江戸時代中期、園芸文化に命をかけた人々の物語
第一章
町奉行と植木職人
時は、徳川八代将軍吉宗公の世が終わり、九代家重公、そして十代家治公の治世へと移り変わった頃。政治の権力は、老中田沼意次とその子、意知へと集中し、世にいう「田沼時代」が始まっていた。金銭が物をいう世の中となり、大名から庶民まで、その恩恵と弊害の中で息づいていた。
この時代、一人の旗本がいた。名は、秋元仁三郎。三十代後半。町奉行所の勤めを担う武士であったが、世間には知られぬもう一つの顔を持っていた。それが「仁斎」と号する、生粋の植木熱中人、すなわち「植木好事家」の顔である。
飯田町の広大な屋敷の奥。夏の夜明け、まだ日の光が淡い頃。仁斎は、身分を隠すかのように袖をまくり上げ、朝顔の棚に向かっていた。
彼の目の前には、深い紫色で花弁が細かく裂けた孔雀咲きの朝顔がある。
「武家の務めは、世を律すること。だが、この花との対話こそが、真の己を磨く道である」
仁斎は、細い竹串を使い、花粉をそっと別の花へと移す交配作業を進める。
「この『孔雀』の奇を、さらに『牡丹咲き』の豪華さと結びつけたい。人の手で、天が創った形を超克する。刹那の美に懸ける、これぞ武士の道だ」
仁斎は、品種改良の図譜を広げ、植物学の知識と長年の経験則を組み合わせていた。その手つきは、刀を扱うように緻密で、精神的な緊張感に満ちている。彼の熱狂は、金銭的な道楽ではなく、ただ知の探求と美の創造に向けられていた。
一方、仁斎の屋敷からほど近い路地裏。植木屋や職人が集まる一角に、貧しい長屋があった。そこに住む留吉は、まだ十代。のちの稀代の植木屋、稲屋留吉である。
留吉は、仁斎の屋敷に草木の世話で出入りする植木職人の手伝いをしていた。
ある日、路地裏の塵溜め近くで、留吉は小さな袋を見つけた。
それは、仁斎の屋敷で「徒花(あだばな)」、すなわち変化の遺伝子が弱く、選別から外れたとして処分された朝顔の種であった。
留吉は、その種を路地の裏の薄汚れた板塀の足元にばらまいた。日当たりも水はけも悪い、誰も見向きもしない場所である。
留吉は特に理由もなく、ただ感じた。
「この種は、生きたがっている」
それから数週間、留吉は毎日、誰に言われるでもなく、そっと水をやり続けた。
ある朝、ばらまいた種の中から、一本だけ異形の双葉が出た。
通常の丸い双葉ではない。その葉は、鋭く角ばった「蜻蛉葉(とんぼば)」であった。これは、複雑な変化、すなわち出物の遺伝子を秘めた「正木」が持つ、特異な証である。
留吉は、思わずかがみこむ。
「親方にはどうせ出物なんか出やしねえって言われた種なのに」
留吉は、知識ではない、天性の直感で、その芽の持つ力を見抜いた。
「でも、こいつぁ他のどれとも違う目つきをしてる。強い。きっと、人には見えないものが見えてるんだ」
彼の情熱は、学問ではない。「生かすこと」への本能的な喜びであった。将軍吉宗公が奨励した実学を、彼は直感で実行しているにすぎない。
奇跡の朝顔
その朝、秋元仁斎は、市中の朝顔の流行を探るため、飯田町の裏道を歩いていた。仁斎の目的は、屋敷では生まれぬ新たな出物を探し出すことであった。
そこで仁斎の目に留まったのが、留吉が育てている、まだ蔓を伸ばし始めたばかりの「蜻蛉葉」の苗であった。
仁斎は、その蔓を手入れしていた小僧に静かに尋ねた。
「そこの小僧。その苗は、どうしたのだ」
留吉は、立派な武士に声をかけられ、びくっとした。
「へえ。路地裏に捨ててあった種を蒔いたら、こんな葉っぱになりやした。変でございますか」
留吉は、訝しげな顔つきで答える。
仁斎は、驚きを隠しきれずに尋ね返した。
「変ではない。これは蜻蛉葉。大変化の遺伝子を秘めた正木の兆しだ。これを捨てたのは誰だい」
「さあ、分かりやせん。親方も見向きもしなかったもんです」
仁斎は、言葉を失いそうになった。自分の屋敷で知識と技術の粋を集めても、なかなか出ない奇跡の一本を、この無学な小僧が偶然とはいえ、路地裏で生み出している。
そして、その苗に注がれている留吉の純粋な愛情と直感を、仁斎は読み取った。
「これが、天命か。高貴な庭園の知恵と、貧しい路地の生命力。真の美の探求には、どちらも欠かせぬということか」
仁斎は、決意し、留吉に尋ねた。
「この苗、わしに譲ってくれぬか。代わりに、お前の暮らしが立つだけの金を払おう」
留吉は、すぐに首を振った。
「金は要りやせん」彼は、仁斎の顔をじっと見上げる。
「この苗が咲いた暁には、その花を一度だけ、わたくしに見せてくだせえ」
金ではない。自ら生かした花の変化への渇望が、留吉の原点だ。この瞬間、秋元仁斎と、のちの稲屋を立ち上げる留吉の、身分を超えた深い交流が始まった。
仁斎は、路地の裏で留吉から譲り受けた一本の朝顔の苗を、細心の注意を払って邸宅の奥の朝顔棚に移した。
その苗は、通常の朝顔の丸い双葉ではなく、鋭く角ばった「蜻蛉葉」の相を呈していた。それは、品種改良の世界で「正木」と呼ばれる、大きな変化(出物)を内包する貴重な遺伝子のあかしである。
「路地の生命力と、わしの長年の知恵。この二つが合わさって、この苗が一気に『出物』を開花させる。町奉行として江戸の悪を裁くよりも、この生命の『理』を探る方が、よほど心を騒がせる」
秋元仁斎は朝、そして夕刻、この一本の苗から目を離さなかった。彼は「仁斎」として、詳細な観察記録をつけ始めた。双葉の形態、蔓の伸び方、葉の色の変化。全てを、武家文書のように正確に書き記した。
一方、留吉は、武士の屋敷に自分の育てた苗が持ち込まれたことが、不思議でたまらなかった。
数日後、秋元仁斎は留吉を呼び出した。場所は、屋敷の裏口に近い、植木職人や下働きが出入りする勝手口。
「留吉。あの苗の成長ぶりを見に来たのだろう。遠慮はいらぬ。入れ」
「へえ、ありがたき幸せ。あの葉っぱ、元気に育っておりやすか」
「元気に育っている。お前が路地の隅で、水をやり続けたその情熱が、この苗の『命』となった。わしは技術でこの命を咲かせる」
「技術…。へえ、武士の旦那様が、そんな面倒くさいことを」
留吉は、純粋な疑問を口にした。
「面倒くさいだと」仁斎は目を細め、静かに笑った。「町奉行の務めも、この朝顔の育種も、同じ一つの理に基づいている。それは『真実』を探求することだ」
「真実」
「そうだ。武家の務めは、法の網の目から逃れる悪人どもを見つけ出すこと。この育種は、数多の種の中に潜む『奇跡』を見つけ出すこと。お前は一見、路地の無学な小僧だが、その『勘』は、並の学者や武士よりも、よほど真実に近い」
「旦那様、わしの『勘』なんて、ただの水やりですよ」留吉は空を見つめていう。
「そう言うな。お前は、捨てられた種の中に『生きたい』という強い念を感じ取った。それが全てだ」
秋元仁斎は、邸宅の奥から一冊の書物を持ってきた。それは、彼自身が描いた朝顔の品種改良図譜だった。
「これを見ろ。武家の秘密の書だ」
留吉は、図譜を広げ、その緻密さに息を飲んだ。複雑な交配の計画、花の形態の細かな分類、全てが文字と絵で正確に記されていた。
「すげぇ。こんな複雑なこと、どうやって考え出すんです」留吉は唸った。
「経験則と、論理だ。しかし、この論理をもってしても、お前の路地の隅で生じた一本の『正木』には敵わなかった。だからこそ、わしとお前は『組む』べきなのだ」
秋元仁斎は、留吉の目を真っ直ぐに見つめた。
「留吉。約束通り、花が咲いたら一度、見せてやる。その代わり、わしの屋敷で下働きをしながら、わしの朝顔育種の助手になれ。わしの知識と、お前の天性の『勘』で、誰も見たことのない奇跡の花を生み出すのだ」
留吉は、目を輝かせた。金銭よりも、自ら生かした命の行く末と、この武士の熱狂的な探求心に惹かれていた。
「光栄でやんす。でも、わしは字も読めやせんし、難しいことは分かりやせんよ」
「それで良い。お前は、わしの『目』になれ。そしてわしは、お前の『知恵』となろう。武士と植木屋の小僧。江戸始まって以来の、奇妙な『同心』の誕生だ」
「同心とは……」
留吉には難しい言葉は理解できなかった。
「そうだ。わしは秋元仁斎。お前は、いずれ名をあげるだろう植木屋。共に、江戸の裏表にある『真実』を追い求める」
二人は、身分も知識も超えた、奇妙な師弟関係、そして探求の同志として、その時、誓いを交わした。この出会いが、数年後に田沼の世で、大きな波紋を呼ぶことになることを、二人ともまだ知る由もなかった。
それから数日、秋元仁斎の屋敷の朝顔棚は静かな熱気に包まれていた。留吉は仁斎の助手として、毎日屋敷に通い、植木の世話を手伝いながら、特にあの「蜻蛉葉」の苗に心を砕いた。
季節は夏の盛り、朝顔の開花の時期である。
一本の蔓は、他のどの朝顔よりも力強く伸び、蕾をつけた。その蕾は、一般的な朝顔のような丸い形ではなく、いびつで角張っていた。
「来るぞ、留吉」
仁斎は、夜明け前、まだ月が残る時刻に留吉を朝顔棚に呼び出した。仁斎の顔は、町奉行として悪人を追い詰める時よりも、はるかに興奮に満ちていた。
「へえ、旦那様。蕾の形が、おかしいでやんすね」
「おかしいのではない。これが『変化(へんげ)』の兆しだ。この形こそ、複雑な『出物』を開花させるあかし。わしが長年追ってきた『奇跡』だ」
二人は息を潜め、夜明け前の薄闇の中で、蕾がゆっくりと開くのを待った。
どこからともなく、「ツッピン」「ツッピン」という四十雀や「ホーホケキョ」という鶯の涼やかな鳴き声が聞こえてくる。やがて、東の空が薄紅色に染まり始めた。
その時、空の色に合わせるかのように、蕾は開き始めた。
そこに咲いたのは、ただの朝顔ではなかった。花弁は幾重にも重なり合い、牡丹(ぼたん)のように豪華な「牡丹咲き」。色は、見たこともないほどの鮮やかな紅色で、花弁の縁には細かな白い斑(ふ)が入っていた。
「…すげぇ」
留吉は、ただそれだけを絞り出した。路地の裏で捨てられていた種が、人の手と自然の力によって、これほどまでの美しさを纏(まと)ったことに、言葉を失った。
「見事だ。これは、まさしく大輪の千変紅牡丹(せんぺんべにぼたん)。いや、名付けるにはまだ早い。だが、わしの図譜に描いた理想を超えた」
仁斎は深く息を吐き、留吉に向き直った。
「留吉。お前が路地で生かさなければ、この花は存在しなかった。わしが技術で導かなければ、この美しさは開かなかった。これが、二人の『同心』が成した一つの真実だ」
この見事な「変化朝顔」は、瞬く間に植木屋の間で噂になった。特に、仁斎が自ら育てたという話は、武士の間にも広まり、好事家たちが仁斎の屋敷を訪れるようになった。
「旦那様、この花を一目見せていただきたい」
「いかほどでお譲りいただけるのか」
仁斎は、この花の「親木」からは種を採り、翌年の育種に備えるが、花自体を売るつもりはなかった。しかし、この流行を利用することを考えた。
「留吉。お前は今、植木屋の親方についているな」
「へえ、親方の手伝いで、この界隈を出入りしていやす」
「良いか。この『千変紅牡丹』の種子、いや、親木から採れた『正木』の系統を、お前が世に広めるのだ」
「わしが……」留吉は言葉がでなかった。
天才植木屋、稲屋留吉
「そうだ。お前は天才的な『勘』を持つ植木屋として名をあげよ。わしは武士の務めがある。表向きは、わしが趣味で育てた花を、お前の植木屋が請け負って世に出すという体裁をとる」
これは、ただの商売の話ではなかった。当時、老中田沼意次の政治が権力を握り、商業が奨励されていた。植木や園芸の流行もその一つだったが、一方で、財力のある商人や武家が金に物を言わせて希少な花を独占する傾向もあった。
数年後、仁斎は町奉行として多忙を極めていた。そして留吉は、正式に「稲屋留吉」と名乗り、彼の天才的な才能と、仁斎から提供される珍しい朝顔の種子により、江戸で評判の植木屋となっていた。
ある夕暮れ、町奉行所から屋敷に戻った仁斎は、裏口で稲屋留吉と会った。
「留吉。今日の町の様子はどうだった」
「へえ、旦那様。相変わらず、江戸の金持ちは、珍しい花を競って買い求めやしたがる。中には、大奥に出入りするご用達の商人もいやした」
「そうか。老中の田沼様も、大の植木好きで知られる。権力と金が、この花の世界にも流れ込んできているな」
秋元仁斎は、町奉行として知る江戸の裏側と、稲屋留吉が植木屋として肌で感じる商売の熱狂を重ねて見ていた。
「稲屋留吉。お前が植木屋として江戸の金や人の流れを見る。わしが町奉行として、法の網の目から溢れる悪を探る。二つの目から見た情報が、必ず一つの真実を教えてくれるはずだ」
「わしはただの植木屋の小僧ですが、旦那様の目となり、耳となりましょう」
「頼むぞ。この二つの世界、すなわち武家の務めと、植木の探求。どちらも、わしにとっては『真実』への道だ」
仁斎と留吉の、身分を隠した奇妙な連携は、こうして始まっていった。彼らの知恵と勘、そして朝顔の流行は、やがて江戸の権力構造を揺るがす事件へと繋がっていく。
仁斎との秘密の協力関係が始まって数年。
留吉は、もはや飯田町の裏路地で水やりをする小僧ではなかった。彼は、江戸で一、二を争う評判の植木職人、「稲屋留吉」として名を馳せていた。
彼の店の前には、常に珍しい植物を求める大名や裕福な商人が列をなした。彼の扱う朝顔は特に格別で、仁斎から提供された「千変紅牡丹」の系統を元に、さらに奇抜な変化(出物)を生み出していた。
「稲屋さんの花は、他の植木屋のとは違うな」
「へえ、旦那様。花はただの美しさじゃねぇ。その中に潜む、誰にも見えない『生命の意志』を、わしは形にするだけですよ」
稲屋留吉は、知識ではなく、植物の遺伝子的な組み合わせを直感で見抜く天性の才能を持っていた。彼の育てる朝顔は、奇抜で、時には異様なほどの異形を呈した。
「この不安定な世の中そのものが、花になったようだ」と、ある武士は評した。
植木市
留吉が手掛ける稲屋の花園で、年に一度の変化朝顔の植木市が盛大に開かれるようになった。澄みあらに切った青空の恵みを受け、留吉が丹精込めて育て上げた朝顔たちは、その日ばかりは主役となり、来場者の視線を釘付けにした。
色とりどりの着物をまとった人々が、花園を埋め尽くす。 扇子で涼を取りながらも、その目は鉢植えの朝顔に集中している。
「ほう、あの鉢の渦巻き咲きはまた見事」着流しの武士が感銘を受けている。
「いえいえ、隣の獅子咲きも捨てがたい」老武士が反論する。
また、評判の美人たちが、涼しげな声音で語り合う。その指先が、しとやかに花の形を指し示す。まるで、浮世絵から抜け出してきたかのような、艶やかな情景である。
子供たちは、朝顔の珍しい花弁に歓声を上げ、老人は、かつて育てた自慢の朝顔を思い出し、懐かしげに目を細めている。誰も彼もが、花の魔力に魅入られ、日頃の憂さを忘れていた。
ひときわ目を輝かせているのは、遠国から来た人々である。
参勤交代の供をして江戸に来た武士は、郷里では見慣れぬ複雑な模様や、七変化する色合いの朝顔に目を丸くする。
「まさか、朝顔一つで、これほどの妙があるとは……お江戸の粋は底知れぬ」
そう感嘆の声を漏らし、懐から取り出した手ぬぐいに、花の姿を熱心に写し取る。故郷に持ち帰って、この江戸の華やかさを伝えたいのであろう。
行商人たちは、口をあんぐり開けて、まるで夢でも見ているかのように、ただただ朝顔を眺めている。彼らは、旅路で見てきたどのような景色よりも、この花の園が、「お江戸」のすごさを物語っていると感じていた。
「これほど美しい花が、この江戸では、日々生まれ変わるのか」
彼らの心には、江戸の文化の奥深さと人々の熱意が焼き付いた。
稲屋留吉は、この賑わいを一歩引いた場所から静かに見守っていた。庶民の喜びに満ちたこの光景に、深い満足感を覚えていた。
「皆が、この花で笑顔になる。それが、何よりの喜び」
稲屋留吉はそう心の中でつぶやいた。隅田川の清らかな水が、人々の心を潤す花々を育み、そして、その花々が、江戸の文化を豊かに彩っていく。
変化朝顔の植木市は、お江戸の園芸熱を如実に示す場であった。しかし、その熱気が高じるあまり、小競り合いが勃発した。
品評会の会場の一角で、植物研究サークル「花愛会」と「育華連」の会員たちが、激しい議論を交わしていた。
「我らが丹精込めた唐橘の鮮やかさこそ、至高の技であろう」
花愛会の当主が、朱色の実をたわわにつけた鉢を指し、誇らしげに胸を張る。その唐橘は、実のつき方、葉の配置、枝ぶり全てが整い、見る者を圧倒する出来栄えであった。
しかし、育華連の頭領は、顔色一つ変えずに反論する。
「いや、真の粋は、この万年青の葉芸に見るべし。深緑の中に浮かび上がる斑の妙は、自然の造形美そのもの」
彼の差し出す万年青は、葉の一枚一枚に異なる模様が浮かび上がり、まさに葉の芸術と呼ぶにふさわしい逸品であった。
議論は白熱し、互いの鉢を持ち上げては、 「この石斛の古木の風情を見よ」 「何を申す、この錦蘭の繊細な花付きこそが、真の価値」 と、互いの自慢の鉢を突き出し、激しく言葉を交わす。彼らが持ち寄った唐橘、万年青、石斛、錦蘭など、どれも優劣つけがたい名品ばかりである。
周囲の観客も、どちらが優れているかを判断できず、ただ固唾をのんで見守っていた。このままでは、せっかくの植木市が、台無しになってしまう。
