理とは別の、不思議な力を持っているようだ」

六蔵は、陽一郎の傍らに静かに控えた。

「不思議な力とは、何でございましょうか」

「値だ。値が付くことだ。武士としてまっとうに勤め、米を食らい、米で給金を得ている。しかし、米の価値は下がる一方。ところが、食えぬ朝顔には、百両だの五十両だのの値が付く。百姓の米を作る苦労は一体、何だというのだ」

六蔵は、しばらく黙っていたが、やがて低い声で話し始めた。

「旦那様、それは人の『心』の値ではございましょうか。米は生きていくために『必要』なもの。朝顔は、生きていくことに『楽しみ』を与えるもの」

陽一郎は、ゆっくりと振り向いた。

「楽しみ」

「はい。世の中には、金に糸目をつけぬ豪商や、贅沢を知り尽くした芸妓さんがおります。彼らは、もう米の心配などとうにしておりませぬ。彼らが求めているのは、他の者には得られぬ、一時の心の晴れ。旦那様がお作りになった珍しい朝顔は、それにぴったり当てはまった。言わば、望みを買って行ったのです」

陽一郎は、膝の上に肘をつき、考え込んだ。

「望みか…。母は、朝顔を売ることを、人々に幸せを分けることだと申した。わしは、己の望みのために、種を蒔き、育てている。そして、わしが作った花が、今度は、人の望みとなった。母の言う『善』と、わしの言う『遊び』、そして、世間の『金』が、複雑に絡み合っている。何が正しく、何が間違っているのか、分からぬ」

六蔵は、静かに頭を下げた。

「旦那様の悩まれるお気持ち、お察しいたします。しかし、旦那様の朝顔が、人の心に光を灯したことは、間違いのない真でございます。それにおかげで、わしども下働きも、高い給金をいただける。ありがたいことです」

六蔵は、陽一郎の懐具合が良くなったことを、素直に喜んでいる。その顔に、陽一郎は救われる思いがした。

「そうか。お前たちの給金が増えたのは、わしの望みが、人の望みに変わったおかげか」

陽一郎は、ふと、庭の隅に置かれた小さな麻袋に目をやった。それは、昨年の朝顔市で一番人気だった花から採れた種が入っている。

「六蔵、今年もまた、変わった花が咲いてくれるか。それが、今から楽しみでならぬ」

六蔵は、安心したように微笑んだ。

「きっと、去年よりも、もっと美しい花が咲き、旦那様に楽しい未来を見せてくれるに違いありません」

陽一郎は再び、目の前の朝顔に視線を戻した。彼の心から、一瞬、孤独と迷いが消え、純粋な希望の光が差し込んだ。

「そうだな。六蔵。わしは、ただ、美しい花を咲かせることだけを考えよう。それが、母の道とも、わしの道とも、どこかで繋がっているのかもしれぬ」

壱. 陽一郎の静かな熱狂(鍋島直孝の側面)

陽一郎の飯田町の屋敷の奥。夏の夜、提灯の光が朝顔の棚をぼんやりと照らしている。

陽一郎は、身分を隠すかのように袖をまくり、細心の注意を払って花の交配作業をしていた。彼の目の前にあるのは、深い紫色の花弁が細かく裂けた**「孔雀(くじゃく)咲き」**の朝顔。

(陽一郎のモノローグ) 「世間では武家の務めを重んじるが、この花との対話こそが、真の己を磨く道。この『孔雀』の奇を、さらに『牡丹咲き』の豪華さと結びつける。人の手で、神の創りたもうた形を超克する。これこそ、刹那の美にかける武士の『道』だ」

彼は、品種改良の図譜を広げ、植物学的な知見と経験則を組み合わせ、交配の計画を立てる。その手つきは、刀を扱うかのように緻密で、精神的な緊張感に満ちていた。彼の熱狂は、金銭的な道楽ではなく、知の探求と美の創造に向けられていた。

弐. 路地裏の冬吉(成田屋留次郎の幼年期)

その頃、陽一郎の屋敷からほど近い、植木屋や職人が集まる路地裏。冬吉は、陽一郎の屋敷に草木の世話で出入りする植木職人の手伝いをしている。

ある日、冬吉は捨てられた朝顔の種の入った袋を見つけた。それは、陽一郎の屋敷で「徒花(あだばな)」(変化が弱く、選別から外れたもの)として処分された種だった。

冬吉はその種を、路地の裏、日当たりも水はけも悪い、薄汚れた板塀の足元にばらまいた。彼は特に理由もなく、ただ「この種は生きたがっている」と感じただけだった。

数週間後、冬吉が毎日水をやり続けた朝顔の中から、一本だけ異形の双葉が出た。通常の丸い双葉とは異なり、その双葉は**鋭く角ばった「蜻蛉葉(とんぼば)」**だった。これは、複雑な変化(出物)の遺伝子を秘めた「正木」が持つ特異なサインである。

(冬吉のモノローグ) 「親方には『どうせ出物なんか出やしねぇ』って言われた種だ。でもこいつぁ、他のどれとも違う目をしてる。強い。きっと、人には見えないものが見えてるんだ」

冬吉は、知識ではない、天性の直感でその種子の価値を見抜いた。彼の情熱は、学問ではなく、**「生かすこと」**への本能的な喜びだった。

参. 奇跡の出会い

ある朝、陽一郎が市中の朝顔の流行を視察するため、飯田町の裏道を通りかかった。彼の目的は、新たな「出物」を探し出すことだ。

そこで陽一郎の目に留まったのが、冬吉が育てた、まだ蔓を伸ばし始めたばかりの**「蜻蛉葉」**の苗だった。

陽一郎: 「小童よ、その苗…、どうした?」

冬吉は、身なりの立派な武士に声をかけられ、びくっとした。

冬吉: 「へえ。路地裏に捨ててあった種を蒔いたら、こんな葉っぱになりやした。変ですよね。」

陽一郎: (驚きを隠しつつ、静かに)「変ではない。これは**『蜻蛉葉』。大変化の遺伝子を秘めた『正木』**の兆しだ。これを捨てたのは誰だ?」

冬吉: 「さあ、分かりやせん。親方も見向きもしなかったもんです。」

陽一郎は、その苗に注がれた冬吉の純粋な愛情と直感を読み取った。自分の屋敷で知識と技術の粋を集めても、なかなか出ない「奇跡の一本」を、この無学な少年が偶然とはいえ、路地裏で生み出している。

(陽一郎のモノローグ) 「これが、天命か。高貴な庭園の知恵と、貧しい路地の生命力。真の美の探求には、どちらも欠かせぬということか…」

陽一郎は、冬吉に尋ねた。

陽一郎: 「この苗、儂に譲ってくれぬか。代わりに、お前の暮らしが立つだけの金を払おう。」

冬吉は、苗を売る代わりに、**「この苗が咲いた暁には、その花を一度だけ見せてほしい」**と願い出た。金ではなく、自ら生かした花の変化への渇望が、彼(後の成田屋留次郎)の原点となるのだった。

将軍の松と武士の心

江戸城、吹上御殿

宝暦四年、秋風が立ち始めた頃。古家陽一郎は、与力としてではなく、庭方同心として、江戸城の吹上御殿に呼ばれた。

「陽一郎様。お上(かみ)様へ献上される盆栽、拝見仕ります」

老中の側近が、陽一郎が携えてきた小ぶりの五葉松の盆栽を検分した。陽一郎は深く頭を下げたまま言葉を待つ。

「見事な幹の曲がり。葉も濃く、樹勢も強い。お上様の慰めになるであろう」

老中側近の低い声が響く。

「恐悦至極にございます。この松が、将軍様の日々のお疲れを少しでも癒やせれば、本望にございます」

しばらくして、陽一郎は、将軍家重公と世継ぎである幼い家治公が待つ広間に通された。家重公は顔つきこそ険しいが、どこか疲れ切った様子で、座敷に座っていた。その傍らには、まだ十歳前後の家治公が、緊張した面持ちで控えている。

陽一郎は、献上した五葉松を定位置に置き、再び最敬礼した。

家重公は、松を一瞥すると、顎を突き出し、何か低い唸るような声を漏らした。それは、常人には聞き取れぬ、不明瞭な響きであった。

家治公がすぐさま、その声を読み取り、通訳した。

「父上は、申されました。『この松は、なかなかよい。色が深く、見飽きぬ』と」

陽一郎は畏まり、答える。

「将軍様にお褒めいただき、恐悦の極みでございます。私が、種より育て、七年もの間、丹精込めた一鉢にございます」

家重公は、ふたたび、喉の奥から絞り出すような音を発した。家治公は、父の顔色を伺いながら、ゆっくりと通訳する。

「『そなたの献上の松は見事だが、一つ、頼みたい儀がある』と仰せでございます」

陽一郎は姿勢を正した。

「はっ。私に務まることであれば、何なりとお申し付けくださいませ」

家治公は、父の視線が向けられた奥の、飾り棚の一角を指差した。

「あそこにございます。父上が、夜毎、心を砕かれております**『三代将軍』**の松。あれが、今、病に伏しております」

陽一郎は、将軍家三代の権威を象徴すると聞く、伝説の五葉松が、献上品を並べる棚の片隅に置かれていることに驚いた。

目を凝らすと、その松は、噂に違わぬ、五百年もの時を経た重厚な幹を持ちながら、全体的に葉の色が薄く、特に先端の枝には枯れ込んでいる部分が多く見られた。樹勢が明らかに衰えている。

家重公が、苦しげに言葉を連ねる。家治公は、真剣な顔で父の言葉に耳を傾けた。

「父上は、『この松は、祖父である三代将軍家光公の御遺愛。五百年もの間、わが将軍家の威厳を見守ってきた。それが、この家重の代になって、もし枯れるようなことがあれば、世の将軍家への信を失う』と、大変ご心配されております」

家治公は、陽一郎を真っ直ぐに見つめた。

「父上は、この三代将軍の松を、そなたの献上した松と同じように、力強い新芽を出すよう、生き返らせて欲しいと、切に願っておられます」

五百年の時を生きる将軍家の秘宝。その命運が、一介の与力である自分に託される。陽一郎の心臓が激しく鳴った。

「五百年…。それは、金では測れぬ、将軍家の歴史と望みそのものでございます」

家重公は、陽一郎の言葉を聞き取り、深く頷くと、再び唸り声を上げ、家治公に通訳を促した。

「『金はいくらでも払おう。だが、この松を救うことこそ、武士の忠義。そなたの献上した松が持つ、あの生(せい)の力を、この松にも注いでくれ』と」

陽一郎は、家重公の、言葉にならぬ叫びの中に、将軍としての重圧と、孤独な一人の人間としての切なる願いを聞いた。それは、亡き妻子を偲び、朝顔の**「美しさ」という未来の「望み」**に縋る自身の孤独と、どこか重なる。

「承知いたしました。命に変えましても、この『三代将軍』の松を、新芽を出すまで、この手で支えさせていただきます」

陽一郎は、深く、地につくほど頭を下げた。この松を救うことは、金銭への迷いを捨て、武士として、そして園芸を愛する者として、命を繋ぐという、最も高貴な善を為すことに他ならない。

家治公は、安堵したように微笑んだ。

「父上は、『ようやった。これで、わが家の永代も、そなたの手に託された』と仰せでございます」

土の記憶と手の温もり

吹上御殿、秘密の作業場

陽一郎は、御典医や庭方同心の手を借りることなく、松の治療を許された。場所は、吹上御殿の一角にある、人払いされた静かな植木小屋である。

陽一郎はまず、衰弱した「三代将軍」の松を、慎重に検分した。

「六蔵が申した通りだ。この五百年の歴史は、金には換えられぬ」

松の幹には深い捻じれと、苔が生い茂り、威厳に満ちている。しかし、鉢の中の土は硬く締まり、排水の悪さが見て取れた。

「鉢の中が、長きにわたり、息をしていなかったのやもしれぬ」

陽一郎は、庭方として手伝いに来た老同心、佐吉に話しかけた。

「佐吉殿。この松は、いつ頃からこの鉢にございますか」

佐吉は、頬を掻きながら答えた。

「さあ、わしがここに勤め始めた四十年前から、この鉢でございます。植え替えなど、いつ行ったのか。誰も知らぬ。将軍様の大事にされる松ゆえ、下手に触れられなんだのでな」

陽一郎は小さく息を吐いた。

「五百年の松を、四十年間も植え替えずにおったか。これは、松の命綱が、土の中で詰まっておる」

「陽一郎殿、それは、植え替えをするということか。恐れながら、これほどの松を植え替えるのは、命懸けの作業と聞きます。失敗すれば、お上の命に関わるやもしれぬ」

佐吉の声には、恐怖が滲んでいた。陽一郎は松を撫でながら、静かに言った。

「松が望んでいるのは、新しい土と、根に風を通すことだ。このままでは、やがて根が腐り、水を吸えなくなる。そうすれば、将軍家の歴史はここで途切れる」

陽一郎は佐吉の顔を見た。

「佐吉殿。この松を、武士の忠義としてではなく、生きた命として見るのだ。土の中の詰まりを解いてやれば、必ずや、新しい息吹を返す」

佐吉は、陽一郎の真剣な目に気圧され、唾を飲み込んだ。

「…承知いたしました。植え替えは、すべて、陽一郎殿の指図に従います」

鉢の中の決断

陽一郎は、佐吉と共に、慎重に植え替えの準備を始めた。

まず、硬く締まった土を、竹串で丁寧に突き崩し、根鉢を崩していく。

「佐吉殿、この松は、鉢の中の土の記憶を大事にしておる。一気に崩してはならぬ。少しずつ、古い土の記憶を尊重しながら、新しい土の未来を差し込むのだ」

何日にもわたり、地道な作業が続いた。そして、ついに根鉢の表面を覆う、石のように硬くなった古い根を、細い道具で切り開く時が来た。

「ここが勝負どころだ。悪い根を恐れず切り、新しい根の道を作ってやる」

陽一郎は、細心の注意を払いながら、衰えた根を切り詰めた。佐吉は、傍で汗を拭いながら見守る。

「陽一郎殿、大丈夫でございますか。葉が、さらに弱るのではないかと…」

「案ずるな、佐吉殿。松は、切られた根の分だけ、葉を落とし、自らバランスを取る。だが、その後、必ずや新しい根を出す。それが、五百年の松が持つ生命の力だ」

新しい水はけの良い土に植え替え、松を固定し終えると、陽一郎は深く息を吐いた。

家治公の訪問

植え替えから数日後。病状を心配した家治公が、植木小屋を訪れた。家重公の側近も同行している。

家治公は、松の前に立ち、不安そうな顔をした。

「陽一郎殿。松の色が、植え替え前よりも、さらに悪くなったように見えます」

陽一郎は、その言葉に顔色一つ変えず、答えた。

「家治様、ご心配をおかけし、申し訳ございません。今は、松が力を溜めているところでございます。根を切られた松は、まず、土の下で命を繋ぐことに専念いたしますゆえ」

家治公が、陽一郎の顔を覗き込む。

「いつ頃、新芽を出すのか」

「それは、松が決めることでございます。しかし、この秋の間に、必ずや、その青い光を見せてみせましょう。それが、私の武士としての、そして、この松の命に対する誓いにございます」

家治公は、松の幹にそっと手を触れた。

「父上は、この松の命が、ご自身の命と同じように思えてならぬようです。陽一郎殿。頼みます」

「畏まりました。必ずや、松の望みを叶え、将軍家の未来を繋いでみせましょう」

陽一郎は、五百年の松に、自分の孤独や迷いを重ねる。松の命を救うことが、今、自分の人生を正しい道へ導く唯一の善であると確信した。彼は、毎日、松に話しかけ、水を与え、その手の温もりで、松の回復を信じ続けた。

この後、五葉松が無事に新芽を出す場面を描くことで、陽一郎の技術と情熱が報われる感動的なクライマックスを迎えることができます。いかがでしょうか。

繋がれた五百年の望み(クライマックス)

深まる秋、植木小屋の静寂

植え替えから四十日余りが過ぎた。季節は深く進み、吹上御殿の庭木も色を落とし始めている。しかし、陽一郎の心の中には、まだ春が訪れていなかった。

彼は毎日、植木小屋に籠り、「三代将軍」の五葉松に水をやり、その葉色を、幹の熱を、微細な変化も見逃すまいと見つめ続けた。

佐吉は、松に話しかける陽一郎の姿を、遠巻きに見つめるばかりだった。

「陽一郎殿。もうすぐ霜が降ります。新芽が出なくとも、松は枯れてはおりませぬ。これ以上、手をかけるのは…」

佐吉が口を開くが、陽一郎は首を振った。

「佐吉殿。この松は、五百年の間、ずっと将軍家の望みを背負ってきた。今、将軍様が望まれた『新芽』を出させることが、私の役目だ。私自身の望みも、この松に懸かっている」

陽一郎は、朝顔に傾けた情熱と同じ、いや、それ以上の魂を松に注ぎ込んでいた。もしこの松を救えなければ、朝顔の美に懸けた自分の人生も、虚飾に過ぎなかったのではないか、という恐れがあった。

その日の朝、陽一郎がいつものように松の前に膝をついた、その時だった。

青い光の発見

枯れ色が目立っていた枝の先端の、僅かな窪み。その中から、ほんの**一筋の「青い光」**が、かすかに、しかし確かに覗いているのを見つけた。

「……佐吉殿!」

陽一郎は思わず声を上げた。

「どうなさいました、陽一郎殿!?」

「見よ!これだ!これが見たかったのだ!」

佐吉が恐る恐る松の枝先に目を凝らす。小さな、まるで松葉の誕生を告げる翡翠色の針のような、新しい芽が、古い葉の根元から顔を出していた。

「あ…ああ!新芽!五百年の松が、息を吹き返した!まさしく、御世の栄えにございます!」

佐吉は、その場で平伏し、涙ぐんだ。

「三代将軍は、死なぬ…!将軍家は、永代(とわ)に続く!」

陽一郎もまた、その青い芽の前で、深く頭を下げた。新芽は、微小だが、その青は、献上した彼の松の葉よりも、さらに濃く、力強く見えた。

「将軍様、拝見いたしましたか。この松は、望みを捨てていなかった!」

彼はすぐさま、老中側近に報告を上げ、家重公と家治公に松を拝謁させる機会を得た。

最後の拝謁、交錯する想い

植木小屋に将軍父子を迎えるという、異例中の異例の場となった。家重公は、憔悴した様子ながらも、松を見るその目に、確かな期待の光を宿していた。

陽一郎は、「三代将軍」を静かに運び出し、床几(しょうぎ)の前に置いた。

家重公は、松を食い入るように見つめた後、深く、長く、唸り声をあげた。その声は、安堵と、言葉にできない喜びに満ちているように聞こえた。

家治公が、松の前に立つ陽一郎に、声を震わせながら通訳した。

「父上は、仰せでございます。『見事だ…!』」

家治公は、新芽を指さす。

「『その青い針は、まるで、わが幕府の新しき時代を告げる兆しのようである。五百年の命を、わが代で失わせずに済んだ…そなたの忠義、天晴れなり!』と」

陽一郎は深く頭を垂れた。

「将軍様。これは、私一人の力ではございません。松の五百年分の生命力が、自ら道を切り開いたのでございます」

家重公は再び、今度は陽一郎に向け、低い声を上げた。家治公は、その言葉をゆっくりと選んだ。

「『そなたが献上した松は、望みの松。そなたが救ったこの松は、永代(とわ)の松。そなたは、金銭の欲を捨て、この松の命を選んだ善き心を持つ武士である。わしは、そなたの朝顔に懸けた情熱も知っておる。そなたの望み**、わしが必ず叶えてやろう…何を望むか?』」

陽一郎は、顔を上げ、将軍の目を見た。金銭は望まぬ。地位も望まぬ。彼の内にあった迷いは、この五葉松が新しい命を吹き返す姿を見て、晴れ渡っていた。

「将軍様。私が望むものは、ただ一つにございます」

家重公が、微かに身を乗り出した。家治公も固唾を飲む。

「私が望みますのは、ただ…この**『三代将軍』の松が、私のような者に、命を繋ぐことの尊さを教えてくださったこと。そして、私の献上した朝顔が、将軍様の日々のささやかな癒やし**となり続けることでございます」

陽一郎は、将軍の威厳と、五百年の命の尊さの前に、自分の迷いがちっぽけなものであったことを悟った。本当に価値あるものは、金銭ではなく、**「望み」と「命」**を繋ぐことにある。

家重公は、陽一郎の言葉を聞き終えると、しばらく松と陽一郎を交互に見つめていたが、やがて、深く、静かに、**「うム…」**とだけ答えた。それは、全てを理解し、満足した者の声であった。

家治公は、感動に目を輝かせながら、通訳した。

「父上は、『そなたの心、しかと受け取った。そなたの望みは、将軍家の望みとなった』と仰せでございます」

陽一郎は、将軍家の歴史と、自らの朝顔への情熱が、この五百年の松によって一つに繋がれたことを感じた。彼は再び松に目をやり、青い新芽に、自分の未来という確かな望みを見つめたのであった。

二つの望み、二つの家督(最終エピソード)

陽一郎の決意と姪との対話

五葉松「三代将軍」が新芽を出した吉日の夜、陽一郎は、江戸城からの褒美として拝領した反物をお花と二人の息子に届けた。

陽一郎の亡き妹の娘であるお花は、陽一郎の屋敷の台所で、静かに茶を淹れていた。冬吉は十五歳、春吉は八歳。二人は、陽一郎の献上した朝顔の絵図を囲み、興奮して話している。

陽一郎は、子どもたちに背を向け、お花に向かって切り出した。

「お花。わしは、古家家の武士の家督について、決めたことがある」

お花は、陽一郎の真剣な顔を見て、静かに正座した。

「陽一郎様。まさか…養子の儀でございますか」

「そうだ。だが、普通の養子ではない。冬吉。お前を、古家陽一郎の養子として迎える」

冬吉は、驚きに目を見開いた。

「わ、わしでございますか?武士の…家督を」

「そうだ。お前は長男。妹の血を継いでいる。武家の家督は、血が途切れてはならぬ。これから与力の道を、わしが教える。武士としての作法、心構え、すべてだ。古家家の禄は、お前が継げ」

冬吉は、興奮と緊張で、声が出ない様子だ。

陽一郎は次に、お花の方に向き直った。

「そして、お花。お前には、もう一つの古家家を継いでもらう」

「もう一つ…」

「そうだ。植木屋お咲の暖簾、屋号、商売、そして、この屋敷の裏にある品種改良の庭。あの庭の秘術、そして、朝顔の未来を、お前に託したい」

お花は息を呑んだ。

「陽一郎様…女である私に、屋号を継げと仰せでございますか」

「世間は、女が家督を継ぐことを好まぬ。まして、植木屋の株仲間は厳しい。だが、わしの目に、亡き母(お咲)の魂が宿っているのは、お前だけに見える」

陽一郎は、朝顔の絵図を見つめている春吉を指差した。

「お前は、この植木屋の屋号を継ぎ、その技術を春吉に教え込むのだ。春吉が、将来、植木屋お咲の三代目となればよい。お前は、二代目として、わしが裏で支える」

「裏で…」

「そうだ。株仲間への出入り、大口の取引、すべて、わし(古家陽一郎)の名義で行おう。わしは、武士の家督を冬吉に譲った後、隠居の身となる。そして、武士としての最後の忠義として、お前たちの盾となり、師として生きる。植木屋の仕事こそ、わしの望みであり、善であると、五葉松が教えてくれた」

お花は、涙ぐみながらも、力強い決意を込めて答えた。

「陽一郎様。私の心の迷いも、消えました。母が申した**『花を育てて、売ることは、みんなの幸せのため』という道。それを、私が継がせていただきます。春吉にも、しっかりと命を生かすことの尊さ**を教え込みます」

春吉は、絵図から顔を上げ、陽一郎に尋ねた。

「陽一郎様!わしは、お花姉様の言う、一番珍しい美人朝顔を、たくさん咲かせればよいのでございますね!」

陽一郎は、春吉の無邪気な瞳を見て、初めて心から笑った。

「そうだ、春吉。お前は、この世にまだない、最高の美人を作り出すのだ。それは、金よりも、将軍家の禄よりも、遥かに価値のある望みだ」

最後の儀式

その後、陽一郎は、公には冬吉に古家武家の家督を譲る手続きを進め、私的には、お花に植木屋お咲の屋号を譲る、二つの儀式を執り行った。

植木屋の株仲間に呼ばれた小さな宴席で、陽一郎は頭を下げた。

「これからは、この娘、お花が植木屋お咲の店を切り盛りいたします。しかし、わしは、古家の隠居として、株仲間の皆様との義理は、すべて、生涯にわたり担い続けます。お花の技術と情熱は、亡き母、お咲以上。どうか、よろしくお頼み申します」

陽一郎は、女であるお花を守る武士の盾として、最後の務めを果たした。

陽一郎は、自らの秘密の花園の暖簾を、お花の手に渡した。陽一郎は、武士の禄を冬吉に託し、自らは、花を愛する武士として生きる道を選んだ。

彼は今、与力という仕事の苦しみから解放され、母の魂と、春吉の未来という、二つの望みを繋ぐ棟梁として、静かに笑うのであった。

宝暦四年。古家陽一郎は与力として、今日もそつなく勤めを果たした。亡き妻子を悼む日々はとうに昇華されたが、その胸に積もる孤独は、陽一郎を武士の家から遠ざけるようであった。

陽一郎は、夜の帳が下りる頃、手燭の光だけで、屋敷の隅にある紫陽花の株を見つめる。

彼がこの世で初めて与えられた記憶は、この株の根元の、冷たく湿った土の匂いだ。拾われた身。自分は、古家家の**「外の人間」**である。そのことを、養父母であるお咲と菊次郎は一度たりとも口にしなかったが、陽一郎の心は常にそれを抱えていた。

菊次郎は命を懸けて武士の地位を守り、お咲は**「命を生かす」**朝顔に情熱を注いだ。この二つの家を、自分のためにではなく、拾ってくれた父母の血筋に繋ぎ直すこと。

陽一郎が与力の禄で得た金は、父母が残したこの家を保つためのもの。だが、朝顔から得た300両は、その**「恩返し」を成すための清らかな力**であるように思われた。

陽一郎は、庭を覆い尽くす花々を見つめる。彼の望みは、ただ一つ。

「自分は裏方に徹し、血縁の者たちに古家の武士の禄と、お咲の魂たる植木屋の屋号を継がせる。それこそが、二つの家を守り抜いた父母への、唯一の忠義である」

将軍の静と五葉松の理

吹上御殿、五葉松の回復後

五葉松「三代将軍」が新芽を出してからしばらく経った、ある穏やかな昼下がり。陽一郎は、植木小屋から御殿の広間に呼ばれた。将軍家重公は病床にあり、広間にいるのは世継ぎの家治公と、側近のみであった。

家治公は、新芽を出した「三代将軍」の鉢を、献上された陽一郎の朝顔の絵図と並べて眺めていた。

「陽一郎殿。父上に代わり、改めて感謝を申す。五百年の命を繋いでくれた、そなたの功績は大きい」

陽一郎は平伏した。

「恐悦至極にございます。松が自ら命を繋いだのであり、私はただ、その助けをしたに過ぎませぬ」

家治公は、静かに頷いた。

「そなたのその謙虚さこそ、武士の鑑である。しかし、父上がそなたを信頼し、この松を託したのには、深い**理(ことわり)**がある」

家治公は、周囲の側近に目配せし、彼らを下がらせた。広間には、家治公と陽一郎、そして松と絵図だけが残された。

言葉を超えた理解

「父上は、言葉が不自由でいらっしゃる。故に、世間は父上を**『無能』や『暗愚』**と評する者もいる。だが、そなたは知っておろう。父上は、言葉を超えた力で世を動かしておられた」

家治公は、静かに語り始めた。

「父上は、人の本質を、言葉ではなく、目と気配で読まれた。誰が私欲に走り、誰が忠義であるか。一目で見抜く力があった。故に、父上は、田沼意次という、金の理を動かせる人物を登用されたのだ」

「承知しております。世に流れる金を、幕府に取り込むための、父上の大いなる決断と拝察しております」

「うム。そして、父上は、私に一つの教えを残された」

家治公は、五葉松の幹に静かに触れた。

「『将軍は、動いてはならぬ』と」

陽一郎は、思わず顔を上げた。

「動いてはならぬ…でございますか」

「そうだ。吉宗公の時代は、将軍自らが動く**『動の政治』であった。だが、今の世は複雑だ。動けば動くほど、摩擦と混乱を生む。動かすべきは、人の心と、金の流れだ。将軍は、『静かに、すべてを見通す理性の柱』**であるべきなのだ」

家治公は、朝顔の絵図に目を移した。

「そなたの献上した朝顔も、この松も同じだ。朝顔は、自ら変化し、美を咲かせる。松は、五百年の風雪に耐え、静かに時を刻む」

理性と静の将軍

家治公は、穏やかながらも強い視線で陽一郎を見つめた。

「父上が、この松をそなたに託したのは、二つの理由があったとわしは思う」

「何でございましょうか」

「一つは、五百年の命を繋ぐ忠義。そしてもう一つは、そなたの心の静けさだ」

家治公は、静かに立ち上がった。

「わしは、毎朝、朝のお目通りを欠かさぬ。そして、厠に行く時も、決して家臣を起こさぬよう、静かに行動する。それは、わしが将軍として、常に理性を保ち、感情で世を乱さぬという誓いだ」

「それは…まさしく、帝王学でございます」

「そうだ。そして、父上は、そなたの内に、武士の地位や金銭に執着しない『静』の心を見たのだ。そなたは、金銭の誘惑を退け、命を生かすことを選んだ。そなたの朝顔への情熱も、理性の内に収まった情熱であると見抜かれた」

家治公は、陽一郎に優しく声をかけた。

「そなたの恩返しという道、わしは理解した。父上の意向を受け、わしはそなたの武士の家と植木屋の家、二つの家督を繋ぐ道が、最も理にかなっていると判断した。ゆえに、安心せよ。そなたの選んだ道は、**将軍家が認める『静かなる善』**である」

陽一郎は、将軍の深い理解と、言葉の端々から感じられる厳格な理性に、畏敬の念を覚えた。

「家治様…ありがとうございます。私の迷いは、完全に晴れました」

陽一郎は、平伏しながら、心の中で誓った。この**「静」の将軍の治世を、自らも「静かに、裏から支える」**ことが、将軍家への、そして父母への、最も高貴な忠義であると。

宝暦四年 春

江戸城下の【植木屋お咲】。この暖簾は、かつて花見の時期には大名旗本が列をなすほどの評判を誇った。主の古家お咲、夫の与力・菊次郎が世を去り、およそ二十年の時が流れた今、その暖簾を継ぐべきささやかな儀式が執り行われた。

庭の土間には、植木や盆栽を納めるための道具が整然と並べられていた。

そこに、大久保お花が正座する。まだ十八歳の若さだが、利発で快活、母さつきの面影を強く宿す娘だ。目の輝きが祖母・お咲とそっくりそのままだった。

正面には、母・大久保さつきと、父・大久保市之丞が並んで座る。さつきは、亡き母お咲と瓜二つの眼差しで、お花を見つめていた。その傍らには、古家陽一郎が控えている。お花の伯父であり、さつきの兄である陽一郎は、十年前に妻と生まれたばかりの子を同時に亡くして以来、表情に明るさを欠き、この植木屋に一人暮らし。お役目の与力の仕事は、ほどほどにして、趣味の盆栽に心を傾ける日々を送っていた。

しかし、陽一郎一人では、、この広い敷地を、お咲の生きていた頃のままに維持するのには限界があった。そこで、植木屋お咲の財産、屋号ごと、すべてお花に引き継いでもらうことになった。それは陽一郎の強い希望でもあった。