その時、静かに現れたのが、秋元仁斎であった。喧騒の中心に立つと、誰にでも聞こえるが、決して声高ではない、滑らかな声音で語り始めた。
「皆々様、しばしお耳を傾けてくだされ」
仁斎の声に、花愛会と育華連の面々は、ようやく鉢を下ろし、仁斎に注目した。
「花は、競い合うものではございません。ましてや、優劣をつけるものでもございませぬ」
仁斎は、唐橘と万年青、石斛と錦蘭、それぞれの鉢に、優しく目を向けた。
「この唐橘には、育て手の熱き情熱が宿り、この万年青には、悠久の時が流れております。石斛には古木の魂が息づき、錦蘭には繊細なる美が宿る。どれもこれも、一つとして同じものはございませぬ」
仁斎は、花愛会と育華連の当主たちの目を見て、続けた。
「それぞれが、唯一無二の美しさを持ち、育て手の心血が注がれております。人は、その美しさを静かに見て、心で楽しむもの。己の心に響く花を見つけ、それに癒される。それこそが、花を愛でる真髄ではございませぬか」
仁斎の言葉は、水が染み渡るように、互いの優劣を競い合っていた心に静かに響き、花の本当の美しさを見失い、己の我欲にとらわれていたことに気づかされた。
花愛会と育華連の面々は、顔を見合わせ、やがて互いに頭を下げた。
「仁斎殿のお言葉、肝に銘じまする」
場に満ちていた緊張が解け、再び穏やかな空気が流れる。仁斎は、争いのない和合こそが、花がもたらす真の力であると信じていた。
観客たちは、仁斎に感銘を受け、また稲屋留吉も、仁斎の教えを胸に深く刻んだ。
『争いのない和合こそが、花がもたらす真の力』
稲屋留吉はこの言葉を座右の銘にした。
その頃、江戸の権力の頂点に立つ老中、田沼意次も、その植木屋・稲屋留吉の評判を聞きつけていた。
田沼は、賄賂政治や重商主義で批判されることも多かったが、彼の内面は、徹底した合理主義と、古い慣習を打ち破ろうとする強い「改革者」の意志に満ちていた。
田沼の私邸。静かな書斎で、彼は稲屋留吉の朝顔の図譜を見ていた。稲屋留吉が育て、秋元仁斎が記述した名著だった。
「この稲屋留吉という男、実におもしろそうだ」
田沼の側近である一人の家臣が、恐る恐る口を開いた。
「老中様。あの植木屋の出す花は、あまりに奇抜すぎます。武家のたしなみとするには、少々下品かと」
「馬鹿め」田沼は一喝した。「お前は、この花を『下品』などという旧い尺度で見ている。世の中は、常に変わりゆく。人が決めた『美』など、あやういものだ」
田沼は図譜を指差した。
「見ろ。この花は、親と同じ形を保とうとしない。常に新しい形、新しい色を求め、遺伝子という大きな『賭け』に挑んでいる。これこそ、わしが目指す世の姿だ」
「世の姿でございますか」
「そうだ。古い慣習、格式、血筋。それらを守ろうとするのが保守派だ。だが、それでは世は停滞する。わしは、農民も商人でも、才覚と力を持つ者が一旗揚げる世にしたい。この稲屋留吉の変化朝顔は、その『才覚』を象徴している」
田沼にとって、稲屋留吉の朝顔は、彼自身の政治哲学を体現する一つの芸術品だった。既存の武士の規範(正統な形)を裏切り、奇抜な才覚(出物)によって価値を生み出す。それは、彼自身の「重商主義」に通じる思想だった。
町奉行所の難題
数日後、町奉行所。秋元仁斎は、老中田沼意次の施策によって生じる、江戸の混乱を処理していた。商業の活発化に伴う不正や、武士と町人の間の軋轢が絶えなかった。
「旦那様。近頃、老中様のお気に入りの豪商が、米相場で不正を働いたという訴えが二件上がっています。遊女を側室にしたお旗本を取り締まるより、不正を厳罰にしたほうがよろしいのでは」
奉行所内でも意見が揃わない。
「田沼様は、江戸を潤そうとしている。それは理解できる。だが、その手法が、法の網の目を潜らせるほどの急進的なものだ」
仁斎は、植木の師弟関係で結ばれた留吉との会話を思い出す。
「稲屋。田沼様は、お前の花がお好きだと聞いた」
「へえ。、お屋敷にご用達の商人が来て、わしの花を大量に買い付けていきやした」
「お前は、田沼様の政治をどう思う」稲屋留吉は、少し考え、言葉を発した。
「わしには難しいことは分かりやせん。ですが、旦那様が育てた『正木』の種を、わしが一気に世に広めることができた。それは、田沼様の『世』だからでしょうね」
稲屋留吉は、田沼の改革が、自分の才能を開花させる「土壌」になっていることを直感的に理解していた。
秋元仁斎は、町奉行として田沼政権の負の部分を厳しく裁かなければならない。しかし、個人としては、田沼が持つ「変化」を恐れず、新たな価値を創造しようとする熱狂を、一種の「探求者」として認めざるを得なかった。
「わしは、武士として、この世の『理』と『法』を守らねばならぬ。だが、田沼様は、その『理』そのものを変えようとしている。まるで、大きな『変化朝顔』だ」
秋元仁斎は、田沼意次を単純な敵ではなく、自身と同じく「変化」という真実に向き合う、一つの強大な存在として捉え始めた。
この複雑な感情が、秋元仁斎が町奉行として下す次なる裁き、そして稲屋留吉の植木屋としての大成に、大きく影響を与えていくことになる。
町奉行所に一件の訴えが持ち込まれていた。老中田沼意次と繋がりを持つ豪商「大黒屋」が、米相場で不正を行い、多数の小商人を破滅させたというものだ。
秋元仁斎は、町奉行としてこの事件を担当していた。
「旦那様。大黒屋は、相場を操作して数万両の利を得ています。しかし、老中様のお膝元ゆえ、手が及びませぬ」
「手が及ばぬなどという法はない。法の下に、身分や権力は関係ない。だが、この事件の裏には、田沼様が重きを置く商い中心、株仲間をどんどん増やすという大きな流れがある。単なる不正で片付けては、真実を見誤る」
秋元仁斎は、事件の背景にある政治的な意図を読み取ろうとした。大黒屋の不正は、田沼の改革を加速させるための「お手本」のように機能している可能性があった。必ず裏があるはずだ。
「法の裁き、時代の流れ。この二つをどう両立させるかが、わしの務めだ」
橋上の薄幸
同じ頃、日本橋のたもと。多くの船が行き交う賑やかな橋の上で、一人の女が、ぼんやりと川面を眺めていた。
女の名はお雪。かつて越後騒動で失脚した元勘定奉行の娘である。越後騒動は、田沼意次が頭角を現すきっかけとなった事件であり、お雪の父は、その陰で全てを失った。
お雪は、その後、田沼と親しい豪商の家に嫁いだが、「子宝に恵まれぬ」という理由で、先ほど、夫から「三行半」(離縁状)を突きつけられたばかりだった。
「父の無念。そして、我が身の不幸。全ては、この世の『変化』についていけなかった、弱き者の宿命なのか…」
お雪は、身分も家も、そして居場所も失い、死を考えていた。
そこへ、植木の仕入れから戻ってきた稲屋留吉が通りかかった。彼は、橋の欄干にもたれかかるお雪の、その尋常ならざる雰囲気に気が付いた。
留吉の「勘」は、植物の生命力だけでなく、人の持つ強い「念」にも敏感だった。
「姉さん。そこで、何をご覧になっているんです」
稲屋留吉は、静かに声をかけた。
お雪は、突然の呼びかけに驚き、振り返った。その顔は、かつての武家の娘としての気品を残しつつも、深く影を落としていた。
「…あなたには、関係のないことですよ」
「そうかもしれません。ですが、わしには、姉さんの後ろに大きな『影』が見える。それは、生きたいと願う『念』だ」
留吉は続けた。
「わしは植木屋でやんす。捨てられた種の中に強い『命』を見つけて、花を咲かせるのが役目。姉さんにも、まだ咲かせるべき『花』があるように見える」
お雪は、留吉の素直で不思議な言葉に、胸を突かれた。
「わしは稲屋留吉。植木屋です。よろしければ、わしの家で女中として働いてみませんか。米も、三食、きちんと出しますよ」
留吉は、見返りを求めず、ただ一人の人間としてお雪に手を差し伸べた。お雪は、自分を捨てた豪商とは正反対の、留吉の飾らない優しさに触れ、涙を堪(こら)えた。
「…お世話になります。稲屋様」
留吉は、お雪を自分の長屋に連れ帰った。
「わしの家は、武士の家とは違う、小さな植木屋です。ですが、ここでなら、姉さんの心の『命』を、ゆっくりと育て直せるかもしれません」
お雪は、植木屋の女中として、留吉の身の回りの世話を始めた。彼女は武家の娘であったため、家事や金銭の管理に優れており、留吉の仕事の手助けになった。
数週間後、秋元仁斎が稲屋留吉の家を訪れた際、お雪に会った。
「その女中…。見慣れぬ顔だが、お前が連れてきたのか」仁斎が問う。
「へえ、旦那様。橋の上で、放っておけなくて。元は武家の娘さんだそうでやんす」
仁斎は、お雪の立ち居振る舞いから、只者ではないと察した。そして、その武家の娘が、田沼政権の渦中で全てを失った者であることをお雪の大まかな話から読み取った。
「留吉。この娘は、お前が育てている一本の朝顔のようだ。繊細だが、強い『根』を持っている。大切にしろ」
「へえ。わしが、大切に育てます」留吉は居住まいを正して答えた。
植木屋の夫婦
留吉とお雪は、やがて互いの境遇を理解し、惹かれ合っていく。留吉は、お雪を妻として迎え入れることを心に決めた。
植木屋の『変化』を恐れない心と、武家の娘の『誇り』が、ここで一つになろうとしていた。
一方、秋元仁斎は、大黒屋の不正の裏に、お雪の父を失脚させた越後騒動の残滓(ざんし)と、田沼政権の新たな陰謀が絡み合っていることを直感し、深く捜査を進める決意をした。
お雪が稲屋留吉の家に来て数ヶ月が過ぎた。
留吉は、植木屋としての商いの合間を見て、お雪に意を決して、申し込んだ。
「お雪さん。わしとは身分が違う。恐れ多いと我慢していたが、どうにもたまらない。どうか、夫婦になってくれませんか」
お雪は、静かに頷いた。
「留吉様。身分は関係ありません。それより、わたくしは、子を産めぬと三行半を出された身。それでもよろしいのですか」
「子を産むことだけが、女人の一生の価値ではない。わしの商売は、植物の『種』を生かすこと。ですが、わしの一番の『命』は、お雪さん、あなただ。あなたが生きて、わしのそばにいてくれる。それだけで、わしは百人力ですよ」
留吉の素朴で力強い愛情に、お雪は胸が熱くなった。
「わたくしには、もう何もありません。ただ、亡き父の勘定奉行時代の経験がございます。植木屋の帳面なら、お役に立てるかと」
「頼みます。わしは、植物のことは天下一品だが、銭勘定は苦手でやんす」
こうして二人は夫婦となった。お雪が帳場を仕切り始めてから、稲屋留吉の植木屋はさらに繁盛した。
ある日、稲屋留吉は秋元家の屋敷で、朝顔の芽について仁斎と話し合っていた。
「旦那様。今度の芽は、また奇妙な双葉、まるで刀のような形をしております」
「それは、新しい『変化』の兆しだ。留吉。話は変わるが、お前、お雪殿と夫婦になったそうだな。お雪殿の父君は、越後騒動でお役御免になった元勘定奉行。そして、その騒動で、老中田沼様は出世の道を固めた。お雪殿は、田沼様を恨んではいないのか」
留吉は、お雪から聞いた話を、正直に仁斎に伝えた。
「お雪は、田沼様を恨んでいないようです。むしろ、父は田沼様の新しい政策に乗ることで、大きな利を得ていた。それを使いこなせず、自滅したのだ、と」
「ほう。そうか。お雪殿は、ただの武家の娘ではないな」
仁斎は静かに頷いた。田沼意次は、幕府の硬直した財政を立て直すため、商業を奨励し、士農工商の枠を超えた税の徴収を模索した。その過程で、古い慣習を守ろうとする官僚は淘汰され、お雪の父のように、新しい波に乗り損ねた者もいた。
「田沼様は、決して単純な悪ではない。彼は、古い『農』からの税に頼る幕府の制度こそが『欠陥』だと知っていた。だからこそ、商人から税を取ろうとした。それは、今までの江戸の常識を覆す、大きな『変化』だ」
仁斎は、町奉行として、田沼の急進的な政策が生む負の側面を裁かなければならない。だが、その根底にある「改革」の意志は理解していた。
「問題は、老中様その人ではなく、その周りに集まる者たちだ」
「旦那様。米相場不正事件の件で、一つ、気になる情報が」
町奉行所の部下が、秋元仁斎に囁いた。
「老中田沼様のご子息、田沼意知(おきとも)様が、今回の豪商『大黒屋』の不正に、深く関わっているらしい」
仁斎の目が鋭くなった。
「意知殿か。老中田沼様は、下の者にも礼を尽くし、将軍家治様からも信認を得ている有能な人物。だが、ご子息は違う」
「へえ。意知様は、父君の権威を笠に着て、傲慢(ごうまん)な態度をとる人だ。父君の築いた土壌で、何の苦労も知らずに育ったお方。彼こそが、大黒屋を影で操り、私腹を肥やしている張本人かと思われます」
古い慣習を打ち破ろうとする田沼意次の才覚とは裏腹に、その息子は、父の権力を私物化し、私利私欲に走っているのか。これは、植木の世界でいう「正木」から生まれた「出物」が、さらに奇形となり、大きな欠陥を抱えてしまうようなものだった。
「田沼意次殿の『変化』は、世を救うための大きな賭け。だが、その息子の『私欲』は、幕府を破滅させる毒となる」
仁斎は、事件の裁きを、田沼意次への批判ではなく、その息子意知の傲慢と不正を断ち切る機会だと捉え直した。しかし、裁きは困難だった。前例にない事件は裁きを難しくしていた。
「留吉の『奇妙な種』と、この意知の『不正』。どちらも、この不安定な世の中で芽生えた『異形』だ。植木屋の勘と、町奉行の法。二つの力で、この江戸の病巣を断ち切らねばならぬ」
仁斎の心の中で、大きな決意が固まった。裁きの刃は、意知へと向けられた。
しかし、時の流れを待つ必要があった。急いては事を仕損じる。
稲屋留吉とお雪が夫婦になって一年が過ぎた。
留吉は、朝早くから植木の世話をし、町へ出入りする。お雪は、帳場と家事を完璧にこなす。植木屋の小さな長屋だが、そこには以前のお雪が知らなかった安寧(あんねい)があった。
「留吉様。今月の仕入れの銭勘定、合いましたよ。無駄な出費を一つ削ることができました」
「へえ、お雪さんのおかげで、わしは安心して植木に集中できる。わしは、植物のことはわかるが、人の世の銭の流れは、どうにも複雑でやんす」
お雪は、豪商の家にいた頃の冷たい格式張った生活とは違い、留吉の素直さと、植物に対する一途な情熱に、心の底から尊敬の念を抱いた。
「留吉様。わたくし、あの屋敷では、いつも誰かに監視されているような心地でした。ですが、ここには、土の匂いと、生きているものの息遣いがある。わたくしの心を、ゆっくりと育て直してくださったのは、あなた様ですよ」
「お雪さん、留吉様はよしてくれ。留吉でいい。それにわしは何もしていやせん。お雪さん自身の『命』が強かった。それに、この家にいて、苦労はしていませんか」
「いいえ。それなら、お雪さんでなく、お雪。それに何も苦労はありません。ただ、一つ……わたくし、やはり、子を授かることは難しいようです。夫から三行半を突きつけられた理由ですから……」お雪は、少し寂しそうな顔をした。
留吉は、その言葉を聞き、静かにお雪の手を握った。
「お雪さん、いやお雪。わしは、植木屋だ。植物の種は、土壌が痩せていたり、水が汚れていたりすると、どんな良い種でも芽を出さない。子宝も同じです」
「…同じ」
「へえ。前の旦那様の家は、金や格式に縛られた、冷たい土壌だった。芽を出せなかったのは、お雪の体のせいではない。心が安らいでいなかったからだ」
留吉は、日頃から自然界の理(ことわり)を観察していたため、人間もまた自然の一部であることを知っていた。心身の健康こそが、新しい命を育む土壌だと直感していた。
「稲屋は、貧しいけれど、温かい。お雪。あなたは、今、とても良い土壌にいます。だから、信じて待っていてください」
一姫二太郎
そしてその一年後、お雪は一人目の子を身ごもった。
稲屋留吉の予言通り、お雪の心と体の安らぎは、新しい命の芽吹きとなった。
お雪が最初に産んだのは、長男だった。
「わあ、大きな声で泣く、強い子だ。旦那様。元気ですよ」
留吉は、初めて抱く我が子に、涙をこぼした。
そして二年後には、二人目の息子を授かった。稲屋留吉二が続けて男の子をもうけたことに、周囲から「さすが天才植木屋、子宝にも恵まれている」と評判になった。
そして三年後、ついに三人目にして念願の娘を授かった。世に言う一姫二太郎だ。
留吉の家は、三年の間に三人の子どもに恵まれ、賑やかな「長屋の植木屋」の家族となった。お雪は、子どもたちの誕生を、留吉が育てた「変化朝顔」の開花と同じくらい、大きな奇跡だと感じていた。
この慶事を知った仁斎の奥方、お優も、心から祝いの品を持って稲屋を訪れた。
お優は、仁斎の妻として、武家の務めを支えてきた賢夫人。自分の子どもたちは既に成人し、夫の仁斎は、町奉行の務めと、邸宅の奥の朝顔の育種に夢中なため、比較的暇な時間が増えていた。
「お雪さん。これほどの子宝に恵まれたこと、本当に心からお祝い申し上げます」
「お優様、ありがたき幸せにございます。まさか、わたくしにこれほどの幸せが来るとは思いもよりませんでした」
お優は、仁斎の屋敷の離れにある小さな小屋を、近所の貧しい子どもたちや、士農工商の身分に関わらず、学びを求める子どもたちのための「寺子屋」として開いていた。
「稲屋の息子さんたちは、もうすぐ物事の理を覚える頃でしょう。もしよろしければ、わたくしが教えている寺子屋へ、通わせてはいかがですか」
「へえ。武家の奥方様が教えてくださるなんて」
「身分は関係ありません。仁斎様も言われます。『真実(まこと)の探求には、知識と勘の両方が必要』だと。わたくしは、学んだ知識を、次の世代に伝えたいだけです」
数年後、長男と二男は、二人揃って、お優が教える寺子屋に通い始めた。
長男は、お雪の知恵と細かさを。二男は、留吉の勘と力を。二人の息子は、仁斎の家の離れで、武家の奥方から、人の世の理(ことわり)と文字を学び始めた。
父は、植木屋として大きな変化の世を生き抜き、母は、その裏で安寧の礎を築いた。そして、二人の息子は、仁斎と、その妻の教えによって、この複雑な世を生きるための知恵を身につけていくのだった。
季節は秋へと移り、仁斎が担当する豪商「大黒屋」の米相場不正事件の捜査は、膠着状態にあった。時の政権と癒着があまりに深く、生半可な探りでは解決の糸口が見つからなかった。
町奉行所の執務室。秋元仁斎は、山積みの書類を前に、静かに思索にふけっていた。
「旦那様。大黒屋の不正は明白でございます。相場の騰落(とうらく)を意図的に操作し、多くの小商人を破滅させ、銭を吸い上げました。しかし、後ろ盾が田沼意知様となると、なかなか手が及びません」
筆頭与力)が、顔を曇らせて報告した。
「手が及ばぬではない。法の光が、まだ届いておらぬだけだ」
仁斎は書類から目を上げず言った。
「意知殿は、父君(老中意次)の権力を笠に着ている。それは、父君が目指した新しい時代の『才覚』ではない。『私欲』だ」
仁斎は、田沼意次の才覚自体は認めていた。士農工商の枠組みを打ち破り、停滞した幕府財政を商業の力で立て直そうとする彼の志は、一種の「変化朝顔」のような大きな賭けだった。だが、その二世である意知は、その改革の恩恵を、個人的な富に変えていた。
「米相場は、この江戸の命だ。農民が汗水流して作った米を、銭でもてあそぶ。これは、世の根本を揺るがす大罪だ。意知殿が関わっている証拠を、必ずつかめ」
仁斎の執念は、植木の育種と同じく、真実の一点を探し出すことに集中していた。彼は、意知が不正に得た銭の流れ、特に、意知の隠し財産がどこに注ぎ込まれているかを徹底的に調べさせた。
しかし、その行方はまるで分らなかった。
一方、飯田町の稲屋植木屋は、仁斎を介して、近くの大名の広いお屋敷跡を借り、夫婦と三人の子どもたち、そして二人の丁稚(でっち)を抱えるまでに発展していた。
留吉は、相変わらず自分の『勘』だけを信じ、珍しい朝顔や菊の育種に没頭していた。お雪が来てからは、店の経営が安定し、心置きなく土と命と向き合えたからだ。
「旦那様、この一本の菊。花弁の形がどうも揃(そろ)いやせん。世間では『正統』ではないと嫌われるでしょうが」
丁稚が不安げに尋ねた。
留吉は、その菊を手に取り、嬉しそうに笑った。
「馬鹿め。揃わないのが、この菊の命だ。全ての花が同じ形である必要はない。世の中が求めるのは、決まった美しさだけではない。誰も見たことのない奇抜さだ」
「奇抜さ、でございますか」
「わしが扱う『変化朝顔』と同じ。あの花は、わざと遺伝子を不安定にし、百本の種の中から一本の奇跡を生み出す。わしは、人の世でも、安定した農民だけが税を納め、武士や商人がそれに胡座(あぐら)をかく世より、田沼様がやろうとしているように、皆が才覚を競い、変わっていく世の方が、面白いと思うのだがな」
留吉は、田沼の政治を一つの大きな「育種」と捉えていた。不安定だが、そこから新しい芽(才覚ある商売人)が生まれ、世が潤う。ただし、留吉は、その「変化」が、人を傷つける毒であってはならない、とも知っていた。
仁斎の屋敷の離れにある寺子屋では、留吉とお雪の二人の息子、長男と二男が、お優の教えを受けていた。
長男は、母譲りの細やかな気配りと、物事を論理的に捉える聡明さがあった。二男は、父譲りの天真爛漫さと、何事にも恐れない勘を持っていた。
お優は、二人に文字の読み書きだけでなく、論語や人間としての心得、そして世の中の仕組みを丁寧に教えていた。
「農は、米を育て、世の土台を作る。工は、家や道具を作り、利便を与える。商は、物を運び、世の血流となる。では、士は何をするのですか」お優は問いかけた。
次男は、手を挙げて答えた。いつも素早い。
「士は、刀を持って、悪い奴らをやっつける」
「それも一つの答えです。では、あなたはどう思いますか」
長男は、少し考えて答えた。常に慎重に物事を進める。
「士は、四つの民の争いを収め、世の理(ことわり)を守る。父が植木を育てるように、人々が安らかに暮らせる道を作るのが、士の務めです」
お優は、長男の答えに深く頷いた。
「素晴らしい。その通りです。あなたのお父上である留吉様は、商人だが、その心は、世の理を追求する士の心を持っていらっしゃる。そして、あなたのお母上は、士の家柄から、商人の家へ嫁ぎ、二つの世界の知恵を活かしていらっしゃる。身分とは、ただの形であり、心が大切なのです」
老中田沼意次が権力を握る江戸時代中期。彼の政治手法は、商業の奨励という新しい風を吹き込んだ一方で、旧来の武家の価値観を大きく揺さぶっていた。
田沼家は、次々と幕府の重要な役職を持つ旗本や譜代大名との間に、姻戚関係を結びつけていった。表向きは、身分を高めるための政略結婚だが、その裏では、膨大な金が動いていた。
権力を結ぶ金の結納
仁斎は、町奉行として、その「金の流れ」の異常さに気が付いていた。
町奉行所にて、仁斎は与力を集めていた。
「田沼様の縁組は、通常の武家の婚姻とは訳が違う。結納金、持参金、仲人への謝礼、婚礼の儀式にかかる諸費用…一つ一つが、桁外れだ」
与力が戸惑いながら言った。
「旦那様。老中様の権勢が強いゆえ、皆、進んで銭を出すのでは」
「馬鹿め。進んで出すのではない。田沼様の派閥に入るための『参加費』だ。その銭は、どこから来る」
「それは…」
「賄賂だ。田沼様は、この姻戚関係を網の目のように張り巡らせることで、幕府の要職を一手に握ろうとしている。そして、その網を維持するための糧が、豪商たちからの賄賂、すなわち不正な銭だ」
仁斎の読みは鋭かった。役人たちは、田沼と姻戚関係を結ぶことで、職位を安泰にし、自らも豪商からの賄賂を受け取る構造が出来上がっていた。この構造こそ、田沼意知が米相場で不正を働ける土台となっていた。
「役人すべてが、この『金の蔓』に絡め取られている。これは、一人の悪人ではなく、組織全体の病だ」
この権力と金の流動化は、植木業界にも大きな特需をもたらしていた。武家や豪商は、権威を示すため、また、婚礼や贈答品として、高価な植木を競って求めた。
特に人気が高かったのは、五葉松(ごようまつ)や銘木(めいぼく)の椿、梅、桜といった、格式を示す樹木。そして、留吉の扱う変化朝顔のような珍奇な花も、権勢を誇示する贈答品として重宝された。
稲屋植木屋も、その恩恵を最も受けている一つだった。
店の裏で、留吉は三人の子どもたちを見守りながら、珍しい五葉松の剪定をしていた。この松は、近々、田沼意次の娘の嫁入り先の大名屋敷に納められる予定だった。
「この松は、見事な曲がりですね。百万両の値がついてもおかしくない」お雪が帳面を見ながら言った。
「一本の松に、一国の米の値段がつく。恐ろしい世の中だ」留吉は不安だった。
留吉の表情は晴れなかった。彼の本心は、土と命の真実に向き合うことであり、金銭の多寡ではない。だが、店の売り上げの大半が、田沼政権の生み出す「金の流れ」に依存しているのも事実だった。
「お雪。この五葉松を求める人々は、本当にこの木の命を愛しているのだろうか。ただ、金の力を見せつけるための道具として、わしの植木を使っているのではないか」
お雪は優しく言った。「わたくしの父も、金の力に乗ろうとして失敗しました。この世の水は、流れている。その流れを止めることはできません」
お雪は、留吉の植木屋が、田沼政権の闇から生まれた需要に支えられている現実を、冷静に受け止めていた。
「ですが、あなたは、決して偽りの植木を売ってはいません。この松も、朝顔も、あなたの命と勘が育てた真実の美です。彼らが金でしか価値を見いだせないのは、彼らの問題であって、あなたの罪ではない」
留吉は、お雪の言葉に救われた。彼は、自分の仕事が、権力者たちの道具になってしまうことへの恐怖を抱いていたからだ。留吉はただ純粋に木々や花の命を生かしたかっただけだ。それが彼の願いであり、生きているあかしだった。
ある夜。仁斎は、留吉を自宅の植木小屋に呼び出した。
「留吉。お前の植木屋は、今、一番、田沼家の裏の銭の流れを知っているはずだ」
「へえ。近頃は、婚礼の贈答品として、珍しい五葉松や椿の注文が飛び交ってます」
仁斎は、一枚の紙を広げた。そこには、田沼意次が姻戚関係を結んだ役人の名と、その際に動いたとされる大まかな金額が記されていた。
「これを見ろ。この二年で、動いた賄賂の額は、数十万両に上る。この金が、幕府の役人全体の精神を蝕(むしば)んでいる」
「まるで、病に冒された土壌ですね」留吉は植木に例えた。
「その通りだ。そして、その『病』を最も悪化させているのが、田沼意知殿だ。父君の権力を利用し、自分の懐を肥やすことしか考えていない」
仁斎は、意次の政治の才覚を毒に変えているのが、その息子であると確信していた。
「意次殿は、幕府を救うために金を動かそうとした。それは一種の賭けだ。しかし、意知殿は、その金を、私欲のために動かしている。お前が育てる『変化朝顔』が、時として毒の芽を出すように、新しい力もまた、悪を内包する」
仁斎は、留吉に頼んだ。
「留吉。お前が納める植木、特に意知殿の屋敷に関わる贈答品の流れを、細かく追え。彼が、どの大商人と繋がり、どの役人と密約を結んでいるのか。植木は、彼らの私的な交流の証となる」
「植木屋の仕事で、武士の裏の取引を探る。異な話ですね。承知しました。わしは、土の真実を裏切る者を許しやせん」
留吉は、自分の仕事が、ただ植木を売るだけでなく、江戸の正義を守る一助となることに、新たな使命感を見出した。彼の勘と、仁斎の執念、そしてお雪の知恵が三位一体となり、大きな権力の闇に立ち向かう覚悟が、改めて固まった。だが、それは思わぬ展開となる。
老中田沼意次は、江戸城奥の執務室で、一枚の地図を広げていた。それは、蝦夷地(えぞち)、すなわち今の北海道の地図である。彼の目論見は、北方の開拓、そして交易によって幕府の財源を根本から立て直すという、大胆なものだった。
その場には、田沼に意見具申をするため、一人の老臣が来ていた。
「老中様。蝦夷地の開拓など、前例のない無謀な企てでございます。何よりも、金がかかりすぎます」
「前例、前例と、お前たちはそれしか言えぬのか」田沼は苛立(いらだ)ちを隠さなかった。「幕府の財政は火の車。農民からの年貢だけでは、この大きな船(幕府)は沈む。新しい海に出なければ、皆が溺れるのだ」
「しかし、金はございません」
「だからこそ、銭を生み出すのだ。印旛沼(いんばぬま)の干拓による新田開発、南鐐二朱銀の発行による貨幣の流通促進。皆、世を動かすための策だ。古い体制の錆(さび)を落とさねばならぬ」
将軍家治との静かな関係
田沼の改革は、士農工商の身分制や、前例踏襲を正義とする官僚たちから、強い反対を招いた。田沼のやり方は、秩序を乱す悪でしかなかった。しかし、田沼意次が、これほど大胆な政策を打ち出せる理由は、第十代将軍徳川家治の深い信任があったからだ。
家治は、政治よりも学問や武芸を好んだが、決して暗愚な将軍ではない。彼は、幕府が抱える根深い財政難を理解し、田沼の才覚が、この危機を乗り越えるための唯一の術だと見抜いていた。
数日後、田沼は一人、将軍家治の私室に招かれていた。
「意次。蝦夷の件、無理に進める必要はないぞ」家治は、静かに述べられた。
「上様。しかし、北方の危機と財源の確保は、待ったなしにございます」
「わかっておる。だが、お前一人に、全ての憎しみを負わせるわけにはいかぬ」
家治は、世間の田沼に対する非難の風が強いことを知っていた。その非難は、田沼の急進的な政策に向けられたものだが、その裏には、新しい時代を受け入れられない硬直した者たちの憤りも含まれていた。
「わしが何も発しないことで、世間の目は全てお前に向かう。憎しみが一点に集まれば、わしは何の非難も浴びずに、お前の改革を守ることができる」
田沼は、家治の深い理解と孤独な決断に、思わず頭を下げた。
「上様。その御配慮、深く感謝いたします。わたくし一人が悪人と呼ばれようとも、御上の世を守るため、全力を尽くします」
家治は、田沼の才覚を信じていたが、同時に、一人の人間として孤立していく田沼の心配もしていた。田沼の政治は、付け届けという慣習を利用して金を集め、改革の資金に充てる二重の構造を持っていた。
当時の世では、付け届けは挨拶の一種であり、賄賂という現代の悪の意味合いとは異なっていた。しかし、その金の額と頻度は、常識の範囲を超えていた。
田沼意次の私邸。執務の合間に、彼は一服の茶を点てていた。
「父上。今日も、老臣たちの意見は硬直していたのですか」
そばに控えていた意知が尋ねた。
田沼は、静かに言った。
「意知。彼らは悪ではない。彼らの正義は、何百年と続いた前例を守ることだ。わしは、その正義を破ろうとしている。だから、わしが悪なのだ」
おの
田沼は、茶を一口飲み、続けた。
「新しいことを始めるには力が必要だ。そして、力の源は銭。銭を集めるには、皆が認める慣習を利用するしかない。付け届けを受けることは、皆を味方にする手段。、わしの改革に乗って利を得ようするものも、また、新しい波を求めるものどもだ」
田沼は、自分の手法が清いものではないことを知っていた。だが、幕府を救うためには、自分の名が汚れることを厭わなかった。その孤独な覚悟が、彼を改革者として立たせていた。
この日もまた、田沼家からは大量の植木の注文が来ていた。特に、五葉松は格式を示すため、必需品だった。
稲屋は、一級品の五葉松を選び、田沼家の家臣に納品していた。
「老中様は、特に梅の木がお好きだ。春に咲く力強い花を見るのが楽しみでな」
家臣は、一般には知られていない老中の素顔を留吉に漏らした。
留吉は、その話を聞いて、何かを悟った。改革の嵐を巻き起こす老中も、一人の人間として、梅の花に心を安らげている。
「仁斎様が、田沼様を憎むな、と言われた意味が分かった気がする」
留吉は自分の胸に語りかけた。田沼の改革は、自分の植木屋を繁盛させた恩人でもある。彼の政策は、土を肥やし、新しい芽を育てた。だが、意知の私欲は、その肥えた土を毒で汚そうとしている。
留吉は、田沼意次と意知の二世の隔たりこそが、この世の真の病だと確信した。老中の才覚と、その息子の凡庸な私欲。この対比こそが、仁斎から頼まれた捜査の次の焦点となる。
仁斎は、留吉のもたらす田沼家の植木の注文と流れを基に、意知の隠し財産の構造を徐々に解明していた。しかし、田沼意次の権力は未だ揺るぎなかった。
誰も知らないが、第十代将軍徳川家治の体は、徐々に病に蝕まれていた。この事実こそが、田沼政権の運命を決定づける、隠し玉になるのだ。
季節は盛夏。稲屋留吉は、江戸の中心、日本橋のほど近い広場で、一年に一度の大きな花市を開催していた。
これは、ただの植木の販売会ではない。留吉が育種した変化朝顔の新作を発表する、植物愛好家たちの祭典のようなものだった。
会場には、十数張りの天幕が張られ、五彩繽爛(ごさいひんらん)の朝顔が棚に並べられていた。その変化の妙は、通常の朝顔とは一線を画し、花弁が千重に重なる牡丹咲きや、葉が蜻蛉(とんぼ)の羽のように裂ける獅子葉、そして見たこともない奇妙な色彩を放つ出物ばかりだった。
三人の子どもたちを連れたお雪は、帳場で忙しく銭を勘定している。長男と二男は、寺子屋で習ったばかりの文字を使って、朝顔の品種名が書かれた札を懸命に書いていた。
「今年も大賑わいです。参勤交代で江戸に来ている他国の大名の家臣たちが、珍しい土産にと、争うように花を求めております」お雪が、嬉しそうに言った。
「へえ、お雪。彼らが求めているのは、花そのものよりも、国元へ戻った時に語れる珍しい話の種。田舎では見られぬ、江戸の『粋(いき)』だ」
留吉は、一本一本の朝顔の世話をしながら、全国から集まった武士たちと、熱心に植木の話を交わしていた。
「稲屋殿の花は、何という奇妙さだ。わが藩の御用庭師も、このような花は作れぬ」
一人の奥州の武士が、驚いた声で言った。
「わしの花は、土の中の命と、人の勘の『賭け』です。皆が安定した美しさを求める中で、わしは、わざと不安定な道を選ぶ。そこに、真の美があると信じているのです」
留吉の植木に対する哲学は、田沼意次の革新的な政治にも通じていた。不安定な世を恐れず、新しい価値を生み出す。この精神が、江戸の粋人たちを惹きつけていた。
人の賑わいが最盛期に達した頃、一人の武士が、その花市にぶらりと現れた。
装束は地味だが、目光の鋭さと、佇まいの凛々しさは、並の武士ではない。それは、他ならぬ町奉行、秋元仁斎だ。彼は、公の場では留吉との関係を隠している。
仁斎は、植木の棚を歩きながら、留吉が新たに育てた「出物」の朝顔を、厳しい目で検査していた。