「お花」

母・さつきが静かに声をかけた。

「今日より、そなたはこの『植木屋お咲』の二代目となるのです」

お花はかしこまり、答えた。

「はい、母上。微力ながら、精一杯、努めさせていただき申す」

大久保市之丞が、娘に向かって厳かに口を開いた。

「世の植木職人や庭師は、この国の山河草木、自然の理を心得ることを生業としている。そして、亡き義母、初代お咲は、ただ植木を商うだけでなく、草花の美しさ、力強さを通じて、多くの人々の心に安寧をもたらしたのだ。そなたはその志を継ぐのだ。決して、名を上げること、金儲けに走ることを、第一の目的としてはならぬ」

市之丞は幕府の勘定奉行として出世し、今や重職に就いている。その言葉には、役人としての清廉な気風が滲み出ていた。

彼は、幼き頃、孤児となり、菊次郎とお咲に育てられた。この植木屋こそが、彼の原点であったのだ。

さつきは、柔らかな表情で、一つの鉢を指し示した。それは、見事に仕立てられた、樹齢数十年の五葉松の盆栽だ。

「この松は、亡きお咲様が、そなたが生まれた祝いにと、陽一郎兄様と二人で仕立てたものだ。植木職人にとって、草木は己の分身。この盆栽の姿こそ、そなたの目指すべき道を示すものとなるだろう」

お花は深く頷き、その松を手に取った。ずしりと重い。しかし、その幹には力強い命が宿っているのが感じられた。

儀式が終わり、さつきが陽一郎に声をかけた。

「兄様。お花の行く末を、どうぞ見守ってやってくだされ」

陽一郎は、無言で頷く。その眼差しは、松の盆栽に注がれていた。彼の心には、愛妻と子の死以来、言葉にできない孤独と悲しみが常に影を落していた。だが、彼は与力のお役目の傍ら、この盆栽を趣味とする生活を通じ、己の心を慰める術を見つけていたのだ。

その時、お花の弟の竹治が、表から駆け込んできた。十五歳。学問に熱心で、役人の父とは異なり、世のあり方、農村の疲弊に深く心を痛めている青年だ。

「姉上、二代目植木屋お咲、おめでとうございます」

竹治の顔には、喜びよりも、案じる色がありありと浮かんでいた。。

「姉上の力は、この植木屋だけでなく、広く世に活かされるべきだ。農民の暮らしは困窮し、江戸の街でも飢えに苦しむ者が後を絶たぬ。草木を愛でるばかりが、人の道ではあるまい」

その言葉に、市之丞が軽く咳払いをした。

「竹治。今はお花の祝いの日だ。そなたの懸念は理解する。しかし、世の理は、そう簡単に変わるものではない。まずは、己の役目を果たすべきだ」

竹治は黙り込んだ。彼の心は、役人の父の生き方、そしてこの世の不公平さに、すでに深く懐疑の念を抱き始めていた。

陽一郎は、再び五葉松の盆栽を見つめる。彼は知っている。草木が静かに、しかし力強く生きる姿が、時として、人の心に最も深い影響を与えることを。

お花は、竹治に向かって微笑んだ。

「ありがとう、竹治。私は、初代お咲様のように、花を通じて、世の人々の心に安らぎをもたらしたい。それが、私にできる、この世の役に立つことだと思っている」

その暖簾が、再び、人々の心に何を植え付けることになるのか。春の光が、新しく二代目を継いだお花の、溌剌とした顔を照らしていた。

第一章 将軍家の悩みと植木屋の覚悟

二代目お咲を継いだお花の周りは、すぐに慌ただしくなった。

初夏が近づくにつれて、「植木屋お咲」の評判は再び江戸中に響き渡り始めたのだ。

しかし、その客の多くは、単に庭木や盆栽を求める者たちではなかった。

「二代目お咲殿、頼む。どうか、我が屋敷の五葉松を、将軍家にお納めできる、見事な仕立てにしてくれぬか」

「聞けば、次期将軍様は、殊の外、花や盆栽がお好きだというではないか。この菊を、ぜひとも御前に供したいのだ」

豪商、代官、そして幕府内の役人たちまでもが、次々と植木屋の土間を訪れる。彼らの目的は、次期将軍家重への献上品とすることだ。

家重は、その不明瞭な言葉のため、世間からは不当な評価を受け、隠遁生活を送りがちだ。

彼は幼い頃に脳性麻痺の病で言語を適切に発音できなくなってしまった。しかし、知能は優れており、ただ、他人に伝達できない。それを解する人は、なんと大岡忠光ただ一人という不遇の持ち主だった、

そんな彼の心の支えが、花や盆栽、囲碁、将棋といった静かな趣味であることは、知る人ぞ知る事実であった。

特に盆栽は、生きた芸術であり、一つの鉢の中に自然の深淵を見るもの。家重はその姿に、己の内に秘めたる情熱と孤独を重ねていたのだ。だが、その嗜好が、今や出世を願う者たちの道具に使われ始めていた。

ある日の夕刻、勘定奉行の父市之丞の屋敷を、一人の武士が訪れた。老中たちからも一目置かれる、大岡忠光である。彼は、先代の名奉行、大岡忠相にも相談を持ちかけるほどの、幕府内で損得なしに人々の幸せを願う、稀有な人物だ。そして、彼は、次期将軍家重の数少ない理解者であり、相談役であった。

「市之丞殿。突然の訪問、許されよ」

「忠光様。滅相もござらん。何か、急を要する事態でもござりましょうか」

忠光は、深く息を吐いた。

「実は、将軍家の内々のことで、心底、困り果てているのだ。将軍家重様が、心安めるはずの趣味の盆花や盆栽で、却って心を病んでおられる」

忠光は事の次第を語った。近頃、城に献上される盆栽や盆花が、日に日に増えているという。

「それらは、見栄えを良くするため、無理な剪定を施され、過剰な肥やしで不自然なまでに華美に仕立てられている。中には、盆栽ではなく、もはやただの飾り物に成り下がったものもある。家重様は、それらを見るたびに、献上した者たちの欲望や浅ましさを感じ取り、深く心を痛めておられるのだ」

「なるほど」市之丞は静かに頷く。「将軍様の御心を、己の出世の道具とする。世の常とはいえ、嘆かわしいことだ」

「そこで、市之丞殿に相談がある。植木屋『お咲』の二代目であるお嬢、お花殿に、家重様が心から安らげる、真の盆栽を御前に供していただきたいのだ」

市之丞は顔を上げた。

「私の娘に、ですか。しかし、お花はまだ若輩。そして、二代目『お咲』は、いかなる身分の者からの依頼も、草木を愛する心があるか否かで決めるのが、亡き義父母以来の家訓でござる」

「知っている」忠光は、真剣な眼差しで市之丞を見据えた。

「だからこそ、お花殿が良いのだ。彼女の心、植木への真摯な思いが、今の将軍様に必要なのだ。家重様は、愛妻と子を失い、深い悲しみを抱えておられる。それは、古家陽一郎殿と共通の悲しみだ。家重様は、人々の不理解から絶望し、心に深く引きこもっておられる。その孤独と悲しみを、人為的な美しさではない、草木本来の、力強く、静かな美しさが、癒すことができる。私はそう信じている」

市之丞は、忠光の熱意に動かされた。そして、彼は、陽一郎とお花に、この件を話すことを決める。

翌日。市之丞は、植木屋の離れにいる陽一郎を訪ねた。

「兄上。実は、次期将軍家重様に関する、内々の相談がござる」

陽一郎は、手の内の五葉松から、そっと視線を上げた。孤独を愛する彼にとって、この盆栽は、亡き妻子の面影を宿す、かけがえのない存在だ。

市之丞は、忠光から受けた相談の全てを語った。

陽一郎は、静かに言った。

「家重様も、私と同じ悲しみを抱えておられるのか」

その声には、微かな共感が滲んでいた。

「盆花は、人の心と通じる。私自身、花を通じて、世のしがらみや、尽きぬ悲しみから、束の間、離れることができる。お花に任せてみるが良い。彼女には、亡き母『お咲』と同じ、草木と対話する力がある」

市之丞は、陽一郎の言葉を聞き、深く感謝した。

そして、お花は、父と伯父から、将軍家重の苦悩と、大岡忠光からの依頼を聞かされた。

「次期将軍様が、私と同じように、大切な人を失い、苦しんでおられる。そして、私の草木が、その心の支えになれるかもしれぬと」

お花の顔つきが変わった。植木職人としての、二代目『お咲』としての、覚悟が定まった瞬間だ。

「承知いたしました、父上。このお花、力の限り、将軍様に真の安らぎをもたらす、盆栽を仕立てさせていただきます」

お花は、決意を新たにした。彼女は、城に献上するための華美な仕立てではなく、家重の心に寄り添う、静謐で、力強い「花」を選び、仕立てることを決意したのだ。

大岡忠光からの相談を受けた二代目お咲、お花は、もう一つの依頼に耳を傾けた。それは将軍徳川家重の密かな願いであった。

家重は脳性麻痺に加え、ひどい頻尿に苦しんでいた。その優れた頭脳を持つがゆえに、人々の心ない中傷が何よりも辛い。正室、増子姫は家重を深く愛したが、その幸せな生活はわずか三年で終わった。早産により、増子姫は子供と共に世を去った。この悲劇が、家重をさらに引きこもりへと追いやったのかもしれない。

お花は陽一郎に相談した。陽一郎は、初代お咲が残した記録から、頻尿には乾燥させたオオバコを煎じて茶として日々飲めば、症状が緩和されるという記述を見つけ出した。

お花は、この知恵を元に、オオバコ茶と、簡素ながら芯のある盆栽や清純な盆花を整え、忠光を通して献上した。

その品々に深く感銘を受けた家重は、ぜひ、お咲が育てている庭を見たいと新たな依頼を出した。

後日、お花と忠光の準備のもと、家重の籠道中が始まった。

一行は江戸の町中を通り、大久保家を経由してお咲の花園へと向かう。道すがら、家重は軒下で将棋を楽しむ庶民や、花々を愛でる人々の穏やかな姿を目にした。その光景に深く感動し、自分も彼らのように生きてみたいと願った。

これを機に、家重は陽一郎を将棋の相手とし、また盆栽や盆花の良き師匠として側に置くようになった。

このとき、家重のお供をしていたのが平賀源内である。陽一郎が家重の相手をしている間に、源内は田沼意次と知己を得て、その才を気に入られ、長崎留学の支援まで受けることになる。

やがて、次期将軍を選定する時期が近づくと、家重暗殺を目論む大名や家臣たちが暗躍を始めた。これにより、家重はますます人間不信となり、引きこもりを深めていく。

お花は、そんな孤立する家重に、盆花を育てるという、静かで深い楽しみをそっと伝授していくのであった。

家重の求めに応じ、お花は駒込に持つ自らの花園へと将軍を招く準備を進めた。花園の要は、湧き水が豊富で澄み渡る駒込の泉と井戸水である。この良質な水こそが、お花の育てる盆花の命であった。

大岡忠光からの追加の依頼。それは家重の心を慰め、人との隔たりを埋めるものであった。

お花は思案した。家重の病と孤独を和らげるには、ただ華やかな花では届かぬ。

お花が選んだのは、江戸で今、人気を集め始めた珍しい桔梗であった。普通の桔梗とは違い、花弁が二重になり、凛とした紫を深く湛える新種である。これは、長年かけて駒込の肥沃な土と清らかな水だけで育て上げた、お花だけの秘蔵の品であった。

二重の桔梗は、ひどい傷を負っても、必ず再び咲き、深く根を張る強さを持つ。

お花は桔梗と共に、頻尿の薬となるオオバコの葉を密かに混ぜた土を鉢の底に忍ばせた。この土から立ち上る微かな香りが、家重の悩みを静かに鎮めることを願った。

籠に乗った家重が花園に着くと、簡素ながら品格のある苔の上に置かれた二重の桔梗の鉢が、静かに彼を迎えた。

家重は、その深い紫の花を見つめた。花弁が幾重にも重なりながらも、一本の芯が通っている。

「この花は、何と申す」家重が静かに問うた。

「桔梗にございます。病を得ても、深く根を張り、必ず二度三度と咲く、強き命の花」

お花の答えに、家重はふと目を伏せた。この花は、己の傷と誇りを知る者が選んだものだと悟った。桔梗の傍らには、可憐な山野草が添えられ、それがまるで、かつて愛した正室、増子姫の清らかな魂のようにも見えた。

桔梗の清らかな香りの中に、家重はふと、心を安らがせる薬草の香りを嗅ぎ取った。それは、お花の深い思いやりであった。

家重は、この桔梗を育てたお花という人物、そしてその心根に、一層の関心を寄せるのであった。

盆花を通じたお花との純粋な交流は、家重の心に大きな変化をもたらした。彼は、利害や打算のないお花の振る舞いから、清くあることの大切さを改めて学んだ。それは、長年彼を苦しめてきた、周囲の陰謀や権力争いとは対極にあるものであった。

家重は、この清らかな心持ちをそのまま政に活かしたいと考えるようになった。

ある日、家重は側近である大岡忠光を呼び寄せ、静かに指示を与えた。

「今の世、役人の不正や賄賂が絶えぬ。このままでは、民が苦しむばかりだ」

家重は、役人たちの不正を取り締まり、財政を公正に管理するための役所を強化したいという願いを忠光に打ち明けた。

「忠光。父上、吉宗公に、勘定吟味役の権限をさらに強めるよう、強く提言せよ」

勘定吟味役は、幕府の財政を監視し、不正を正す重要な役割を持つが、その力が十分に発揮されていないと家重は感じていた。

「この方々を、真に恐れられる存在にする。それが、公明な世を作る第一歩であろう」

さらに家重は、忠光に自身の密かな決意を明かした。

「そなたを通じて、その強化案を吉宗公へ進言せよ。そして、もし己が次の将軍位に就くことになれば、必ずこれを実現する」

それは、盆花から得た清き心と、己が抱える苦しみから生まれた切実な政治への志であった。家重は、人々の汚れた心に苦しめられたからこそ、不正のない清廉な世を強く求めたのであった。

大岡忠光の進言を受けた吉宗は、深く考え込んだ。長男家重を次期将軍とするにあたり、その身体の不自由さを理由に、多くの大名や家臣が反対の声を上げていた。しかし、忠光が伝えた勘定吟味役強化の提言は、吉宗の心に強く響いた。

吉宗が求めていたのは、己の倹約政治を継ぎ、さらに世の不正を許さぬ清廉な心を持つ後継者であった。

吉宗は、反対勢力を集めた場で、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で語り始めた。

「家重の身体に不自由があることは、皆も知るところであろう。されど、政を司る者に最も必要なのは、五体満足にあらず」

吉宗は、臣下の誰も思いつかなかった家重の提案を持ち出した。

「家重は、近頃、勘定吟味役の権限を強化し、幕府内の賄賂や不正を徹底的に取り締まるべきと進言した。これは、そなたらが日頃見過ごしてきた、政の根幹に関わる問題である」

吉宗は、家重の知恵が、世の清濁を見抜いている証拠だと断言した。

「この卓見は、身体の健全さとは全く別の、天賦の才から生まれたものである。彼は、己の苦しみを知るゆえに、民の苦しみを推し量ることができる。そして、人の心の穢れを嫌う。これこそが、将軍の器というものであろう」

吉宗の言葉は、反対勢力の論拠を根底から崩した。身体の不自由さではなく、知性と志こそが後継者選びの基準であると、将軍自身が示したからである。

吉宗は、その場で忠光に対し、「家重の提言を速やかにまとめ、次代の幕政の要とせよ」と命じた。

これにより、家重を次期将軍に推す吉宗の強い意思が、幕府全体に示された。反対する勢力は、もはや口を開くことができず、家重の将軍への道筋は、揺るぎないものとなった。

忠光は、家重の清い心が、将軍位という重い責務への道を開いたのだと悟った。

将軍の決意、盆花を前に

吉宗の揺るぎない決断により、家重の次期将軍への道筋は定まった。大岡忠光からの報告を受け、家重は静かに部屋の盆花を見つめていた。

そこに置かれているのは、お花が手入れした二重の桔梗の鉢である。その深い紫色は、もはや単なる鑑賞物ではなく、己の志を映す鏡となっていた。

家重は、長きにわたり、言葉の不自由さと頻尿という己の苦しみ、そして周囲の蔑みに耐え、孤独の中に身を置いてきた。しかし、お花が持参した盆花の清らかさ、そしてそれに込められた人の優しさに触れたことで、彼の心は再び外の世界へと開かれた。

家重は、盆花に顔を近づけた。二重の花弁の中に、強い生命の芯を感じる。それは、誰にも理解されない中で、己の知性を磨き続けた家重自身の姿であった。

「この花のように、強く、清くある」

家重は心の中でそう誓った。

「権力の座に就くことになろうとも、人々の穢れた心に染まることはない。不正を憎み、清廉な政治を貫く。己の提言した勘定吟味役の強化は、その誓いの第一歩である」

この桔梗の盆花は、孤独な将軍が、世の不正と闘い、公明な世を築くという、静かなる決意を固めるための、心の依り代となった。

家重は、自分の不自由さゆえに、人情の裏表を誰よりも深く知った。だからこそ、純粋な心がもたらす喜びを、世にも広めたいと願った。その喜びとは、庶民が軒下で花を愛で、将棋を楽しむような、穏やかで正直な暮らしであった。

彼は忠光に伝えた。

「この先、政が最も乱れるのは、心根が腐る時だ。己の政は、清き心を尊ぶものとなる。それを忘れるな」

家重の言葉は不明瞭であったが、その強い意志は、忠光の胸に深く刻まれた。

花の品評会

お花が手掛ける駒込の花園では、年に一度の変化朝顔の品評会が盛大に開かれていた。澄み切った駒込の泉の恵みを受け、お花が丹精込めて育て上げた朝顔たちは、その日ばかりは主役となり、来場者の視線を釘付けにした。

色とりどりの着物をまとった人々が、花園を埋め尽くす。 扇子で涼を取りながらも、その目は一点、鉢植えの朝顔に集中している。

「ほう、あの鉢の渦巻き咲きはまた見事」

「いえいえ、隣の獅子咲きも捨てがたい」

評判の美人たちが、涼しげな声音で語り合う。その指先が、しとやかに花の形を指し示す。まるで、歌麿の描く浮世絵から抜け出してきたかのような、艶やかな情景である。

子供たちは、朝顔の珍しい花弁に歓声を上げ、老人は、かつて育てた自慢の朝顔を思い出し、懐かしげに目を細めている。誰も彼もが、花の魔力に魅入られ、日頃の憂さを忘れているようであった。

ひときわ目を輝かせているのは、遠国から来た人々である。

参勤交代の供をして江戸に来た武士は、郷里では見慣れぬ複雑な模様や、七変化する色合いの朝顔に目を丸くする。

「まさか、朝顔一つで、これほどの妙があるとは……お江戸の粋は底知れぬ」

そう感嘆の声を漏らし、懐から取り出した手ぬぐいに、花の姿を熱心に写し取る。故郷に持ち帰って、この江戸の華やかさを伝えたいのであろう。

行商人たちは、口をあんぐり開けて、まるで夢でも見ているかのように、ただただ朝顔を眺めている。彼らは、旅路で見てきたどのような景色よりも、この花の園が、「お江戸」のすごさを物語っていると感じていた。

「これほど美しい花が、この江戸では、日ごとに生まれ変わるのか」

彼らの心には、江戸の文化の奥深さと、人々の熱意が焼き付いた。

お花は、この賑わいを一歩引いた場所から静かに見守っていた。家重に献上した盆花とはまた異なる、庶民の喜びに満ちたこの光景に、彼女は深い満足感を覚えていた。

「皆が、この花で笑顔になる。それが、何よりの喜び」

お花はそう心の中でつぶやいた。駒込の清らかな水が、人々の心を潤す花々を育み、そして、その花々が、江戸の文化を豊かに彩っていく。

変化朝顔の品評会は、お江戸の園芸熱を如実に示す場であった。しかし、その熱気が高じるあまり、小競り合いが勃発した。

品評会の会場の一角で、植物研究サークル「花愛会」と「育華連」の会員たちが、激しい議論を交わしていた。

「我らが丹精込めた唐橘の鮮やかさこそ、至高の技であろう」

 花愛会の当主が、朱色の実をたわわにつけた鉢を指し、誇らしげに胸を張る。その唐橘は、実のつき方、葉の配置、枝ぶり全てが整い、見る者を圧倒する出来栄えであった。

しかし、育華連の頭領は、顔色一つ変えずに反論する。

「いや、真の粋は、この万年青の葉芸に見るべし。深緑の中に浮かび上がる斑の妙は、自然の造形美そのもの」 彼の差し出す万年青は、葉の一枚一枚に異なる模様が浮かび上がり、まさに葉の芸術と呼ぶにふさわしい逸品であった。

議論は白熱し、互いの鉢を持ち上げては、 「この石斛の古木の風情を見よ」 「何を申す、この錦蘭の繊細な花付きこそが、真の価値」 と、互いの自慢の鉢を突き出し、激しく言葉を交わす。彼らが持ち寄った唐橘、万年青、石斛、錦蘭など、どれも優劣つけがたい名品ばかりである。

周囲の観客も、どちらが優れているかを判断できず、ただただ固唾をのんで見守っていた。このままでは、せっかくの品評会が、台無しになってしまう。

その時、静かに現れたのが、二代目お咲、お花であった。彼女は、喧騒の中心に立つと、誰にでも聞こえるが、決して声高ではない、清らかな声音で語り始めた。

「皆々様、しばしお耳を傾けてくだされ」

お花の声に、花愛会と育華連の面々は、ようやく鉢を下ろし、お花に注目した。

「花は、競い合うものではございません。ましてや、優劣をつけるものでもございませぬ」

お花は、唐橘と万年青、石斛と錦蘭、それぞれの鉢に、優しく目を向けた。

「この唐橘には、育て手の熱き情熱が宿り、この万年青には、悠久の時が流れております。石斛には古木の魂が息づき、錦蘭には繊細なる美が宿る。どれもこれも、一つとして同じものはございませぬ」

彼女は、花愛会と育華連の当主たちの目を見て、続けた。

「それぞれが、唯一無二の美しさを持ち、育て手の心血が注がれております。人は、その美しさを静かに見て、心で楽しむもの。己の心に響く花を見つけ、それに癒される。それこそが、花を愛でる真髄ではございませぬか」

お花の言葉は、水が染み渡るように、互いの優劣を競い合っていた人々の心に静かに響いた。彼らは、自らが花の本当の美しさを見失い、己の我欲にとらわれていたことに気づかされた。

花愛会と育華連の面々は、顔を見合わせ、やがて互いに頭を下げた。

「お咲殿のお言葉、肝に銘じまする」

場に満ちていた緊張が解け、再び穏やかな空気が流れる。お花は、争いのない和合こそが、花がもたらす真の力であると信じていた。

観客たちは、お花の優しさと芯の強さに感銘を受け、「駒込のお花」の評判は、さらに確固たるものとなった。

古家陽一郎の悩み

そんなにぎやかな花市の片隅で、一人悠然と、花を売っていた一人の武士がいた。古家陽一郎その人である。

花市の後、梅雨明け間近の湿気が古家屋敷の庭に重くのしかかっていた。与力の仕事から戻った古家陽一郎は、襦袢姿になり、手拭いで額の汗を拭いながら、自分の「秘密の花園」へと足を踏み入れた。

今年の朝顔市の興奮はまだ冷めやらぬものの、陽一郎の胸には、金銭に対する複雑な感情が渦巻いていた。庭に並んだ選抜中の朝顔の鉢を前に、彼は蹲る。

「美しいな。しかし、お前たちに、なぜ百両もの値がつくのか」

陽一郎は、指先で朝顔の葉を優しく撫でた。

その時、背後から声をかけられた。下男の六蔵である。六蔵は、年老いてはいるが、陽一郎の亡き父の代から古家家に仕える古株であった。

「旦那様、また朝顔を見つめていらっしゃいますな」

陽一郎は立ち上がらず、振り返らずに答えた。

「六蔵か。この花に見入ってしまう。まるで、人の世の理とは別の、不思議な力を持っているようだ」

六蔵は、陽一郎の傍らに静かに控えた。

「不思議な力とは、何でございましょうか」

「値だ。値が付くことだ。武士としてまっとうに勤め、米を食らい、米で給金を得ている。しかし、米の価値は下がる一方。ところが、食えぬ朝顔には、百両だの五十両だのの値が付く。百姓の米を作る苦労は一体、何だというのだ」

六蔵は、しばらく黙っていたが、やがて低い声で話し始めた。

「旦那様、それは人の『心』の値ではございましょうか。米は生きていくために『必要』なもの。朝顔は、生きていくことに『楽しみ』を与えるもの」

陽一郎は、ゆっくりと振り向いた。

「楽しみ」

「はい。世の中には、金に糸目をつけぬ豪商や、贅沢を知り尽くした芸妓さんがおります。彼らは、もう米の心配などとうにしておりませぬ。彼らが求めているのは、他の者には得られぬ、一時の心の晴れ。旦那様がお作りになった珍しい朝顔は、それにぴったり当てはまった。言わば、望みを買って行ったのです」

陽一郎は、膝の上に肘をつき、考え込んだ。

「望みか…。母は、朝顔を売ることを、人々に幸せを分けることだと申した。わしは、己の望みのために、種を蒔き、育てている。そして、わしが作った花が、今度は、人の望みとなった。母の言う『善』と、わしの言う『遊び』、そして、世間の『金』が、複雑に絡み合っている。何が正しく、何が間違っているのか、分からぬ」

六蔵は、静かに頭を下げた。

「旦那様の悩まれるお気持ち、お察しいたします。しかし、旦那様の朝顔が、人の心に光を灯したことは、間違いのない真でございます。それにおかげで、わしども下働きも、高い給金をいただける。ありがたいことです」

六蔵は、陽一郎の懐具合が良くなったことを、素直に喜んでいる。その顔に、陽一郎は救われる思いがした。

「そうか。お前たちの給金が増えたのは、わしの望みが、人の望みに変わったおかげか」

陽一郎は、ふと、庭の隅に置かれた小さな麻袋に目をやった。それは、昨年の朝顔市で一番人気だった花から採れた種が入っている。

「六蔵、今年もまた、変わった花が咲いてくれるか。それが、今から楽しみでならぬ」

六蔵は、安心したように微笑んだ。

「きっと、去年よりも、もっと美しい花が咲き、旦那様に楽しい未来を見せてくれるに違いありません」

陽一郎は再び、目の前の朝顔に視線を戻した。彼の心から、一瞬、孤独と迷いが消え、純粋な希望の光が差し込んだ。

「そうだな。六蔵。わしは、ただ、美しい花を咲かせることだけを考えよう。それが、母の道とも、わしの道とも、どこかで繋がっているのかもしれぬ」

役人が花作りを兼業にする。あってはならないかもしれないが、好きな趣味を秘密の花園として維持することを自分に許した。善悪ではなく、生きがいとして。

将軍の松と武士の心

江戸城、吹上御殿

宝暦四年、秋風が立ち始めた頃。古家陽一郎は、与力としてではなく、庭方同心として、江戸城の吹上御殿に呼ばれた。

「陽一郎様。お上(かみ)様へ献上される盆栽、拝見仕ります」

老中の側近が、陽一郎が携えてきた小ぶりの五葉松の盆栽を検分した。陽一郎は深く頭を下げたまま言葉を待つ。

「見事な幹の曲がり。葉も濃く、樹勢も強い。お上様の慰めになるであろう」

老中側近の低い声が響く。

「恐悦至極にございます。この松が、将軍様の日々のお疲れを少しでも癒やせれば、本望にございます」

しばらくして、陽一郎は、将軍家重公と世継ぎである幼い家治公が待つ広間に通された。家重公は顔つきこそ険しいが、どこか疲れ切った様子で、座敷に座っていた。その傍らには、まだ十歳前後の家治公が、緊張した面持ちで控えている。

陽一郎は、献上した五葉松を定位置に置き、再び最敬礼した。

家重公は、松を一瞥すると、顎を突き出し、何か低い唸るような声を漏らした。それは、常人には聞き取れぬ、不明瞭な響きであった。

家治公がすぐさま、その声を読み取り、通訳した。

「父上は、申されました。『この松は、なかなかよい。色が深く、見飽きぬ』と」

陽一郎は畏まり、答える。

「将軍様にお褒めいただき、恐悦の極みでございます。私が、種より育て、七年もの間、丹精込めた一鉢にございます」

家重公は、ふたたび、喉の奥から絞り出すような音を発した。家治公は、父の顔色を伺いながら、ゆっくりと通訳する。

「『そなたの献上の松は見事だが、一つ、頼みたい儀がある』と仰せでございます」

陽一郎は姿勢を正した。

「はっ。私に務まることであれば、何なりとお申し付けくださいませ」

家治公は、父の視線が向けられた奥の、飾り棚の一角を指差した。

「あそこにございます。父上が、夜毎、心を砕かれております**『三代将軍』**の松。あれが、今、病に伏しております」

陽一郎は、将軍家三代の権威を象徴すると聞く、伝説の五葉松が、献上品を並べる棚の片隅に置かれていることに驚いた。

目を凝らすと、その松は、噂に違わぬ、五百年もの時を経た重厚な幹を持ちながら、全体的に葉の色が薄く、特に先端の枝には枯れ込んでいる部分が多く見られた。樹勢が明らかに衰えている。

家重公が、苦しげに言葉を連ねる。家治公は、真剣な顔で父の言葉に耳を傾けた。

「父上は、『この松は、祖父である三代将軍家光公の御遺愛。五百年もの間、わが将軍家の威厳を見守ってきた。それが、この家重の代になって、もし枯れるようなことがあれば、世の将軍家への信を失う』と、大変ご心配されております」

家治公は、陽一郎を真っ直ぐに見つめた。

「父上は、この三代将軍の松を、そなたの献上した松と同じように、力強い新芽を出すよう、生き返らせて欲しいと、切に願っておられます」

五百年の時を生きる将軍家の秘宝。その命運が、一介の与力である自分に託される。陽一郎の心臓が激しく鳴った。

「五百年…。それは、金では測れぬ、将軍家の歴史と望みそのものでございます」

家重公は、陽一郎の言葉を聞き取り、深く頷くと、再び唸り声を上げ、家治公に通訳を促した。

「『金はいくらでも払おう。だが、この松を救うことこそ、武士の忠義。そなたの献上した松が持つ、あの生(せい)の力を、この松にも注いでくれ』と」

陽一郎は、家重公の、言葉にならぬ叫びの中に、将軍としての重圧と、孤独な一人の人間としての切なる願いを聞いた。それは、亡き妻子を偲び、朝顔の「美しさ」という未来の「望み」に縋る自身の孤独と、どこか重なる。

「承知いたしました。命に変えましても、この『三代将軍』の松を、新芽を出すまで、この手で支えさせていただきます」

陽一郎は、深く、地につくほど頭を下げた。この松を救うことは、金銭への迷いを捨て、武士として、そして園芸を愛する者として、命を繋ぐという、最も高貴な善を為すことに他ならない。

家治公は、安堵したように微笑んだ。

「父上は、『ようやった。これで、わが家の永代も、そなたの手に託された』と仰せでございます」

土の記憶と手の温もり

吹上御殿、秘密の作業場

陽一郎は、御典医や庭方同心の手を借りることなく、松の治療を許された。場所は、吹上御殿の一角にある、人払いされた静かな植木小屋である。

陽一郎はまず、衰弱した「三代将軍」の松を、慎重に検分した。

「六蔵が申した通りだ。この五百年の歴史は、金には換えられぬ」

松の幹には深い捻じれと、苔が生い茂り、威厳に満ちている。しかし、鉢の中の土は硬く締まり、排水の悪さが見て取れた。

「鉢の中が、長きにわたり、息をしていなかったのやもしれぬ」

陽一郎は、庭方として手伝いに来た老同心、佐吉に話しかけた。

「佐吉殿。この松は、いつ頃からこの鉢にございますか」

佐吉は、頬を掻きながら答えた。

「さあ、わしがここに勤め始めた四十年前から、この鉢でございます。植え替えなど、いつ行ったのか。誰も知らぬ。将軍様の大事にされる松ゆえ、下手に触れられなんだのでな」