一際、異彩を放つ、花弁が緑色がかり、葉が縮れた朝顔の前で、仁斎は足を止めた。
「この花、見事なる『獅子緑牡丹(ししみどりぼたん)』だな。わしの屋敷の棚には、この色の系統はない」
留吉は、仁斎の声を聞きつけ、丁寧に頭を下げた。
「旦那様。これは、『不安定の美』を目指した一品でやんす」
「この花の種子、後で、それなりの値で譲ってもらおうか」
二人の会話は、公の場では、あくまで武士と植木屋という関係を保っている。仁斎は、周囲の武士たちに聞こえるように言った。
美人画の大家
「稲屋殿の植木は、真の理を追求している。江戸の武士も、花を通じて、己の道を見極めるべきだ」
そこへ、さらに一人の人物が、花市の賑わいを割って入ってきた。
大きな筆と墨壺を抱え、派手な着物を着た、浮世絵師、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)だ。歌麿は、美人画の大家として、江戸で一世を風靡していた。
歌麿は、留吉の妻であるお雪の、武家の出身ゆえの気品と、植木屋の女房としての慎ましさが合わさった美しさに、一目で魅せられた。
「これは、見事なる花の宴でござる。わしは、浮世絵師の歌麿と申す」
歌麿は、留吉と仁斎を一瞥し、お雪に向かって頭を下げた。
「奥方殿。わしは、二つの美を一度に見ることができた。一つは、稲屋殿が生み出した、この千変万化の朝顔の美。もう一つは、奥方殿の、静かなる美だ」
お雪は、突然の称賛に驚き、顔を赤らめた。留吉は、大物の浮世絵師に妻が褒められたことを嬉しく思いながらも、その大胆さに戸惑った。
「喜多川殿。わが妻は、武家の出。そんな大げさなことを」
「武家であろうと、商人であろうと、美は身分を超える。それが、わしの信念だ」
歌麿は、仁斎が聞いているのを承知の上で、続けた。
「武士の旦那もいらっしゃるゆえ、失礼を承知でお願い申し上げる」歌麿は、丁寧に深く頭を下げた。
「稲屋殿、奥方殿。わしに、この朝顔の花々と、奥方殿を並べて描く許しをいただけないか。この絵は、必ずや、江戸の粋を体現する名作となる」
仁斎は、静かに歌麿の申し出を聞いていた。歌麿の浮世絵は、風紀を乱すと批判されることもあったが、彼の芸術に対する情熱と、身分を超えた美の探求は、仁斎の朝顔愛と通じるものがあった。
仁斎は、町奉行としての立場を保ちつつ、口を開いた。
「歌麿殿。わしは、この場にたまたま居合わせた武士に過ぎぬ。公の務めではない」
「へえ、ありがたきお言葉」
「ただ、浮世絵というのは、世の風俗を描くもの。武家の娘であった女を描くのであれば、それなりの覚悟と節度を持ちなさい」
仁斎の言葉は、歌麿への戒めでもあり、留吉への暗黙の許しでもあった。
留吉は、仁斎の意図を汲み取り、お雪に目配せをした。
「お雪。歌麿殿の申し出を受けてやりませんか。わしの花と、あなたの美しさが、永遠に絵に残る。これほど光栄なことはない」
お雪は、一瞬、迷った。武家の娘として、浮世絵に描かれることへの抵抗はあった。しかし、留吉の純粋な目と、歌麿の芸術への情熱に心を動かされた。
「喜多川様。わたくしのような者でよろしければ。ですが、わたくしは、植木屋の妻としての姿でお願いします」
歌麿は、歓喜した。
「ありがとうございます。その慎ましさこそが、最高の美だ」
歌麿は、さすがに場面をわきまえ、後日、改めて稲屋を訪れることを約束した。
その後、仁斎は、留吉と人目を避けて花市の隅で短い会話を交わした。
「留吉。お前の花市は、田沼様が目指した『新しい価値』が最も美しい形で現れている。身分も国も超えて、皆が一つの美に熱狂する」
「旦那様。わしは、ただ美しいものを作っただけです」
「それが重要だ。真の美は、法や権力を超える。わしは、その美を守るために、今、江戸の闇と戦っている」
仁斎は、田沼意知に関する捜査の進捗を、留吉に簡潔に伝えた。
「意知殿の不正の証拠は、徐々に揃いつつある。だが、老中田沼様の権力の網は強固だ。わしには、武士としての正義を果たすための時が必要だ」
「わかりやした。わしは、この植木屋の場所で、旦那様の味方として真の美と命を守り続けます」留吉はきっぱりといった。
留吉の花市は、大盛況の内に終わった。その賑わいの中で、町奉行、植木屋、浮世絵師という三人の探求者たちの心は、一つの美の真実を通じて強く結びついたのだ。
稲屋留吉の名声は、変化朝顔の育種だけに留まらなかった。彼の天才的な『勘』は、植物の健康状態を見抜く「目」としても、江戸の武家の間で評判を呼び始めていた。
田沼意次の姻戚政治により、武家の屋敷は豪華さを競い、高価な銘木を庭に植えることが流行した。特に、冬季に美しい花を咲かせる椿やサザンカは珍重された。
しかし、不慣れな土地に植えられた銘木の多くが、次々と病に冒された。
大名屋敷の嘆き
ある屋敷。留吉は、庭園の主人と向き合っていた。その屋敷の庭の椿は、葉が丸く膨れ上がる「もち病」に冒され、美しい樹形を失いかけていた。
「稲屋殿。この椿は、何とかならぬか。先祖代々の記念の木なのだ」
「旦那様。これは『もち病』という菌の仕業でやんす。湿気が多すぎると発生しやすい。他の植木屋は何と申していましたか」
「薬を撒くしかないと。しかし、その薬が効かぬのだ」
留吉は、椿の根元の土を触り、葉の裏を念入りに観察した。植物の病気は、単に外からの菌だけでなく、植えられた土壌の問題、水はけ、日当たりなど複合的な理由がある。
「旦那様。薬だけでは治りません。土の改良と、病気の葉を一枚残さず取り除き、焼き払う必要があります。そして、根に回った『しろもんぱ病』の恐れもあるゆえ、一部の根を切り離す必要もあります」
「根を切るとは大胆な処置だ」
留吉は、他の植木屋が避けるような根本的な治療法を提案した。
留吉は、治療の方法を確信するために、毎晩仁斎の屋敷を訪ねた。仁斎は、朝顔の育種を通じて植物学的な知見を持っているからだ。
仁斎は、町奉行としての執務を終えた後、植木小屋で留吉を待っていた。
「仁斎様。この葉をご覧ください。『葉枯れ病』の進行です。特に『すす病』が併発している場合、虫の排泄物を念入りに洗い流す必要がありますが、薬だけでは不足です」
留吉は、顕微鏡のない時代に、自分の目と勘だけで病気の原因を特定していた。
「ふむ。お前の診断は正しいだろう。留吉。薬は所詮、毒だ。毒を使わずに病を断つには、植物自身が持つ『生きる力』を支援するしかない」
「生きる力…」留吉は呟く。
「その通りだ。病に侵された部分を徹底的に削除し、土壌を改良して根に新鮮な養分を送るのだ。それは、武士の世でいう『病の根を断つ外科手術』だ」
二人は、幾度も試行錯誤を重ね、椿の病気の治療には、特製の木灰や油を混ぜた薬液の塗布、そして掘り起こし方など、今までの植木業界にはなかった手法を編み出した。
仁斎は、植木の治療を通して、町奉行としての法の裁きに通じる「根本的な治療」の必要性を再確認していた。
田沼意知のような私欲は、表面的な罰ではなく、その根源である「権力構造の土壌」を改良しなければ治らない。
留吉は、仁斎の知恵と自分の勘に基づき、様々な武家屋敷の植木の病を次々と治癒していった。彼の提案する治療法は、時間と労力はかかるものの、薬に頼らず、植物の力を最大限に引き出す、確実なものだった。
その名声は、江戸全土に轟いた。留吉は、自分の治療法を秘匿することなく、仁斎との協力の元、一冊の書物にまとめることを決意した。
書物の名は「花木病治録」。仁斎が監修し、留吉が実践に基づいた治療法を、お雪が武家の娘としての教養を生かし、平易な文章と緻密な図で整理した。
「花木病治録」が出版されると、江戸では空前の反響を呼んだ。これは、留吉の名声を植木屋の枠を超え、一流の職人兼学者として確立させた。
「稲屋留吉殿は、大いにあるべき『実学』を体現された」
と、儒学者の一人は絶賛した。
名声は、二つの刃を持つ。絶賛の裏で、留吉は他の植木屋や、古い慣習を守る職人たちから、強い嫉妬と反感を買うようになった。
「あの野郎、武家の旦那に取り入りおって」
「書物などを出して、植木屋の恥さらしだ」
と、陰口が絶えなかった。留吉は、外での人間関係に疲弊し、心が沈む日も増えた。
そんな時、留吉が帰るのは、お雪と三人の子どもたちが待つ、温かい長屋だった。
「おとう、今日ね、お優さんの寺子屋で、『士は世の理(ことわり)を守る』って習ったよ」長男が、元気に言った。
留吉は、子どもたちやお雪の笑顔を見ると、心の底から安堵した。
「お雪。外の世は、難しい。人の心は、植木の病よりも、よほど複雑だ」
お雪は、夫の手を取り、静かに言った。
「あなたがやっていることは、正しいことです。嫉妬は、あなたの才覚を証明しているだけ。あなたの心を安らげるのは、金ではなく、この家にある愛だけです」
後日、留吉は仁斎の屋敷を訪ね、改めて深く頭を下げた。
「旦那様。この度は、書物の監修、そして何よりも、わしの植木屋としての『道』を認めてくださったことに、心から感謝致します」
「留吉。お前はわしに礼を言う必要はない。わしは、お前の『勘』と、植物に対する純粋な情熱に学んだのだ」
仁斎は、自分の奥方であるお優の優しい心遣いにも言及した。
「わが妻、お優も、お前の子らを寺子屋で教えるのを楽しみにしている。お優は、武士の娘としての知識と、母としての優しさを持っている。彼女の温かさが、お前の子どもたちの『土壌』を豊かにしてくれるだろう」
留吉は、仁斎の広い心と、お優の優しさに改めて感謝した。彼の名声は、嫉妬を生んだが、それ以上に、二つの温かい家族の絆を深めた。
留吉は、自分の仕事が、単なる植木屋の枠を超え、江戸の『正しさ』を守る戦いに繋がっていることを確信した。
江戸城の奥、老中田沼意次の執務室は、一枚の大きな蝦夷地の地図が広げられたままだった。彼は、その未開の地図を前に、一人、深く思索に耽(ふけ)っていた。
世間では、田沼の政治は賄賂や重商主義による私腹を肥やすものだと批判されていたが、彼の真の眼差しは、常に日本の未来に向けられていた。
「金を稼ぐことは、国を守ることだ」
田沼は、静かに一人ごとを呟いた。彼が蝦夷地開拓を急ぐのは、単に財政を潤すためだけの「内政」ではなかった。
数年前、田沼は、工藤周庵が著した「赤蝦夷風説考」などの提言を熱心に読んでいた。そこには、「赤蝦夷」と呼ばれるロシアの恐るべき「南下政策」が記されていた。
田沼は、側近に尋ねた。
「蝦夷地の特産品、例えば、良質な昆布、海産物、そして薬草や毛皮の調達は、どの程度進んでいる」
「老中様。最近は、蝦夷地から「蝦夷錦(えぞにしき)」と呼ばれる特殊な織物や、良質な熊の胆などが入ってきています」
「その特産品を、わしたちはロシアとの交易の「交換品」にせねばならぬ。金だけではなく、物で国の力を示すのだ」
田沼が蝦夷地を開拓したかった真の理由は、日本の財政の立て直しと、迫りくるロシアとの緩衝地帯の確保、そして国際的な交易の足がかりにすることだった。彼にとって、旧来の年貢収入だけに頼る政治体制は、日本を滅ぼす元凶だと映っていた。
一方、町奉行秋元仁斎は、蝦夷地開拓の背景にある田沼の深い思想を、部分的に理解していた。
数日後、仁斎の屋敷に、留吉が持ってきた珍しい植物の種が並んでいた。これは、北国の商船経由で、遠く蝦夷地の礼文島あたりからもたらされた薬草の種だった。
「留吉。この種は、いつもの朝顔とは違い、耐寒性のある薬草の類いだな」
「へえ、旦那様。商人は、『北海道にしか咲かぬ薬効の強い花だ』と申していやした」
仁斎は、その種を手に取り、細かく観察した。
「北の地は、雪と寒さに覆われている。そこで生きる植物の命は、江戸の温室育ちの花とは違う、強い生命力を持っている」
「北の地…」留吉は頷いた。
「田沼様は、その北の地の力を、幕府の力に変えようとしている。蝦夷地は、単に未開の地ではない。日本を守る盾と、新たな財源の宝庫なのだ」
仁斎は、田沼の革新的な政治の「根」の部分、すなわち国家戦略を理解していた。だからこそ、田沼意次本人を裁くことなく、その政策を毒している息子の意知を裁くことに、全力を注いでいるのだ。
留吉は、仁斎から田沼の真の狙いを聞いても、その壮大な計画が江戸の庶民には届いていないことを肌で感じていた。
植木屋に集まる庶民たちの関心は、目の前の朝顔の美しさ、米の相場、そして遊び場の話ばかりだ。遠く北の地のロシアの脅威など、彼らにとっては遠い話だった。
「お雪。仁斎様は、田沼様が国を守るために蝦夷地を開拓していると言う。でも、大多数の人は、賄賂で世を乱している悪人だと思っている」
「旦那様。それは仕方ないことです。大きな改革は、必ず誤解と反発を招きます。わたくしたちのように、全体像を見ることができる人は少ない」
お雪は、続けて言った。彼女の父が勘定奉行だった時の知識が活かされた。
「ただ、蝦夷地から入ってきた「蝦夷錦」などの織物は、豪商の間で流行しています。富の流れは、確かに北へ向かっている」
「蝦夷錦」… その特産品を巡って、田沼意知が関わる新たな不正が生じている可能性がある。
留吉の勘が働いた。蝦夷地開拓の「夢」の部分は田沼意次が持っているが、その夢の途中に生じた利権に、意知らが群がっているはずなのだ。
仁斎は、留吉が持ってきた北の薬草の種を、植木小屋の奥で育て始めていた。
「この薬草は、カノコソウと呼ばれるようだ。寒さに耐える力が尋常ではない」
仁斎は白い小さな花を指す。
「へえ。どんな効能があるんです。痛みなどを押さえてくれますかね」
仁斎は、植物の生命力の奥に潜む「理」を見つめていた。
「田沼様は、北の地のこのような強い命の力を、日本の富と力に変えようとしている。その構想は、わしの朝顔育種と同じく、既存の観念を超えた探求だ」
田沼の政治は、単に銭を集めるのではなく、実利を持った新たな産業と資源を国家戦略として創り出そうとしている。賄賂は、その巨大な計画のための「手段」に過ぎない。
留吉は、改めて田沼の人間性の複雑さに気づいた。悪人ではない。日本を守ろうとした孤独な改革者。だが、その改革の過程で、法を踏み外れた者が生まれている。
「仁斎様。そのカノコソウのように、寒さに耐える強い政治の根を、田沼様は作ろうとしているのですね」
「うむ。だが、その根を守る幹である意知殿に、私欲と腐敗という病が回っている。わしたちは、田沼様の偉大な構想を全て潰すのではなく、その毒を取り除く」
仁斎の決意は、一層強固になった。植物の命の理と、人の世の法の理は、同じく「真実」を目指している。
留吉は、この真の国家戦略の背景を知ったことで、田沼意知の不正を見逃すことが、老中意次の壮大な夢の全てを腐らせることに繋がると悟った。
次の一手は、単なる法の裁きではない。国家の未来を守るための「病の根絶」だ。
真夏の江戸は、蒸し暑さに包まれていた。だが、その暑さを一時、忘れさせるのが、両国橋で開かれる「川開きの納涼」だ。この時期は、夜間の船宿や料理屋の営業が許され、両国橋の上下流で花火が打ち上げられる、
これは、単に庶民に楽しみを与えるだけでなく、屋台、見世物小屋、船宿など、多くの商業活動を促進するための、老中田沼意次の重商主義的な施策の一環でもあった。
稲屋留吉は、家族五人と丁稚二人を連れて、賑わう両国橋のたもとに陣取っていた。
三人の子どもたちは、屋台の金魚すくいや水飴に夢中だ。
「おとう、水飴の狐、二つ買って」長男が、興奮して言った。
「ほらほら、今月は植木が大売れしたから、一人二つずつ食べな」
留吉は、気前よく銭を払った。お雪は、その賑わいを静かに見つめていた。
「旦那様。この賑わいも、田沼様の政治の恩恵ですね。皆が銭を使い、世の中が回っております」
「銭が澱まず流れるのは、植木に良い水が流れるのと同じでやんす。気分が良い」
留吉は、一人の商人として、田沼政権の恩恵を最も感じていた。かつては、植木屋などは一部の武家たちの道楽を支えるだけだったが、今は商人や裕福な庶民が競って珍しい花を求めている。
同じ頃、両国橋を見下ろす一軒の船宿の二階の座敷では、秋元仁斎と妻のお優が、静かに酒を酌み交わしていた。
「お優。この人の多さ、銭の流れ、熱気。全てが田沼様の政治の力だ」
仁斎は、賑わいを冷静に分析していた。彼は、田沼意次の才覚を疑っていない。
「仁斎様。この賑わいを見ると、留吉殿の言うように、世の中が生きているように感じます。あの子たちも、賑わいの中で楽しんでいるでしょう」お優は静かに笑った。
お優は、寺子屋で留吉の子どもたちを教えているため、その成長を喜んでいた。
「そうだな。留吉の家は、田沼様が作ろうとした『新しい世』の雛形だ。才覚と努力で立身し、温かい家庭を築いた」
仁斎は、杯を静かに置いた。
「だが、光の裏には闇がある。この活気に乗じて、意知殿が不正な利益を得ているのも事実。わしの務めは、この賑わいを支える『法』を守ることだ」
仁斎夫婦の納涼は、留吉一家の熱狂とは対照的な、静かで深い思索の時間だった。
夜も更け、いよいよ花火の打ち上げが始まった。
両国橋の上流側と下流側から、花火師の「鍵屋」と、そこから暖簾分けした「玉屋」が、競うように大輪の花を咲かせた。
一発の花火が夜空に爆ぜるたびに、観客たちは熱狂し、歓声を上げる。
「かぎやぁ」
「たまやぁ」
留吉の子どもたちも、必死に声を上げた。花火の光が、五人の顔を照らす。
「わあ、今のは鍵屋の勝ちだ」
「いや、色は玉屋が勝っている」
留吉は、植木の育種と同じく、競い合いから新しい美が生まれることを知っていた。鍵屋と玉屋の競演も、田沼の競争原理を活かした世の映し鏡だった。
お雪は、花火の下で笑う夫と子どもたちを見て、心の底から幸せを感じていた。あの豪商の家にいた時の幸せとは比べ物にならない、飾らない安寧だった。
同じ夜、江戸城の奥。両国の賑わいからは遠く離れた静寂の中で、老中田沼意次は、一人執務室にいた。
窓からは、両国の花火の光が遠く、儚い輝きとなって見えるだけだった。
彼の側近が、恐る恐る声をかけた。
「老中様。両国の花火は盛りにございます。皆、楽しんでいるようです」
「うむ。皆が銭を使い、世が回れば良い」
将軍家治の病
田沼の顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。将軍家治の病状が悪化していることが、彼の心に重くのしかかっていた。
(家治様がいなくなれば、わしの政治は終わる。今の急進的な改革は、将軍の信任なくして成り立たぬ)
田沼は、全ての非難を一身に受けながら、国家の命運を一人で背負っている孤独な重圧を感じていた。両国の花火は、庶民にとっては束の間の歓楽だが、彼にとっては、火薬の上で回る世の賑わいに過ぎなかった。
「意知はどうしている」田沼は、静かに尋ねた。
「意知様は、今夜も吉原の方で豪遊されているようです」
田沼は、目を閉じた。自分の重荷も知らず、自分の力を笠に私欲に走る息子の姿が、彼の心を深く痛めつけた。
(わしの改革の火が、最後に腐敗の火となって燃え広がらぬよう、あの男に自重させねばならぬ)
両国の花火は、最後の一発が夜空に大きな光の雨を降らせて、静かに終わった。
留吉一家は、花火の余韻に浸りながら、長屋への帰路に就いた。
「楽しかったね、おとう」
子どもたちの無邪気な声が、暗い夜道を照らしていた。
留吉は、田沼の政治の大きな構図と、その中で生まれた意知の私欲を改めて思い知らされた。庶民の楽しみの裏で、国家の運命が今、大きく動き始めている。
仁斎は、船宿の窓から見える花火の煙を見つめながら、妻のお優に静かに言った。
「田沼様の時代は、花火のように華やかだが、短いかもしれない。わしの裁きの時は、その終わりと共に来るだろう」
夜空に消えた花火の残像のように、田沼政権の運命も、風前の灯となりつつあった。
印旛沼の夢と水運
老中田沼意次が、蝦夷地開拓と並び、幕府の命運を賭けて推し進めていたのが、下総国(しもうさのくに)の大きな沼、印旛沼の干拓事業だ。
江戸城の執務室。田沼は、土木方の奉行を前に、印旛沼の見取り図を指し示した。
「良いか。印旛沼を干拓する目的は二つある。一つは、広大な新田を造り、幕府の年貢収入を根本から改善することだ。銭なくして国は守れぬ」
「もう一つは、堀割りを開削し、印旛沼を経由して江戸湾と利根川水系を直結させる。これにより、物資輸送の舟運を整備し、大幅に時間を短縮する。物の流れを活発にするのだ」
田沼の計画は、単に農業だけでなく、商業と物流まで見通した巨大な国家戦略だった。彼にとって、この干拓事業は、蝦夷地開拓と並ぶ、停滞した幕府の血を新しくする大胆な「治療」だった。
しかし、工事の現場は、印旛沼の予想以上の深さと、柔らかい底土に悩まされていた。「底なし沼のようだ」と、現場の人々は嘆いた。
工事が難航する中、天明三年(一七八三年)に日本全土を揺るがす大災害が起こった。利根川の上流に位置する浅間山(あさまやま)が大噴火したのだ。
江戸の空は数日間、火山灰で覆われた。
留吉の植木屋でも、火山灰の被害は甚大だった。
「旦那様、朝顔の葉が全て灰をかぶっていやす。このままでは光が当たりません」
丁稚が悲鳴を上げた。
「急げ。灰を洗い流すのだ。少しでも光を吸わせねば」
留吉は、仁斎と共に懸命に植木を守った。彼らが知らないのは、この噴火が印旛沼事業に与える壊滅的な影響だった。
利根川上流から「天明泥流」と呼ばれる大量の火山灰や泥が吾妻川・利根川に流れ込み、川底の形を一変させた。これにより、印旛沼の水位や水質が変わり、堀割工事は深刻な打撃を受け、一時中断に追い込まれた。
工事の中断、飢饉による資金の不足など、印旛沼事業は難局に立たされていた。そして天明六年(一七八六年)、追い打ちをかける最悪の事態が起こった。
長期間にわたる大豪雨により、利根川が大氾濫したのだ。
仁斎は、町奉行として、江戸市中の救助と治水に追われていた。
「旦那様、印旛沼の堀割工事で建設した水路や逆流防止の扉門(水門)が、全て壊滅しました」
土木方の役人が、泥まみれの姿で絶望的な報告をした。仁斎は、唇を噛み締めた。
「田沼様の計画は、人の力ではなく、天の力によって阻まれたのか」
火山噴火と大洪水、二度の災害は、印旛沼の工事を復旧不可能な状態に陥れた。沼の底の地盤の弱さも加わり、田沼の巨大な夢は、泥の下に沈んでしまった。
夜、仁斎は、留吉を屋敷に呼び出した。
「留吉。大黒屋の不正で、意田沼意次殿の隠し財産について、一つの筋が見えてきた」
「へえ。何か、植木屋でお手伝いできることがありますか」
「ある。意知殿が不正に得た銭は、希少な骨董品や、珍しい輸入物の装飾品に注ぎ込まれているようだ。彼は、父君のように倹約家ではなく、見栄を張る豪遊家だ」
「なるほど。それは、武家の格式というより、商人の見栄ですね」
「そうだ。そして、その輸入物の取引に、越後の大商人が関わっている。お雪殿は、越後騒動で父君を失ったが、その当時の越後の商人、勘定奉行の流れに詳しいはずだ。力を借りたい」
留吉は、すぐに帰宅し、お雪に相談した。お雪は、慎重に話を聞いた。彼女の父も、田沼の重商主義の波に乗り、越後の豪商と繋がりがあった。
「旦那様。越後の商人は、海運と金の取引に長けています。特に、輸入物の取引は、幕府の目が届きにくい裏の銭の流れが必要です」
お雪は、父の過去の帳面から得た知識を、冷静に仁斎に伝えることを約束した。彼女の知識は、田沼意知が築いた「私欲の城」を崩す、一本の鍵となるはずだった。
「わたくしの父は、この『変化』の世の波に乗ろうとして、失敗しました。ですが、その波の形は知っています。この知識が、仁斎様のお役に立つなら、本望でございます」
お雪の知恵と、留吉の勘、そして仁斎の執念。三者の力が、田沼意知という大きな私欲の壁に、立ち向かおうとしていた。
しかし、その実行の前に、肝心の田沼意知は、他から成敗されてしまった。
政権の崩壊と将軍の死
天明四年、将軍家治が病に倒れる二年前の事だ。江戸城内に激震が走った。
老中田沼意次の世子で、次期老中と目されていた田沼意知が、城内で旗本佐野政言(まさこと)により突然斬りつけられたのだ。
仁斎は、町奉行として事件の報告を受け、顔色を変えた。
「何と。意知殿が城内で斬られたと」
「はっ。佐野政言は現場で取り押さえられましたが、自らも腹を切り、意知殿は深手を負いました」
意知の死は翌月となるが、この事件は田沼政権が抱えていた社会の矛盾を一気に露呈させた。
表向きは「私的な恨み」や「発狂」とされたが、庶民の間では、佐野を義士と称える声が広がった。
留吉は、植木屋で佐野政言を題材にした瓦版を読む人々の話を聞いていた。
「佐野政言は立派な武士だ。世を乱す田沼家に罰を与えたのだ」
「意知殿は、銭と権力で何でもできると思っていた。天罰が下ったのだ」
留吉は、庶民の間に渦巻く、田沼政治の変化についていけない保守的な人々の憤りを感じていた。彼らにとって、新しい政治は正しい秩序を乱す悪でしかなかった。
息子意知の斬殺は、老中田沼意次にとって最大の打撃となった。政権の後継者を失っただけでなく、この事件は、田沼政権を支えていた「権威」を根本から崩した。
仁斎は、意知の死後、田沼意次と面会した。
「仁斎殿。わが政治は、もはや人々の心を得ていないのか」
田沼の声は、力を失っていた。壮大な国家戦略を抱きながらも、天災と息子の死により、全てが水泡に帰した。
「老中様。あなたの政治は、あまりにも世の流れを速め過ぎました。庶民が追いつけなかったのです」
仁斎は、正直に答えた。田沼が見た「日本の未来」は正しかったかもしれないが、その手法と速さが、社会の反発を招いた。加えて、浅間山の噴火や大洪水が、「改革は天に許されていない」という迷信を生んでしまった。
印旛沼の工事が停止・中断している最中に、田沼意次の政権そのものが崩壊へと向かった。
第十代将軍徳川家治は、長年の過労と持病(脚気と見られる)により、容態が急変していた。家治は、田沼の唯一の「盾」であった。彼は二十年以上も朝の面会を休んだことがないほど、勤勉な将軍でもあった。
天明六年。留吉が両国の花火を楽しんでいた数日後、江戸城内に緊張が走った。
仁斎は、夜分遅くに老中田沼意次から呼び出された。
「仁斎殿。将軍様の容態が…芳しくない」
田沼は、その時、全てを悟っていた。家治がいなくなれば、既に政治的に孤立している自分に対する旧体制派の反発は、もはや抑えられない。
「わしの政治は、全てが家治様の信任の上に成り立っていた。わしの夢は、印旛沼の底と共に…沈むのか」
田沼の顔には、賄賂で私腹を肥やした悪人の様子はない。ただ、大きな国家の夢を持ちながら、天災と時代に翻弄された一人の老人の疲労と絶望だけがあった。
その数日後、将軍徳川家治は薨去(こうきょ)した。
田沼意次を守る盾は消えた。旧体制派の反撃は迅速だった。家治の死後わずか数週間で、意次は老中職を罷免され、失脚した。印旛沼の干拓事業は、その瞬間に完全に中止された。
田沼意次の失脚は、政治的な力の構図を一気に変えた。
仁斎は、もはや意次本人を責めるつもりはない。彼が追うべきは、政権の末期に自らの私欲のために法を踏みにじった田沼意知だけだ。しかし、その彼も既に故人だった。
意知が斬殺されたのが天明四年。その二年後の天明六年に将軍家治が逝去すると、田沼を庇護する者はもはやいなかった。
家治の死後すぐに、田沼意次は老中職を罷免され、政権は崩壊した。
田沼の家は、領地も財産も全て没収された。足軽から老中にまで上り詰めた政治家の劇的な栄光と挫折だ。
留吉は、失意の中にある田沼の屋敷跡を見た。壮麗だった屋敷は、もはや人気がなく、荒れ始めていた。
「お雪。あれほどの大きな権力と富も、一瞬で消えるのですね」
「旦那様。人の力で得たものは、人の力で失われます。でも、あなたが育てた花の命は、誰にも奪えません」
留吉は、自分の手で生み出した植物の不変的な命の力に、改めて安堵を覚えた。
田沼政権崩壊の後、新たな権力を握ったのは、紀州藩主から白河藩主となった松平定信だった。定信は、田沼の重商主義とは真逆の政治を推し進めた。
それが「寛政の改革」である。質素倹約という厳しい政治が始まった。
仁斎は、町奉行として、定信の厳しい政策を直接体験することになった。
「留吉。これからの江戸は、銭の流れが一気に止まる。定信様は、武士の質素倹約を求め、華美なものを厳しく禁じるだろう」
「へえ。朝顔を競って買っていた大名や旗本が、全ていなくなるのか」
「そうだ。お前の植木屋の商売は、大きな試練を迎える。定信様の政治は、農業を優先し、商業を抑圧する方向だ」
仁斎の目は、田沼の時代とは違い、社会の変化による「耐える力」を見据えていた。
留吉は、田沼政権下で得た名声と人脈を持っている。しかし、松平定信の治世「倹約の嵐」をどう生き延びるかが課題となった。
留吉は、お雪と話し合った。
「お雪。これからは、派手な朝顔の競売はできません。植木屋の生き方を根本から変えねばならぬ」
「ですね。わたくしたちが頼れるのは、誰にも奪われないあなたの『技』と『知恵』だけです」
留吉は、すでに「花木病治録」を出版し、植木の医者としての地位を確立していた。華美な花が売れなくなれば、必要とされるのは、家宝である植木を守る「実利の技」だ。
「倹約の世でも、武士は庭の椿や松を捨てはせぬ。わしは、花を育てるのではなく、植木の病を治す医者として生きる。それが、この時代を生き抜く智恵だ」
田沼の栄光と挫折を目の当たりにした留吉は、新たな政治の嵐が吹き始める中、自分の家族と技を守るため、地道であるが確実な道を選んだ。
そして、この植木の病を治す医者として生きることが、どんな世の中になろうとも、生涯の進むべき道だと確信した。
その頃、秋元仁斎は隠居を申し出た。「これからは変化朝顔だけの人生だ」と、本人はいたって元気に言い切った。そして、全てを息子、「二代目仁斎」に継承した。
松平定信と「寛政の改革」
天明七年、江戸は松平定信による「寛政の改革」の冷たい風に包まれ始めた。定信は、田沼時代に広まった商業主義や贅沢を厳しく取り締まり、質素倹約と武士の綱紀粛正を徹底した。
江戸の町から華美な衣装や派手な見世物が消え、人々の顔にはどこか緊張の色が漂い始めた。特に、留吉のような商売人にとっては、厳しい時代となった。
植木屋の店先に並ぶ朝顔も、以前のような派手な「変化朝顔」ではなく、地味だが丈夫な品種ばかりになった。
「最近はさっぱりですね。誰も花なんかに銭を使わない」丁稚がそう嘆いた。
「仕方ないさ。今は田沼様の時代とは違う。ぜいたくは敵だ。でもな、植木は捨てられない。わしたちの商売の仕方を変えるのだ」
留吉は、妻のお雪と仁斎から学んだ「実利」に立ち返ろうとしていた。
留吉が目を付けたのは、「花木病治録」によって確立した「植木の医者」という地位だった。松平定信の倹約令で、大名や旗本は新しく高価な植木を買うことはできなくなったが、先祖代々受け継いだ庭の松や椿、サザンカなどの銘木は、大切に守りたい。
「お雪。新しい花が売れないなら、古い花を治せば良い。病気を治すのは、贅沢ではない。必要な出費だ」お雪は、夫の智恵に感心した。
「そうですね。治療に必要なのは、派手な薬ではなく、あなたの『技』と『知恵』。それに、治療費は、新しい植木を買う銭よりはずっと安いです」
留吉は、植木屋を「稲屋花木治療所」と名付け、診察所のような看板を掲げた。
彼の評判は、倹約の世でかえって高まった。彼が用いる治療法は、「もち病」の葉の除去や「葉枯れ病」の患部の切除など、手間はかかるが費用は安く、薬に頼らない根本治療だったからだ。武家屋敷の植木担当者たちは、留吉の技術と、誠実な姿勢を信頼した。
「稲屋殿。あなたの治療は、無駄がない。この定信様の世にふさわしい」
ある大名の家臣が、治療を終えた松の木を見上げて言った。
「へえ。植物の病気も、人の病も同じです。治療に贅沢は要らぬ。治る力を引き出すのが、わしの役目です」
留吉の商売は、田沼時代のような爆発的な利益は出なかったが、安定した信用と収入を得て、厳しい時代を乗り切るための礎を築き始めた。
一方、町奉行二代目の若き秋元仁斎は、松平定信の厳しい改革を法と秩序をもって実行する立場にあった。定信の政策は、質素倹約を強制するあまり、庶民の楽しみや文化を過度に抑圧する傾向があった。
「仁斎様。定信様の出された『奢侈(しゃし)禁止令』は、少々厳しすぎます。あまりにも多くの物が禁じられています」
与力が仁斎に意見を具申した。しかし、経験不足の二代目仁斎には、解決法は見つからない。自然、隠居した仁斎の知恵を借りることになる。
「定信様の意図は理解できる。腐敗した世を正したいのだ。だが、法とは、人の生きる力を奪うものではなく、守るものだ」
若き二代目仁斎は、定信の厳格さに敬意を払いながらも、その過度な抑圧に苦悩していた。彼は、法を厳守しつつも、庶民の生活の安寧を乱さないよう、裁量をもって職務を遂行したが、経験不足のため、実行力がない。
そんな二代目仁斎の心の安らぎは、留吉一家との交流だった。
ある日の夕食時。留吉は、お礼の品として持ってきた珍しい漬物を仁斎に渡した。
「植木の治療で得た、農家の方の手作りでやんす。これは贅沢には当たらぬはずだ」
二代目仁斎は、笑ってそれを受け取った。
「留吉。お前の智恵は立派だ。この世は変わったが、お前はその変化の風を受けて、しなやかに生きている。わしのお手本だ」
母、お優が、おだやかに言った。
「留吉殿の子どもたちも、寺子屋では良く学んでいました。新しい世は、銭ではなく、学問と知恵が重んじられますから」
二代目仁斎は、留吉の植木医としての成功が、定信が理想とする「実学」と「質素」を両立させていることを理解した。
厳しい倹約の世でも、留吉は、人目に触れぬ長屋の奥で、引き続き「変化朝顔」の育種を続けていた。もちろん、売るためではない。自分の知的な探求心と、植物の命との対話のためだ。
ある夏の朝。隠居したはずの仁斎が留吉の長屋を訪れた。二人は、町奉行所の裏の竹林を通った、人目に付かぬ「密会の道」を使っていた。
仁斎は、裏庭にひっそりと咲いている、その日に咲いた新種の朝顔に目を奪われた。
「留吉。これは…まるで雪のようだ。白く、潔い」
その朝顔は、田沼時代に流行したような華美な色や形ではなく、白一色で、花びらがわずかに縮れた、地味だが凛とした美しさを持っていた。
寛政の朝顔
「へえ、旦那様。わしはこの朝顔を『寛政の雪』と名付けやした。派手さはないが、芯が強い。この世のあり方を映しているような花だ」