陽一郎は小さく息を吐いた。

「五百年の松を、四十年間も植え替えずにおったか。これは、松の命綱が、土の中で詰まっておる」

「陽一郎殿、それは、植え替えをするということか。恐れながら、これほどの松を植え替えるのは、命懸けの作業と聞きます。失敗すれば、お上の命に関わるやもしれぬ」

佐吉の声には、恐怖が滲んでいた。陽一郎は松を撫でながら、静かに言った。

「松が望んでいるのは、新しい土と、根に風を通すことだ。このままでは、やがて根が腐り、水を吸えなくなる。そうすれば、将軍家の歴史はここで途切れる」

陽一郎は佐吉の顔を見た。

「佐吉殿。この松を、武士の忠義としてではなく、生きた命として見るのだ。土の中の詰まりを解いてやれば、必ずや、新しい息吹を返す」

佐吉は、陽一郎の真剣な目に気圧され、唾を飲み込んだ。

「…承知いたしました。植え替えは、すべて、陽一郎殿の指図に従います」

鉢の中の決断

陽一郎は、佐吉と共に、慎重に植え替えの準備を始めた。

まず、硬く締まった土を、竹串で丁寧に突き崩し、根鉢を崩していく。

「佐吉殿、この松は、鉢の中の土の記憶を大事にしておる。一気に崩してはならぬ。少しずつ、古い土の記憶を尊重しながら、新しい土の未来を差し込むのだ」

何日にもわたり、地道な作業が続いた。そして、ついに根鉢の表面を覆う、石のように硬くなった古い根を、細い道具で切り開く時が来た。

「ここが勝負どころだ。悪い根を恐れず切り、新しい根の道を作ってやる」

陽一郎は、細心の注意を払いながら、衰えた根を切り詰めた。佐吉は、傍で汗を拭いながら見守る。

「陽一郎殿、大丈夫でございますか。葉が、さらに弱るのではないかと…」

「案ずるな、佐吉殿。松は、切られた根の分だけ、葉を落とし、自らバランスを取る。だが、その後、必ずや新しい根を出す。それが、五百年の松が持つ生命の力だ」

新しい水はけの良い土に植え替え、松を固定し終えると、陽一郎は深く息を吐いた。

家治公の訪問

植え替えから数日後。病状を心配した家治公が、植木小屋を訪れた。家重公の側近も同行している。

家治公は、松の前に立ち、不安そうな顔をした。

「陽一郎殿。松の色が、植え替え前よりも、さらに悪くなったように見えます」

陽一郎は、その言葉に顔色一つ変えず、答えた。

「家治様、ご心配をおかけし、申し訳ございません。今は、松が力を溜めているところでございます。根を切られた松は、まず、土の下で命を繋ぐことに専念いたしますゆえ」

家治公が、陽一郎の顔を覗き込む。

「いつ頃、新芽を出すのか」

「それは、松が決めることでございます。しかし、この秋の間に、必ずや、その青い光を見せてみせましょう。それが、私の武士としての、そして、この松の命に対する誓いにございます」

家治公は、松の幹にそっと手を触れた。

「父上は、この松の命が、ご自身の命と同じように思えてならぬようです。陽一郎殿。頼みます」

「畏まりました。必ずや、松の望みを叶え、将軍家の未来を繋いでみせましょう」

陽一郎は、五百年の松に、自分の孤独や迷いを重ねる。松の命を救うことが、今、自分の人生を正しい道へ導く唯一の善であると確信した。彼は、毎日、松に話しかけ、水を与え、その手の温もりで、松の回復を信じ続けた。

繋がれた五百年の望み(クライマックス)

深まる秋、植木小屋の静寂

植え替えから四十日余りが過ぎた。季節は深く進み、吹上御殿の庭木も色を落とし始めている。しかし、陽一郎の心の中には、まだ春が訪れていなかった。

彼は毎日、植木小屋に籠り、「三代将軍」の五葉松に水をやり、その葉色を、幹の熱を、微細な変化も見逃すまいと見つめ続けた。

佐吉は、松に話しかける陽一郎の姿を、遠巻きに見つめるばかりだった。

「陽一郎殿。もうすぐ霜が降ります。新芽が出なくとも、松は枯れてはおりませぬ。これ以上、手をかけるのは」

佐吉が口を開くが、陽一郎は首を振った。

「佐吉殿。この松は、五百年の間、ずっと将軍家の望みを背負ってきた。今、将軍様が望まれた『新芽』を出させることが、私の役目だ。私自身の望みも、この松に懸かっている」

陽一郎は、朝顔に傾けた情熱と同じ、いや、それ以上の魂を松に注ぎ込んでいた。もしこの松を救えなければ、朝顔の美に懸けた自分の人生も、虚飾に過ぎなかったのではないか、という恐れがあった。

その日の朝、陽一郎がいつものように松の前に膝をついた、その時だった。

青い光の発見

枯れ色が目立っていた枝の先端の、僅かな窪み。その中から、ほんの一筋の「青い光」が、かすかに、しかし確かに覗いているのを見つけた。

「……佐吉殿」

陽一郎は思わず声を上げた。

「どうなさいました、陽一郎殿」

「見よ!これだ!これが見たかったのだ」

佐吉が恐る恐る松の枝先に目を凝らす。小さな、まるで松葉の誕生を告げる翡翠色の針のような、新しい芽が、古い葉の根元から顔を出していた。

「あ…ああ!新芽!五百年の松が、息を吹き返した!まさしく、御世の栄えにございます!」

佐吉は、その場で平伏し、涙ぐんだ。

「三代将軍は、死なぬ…!将軍家は、永代(とわ)に続く」

陽一郎もまた、その青い芽の前で、深く頭を下げた。新芽は、微小だが、その青は、献上した彼の松の葉よりも、さらに濃く、力強く見えた。

「将軍様、拝見いたしましたか。この松は、望みを捨てていなかった」

彼はすぐさま、老中側近に報告を上げ、家重公と家治公に松を拝謁させる機会を得た。

最後の拝謁、交錯する想い

植木小屋に将軍父子を迎えるという、異例中の異例の場となった。家重公は、憔悴した様子ながらも、松を見るその目に、確かな期待の光を宿していた。

陽一郎は、「三代将軍」を静かに運び出し、床几(しょうぎ)の前に置いた。

家重公は、松を食い入るように見つめた後、深く、長く、唸り声をあげた。その声は、安堵と、言葉にできない喜びに満ちているように聞こえた。

家治公が、松の前に立つ陽一郎に、声を震わせながら通訳した。

「父上は、仰せでございます。『見事だ』」

家治公は、新芽を指さす。

「『その青い針は、まるで、わが幕府の新しき時代を告げる兆しのようである。五百年の命を、わが代で失わせずに済んだ…そなたの忠義、天晴れなり』と」

陽一郎は深く頭を垂れた。

「将軍様。これは、私一人の力ではございません。松の五百年分の生命力が、自ら道を切り開いたのでございます」

家重公は再び、今度は陽一郎に向け、低い声を上げた。家治公は、その言葉をゆっくりと選んだ。

「『そなたが献上した松は、望みの松。そなたが救ったこの松は、永代(とわ)の松。そなたは、金銭の欲を捨て、この松の命を選んだ善き心を持つ武士である。わしは、そなたの朝顔に懸けた情熱も知っておる。そなたの望み、わしが必ず叶えてやろう…何を望むか』」

陽一郎は、顔を上げ、将軍の目を見た。金銭は望まぬ。地位も望まぬ。彼の内にあった迷いは、この五葉松が新しい命を吹き返す姿を見て、晴れ渡っていた。

「将軍様。私が望むものは、ただ一つにございます」

家重公が、微かに身を乗り出した。家治公も固唾を飲む。

「私が望みますのは、ただ…この『三代将軍』の松が、私のような者に、命を繋ぐことの尊さを教えてくださったこと。そして、私の献上した朝顔が、将軍様の日々のささやかな癒やしとなり続けることでございます」

陽一郎は、将軍の威厳と、五百年の命の尊さの前に、自分の迷いがちっぽけなものであったことを悟った。本当に価値あるものは、金銭ではなく、「望み」と「命」を繋ぐことにある。

家重公は、陽一郎の言葉を聞き終えると、しばらく松と陽一郎を交互に見つめていたが、やがて、深く、静かに、「うム…」とだけ答えた。それは、全てを理解し、満足した者の声であった。

家治公は、感動に目を輝かせながら、通訳した。

「父上は、『そなたの心、しかと受け取った。そなたの望みは、将軍家の望みとなった』と仰せでございます」

陽一郎は、将軍家の歴史と、自らの朝顔への情熱が、この五百年の松によって一つに繋がれたことを感じた。彼は再び松に目をやり、青い新芽に、自分の未来という確かな望みを見つめたのであった。

宝暦四年、江戸の世は表面的な泰平を保っていたが、水面下で綱紀を乱す問題が起きていた。各藩がお止め品としてきた貴重な品々、例えば、門外不出の椿や菊、さらには薬効高い朝鮮人参(オタネニンジン)などが、密かに藩境を越え、江戸の園芸市場に流出していたのだ。

この事態は、目安箱への訴えにより、将軍吉宗公の耳に届いた。これは単なる花の売買ではない。藩の武家の掟を揺るがす、重大な背信行為である。

大岡忠光を介し、この秘密裏の調査は、田沼意次、そして大久保市之丞へと命が下った。市之丞は、迷わず二代目お咲ことお花と、その弟竹治に探索を託した。お花と竹治は、江戸の植木屋仲間の強い絆と情報を頼りに、静かに動き出した。

お花は、花園に来る女将や旦那衆から、さりげない会話を通じて情報を集めた。一方の竹治は、裏の市場や飲み屋を回り、口の軽い植木売りの連中から、酒の勢いで真実を引き出した。二人の連携と、お花が持つ人々の信望が、調査を速やかに進めたのだ。

やがて、真犯人は判明した。それは、ある藩の下級武士であった。彼は、生活の苦しさから、藩の宝である唐糸椿の苗や高麗人参の種を流出させていたのだ。藩の掟に照らせば、これは藩に対する重罪であり、植木一つで死罪となる可能性さえあった。

お花は、この事実を知り、深く苦悩した。彼女の純粋な花を愛する心が、人の命を脅かす武家の厳格な掟と衝突したのだ。

「このままでは、あの者は命を落とす。植木を愛し、活かす道を選んだばかりに」

お花は、一つの決断を下した。彼女は、大岡忠光に面会を求め、異例の願いを申し出る。

「流出した品々を、次期将軍家重公へ、私から献上したことにしていただけませぬか」

家重公の清廉な心と、盆花への深い愛を知るお花は、この願いが、武士の命を救う唯一の道であると信じたのだ。

お花はさらに、忠光に、植木に対する藩の規則の非を強く訴えた。

「美しき椿や菊は、藩の囲いの中で朽ちるべきではない。世に出て、万人を潤すべきです。薬草は、一部の権力者だけのものではなく、病に苦しむ全ての人の益となるべきだ」

お花が願うのは、椿や薬草に対する門外不出の掟が、いつの日か無くなることであった。植物の持つ生命の恵みは、人為的な狭い掟で縛るべきものではない。彼女の願いは、武士の命を救うことと、花と薬草が持つ万人のための価値を取り戻すことにあったのだ。

宝暦の世、長崎での学問を終えた平賀源内が、満を持して江戸に戻った。彼は西洋の知識を取り入れた薬草の博覧会を開くことを計画する。その会場は、植物への関心が高まる江戸の熱気を集めるにふさわしい舞台となるだろう。

「源内、長旅ご苦労であった。長崎で得た知見、いかほどであったか」

大岡忠光の屋敷にて、平賀源内は意気揚々と語る。

「忠光様。西洋の本草学は実に奥深い。日本の薬草と合わせれば、病の治し方も一新されるはずだ」

忠光は満足げに頷いた。

「して、その成果を江戸の民に示すには、いかなる方法がよかろうか」

「は。江戸で薬草の博覧会を開くべきだと考えます。ただの展示では面白くない。誰もが薬草の効能を理解し、その美しさを知る活きた博覧会といたします」

その計画が、大久保市之丞を通じてお花に伝えられた。お花は、この好機を逃さなかった。薬草の知識を広め、藩の掟で縛られた薬草を万人の益とするための一歩だと考えたのだ。

お花は、久しぶりに母のさつきを呼び寄せた。さつきは、初代お咲として花図鑑の絵を描いていた腕を持つ。

「母上、実はお願いがございます」

お花は、源内の博覧会の話と、薬草として使われる花の図鑑を新たに作る計画を話した。

「それは面白そうだね、お花。お前が育てた花が、人の命を救う助けになる」さつきは、静かに笑った。

「はい。ただ、図鑑に載せる花の絵は、正確で美しくなくてはなりません。母上の細やかで確かな筆が必要です」

「私の腕でよければ。お前が育てた花なら、喜んで描こう。初代お咲の残した知恵も、この図鑑で生きるだろう」

母娘は、薬効のある花々を前に、筆と紙を広げた。

博覧会の当日、源内の考案した珍しい薬草の展示が並ぶ中、お花の区画はひときわ人目を引いた。彼女が展示したのは、美しく咲きながら薬効を持つ花々である。

源内が、お花の展示を見て声をかけた。

「お咲殿、いや、お花殿の展示は、さすがに花への愛が深い。この二重の桔梗も、咳や痰を鎮める薬効があることを、こうして美しく示せば、人々は薬草を身近に感じるだろう」

「源内様。薬草は、苦いものばかりではございません。美しさも、心を癒す薬の一つです」お花は、静かに答えた。

竹治が、展示を見に来た大岡忠光に耳打ちした。

「忠光様。姉上が展示した薬草の中には、かつて藩から持ち出されそうになったものもございます。藩の掟よりも、人々の命こそが大切だと、示しているのです」

忠光は、深く頷いた。

「その意気や良し。この博覧会が、藩の掟を緩める大きなきっかけとなろう。お花殿の静かなる政だ」

源内は、お花とさつきの描いた図鑑の絵を見て、さらに感嘆した。

「この図の正確さ、そして美しさ。西洋の植物図譜にも劣らぬ。これは、万人のための知恵だ。江戸の世を、大きく変えるだろう」

第二章

宝暦の頃、冬の冷え込みが厳しいある朝、二代目「植木屋お咲」ことお花は、雪化粧をした六義園へと足を運んだ。主を失い荒れ果てた六義園も、雪が全てを覆い隠すことで、かつての優雅な姿を浮かび上がらせていた。

雪を踏みしめ、小道に沿って歩くお花は、祖母の初代お咲が、この地で様々な植木を慈しみ育てた日々を思い浮かべた。その光景が目に浮かび、熱い涙がこぼれ落ち、頬を伝った。

そんな思いに浸りながら歩いていくと、庭園の隅に小さな藁小屋を見つけた。

「何かしら」

好奇心に駆られたお花が、そっと小屋を覗き込んだその時、背後から男の声がした。

「何かご用ですか」

お花は、はっとして振り返った。そこに立っていたのは、二十代であろうか、すっきりとした体つきの若い男であった。彼は破れがちな着物をまとい、頭の総髪を後ろで一つに結んでいる。

「いえね。ここは、祖母が以前、植木仕事をしていたんでね。その昔を思い出していたんですよ」お花は、とっさに答えた。

男は静かに会釈した。

お花は、雪の中の男の様子を見て、放っておけなくなった。

「よろしければ、朝餉でもいかがですか。近くに、良い茶屋があります」お花は優しく誘った。

男は、わずかに戸惑いの色を見せたが、やがて頷いた。茶屋で、温かい粥を前に、男はぽつぽつと自らの過去を語り始めた。

「私は、正之助と申します。父は、越後騒動で脱藩した武士の息子です」

「武士の」お花は、驚きを隠せなかった。

「はい。父が江戸にいる最中に騒動が起こり、そのまま脱藩し、お秋という女と世帯を持ちました。父の唯一の趣味が植木の育成。それで細々と生計を立てていたのです」

正之助は、粥を一匙口に運び、続けた。

「しかし、母が病で亡くなると、父は気力を失い、その後すぐに病に臥せ、亡くなってしまいました」

「それは、お気の毒に」お花は、そっと茶碗を差し出した。

「私はその後、棒手振りや水屋など、様々な仕事をしましたが、どうにも性に合わず。やはり、花や植木を触っているときが、一番幸せだと悟りました」

正之助は、荒れた六義園を偶然見つけ、管理人から許可を得て、この狭い角地で花々を育て、売りさばいて生きているのだと言う。

「ここでの生活は、決して楽ではありません。しかし、土と花に囲まれていると、心が落ち着くのです」

彼の唯一の財産は、一つの袋に入った花の種であった。

「父が脱藩する時に、故郷から持ってきたものだそうです。『いつか、これを咲かせてくれ』。それが、父の遺言でした」

正之助は、花の種への愛と、父への思いを、静かに語った。

お花は、正之助の清らかな植物愛と、芯の強さに、強く心を惹かれた。それは、家重公の盆花を通して感じた純粋な心と、どこか重なるものであった。

「正之助殿。よろしければ、私の花園で働きませんか」お花は決意を込めて言った。

「私の花園は、駒込にあります。良質な水と肥沃な土がございます。あなたの腕と、その花の種があれば、きっと素晴らしい花が咲かせられる」

正之助は、しばらく黙り込んだが、やがて顔を上げた。その目には、希望の光が宿っていた。

「そのお言葉、ありがたく頂戴いたします。私の命、花と共にある。お花殿の期待に応えたい」

正之助は、植木屋お咲の住み込みとして働くことになった。彼は、その溢れるばかりの植物愛を、余すところなく発揮した。

そして、彼が大切に持っていた袋の中の種から、誰も見たことのない珍しい花々が次々と生まれた。それは、お花と正之助の静かな恋と共に、江戸の園芸界に新たな彩りを与えるのであった。

正之助がお花の花園に来て数月。春を迎えた駒込の花園は、彼の持ち込んだ種から生まれた新しい命で溢れていた。中でも、人目を引いたのは、越後藩が門外不出としてきた幻の雪見椿である。

雪見椿は、花弁が幾重にも重なり、雪の結晶のように白く透明な美しさを持つ。通常の椿よりも寒さに強い生命力を秘めており、その姿は、逆境の中で生き抜いた正之助の人生そのものを映しているようであった。

お花は、その雪見椿を見て、感嘆の声を上げた。

「正之助さん。この椿は、他の椿とは格が違う。雪の中で生きる強い意志を感じます」

「これは、父が越後の山中で見つけ、改良を重ねたものです。故郷の厳しい雪景色を思い出すようだと、父は言っていました」正之助は、静かに答えた。

この珍しい花は、すぐに江戸の園芸家の間で評判となった。「植木屋お咲の花園に、幻の雪見椿がある」という噂は、瞬く間に広がり、その花を高値で買い取りたいという裕福な客が、毎日のように花園を訪れるようになった。

しかし、その評判は、越後藩の江戸屋敷にも届いていた。

ある日、正之助が土を耕す姿を、お花が静かに見つめていた。彼の優しくも力強い手の動きは、お花の心に安らぎを与えた。

「正之助さん。この雪見椿は、きっと大評判になりますよ。あなたのお父様の願いが、今、叶いつつあります」

「それは、お花殿のおかげです。この種を、最高の土と水で育ててくれた」

正之助は、ふと手を止め、寂しげな目でお花を見つめた。

「ですが、この椿の評判が広がりすぎるのは、良からぬことかもしれません」

「どういうことです」お花は、竹筒で水を撒く手を止めた。

「越後では、この椿は、藩主以外は育ててはならぬという掟がありました。この花が、私を危うい立場に追いやるかもしれない」

正之助は、自分の出自が、お花とその花園に迷惑をかけることを恐れた。

「私は、あなたと花園に、これ以上の厄介をかけたくない。私は、ここを離れるべきかもしれません」

彼の口数の少なさとは裏腹に、その言葉には強い決意がにじんでいた。

お花は、静かに彼の隣に歩み寄った。

「正之助さん。あなたは、雪見椿の種を大切に守り抜いた。それは、父の遺言という、何よりも重い武士の心です。その純粋な心に、藩の掟で罰せられる謂れなどありません」

お花は、強い眼差しで正之助を見つめた。

「私は、あなたとこの花を、誰にも奪わせません。かつて、将軍家重公に桔梗を献上したように、この雪見椿も、将軍家への献上品とする手立てを考えます」

「将軍に献上」正之助は、驚きの声を上げた。

「はい。この花は、静かな強さを持つ。それは、清廉な政治を志す家重公の心に、必ず響くでしょう。そして、忠光様にご相談すれば、必ず道は開けます」

お花は、恋する男と、彼の命を懸けた花を守るため、自らの信用と政治的な繋がりを使うことを決意したのだ。彼女の心の中には、愛と、花がもたらす正義が、固く結びついていた。

お花は、正之助の持つ雪見椿と、それと対をなす雪割草も献上品に加えることを考えた。どちらも雪国の厳しさの中で生まれ、清らかな白と強靭な生命力を持つ。それは、家重公の孤独な強さと、お花の決意を象徴するものであった。

お花は早速、大岡忠光のもとを訪れた。

「忠光様。このたび、雪見椿、そして雪割草を将軍家重公に献上したいと存じます」

忠光は、献上品が門外不出の品種である可能性を察していた。

「お花殿。それは、ただの献上ではないだろう。正直に話してくれ」

お花は、正之助の出自の事情と、彼の父が残した種の遺言、そして、藩の掟により彼が命を脅かされている現状を包み隠さず話した。

「彼が育てた花は、人の命を救うほどの美しさを持っています。その美しさが、人の命を奪う道具となるなど、あってはなりません」

お花は、献上することで、その花を公儀の御用品とし、藩の追及から正之助を守ってほしいと強く願い出た。

忠光は、お花の覚悟と、彼女が寄せる正之助への思いを理解した。彼は、お花が以前、家重公の頻尿の悩みや政治の清廉さについて静かに示した知恵と心根を思い出した。

「お花殿。あなたの花への真摯な心と、人の命を尊ぶ心は、必ずや家重公の心を打つだろう」

忠光は、献上の儀を取り計らうことを約束した。そして、献上品を「越後の雪解けの清らかさを映した、稀なる名花」として、将軍家重公へと届けた。

家重公は、献上された雪見椿の潔い白さと、雪割草の繊細な花弁を、静かに見つめた。その簡素ながらも芯のある美しさは、彼の孤独な魂に深く響いた。

「この花は、逆境に耐え、清く咲いた花である」家重公は、そう呟いた。

そして、この二つの花が、藩の掟を越えて、人の命と希望を守るために献上されたことを知る。

家重公は、忠光に命じた。

「この雪見椿と雪割草は、御城の御用品とする。そして、この花を育てた者を、植木御用として召し抱える手立てをせよ」

家重公の叡慮により、雪見の二花は、藩の追及の手から完全に守られた。これにより、正之助は公儀に仕える者となり、越後藩は、御用品を追及する術を失った。

お花は、正之助の命と、彼の父の遺言を守り抜いた。そして、二人の植木仕事を通じた愛は、藩の厳しい掟を超えて、静かな安寧を得たのであった。

月日重ねて、家重公の叡慮により、正之助は正式に公儀の植木御用として召し抱えられた。彼は、お花の花園を拠点とし、雪見椿や雪割草をはじめとする御用品の育成に携わることになった。命の恩人であるお花への深い敬愛と、静かな恋心が、彼の胸に宿っていた。

雪が解け、駒込の庭に穏やかな春の日差しが差し込む頃。二人は、植え替え作業の合間に、雪見椿の傍らで一服していた。

「お花殿。公儀の植木御用という身分を得たのは、すべてあなたのおかげだ」正之助は、心からの感謝を口にした。

「私は、あなたに命を救っていただいた。この恩は、一生忘れない。あなたは、私の命の恩人だ」

お花は、温かい茶を差し出した。

「正之助さん。命の恩人などと、堅いことは言わないでください。私は、ただあなたの花と、あなたの命が失われるのが、惜しかっただけです」

「私の花」

「ええ。あなたの雪見椿と、雪割草には、越後の厳しい雪を耐え抜いた清らかで強い心が宿っています。それは、あなたの心そのものだ。私は、その花を、この世に咲かせたかったのです」

正之助は、お花のまっすぐな眼差しに、愛しい感情が込み上げてくるのを感じた。

ある夕暮れ時、二人は、雪割草の品種改良について話し合っていた。

「この雪割草の深い紫は、まるで夜明け前の空のようです。この色の発現は、土の酸性度をわずかに変えることで、さらに増すだろう」正之助は、専門的な知識を交えながら語った。

「そうですね。あなたは、花の色や形だけでなく、土や水の声を聞いているようだ」お花は、感心して言った。

正之助は、作業の手を止め、お花の方を見た。

「私は、言葉を飾ることが苦手だ。武士の家に育ったが、父の代から世を捨てた。だから、花が私の言葉だ」

「その花が、私にはよく聞こえます」お花は、静かに返した。

「あなたの雪見椿は、『私を見てくれ』と叫んでいました。あなたの雪割草は、『孤独ではない』と囁いています」

お花の言葉に、正之助は驚いた。彼女は、自分の内に秘めた思いを、花を通じて全て理解している。彼は、初めて心の底から理解されたと感じた。

「お花殿……あなたは、私の孤独を知っている。そして、私の生きる道を与えてくれた」

正之助は、お花の優しさと強さに、もはや敬愛だけではない恋情を抑えきれなくなっていた。

ある日、雪見椿の古木の剪定を終えた後、正之助は思い切って、お花に静かに言った。

「お花殿。あなたがいなければ、今の私はない。この命は、あなたのものだ」

お花は、その真剣な瞳を受け止めた。彼女の胸も、とっくに恋心で満たされていた。

「命を救ってくれたからではない。花を愛するその心に、私は惹かれている。私は、あなたの植木御用ではなく、あなたの夫として、生涯を共にしたい」

正之助は、自分から未来への願いを伝えた。その言葉は、潔い椿の花のように、まっすぐであった。それを言い終わった正之助の顔に、初めて安堵と喜びの表情が浮かんだ。

彼は、そっとお花の手を取った。

「お花殿。心よりお礼申す。私は、あなたと共に、花と土と共に生きる。それが、私の一番の幸せだ」

「わたくしこそ、喜んで……」涙にむせび、正之助の目をみつめるばかりだった。

二人は、雪見椿が咲き誇るその場所で、愛と未来を静かに誓い合った。

お花は数日後、大岡忠光のもとを訪れた。

「忠光様。このたび、雪見椿、そして雪割草を将軍家重公に献上したいと存じます」

忠光は、献上品が門外不出の品種である可能性を察していた。

「お花殿。それは、ただの献上ではないだろう。正直に話してくれ」

お花は、正之助の出自の事情と、彼の父が残した種の遺言、そして、藩の掟により彼が命を脅かされている現状を包み隠さず話した。

「正之助が育てた花は、人の命を救うほどの美しさを持っています。その美しさが、人の命を奪う道具となるなど、あってはなりません」

お花は、献上することで、その花を公儀の御用品とし、藩の追及から正之助を守ってほしいと強く願い出た。

忠光は、お花の覚悟と、彼女が寄せる正之助への思いを理解した。彼は、お花が以前、家重公の頻尿の悩みや政治の清廉さについて静かに示した知恵と心根を思い出した。

「お花殿。あなたの花への真摯な心と、人の命を尊ぶ心は、必ずや家重公の心を打つだろう」

忠光は、献上の儀を取り計らうことを約束した。そして、献上品を「越後の雪解けの清らかさを映した、稀なる名花」として、将軍家重公へと届けた。

家重公は、献上された雪見椿の潔い白さと、雪見椿の繊細な花弁を、静かに見つめた。その簡素ながらも芯のある美しさは、彼の孤独な魂に深く響いた。

「この花は、逆境に耐え、清く咲いた花である」家重公は、そう呟いた。

そして、この二つの花が、藩の掟を越えて、人の命と希望を守るために献上されたことを知る。

家重公は、忠光に命じた。

「この雪見椿と雪割草は、御城の御用品とする。そして、この花を育てた者を、植木御用として召し抱える手立てをせよ」

家重公の叡慮により、雪見の二花は、藩の追及の手から完全に守られた。これにより、正之助は公儀に仕える者となり、越後藩は、御用品を追及する術を失った。

お花は、正之助の命と、彼の父の遺言を守り抜いた。そして、二人の植木仕事を通じた愛は、藩の厳しい掟を超えて、静かな安寧を得たのであった。

貢ぎ物の行方、花に託す志

宝暦四年、江戸は園芸文化の最盛期を迎えていた。二代目「植木屋お咲」は、正之助が持ち込んだ越後の種から生まれた稀少な花々のおかげで、これまでにない大繁盛を極めていた。

時の流れと共に、大名や豪商、そしてお役人たちの間では、徳川家重公やその側用人大岡忠光に価値ある品々を貢ぎ物として献上することが、出世の道を拓く慣習となっていた。

しかし、家重公は清廉な政治を志し、忠光も主君の意を汲み、一切の賄賂を受け取らない。

「忠光様。また、南蛮渡りの羅紗が届いておりますが」忠光の近習が、困惑した顔で進言した。

「そのまま送り返せ。主上は、清き心を尊ばれる。我々も、それに従うまでだ」忠光は、きっぱりと言い放った。

行き場を失った貢ぎ物は、やがて一人の男のもとに集中し始めた。それが、後の老中となる田沼意次であった。

意次は、喜んで献上を受け入れた。彼の屋敷には、連日、出世を願う人々が列をなした。

ある日の夕刻、意次は近習を呼び寄せた。

「近頃、献上品が多すぎて、屋敷の中が蔵のようになっておる」意次は、苦笑いを浮かべた。

「はい。特に金銀はともかく、鰹節や砂糖などは、腐る前に捌かねばなりません」

「うむ。それらは、信頼できる商人に売り払うか、横流しせよ。その底にある金銀は、有効に使うゆえ」

意次は、実利主義者であった。しかし、一つだけ、困った品々があった。それは植木、特に花木であった。

「花木はどうだ。屋敷に並べすぎても、管理に手が回らぬ。だが、腐らせるのも気が引ける」

「花木は、生きておりますゆえ、処分も難しゅうございます。大名家から献上された珍しい花も多く、捨てるに捨てられません」

意次は、しばし考えた後、一人の人物を思いついた。

「よし。植木屋お咲の正之助を呼べ。彼ならば、花を枯らすことなく、うまく捌けるだろう」

翌日、正之助が田沼屋敷を訪れた。意次は、堆く積まれた植木の山を指差した。

「正之助。見ての通りだ。これらは、皆、主上や忠光様の袖の下にならなかった哀れな花木だ。正之助、植木屋お咲で引き取り、再生させ、うまく処分してほしい」

正之助は、貢ぎ物として扱われる花々に、憤りを感じた。

「意次様。これらの花は、人の欲望のために利用されたものだ。それを、処分とは」

「処分とは言ったが、枯らせとは言っておらぬ。お前の才で、再び世に送り出してくれ。その費用は、私が持つ」意次は、どこか正之助の技術を見込んでいた。

正之助は、花園に戻ると、すぐにこの話をお花に伝えた。

「お花殿。田沼様は、あの貢ぎ物の花々を、全て我々に引き取って、処分するようにと」正之助は、怒りを抑えきれない様子であった。

「貢ぎ物だと。あの美しい花々が、人の欲望の残り滓だというのか」お花は、強い憤りを覚えた。

「はい。雪見椿や雪割草のように、命をかけて育てられた花もある。私は、そのような扱いに耐えられぬ」

しかし、お花はすぐに冷静になった。

「だが、正之助さん。花に罪はない。怒りに任せて、花を枯らすことだけはしたくない」

「では、どうするのですか」

お花は、一つの決断を下した。

「私たちは、この貢ぎ物の花々を、生まれ変わらせる。そして、その花々を、人の命を救うために使うのだ」

お花と正之助は、田沼屋敷から運び込まれた夥しい数の花木の再生に取り掛かった。

「この蘭は、根を詰めすぎている。自由な土を与えれば、必ず本来の美しさを取り戻す」正之助は、繊細な手つきで、鉢から蘭を丁寧に引き剥がした。

「この紅梅は、日当たりが足りなかったのでしょう。駒込の清らかな水と、暖かな日差しを与えましょう」お花は、愛情を込めて、木々に水を与えた。

二人の技術と愛情により、貢ぎ物として価値を失っていた花々は、まるで生まれ変わったかのように、生き生きと蘇った。

数月後、お花は、再生した花々を、江戸の大きな花市に出品した。

「お花殿。この見事な牡丹は、一体どこで」植木屋仲間が、驚いて尋ねた。

「これは、世間の日陰にいた花です。しかし、命の輝きを取り戻しました」お花は、笑って答えた。

花市は大盛況であった。人々は、蘇った花々の生命力に魅了され、次々と買い求めた。

その売り上げ金は、藩の掟を越えて命を救ったお花の志に基づき、貧しい人々のための医療費として、小石川養生所へ送られた。

「これで、多くの病人を救うことができる。この花々は、貢ぎ物ではなく、人の命を救う薬となった」お花は、満足げに語った。

正之助は、お花の深い慈悲の心と、政治的な清廉さを貫く姿に、改めて愛と尊敬の念を深めた。花を愛する二人の静かな志が、こうして江戸の世に大きな光を投げかけていたのだ。

小石川養生所に送られた義援金は、すぐに幕府の中枢へと報告された。その資金源が、田沼意次からの花木代であると知れ渡るのに時間はかからなかった。

報告を受けた将軍家重公は、深く喜んだ。側用人大岡忠光が、その様子を伝える。

「主上は、花木が人の命を救うことになったと、大変お喜びだ。『この花は、清き心を持っていた証拠である』と仰せられた」

忠光は、意次の屋敷を訪れ、家重公の言葉を伝えた。

「意次殿。主上は、あなたが贈った花木代が、小石川養生所で役立っていることを、深く讃えられている」

意次は、満足げに鼻の下を撫でた。

「忠光様。私も、あの花々が朽ちることなく、世の役に立ったことに安堵している」

さらに、大御所である徳川吉宗公も、この件を聞き、意次を高く評価した。

「忠光。あの田沼という男は、なかなか抜け目のない奴だ。しかし、その抜け目が、結果として民の益になった」吉宗公は、忠光に語った。

「清濁併せ呑む、器がある。銭の動きにも明るい。意次を側用人に取り立てよ」

こうして、田沼意次は将軍家重公の側用人という要職に就くこととなった。

側用人に取り立てられた夜、意次は酒を飲みながら、ニヤリと笑った。

「花木代が、まさかここまで大きな実を結ぶとは。まったく、世の中とは皮肉なものだ」

意次は、盃を傾け、自問自答を始めた。

「皆が私に貢ぎ物を持ってくる。彼らは出世が目当てだ。だが、私はその貢ぎ物を、ただ受け取っただけではない」

彼は、静かに呟いた。

「金銀は、私が有効に使い道を見つける。そして、あの花木は、植木屋お咲のおかげで、医療費に化けた。一石二鳥ではないか」

意次は、座り直し、己の行いを正当化し始めた。

「忠光や家重公は、清廉潔白を尊ぶ。それは尊い心だ。しかし、それでは銭は動かぬ。世の中は銭で回っているのだ」

彼は、さらに深く確信する。

「この世は、建前と本音で成り立っている。人々は私に賄賂という本音を持ち込む。私は、それを善行という建前に変えてやっただけだ」

「賄賂も、使い方次第では悪ではない。いや、むしろ世を動かす力になる」意次は、そう結論付けた。

彼は、自分のしたたかな才覚が、将軍にも認められたことを確信した。

「私は、清濁を知る。銭を知る。そして、人の欲望を知る。これこそが、この世を治める真の才だ」

意次は、酒を飲み干し、高笑いした。

「賄賂とは、世の潤滑油だ。うまく使えば、善となる。この田沼意次の世は、いよいよ始まったのだ」

田沼意次が将軍家重公の側用人に昇進した後、彼の実利主義は一層勢いを増した。意次は、お花の「植木屋お咲」が、貢ぎ物の花木を小石川養生所の資金に変えた手腕を高く評価し、その再生システムを幕府の公的な事業として利用することを考えた。

ある日、意次は再びお花と正之助を屋敷に招いた。

「植木屋お咲殿。以前の花木の再生、見事であった。その結果、養生所に多大な銭が回った。これは公儀の益である」意次は、穏やかな口調で語りかけた。

「恐縮にございます。花が朽ちることを、ただ忍びなかっただけだ」お花は、冷静に答えた。

「そこで、新たな事業を命ずる。あなたの植木再生の技と、正之助殿の稀少な種の知識を、公儀の御用として本格的に活用したい」

意次は、広げた地図を指差した。

「今後は、幕府への献上品のうち、植木に関するものは全て、植木屋お咲が一手に引き受ける。そして、再生した花木は、公儀の名をもって市場に流す。これをもって、貧しい人々への施しを、継続的な事業とするのだ」

この提案は、施しを続けるという点でお花の志と合致していた。しかし、意次は、すぐに真の要求を付け加えた。

「その代わり、お花殿には、ある特定の薬草の栽培を、独占的に担っていただきたい」

「独占」お花は、眉をひそめた。

「そうだ。特に、越後地方の稀少な薬草、あるいは朝鮮人参のような利益率が高い品だ。これらの栽培技術を、公儀の管理の下に置き、植木屋お咲が独占供給する。その利益の一部は、もちろん養生所へ回す」

「ですが、独占となれば、他の植木屋仲間の生業を奪うことになりかねません」お花は、仲間への義理から強く反対した。

「それは、小さな義理だ。公儀の益、民の命という大きな義のためだ。皆が細々と稼ぐよりも、あなたが一手に富を集め、それを公に還元する方が、よほど効率的ではないか」意次は、実利を説いた。

正之助は、お花の手をそっと握った。

「お花殿。この話に乗らねば、養生所への銭の流れが止まるだろう」

お花は、人の命と植木屋仲間の不満の間で、激しく葛藤した。

「分かりました。その依頼、お受けいたします。ですが、薬草図鑑に記された通り、命の助けとなる花木の技術は、決して私腹を肥やすためだけに用いてはならない」お花は、釘を刺した。

意次の後押しを得た「植木屋お咲」は、瞬く間に公儀御用の植木屋として大繁盛した。お花と正之助は、意次の指示通り、独占的な薬草栽培を始めた。

しかし、その成功は、意図せぬ弊害を生み出した。

江戸の花市で、植木屋仲間の甚兵衛が、別の仲間に不満を漏らしていた。

「お咲の店ばかりが、公儀の仕事を独り占めしている。我々の蘭の鉢は、公儀の御用品に勝てぬと、見向きもされなくなった」

「薬草の価格も、お咲の独占になってから、高騰し始めている。おかげで、貧しい者たちが、命を助ける薬草さえ、手にできなくなりつつある」

この不満の声は、お花と正之助の耳にも届き始めた。

ある夕方、正之助は作業を終え、お花に語った。

「お花殿。薬草の独占栽培は、確かに養生所へ多くの銭を運んだ。しかし、その銭は、薬草を買えなくなった民の苦しみの上に成り立っているのではないだろうか」

「私も、そのことを案じている。田沼様のやり方は、確かに世を動かす力はある。だが、その裏に、必ず誰かの不満や苦しみを生む」お花は、顔を曇らせた。

「将軍家重公の清廉な心と、田沼様の実利的な策。どちらが、真に江戸の民を救う道なのでしょうか」正之助は、お花に問いかけた。

お花は、目の前の雪見椿を見つめた。雪の中で清く咲く花の姿は、利潤と慈悲の狭間で揺れる彼女の苦悩を映していた。

この後、お花は、公儀御用の地位と、植木屋仲間への義理、そして民の苦しみの板挟みとなり、ある決断を迫られます。

ある冬の夜、家重公の奥御殿では、深い静寂の中に酒の匂いが漂っていた。忠光は、献上された雪見椿の鉢を抱えて、主君の部屋を訪れた。

部屋の隅で、家重公は酒を呷っていた。その目には、諦念と深い苦痛が滲んでいる。

「主上、お寒うございます。これは、植木屋お咲の献上品にございます」忠光は、静かに声をかけた。

家重公は、盃を置いたが、言葉を発しない。彼の口から出る音は、喉の奥で詰まり、忠光にしか判別できない不明瞭な響きとなる。

「皆…わら…う。わ…ら…うのだ」

忠光は、その響きを「皆、私を笑う」と理解した。

「そのようなことはございません。主上の叡智を、誰もが知っております」

「嘘だ。耳障りだと言っている。わらわの言葉は、音にならぬ」

家重公は、自分の言語の不自由さが、人々に軽蔑されていると深く信じていた。その絶望感が、彼を酒へと駆り立てる。

忠光は、家重公の隣に、雪見椿の鉢を置いた。雪の中にあって白く清く咲くその姿は、家重公が理想とする清廉さを映している。

「主上。この花は、お咲が、『主上の清い心にこそ、この花はふさわしい』と申して、献上したものでございます」

「清…い。清いだと」家重公は、自嘲気味に笑った。

「わらわは…毎日、苦しみに耐えている。小便の煩わしさ。言葉にならぬ煩悶。清いなど…ありえぬ」

頻尿という身体的な苦痛も、家重公の心を休ませることはなかった。酒は、その現実からの一時の逃避であった。

忠光は、家重公の身体的・精神的な苦痛を誰よりも理解していた。だからこそ、主君が酒に逃避しても、政務を停滞させてはならないと、強く決意していた。

「主上。どうぞ、お心安らかになさってください。政務は、この忠光が、主上のご意向の通り、滞りなく進めております」

「や…れ。そなた…の…好…き…に」家重公は、もはや政務への意欲を失っていた。

「主上の清廉を重んじる大御心を、私が決して曲げることはありません」

忠光は、家重公が以前示した勘定吟味役の強化という意志を、将軍の意思として徹底的に実行した。その清廉潔白な政治が、結果として幕府に安定をもたらした。

この酒乱の将軍を支える中で、忠光は純粋な心のみを信じ、政敵を排除し続けた。その忠光の清すぎる政治に対し、現実的な実利を求める田沼意次が、今後どのように対立し、台頭していくのか。それは、この悲劇の将軍の影から生まれることになる。

家重公が酒に溺れ、政務を忠光に委ねる中、田沼意次は、将軍の孤独な心につけ込むかのように、その裏の望みを巧みに満たし始めた。

忠光が清廉潔白をもって政務を厳格に進める一方で、意次は将軍の個人的な出費に目をつけた。家重公の酒と、時折催される秘密の宴の費用は、かなりの額に上っていた。

意次は、忠光に知られることのないよう、将軍の出費を賄う独自の経路を作り上げた。

「意次殿。また、主上の御用金が尽きました。忠光様には、とても相談できませぬ」近習が、意次のもとに駆け込んできた。

「構わぬ。公儀の金に手を出すな。私が何とかする」意次は、涼しい顔で答えた。

意次は、献上品として受け取った金銀の中から、巧妙に銭を捻出した。彼は、この裏の出費こそが、将軍の真の信任を得るための投資だと考えていた。

「この銭は、将軍の御心を安んじるための費用だ。公儀の銭を穢すわけにはいかぬ」意次は、己の行いをそう正当化した。

家重公が酒に溺れるのは、孤独と退屈から逃れるためであった。意次は、この退屈を紛らわせるための遊びも、密かに工面した。

ある日、意次は家重公に献上する品について、忠光の目を避け、直接、近習に尋ねた。

「主上は、近頃、手慰みに何か興じておられるか」

「は。将棋と、生け花を楽しまれています。しかし、遊びとなると、常に同じでは、すぐに飽きてしまわれる」

意次は、すぐに手を打った。彼は、江戸中の珍しい遊具や、新たな賭け事を研究させ、将軍の御殿に秘密の楽しみを提供した。

この配慮は、家重公の心を掴んだ。

「忠光は…清い。だが、わらわの苦しみを…忘れさせることはできぬ」家重公は、酒を呷りながら呟いた。

「だが、意次…意次は…わらわの望みを、言葉にせずとも知っている」

家重公にとって、意次は、理解されない孤独を、銭と遊びという現実的な方法で癒してくれる、唯一の救いとなったのだ。

忠光は、将軍の酒乱を深く憂いていた。

「意次殿。主上の御用金が、近頃、出どころの知れぬ銭で賄われていると聞く。将軍の清廉を汚すことになりかねぬ。慎むべきだ」忠光は、意次に釘を刺した。

意次は、全く動じない。

「忠光様。私も、公儀の銭には一切手を付けておりませぬ。私的な銭で、将軍の御心労を和らげているに過ぎない」

「酒と遊びが、将軍の御心労を和らげると、本気で思っておられるのか」

「清廉だけでは、人は生きられませぬ。息抜きも必要だ。忠光様の厳しすぎる政では、将軍の御心も、民の心も、息が詰まるでしょう」

意次は、そう言って忠光の清廉な政治を、暗に非難した。

忠光は、意次の実利的な才覚が、将軍の個人的な信任を得ている現実を、歯噛みしながら受け入れるしかなかった。家重公は、政の理想は忠光に、孤独の現実は意次に、それぞれ託したのだ。

この結果、田沼意次に対する家重公の信頼は、不動のものとなり、後の老中への登用へと繋がっていくのである。

夢の終わり:田沼意次と子の凶事

栄華の頂点と世間の眼(天明六年頃)

田沼意次が老中として権勢を握った天明年間(1781年頃)は、彼の政策により商業が奨励され、江戸は空前の好景気に沸いていた。意次の屋敷には、連日、賄賂の品々を抱えた豪商や、昇進を望む武士が列をなした。

意次は、将軍家治公の絶大な信任のもと、商業重視という新時代を築き上げていた。

意次の嫡男、田沼意知(たぬま おきとも)は、その父の権勢を背景に、若くして老中首座に次ぐ側用人(そばようにん)という要職に就いていた。意知は、その地位にふさわしい傲慢さと、父の政策を強引に推し進める強気を兼ね備えていた。

世間は、意次親子を指差し、陰で囁いた。

「田沼の殿様は、金の力で、世を思うがままにしている」

「特に若殿(意知)は、鼻持ちならぬ高慢ぶりだ。まるで、この世のすべてが、己のものだとでも思っているようだ」

意知の振る舞いが、多くの武士たちの妬みと反感を買っていることを、老いた意次は知っていた。しかし、意次は息子の才覚を信じ、その強引さもまた、改革を推し進めるには必要だと目を瞑っていた。

殿中での凶事(天明四年)

天明四年三月。江戸城の殿中(でんちゅう)、すなわち将軍が政務を執る空間は、武士にとって命懸けの場所である。この日、老中・田沼意知は、登城中に廊下で、**佐野善左衛門(さの ぜんざえもん)**という旗本とすれ違った。

この佐野善左衛門は、日頃から意知の傲慢な振る舞いに怒りを覚えていた。佐野は、禄も少なく、昇進の道も閉ざされ、田沼家が支配する世に絶望していた一介の武士であった。

佐野は、意知を見かけるや、脇差を抜き放ち、声を荒げた。

「田沼意知!貴様の私欲によって、武士の道は踏みにじられた!ここで果てよ!」

意知は、突然の凶行に驚き、応戦する間もなく、佐野の刃によって斬りつけられた。意知は、その場で倒れ、そのまま命を落とした。将軍の最も近くに仕える老中の嫡男が、城内で、私的な恨みによって斬殺されるという、前代未聞の凶事であった。

権勢の崩壊と失脚の理由

事件の報は、老中意次に届き、彼は大きな衝撃を受けた。

「なんということだ。城内で、意知が…」

殿中での抜刀は即死罪です。しかし、佐野は、このまま生きながらえても、田沼の世では武士としての名誉も生活も取り戻せないと悟っていました。**「死をもって大義を示す」**ことが、彼に残された、武士としての最後の花道だったのです。

事件後、佐野善左衛門はすぐに捕らえられたが、世間の反応は、意次の想像とは全く異なるものであった。

町人たちは、田沼政治の金の世を憎み、佐野を**「世直し大明神」と称え、喝采を送った。多くの武士たちもまた、日頃の意知の横暴と、田沼家の賄賂政治**への鬱憤が晴れたと、陰ながら佐野を支持した。

田沼意次の権勢は、この凶事によって、一気に支柱を失った。

【失脚の経緯と理由】

世論の逆転: 意知の死は、田沼政治に対する世間の怒りが表面化する導火線となった。武士や庶民の不満は頂点に達していた。

後ろ盾の喪失: 意知を寵愛し、田沼政治の最大の擁護者であった将軍徳川家治公が、事件から数年後の天明六年(1786年)に病に倒れ、まもなく亡くなった。

権力の空白: 新しい将軍、徳川家斉公が幼かったため、一橋治済(ひとつばし はるさだ)や、松平定信(まつだいら さだのぶ)といった反田沼派が一気に勢力を回復させた。彼らは、田沼の賄賂政治こそが世の乱れの根源だと主張した。

意次は、家治公の死後、権力の座を維持しようと抗ったが、周囲はすでに敵ばかりであった。新しい指導者たちは、意次のすべての役職を解き、隠居を命じた。

意次は、息子の死と将軍の死という、二つの運命の綾によって、急速に権勢を失い、築き上げた夢のすべてを失うことになったのである。彼の失脚後、松平定信が主導する**「寛政の改革」が始まり、世の空気は再び、商業抑制と質素倹約**へと大きく転換していくのであった。

宝暦四年の世、植木屋お咲の二代目お花と正之助が夫婦となってから、すでに七年の歳月が流れていた。今日は、無事に生まれた五人目の子どもの初七日。親戚一同が集まり、命名の儀を賑やかに執り行う、貴重な一日である。

「さて、五人目の名だが、春に生まれた子だ。春吉でいいのではないか」

夫の正之助は、飾らない提案をした。彼は、花木の世話には繊細だが、命名にはこだわりのない性質だ。

「それでは、今までと同じではないか」

母親のお花は、口を尖らせ、不満をあらわにした。この時ばかりは、公儀御用の植木屋お咲の主ではなく、ただの母親の顔である。

「工夫がないよ。一番上は、冬に生まれたから冬吉。二番目は、夏だったからお夏。三番目は秋でお秋、四番目は雪が降っていたからお雪。季節がそのままではないか」

「いやいや、それが良いのだよ、お花」

伯父の陽一郎が、面白そうに口を挟んだ。

「名前を聞けば、いつ生まれたか一目瞭然だ。季節の移ろいがわかって、まことに良いではないか」

「そうですよ、お花姉さん。冬吉兄さんは、雪が降ると強くなる子だと、すぐわかる」と、叔母になったお咲の弟子たちが、笑いながら加勢した。

「母上はどうお思いになります」お花は、母さつきに意見を求めた。

「そうさね。生まれてすぐに季節がわかる名というのは、素直で良いではないか。だが、五人目くらいは、少しひねりが欲しいところだね」さつきは、微笑みながら答えた。

賑やかな家族の楽しい会話が、絶え間なく続いた。

親戚一同は、お花の驚くほどの体力に、改めて感嘆していた。

「お花様は、本当にお丈夫だ」

「みごもってからも、植木屋の仕事は一日も休まない。生まれるその日まで、庭を動き回っておられる」

「そろそろ産まれそう、とお花様が声を上げられてから、お産婆のお蔦さんが駆けつけても間に合わないくらい、するりと生まれてしまうのだ」

誰もが、お花の常人離れした安産に、目を見張るばかりであった。しかも、お花は、翌日にはもう、庭の草花の手入れを始めている。

「奇跡だ。お花はすごい」と、皆が口々に讃えた。

さつきは、孫を抱きながら、その理由を解説する。

「奇跡ではないよ。お花は、毎日太陽に当たり、土を踏んで動き回っている。だから、お腹の子も、中で充分に動き、太りすぎないからかもしれない。体が素直なのだ」

さつきは、植木屋の仕事が、お花を健康な母にしたのだと説明した。

「では、五人目も春吉で決まりでございますね」陽一郎が、一同に確認した。

「ええ、春吉。よろしく頼みますよ、この子も」お花は、観念したように微笑んだ。

「神様の預かりものを五人も抱えて、お花は本当に奮闘しているね」

さつきは、眠る赤子の顔を見ながら、しみじみと言った。

「この子どもの顔は、まるで椿の花びらのようだね。命の潔さがある」

「いや、さつき、それはちと褒めすぎだ」陽一郎は笑いながら付け加えた。

「ジャガタラ芋のようにも見える。素朴で丸々として、なんとも愛らしい」

笑い声が再び起こり、子どもが生まれ、無事に成長してほしいと誰もが願う儀式は、和やかな笑いで満ち溢れた。

そうして、名前が春吉に決まり、そろそろお開きという時になって、お花の弟の竹松が息を切らせて飛び込んできた。

「遅くなりました。皆様、お許しを」

竹松は、息を整える間もなく、言い訳を始めた。

「でも、姉君はこれで五回目。ちと多すぎます。公儀のご用もそうそう抜け出せません」

竹松は、印旛沼の開墾に関する公儀の準備で、多忙を極めていたのだ。

「まぁ、落ち着きなさいませ」母、さつきが、優しくたしなめた。

「竹松。お前は大儀であった。印旛沼のことは、後でゆっくり聞かせよ」

父の大久保市之丞は、優しい笑顔で竹松に言った。

「まず腹ごしらえをしてから、ゆっくりしなさい。祝いの席は、急ぐものではないのだ」

賑やかな家族の情景は、公儀の政務の多忙さをも包み込み、和やかさに満ちていた。

田沼意次が将軍側用人として勢力を増すにつれて、その実利主義は単なる財政再建に留まらぬ、権力の中枢を握るための綿密な策へと発展していた。

意次は、「植木屋お咲」を利用し、献上品の花木を再生させて市場に流し、その利益を小石川養生所の義援金とするという表向きの善行を確立した。

「植木屋お咲は、誠に有用だ。公儀の名で、銭を浄化してくれる」意次はそう呟き、満足していた。

この仕組みにより、献上品は賄賂の色彩を薄め、公の益という美名を得た。しかし、その裏で動く巨額の金銀は、意次の私的な権力拡大のために使われていたのである。

意次の真の作戦は、幕府の中枢を己の姻戚関係で固めることにあった。賄賂で得た莫大な財を使い、彼は次々と重要な役人の家と縁組みを進めたのだ。

「北奉行職の和泉の守には、我が娘を嫁がせる。そして、勘定奉行の神尾様からは、息子に嫁を迎える」意次は、縁組の図を広げ、静かに指示を出した。

「これにより、公儀の機密も、銭の動きも、すべて我が田沼家の手の内に入る」

彼の屋敷に出入りする、賄賂を持った人々は、意次の指示に従い、自分の娘や息子を、意次の縁組の相手へと次々と差し出した。金銭だけでなく、血縁という強固な絆によって、彼は幕府の実権を掌握していった。

忠光が家重公の理想に基づき、清廉な政治で綱紀の引き締めを図るその裏で、意次は水面下で血の網を張り巡らせていたのである。

数年後、意次の策は実を結んだ。老中格となった彼は、周囲を見渡した。要職に就く役人の多くが、田沼家の血縁か、縁戚の縁戚となっていた。

「これで、誰にも文句は言わせぬ。将軍の信頼は揺るがず、役人の心は我が手の中にある」

意次は、武力ではなく経済と縁組という柔らかな力で、幕府の実権を完全に掌握したことを確信した。彼は、銭と血縁こそが、世を動かす真の力であると信じていたのだ。

二代目「植木屋お咲」のお花と正之助が夫婦となって七年。田沼意次の側用人としての台頭は、公儀の御用という光をお花にもたらしたが、その裏では、庶民の不満という影が静かに広がり始めていた。お花が引き受けた薬草の独占栽培は、ついに最も親しい人々との間に深い軋轢を生み出したのである。

ある日の午後、植木屋お咲の花園の裏手で、二番目の娘お夏と三番目の娘お秋が、顔を赤くして泣きながら帰ってきた。

「母様。隣の源太がいじめる」お夏が、涙で言葉を詰まらせた。

「そうよ。汚い言葉で罵るのだ」お秋も、袖で涙を拭いながら訴えた。

お花は、二人の頭を撫でた。

「何と言って、お前たちをいじめたのか。話してみなさい」

お秋は、唇を噛みしめ、絞り出すように言った。

「『お前の弟、春吉は、お咲様が独り占めして高くなった薬草のせいで、死んだ子どもの代わりだ』と……」

お夏も涙ながらに続けた。

「『植木屋お咲は、銭儲けのために、病人を増やしている』とも言った」

お花の顔から、さっと血の気が引いた。春吉が、高値の薬草のせいで命を落とした子どもの代わりだという噂は、庶民の深い苦しみと不満が形を変えたものである。

正之助が、駆け寄ってきた。

「お夏、お秋、気にすることはない。源太の父も、薬草の値段が上がって困っているのだ。八つ当たりだ」

「父様」お夏は、正之助の破れた着物の袖を掴んだ。「どうしてお咲様だけ、あんなに儲けているのだと、皆が言うの」

お花は、子どもたちの無邪気な問いが、現実の厳しさを映していることに、胸を締め付けられた。

「お前たちの母は、人の命を救うために、この仕事を続けている。だが、世の銭の流れは、時として人の心を荒ませるものだ」お花は、苦渋に満ちた声で、そう答えるしかなかった。

その数日後、植木屋仲間の不満は、目に見える形となって現れた。

正之助が命を懸けて守り抜いた、越後ゆかりの雪見椿の古木が、何者かによって深く傷つけられていたのである。

朝、庭の手入れに出て、椿の鉢を見た正之助は、絶句した。

「お花殿。これを見ろ」正之助の声は、震えていた。

古木の幹には、鋭い刃物のようなもので、深く長い傷がいくつも刻まれていた。傷口からは、樹液がにじみ出ている。

「まさか……」お花は、その傷跡に触れた。

「これは、単なる悪戯ではない。憎しみだ。誰かが、この椿の命を、私たちへの抗議として奪おうとしたのだ」正之助の顔は、怒りと悲しみで歪んでいた。

この雪見椿は、公儀の御用品として、彼らの命と地位を守ってくれている象徴である。それを傷つける行為は、植木屋お咲への裏切りであると同時に、田沼意次の権威への反抗でもあった。

「誰の仕業だろう」お花は、周囲を見渡した。

「植木屋仲間の誰かだ。薬草の独占と、公儀の御用を独り占めしていることへの、嫉妬と憤りだ。彼らは、言葉ではなく、花で訴えてきたのだ」正之助は、花を傷つけられた痛みに、深く打ちのめされた。

お花は、このままでは、公儀の仕事を続ける限り、仲間との絆も、家族の安寧も、全て失ってしまうと悟った。

その晩、公儀の仕事で多忙な弟の竹松が、遅れてお咲の家を訪れた。彼は、印旛沼の開墾事業の準備に心血を注いでいた。

「姉上、また植木屋仲間のつまらない不満ですか。こんなもの、気にすることはない」

竹松は、雪見椿の傷跡を一瞥し、軽くあしらった。

「竹松。これはつまらない不満ではない。これは、飢えた人々の悲鳴だ。薬草の高値で、病人が薬を買えないのだ」お花は、厳しく言い放った。

「姉上は、いつも小さな不満に囚われる。我々が今やっているのは、国家の大事業だ」竹松は、声を荒げた。

「田沼様が進めている印旛沼開墾が成功すれば、莫大な米が取れる。米が取れれば、皆が豊かになる。飢えも病も、根元から解決する。そのための、一時的な痛みなのだ」

「小さな不満に目を向けてはならぬ。公儀の益、未来の益を考えよ」

竹松の言葉は、田沼意次の実利主義そのものであった。彼の言葉は、大局を見ているようで、その実、足元の苦しみを完全に無視していた。

お花は、弟の理想と熱意を理解しつつも、拭い去れない不安を覚えていた。

「竹松。あなたは、印旛沼の地盤について、詳しく調べたのか」お花は、ふと、幼い頃に聞いた祖父の言葉を思い出した。

「何を言うのです。幕府の優秀な役人と、最新の技術で調べ尽くしている」竹松は、姉の問いを迷信のように笑い飛ばした。

「かつて、祖父が言っていた。印旛沼の河口、特に海岸線に近い地盤は、海藻や泥が長年蓄積した、非常に軟弱な地盤だと。大規模な開墾や埋め立てには、到底耐えられぬと」

お花が思い出したのは、初代お咲の父、つまり自分の祖父梅吉が、昔、この辺りの植木を調べた時に話した土地の性質に関する言葉であった。

「土は、嘘をつかない。祖父は、そう言っていた。竹松、あなたの進める印旛沼の開墾は、もしかすると、取り返しのつかない失敗を招くのではないか」

お花は、人の命だけでなく、国家の大事業にも、危機が迫っていることを悟り、深く危惧するのだった。竹松の自信に満ちた顔と、雪見椿の傷跡、そして祖父の古い言葉が、お花の心の中で、不吉な影を落としていた。

再生への決意と愛の力

お花の家庭と、公儀の事業が、植木屋仲間の裏切りと印旛沼の危機という二重の困難に直面した今、傷つけられた雪見椿の再生は、物語の転換点となります。これは、正之助の命とお花の名誉、そして二人の愛を守るための、静かなる戦いです。

雪見椿が傷つけられた翌朝、お花と正之助は、誰もいない庭で、その古木と向き合っていた。

「正之助さん。この傷は、深い。回復には、並々ならぬ手当てが必要だ」お花は、鋭利な刃物で刻まれた傷口を、悲痛な面持ちで見つめた。

「ああ。これほど深く幹を抉られては、命に関わる。誰が、こんな残酷な真似を」正之助は、怒りを押し殺しながら、椿の幹にそっと手を触れた。

「これは、私たちへの警告だ。独占をやめよ、公儀の御用から手を引け、という」お花は、敵意の深さを冷静に分析した。

正之助は、きっぱりと言い放った。

「しかし、引きはしない。この椿は、公儀の御用品だ。そして、何より父の故郷の命なのだ。この花を枯らせば、私の植木御用としての務め、そしてお花殿への面目が立たぬ」

「私も同じ気持ちだ。この花を枯らしては、私たちの志が、闇の心に打ち負かされたことになる」

お花は、強く決意した。

「私たちは、この椿を生き返らせる。人の心が傷つけても、花木の生命力と、私たちの愛で、必ず再生させてみせる」

二人は、傷ついた雪見椿の再生作業に取り掛かった。この再生は、まさに植木屋お咲の真髄を示す秘術である。

「この傷口を、まず清めねばならない。不純なものが入り込めば、腐朽が進む」正之助は、丁寧に傷口を削り取った。

「その通りだ。そして、傷口を覆うものが必要だ。初代お咲が伝えた、油粕と粘土を練り合わせた秘伝の薬を使う。これは、椿自身の力で、傷を治癒させるための土台となる」お花は、土を混ぜながら指示を出した。