仁斎は、そっとその花に触れた。
「なるほど。お前は、政治の風に逆らうのではなく、その風を受け入れて新しい美を生み出した。これこそが、真の智恵だ」
定信の倹約政治は、華美な文化を一時的に抑圧したが、その六年間は、留吉のような職人たちに無駄を省き、本質を追究するという新しい美意識と技術の進化をもたらした。
宝暦八年、八代将軍吉宗の孫として生まれた賢丸(まさまる)、後の松平定信は、幼少より非凡な才能を示した。十二歳で修身書『自教鑑』を著すほどの早熟ぶりに、周囲は彼が将軍の座に就くことを疑わなかった。
しかし、定信は奥州白河藩主・松平定邦の養子となり、将軍への道を断たれる。
「あれは、田沼意次の裏工作だ」と、世間は噂した。定信が田沼の「賄賂政治」を厳しく批判したことが、田沼派の不興を買ったのだ。定信は、自分の境遇を悲しむことなく、白河で学問に励み続けた。
天明三年、定信が藩主を継いだ直後、浅間山が大噴火を起こす。火山灰は空を覆い、日本全土を「天明の大飢饉」の渦に巻き込んだ。
定信が治める白河領内も困窮を極めたが、定信は自ら先頭に立ち、徹底した倹約を行い、食糧の緊急輸送と「備荒貯蓄(びこうちょちく)」の増加に尽力した。飢饉の最中、白河領内からは一人も餓死者を出さなかった。
「藩主様は、ご自身が粗末な服を着て、民と同じ食を召し上がった」と、白河の人々は涙を流して語った。
一方、江戸では米価が高騰し、両国橋から隅田川に身を投げる者が後を絶たなかった。民衆の田沼意次への不満は頂点に達し、藩政を成功させた定信に注目が集まった。
天明七年、将軍家治の死と田沼意次の失脚に伴い、定信は御三家や将軍家斉の父、一橋治済の推挙を受けて老中首座に抜擢された。
二十九歳。定信は、国家の混乱を収拾するため、田沼の政治とは真逆の「寛政の改革」を断行した。
「贅沢と腐敗が国を衰退させた。正しい秩序に戻す」
定信は、倹約令を発し、札差棄捐令で御家人の借金を棄却し、農村復興を図り、朱子学以外の学問を禁じた(寛政異学の禁)。
「松平様は、国と民衆のことを誰よりも考えておられる。まさに名君だ」
と、二代目仁斎は定信の厳格な政治を支えた。
しかし、江戸の庶民は、田沼時代の華やかさを奪われ、不満を募らせた。
「白河の清きに魚も棲みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
という狂歌が流行するほどだ。
定信の政策は、幕府財政の緊縮にはある程度功を奏したが、同時に日本の周辺に外国船が頻繁に出没し始めた。定信は、海防の必要性を痛感し、自ら江戸湾近くを視察し、防備に着手した。
「経済を立て直し、武を整えねば、日本は守れぬ」と、定信は焦っていた。
松平定信による厳しい改革は、六年間続いた。
庶民の不満は蓄積していたが、二代目仁斎のような厳格でも人情を解す役人のおかげで、江戸は何とか平穏を保っていた。
天明年間の大きな災害と政治の激変を経て、留吉は植木の医者として磐石の地位を築き、仁斎は町奉行としての信用を確固たるものにした。寛政の改革も、やがて終わりを告げる時が来た。定信の厳格さは、やはり長くは続かなかった。
松平定信の辞世の句
寛政五年、志半ばで定信は老中を罷免される。公式な理由はないが、庶民の不満と、将軍家斉が実父の一橋治済を「大御所」として江戸城に招き入れようとするのに定信が強く反対したことが決定打とされた。
定信は、将軍の実父が政治に口出しするのは、幕府の権威を揺るがすと考えたのだ。
定信は失意の中、老中を辞した。彼の失脚は、田沼のように罪に問われたわけではなく、純粋な政治的な敗北だった。
ある日、二代目仁斎は留吉に静かに告げた。
「留吉。定信様は、間もなく老中を辞められる。長く続いた倹約の風は変わる」
「へえ。そうですか。それは、わしの「寛政の雪」が融けるということですね」
「うむ。だが、お前の根は強くなった。今度は、どんな世になっても、お前は必ず生き延びるだろう」
留吉は、二代目仁斎の深い信頼に感謝した。田沼の時代の華やかさと、定信の時代の厳しさの二つの世を経て、彼は植木屋としても、人としても大きく成長した。
しかし、留吉は植木医としての役目を自分に課した。
「仁斎様。わたくしは稲屋をせがれに譲り、これからの世を木々や花の医者、『樹花医』として生きようと思うんです」稲屋留吉は新しい人生を宣言した。
老中を辞めた定信は、白河藩主として藩政に専念する一方、江戸の築地に「浴恩園(よくおんえん)」という庭園を築き、文化的な活動に心血を注いだ。
浴恩園の設計と庭園の管理を通じて、定信は、かつての敵であった田沼政権下で名を上げた植木屋、稲屋留吉と、その後見人である二代目秋元仁斎と意外な形で再会することになる。
老中を辞した松平定信は、寛政五年の秋、築地の別邸に浴恩園を築き始めていた。
その庭園造りの相談に乗っていたのが、定信の側近である儒学者、柴野栗山だ。
「殿。この庭園は、贅を尽くすのではなく、質素な中に心の安らぎを求めるものです。植木も、華美ではなく、静かな命の力を持つものを選ぶべきです」
「うむ。わしの庭に、田沼時代のような派手な朝顔はいらぬ。だが、植物の生きる理を知る、本物の職人が必要だ」
側近が推挙したのが、かつて「花木病治録」を著し、武家屋敷の植木の医者として名声を高めていた稲屋留吉だった。留吉は、皮肉にも定信が老中に就いた「寛政の改革」の厳しい倹約の世で、その技術と誠実さにより信用を築いていたのだ。
「わしのようなものに、松平様が庭園の相談とは、大役ですね」
留吉は、二代目仁斎に驚きを隠せなかった。
「行くが良い。。定信様は、老中を厳しいが、今でも、誰よりも国のためを思っている。お前の持つ植物の真の理を、あの方に示すのだ」留吉は、浴恩園の建設地を訪れた。
築地の新しい庭で、定信は初めて留吉と向き合った。
「お前が稲屋留吉か。花木病治録は、読ませてもらった。実学を重んじた良い書だ」
定信の言葉は厳しいが、その眼差しには植物に対する関心が見て取れた。
「へえ、もったいなきお言葉。わしの技は、植木を健やかに保つこと。贅沢でなく、命を守るのが役目です」
「良し。わしの庭には、白河の寒さにも耐える、強い命を持つ植物を求める」
留吉は、定信が田沼意次の政治を批判したのと同じく、彼の庭園造りにも「質素と実用」の政治的な思想が貫かれていることを理解した。
定信は、留吉に白河藩の厳しい風土に適した植物の選定と、浴恩園への植え付けを依頼した。この出会いが、二人の間に思わぬ交流を生む。
定信の依頼を受けた留吉は、白河藩へ送るための植物の選定に入った。隠居した仁斎にも助けを求めた。
「旦那様。定信様は、日本の防衛や農業の復興など、政治の大きな構図を見ている。華やかさはないが、国を守るという点では、田沼様とよく似ておられる」
「うむ、留吉。その通りだ。定信様は、自分の政治が完全であったとは思っていないだろう。だが、白河で飢饉から民を救った手腕は本物だ。白河の寒さに耐える、強靭な性質を持つ植物を選ぶのだ」
留吉は、白河藩には、耐寒性のある椿や、薬効のある野草など、実利に基づいた植物を多く送った。
一方、築地の浴恩園では、定信は留吉が選んだ植物の一つ一つに興味を示した。
「この椿は、幹が太く、雪に耐える形相をしているな」
「へえ、これは『雪持椿(ゆきもちつばき)』といいます。花は地味ですが、根が深く、何年も生き延びます」定信は、その椿を見て、自分の政治を振り返った。
「わしの政治も、雪持椿のように、派手さはなかった。だが、国の基盤を守ろうとした。しかし、世の人々は、わしの厳しさに耐えられなかった」
老中を辞めてから、定信は浴恩園で多くの時間を過ごすようになった。文化人としての側面が花開き、『集古十種』の編纂など、静かな作業に没頭した。
留吉は、庭の手入れの度に、定信から意外な心の内を明かされた。
「留吉。わしは、田沼の重商主義が賄賂を生み、武士の魂を堕落させると恐れた。だが、わしの政治は、吉宗公の時代のように貨幣経済を理解していなかった」
定信は、花を見つめながら、悔恨の念を口にした。
「経済の流れを止めることが、人々の不満を増幅させた。わしは、民のためにと思って厳しくすぎた」
留吉は、その言葉に深く感銘を受けた。
「旦那様。花も、剪定が厳しすぎると枯れます。でも、定信様が白河でお救いになった人々は、あなたの質素倹約の厳しさのおかげで生き延びた」
初代秋元仁斎は、浴恩園で留吉が定信の良き相談相手となっていることに安堵しながら、その長き人生を全うした。
一方、二代目仁斎も、浴恩園を訪れ、定信と花を見ながら語り合うことが多かった。
「あなたも田沼様も、方法は異なっても、国の行く末を真剣に案じた政治家です」
「仁斎殿。そう言ってもらえるのは嬉しい。わしは、江戸湾の海防を強化する必要を痛感していた。この浴恩園の松の木のように、日本を風雪に耐える強い国にしたかった」
定信が指さしたのは、留吉が丹精込めて治療した一本の古い松の木だった。その松は、田沼意次が生前、特に好んでいたという品種だった。
留吉は、その松の木の前で思った。
(松の木は、田沼様と定信様、二人の政治家の時代を知っている。二人の夢の根は同じ。どちらも国を愛した)
松平定信は、失脚後も政治と文化の両面で大きな影響を残し、文政十二年、七十二歳の生涯を築地の浴恩園で静かに終えた。
定信は、一生涯、国を案じた。最後に残した辞世の句。
「今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつる身は」
その言葉は、彼の生涯の全てを表していた。
そして、時代は移り変わっていく。
留吉は、稲屋を長男に譲り、自分は樹花医として、日本中の大名屋敷を回っていた。もちろん、頼まれれば、豪商でも豪農でも、しがない農家でも、病気の木や花があれば、どこでも、出掛けた。稲屋には、年に一度、正月だけ戻る生活だった。
第二章
時が過ぎ、江戸の世はかつての大老、田沼意次が懐かしがられるほど、閉塞した空気に包まれていた。
植木に懸ける二人の若者
ある日、植木株仲間の定例の集まりがあった。 大勢の年かさの親方衆が居並ぶ中、場違いなほど若い二人の青年の姿があった。 ひとりは植木問屋「植花」の若き当主、春吉。もうひとりは稲屋の次男、信助である。
「よう、信助。今日も兄さんの代理か」 「ああ、春吉殿。お互い、年かさの連中と一緒は、肩が凝るな」
信助は、病弱な兄、留吉に代わり、最近、この集まりに出席するようになっていた。
稲屋は初代留吉が樹花医として全国を駆け回っているため、二代目を長男、与一が跡を継ぎ、留吉を名乗っていた。ところが、その留吉は目下、病で床に伏しているという。
春吉は、丁寧だがどこか張り詰めた物言いをしている。
「わたくしは未熟者。皆様の輪に加わるだけでも、精一杯でございます」
「固いこと言うなよ。俺たちは若輩、どうせ浮いた存在だ。こんな集まりより、植木の話をしている方が楽しい」信助はそう言って、春吉の肩を叩いた。
集まりが終わり、二人は連れ立って帰路についた。 自然と足は、街道沿いの団子屋へと向かう。
「春吉殿、団子でも食って行こう」
「信助殿のお誘い、断る理由などございませぬ」
二人は店先の縁台に腰を下ろし、みたらし団子を頬張った。
「未熟ものですが、よろしくお付き合いのほどを」 春吉は改めて深々と頭を下げた。
「こちらこそ、若輩、しかも兄の代理。どうか、末永く。というより、友達、植木友達になって頂きたい」 信助の言葉に、春吉は顔を上げた。
「実は、春吉殿」 信助は声を潜めた。
「自慢じゃないが、兄貴より、おれの方が、植木に関しては、知識は深い。師匠が、お武家、仁斎先生。二代目だが、すごいえらい人なんだ」 信助は胸を張った。
「何をおっしゃるか。わたくしの師匠も、えらいお武家様。元与力の古家陽一郎様でございます」 負けてはいられない春吉。
「へえ、与力か。お堅いな」
「仁斎先生という方も、きっとすごいお方なのでしょう」
二人の自慢はともかく、同じ年代、興味も同じ。仕事も植木職人。 団子の甘さが、二人の間に生涯の友となる機会を運んだ。
「そういえば、兄さんの留吉殿は、その後いかがなされた」 春吉が尋ねた。
「それが、最近、流行り病にかかってしまってな。体調が芳しくないんだ。だから俺が代わりにあちこちに顔を出している。兄の分まで、俺がしっかりとしないとな」 信助の顔に、真剣な色が宿る。
「それは大変。なにかお役にたてることがあれば、喜んでお手伝いします」
「ありがとう、春吉殿。頼りにしている」
二人は団子を平らげ、夕暮れの道を並んで歩き出した。団子の甘さがまだ口の中にふんわりと残っていた。
春吉と信助が親交を深めた数日後。
「春吉、先日の株仲間での様子、陽一郎殿にお話し申し上げた」
「ありがとうございます、母上。わたくし、まだまだ未熟で」
春吉の母、さつきは、植花の陽一郎の妹。兄、陽一郎が、春吉の植木に関する知識の全てを叩き込んだ人物でもあった。陽一郎は与力の仕事をしながら、細々と植花の暖簾を守ってきた人だ。
「株仲間の会合は、あくまで商売の場。春吉の持つ、植木への真摯な思いを、年長者どもに伝える必要はない。それより、陽一郎殿がお呼びだ。お相手なさい」
春吉は奥座敷へ向かう。そこには、元与力という肩書を持つ、古家陽一郎が座っていた。陽一郎は、植花の三代目を春吉に譲り、裏方から支えてきた、この店の「御隠居様」であった。
「春吉、参ったか」 「はい、陽一郎様、ご機嫌いかがでございますか」
「うむ。お前に話しておきたいことが二つある」
古家陽一郎は、春吉が幼い頃から五葉松や変化朝顔の世話を通じて、植木の本質を教えてきた。
「一つ、植花は金儲けの店ではない。花を生かすことは、人を生かすことと同じ。これが亡き初代お咲様の教えであり、この暖簾の重さだ」 陽一郎は厳かに述べる。
「承知しております。かつて将軍、家重公や家治公に五葉松を献上したと聞いております」
「そうだ。そして二つ目。お前が付き合いを始めたという、稲屋の信助。あの若者は、純粋な植木好きと見える」
「はい。同じ歳で、話も合い、良き友となる予感がします」
陽一郎は静かにうなずいた。
「稲屋の主、留吉殿は、秋元仁斎殿と親しい。仁斎殿は好奇心旺盛なお方。良いことも悪いこともある。くれぐれも、植花の本道を忘れるな」 陽一郎は春吉に念を押した。
「肝に銘じます」春吉は陽一郎に深く頭を下げた。
一方、信助は、町奉行である師匠、二代目秋元仁斎の屋敷を訪れていた。仁斎は、市内の取り締まりという本業の傍ら、父の遺産、変化朝顔を引き継ぎ、丁寧に育てていた。
「やあ、信助。兄、留吉の病、心配しておったぞ」
「ありがとうございます、先生。お蔭様で、少し小康を得ております」
若き仁斎は、留吉の良い相談相手であり、信助にとっては頼れる師匠であった。
「今日の朝顔は、昨日よりも花付きが良い。新しい品種の芽が出ると、わくわくする」 仁斎は目を輝かせた。父親譲りの新しいものへの飽くなき探求心が、彼の生き方そのものであった。
「先生の御屋敷の変化朝顔は、本当に見事です」
「うむ。それは父がすごかったからだ。ところで、株仲間で友ができたそうだな。植花の春吉という若者」
「はい。植木のこととなると、熱くなってしまう、良い奴です」
信助はそう言いながら、春吉との会話を思い出し、顔をほころばせた。
「植花か。あの店は古家陽一郎殿が関わっている。元与力で、堅物として知られたお方だ」 二代目仁斎は楽しそうに笑った。
「あの店は、花を芸術、いや、心として捉えている。わしは、亡き父の想いを受け継いで、花を自然の驚き、新しい可能性として捉えている。考え方が違うのだ」
「可能性、でございますか」 信助は目を少し閉じた。
「そうだ。植木は金儲けの道具ではないが、新しい花を世に出し、皆が喜ぶ姿を見るのは、この世で一番の愉しみだ」
今度は、信助は、師の言葉に深くうなずいた。古風で格式を重んじる植花と、好奇心と新しさを愛する若き仁斎。二つの教えが、信助の心に深く刻まれた。どの道が正しいというのか、自分はどんな道を歩いていくべきか、ゆっくり考えよう。
数日後の昼下がり、春吉は植木の仕入れで日本橋方面に出ていた。路地裏の茶屋で休憩していると、偶然、信助と出くわした。
「おお、春吉殿」 紳助は思わず近づいた。
「信助殿、奇遇でございますな。茶でもご一緒に」
二人は並んで茶をすすった。
「兄の具合も、少しずつだが回復に向かっている。が、しばらくは俺が代理を務めることになるだろう」
「それは良うございました。しかし、大変ですな」
「まあ、忙しいのは嫌いじゃない。それに、師匠の仁斎先生から、新しい変化朝顔の種を分けてもらったばかりでな。植えるのが楽しみで仕方ない」信助は目を輝かせた。
「仁斎先生は、本当に新しいものがお好きなのですね」
「ああ。先生は言うんだ。植木はいつも同じではいけない。自然の驚き、新しい可能性を見つけるのが、この道の醍醐味だと」
春吉は首を上下に振りながら、信助の話を聞いた。
春吉は、古家陽一郎の言葉を思い出す。花を生かすことは、人を生かすことと同じ。金儲けの手段ではない、という教え。これは、植花初代のお咲の遺訓だった。