「乾燥が大敵だ。幹全体を、藁で覆い、湿気を保たねばならない」正之助は、傷口に塗布された薬が乾かぬよう、細心の注意を払った。

作業中、お花は、正之助に話しかけた。

「あなたとこうして土と向き合う時が、一番心が安らぐ。公儀の政も、印旛沼の危機も、全てを忘れられる」

「私もだ。雪見椿は、私の命の源だ。そして、あなたは、その命を咲かせる土だ」正之助は、真剣な眼差しでお花を見た。

再生作業が進む中、お花は弟の竹松を呼び出し、土の真実を改めて訴える。

「竹松。この椿が傷つけられたのは、田沼様のやり方への悲しい抗議だ。印旛沼の件も、これと同じだ」

「姉上。またその話か。椿の傷と、開墾を一緒にするな。あれは個人的な恨みだ」竹松は、苛立ちを隠せない。

「違う。土は、人の行いを映す鏡だ。この椿の幹に深く刻まれた傷は、印旛沼の底にも、必ず現れる」

お花は、力強く言った。

「印旛沼の海岸線の地盤が、本当に軟弱ならば、いくら公儀の力で押し進めても、いつか必ず水に還る。それは、祖父の言葉ではない。土の真実だ」

竹松は、姉の熱意に圧され、言葉を失った。

「私たちは、植木屋だ。土の声を聞き、命を育てるのが務めだ。その私たちが、土の真実を無視して、銭の論理に従うのか」お花は、強い決意を込めて、弟に問いかけた。

竹松の心には、姉の命がけの訴えと、田沼意次への忠誠心が、激しくぶつかり合っていた。彼は、公儀の益という大義と、土の真実という現実の狭間で、初めて深い迷いを感じたのである。

傷つけられた雪見椿の再生を成し遂げたお花は、その再生の成功を祝し、また、田沼意次の独占により生じた植木屋仲間の不満を和らげるため、駒込の花園で大々的な品評会を兼ねた花の市を開いた。これは、公儀の監視の目をくぐり抜ける、お花の新たな情報網を築く場でもあった。

品評会の主役は、正之助とお花が心血を注いだ雪見椿の古木であった。深い傷跡は、秘伝の薬と藁で丁寧に覆われ、古木は再び力強い生命の輝きを取り戻していた。

植木屋仲間たちが、その再生技術を見て、口々に感嘆の声を上げた。

「信じられぬ。あの深い傷が、これほどまでに回復するとは」

「もはや、公儀の御用という力ではない。お咲殿の技は、神の域だ」

仲間たちは、独占への不満を抱きながらも、花を愛する者として、お花と正之助の卓越した技術に、心から畏敬の念を抱いた。雪見椿の再生は、花を傷つけた闇の心に対する、静かなる勝利であった。

品評会の賑わいの裏で、正之助とお花は、人目を避けるように、顔を隠した者たちと密かに接触していた。彼らは、財政難に苦しむ各藩の家臣であった。

一人の武士が、風呂敷に包んだ椿の鉢を、そっと正之助の前に置いた。

「これが、熊本藩が門外不出としてきた紅椿だ。市場に出れば、千両の値がつこう」武士は、周囲を警戒しながら、囁いた。

正之助は、鉢の中の鮮烈な紅色の椿を見て、息を呑んだ。

「見事な花だ。なぜ、このような藩の秘蔵品を」

「田沼様の御用で、藩の財政は火の車だ。賄賂に使えば、公儀の道筋に組み込まれ、藩の面目が立たぬ。だから、公儀の目が届かぬ、植木屋お咲の花市へ、直接売りに来た」武士は、切実な事情を話した。

「そなたの藩の困窮は承知した。銭は、正当な値で渡そう」お花は、人の苦しみが、藩の宝を市場へと流させている現実を、静かに受け止めた。

さらに、久留米藩の家臣が、鮮やかなツツジの鉢を持って、お花に近づいた。

「お花殿。この久留米つつじの珍種を、内密に引き取っていただきたい。これも、藩の借金のためだ」

「承知した。このツツジは、土の性質から見て、筑後の水で育ったものだ。遠路、ご苦労であった」

お花は、鉢を受け取りながら、さりげなく尋ねた。

「ところで、そちらの藩では、印旛沼の開墾について、何か噂を聞いておられるか」

武士は、一瞬警戒したが、雪見椿の再生を成し遂げたお花の人柄を信じ、口を開いた。

「実は、佐賀藩の者が、印旛沼の地盤について、不審な動きをしていると聞いた。彼らは、長年の土木経験から、沼の軟弱な地盤を危ぶんでいるようだ」

この情報は、お花が危惧していた祖父の言葉の正しさを裏付けるものであった。お花は、この命がけで得た情報を、弟の竹松に、いかに理解させるかを考えた。

花市の終わりに、以前、お花に不満を抱いていた植木屋仲間たちが、お花と正之助の元に集まってきた。

「お咲殿。正直に言う。我々は、あなたの独占に腹を立てていた」

「だが、あの雪見椿を見れば、誰にも文句は言えぬ。あなた方ほどの才を持つ者が、公儀の御用を担うのは、天命かもしれぬ」

「我々も、独占ではなく、技術で競うべきだと悟った。椿の再生に、真の植木屋の心を見た」

仲間たちは、嫉妬から敬意へと心を改め、お花の志を理解し始めた。

お花は、深く頭を下げた。

「皆々様。ありがとうございます。私の志は、花を枯らさないこと、人の命を救うこと。これからも、土の真実を、皆と分かち合いたい」

この花市は、お花の愛と技術が、政治の闇と庶民の不満を、静かに乗り越えるための、大きな一歩となったのである。

雪見椿の再生と花市での成功を収めた後、お花は、弟の竹松が深く関わる印旛沼開墾の危険性について、改めて話し合うべきだと決意した。お花と正之助は、土の真実を知る植木屋として、公儀の力を信じる竹松に、自然の偉大さを伝えようとしたのである。

夕刻、雪見椿が植えられた庭で、お花、正之助、そして竹松の三人は、静かに向かい合っていた。椿の再生には、まだ時間がかかるが、その姿は力強い。

「竹松。今日は、印旛沼の開墾について、もう一度話したい」お花は、切り出した。

竹松は、顔を曇らせた。

「姉上。私は公儀の命に従い、未来の益のために働いている。姉上の古い言葉や個人的な不安で、足を引っ張らないでほしい」

正之助は、穏やかな口調で口を開いた。

「竹松殿。姉上は、公儀の仕事そのものを否定しているのではない。土の真実を知らねば、大事業は成らない、と案じているのだ」

「土の真実」竹松は、鼻で笑った。「幕府の測量技術は、姉上たちの植木屋の経験など比べ物にならぬほど進んでいる」

お花は、竹松の傲慢さを諭すように、優しく語り始めた。

「竹松。あなたは、土を人間が支配できるものだと考えているのではないか」

「当たり前だ。人間が知恵を使えば、水も土も、思い通りにできる」竹松は、きっぱりと言い放った。

「違う。土は、人間には決して作れないものだ。そして、水も同じ。それは神様からの授かりものだ」

正之助も、深く頷いた。

「我々植木屋は、日々土を触り、水をやる。だが、花を咲かせるのは、我々の力ではない。土と水の力だ。我々は、ただその力を借りて、手助けをしているに過ぎない」

「当たり前にあると思っては、それは大間違いだ。土も水も、感謝を持って接せねば、すぐに反動がやってくる」お花は、雪見椿の傷に目をやった。

竹松は、反論を続けた。

「それは、花という小さな世界の話だ。印旛沼は、国家の富を生む。人智をもって、自然を従わせるのが、政の務めだ」

お花は、強い眼差しで弟を見つめた。

「花も、土も、沼も、同じ命を宿している。人間が、自分たちが偉いと考えるのは、傲慢だ。花や土の前では、常に謙虚でなければならない」

「そうだ。この雪見椿を見ろ」正之助は、傷ついた幹を指差した。「誰かが、憎しみの心でこの命を傷つけた。しかし、私たちは土の力と、椿自身の生命力を信じて、再生させた」

「自然の力は、偉大だ。人の小さな憎しみをも、包み込んで治癒する力がある」お花は、静かに語った。

「だが、その偉大な力を、もし疎かにしたら、大きな反動が、必ずやってくる。沼の軟弱な地盤を無視して、無理やり水路を繋げば、土は怒り、やがて堤防は崩れるだろう」

竹松は、姉とお花を慕う正之助の真摯な言葉に、ついに言葉を失った。彼は、印旛沼の膨大な資料と、祖父の古い言葉、そして土の真実を訴える姉の顔を、交互に見つめ、深い迷いに陥るのだった。

この対話は、竹松の心に決定的な動揺を生み出しました。この後、竹松が印旛沼の事業に対し、どのような行動を起こすのかが、物語の大きな焦点となります。

雪見椿の再生が成功し、花の市で活気を取り戻した「植木屋お咲」は、再び賑やかさに包まれていた。お花と正之助の娘であるお夏、お秋、お雪の三姉妹は、この花の家で生まれ育った、明るく朗らかな存在である。

雪見椿の傷が癒え始めた頃、お花は、再生祝いとしてささやかな茶会を催した。

長女のお夏(夏生まれ)、次女のお秋(秋生まれ)、そして三女のお雪(雪の日生まれ)は、この日も花園を駆け回り、茶会に集まった植木屋仲間たちを和ませていた。

「お夏。その変化朝顔の模様は、今年一番の珍しい色だ。誰が育てたのだい」植木屋の甚兵衛が、お夏が持つ小さな朝顔の鉢を見て尋ねた。

「これは、父様と母様が、特別に作ったものだよ。でもね、私が毎日話しかけているから、こんなに綺麗に咲いたのだ」お夏は、誇らしげに胸を張った。

今度は、お秋が、手作りの練り菓子を甚兵衛に差し出した。

「おじ様、これ、食べて。菊の形だよ。母様が、**『形も味も、偽りがあってはいけない』**と教えてくれたのだ」

「お秋の菓子は、正直な味がするね。お花殿の教えが、よく生きている」甚兵衛は、笑って頷いた。

三姉妹の中で、特に不思議な力を持つと評判だったのが、三女のお雪である。彼女は、雪が降る日に生まれたせいか、冷たいものや白い花に強い愛着を示した。

茶会の最中、お雪は雪見椿の鉢のそばにちょこんと座り、傷跡を優しく撫でていた。

「雪見椿さん。もう痛くないかい。母様と父様が、一生懸命お薬を塗ってくれたのだよ」お雪は、独り言のように語りかけた。

すると、奇妙なことが起こった。

寒椿の季節はとうに過ぎているにもかかわらず、傷口から少し離れた雪見椿の枝先に、一輪の白い花が、再び開き始めたのだ。その花は、まるで赤子の産声のように、弱々しくも清らかであった。

「ああ、見てくれ。椿がまた咲いた」植木屋仲間の一人が、驚きの声を上げた。

お花は、思わず息を飲んだ。

「季節外れの返り咲きだ。それも、傷が癒え始めたこの時に」

正之助は、お雪を見た。お雪は、ただただ嬉しそうに、その白い花を見つめている。

「お雪。お前が、椿の命を呼んだのか」

お雪は、にこりと笑った。

「私が、**『頑張って』**と言ったのだよ。冬吉兄さんも、お雪も、雪に負けないからね」

この季節外れの椿の返り咲きは、三姉妹の持つ生命力と、花の奇跡の表れだと、皆が噂し始めた。

「お夏は、花の色彩を、お秋は、菓子の形を、そしてお雪は、命の季節を呼ぶ」

陽一郎が、感嘆して言った。

「お花。この子たちは、植木屋お咲の宝だ。奇跡の三姉妹と呼ぶべきだ」

「冬吉と春吉もいるゆえ、五つの季節の子どもたちだね」さつきが、穏やかに笑った。

この朗らかな奇跡は、植木屋仲間の心を一つにし、お花への信頼を確固たるものにした。三姉妹の無邪気な力は、政治の重圧や憎しみの影を、一時的に忘れさせるほどの明るい光を花園にもたらしたのである。

二代目「植木屋お咲」の長男冬吉は、雪の降る日に生まれたせいか、弟妹たちとは違い、土をいじることにはあまり関心を示さなかった。彼の興味は、花を育てる手ではなく、花を写し取る目にあった。

「冬吉。そこを掘って、球根を植えなさい」正之助は、長男に鍬を渡したが、冬吉は上の空であった。

「父上。この雪割草の微妙な紫の色は、どうすれば筆で出せるのだろうか」冬吉は、鍬を置いたまま、紙と筆を広げていた。

お花は、息子の様子を見て、微笑んだ。

「冬吉は、植木屋というより、絵師のようだね」

「ええ。土を触るよりも、花を描くことの方が、百倍も楽しいのだ」冬吉は、きっぱりと言い放った。

彼は、常に花園の片隅で、雪見椿の潔い白さ、変化朝顔の複雑な模様、雪割草の可憐な姿などを、熱心に描き続けていた。

正之助は、最初は戸惑ったが、やがて息子の鋭い観察眼を認めた。

「お花殿。冬吉の絵は、魂が入っている。植木屋の目が描く絵だ」

「ええ。花が最も美しい瞬間を、見逃さない。それは、私たち植木屋にとって、何より大切な才だ」

冬吉の描いた花々は、単なる記録ではなく、生命力に満ちていた。ある時、お花は、冬吉の描いた雪見椿の絵を、扇子に貼ってみることを思いついた。

「冬吉。この絵を、扇子に描いてみないか。きっと、江戸の人々の目を楽しませるだろう」

冬吉は、目を輝かせた。

彼は、さっそく、上質な和紙の上に、椿、菊、ツツジといった季節の花々を、繊細で大胆な筆致で描き上げた。彼の絵は、まるで花が生きているかのように、馥郁たる香を放っているようであった。

冬吉が描いた扇子は、花園に来る裕福な客の目に留まった。

「これは、見事な扇子だ。植木屋お咲の、命を宿した花が、そのまま扇子に閉じ込められているようだ」ある豪商が、感嘆の声を上げた。

「この雪割草の淡い色は、他では見たことがない。描いたのは、誰だ」

「我が家の長男、冬吉にございます」お花は、誇らしげに答えた。

冬吉の扇子は、瞬く間に江戸で評判となった。植木屋お咲が育てる稀少な花と、その生命力を描き出す冬吉の画才が結びつき、飛ぶように売れ始めた。

正之助は、驚きを隠せなかった。

「お花殿。土を耕すよりも、筆を動かす方が、よほど銭になるようだ」

「人の心を動かすものに、価値がつくのだ。冬吉は、花への愛を、別の形で示している」お花は、喜んだ。

冬吉は、扇子の絵で得た銭を、小石川養生所の義援金の一部に充てることを申し出た。

「母上。この銭は、花を愛する心から生まれたものだ。命を救うために、使ってほしい」

お花は、花と絵を通じて、世の役に立とうとする長男の真っ直ぐな心に、深く感動した。冬吉の扇子は、植木屋お咲が、土と筆という二つの道で、江戸の世に影響を与え始めた証となったのである。

「冬吉。その薬草の包みを、竹かごに入れなさい。江戸城の御用に遅れてはならぬ」お花は、朝から忙しく立ち働いていた。

正之助が、丁寧に包まれた薬草の束を受け取る。

「公儀の薬草は、清き心で運ばねばならぬ。主上の病が、少しでも和らぐように」

江戸城への納品を終えると、「植木屋お咲」の庭は、たちまち竹を求める人々で賑わった。

「お咲殿。今年も、立派な竹を用意してくれたな。わが娘の達筆を、天に届けたい」

「ありがとうございます。寺子屋で学んだ文字の誇りを、七夕で示すのが、江戸の習いだ」お花は、次々と竹を売り捌いた。

「冬吉!短冊の用意は済んだか」正之助が声をかける。

「ああ。露を集めて作った清らかな水で、筆を磨いたところだ」冬吉は、自慢げに答えた。

夕餉の後、一家は庭に集まり、短冊を書く儀式を始めた。子どもたちにとっては、寺子屋で学んだ文字を、家族や天に示す晴れの舞台である。

長男冬吉は、静かな集中力をもって筆を走らせた。その文字は、幼いながらも達筆で、その横には、織姫と彦星の優雅な姿が添えられた。

「冬吉。あなたの絵は、本当に生きているようだ。何をお願いしたのだ」お花が尋ねた。

「『この世の花の美しさが、千年続きますように』と書いた。そして、『もっと良い筆が手に入りますように』とも」冬吉は、少し照れくさそうに笑った。

二番目の娘お夏は、滑らかで優雅な文字で、願い事を書き上げた。

「私はね、『誰もが羨む、素敵な嫁御(よめご)さんになりたい』と書いたよ。寺子屋の先生に教わった、一番綺麗な文字で書いたのだ」お夏は、ふっくらとした文字を誇った。

三番目の娘お秋は、願い事を書いた後に、自作の練り菓子を短冊のそばに飾った。

「私は、『江戸一のお菓子屋さんになり、皆を甘い香りで幸せにしたい』と書いた。このお菓子も、願いを込めたものだ」

四番目の娘お雪は、その願いが、一番切実であった。

「私はね、『白い椿』になりたい。雪のように白く、強い椿になって、お父様の大切な花を守りたい」お雪は、純粋な眼差しで、庭の雪見椿を見つめた。

そして、末子の春吉は、小さな手に筆を持ち、精一杯背伸びをして、**「いろはにほへと」**と、覚えたての文字を飾り付けた。

一家は、短冊を結び付けた竹を、夜空に向けて立てた。五つの願いが、夜風に揺られ、家族の賑やかさと清らかな志が、満ち溢れる。

お花は、愛する五人の子どもたちの姿と、彼らを見守る正之助の穏やかな笑顔を見て、深い家族の幸せを感じた。

「正之助さん。この幸せが、どうか、いつまでも続きますように」お花は、そっと囁いた。

「必ず、続く。私たちには、土と、花と、この子たちがいる」正之助は、お花の手を優しく握った。

夜空に、一瞬の光が走り、流れ星が輝いた。

「ああ、流れ星だ!」子どもたちが歓声を上げる。

お花と正之助は、その短い光に、家族の安寧と、子どもたちの願いが叶うことを、強く祈り込めた。

「七夕の願いが、闇夜を照らす光となりますように」

五人の子どもたちも、両親を見上げながら、夜空の星々に、無邪気な願いを込めていた。

長男冬吉の絵の才能は、植木屋お咲の評判と共に、稀代の奇才として知られる平賀源内の耳にも届いていた。意次の殖産興業の命で、薬草の研究を進めていた源内は、冬吉の絵に技術的な可能性を見出したのである。

ある日、源内は薬草の納品に訪れた際、庭で花を描く冬吉の姿を見つけた。

「これは見事だ。この葉脈の精密さは、ただの絵ではない。まるで活きているようだ」源内は、冬吉の描いた雪割草の写生を覗き込み、感嘆した。

お花は、源内に頭を下げた。

「冬吉は、土を触るよりも、筆を持つ方が性に合っているようで」

「才能とは、かくも偏るものだ。お花殿。この冬吉の絵には、新たな技術を教える価値がある」源内は、興奮気味に言った。

源内は、長崎で学んだ南蛮渡りの画術、すなわち油絵の技法を冬吉に教え始めた。

「冬吉。和筆では、この光沢は出せぬ。油を使うのだ。絵の具に油を混ぜることで、色が重なり、光を放つ」

「油を。絵の具に油を混ぜるなど、聞いたことがない」冬吉は、目を丸くした。

源内は、冬吉のために油絵の具を自ら調合した。源内が得意とする鉱物学と本草学の知識が、ここで活かされた。

「筆を洗うのは水ではない、油だ。この深い青は、私が砕いたラピスラズリという石から作った。そして、この緑は、植木屋お咲の庭にある特定の植物の汁を煮詰めて、油で練り上げたものだ」

源内は、鉱物を砕き、植物から色を絞り出す工程を、冬吉に一つ一つ教えた。

「この技法を使えば、真の生命力を、布の上に閉じ込めることができる。色の深み、光沢、そして質感。全てが生きているように見える」

源内自身は、研究と発明に忙しく、絵を描くことはなかったが、才能を見出し、教え導くことにかけては、天下一品であった。

「冬吉。あなたは、植木屋の目を持つ。その目で、南蛮の技を使いこなせ」

源内は、意次の命を受け、薬草に関する博物展を江戸で催した。これは、殖産興業の重要性を庶民に知らしめるための試みである。

冬吉は、この博物展で、唯一の油彩画を展示する機会を与えられた。

「冬吉。展示された薬草を、最も正確に、そして最も美しく描きなさい。それが、あなたの務めだ」源内は、冬吉にそう命じた。

冬吉は、展示された朝鮮人参、毒性のある曼荼羅華、そして越後の稀少な薬草などを、長崎仕込みの油絵の技法で描き上げた。

彼の作品は、周囲を驚愕させた。

「見よ。この朝鮮人参の根の皺。まるで、本物が紙から飛び出しているようだ」

「この曼荼羅華の紫色は、油絵の光沢で、毒々しいほどの美しさを放っている。触れるのをためらうほどだ」

冬吉の描いた絵は、精巧な描写と生命力が融合し、本物そっくりであるだけでなく、植物の持つ魂を捉えていた。

「素晴らしい。この画術こそ、日本が求める新しい技術だ」意次は、冬吉の作品を見て、満足げに頷いた。

冬吉の絵の才能は、源内の南蛮の知恵を得て、江戸の世に新たな技術革新をもたらしたのである。

お花と正之助の娘、三番目のお秋は、幼い頃から練り菓子作りに熱心で、その願いは「江戸一のお菓子屋さんになること」であった。植木屋お咲で育まれた花木への愛と、薬草の知識は、彼女の菓子作りに、類稀な才をもたらしたのである。

お秋は、母お花の助けを借り、体に良い菓子を次々と考案していた。花園で採れる葛や甘草、山帰来(さんきらい)といった薬草や山野草を、上品な甘味を持つ菓子へと昇華させたのだ。

「母様。この雪見椿の葉を粉にして、餡に練り込むと、香が立つと思うのです」お秋は、真剣な眼差しでお花に尋ねた。

「面白いことを考えるね。だが、椿の葉は、渋みが強い。葛で包み込むように、繊細な甘味で包み込むのだ」お花は、薬草の性質を教えながら助言した。

お秋の作る菓子は、「病に効く菓子」として、植木屋仲間の間で評判となった。

「お秋殿の菊の練り切りは、熱を鎮めてくれるようだ」

「梅の実の菓子をいただけば、体が温まる。まるで薬のようだ」

お秋の菓子の評判は、やがて江戸でも有数の大菓子屋、「虎屋」の主人、源兵衛(げんべえ)の耳にも届いた。虎屋は、御城にも献上する老舗であったが、新しい菓子の考案に頭を悩ませていたのである。

ある日、源兵衛が、丁重な使いを伴って、植木屋お咲の花園を訪れた。

「お咲殿。娘御のお秋殿が作る、薬草を使った菓子の評判は、すでに江戸中に広まっております」源兵衛は、恭しく頭を下げた。

「恐縮でございます。ただの、素人の手遊びで」お花は、謙遜した。

「いえ、あれは才でございます。薬の知識と菓子の技を合わせ持つ稀有な才だ。我ら虎屋の菓子にも、新しい命を吹き込んでくれるに違いない」

源兵衛は、真剣な顔で、縁談を申し込んだ。

「つきましては、私の跡取り息子、新兵衛(しんべえ)の嫁御として、お秋殿を迎えたい。娘御の才を、虎屋の菓子で大成させたいのだ」

お花は、驚き、すぐに正之助と顔を見合わせた。

「大菓子屋の虎屋殿からの縁談とは……」正之助は、驚きを隠せない。

「お秋の志が、ついに大きな道を拓いたのだ」お花は、娘の成長を喜びつつ、縁談の重みに身を引き締めた。

数日後、お見合いの席が設けられた。お秋は、緊張しながらも、自分の菓子作りへの想いを、新兵衛に伝えようと決意していた。

「新兵衛様。私は、ただ美しい菓子を作るだけでなく、食べる人の体を思い、心を癒す菓子を作りたいのです」お秋は、自分の言葉で、まっすぐな志を伝えた。

新兵衛は、穏やかな顔で、お秋の言葉を聞いていた。

「お秋殿の志、まことに尊い。私の父は、伝統の美を求めますが、私は、新しい菓子の力を信じています」

新兵衛は、お秋に一つの菓子を差し出した。

「これは、我が家で作る伝統の練り切りだ。これを、お秋殿の薬草の知識で、新しい菓子に変えてほしい」

「伝統と新しい知識を、私に託してくださるのですか」お秋は、驚いた。

「そうだ。植木屋お咲の庭で育まれた、命の知恵を、菓子に込めてほしい。私は、お秋殿の志を支え、江戸一番の菓子屋にしたいのだ」新兵衛は、真剣な決意を述べた。

お秋は、新兵衛の理解ある言葉に、心からの安堵を覚えた。

「ありがとうございます。新兵衛様。私も、虎屋の伝統の暖簾を守り、そして新しい菓子の道を、共に歩みたい」

こうして、菓子への熱意が、縁を結んだ。お花は、五人目の子の初七日を終えたばかりのこの年に、娘が立派な道を見つけたことを、心から祝福したのである。

三番目の娘お秋の嫁入りが決まり、程なくして、二番目の娘お夏にも縁談が持ち上がった。それは、植木屋の娘としては異例の、旗本の家からの話であった。

縁談の報は、正之助を介して、お花のもとに届いた。

「お花殿。旗本の御曹司、湯伊之助(ゆいりゅうのすけ)殿から、お夏との縁組の申し入れがあった」正之助は、驚きを隠さなかった。

「旗本の御曹司が、植木屋の娘を。一体、どういうことでございますか」お花もまた、戸惑いを覚えた。

正之助は、先方の切実な事情を伝えた。

「なんでも、湯伊之助殿は、寺子屋から帰るお夏を道で見初めたらしい。それ以来、恋の病に罹り、『どうしても、あの娘と夫婦になりたい』と、日々願っているそうだ」

「それほどまでに」お花は、純粋な恋心に、心を打たれた。

「彼の親は、当初『身分が違いすぎる』と、大いに反対したらしい。だが、伊之助殿は『それなら、私は跡取りにならず、家を出る』とまで言い出したという」

湯伊之助の親は、息子の決意の固さに折れ、「それほどまでに」と思うに至った。そこで、親自らが、植木屋お咲に足を運び、近所の噂や評判を丹念に聞いて回ったのである。

「植木屋お咲は、公儀の御用を賜り、清廉な商いをしている」

「娘のお夏は、礼儀正しく、文字も優雅だと、寺子屋でも評判だ」

「薬草の施しなど、慈悲深い一家だと聞く。身分は低いが、志が高い」

湯伊之助の親は、近隣の良い評判を聞き、正式な縁談を申し込むに至ったのだ。

「先方から正式な申し出があった。お花殿。どうされる」正之助は、お花に尋ねた。

お花は、お夏の気持ちを確認した。

「お夏。お前は、湯伊之助殿のことを、どう思っているのだ」

お夏は、顔を赤らめた。

「母様。剣術道場へ行く湯伊之助殿の姿を、私も道すがら見ていました。真面目で、潔い方だと……私も、心をときめかせておりました」

相思相愛と知れば、もはや反対する理由はない。

「では、お夏。この縁談、お受けすることにしよう。幸せになりなさい」

こうして、身分違いの恋は実を結び、お夏の嫁入りが決まったのである。

程なくして、お秋とお夏の二人が、バタバタと嫁いでいった。賑やかだった娘たちが立て続けにいなくなり、植木屋お咲の花園は、急に静寂に包まれた。

お花は、二人の娘の晴れ姿を心から喜んだが、母としての寂しさは隠せなかった。

「正之助さん。こんなにも、寂しいものなのですね。まるで、庭の花が一斉に散ってしまったようだ」お花は、ため息をついた。

正之助は、優しく言った。

「花は散っても、命の種は残る。寂しがることはない。だが、私も心にぽっかり穴が空いたようだ」

そんな寂しげな両親を見て、まだ家に残る末っ子のお雪と春吉は、明るい声を上げた。

「母様。まだ、お雪と春吉がいるではないか」四女のお雪が、お花の手を引いた。

「そうだよ。姉様たちの分まで、春吉が賑やかしてあげる」長男冬吉に次ぐ末子の春吉は、『いろはにほへと』の短冊を書いた時のように、元気よく飛び跳ねた。

お雪は、再生した雪見椿の枝を指差した。

「母様。この椿は、傷ついても、また白い花を咲かせたのだよ。寂しい心も、椿のように強くならねば」

お花は、愛らしい子どもたちの言葉に、心が温まるのを感じた。

「そうね。椿の強さを、あなたたちが教えてくれるのだね」

お花は、子どもたちの明るさという新たな光に慰められ、母としての寂寥を乗り越えるのだった。

二人の娘、お秋とお夏の嫁入りという幸福の絶頂から、程なくして、不幸の報が植木屋お咲を襲った。お花の弟、竹松が、印旛沼の視察中に大きな怪我を負ったというのである。

ある日の夕暮れ、慌ただしい足音と共に、一人の使用人が植木屋お咲の戸を叩いた。

「お花様!大変でございます。竹松様が、印旛沼の現場で、重い怪我を負われました」

「竹松が!一体、何があったのだ」お花は、胸騒ぎを覚え、顔色を変えた。

「竹松様は、沼の底がどうなっているのか、ご自分の目で確かめたいと、単身で潜られたそうで……」

正之助も、驚きを隠せない。

「底の深さや地盤は、役人たちが調べているはず。なぜ、竹松殿が、危険な真似を」

「竹松様は、『姉上たちの言う土の真実を知らねばならぬ』と、勇気を出して潜水されたそうです。しかし、藻草に足を取られ、息も絶え絶えに浮かび上がった後、そこで気を失ってしまわれたとか」

お花と正之助は、すぐに馬を飛ばして印旛沼の現場近くの仮小屋へと駆けつけた。竹松は、顔面蒼白で、苦しげな呼吸を繰り返していた。

「竹松!しっかりしなさい。姉だよ」お花は、弟の手を強く握った。

竹松は、かすかに目を開け、姉の顔を見つめた。その目には、恐怖と後悔、そして深い悟りが混ざっていた。

「姉上……姉上、来てくれたか」竹松は、か細い声を絞り出した。

「なぜ、そんな無謀なことを。土の真実は、命を懸けることではない」お花は、涙をこらえながら言った。

竹松は、喘ぐような呼吸の間を縫って、言葉を紡いだ。

「沼の底は……地獄です。底無し沼です。藻草は、人間の足など、嘲笑うかのように、絡みついてくる」

「人間がどうこう言えるものでは……ありません」

竹松の言葉は、公儀の威信や殖産興業といった人間の傲慢な企みに対する、自然の力の偉大さを物語っていた。

竹松は、力を振り絞って、最後の言葉を絞り出した。

「姉上のおっしゃっていたことが……よくわかりました。土は、嘘をつかぬ……」

それは、植木屋の祖父の言葉であり、姉の訴えであった。竹松は、己の命をもって、田沼意次の事業の危険性を証明したのである。

「竹松!目を閉じてはいけない。目を覚ましなさい!」お花は、必死に呼びかけた。

しかし、竹松は、かすかな微笑みを浮かべた後、その重い瞼を閉じた。そして、二度と目を覚まさなかった。

竹松の死は、印旛沼開墾の無謀さと、田沼意次の実利主義の危険な側面を、お花たちに突きつけた。

お花は、愛する弟の死という大きな犠牲の上に、祖父の予言が現実となったことを悟った。

「土は、人の傲慢を許さぬ……」正之助は、力尽きた竹松の亡骸を見て、静かに呟いた。

江戸時代、この印旛沼の開墾は、竹松のような多くの犠牲を出しながら、三度にわたる失敗を繰り返すことになる。そして、二百六十年後、ようやく現代の技術をもってその偉業が実現するまで、自然の力に対する人間の無謀な挑戦は、深い悲劇を刻み続けるのであった。

弟竹松の死は、植木屋お咲の家族に深い悲しみをもたらした。しかし、お花は、竹松が命を懸けて証明した真実を、公儀の闇に埋もれさせてはならないと強く決意する。この悲劇は、お花の志をより強固なものへと変え、田沼意次との避けられぬ対立へと彼女を向かわせた。

竹松の葬儀が終わり、お花は庭の雪見椿の傍らで、長男冬吉と向かい合っていた。

「冬吉。お前が、印旛沼の絵を描いてほしい。竹松の見た沼の底を、お前の筆で世に示すのだ」お花は、静かに言った。

冬吉は、筆を持つ手が震えた。

「母上。あの沼の底は、地獄だと聞いた。父様から聞いた話を描くことは、私には恐ろしい」

「恐れることはない。真実を恐れてはならぬ。竹松は、『土は嘘をつかぬ』という祖父様の言葉が、公儀の事業にも通じる真実だと、命を懸けて証明した」

正之助も、冬吉に語りかけた。

「冬吉。お前の南蛮渡りの画術は、魂を写し取る力を持つ。文字では伝えられぬ、沼の底の恐怖と土の真実を、その絵の光沢と深みで表すのだ。それが、亡き叔父上の遺言となる」

冬吉は、両親の強い決意を受け止め、筆を取った。彼が描いたのは、美しい水面の下に広がる、藻草の底無し沼と、崩れかけた泥の層であった。それは、見る者の心を深く打ち、言葉を失わせるほどの迫力を持っていた。

竹松の死は、田沼意次にとっては不都合極まりない真実であった。彼は、事業の失敗を認めるわけにはいかない。

意次は、近習に命を下した。

「竹松の死は、個人的な過失による事故として処理せよ。植木屋お咲が、印旛沼の地盤について外部に話すことは、一切許さぬ」

「はっ。植木屋お咲には、公儀の監視を強めます。特に、お花という女は、才覚があり、危険でございます」近習は、頭を下げた。

その頃、お花と正之助の屋敷には、公儀の御用を装った者が、頻繁に出入りし始めた。

「正之助さん。この者たち、薬草の出来を尋ねるにしては、庭の土や井戸の深さばかり気にしている」お花は、監視の目に気づいていた。

「ええ。田沼殿は、私たちの口を塞ぎたいのだろう。この土の真実を、公儀の闇に葬り去ろうとしている」正之助は、低く呟いた。

お花は、このままでは竹松の死が無駄になると確信し、大岡忠光への直訴を決意した。

「正之助さん。この冬吉の絵と、竹松が持ち帰った沼の底の土を、大岡忠光様に見ていただくしかない。清廉な忠光様ならば、必ず真実を理解してくださる」

「しかし、忠光様は、田沼殿と対立している。私たちが行けば、田沼殿の怒りを買い、植木屋お咲の命取りになりかねぬ」正之助は、妻の身を案じた。

「構わぬ。弟の命に代えても、この真実を伝えねば。この清廉な政治家の力が必要だ」お花は、揺るぎない決意を示した。

その頃、大菓子屋「虎屋」に嫁いだお秋は、嫁ぎ先での試練に直面していた。

季節は秋。江戸の老舗菓子舗「虎屋」は、将軍家御用達の格式を持つ一方で、その主

新兵衛は、妻・お秋の母、つまりお花の教えから、不正を嫌う生真面目な商人であった。

田沼意次による重商主義政策が色濃くなる中、幕府は突如として江戸の豪商たちに「御用金」の供出を命じた。これは事実上の強制的な献金であり、その額は法外であった。

ある日、新兵衛の許に、田沼の息のかかった南町奉行所の与力・間宮が配下の同心を連れて踏み込んできた。

「虎屋主、新兵衛。御用金の件、いまだ沙汰がないとはどういうことか。これは将軍家の御意ぞ!」

新兵衛は頭を下げながらも、毅然とした態度を崩さなかった。

「お役人様。虎屋は、ただ菓子を作る一介の町人です。この度のご供出の理由、「明暦の大火」の復興のごとき、民百姓を潤す大義あるものであれば、身を削ってでも応じましょう。ですが、今回の御用金は、一部の私腹を肥やすためのものと聞き及んでおります。そのような不正の温床に、虎屋の金は出せません」

間宮は鼻で笑い、新兵衛の頬を張った。

「馬鹿め! どこの金であろうと、幕府の命だ! よく聞け、新兵衛。お前がそのくだらぬ意地を通すなら、虎屋の商いは、今日より終わりだ」

即日、虎屋は「不敬」の罪で営業停止を命じられた。

さらに、虎屋が扱う米や砂糖、餡の原料となる主要な仕入れ道筋が、奉行所の圧力によりことごとく断たれた。

お秋は、店と、意地を貫き通そうとする夫の新兵衛、そしてまだ幼い息子を守るため、必死に頭を下げて回るが、一度目をつけられた虎屋を助ける者はいなかった。経済的な窒息状態に陥った虎屋の窮状は、やがて二代目お咲、お花の耳にも届く。これが、「お秋を助けたい」という、お咲を田沼との戦いに動かす決定的な現実的圧力となった。

一方、お咲の長女・お夏の夫、湯伊之助は、印旛沼(いんばぬま)開墾事業の不正を追っていた。田沼が最も力を入れ、同時に最も私腹を肥やしたとされるこの事業は、表向きは水害対策であったが、裏では膨大な公金が田沼の懐に入り、開墾は遅々として進んでいなかった。

伊之助は、旧知の役人を通じて、印旛沼の工事現場から流出したとされる「御勘定所の控え帳」や「資材不正取引の証拠文書」を秘密裏に入手しようと試みていた。

ある月夜、伊之助は深川の廃屋で情報提供者の元役人と落ち合った。文書を受け取り、懐に隠した直後、四方から影が躍り出た。彼らは田沼の隠密廻り同心、通称「黒狐組(くろきつねぐみ)」であった。

「湯伊之助、ご苦労であったな。その帳簿、我らが預かろう」

「貴様ら、田沼の手の者か!」

湯伊之助は、武術の心得はあったが、多勢に無勢。元役人は瞬く間に斬り倒され、伊之助もまた、手足に深手を負った。彼はかろうじて帳簿を小舟に投げ込み、自らは血まみれになりながらも、近くの材木問屋の屋敷に逃げ込んだ。

おして

黒狐組は、執拗に湯伊之助を追う。この危機は、単なる経済的な弾圧ではなく、田沼側が「不正の証拠」を握る者に対して、武力をもって排除を始めたことを意味した。置いたことを知り、深い試練に直面するのだった。

弟竹松の死、そして、お秋、お夏の嫁入り先に多大な負担をかけて、植木屋お咲の家族に深い傷を残したが、お花は、この苦しみの中でこそ、冷静な判断を下さねばならないと自らを律した。感情に流され、無謀な行動に出ることは、竹松の命を無駄にするだけでなく、家族全員を危険に晒すことになるからである。

竹松の亡骸を送り出した後、お花は、庭の雪見椿の傍で、正之助と静かに向かい合った。

「正之助さん。これから、私たちはどう対処すべきか。私は、深く悩んでいる」お花は、絞り出すように言った。

「竹松殿は、命を懸けて、印旛沼の地盤という真実を私たちに託した。お秋やお夏の嫁ぎ先までもが窮地に追いやられている。だが、田沼殿の権力は、あまりにも強大だ」正之助は、険しい顔で現実を語った。

「ええ。田沼殿は、今や幕府の主要な役人、奉行所に至るまで、全て姻戚関係と賄賂で固めている。正面から訴え出ても、私たちの声は、公儀の闇にかき消されるだろう」

お花は、熱い思いをぐっと押し込め、冷静な思考を巡らせた。感情的に大岡忠光に直訴すれば、かえって田沼意次の隠蔽工作を助ける結果になりかねない。

「私たちが、今、田沼殿に勝てる道理はない。無理に動けば、植木屋お咲の全てを失う」

お花は、静かに目を閉じた後、再び椿を見つめた。そこには、植木屋の娘として、自然の理を知るお花ならではの確信があった。

「椿は、一夜で散ることもあるが、また春になれば、必ず芽を出す」お花は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「人の世も、自然の理から逃れられはせぬ。栄枯盛衰の理だ。どんなに強大な権力も、自然の摂理を無視すれば、必ず破綻する」

正之助は、妻の言葉の深さに気づいた。

「田沼殿の実利主義は、土の真実を無視し、人の欲望に頼っている。それは、根のない木と同じだ。一時の勢いはあっても、やがて自然に淘汰される」

「その通りだ。竹松の命は、田沼殿の時代の綻びを、私たちに教えてくれたのだ。無理に私たちが動かずとも、印旛沼の軟弱な地盤が、やがて公儀の虚飾を崩すだろう」

お花は、静かに時を待つことを決意した。それは諦めではない。自然の力と、田沼の失政が自壊する瞬間を信じる、植木屋の娘としての強い決意であった。

「私たちは、今こそ、謙虚にならねばならない。椿の再生に時間をかけたように、世の再生にも時間がかかる」

「私たちは、植木屋として、土と花を守る。そして、冬吉の絵を竹松の遺言として、密かに守り抜くのだ」

正之助は、力強く頷いた。

「承知した。私たちは、土に根を張り、時が満ちるのを待つ。嵐が過ぎ去った後、清らかな花を咲かせるために」

お花は、心に嵐を抱えながらも、表面上は平穏を装い、田沼意次の監視の目をくぐりながら、静かに反撃の時を待つことを誓ったのである。

肥後六花と武士の潔さ

弟竹松を失った深い悲しみを胸に秘めつつ、お花は静かに時を待つ決意をした。その間、植木屋お咲の花園を希望の光で満たすため、お花は熊本藩の武士と協力し、「肥後六花」の品評会を極秘で開く準備を始めた。

日の暮れ、植木屋お咲の裏庭。以前、紅椿を密売した熊本藩の家臣、磯貝(いそがい)が、人目を避けてお花と正之助の前に現れた。

「お咲殿。この度は、ご令弟の件、誠にご愁傷様でございます」磯貝は、深く頭を下げた。

「磯貝様。ご足労おかけし、申し訳ございません。竹松の死は、土の真実を教えてくれました」お花は、毅然とした態度で答えた。

正之助が、本題に入った。

「磯貝様。以前、持ち込まれた紅椿の美しさは、江戸で評判になりました。つきましては、肥後で伝わる稀少な六種の花、肥後六花を、この花園で披露願えぬでしょうか」

磯貝は、驚きをもって問い返した。

「肥後六花でございますか。あれは、藩主が秘蔵する文化。一花一葉(いっかいちよう)の作法と共に、武士の心意気を映す花。江戸では、門外不出とされております」

「承知しております。しかし、公儀の理不尽が、藩の財政を蝕み、花木の命を金に変えさせている。この悲しい現状を、肥後六花の潔さで乗り越えたいのです」お花は、熱意をもって訴えた。

磯貝は、お花たちの真剣な志に心を打たれた。

「わかりました。肥後の花は、闇の銭ではなく、清き志のために咲くべきです。藩の許可は得られぬが、命を懸けて、肥後六花をこの江戸で咲かせましょう」

磯貝は、肥後六花の美学について語り始めた。

「肥後六花は、ただ美しいだけでなく、武士の生き様を表します。例えば、肥後椿は、花一つ、葉一つ。余計なものを全て削ぎ落とし、潔さを極めます」

冬吉が、その言葉に興味を示した。

「削ぎ落とす。それは、絵を描くことにも通じます。余計な色を入れず、最も大切な核だけを描き出す」

「その通りだ。肥後菊は、一本の茎から一輪だけ咲かせ、その力強い姿を愛でる。質実剛健、それが肥後の美学だ」磯貝は、冬吉の理解の早さに感心した。

お花は、肥後六花の清廉な美学が、竹松の死で傷ついた冬吉の心を癒す薬となると確信した。

「冬吉。印旛沼の絵に描いた闇を、この肥後六花の潔い命で、光に変えるのだ」お花は、息子に筆を促した。

冬吉は、油絵の具と南蛮の技法を使い、肥後六花を描き始めた。肥後花菖蒲の凛とした立ち姿、肥後芍薬の力強い朱色を、光沢をもって写し取っていく。

「余計なものを削ぐ。そうすれば、命の光が際立つのだ」冬吉は、集中して筆を動かしながら言った。

磯貝は、雪見椿の傍で、肥後山茶花を愛でていたお雪を見た。

「あの娘御も、肥後の美学を理解しているようだ。山茶花は、白い命の潔さを持つ。武士は、死を恐れぬ覚悟を、この花に重ねるのだ」

「白い椿になりたいと願う、あの子の心には、悲しみを乗り越える強さがあるのだ」お花は、娘の成長と花の力に、静かに希望を見出した。

こうして、植木屋お咲の花園は、田沼意次の利潤追求とは対極にある、武士の清廉な美意識が咲き誇る秘密の場所となり、反撃の準備が進められていったのである。

肥後六花の品評会を前に、お花は、熊本藩の窮乏と、家臣磯貝の密売の真意について、深く思案していた。磯貝が藩の秘蔵を売りに出す行為は、公儀の法に照らせば悪かもしれぬが、お花はそれを善なる志だと捉えたのである。

お花は、熊本藩が置かれた悲惨な状況を、磯貝から詳しく聞いていた。

「磯貝様。以前、紅椿を売られた銭は、故郷へ送られたのでございましょう」お花は、静かに尋ねた。

磯貝は、苦い顔で頷いた。

「ええ。肥後は、今、貧しさのどん底にございます。殿は、参勤交代で江戸に来るたび、多額の出費を強いられる。田沼様の公儀御用の重圧も、財政を蝕んでおります」

「聞くところによれば、『鍋釜の金気を落とすに水はいらない』とまで言われているとか」正之助が、同情の念をもって言った。

「その通りです。『細川(ほそかわ)と書いた札を下げればよい』とまで書かれました。細川とは、我が藩の御家名。それほどに貧窮が極まり、鍋も持てぬと揶揄されているのです」磯貝は、悔しそうに顔を歪めた。

お花は、竹松の死と、印旛沼の財政を思い、深く息を吐いた。

「公儀の大事業のため、藩の財が吸い取られ、民が飢える。これほどの理不尽があるでしょうか」

「だからこそ、磯貝様。あなたは、藩の宝である肥後六花を、命を守る銭に変えようとしているのですね」お花は、磯貝の真の目的を問いかけた。

磯貝は、頭を垂れた。

「恥ずかしながら。藩の家臣として、故郷の民を救うためには、背に腹は代えられぬ。この肥後六花を江戸で高値で売却し、急場を凌ぐ銭を、故郷の藩庫に送金するしかないのです」

「この行為は、公儀の法に照らせば許されぬ密売。ですが、私にとっては、民の命を繋ぐ善でございます」

お花は、磯貝の行為を、竹松の命懸けの行動と同じ清き志だと感じた。

「磯貝様。あなたの行いは、悪ではございません。武士の志を、花に託し、故郷の命を守ろうとする、善の行いです」

正之助も、深く頷いた。

「田沼殿の世は、銭の力で私腹を肥やす。しかし、磯貝様の銭は、故郷への愛で回る。我々植木屋は、その善なる志を、全力で支えましょう」

「ありがとうございます。肥後六花は、武士の潔さを映す花。これを銭に変えるのは忍びないが、この銭が、藩の民の命を繋ぐならば、花も本望でしょう」磯貝は、涙ぐんだ。

お花は、肥後六花を、田沼の闇に対抗するための希望の光として、さらに強く利用することを決意した。この花の品評会は、財政難に喘ぐ他の藩にも連帯の意志を示し、意次への静かなる反抗の狼煙となるだろうと考えたのである。

肥後六花の展示会が成功裏に終わり、植木屋お咲の花園は、公儀の監視をよそに、各藩の秘密の交流の場へと変わっていった。次にお花が協力を求めたのは、加賀百万石を誇る、加賀藩であった。

お花は、嫁いだ娘お秋の嫁ぎ先である大菓子屋「虎屋」を通じて、加賀藩と縁を結んだ。虎屋は御城御用も務め、諸藩の奥方との繋がりも深かったのである。

「母様。加賀藩の奥方様が、お秋の薬草の菓子を大変お気に召してくださり、お話ができました」お秋は、里帰りした際に、お花に報告した。

「加賀藩は、文化を重んじる藩だ。花木にも、深い知識を持っておられるだろう」お花は、確信を持っていた。

お秋は、加賀藩のお得意様である奥方を通じて、藩の役人に花の品評会への出品を打診してもらった。

加賀藩から植木屋お咲の花園に届いたのは、藩が秘蔵する珍しい品種の数々であった。

「お花殿。これは、加賀で特別に品種改良された変化朝顔にございます。青い地に絞りが入った、類を見ぬ逸品だ」加賀藩の目付役が、恭しく鉢を差し出した。

「なんと、見事な朝顔。そして、この複雑な絞り。筆では到底描ききれぬ、自然の妙だ」正之助は、その美しさに息を飲んだ。

また、豪華な八重咲きの椿や、深みのある色合いの菊も出品された。加賀藩の出品は、百万石の文化を背景にした華やかさで、江戸の花好きの熱狂を呼んだ。

「これぞ、加賀の雅。見たこともない、贅沢な花だ」

「この椿は、一つで千両の値が付くのではないか」

品評会での多額の売り上げは、肥後藩の窮乏を救うための送金に充てられた銭を遥かに超えた。

品評会後、加賀藩の役人は、お花たちに驚くほどおおらかな申し出をした。

「お花殿。この度の売り上げは、当藩の予想を大きく上回った。しかし、この巨額の利益を全て藩庫に入れる必要はない」加賀藩の役人は、鷹揚に言った。

お花は、驚いて聞き返した。

「それは、どういう意味でございましょうか」

「当藩は、藩主が文化振興を重んじている。この利益は、植木屋お咲が次の品評会を開くための資金に、そのまま活用してほしいのだ」

「次の品評会の、資金に」正之助は、信じられない様子であった。

「その代わり、お願いしたいことが一つある。お花殿、そして正之助殿の花木を育てる知恵と、珍しい品種改良の技を、我々加賀藩の植木方に、相談役として教えていただきたい」

役人は、続けた。

「金銭よりも、技術と志こそが、藩の宝となる。お花殿の花への情熱は、田沼殿の銭の力など比べものにならぬ、真の力だと拝察しております」

お花は、加賀藩の理解と、文化を重んじる心に、深く感謝した。

「承知いたしました。肥後藩の潔さ、そして加賀藩の大らかな文化。この二つの志を合わせ、田沼殿の理不尽な政に対抗する、清らかな花の力を育てましょう」

こうして、植木屋お咲は、武士の文化と庶民の経済を結びつける、新たな力の源となったのである。

肥後藩の潔さ、加賀藩の雅に続き、植木屋お咲の花市に、新たな協力者が名乗りを上げた。それは、将軍家ゆかりの紀州藩であった。

加賀藩との協力が、多額の利益と技術交流という形で結実したことは、瞬く間に諸藩の間に広まった。田沼意次の圧政と御用金の取り立てに苦しむ藩にとって、植木屋お咲の花市は、清らかな財源として注目され始めたのである。

「お花殿。紀州藩が、この度の品評会への参加を強く望んでおります」正之助が、興奮気味に伝えた。

「紀州藩は、暖かい気候に恵まれております。肥後や加賀とは、また異なる華やかな花が見られるでしょう」お花は、その広がりゆく影響力を実感していた。

紀州藩の役人が、植木屋お咲を訪れた。

「お咲殿。我が藩の花は、多種多様。この江戸では滅多に見られぬ珍しい花が、多くございます。どうか、江戸の皆様の目を楽しませる機会をいただきたい」

紀州藩の出品は、期待を遥かに超えるものであった。

目玉は、「紀州アオイ」という、艶やかな赤紫の美しい花であった。その姿は絶品で、江戸の花好きたちの心を強く捉えた。

「あれが、紀州アオイか。なんと華やかで、命の力に満ちているのだろう」人々は、その独特な色合いに魅入られた。

さらに、極寒の時期に清らかな花を咲かせる**「寒蘭(かんらん)」**の鉢は、愛好家の間で大きな話題となった。

「見よ。この透明感のある緑。そして、香りの高さ」

「冬の寒さを耐え抜き、春を待つその姿こそ、武士の精神だ」

寒蘭を見る人々は、その清らかさに心を奪われ、列をなして鉢の前に並び、静かに鑑賞する光景が見られた。

紀州藩の品評会もまた、大成功に終わった。多種多様な花の魅力は、江戸の人々に大きな喜びを与え、公儀の重苦しい空気を一時的に忘れさせた。

紀州藩の役人も、売上金を見て、満面の笑みを浮かべた。

「お咲殿。これほどの銭になるとは、夢にも思わなんだ。これは、我が藩の財政を大いに助ける」

「紀州藩の豊かな花々の力でございます」お花は、謙遜した。

紀州藩もまた、加賀藩と同じく、次の品評会のための資金を、惜しみなく植木屋お咲に託した。彼らは、花の力が、藩の威信と財政を救う、清らかな道であることを確信したのである。

お花は、肥後、加賀、紀州と続く成功の連鎖を見て、竹松の死という悲しみを乗り越える希望を見出していた。田沼意次が銭の力で幕府を支配しようとも、人の心と花の美しさが結びつけば、それは公儀の権力にも負けぬ強大な力となることを知ったのである。

紀州藩の珍花品評会も大成功に終わり、植木屋お咲の花園は、熱狂と活気に包まれた。しかし、連日の激務で、お花も正之助も疲労の色を隠せなかった。品評会の後片付けを終えた夜、お花は、正之助のために特別の湯を用意した。

「正之助さん。今日は、桃の葉を入れた湯(ゆ)を沸かしました。さあ、ゆっくりと疲れをお取りください」お花は、湯殿の戸を開け、正之助に勧めた。

湯殿には、桃の葉の清々しい香が立ち込めていた。桃の葉は、薬草としても知られ、肌の疲れを取り、邪気を払うとされる。

正之助は、心遣いに感謝し、微笑んだ。

「ありがとう、お花殿。肥後、加賀、紀州と、立て続けの品評会で、体の芯から疲れておった。お前の桃葉湯は、何よりの薬だ」

正之助は、湯に浸かりながら、一日中花木に触れていた手を眺めた。

「この成功は、ひとえにお前のおかげだ。公儀の理不尽に苦しむ藩の志を繋ぎ、花で銭を回すという、誰も思いつかぬ清らかな道を開いた」

お花は、正之助の隣に座り、優しく言った。

「これは、品評会で活躍してくれた、あなたへの礼です。そして……愛の心からのお風呂です」

お花は、湯気の向こうにいる正之助を見つめた。

「竹松の死という悲しみを乗り越え、あなたが変わらぬ笑顔で、私と子どもたちを守ってくれる。その力強さに、私は感謝しています」

「桃は、魔除けの力を持つ。この桃葉湯に入り、一日でも長く、元気で、長生きしてほしい。そして、私と共に、子どもたちの成長を見てほしいのです」お花は、切実な願いを伝えた。

正之助は、湯の中から、お花の手を優しく取った。

「お花殿。私も、あなたと出会えた偶然に、心から感謝している。植木屋という同じ志を持ち、土の真実を分かち合い、そして五人の宝を授かった」

「もし、あなたと出会わなければ、私はただの花職人で終わっていただろう。あなたは、私に世を見る目と、政の理不尽と戦う勇気を与えてくれた」

「この世で出会えた偶然は、神様の計らいだ。この先、田沼殿との厳しい対立が待っていようとも、夫婦二人、力を合わせて乗り越えましょう」

湯気の中で交わされる夫婦の言葉は、愛と信頼に満ちていた。お花は、正之助の温かい手の感触と、桃葉の清らかな香の中で、この世の幸福を噛み締めるのであった。

第三章 信用を築く株仲間

弟竹松の死と、娘たちの嫁入りを経た植木屋お咲は、公儀の強大な力とどう対峙すべきか、熟慮を重ねていた。感情的な行動は避け、時勢を読むことこそが、竹松の遺志を継ぐ道だと知っていた。

夜深く、お花と正之助は、明かりを落とした茶の間で、長い話し合いを続けていた。

「正之助さん。私たちは、竹松の命を無駄にしてはならない。しかし、田沼殿と今、正面から争っても、勝ち目はあるでしょうか」お花は、冷静に問いかけた。

「ない。田沼殿は、奉行所から公儀の役人に至るまで、全てを支配している。我々植木屋が、闇に葬られるのは、一瞬のことだ」正之助は、現実を突きつけた。

お花は、深く息を吐いた後、徳川家康公の教えを口にした。

「権化様の教えだ。『鳴くまで待とうホトトギス』。今は、時期が来るまで、ひっそりと待つことにしましょう。機会を狙うのだ」

「承知した。では、次に何をすべきか。ただ待つだけでは、植木屋お咲の火が消えてしまう」正之助は、待つ間の策を求めた。

お花は、田沼意次の政策から、反撃の糸口を見出した。

「田沼殿は、これから株仲間を奨励するそうだ。彼は、商いの力を信じている」

「株仲間ですか」正之助は、鋭く反応した。「彼は、冥加金(みょうがきん)と運上金(うんじょうきん)を徴収し、公儀の財源とするために、商人を組織化しようとしている」

「そうだ。これを利用しましょう。田沼殿は、組織を求めるが、その組織の力を、私たちが別の志で握るのだ」お花は、正之助に提案した。

正之助の目が、強い決意の光を帯びた。

「品評会に集まってきた植木職人や資材関係の業者さんたちを集めて、株仲間を結成するのだ。すべての流通を速やかに行い、公儀に利益をもたらす優れた組織を作り上げましょう」

「そして、物、金の流れを、**『信用』**という、何よりも価値あるものにするのだ。銭の力を信じる田沼殿の政を、信用の力で内側から変える」お花は、強い決意を示した。

正之助は、銭の流れに関する根本的な改革を提案した。

「貨幣も変える必要がある。重さで価値が変わる秤量銀貨ではなく、一定の価値を持つ計数銀貨を奨励しよう。商いの信用は、統一された銭から生まれる」

「そして、商売を疎かにする者は、容赦なく排除する。怠けたり、遊びに夢中になり、商売を疎かにする者がいれば、株仲間を脱退させる強行作戦を取る。冥加金や運上金は、稼ぎのある者を優先し、組織の質を高める」

お花は、頷いた。

「この株仲間を組織することは、田沼殿をうまく利用して、時期を待つという最善の方策です。表面的に戦えば、獄死しか道はない。死んでしまえば、何もできない」

「組織の力を蓄えておくのが、最も確実な方法だ。代表者は、あなたが務めなさい。そして、あなたの背景には、植木屋お咲のお花がいることを忘れないで」

正之助が代表者となると宣言すると、評判を聞きつけた人々は、あっという間に集まった。彼らは、清廉な正之助と才覚あるお花が率いる新しい組織に、希望を見出したのである。

数日後、正之助は覚悟を決め、田沼意次に会うために江戸城へと向かった。

「田沼殿。私は、公儀の植木御用役を辞し、これから結成する植木、資材株仲間の代表となることを、ここに宣言いたします」正之助は、毅然とした態度で意次に告げた。

田沼意次は、その申し出に鷹揚な笑みを浮かべた。彼は、新しい株仲間が、公儀の財源を増やす道具となることしか考えていなかった。

「ふむ。結構なことだ。正之助。公儀に銭をもたらす、立派な組織を築きなさい」

正之助は、心の中で静かな決意を燃やしながら、田沼意次の前を辞した。表面上は公儀の政策に従いつつ、裏側で信用の力という強大な組織を築く、静かな戦いが始まったのである。

正之助が代表を務める株仲間は、植木職人や資材業者を中心に、瞬く間に組織を整えた。しかし、「信用第一」という正之助の厳格な規律は、旧態依然とした商いの慣習と衝突し、すぐに内部の試練を迎えることとなった。

正之助は、計数銀貨の使用と、帳簿の正確な記載を強く求めた。これは、銭の重さをごまかしたり、闇の取引を隠したりすることを許さぬための、信用のための要であった。

ある日、植木鉢を扱う古参の店主、甚兵衛(じんべえ)の不正が発覚した。

「甚兵衛殿。この帳簿には、質の悪い土を安く仕入れ、高値で売った形跡がある。これでは、株仲間の品への信用が崩れる」正之助は、厳しい目で甚兵衛を詰問した。

甚兵衛は、顔を赤らめた。

「何を申される。多少の不正は商売の常だ。誰もがやっていること。なぜ、株仲間に入った途端、掟が急に厳しくなるのだ」

「常ではない。それは悪だ。そして、お前は計数銀貨の使用も嫌がり、質の悪い古銭を混ぜて使おうとした。これは、銭の信用をも裏切る行為だ」

この騒動に、他の古参の商人たちが反発した。

「正之助殿。厳しすぎる。株仲間は、皆が助け合う和が大切。些細な不正で、仲間を追い出すのは、和を乱す行いですぞ」

「そうだ。清廉すぎると、商いは成り立たぬ。田沼様の奨励される株仲間は、銭を稼ぐための組織ではないのか」

正之助は、動揺を見せず、静かに言い放った。

「私が築くのは、銭を稼ぐ組織ではない。銭に信用という価値を与える組織だ。信用なき銭は、ただの重い金属でしかない」

夜、お花は、厳しくも孤独な決断を下した正之助に語りかけた。

「正之助さん。あなたは、正しい道を選んだ。甚兵衛を脱退させるべきだ」

「だが、お花殿。株仲間の和を乱す、冷酷な代表だと噂されることを恐れている」正之助は、苦悩を滲ませた。

お花は、庭の雪見椿を指差した。

「椿は、傷を放置すれば、全体が腐る。膿(うみ)は出し切らねば、信用の根は張らないのです。竹松の命を懸けて築こうとしている清らかな道を、悪の芽に摘まれてはならない」

「わかった。信用の根を張るために、私は冷酷な刀となろう」正之助は、お花の言葉で決意を新たにした。

翌日、正之助は一切の妥協を許さず、甚兵衛を株仲間から脱退させた。

「甚兵衛殿。信用の組織に、偽りは不要だ。お前の不正は、株仲間の理念に反する。脱退してもらう」

この厳格な処置は、株仲間に緊張をもたらしたが、一方で組織の理念を鮮明にした。しかし、脱退した甚兵衛は、他の植木屋と結託し、「お咲の株仲間は、掟が厳しすぎる」という悪評を流し始めた。

お花は、この悪評を払拭するために、平賀源内から学んだ薬草学の知識を応用した策を講じた。

「正之助さん。私たちは、言葉で信用を訴えるだけでなく、目に見える形で信用を示す必要がある」

「目に見える形とは」

「土の質だ。植木屋にとって命である土の品質を、数値化して保証するのだ。源内殿から学んだ南蛮の土壌分析を元に、土の質を三段階に分け、品質を保証する証文をすべての取引に付けましょう」

お花が発案した**「土の保証書」は、株仲間の取引に導入された。植木屋お咲の土は、その品質が公に保証**されることとなり、市場で圧倒的な信頼を得た。

「お咲の株仲間の土は、保証が付いている。やはり、質の高さが違う」

「偽りのない証文が付いているのだ。多少値が張っても、この土を使いたい」

不正を排した組織が、品質という信用を勝ち取った結果、株仲間の品物は市場で圧倒的な信頼を得て、売上が急増した。質の悪い土を使わざるを得なくなった他の植木屋は、次々と客足を奪われ、正之助の株仲間の力を認めざるを得なくなったのである。

正之助が代表を務める植木、資材株仲間は、厳格な規律と「土の保証書」で、内部の不正を排し、揺るぎない信用を築きつつあった。しかし、その存在を江戸の外、天下に知らしめるには、公儀の権威と人々の心を掴む巧みな計略が必要であった。そこで、お花は、稀代の奇才、平賀源内に助力を求めたのである。