「わたくしの師匠、古家様は、むしろ本道を重んじます」 春吉は陽一郎の言葉を語った。
「本道」 信助は繰り返す。
「はい。植花は、代々、武家屋敷の庭の維持や、五葉松などの格式ある木を扱ってきました。華美な変化より、一本の木の持つ力、生き様を大切にせよ、と」
春吉は一言一言丁寧にいう。
「堅いな、やはり元与力殿は」信助は笑いながらも、真剣な顔をした。
「でも、分かる気もする。俺たち稲屋は、どちらかというと庶民向けだ。仁斎先生も、新しい花が市井の人々を驚かせ、喜ばせるのが楽しい、と言っていた。それは、春吉殿の言う人を生かすことに通じるのではないか」
「信助殿ご理解のほどかたじけない」春吉は、信助をまっすぐ見た。
「そうかもしれません。わたくしどもの言う本道も、結局は、その木を見る人の心を豊かにするためのもの。仁斎先生の新しい可能性も、人々の日常に驚きと喜びをもたらす。出発点は違えども、目指す先は同じやもしれませぬ」
「だろう。俺たちの親父たちがやってきたことと、俺たちがこれからやろうとすることは、根っこでは同じなんだ」
春吉と信助は落とし所が同じなるを喜び、共に笑いあった。
信助は茶碗を置いて、身を乗り出した。
「春吉殿、話は変わるが、今度、新しい五葉松の仕立てで、意見を聞きたいのだが」
「それは光栄でございます。五葉松は、わたくしどもも最も得意とするもの。ぜひ、拝見させてください」春吉は誘われたことをとてもうれしく思った。
「よし。近いうちに、俺の家に遊びに来い。先生から預かった変化朝顔の珍しい種も、見せてやろう」
二人は、それぞれの師から受けた教えを胸に抱きながら、植木職人としての未来を語り合った。異なる道を歩む師を持つ二人が、互いの知識と情熱を認め合い、生涯の友として、これからの江戸の植木界を担っていく予感を胸に抱いた。
数日後、春吉は信助の誘いに応じて、飯田町の稲屋の店を訪れた。 稲屋は「植花」ほど格式張ってはいないが、庶民的で活気のある植木屋であった。
「春吉殿、よく来てくれた。さあ、こちらへ」
信助は店の奥の作業場へと春吉を案内した。春吉は今年二十歳の若当主として、緊張した面持ちで周囲を見渡した。植花の格式を守るため、日頃から丁寧で落ち着いた態度を心がけている。根はひょうきんだが、今はそれを押し殺していた。
「こちらが、先生から預かった五葉松。陽一郎殿仕込みの春吉殿の意見を聞きたい」
信助が示した五葉松は、自然な樹形を活かしつつ、大胆に剪定が施されていた。
「これは見事な仕立てでございます。力強さがあり、自由な形をしています。わたくしどもの、武家好みとはまた違う魅力があります」 春吉は柔軟な意見を述べた。
「だろう。さて、次はこれだ。仁斎先生の変化朝顔の種」
信助は小箱から小さな種を取り出した。
「新しい品種の可能性を秘めている、と先生はおっしゃっていた。今年はこれが大当たりになるかもしれぬ」
「わたくしどもの店では、あまり変化朝顔は扱いませんが、この光沢、見事な種でございます」春吉は目を凝らして種を見つめた。しかし、師匠、陽一郎の秘密の花園には、もしかするとあるかもしれないと内心、ニヤリとした。
その時、作業場の戸口から明るい声が響いた。
「兄さん、お客さんかい」
そこには、若い娘が立っていた。信助の妹、お芳である。
春吉は娘を一目見て、息を呑んだ。健康的な肌艶、ぱっちりとした目、そして何より、花が咲いたような明るい笑顔。春吉は、日頃の当主としての威厳を保とうとする努力が、一瞬で崩れ去るのを感じた。
「ああ、お芳。こちらは植花からいらっしゃった春吉殿だ。植木仲間でな」 信助はお芳を手招きした。
「初めまして、いつも兄がお世話になっています」お芳の声が春吉には天女の声に聞こえた。
お芳は遠慮なく春吉に近づき、屈託なく笑った。
「春吉様、随分とお堅いお顔をなさって。まるで、仕立てたばかりの五葉松みたい」
春吉は動揺し、思わず体が硬くなった。
「い、いえ。わたくしは、その、稲屋様の植木があまりに見事なもので、見入っておりましたので」
「こら、お芳。失礼だろう」信助は妹の言葉に苦笑する。
「だって、本当に硬そうなんだもの。いつもそんなに真面目な顔をしているの」
お芳はそう言いながら、春吉の背中を、ぽん、と軽く叩いた。春吉は、その瞬間、長年貼り付けていた「若当主」の仮面を剥がされたような気がした。
「わ、わたくしは、その、普段は、別に、ひょうきんなところもあるのですが」
春吉は普段使わないような、少し間の抜けた言葉遣いになってしまった。
信助が笑いながら助け船を出す。
「春吉殿は、植花という格式を守っているからな。お芳、お茶を入れてきてくれ」
「はいよ。若当主様。お堅い顔も良いけれど、たまには笑った方が、きっと良い花が咲くよ」お芳はそう言って、笑いながら作業場を後にした。
春吉は、その場に立ち尽くしていた。心臓が早鐘を打っている。
「し、信助殿。お芳様は、いくつでいらっしゃいますか」
春吉は動揺する心をすっかり見抜かれて、開き直った。
「十九だ。俺より一つ下、兄貴の留吉より二つ下で、年子のようなものだ」
(十九歳。しかし、こんなにも明るく、人を惹きつける娘がいるとは)
春吉の心は、植木のことなどすっかり忘れて、お芳の笑顔に囚われていた。植花の格式と、お芳の明るさ、その対比に春吉はかつてないほど強く心を動かされていた。
「春吉殿、どうした。顔が赤いが」 信助わざと問う。
「い、いえ。稲屋様の作業場の熱気に、少し、やられました」
春吉はそう誤魔化したが、信助には、友の心に起こった変化が、見て取れた。春吉が弟になってくれたら、ありがたい。そんなことを考えていると心が温かくなった。
信助の家を訪れて以来、春吉はお芳の明るい笑顔が忘れられずにいた。植木の仕入れと称して、稲屋の近辺をうろつく日が増えていた。
そんなある日、稲屋に思わぬ客が訪れた。稀代の浮世絵師、喜多川歌麿である。
「稲屋殿、突然のご訪問、お許しいただきたい」
「これは歌麿先生。わざわざおいでいただき、恐縮でございます」
稲屋は、緊張して迎えた。歌麿は以前、稲屋の母、お雪を美人画に描いたことがあり、その絵は評判を呼んでいた。
「実は、稲屋の娘御、お芳殿を描かせていただきたい。
以前、奥方様を描いたが、今度は、生き生きと働く植木屋の娘の姿を、筆に残したい。お芳殿のあの明るさは、他にはない」
留吉は困惑し、母のお雪も顔を曇らせた。
「先生、それは。娘はまだ十九。絵などになりましては、世間体が」 母親として、お雪は反対した。
「そうです。美人画に描かれるなど、もったいない話でございます」留吉も母を応援した。
しかし、お芳は目を輝かせた。
「兄様、お母様、描かせてください」
「お芳、何を言う」 お雪は強い語調で反対した。
「だって、あの歌麿先生の絵になるなんて、一生に一度のことだよ。植木を運んでいる、いつもの私の姿で良いのなら、ぜひお願いしたい」
お芳の明るさに押し切られ、留吉とお雪は渋々承諾した。
歌麿の描いた植木屋の娘、お芳の絵は、瞬く間に江戸で評判となった。絵の中のお芳は、水桶を運びながらも屈託なく笑い、その健康的な美しさが人々の目を惹きつけた。
「稲屋の娘は、絵以上に美人らしい」
評判の美人娘、お芳には、縁談が殺到した。町人、職人、中には旗本の息子、さらには、さる大名から側室にとの話まで届き始めた。
春吉は、その知らせを聞いて、居ても立ってもいられなくなった。
(わたくしは、植花の当主として、格式を重んじねばならぬ。あの明るく自由なお芳様を、格式の厳しい植花に迎えて、幸せにして差し上げられるか。それに、こんなに縁談が来ている。わたくしでは、到底敵いっこない)
春吉は、格式と恋の間で揺れ動き、いっそ諦めようとさえ考え始めた。
ある夕方、春吉が一人、店の庭で五葉松の手入れをしていると、信助が訪ねてきた。
「信助殿、いらっしゃいませ。急にどうなさいました」
信助は座るなり、率直に切り出した。
「「春吉殿、お芳のことだ。縁談が山ほど来て、兄もお袋も困っている」
「それは、結構なことでございます。お芳様は、それだけの魅力をお持ちで」
春吉が他人事のように言うと、信助は呆れた顔をした。
「お前、本当に諦めるつもりか。お前がうちに来てから、お芳の絵の話が来て、縁談も増えた。だがな。あの時のお前の顔は、どう見ても、ただの植木仲間を見る顔ではなかった」
信助は、はっきりと春吉の恋心を見抜いていた。
「お芳は、堅いものが嫌いだ。格式だの、伝統だの、そんなものに縛られたくない娘だ。だから、お前のあの真面目すぎる態度に、ついちょっかいを出した」
「わたくしは、当主として」 春吉は胸を反らす。
「うるさい。お前、根はひょうきんだと、自分で言っただろう。そのひょうきんな所を、お芳はきっと好む。なぜ、それを隠す」信助は春吉の肩を掴んだ。
「俺は、お前なら、お芳が飽きずに生きていけると、直感している。縁談など、俺がなんとかする。お前は、植花を背負う男としてではなく、春吉という一人の男として、お芳にぶつかってみろ」
春吉の心に、熱い火が灯った。親友の言葉は、何よりも力強い援護射撃であった。
信助に気持ちを伝えて以来、春吉はすっかり明るくなった。顔つきが柔らかくなり、店の者たちも驚いた。春吉と信助は、もはや植木仲間というより、恋の同盟者であった。
ある日の夕方、二人は団子屋で落ち合った。
「信助殿、この間の五葉松の仕立て、さらに良い方法を思いつきました。明日、稲屋へ伺っても」 春吉は信助の目を見て言う。
「五葉松の話は二の次で、お芳に会いたいのだろう」
信助は含み笑いをした。
「ぐ、ぐうの音も出ませぬ」春吉は苦笑した。
「お芳も、すっかりお前のことを気に入ったようだ。兄とお袋も、あのお堅かった植花の若当主が、うちの娘に必死になっている姿を見て、悪い気はしていない」
「それは、まことに心強い」春吉は右手で拳を作った。
信助は団子を頬張りながら言った。
「しかし、縁談はまだ収まっていない。一つ、父の承諾の返答が来ない。次に、あの旗本の息子からの話が少し厄介だ。お芳の絵を見て、真剣になっているらしい」
「わたくしが、それを上回る熱意を示すしかありません」
春吉は決意を新たにした。
植花の奥座敷では、春吉の母、さつきがこの変化を観察していた。
「春吉は、随分と顔つきが明るくなったね。稲屋の娘御のお蔭か」
さつきが茶を飲みながら、 陽一郎に話す。
「やはり、母上はお見通しでございますか」春吉は素直に認めた。
「構わないよ。お前が心から笑えるなら、それが一番だ。ただし、植花の暖簾は守ってほしい」 母、さつきは微笑む。自分も愛する人と夫婦になったから、よくわかる。
「承知しております」春吉は幸せを嚙みしめた。
その会話を、古家陽一郎は穏やかな顔で聞いていた。
「陽一郎様は、いかが思われますか」とお咲が尋ねた。
「うむ。春吉はこれまで、格式という硬い土壌に縛られすぎていた。稲屋の娘御は、彼に新しい命の水を与えたようだ」 陽一郎は静かに笑った。
「植木は、人を生かすこと。春吉自身が生き生きとせねば、良い木は育てられぬ。稲屋の娘御には感謝せねばな。 格式は、人を生かすためにある。人を縛るためにあるのではない。春吉が、稲屋の娘を幸せにできるなら、それで良い」
陽一郎は暖かい春風のような心で春吉を見守った。
一方、町奉行の二代目秋元仁斎は、この噂を聞きつけて、信助を屋敷へ呼んでいた。
「信助、お芳殿の縁談の件、大変なことになったな」 仁斎は面白がっているようだ。
「先生、まさか、あの歌麿先生の絵が、ここまで騒ぎになるとは」信助は少し困り顔であった。
「あの絵のお蔭で、お芳殿の市場価値が高まった。それは良いことだ。ところで、お芳殿が選んだのは、あの植花の春吉殿か」
まだ独り身の二代目秋元仁斎はうらやまし気に問うた。
「はい。まさか、あんなに堅物だった春吉殿が、うちのお芳に夢中になるとは」
信助は苦笑いしながら答える。
「ふむ。植花の古き伝統と、稲屋の新しき可能性、そして、お芳殿の自由な精神。これは、植木界の新しい交配だ」仁斎は楽しそうに筆を回した。
「交配とはなぜですか」信助は首を左に傾けた。疑問に思うときの癖である。
「そうだ。わしは、変化朝顔で、予期せぬ新しい色や形が生まれるのを見るのが好きだ。春吉とお芳の恋も、さながら新しい花が咲く前の兆しよ」仁斎は楽しんでいる。
「先生、まるで他人事のように」
「他人事ではない。わしは、二人の恋という名の植木の成長を見守るのが、楽しみで仕方がないのだ。しかし、あの旗本の息子は少し邪魔だ。何か面白い手を打てぬものか」
仁斎は、この恋の騒動を、自らの好奇心を刺激する楽しい事件として捉えていた。よほど、暇を持て余しているのか。
信助の援護射撃を受け、春吉は旗本の息子からの縁談を退けるための策を練っていた。場所は稲屋の裏庭、二人の密談の場である。
「旗本の藤之助という男は、お芳様を絵の上の飾り物としか見ておりますまい。植木の土の匂いなんて、一生理解できっこない」お供え餅を思い浮かべながら春吉は話す。
「その通りだ。」 信助は頷く。
「ならば、植木屋ならではの無理難題を突きつけ、その表面的な熱意を剥がすしかありますまい」 春吉は意気込む。
「無理難題か。お前、また固い言葉を使うな。もっと、面白おかしい策を考えよう」信助はにやにや笑った。
「面白い、でございますか。わたくしの師匠、陽一郎様ならば、格式を重んじ、武士の心意気を試すような正攻法を」
「そんな固いことは、お芳が嫌がる。お芳の絵を見て惚れたんだ。お芳が一番大切にするもので、奴の本性を暴くべきだ」 信助は応援というより、自分が楽しんでいる。
「本性。では、植木の命を賭けた勝負、でございますか」
「それだ。植木の命をかけた、お芳への愛の深さを試す試練だ」
春吉が勝てる道を兄の信助が考えている。負けるはずがない。春吉はそう思った。
数日後、噂の旗本の息子、藤之助が稲屋に乗り込んできた。派手な着物に身を包み、いかにも見栄を張っている。
「稲屋留吉殿、お芳殿を正式に妻として迎えたい。異論はあるまい」
「藤之助様。ありがたいお話ですが、妹にも嫁ぐ相手に求める条件がございまして」
「藤之助様、私の絵を見てくださったのは嬉しいよ。でも、私はこの植木が、命の次に大事なんだ」お芳が戸口から顔を出す。
お芳は、春吉が以前に持参した五葉松。あえて剪定せずに放置されていた松を指差した。それは、古家陽一郎が試練のためにわざと荒れたままにしていた松である。
「私を妻にしたいなら、一月後の今日までに、この松を、私が見たこともない見事な姿に仕立て直してほしい」 お芳は静かに言った。
「なんだ、そんなことか。松の剪定など、職人にやらせればよい。金ならある」 藤之助は鼻で笑った。
「だめだめ。あなた自身がする。そして、ただ形を良くするのではない。松が、心から喜んでいるような仕立てにしてほしい」
「松が喜ぶ、だと。妙なことを言う娘だ。まあよい。やってやろうではないか」
藤之助は、お芳の美しさのためなら、泥にまみれても厭わない、と見栄を切った。
一月後、稲屋の庭に藤之助と春吉、二人の松が並べられた。
藤之助の松は、派手な姿に変貌していた。見栄えの良い枝だけを残し、無理やり捻じ曲げて、いかにも珍しい形に仕立ててあった。
「どうだ、お芳殿。これこそ、武士の心意気。天を突く竜のような、力強い姿だろう」藤之助は得意満面であった。
お芳は、松に近づき、そっと枝に触れた。
「竜ねえ。なんだか枝を切りすぎたせいで、武士の鎧が剥がれたみたいだよ。葉の色も元気がない。松が寒がっているようだね」
留吉と母、お雪、信助も顔を見合わせた。確かに、華やかだが、松から生気が感じられなかった。
次に、春吉の松が披露された。一見すると、藤之助の松ほど派手ではない。だが、すべての枝が生き生きとし、内側の古い葉や枯れた枝が丁寧に取り除かれていた。
春吉が語り始める。
「わたくしは、この松の息苦しさを取り除くことに専念いたしました。外側を飾るのではなく、内側から、松が本来持つべき命の力を引き出す。これこそ、わたくしどもの師、古家陽一郎様が教える人を生かす仕立て。華美な姿ではなく、長く健やかに生きるための本道でございます」
お芳は、松に抱きつくようにして目を閉じた。
「ああ、春吉様。この松は、本当に喜んでいる。体が軽くなったって言っている」
信助が藤之助に切り出した。
「聞いたか、藤之助殿。松の喜びが分からぬ者に、どうして、お芳の心が分かる」
藤之助は、植木職人の技と、お芳の感性に完敗した。金や権力ではどうにもならぬ勝負であった。
「くっ。このような、陰湿な、いや、嫌味な勝負、聞いておらぬ」 藤之助は勝負に負けた悔しさを顔全部で表現した。
「嫌味ねえ。これが命の真剣勝負だよ」とお芳はぴしゃりと言い放った。
藤之助はこんな女、こちらからお断りだと縁談を撤回して帰っていった。
その夜、春吉は信助と団子屋で勝利を祝った。
「信助殿、今回の勝負、若き仁斎先生の新しい可能性と陽一郎様の本道、両方の知恵がなければ成り立ちませんでした」団子の前で春吉は手を合わせた。
「固いぞ、春吉殿。だが、その通りだ。先代の仁斎先生も、この松の選定については、稲屋の初代留吉に助言していたらしい」
松の剪定は実に奥が深いものだ。