ある日、植木屋お咲の花園に、平賀源内が姿を見せた。彼は、冬吉の描いた肥後六花の絵を見て、感嘆していた。

「冬吉。この肥後六花の絵は、まさに生命の輝きを宿している。南蛮の画術と、お前の目が、見事に融合したな」

お花は、源内に向き直った。

「源内殿。この度は、株仲間のことで、ご相談がございます」

「ほう。正之助殿が率いる信用の組織のことか。その厳格な規律と土の保証書の評判は、すでに私の耳にも届いている」源内は、興味深そうに言った。

お花は、竹松の死の悲しみを乗り越え、冷静な口調で頼み込んだ。

「私たちは、この信用の組織を、天下に知らしめたい。田沼殿の世に、真の信用こそが富を生むと示したいのです」

「ふむ。しかし、株仲間の存在を広めるには、公儀の認可を得た瓦版でも、言葉だけでは不十分だ。人々に『この組織は違う』と思わせる妙策が必要だ」源内は、腕を組んで考え込んだ。

「では、源内殿。その妙策を、どうか、我々にお貸しください」正之助が、頭を下げた。

源内は、不敵な笑みを浮かべた。

「良いだろう。では、こうしよう。私が、株仲間の土を、我が薬草研究に使う『公儀御用の資材』として公式に推薦する。そして、その効能を瓦版で天下に知らしめるのだ」

源内は、早速、株仲間の土の学術的な分析を始めた。鉱物学と本草学の知識を駆使し、株仲間の土がいかに薬草の生育に適しているかを詳細に解明した。

そして、その結果を、平易な言葉で瓦版に書かせたのである。

「奇才源内、奇跡の土を発見か! 植木屋お咲の株仲間が供給する**『源内推薦の土』**が、薬草の効能を百倍に高める!」

瓦版には、源内の顔絵と共に、株仲間の土の学術的な裏付けと、「土の保証書」の仕組みが大々的に紹介された。

「源内殿が直々に推薦する土とは、いかに。これは、間違いなく本物だ」

「質の悪い土に悩まされてきたが、これで安心して薬草を栽培できる」

この瓦版は、瞬く間に江戸中に広まり、植木屋お咲の株仲間は、「源内推薦の土」を扱う信頼できる組織として、一躍有名になった。

源内は、さらに巧みな策を巡らせた。彼は、公儀の学術的な会合の場で、各藩から集まった学者や医師に対し、株仲間の土を用いた薬草栽培の最新成果を発表させたのである。

「この株仲間の土は、従来の土と比べ、薬草の根の張りが格段に良い。まさに、奇跡の土と呼ぶにふさわしい」源内の言葉に、諸藩の学者は息を飲んだ。

正之助は、源内の計らいに深く感謝した。

「源内殿。学術的な裏付けと公儀の権威を借りて、私たちの株仲間を天下に知らしめてくださった」

「良いのだ。真の知恵と信用の力は、権力に利用されるだけでなく、権力を動かす力となる。この株仲間は、その先駆けとなるだろう」源内は、満足げに笑った。

これにより、植木屋お咲の株仲間は、単なる商人の組織ではなく、公儀の薬草研究を支える**「公式な資材供給元」としての地位を確立した。諸藩の藩主や植木方は、自藩の薬草栽培のため、こぞって株仲間の土と資材を求めるようになり、その存在は全国津々浦々**へと広まっていったのである。

植木、資材株仲間の運営が軌道に乗り、お花は組織の拡大と公儀の監視をかわすことに心を砕く日々であった。そんなある朝、末子の春吉の無邪気な質問が、お花の深い思索を呼び覚ました。

朝から忙しく、株仲間に納める良質な土の仕分けをしていたお花に、寺子屋から戻ったばかりの春吉が、突然、問いかけた。

「お母上、聞きたいことがある」

「何だい、春吉。急いで話しておくれ。今日は、株仲間の帳面を見ねばならぬ」

「寺子屋の先生はね、『将来は、みんな働いて、銭をもらう。そのために学びなさい』と教えてくれた。なのに、働いていないお武家様が、たくさん町をぶらついているのは、なぜ」

お花は、手を止めた。その素朴な問いは、これまで一度も考えたことがなかった、幕府の体制の骨幹に触れるものであった。

「働いていないお武家様が」お花は、鸚鵡返しに呟いた。

「うん。道場帰りの湯伊之助様のように働く武家もいるけど、昼間から、蕎麦屋で酒を飲んだり、女遊びをしたりしている旗本がたくさんいる」

お花は、春吉の質問の深さに慄然とした。確かに、彼女は目の前の商いと土の真実を追うことに夢中で、なぜその体制が成り立っているのかを考えたことがなかった。

農民が高い年貢を払い、株仲間が高い冥加金や運上金を納める。その銭が、遊んで暮らす武士の俸禄(ほうろく)を支えている。武士の権威と無為を、民の労働が支える、この世の仕組み。

「なぜ、私たちは、銭を納めるのだろう。それは、お役人様や、お武家様の生活を支えるため」

お花の思考は、印旛沼の沼底のように、深い底無し沼に陥ってしまった。

「土は、命を育む。しかし、この世の土台は、命の銭で、遊ぶ者を支えている」

この理不尽な仕組みを維持するために、公儀は強大な力で民を抑え込んでいるのだ。竹松の命を奪った権力は、この不条理な構造そのものであった。

「お母上。なぜ、答えてくれないの」春吉が、不安そうに見上げた。

お花は、春吉の純粋な問いに答えることはできなかった。彼女の心には、武士の権威という、底の見えない闇が、静かに広がったのである。

末子春吉の無邪気な問いは、植木屋お咲二代目お花の心の奥底に、根深い疑問を投げかけた。株仲間の運営に忙殺される日々の中で、彼女の思索は、士農工商という幕府体制の骨幹へと向かっていった。

正之助が株仲間の集会に出かけている昼下がり、お花は土に触れながら、春吉の言葉を反芻していた。

「働いていないお武家様が、町をぶらついている」

お花は、遊女屋へと向かう旗本の姿を、脳裏に浮かべた。彼らの俸禄(ほうろく)は、農民の年貢と、株仲間の冥加金で支えられている。

彼女は、雪見椿の前に膝をついた。

「この椿は、白い花を咲かせるために、冬の寒さに耐え、深く根を張っている。しかし、この世の土台は、深く根を張る者ではなく、ぶらつく者を支えている」

竹松の命を奪った権力は、この不条理な構造そのものであった。

「土は命を育む。だが、世の理は、銭を食い潰す無為を養っているのだ」

お花は、そこで田沼意次の存在に思い至った。

「田沼殿は、憎い敵だ。印旛沼で、竹松の命を奪った。しかし、彼は、この不条理な構造を、内側から崩しているのではないか」

傍で土を混ぜていた冬吉が、母に尋ねた。

「母上。田沼様が、体制を崩すとは、どういう意味ですか」

「田沼殿は、武士の権威ではなく、銭の力を信じた。彼は『身分よりも実利』を重んじ、商人の力を公儀の道具にした」

お花は、椿の枝を指でなぞった。

「古い体制は、『武士の身分』という頑なな殻の中に閉じこもっている。だが、田沼殿が銭という新しい力を体制の内側に流し込んだことで、その殻は、音を立てて砕け始めているのだ」

正之助が帰宅し、二人の話を聞いていた。

「お花殿の申される通りだ。株仲間を奨励し、商いの流動性を高める田沼の策は、農民と武士の間にあった銭の壁を、商人の力で突き崩している」

「ぶらつく武士は、やがて銭を持たぬ。銭を持たぬ武士に、権威は宿らぬ」お花は、確信めいた口調で言った。

しかし、お花は、田沼意次の政策には、致命的な欠陥があることも知っていた。

「だが、田沼殿の実利主義は、利己的だ。自分の栄華のために、民の命や、土の真実を無視する。これでは、新しい世は、崩れやすい砂の城になる」

お花は、春吉の問いに、行動で答えることを決意した。

「正之助さん。私たちが築く株仲間は、田沼殿の不正とも、武士の無為とも異なる新しい世の土台でなければならない」

「それは、『信用』と『労働』が、真の価値となる土台だ」正之助は、妻の強い志に、深く共感した。

お花は、春吉の問いに答える代わりに、土の詰まった手を見せた。

「春吉。私たちが作る株仲間は、ぶらつく武士を支えるためのものではない。働く人々と、この美しい花のためにある。この土こそが、真の世の土台だ」

春吉は、母の真剣な眼差しを見て、頷いた。植木屋お咲の戦いは、一人の弟の復讐から、新しい世の土台を築く大きな志へと、その姿を変えたのである。

士の無為という体制の根幹にまで思いを馳せたお花は、株仲間という新しい土台を築きつつも、亡き家族の前に立ち、己の志を改めて問い直す時が来たと感じた。ある穏やかな日、植木屋お咲の一家は、墓参りへと出かけた。

一家が向かったのは、梅吉、初代お花、菊次郎、そして先日亡くなった弟竹松が眠る菩提寺である。

お花は、竹松の新しい墓石の前で手を合わせた。

「竹松。あなたの命を懸けた真実は、決して無駄にはならぬ。私たちは、銭の力ではなく、信用の力で、正しい世を築き始めました」

正之助も、深く頭を下げた。

「義弟殿。お花殿と共に、植木屋の志を、新しい形で守り抜くことを誓う。どうぞ、安らかにお眠りください」

長男の冬吉は、祖父母と叔父の墓前で、静かに言った。

「私が描いた肥後六花の絵は、命の強さを写し取ることができました。私は、花と土の真実を、筆で伝え続けます」

その後、一家は、東照宮の方向を向き、徳川家康公、すなわち権化様の偉業に感謝を捧げた。

「権化様。あなたは、戦国の世の争いを無くし、平和を築いてくださいました。その安寧(あんねい)の世があるからこそ、私たちは花を育て、商いを続けることができます」お花は、心の中で深く感謝した。

しかし、その平和の土台が、武士の無為という不条理の上に成り立っていることに、お花は静かな問いを投げかけた。

「しかし、権化様。この平和は、民の血と汗で支えられ、理不尽な構造の上に成り立っている。私たちは、この安寧の中で、これからどう生きていくのが正しい道なのでしょうか」

墓前での時間は、一家にとって深い思索の場となった。

四女のお雪が、お花の手を取った。

「母上。白い椿は、汚れた泥の中にあっても、清らかな白を保つのですね」

「そうだ、お雪。世の濁りに染まらず、己の清らかさを守り抜く。それが、花木の志だ」お花は、娘に答えた。

正之助は、武士の権威と商人の実利の狭間で、夫婦の道を再確認した。

「お花殿。田沼殿が銭を求めようとも、私たちは信用を求める。世の濁流の中にあっても、植木屋の志、花と土の真実を、曲げずに生きること。それこそが、亡き者たちへの最も正しい供養となるでしょう」

お花は、強い決意をもって頷いた。

「ええ。争いを無くした権化様の偉大な土台の上で、私たちは腐らぬ根を張り、清廉な花を咲かせます。株仲間は、そのための道だ」

一家は、亡き家族への感謝と、平和への祈り、そして**「正しい道」を生き抜く静かなる誓い**を胸に、菩提寺を後にした。

植木職人の心意気:粋な株仲間の学び舎

お花が先導する花づくりと株仲間の運営は、単なる商売を超え、職人たちの精神と技術を高める学びの場となっていた。正之助は、その全体像を静かに見守り、組織の力を粋な心意気で引き締めていた。

株仲間の植木職人たちは、「土の保証書」を支える確かな技術を学ぶため、定期的に植木屋お咲の花園に集まった。講師はお花と正之助である。

「皆さま。田沼殿が求めるのは銭だが、私たちが求めるのは信用だ。この椿の根の張りを見なさい」お花は、鉢から出したばかりの椿の根を見せながら、熱心に語った。

「良い花を咲かせるには、土の通気性と水捌けが命だ。良質な土の混ぜ方、病を防ぐ薬草の知識。これらは植木職人の誇りだ」

職人たちは、公儀の理屈ではなく、花と土の真実に基づいたお花の教えに、熱心に耳を傾けた。

「お花殿の教えは、目から鱗だ。今までは経験と勘だったが、これからは確かな理屈をもって、花に命を吹き込める」

「そうだ。株仲間の花は、公儀が認めた花。偽りがあってはならぬ」

お花は、植木職人だけでなく、鉢や資材を扱う業者も集め、品質向上の勉強会を設けた。また、品種の美しさを正確に伝えるため、冬吉が描いた絵を用いた「花木の目録」作りを提案した。

「この目録には、花の色、形、そして育て方までを細かく記す。遠方の大名も、この目録を見れば、植木屋お咲の信用を疑わぬだろう」

「冬吉。あなたの筆は、株仲間の顔となる。嘘のない、美しい絵を描きなさい」

冬吉は、その重責に、職人としての魂を燃やした。彼の描く精緻な花の絵は、株仲間の品質の証となった。

一方、正之助は、株仲間の頭取として、全体を俯瞰していた。彼は、厳格な規律を保ちつつも、職人たちの心意気を重んじる、粋な統率者であった。

「正之助殿の掟は厳しいが、筋が通っている。怠け者がいないからこそ、皆が儲かるのだ」

「公儀の理不尽から、私たちを守ってくれるのは、正之助殿の清廉さだ」

正之助は、技術の研鑽だけでなく、商人としての姿勢こそが組織の信用を築くと知っていた。

ある日、植木鉢の運び手が、大名屋敷への納品を雨のせいで遅らせようとした。

「雨では、鉢を傷つけてしまう。明日まで待とう」

正之助は、その運び手に、静かに言った。

「客との約束は、天候に左右されてはならぬ。粋な商人とは、いかなる困難があろうと、定められた期日に、最上の品を届けるものだ」

「雨ならば、濡れぬ工夫をすればよい。布で鉢を幾重にも包み、職人の心意気を添えて届けなさい。信用とは、銭で買えぬ、心で築く宝だ」

正之助の言葉は、銭勘定ではない、商売の美学を示していた。運び手は、その心意気に感銘を受け、雨の中、無事に品を届けきった。

この粋な心意気が、株仲間全体に浸透した。植木屋お咲の株仲間は、技術に裏打ちされた高品質と、正之助の統率による約束を守り抜く姿勢により、江戸中で一目置かれる存在となったのである。

宝暦八年の春のある日、植木屋お咲の門前に、豪華な駕籠が横付けされた。黒漆塗りに金蒔絵を施したその駕籠は、並々ならぬ身分を示すものであった。引き戸から現れたのは、利発そうな若者である。

「ごめんくだされ」

屋敷の留守番をしていたお雪と春吉は、突然の客にも慌てずに応対した。植木職人の一人が、その豪華な駕籠を見てただ事ではないと察し、大慌てで株仲間の寄り合い場へと駆けつけた。

その頃、庭では、お花が戻るのを待たず、次期将軍である徳川家治公が、すでに庭を楽しげに見て歩いていた。家来の話によれば、京からお輿入れした奥方、倫子(ともこ)様に何か花を贈りたいとの望みで、喜ぶ花を見つけに来たのだという。

お花が慌てて庭に戻ると、若き次期将軍をお雪と春吉が案内しているという、和やかな雰囲気が広がっていた。まるで、家族のような親密な様子である。

「この方が、次期将軍」

お花は、その若者の爽やかさに驚き、それまで様々な思惑で悩んでいたことが、霧が晴れたような気分になった。

若者は、お花を見て、軽くお辞儀をし、突然の訪問を詫びた。

「すまない。前もって、使いを出して、訪問を連絡すればよかったのだが、それも面倒をかけてしまうからな」

実にさわやかな口調で言い訳をする若者、それが家治公であった。

「どんな花がいいか、実際に見てから、自分で選んで、妻に贈りたいのだ」

若き次期将軍を見た一瞬に、お花の心中の迷いが吹き飛んでしまった。

家治公は、やや遠慮がちな笑顔で言った。

「田沼から、この植木屋お咲が、一番良いと勧められてからな」

「田沼殿が」お花は、強い驚きを覚えた。

そこで、お花は、改めて田沼意次への想いを考え直した。竹松の死という悲劇はあった。だが、家治公の言葉を聞き、何が正しいのか、何が悪いのか、善悪の基準は一体何だろうかと、深く考えさせられた。

若き次期将軍は、お雪の説明に頷きながら、にこやかにあとからついて行く。

「これは、祖母のお咲の好きだった花車(はなぐるま)です」お雪が、丁寧に説明した。

「こちらは、冬吉兄様が描いた肥後六花でございます」春吉まで、威張るように案内している。

お花は、京の人が好むであろう、古典的な朝顔の、夏に見事に開花する鉢を手に取り、若き次期将軍に差し出した。

「これなど、倫子様のお気に召すかと思います」

お花の言葉に、聡明そうな若者は、丁寧な挨拶をした。

「ありがとう。見事な庭の花々だ。倫子にも見せてあげたい」

家治公は、花を愛でながら、庭を歩き回った。

「田沼にも礼を言わないとな。こんな花々を教えてくれたのだから。田沼は良き政治家だ。身分は低いが、とにかく、才覚がある」

若者は、そうお花に言いながら、植木屋お咲の技術を褒め称えた。

それを見ながら、お花は、自分の悩みが朝霧のように、スッと消えていくように思えた。

「やはり、冷静に考えて行動したことは、間違えではない。もしかすると、私は、自分の思い込みで、田沼殿を悪だと決めつけていたのではないか」

お花は、田沼意次に直接会ったことはない。すべて人の噂話だけで、判断していたのだ。

世の中の仕組みは、自然に流れて来たものではない。時には、すごい天才的な人が、それまでの慣習をひっくり返す。それは、従来の方式とは真逆のことだ。反対する人々が多いのは当然である。株仲間を設立した時も同じであった。まして、日本全体を考えると、何をどうするにも反対派は必ずいる。

次期将軍、家治が、植木屋お咲の庭にいた時間は、わずかであったが、その印象は大きくお花の思考を変えてしまった。

「もう一度、ゆっくり考えよう」

お花は、若き次期将軍の清々しい姿を見て、そう決意したのである。

倫子姫の訪問:悲しみと花の力

宝暦十年、世は大きく動き、徳川家治が十代将軍に就任した。翌年には、九代将軍家重が逝去するという時代の変遷が速やかに行われた。その間に、大岡忠光も既にこの世の人ではなくなっていた。

お花は、この時の移り変わりの速さに、時折戸惑いを感じた。若き頃に感じた湧き立つような心は消え、ただ自然のままに身を任せ、朝が来たら目を覚まし、働き、夜には床につくという慣わしが心地よくなっていた。

そんな春のある日、正之助を通じて、お城からの使いが来た。使いの者は、次期将軍ではなく、現将軍家治公のたっての願いがあるという書状を差し出した。

「お花殿。将軍様からの直々の書状にございます」正之助は、緊張をもって言った。

お花が書状を広げると、そこには、奥方である倫子様が二度も幼な子を失い、生きる気力を無くしてしまったこと、そして、「植木屋お咲」の庭にある花々を、ぜひ見せてあげたいという切実な内容が記されていた。

「姫様が、深い悲しみの中にいらっしゃる」お花は、胸が締め付けられる思いであった。

「むろん、断る理由はない。いつでもお待ちしておりますと、返事を書いて」

お花は、すぐに返書を書き、使いの者に渡した。

数日後、豪華な金蒔絵の駕籠が、再び**「植木屋お咲」**の門前に停まった。引き戸から、美しい若き奥方、倫子姫が降り立った。

その顔には、悲しみが深く刻まれ、蒼白いススキのような危うさが見てとれた。しかし、お付きの者が手を出し、支えようとすると、倫子姫はその手を拒み、自分の足で、一歩を踏み出した。

「こちらにどうぞ、お越しくださいませ」お花は、静かな声で誘導した。

倫子姫が庭先に出ると、やつれた顔にほんのりと、柔らかな光が差した。

春吉が、姫の儚げな姿を見て、幼い声ながらも勇気を出して説明した。

「お姫様、こちらが越後の椿です。白と紅の絞りが、とてもきれいでございます」

春吉の純粋な言葉に、姫の笑顔がはっきりと見えた。

続いて、お雪も負けじと声をかける。

「これは、豆桜の盆栽です。私が山で見つけて育ててます。食べる豆では、ありません」

お雪は、冗談を言った気持ちはなかったが、倫子姫は、「ふふふ」と、静かに笑った。

お付きの者が、涙ぐみながら、静かに漏らした。

「今年初めての、笑顔です」

お花は、その光景を見て、深く感じ入った。

「貧乏でも、金持ちでも、どんなに位が高くても、不幸は平等にやってくる」

倫子姫は、その後、半刻以上、お花園の庭を眺めていた。静かに、ゆっくりと歩き、時折、空を眺めながら、音もなく、ため息をついた。

そして、お花に静かに礼を述べた。

「素晴らしい庭です。お上(将軍)の話された通りでした。誠に有難うございます」

倫子姫は、静かに去って行った。しかし、その頬は、来た時より、ずっと淡い桃色になっていた。

お花は、姫の悲しみを聞いてあげることはできなかったが、悲しみは身分を超えて、平等にやってくることを肌で感じた。植木屋お咲の庭は、位や財に関わらず、人の心を癒す力を持っていることを、お花は改めて知ったのである。

倫子姫の訪問により、悲しみの平等を知ったお花であったが、その平和な思索は、株仲間の内部で起こった凄惨な事件により、打ち破られることとなった。

株仲間の運営が順調に進んでいたある日、植木職人の一人が、不審な死を遂げたという凶報が飛び込んできた。

「正之助殿!大変でございます。裏木戸近くで、竹造(たけぞう)が殺されておりました」植木職人が、顔面蒼白で駆け込んできた。

正之助は、血の気が引くのを感じた。竹造は、株仲間の規律をよく守る真面目な男であった。

すぐに奉行所の役人が現場に駆けつけた。彼らは、事件の真相を探るよりも、迅速な捕縛を優先した。

「この株仲間の中に、犯人がいる。近くにいた者を全て引き立てる」

役人は、事件の場に近かったという些細な理由だけで、株仲間の仲間である喜六(きろく)を、有無を言わさず捕縛し、牢屋へと連行した。

正之助は、喜六が殺しなどする性分ではないと知っていたが、奉行所の強権の前には無力であった。

「待ってください。喜六は、真面目な男です。株仲間の仲間が、仲間を殺すなど、あり得ません」正之助は、必死に訴えた。

「口を出すな。公儀の捜査に逆らうつもりか」役人は、冷酷に言い放った。

数日後、喜六は、牢の中で病を得て、獄死したという報が届いた。株仲間の者たちは、恐怖と動揺に包まれた。

「喜六が、何の罪もなく、死んでしまうとは」

「これが、公儀のやり方なのか」

正之助は、株仲間の代表として、仲間を守れなかったという自責の念に深く悩まされた。

「信用の力だけでは、この世の理不尽には勝てぬのか。竹松の時と、何も変わらぬ」

彼は、武士の権威と奉行所の理不尽が、再び罪なき命を奪ったことに、強い怒りと絶望を感じていた。

一方、お花は、この騒動の中で、株仲間の組織を守り、民の心を支えるための新しい志を固めていた。

「正之助さん。公儀の力は、人の命を奪う。だが、私たちの花は、人の心に命を与える」

お花は、権力者の壮大な庭ではなく、誰もが憩える場を作ることを考えた。

「六義園のような、大名が手間暇かける庭ではない。いつでも気軽に行けて、散歩できるような、普通の人が管理できる花の公園を作りたい」

正之助は、妻の突然の計画に驚いた。

「花の公園ですか。それは、公儀の土地を借りるということでしょうか」

「いいえ。株仲間の植木職人たちが、自らの手で、誰もが楽しめる庭を作るのだ。貧乏でも、金持ちでも、身分に関係なく、花を愛で、心を休められる場所を」

お花の計画は、公儀の権威とは無関係に、民衆の中に心の安寧の土台を築くという、静かで深い志に基づいていた。喜六の獄死という悲劇を乗り越え、お花は次の行動へと踏み出したのである。

株仲間の仲間、喜六の獄死は、正之助とお花の心に深い影を落とした。しかし、この不審な死の裏には、単なる商売敵の争いでは済まされない、世の大きな流れが隠されていた。

正之助は、喜六が何の罪もなく死んだことを知っており、独自に真相を探っていた。やがて、密かに得た情報は、驚くべきものであった。

「お花殿。喜六が殺されたのは、株仲間の争いではなかった」正之助は、声を潜めて言った。

「では、何が原因でしたか」お花は、強い緊張をもって問い返した。

「喜六は、皇権の回復を説く尊王論者と、密かに交流を持っていた。幕府の体制に疑問を抱く者たちと、銭や情報をやり取りしていたのだ」

「尊王論。朝廷の権威を重んじる者たち」お花は、事の重大さに気づいた。

「そうだ。そして、彼と対立する勢力が、竹造を殺した。これは、幕府の仕組みを根底から覆そうとする者たちの間の、小さな争いだった」

正之助は、役人の動きの不自然さについて語った。

「奉行所の役人は、この真相を知っていた。だが、尊王論者が関わっていると公にすれば、京都にまで逮捕者を出す大騒動になる。それは、幕府の威厳を揺るがす」

「だから、騒動が大きくなる前に、無実の喜六を犯人に仕立てた。小さな事件として擬装し、事を収めたのだ」

お花は、深い絶望を感じた。体制の安寧のために、罪なき一人の命が道具として使われた。

「竹松の時と同じだ。公儀の都合のために、人の命が容易く踏みにじられる」

「ええ。私たちの植木、資材株仲間が、尊王論者に利用されたという事実が表に出れば、組織全てが潰されるところであった」

お花は、世の大きな動きと、武士の理不尽な体制の闇の深さに心底疲れを感じた。争いや権謀術数は、花を育む土とはかけ離れた場所にある。

「正之助さん。もう、世の争いに心を煩わせるのは、やめにしましょう」お花は、静かな決意を口にした。

「株仲間の仕組みは、あなたの統率力で維持できる。私は、心を花に戻す。そして、民のための花の公園を必ず作る」

お花は、喜六の死という悲劇から、争いのない世界を具現化することを志とした。

「争いを好む者には、権力と銭を追わせればよい。私たちは、命の安寧を求める人々が、心を休ませる避難所を作るのだ」

「貧富も身分も関係なく、花の美しさだけが平等な場所。その土台こそが、真に世を変える力となると信じる」

正之助は、妻の深い志を理解し、力強く頷いた。

「承知した。株仲間は、そのための銭を稼ぐ。あなたは、花を咲かせなさい」

お花は、世の動乱の影から目を背け、花の公園作りに熱中することで、己の心と民の安寧を守り抜くことを決意した。

喜六の獄死という悲劇に心を痛めたお花は、争いのない安寧の場を花で作り上げることを決意した。その志を果たすため、彼女は家族と平賀源内に新しい計画を打ち明けた。

ある日、お花は、正之助、平賀源内、そして冬吉、お雪、春吉を茶の間に集めた。

「皆に、新しい計画を打ち明ける。私は、身分も貧富も関係なく、誰もが心を休ませられる花の公園を作りたい」お花は、強い眼差しで言った。

源内は、すぐに興味を示した。

「公園とは、南蛮にもある庭園のことか。だが、公儀の金を使わず、庶民が憩える場を」

「そうだ。六義園のような手間暇かける壮大な庭ではない。普通の者が管理でき、季節を彩る、素朴な美しさを持つ場所だ」

お花は、具体的な協力を求めた。

「源内殿。日本の気候に合い、手入れが簡単で、一年中花を咲かせるための知恵をお貸しください。薬草の知識も必要だ」

源内は、快諾した。

「良い志だ。南蛮渡りの種や、日本古来の強靱な花を選び出すのは、私の博物学の得意とするところだ。土の質も、株仲間の保証があれば問題ない」

🌼 幼子たちの役割と花の選定

お花は、子供たちにも役割を与えた。

「冬吉。あなたは、公園の設計図と、花の咲き具合を絵に記録するのだ。美しさを永く残すための、筆の力が必要だ」

「承知した。印旛沼の暗い絵ではなく、希望を描きましょう」冬吉は、力強く答えた。

「お雪と春吉。あなた方は、一番近くで花を見ている。どんな花が、より簡単に育ち、人々の心を安らかにするか、知恵を出しなさい」

春吉が、元気よく言った。

「朝顔だ。種をまけば、すぐに咲く。それに、夏の暑さにも負けない」

お雪は、静かに提案した。

「豆桜は、手入れが簡単です。それに、咲いた後の葉も美しい。四季を彩れる強さが必要です」

彼らの素朴な視点は、公園作りの根幹となった。容易に管理でき、四季を通じて人々に喜びを与える花の選定が、着々と進められた。

お花は、まず植木屋お咲の敷地内に、知恵を絞った花の公園の模範(サンプル)を作り上げた。その美しさと簡素な管理に、誰もが感嘆した。

そして、正之助が、次期将軍家治公への献策の役を担った。

「将軍様。この度、植木屋お咲が、誰でも憩える花の公園の模範を造り上げました」正之助は、朝顔の絵と目録を献上した。

「お上の平和な世を、花で豊かにしたい。江戸城のお堀端や空き地を、この花で彩り、庶民に開放していただきたい」

家治公は、倫子姫が花に心癒されたことを知っている。

「民が安らぐ庭か。田沼が銭で世を治めるならば、余は花で民の心を治めよう」家治公は、静かに許可を与えた。

お花の志は、株仲間の組織力と源内の知恵、そして家族の協力を得て、現実の力となり、江戸の町に安寧の土台を築き始めたのである。

お花が花の公園計画を進める一方で、株仲間の成功と厳格な規律に反発する勢力が、お花自身を標的とし始めた。正之助が定めた清廉な掟は、旧来の商人の腐敗を許さぬものであり、彼らはお花の行動を規則違反だと糾弾することで、組織の信用を失墜させようと画策した。

ある日の株仲間の寄り合いで、以前不正を理由に脱退させられた甚兵衛が、他の古参の商人たちを伴い、騒然とした雰囲気を作り出した。

「頭取の正之助殿はどこだ。この組織の規律を乱しているのは、頭取の妻、お花その人ではないか」甚兵衛が、大声で叫んだ。

正之助が静かに問い返した。

「甚兵衛殿。あなたは株仲間の者ではない。なぜ、この集会にいる」

「私は、信用の組織を守る志を持つ者として、植木屋お咲の悪行を糾弾するために来た。三つの罪がある」

甚兵衛は、高らかにお花の罪状を読み上げた。

罪状その一:私的な利益の優先

「一つ。株仲間の資材と職人を、私的な公園造りに勝手に利用している。これは、組織の利益を、一植木屋の名声のために横領していることに当たる」

罪状その二:公儀の商売の疎か

「二つ。公儀御用である花の流通と冥加金を納めるための商売を疎かにし、利益を生まぬ公園に熱中している。これは、頭取の責任放棄に当たる」

「三つ。平賀源内という、公儀の身分を持たぬ奇人を広告塔に使い、格式を重んじる大名との取引に混乱を招いている。株仲間の信用を、素性の知れぬ者に委ねている」

お花は、騒然とする商人たちの前で、一歩前に出た。彼女の顔には、一点の曇りもなかった。

「甚兵衛殿。規律違反とは、銭を騙し取ること、偽りの土を売ることだ。私の公園作りは、株仲間の信用を高めるための正しい道だ」

お花は、力強い口調で反論した。

「資材と職人は、公園造りを通じて、新しい技術と管理の知識を学んでいる。これは組織の未来への投資だ。そして、公園は、貧富を問わず、花の美しさを知らしめる場となる」

「花を愛する民が増えれば、植木の需要は増す。それは、株仲間に長期的な利益をもたらす。私的な利益などでは、断じてない」

そして、源内への糾弾についても答えた。

「平賀源内殿は、公儀の身分がなくとも、学術という真の信用を持つ。株仲間の土を科学で証明し、天下一の信用を与えてくれたのは、源内殿の才覚だ。素性の知れぬ者に、信用を委ねてはいない」

正之助は、妻の言葉の正しさを、静かに見極めていた。

「甚兵衛。あなたの訴えは、目先の銭しか見ていない。お花殿の志は、組織の永続的な信用を築くことにある」

正之助は、厳然と裁定を下した。

「お花殿の行動は、株仲間の規律に違反しない。糾弾は却下する。そして、株仲間の外から組織の和を乱す甚兵衛殿は、二度とこの地に立ち入ることを許さない」

正之助の毅然とした裁定と、お花の理路整然とした反論により、反対派の勢いは失速した。株仲間の多くの者は、お花の志こそが組織の未来を担うことを理解し、結束を強めるのであった。

倫子姫の心穏やかな退去を見送った後、お花は、悲しみが身分を超えて平等に訪れることを改めて感じていた。数日後、正之助は、将軍家治公にお目通りする機会を得て、その言葉をお花に伝えた。

正之助は、植木屋お咲の裏庭で、家治公との謁見で交わされた言葉を、詳細にお花に語った。

「お花殿。将軍家治公は、聡明なお方だ。そして、政治について、深く考えておられる」

「家治公は、田沼殿について、何と申されました」お花は、緊張をもって尋ねた。

正之助は、将軍の言葉を正確に伝えた。

「将軍様は、『意知(おきとも)は、才知のある政治家だ』と仰せになった。足軽の身分から、自分の力だけで今の地位を築いている。政治に関して、余の出る隙はない。意知に任せておけば良い」

お花は、将軍が田沼意次を全面的に信頼していることに、驚きを覚えた。

「将軍様は、政治は難しいとも仰せになった。祖父吉宗のしたことを高く評価する者もいるが、その結果、農村は疲弊し、一揆が頻繁に起こってしまったと」

正之助は、家治公の深く踏み込んだ意見を伝えた。

「『税を高くし、農民たちに頼りすぎたからだ』と、将軍様は仰せになった。そして、『それよりも、商人に依存し、農民を少し楽させた方がよいのではと、意知は言う。余もそう思う』と」

お花は、吉宗公の質素倹約の政治が、農民に過度な重税を強いたという事実に、初めて直面した。

「田沼殿の重商主義は、農民を救うという志も持っていた」お花は、複雑な思いを抱いた。

「そうだ。そして、家治公は、田沼意次に政治を任せるという決断を下された。**『余が出たら、つい口出しをして、田沼意次のやる気を無くしてはいけないと思ってな』**と仰せになった」

正之助は、家治公の決断が、賢明であるがゆえの選択であったことを、お花に強調した。

「聡明な家治公だからこその決断だ。田沼殿の才覚を認め、口を挟まぬことで、新しい政治を実行させている」

お花は、将軍の言葉を聞き、これまでの田沼意次に対する単純な悪という評価が、大きく揺らいだ。

「私たちは、竹松の死という悲しみで、田沼殿を悪だと決めつけていた。だが、彼の政治には、農民を救うという目的もあったのだ」

正之助は、株仲間の組織を率いる決意を新たにした。

「田沼殿の目的は善であっても、手段に不正や腐敗が入り込むのは、権力の常だ。私たちは、株仲間という清い組織で、田沼殿の政の清い部分を支える。それが、正しい道だ」

お花は、若き将軍の聡明な決断と、田沼の政策の複雑な側面を知り、己の戦いの意味を、改めて深く考えるのであった。

将軍家治公の聡明な言葉を知り、田沼意次の政治に複雑な思案を抱いたお花であったが、株仲間の繁栄は、新たな闇を呼び寄せた。正之助が築いた信用の組織は、権力者の強欲という病に、今、直面することとなったのである。

株仲間の利益が公儀の運上金として高額に納められ始めた宝暦の晩春。正之助は、田沼意知の側近である目付役の加藤(かとう)に、秘密裏に呼び出された。

「株仲間の頭取、正之助か。ご苦労である」加藤は、傲慢な態度で正之助を迎えた。

「これは、ご丁寧に。公儀の益となるよう、努めております」

「益は出ているようだな。植木屋お咲の信用は、江戸中に広まっている。だが、田沼様が奨励された組織である以上、それなりの礼が必要だ」

正之助は、心の中で警戒した。

「礼とは、いかなることでございましょうか。運上金は、定めの通りに納めております」

加藤は、正之助にそっと紙を差し出した。

「これを見よ。意知様が御自ら決められたことだ。冥加金をさらに倍にする。そして、株仲間の利益の半分を、意知様の私的な資金として、秘密裏に差し出せ」

正之助は、血の気が引くのを感じた。

「法外でございます。それは、公儀の定めに反する」

「定めだと。定めたのは意知様だ。公儀の利を私的な懐に入れるのは、田沼家の許された道。これに応じなければ、株仲間の独占権を剥奪する。いや、組織そのものを潰す」

加藤の強要は、株仲間を最大の危機に追い込んだ。私腹を肥やすための不正に、正之助は断固として拒否の姿勢を示した。

「植木屋お咲の株仲間は、信用と規律を礎としている。不正な銭の流れを容認することは、規律に反する。将軍家治公の清い志にも反する」

「規律だと。馬鹿を申すな。お前の規律とやらで、命が失われても知らぬぞ」加藤は、喜六の獄死を暗に示唆した。

正之助は、命の危険を顧みず、毅然として言い放った。

「規律を破るより、株仲間が潰れる方がましだ。この不正には応じられぬ」

その夜、正之助はお花に事の次第を全て話した。

「お花殿。株仲間は潰されるかもしれぬ。意知殿の欲望は、底を知らぬ」

お花は、将軍家治公の田沼意次への信頼を思い出した。田沼意次本人には農民を救うという志があった。しかし、その息子とその周囲は、私欲に溺れている。

「田沼殿を悪だと憎んでいたのは、誤りだったかもしれない。将軍様が信頼された才覚は、真のものだったのだ」

「では、敵は誰だと申されますか」正之助が尋ねた。

お花は、静かだが強い決意をもって答えた。

「敵は、田沼殿ではない。権力に集り、公儀の信用を食い尽くす、意知殿とその側近が持つ腐敗という病だ。竹松も喜六も、この病の犠牲となった」

「将軍家治公が信頼を悪用している田沼の周囲の腐敗こそを、私たちは断ち切るべきだ。信用の組織として、この病を見過ごすことはできぬ」

お花は、株仲間の清廉な規律と、花の公園という安寧の志を武器に、権力の中枢に巣食う腐敗との対立を決意したのである。

沼意知の不当な要求を拒絶した正之助は、株仲間を最大の危機に晒していた。お花は、この強欲に対抗するため、自らが築いた「花の公園」を、世の安寧を象徴する盾として役立てようと決意した。

植木屋お咲の敷地内に作られた「花の公園」は、庶民の心を掴み、江戸の評判となっていた。管理の簡素さと四季の美しさが人々に安らぎを与えていたのである。

ある日の夕刻、譜代大名の老臣が、密かにお花の元を訪れた。

「お花殿。この花の公園は、誠に見事だ。田沼の銭の政治に疲弊した民の唯一の憩いとなっている」老臣は、声を潜めて言った。

「安らぎの場となるならば、望外の喜びにございます」お花は、静かに答えた。

「これは、田沼の強欲に対抗する、反田沼の旗頭となる。我らは、この公園を公の場で褒め称える。民の心は、清らかな花にあると、世に知らしめる」

お花は、老臣の意図が政治的な道具に公園を使おうとしていることに気づいた。

「公園は、争いの道具ではありません。ただ、花を愛する場所でございます」お花は、静かに拒否した。

入れ替わるように、今度は田沼意知の側近が傲慢な態度で現れた。

「お花。この土地は、植木屋の私的な庭にしては広大すぎる。町奉行を通じ、商業施設を建てるために、公儀が接収することを検討している」

「公園は、庶民の憩いのために開放しております。銭を生むことだけが価値ではございません」正之助が、強い決意をもって反論した。

「無益な土地は、銭に変えるのが田沼政権の理だ。公儀に逆らうならば、株仲間の独占権を剥奪する」側近は、強引に脅しをかけた。

公園を守るため、お花は源内に最後の依頼をした。

「源内殿。公園が、単なる美しい庭ではないことを証明してください。病に苦しむ人々の心を癒やすという、公共的な価値を天下に示す必要がある」

源内は、公園に強い薬効を持つ花や薬草を意図的に配置していた。

「承知した。科学の力で証明しよう。この公園の空気と土は、病の心を穏やかにする。私の弟子が、病を持つ者に公園を散歩させ、脈拍と顔色を記録した」

源内は、数値と証拠をもって、公園の癒やしの効果を町奉行に提出させた。

「この公園は、公儀の医療を助ける****価値がある。銭に換算できない公共の益だ」

株仲間の「信用」は、不正のない商売だけでなく、民の心と体を支えるという公共的な価値を持つものとなり、商業接収の動きは一時的に鈍った。

その頃、倫子姫は、お城を抜け出し、ひそかに花の公園を訪れるようになっていた。

「お花。この庭は、苦しみを忘れさせてくれる」倫子姫は、幼子を失った悲しみを静かに吐露した。

「姫様。花は、悲しみを完全に消すことはできませぬ。しかし、生きる力を、そっと与えてくれます」お花は、優しく語りかけた。

二人は、身分を超えて、悲しみと安寧を分かち合う秘密の信頼関係を築き始めた。

「お花。お上が、最近、体を病まれている。政の激務と、田沼殿の強引な政治が心身を疲弊させているのだ」倫子姫は、切実な事実を打ち明けた。

将軍家治公の体調は日増しに悪化し、政の混乱は公儀の疲弊を象徴していた。

お花は、将軍の病と、田沼政権の腐敗を断ち切るための最後の手段を決意した。彼女は、竹松の魂が宿る、再生させた雪見椿を見つめた。

「腐敗した沼で死んだ竹松。しかし、その根は再生した。腐った世でも、清い心は再び花を咲かせる」

その時、傍らにいたお雪が、倫子姫に一輪の雪見椿を託した。

「姫様。これを将軍様に献上してください。これは、ただの花ではございません。腐敗した世でも、清い心は再生できるという静かな願いでございます」

倫子姫は、お雪の心の優しさを理解した。

「わかった。お上の病が、心から清まることを信じる」

雪見椿は、倫子姫を通じて将軍の元へ献上された。公的な権力ではなく、花と人の心の力が、世の行方を左右する最終決戦の幕が、今、静かに切って落とされたのである。

田沼意知の不当な要求と公園破壊の企てにより、正之助は最大の危機に立たされていた。株仲間の独占権を剥奪され、不正を拒否した正之助は、逮捕を覚悟したのである。

正之助が、意知の側近に牢屋敷へ引き立てられる直前のことであった。江戸城内に、衝撃的な報が響き渡った。

「田沼意知様が、斬りつけられた。城内で佐野政言という旗本に斬られた」

報は、瞬く間に江戸を駆け巡った。意知は、重い傷を負い、その命を落とした。佐野政言は、切腹を命じられ、牢屋敷で自害を遂げた。政言は、「正義の士」にはなれなかったが、その一刀は、田沼政権の権力に決定的な亀裂を入れたのである。

正之助は、混乱の中、逮捕を免れたが、株仲間の運命は、五里霧中であった。

世が騒然とする中、倫子姫は、病床にある将軍家治公の看病を続けていた。意知の死は、家治公の心身に深い影を落としていた。

倫子姫は、お雪から託された雪見椿を将軍の枕元に静かに置いた。

「お上。植木屋お咲から献上された、雪見椿でございます」

家治公は、かすかに目を開け、清らかな白と紅の椿を見つめた。

「これは、あの庭の椿か。清い」

「お花が申しておりました。腐敗した沼の中でも、清い心は再生できる。この椿は、命の強さを表していると」

倫子姫は、意知が株仲間に法外な要求をし、庶民の憩いの場である花の公園を破壊しようとした事実を、静かに具申した。

御台所倫子姫の亡き後、徳川家治が妻をめとらぬという意向は、幕閣にとって受け入れがたいものであった。

老中首座の松平武元は、将軍の私的な想いと公儀の存続を秤にかける。

「殿。亡き御台所の御心は拝察いたす。なれど、公儀の安泰には世継ぎが不可欠である。正室を望まれぬのであれば、側室だけでも早く定めるべきだ」

家治は、武元の言葉に沈痛な面持ちで返す。

「わしは二度と妻は持たぬと、倫子に誓った。そなたらの言うことは重々承知している。なれば、倫子の望みを容れて、植木屋お咲のお雪を側室としよう。ただし、その娘の意向を尊重せよ」

大岡忠光より婚姻の話を伝えられた、植木屋の主である正之助とお花は、その大役に慄然とした。

「もったいない。あまりにももったいない話だ」とお花は手を合わせてつぶやく。

「お花。将軍様の御心が、亡き御台所の望みを叶えたい一心であることは承知している。だが、お雪が側室となれば、我ら植木屋は御家の安泰に関わることになるのだぞ」と正之助は娘の将来を案ずる。

お花は深く息を吸い、忠光に向かい断言した。

「忠光様。お菊は、将軍様のお情けだけで側室には上がらぬ。亡き御台所様に直接お会いしたあの子の心を知っている。この話は辞退させていただく」

忠光は将軍の強い望みを代弁する。

「お花殿。家治様は諦めておらぬ。亡き御台所様の願いを叶えることが、将軍として、また夫としての最後の務めであると深く思い定めておられる。これは単なる世継ぎの問題ではないのだ」

お花は、将軍の切なる想いと、娘の運命を天秤にかけた末、一つの決断を下した。

「では、側室としてお引き受けしよう。ただし、一つだけ条件を付けていただきたい」

「申してみよ」と忠光は身を乗り出す。

「お雪がお世継ぎを産んだ暁には、里に戻ること。側室の座は、お世継ぎを産むための一時的なものとする。将軍様の心には、永遠に亡き御台所様がおられる。お雪は、その御台所様の願いを叶えるためだけに参上する。それ以上の望みは持たぬ」

忠光は、お花の清くも切ない想いに胸を打たれ、承諾した。

お雪が江戸城大奥へ上る日が定まった。輿入れの朝、植木屋の庭先には、梅や桜の盆栽が凛と並ぶ中、お花は娘の手を取り、強く抱きしめた。

「お雪。辛い決断をさせた」とお花は静かに語りかける。

お雪は母の胸で顔を上げ、涙をこらえながら答える。

「辛くはない。わたくしは、将軍様をお慕いして奥へ入るのではない。亡き御台所様の倫子様の願いを叶えるために参るのだ。そして、必ずや、将軍家を安泰にする元気なお世継ぎを産んで、この里に戻る。これはわたくしの務めだ」

「その通りだ。決して忘れてはならぬ。そなたの役割は、お世継ぎを生むこと、ただそれだけだ。将軍様は倫子様を愛しておられる。その愛情に踏み込む必要はない」

「心得ている」

お雪の心には、将軍への淡い恋慕よりも、倫子姫の切なる願いと、母の決断への義理が強く刻まれていた。彼女は将軍に愛されることを望まず、ただ役目を果たし、愛する植木屋の里に戻ることを固く誓っていたのだ。

輿が動き出す直前、正之助がお雪に声をかける。

「お雪。将軍様は、そなたを雪ではなく雨と呼ぶかもしれぬ。されど、そなたは雨と雪、両方の強さと恵みを持つのだ。いざ、参られよ」

お雪は、一瞬振り返り、家族に深く一礼した。その眼差しは、覚悟を決めた女の強さを秘めていた。

大奥に入ったお雪を待っていたのは、煌びやかな衣装や美食ではなく、寂寥と警戒であった。

将軍家治は、側室となった雪に対しても、倫子姫への忠誠を守るかのように、冷淡な態度を取り続けた。

ある夜、家治がお雪の部屋を訪れたとき、お雪は静かに座していた。

「そなたを呼んだのは、倫子の願いだ。わしはそなたを愛していない。だが、将軍家を継ぐ血は必要だ」と家治は感情を押し殺した声で告げる。

お雪は平伏したまま、凛とした声で答える。

「将軍様。わたくしは愛を求めに参ったのではない。亡き御台所様の御志を遂げるため、お世継ぎを産む。それだけが、わたくしの使命だ。役目を果たせば、必ず里に戻る。ご心配なさりませんように」

家治は、お菊の言葉にわずかに動揺した。倫子の願いを受け入れたこの娘が、自ら愛を諦めていることに、複雑な感情を覚えたのだ。

「わかった。そなたの意思を尊重しよう」

その夜、家治とお雪は、愛ではなく、公儀の存続と亡き妻への誓いという、あまりにも切ない契りを結んだ。お雪の心の中には、故郷の土の匂いと、必ず里に戻るという固い決意だけがあった。

この側室入りは、表向きは将軍の世継ぎ問題解決であったが、水面下では、植木屋お咲とその一家が、将軍家の内情、そして老中田沼意次らの勢力争いの渦中に否応なく巻き込まれる、事件の始まりを告げるものであった。

お雪が将軍家治の側室となって半年が過ぎた。大奥の空気は、世継ぎの誕生を切望する幕府の重圧を受け、張り詰めていた。家治がお雪の部屋を訪れるのは、ただ公儀の務めを果たすためだけであり、二人の間には親密な情は生まれないはずだった。

家治は、夜伽を終えるたびにお雪に告げた。

「そなたの役割はわかっている。役目を果たせば、里に戻るが良い。わしは倫子の願いを叶えるだけだ」

お雪は常に同じ言葉で応じた。

「わたくしもまた、そのために参った。他に望みはありませぬ」

その年の春も終わりかけた頃、お菊に異変が見られた。食が進まず、かすかに気分が優れない日が続いたのだ。大奥の奥医師が呼ばれ、厳重な検診が行われた。

上臈御年寄の千代野は、緊張した面持ちで結果を待っていた。

やがて奥医師が深々と頭を下げ、千代野に耳打ちする。千代野は歓喜に震え、大声で告げた。

「喜べ。お雪様、御懐妊である。まこと、将軍家にとっての慶事だ」

この報は、瞬く間に江戸城中に駆け巡った。

千代野は早速、家治に謁見し、この吉報を伝えた。

「将軍様。お雪様がまことに御懐妊なされた。御家の安泰、これ以上の慶びはござらぬ」

家治は、顔色を変えることなく、しかし、安堵の息を漏らした。

「そうか。倫子の願いが、ようやく叶うのだな」

家治の心には、世継ぎを得た将軍としての安堵と、亡き妻への誓いを守り通したという、寂しい満足感だけがあった。お雪を愛する喜びは、どこにも見当たらぬはずだった。

一方、お菊は懐妊を知っても、歓喜に浸ることはなかった。

「これで、わたくしは里に戻れる道が開けた。あとは、無事に産み終えるだけだ」と彼女は静かに決意を新たにした。

お雪の懐妊の報は、大岡忠光を通じて植木屋にも届けられた。

正之助とお花は、その知らせに涙を流し、大いに喜んだ。しかし、その喜びは、すぐさま不安へと変わる。

お花は忠光に問い質した。

「まこと、おめでたいことだ。なれど、お雪が里に戻るという約束は、確かに果たされるのだろうか」

忠光は頷く。

「約束は将軍様とのお雪様の誓いだ。無論、果たされるべきである。なれど、里に戻るには、御世継ぎが将軍家に定着せねばならぬ。まだ先は長い」

正之助は庭の松を見上げ、深く息を吐いた。

「世継ぎを産む母となった娘を、容易く手放すまい。特に、田沼意次らは、この機を逃すまいと、必ずや画策してくるであろう」

お花は、娘の身を案じ、忠光に重ねて尋ねる。

「大奥での暮らしはどうだ。いじめや嫌がらせはないのか」

「それはご心配なく。お雪様は世継ぎの母であり、誰も表立っては手出しできぬ。だが、水面下での嫉妬や陰謀は尽きぬものだ。警戒を怠らぬよう、こちらからも手を回そう」と忠光は答えた。

お雪の懐妊は、老中首座である田沼意次にとって、不測の事態であった。

田沼は、自身の意のままになる人物を将軍の側室に送り込み、世継ぎを産ませることで、幕政への影響力を不動のものとするつもりであったのだ。植木屋という、権力とは無縁の出の娘が世継ぎの母となることは、田沼の計画を大きく狂わせた。

田沼は、自邸の奥の間で、腹心の老中・水野忠友に命を下す。

「植木屋の娘、お雪が懐妊した。これは喜ばしいことである。なれど、あの娘の背後には、将軍様の亡き御台所の意向がある。そして、その里である植木屋お咲の家は、わしらの不正を嗅ぎ回る大岡忠光と近しい」

忠友は慎重に言葉を選ぶ。

「植木屋は、もとはただの町人だ。警戒する必要があるのでしょうか」

「甘いぞ、忠友。将軍家治が倫子を深く愛し、その願いを叶えるために側室を持ったこと、これが問題なのだ。お雪を通じて、倫子の意向、ひいては反田沼の勢力が、将軍に影響を与えるかもしれぬ。お雪を監視せよ。そして、その里、植木屋お咲の動向を、常に注視せよ。特に、お雪が世継ぎを産み、本当に里に戻るようなことになれば、公儀の機密が外部に漏れる恐れがある」

田沼の胸には、世継ぎの誕生を祝う心など微塵もない。あるのは、自らの権勢を守るための冷酷な計算と植木屋お咲への警戒心だけであった。

「植木屋お咲」の二代目お花と、その娘お雪。公儀の未来を握るこの一家は、知らず知らずのうちに、田沼との血で血を洗う権力闘争の渦中に引きずり込まれたのである。

「田沼殿は、国を俯瞰して考えた才覚のある政治家でございます。しかし、その周囲が権力に溺れ、銭を貪った。お上の御心を悪用したのです」

意知の死という衝撃を受け、田沼意次は将軍・家治公に呼び出された。

「田沼。意知の振る舞いは、公儀の信用を地に落とした。お前が築いた政も、崩壊の危機にある」家治公は、問い詰めた。

意次は、一切の弁解をしなかった。

「仰せの通りでございます。意知は、私の政を支える後継でしたが、私欲に溺れました。しかし、我が志は、農民の疲弊を救い、商いの力で国を富ませることにございました」

「私は、祖父吉宗公の厳しすぎる政が、限界に来ていると俯瞰して見た。銭を嫌うのではなく、銭を使うことで世を動かそうとしたのです」

「しかし、結果は、この様だ。私の息子が斬られ、庶民の安寧を奪おうとした。私の目は、息子の腐敗を見抜けなかった。老中の職を辞任させていただきます」

意次は、政権の腐敗の責任を静かに引き受け、役職を辞した。

将軍家治公は、田沼意次の辞任を受け入れ、最終裁定を下した。

「田沼の政は、功罪相半ばする。だが、腐敗を許してはならぬ」

正之助は、全ての嫌疑が晴らされ、無関係として即座に解放された。

「正之助。お前の株仲間は、意知の不正に屈しなかった。株仲間の清廉さは、公儀の規範となろう」

株仲間は、公儀の腐敗に屈しなかった組織として、将軍から改めて公認された。そして、花の公園は、公儀の土地として正式に庶民に開放されることが決定された。

お花と正之助は、亡き竹松、獄死した喜六の志を花と信用という力に変え、権力の腐敗に静かに勝利を収めたのである。

佐野政言の一刀と雪見椿の静かな力が、田沼政権の腐敗を断ち切った後、数年の月日が流れた。花の公園は、公儀の公認を得て、江戸の庶民にとって欠かせぬ憩いの場となっていた。

穏やかな春の日、お花と正之助は、家族と共に花の公園にいた。雪見椿は、今年も清らかな白い花を幾重にも咲かせ、命の強さを示していた。

お花は、椿にそっと語りかけた。

「竹松。喜六。あなた方の志は、この清らかな花として、見事に咲きました」

「意知殿の不正も、腐敗も、もうこの土を汚すことはできません。争いは、遠い場所のこととなりました」

冬吉は、公園の美しさを後世に残すため、筆を動かしていた。春吉は、来園者に花の説明を楽しげにしていた。

「お母上。この椿は、冬の雪に耐えて、春に笑う。だから強いのですね」春吉が、椿から離れ、お花の傍に来て言った。

「そうだ、春吉。強さとは、ただ争うことではない。耐え、清らかさを失わぬことだ」

お雪が、手入れを終えた豆桜の盆栽を持ってきた。

「母上。この桜は、手がかからぬのに美しい。庶民の暮らしの邪魔をしない、良い花です」

冬吉が、一区切りつけて立ち上がった。

「父上。公園の管理は、株仲間の若い者たちも熱心に行っております。不正な土を使わぬという志は、皆に引き継がれています」

正之助は、誇らしげに頷いた。

「銭の力は、人の心に強欲という病を生む。だが、土の力は、命を育む。私たちは、株仲間という正しい土台を築きました」

正之助は、お花の柔らかい手をそっと取り、雪見椿を見つめた。

「お花殿。争いがなくなり、平和になった世で、私は本当に良かったと思っている」

「ええ。お上が信じた、安寧の世は、権力や大名が作るものではありません。花が毎日、静かに咲き、人が心安らかに過ごす。その日常こそが平和であり、私たちの手で育まれるものだ」

お花は、満ち足りた笑顔で頷いた。

植木屋お咲一家は、花と土に生きる静かな日常を再び手に入れた。世の権力と争いの嵐を乗り越え、命と信用が最も尊いという真実を、美しい花々と共に、江戸の人々に示し続けたのである。

世の争いが遠ざかり、平和な春が再び訪れた。植木屋お咲の志は、三代目へと引き継がれることになった。長男の冬吉は絵師の道を極め、お雪は花の研究を続けたため、三代目の跡は、末子の春吉が継ぐことになったのである。

植木屋お咲の庭は、春の光を浴びて豆桜が淡い紅に霞み、雪見椿の清白が際立っていた。家族が一堂に会し、ささやかな祝いの席が設けられた。

正之助が、銚子を取り、春吉に酒を注いだ。

「春吉。今日からお前が三代目だ。竹松の志を継ぎ、植木屋お咲の信用を守り抜くのだ」

春吉は、緊張した面持ちで杯を受け取った。

「父上。母上。兄上、姉上。皆様の教えを胸に刻みます」

春吉は、皆の前で、背筋を伸ばし、大仰に宣言した。

「三代目として、近江商人の精神を学ぶことにいたしました。これを以て、植木屋お咲の志といたします」

冬吉が、興味深げに問いかけた。

「近江商人の精神とは、いかなるものか」

「それは、『三方よし』の心構えだ」春吉は、得意げに言い放った。

「売り手よし。買い手よし。そして、世間よし。この三つが揃うて、初めて商いが成り立つ**。公儀の銭を追うのではなく、世間の安寧を図る。この心構えで頑張ります」

春吉の真面目で意気込んだ宣言に、お雪が静かに笑いを漏らした。

お花は、優しくも、からかうような眼差しで春吉を見つめた。

「春吉。お前は、立派に近江商人の教えを学んだようだね」

「はい。母上。新しい世を築くために、精一杯、努めます」

お花は、くすりと笑い、椿の枝をそっと撫でた。

「だが、春吉よ。その『売り手よし、買い手よし、世間よし』の心構えは、初代お咲、つまり、お前の祖母が、いつも言っていた言葉だ」

春吉は、顔を赤くして固まった。

「ええ。初代お咲は、株仲間ができるずっと前から、『植木屋は世間に安らぎを与えてこそ値打ちがある』と申していた」正之助が、穏やかに付け加えた。

冬吉が大笑いした。

「春吉。お前は、遠回りをして、結局、家の教えに戻ってきたのだな。三代目としては、格好のつかぬ話だ」

「何を言うか、兄上。大切なのは精神だ。精神だ」春吉は、慌てて抗弁した。

一家は、声を上げて笑った。その笑い声は、春の穏やかな風に乗り、庭に咲き誇る****花々の間を通り過ぎていった。

お花は、家族の温かさと、志が三代目に確かに受け継がれたことに、深い安堵を覚えた。争いの世は過ぎ去り、花と信用が根付いたこの安寧こそが、植木屋お咲が辿り着いた真の結末なのである。

🌻 第六話:二つの望み、二つの家督(最終エピソード)

陽一郎の決意と姪との対話

五葉松「三代将軍」が新芽を出した吉日の夜、陽一郎は、江戸城からの褒美として拝領した反物をお花と二人の息子に届けた。

陽一郎の亡き妹の娘であるお花は、陽一郎の屋敷の台所で、静かに茶を淹れていた。冬吉は十五歳、春吉は八歳。二人は、陽一郎の献上した朝顔の絵図を囲み、興奮して話している。

陽一郎は、子どもたちに背を向け、お花に向かって切り出した。

「お花。わしは、古家家の武士の家督について、決めたことがある」

お花は、陽一郎の真剣な顔を見て、静かに正座した。

「陽一郎様。まさか…養子の儀でございますか」

「そうだ。だが、普通の養子ではない。冬吉。お前を、古家陽一郎の養子として迎える」

冬吉は、驚きに目を見開いた。

「わ、わしでございますか?武士の…家督を」

「そうだ。お前は長男。妹の血を継いでいる。武家の家督は、血が途切れてはならぬ。これから与力の道を、わしが教える。武士としての作法、心構え、すべてだ。古家家の禄は、お前が継げ」

冬吉は、興奮と緊張で、声が出ない様子だ。

陽一郎は次に、お花の方に向き直った。

「そして、お花。お前には、もう一つの古家家を継いでもらう」

「もう一つ…」

「そうだ。植木屋お咲の暖簾、屋号、商売、そして、この屋敷の裏にある品種改良の庭。あの庭の秘術、そして、朝顔の未来を、お前に託したい」

お花は息を呑んだ。

「陽一郎様…女である私に、屋号を継げと仰せでございますか」

「世間は、女が家督を継ぐことを好まぬ。まして、植木屋の株仲間は厳しい。だが、わしの目に、亡き母(お咲)の魂が宿っているのは、お前だけに見える」

陽一郎は、朝顔の絵図を見つめている春吉を指差した。

「お前は、この植木屋の屋号を継ぎ、その技術を春吉に教え込むのだ。春吉が、将来、植木屋お咲の三代目となればよい。お前は、二代目として、わしが裏で支える」

「裏で…」

「そうだ。株仲間への出入り、大口の取引、すべて、わし(古家陽一郎)の名義で行おう。わしは、武士の家督を冬吉に譲った後、隠居の身となる。そして、武士としての最後の忠義として、お前たちの盾となり、師として生きる。植木屋の仕事こそ、わしの望みであり、善であると、五葉松が教えてくれた」

お花は、涙ぐみながらも、力強い決意を込めて答えた。

「陽一郎様。私の心の迷いも、消えました。母が申した**『花を育てて、売ることは、みんなの幸せのため』という道。それを、私が継がせていただきます。春吉にも、しっかりと命を生かすことの尊さ**を教え込みます」

春吉は、絵図から顔を上げ、陽一郎に尋ねた。

「陽一郎様!わしは、お花姉様の言う、一番珍しい美人朝顔を、たくさん咲かせればよいのでございますね!」

陽一郎は、春吉の無邪気な瞳を見て、初めて心から笑った。

「そうだ、春吉。お前は、この世にまだない、最高の美人を作り出すのだ。それは、金よりも、将軍家の禄よりも、遥かに価値のある望みだ」

最後の儀式

その後、陽一郎は、公には冬吉に古家武家の家督を譲る手続きを進め、私的には、お花に植木屋お咲の屋号を譲る、二つの儀式を執り行った。

植木屋の株仲間に呼ばれた小さな宴席で、陽一郎は頭を下げた。

「これからは、この娘、お花が植木屋お咲の店を切り盛りいたします。しかし、わしは、古家の隠居として、株仲間の皆様との義理は、すべて、生涯にわたり担い続けます。お花の技術と情熱は、亡き母、お咲以上。どうか、よろしくお頼み申します」

陽一郎は、女であるお花を守る武士の盾として、最後の務めを果たした。

陽一郎は、自らの秘密の花園の暖簾を、お花の手に渡した。陽一郎は、武士の禄を冬吉に託し、自らは、花を愛する武士として生きる道を選んだ。

彼は今、与力という仕事の苦しみから解放され、母の魂と、春吉の未来という、二つの望みを繋ぐ棟梁として、静かに笑うのであった。