春吉は、団子を頬張りながら、お芳との未来に心を躍らせた。もう、彼の顔にお堅い松の若芽の面影はなかった。
「ところで、春吉殿。まだ稲屋の初代留吉から、飛脚が届きません。どこにいるやら。これでは、お芳との縁談はまだまだだ」二人は渋い顔をしながら、笑い合った。
旗本の縁談を無事に退けた数日後、春吉、信助、そしてお芳の三人は、信助の師匠である秋元仁斎の屋敷に呼び出された。手土産には、信助がお芳と共に用意した、上等の甘酒が抱えられていた。
「先生、お呼びいただき恐縮でございます」
春吉はいつもの丁寧な物言いだが、以前ほどの硬さはない。
「三人揃って参りました。お芳が選んだ、美味なる甘酒でございます」
信助が甘酒を差し出す。
「うむ、これは上等な甘酒だ。温めてもらうとしよう」仁斎は嬉しそうに頷いた。
「春吉殿、面を上げよ。この度は、見事な植木の機知であった。お芳殿の縁談が無事に片付いたこと、祝着至極」
「ありがとうございます。先生、私たちの勝負、楽しんでいただけましたか。藤之助様の顔がまるで枯れた木みたいになった時、少し可哀想でしたけど」お芳は快活にいう。
「可哀想など思う必要はない。彼は、本道を知らぬゆえに、自ら枝を切り落としたのだ」仁斎も応じる。
「でも、もう一つ問題が」お芳はためらいながら言った。
「父からの承諾の返答がまだです。どこにいるやら」
仁斎は笑いながら、その悩みに軽やかに答えた。
「問題はない。初代留吉は実に頭が柔らかい。好きにしなさいというにきまっている」
温かい甘酒が運ばれてきて、四人はそれを飲み交わした。
「実は……」 仁斎は甘酒を一口すすり、声を潜めた。
「あの松を剪定せずに稲屋に置くよう、助言したのは、古家陽一郎殿だ」
「え、陽一郎様が」 春吉は驚きのあまり目を見開いた。
「そうだ。わしは、古家殿と、植木の考え方では違うが、植木を愛する心は同じだと知っている。わしと古家殿は、藤之助の縁談が持ち上がった時に、二人でひそかに計らっていたのだ」
「古家様と、先生が」春吉は思わず叫んだ。
「古家殿は、春吉殿が、格式ではなく、己の心で勝負できる男かどうかを試したかった。だから、わざと剪定すべき松を用意させ、本道という試練を春吉殿に与えたのだ」
「先生は、その松の選定について、助言してくれたんだな」と信助が納得したように言った。
「ああ。わしは、春吉殿が古き伝統に縛られず、新しい知恵で勝負に出る可能性を見たかった。そして、お芳殿の自由な感性が、その勝負を面白くすると知っていた」 仁斎はお芳を見た。
「先生、まるで、私たちは先生の植木鉢の中の種みたいだね」とお芳は笑った。
「その通り。わしにとっては、お前たちの恋も、植木界の未来も、全て予期せぬ変化の楽しみなのだ」
春吉は感動で胸がいっぱいになった。
「陽一郎様と仁斎先生が、わたくしどもを試すために、協力してくださった。心より感謝申し上げます」
「結局、堅物の陽一郎様と、変わり者で好奇心旺盛な仁斎様は、お互いに認め合っていたんだな」信助は言った。
「うむ。植木に、古き良きものと新しき面白きものがあるように、人の道にも、本道と可能性が必要なのだ」
仁斎は甘酒を飲み干した。
「春吉殿、お芳殿。お前たちの関係は、植花の格式と稲屋の自由な精神が交配したものだ。これから、どんな珍しい花を咲かせるか、わしは楽しみに見守っているぞ」
お芳は春吉の顔を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「私たちが咲かせる花は、きっと世間を驚かすような、とびきり明るい花だね」
「もちろんでございます、お芳様。わたくしが、最高の土壌となり、お芳様を支えましょう」
春吉は、師匠たちの心に見守られていることを感じ、二人の未来への決意を固めた。
花市に咲く、夫婦の門出
季節は巡り、春吉とお芳の婚礼の日がやってきた。
二人の門出を祝う場として選ばれたのは、江戸で最も賑わう花市の中、植木株仲間が一堂に会する特設の場所であった。色とりどりの花鉢と、様々な仕立ての松や盆栽が並び、華やかな雰囲気である。
紋付袴姿の春吉は、慣れない装いに加えて、大勢の仲間の視線に晒され、ひどく落ち着かない様子であった。
「信助殿、わたくし、袴の裾が、変なことになってはいないでしょうか」 春吉の手足は、小刻みに震えている。
「なってない、なってない。春吉殿、もう顔が真っ白だぞ。まるで、白梅の鉢植えだ」 信助は笑いをこらえている。
一方、晴れ着に身を包んだお芳は、終始堂々としていた。「春吉様、いつまでもソワソワしていないで、どっしりと構えてよ。まるで私の方が婿に来たみたいじゃないか」
「お芳様、しかし、皆様の視線が」
「みんな、私たちの結婚を祝ってくれているんだ。笑顔で迎えればいい。心配しなくても、今日の主役は、私たちだよ」
お芳はそう言って、春吉の腕を軽く叩いた。春吉は、結婚前から、既にこのかかあ天下が定着していることを自覚し、諦めの境地であった。しかし、その強さが心地よいのも事実であった。
株仲間の親方衆が居並ぶ最前列には、二人の師匠、隠居の古家陽一郎と若き二代目秋元仁斎が並んで座っていた。二人は楽しそうに酒を酌み交わしている。
「陽一郎殿、見てみろ。新郎はまるで揺れる風知草だ。新婦は五葉松のように動じぬ」 仁斎が陽一郎に語りかけた。
「はは。仁斎殿。春吉は、格式を重んじるあまり、緊張しすぎる性質。それを、お芳殿の自由な明るさが引っ剥がしたのだ」 陽一郎は穏やかな目で二人を見つめた。
「まさに、わしの言う新しい交配だ。古き良きものも、新しい生命力には敵わぬ」 「そして、仁斎殿。あの様子では、結婚生活は間違いなくかかあ天下になるだろう」
仁斎は膝を叩いて喜んだ。
「かかあ天下こそ、夫婦円満の秘訣だ。男は、妻に頭が上がらないくらいが、ちょうど良い仕立てだ」
「元与力として、わたくしも同意見でございます。男は外で揉まれて、家で妻に癒やされる。それが、長く健やかに生きる本道です」陽一郎も笑いながら相槌をうった。
二人の師匠は、互いに深く頷き、声を上げて笑った。
植木株仲間の代表が立ち上がり、祝辞を述べた。
「植花の春吉殿と、稲屋のお芳殿。二人の結びつきは、江戸の植木界の未来を表している。格式と自由、伝統と革新、二つが合わさって、きっと見たこともない美しい花を咲かせるだろう」
春吉は、胸にこみ上げる感動を抑え、お芳の隣で深々と頭を下げた。
お芳は、集まった親方衆に、いつもの明るい笑顔で応じた。
「皆様、本当にありがとう。植木屋の嫁として、春吉様を、いえ、植花という名の松を、私なりのやり方で、大切に育てていきます」
その言葉に、春吉は思わず小さくため息をついた。
「春吉様、何か言いたいことが」とお芳が微笑みながら促す。
春吉は決意を込めて、一言言った。
「わたくしは、この美しく、そして少々手強いお芳様と、生涯を共にすることを選びました。どうぞ、皆様、末永く、二人の行く末を見守ってください」
株仲間からは、大喝采が巻き起こった。
その場に居合わせた信助は、隣に座る兄、病が回復しつつある留吉に耳打ちした。
「これで俺の役目も終わりだ。春吉は、生涯の友であり、俺の妹婿になった」
「うむ。春吉殿は、最高の枝を見つけたな」と留吉も静かに祝福した。
「それにしても、父、初代留吉はどこにいるのやら」
二人の息子は同時につぶやいた。風来坊の父親がどこの空の下にいるのか、少しは心配していた。「お前たちに任せる」と旅に出て、もう二年が過ぎている。
春吉とお芳の婚礼後、植花と稲屋は暖簾は別ながら、実質的な協力体制に入った。病が快方に向かった長男の留吉、次男の信助、そして春吉とお芳が、新しい時代の植木屋の形を模索し始めた。
ある日、稲屋の座敷で、お雪、留吉、信助、春吉、お芳の五人が話し合っていた。
「春吉殿が婿に入ってくれて、植花と稲屋が手を取り合うことになった。これから、どう動くべきか、みなの考えを聞かせてほしい」 お雪が言った。
「母上様。今は将軍家斉公の治世。質素倹約どころか、大奥の華やかさ、文化の爛熟が進んでいます」とお芳が口を開いた。
「家斉公は、側室が多く、子どもの数も膨大。嫁入り支度や屋敷の普請には、大量の金と、花木が注ぎ込まれているはずです」春吉は頷いた。
「わたくしどもの植花は、これまで武家専門。古家陽一郎様から受け継いだ、格式ある松や桜の扱いは誰にも負けません。大奥や大名家からの注文は植花が請け負います」
「俺たち稲屋は、どうする」と信助が尋ねた。
「稲屋は、今まで通り、庶民向けの新しい花や、手頃な盆栽を扱う。そして、信助兄さんは、仁斎先生仕込みの流行と変化を読む力で、次に流行る花を見極めてほしい」
病から回復しつつある留吉が、静かに言った。
「春吉殿、お芳。私には、外で動き回る体力はまだない。だが、植花の膨大な記録と、稲屋の庶民の動向を照らし合わせ、仕入れや販売の勘定方として、二つの店を裏から支えたい」
「留吉兄さん。それが一番、兄さんに合った仕事だ」信助が喜んだ。
「よし、では俺の役割だ。今、大奥での消費が増えているのは、祝いの席で使う華やかな花木だ。特に、将軍の娘が嫁ぐ際の、嫁入り支度の豪華さは桁外れだろう。
子どもをどんどん産ませる将軍だ。その娘たちを大名家へ嫁がせる度、豪華な献上花木が必要になる。植花は、その格式と量を請け負うべし」信助は、得意げに手を叩いた。
それに対して、春吉は真剣な顔をした。
「将軍家の需要は、質素倹約とはかけ離れた大量消費です。それは、古家様の教えである花を生かすことは、人を生かすことという本道とは、一見反するように見えます」
「だが、春吉様」とお芳が割って入った。
「その消費が、花のお江戸の文化を動かし、私たち植木屋の生活を支えているのも事実だよ。私たちは、花木の消費を、文化を盛り上げる役割に変えてしまえばいい」
「どういうこと、お芳」とお雪が尋ねた。
「植花は、格式ある五葉松を納める。その松の横に、稲屋が庶民に人気の賑やかな花を添えることを提案するのです。武家の格式と、庶民の華やかさ。二つの流れを一つにすれば、これからの江戸の文化を代表する、新しい植木屋になれる」
春吉は、目を輝かせた。
「なるほど。わたくしの師、陽一郎様が教える本道を、信助殿の師、仁斎先生が教える新しい可能性で彩るわけですな」
「そうだ。俺たちが、華のお江戸を、土台から支えていくんだ」信助は立ち上がり、春吉と固く握手した。
留吉は微笑み、お雪は若者たちの勢いに、大きな希望を感じた。新しい植木屋の時代が、今、始まった。
それにしても、初代留吉はどこにいる。お雪はふと寂しさを感じた。わたしを置いて、どこに行ってしまったの。
植花と稲屋の協力体制は軌道に乗り始めていた。長男留吉は帳簿を睨み、格式を重んじる大名からの注文(植花担当)と、庶民の流行品(稲屋担当)の仕入れを巧みに調整していた。
「留吉兄さんのお蔭で、植花と稲屋の金の流れが一つになった」と信助は感心した。
「だが、このままでは、ただの大きな植木屋で終わってしまう」と春吉は言った。
お芳が目を輝かせた。
「私たちが目指すのは、お江戸全体を、もっと賑やかに、美しくすることだよね」
大植木市を開催
春吉は、二つの新しい事業を提案した。
「一つ、江戸の各地で、全国の植木職人を集めた大植木市を開催し、植木株仲間全体の交流と賑わいを作る」
「二つ、頻繁に起きる火災の焼け跡に、一時的にお花畑を作り、人々の心を癒やす仕事をする」
信助は興奮して立ち上がり、すばらしいと叫ぶ。
「面白い。植木市は、仁斎先生の可能性だ。新しい花を江戸中に広める機会だ」
「焼け跡のお花畑は、古家様の教え人を生かすに繋がる仕事だね」お芳も賛同した。
早速、信助が仁斎先生に掛け合い、春吉が古家陽一郎の協力を取り付けた結果、江戸の広小路などで、大植木市の定期開催が実現した。
「春吉殿。全国の植木職人が集まると、こんなに活気が出るものだね」
「伊勢の松、筑前の菊、京の山野草。江戸にいながらにして、すべてが見られる。これは、植木屋にとって最高の学びの場です」
信助は地方の植木職人たちと、新しい変化朝顔の種や、珍しい草木の仕入れについて、熱心に話し合っていた。
「おい、そこの信助。お前のところの植花と稲屋が始めた植木市は、本当に面白い」
「俺たちは、ただ植木を売るだけでなく、植木屋の交流の場を作っているんだ」
お芳は、植木市の片隅で、子供たちに花の種を配っていた。
「お姉さん、この種を蒔いたら、どんな花が咲くの」
「それはね、植木屋の未来みたいに、予想もできないくらい、綺麗な花が咲くよ」お芳は子供たちの顔を笑顔で見つめた。
次に着手したのは、火災後の焼け跡を緑化する仕事であった。江戸は火事が多く、人々の心は荒みがちであった。
大規模な火事の跡地。まだ土の匂いと焦げた匂いが混ざる中で、春吉、信助、お芳は、作業を指揮していた。
「お芳、この花の配置で、道行く人が思わず立ち止まるような、華やかさがほしい」
「任せて。ここは、人々の心に花を咲かせるのが、私たちの仕事だもの」
信助は、土を耕しながら春吉に言った。
「しかし、火事という不幸な出来事の後で、こんなに綺麗な花畑ができるなんて、誰も想像しなかっただろうな」
「だからこそ、意味があるのです。このお花畑は、復興の象徴。人を生かす植木とは、まさにこのことです」
二つの店の協力は、単なる商売の拡大ではなく、江戸の文化と人々の心を豊かにするための活動となっていた。若き四人は、それぞれの師から学んだ知恵と、持ち前の明るさで、花のお江戸を文字通り花で満たしていくという夢に向かって、歩みを進めていた。
植花と稲屋の共同事業である大植木市と、焼け跡のお花畑は、大成功を収めていた。しかし、その成功は、植木株仲間の古くからの親方衆の中に、嫉妬と不満を生んでいた。
特に、春吉が婚礼前に顔を合わせていた年かさの親方衆の一人、権兵衛は、この若者のやり方が気に入らなかった。
「若造どもが、格式も知らずに目新しいことばかりしおって。 植木は、地道な仕事。花市の真似事や、焼け跡の土いじりなど、邪道だ」
権兵衛たちは、春吉たちの事業を潰そうと、陰湿な嫌がらせを始めた。
最初の嫌がらせは、大植木市でのことであった。信助が地方から大量に仕入れた珍しい変化朝顔の種に、質の悪い種が故意に混ぜられていたのだ。
「信助兄さん、どうした」
「春吉殿、大変だ。仕入れた種から発芽した芽が、ほとんど枯れてしまった。質の悪い種とすり替えられたようだ」信助は悔しそうに顔を歪めた。
次に、焼け跡のお花畑に植える予定だった、稲屋の大量の苗木が、夜中に盗まれるという事件が起こった。
「お芳、これはひどい。お前が心を込めて育てていた苗が」
「悔しい。誰かが、私たちの人の心を癒やす仕事を邪魔しようとしている」
春吉は、冷静に状況を分析した。
「これは、偶然ではありませぬ。私たちの新しい事業が、古くからのやり方を守る者たちの恐れと嫉妬を招いたのです」
春吉、お芳、信助、そして裏方に徹する留吉は、稲屋の奥座敷で作戦会議を開いた。
「このままでは、信頼を失う。どうにかして、犯人を突き止め、正攻法で植木株仲間に訴えるべきだ」と春吉は主張した。
信助は首を横に振った。
「春吉殿、それでは、奴らの思う壺だ。植木株仲間内で揉め事を起こせば、かえって若造のせいにされる」
「ならば、どうするのだ、信助」
そこで、留吉が静かに口を開いた。
「犯人は、私たちの成功を妬んでいる。そして、私たちの新しいやり方を許せない者たちだ。ならば、その新しいやり方で、奴らを追い込むしかない」
「追い込む」
「ああ。種をすり替えられたのなら、私たちはその質の悪い種を、逆手に取る」
留吉と信助が知恵を出し合い、お芳と春吉が実行に移す、奇策が生まれた。
次の植木市の日。春吉たちは、枯れてしまったはずの朝顔の種を、一つの大きな鉢にまとめて販売すると発表した。
「これはいったい、どういうことだ」と権兵衛が訝しげに尋ねた。
春吉が朗らかに答えた。
「権兵衛殿。この鉢には、すり替えられた質の悪い種が蒔かれています。しかし、私たちは、その種を枯れない花に仕立て直しました」
お芳が、その鉢を指差した。そこには、朝顔の芽が枯れた後に残る種殻を、丁寧に彩色し、極小の紙細工の花を添えた、美しい装飾品が置かれていた。
「この種は、咲くことができなかった。しかし、私たちはこの失敗を、新しい形の美しさに変えました。咲かない花も、心で生かすのが、植木屋の仕事です」
信助が説明を付け加えた。
「この鉢を一つ買うごとに、焼跡のお花畑に、一つ、新しい苗木を寄付します。咲かなかった花を、生きている花に変えるのです」
この機知に富んだ反撃に、株仲間は感嘆の声を上げた。質の悪い種を売ろうとした者の悪意は、新しい商品の開発と社会貢献という形で、逆に春吉たちの信用を高めることになった。
権兵衛は、自分の行いが若者たちの新しい知恵によって、嘲笑の的になっていることを悟り、顔を青ざめさせた。
「やられた」
春吉は、権兵衛をまっすぐ見つめた。
「権兵衛殿。植木屋は、花を枯らさないのが仕事。そして、私たちは、心を枯らすような真似はいたしません」
四人の若者は、団結し、師の教えと新しい可能性を信じることで、株仲間内の試練を見事に乗り越えた。
春吉たちの機知に富んだ反撃により、植木株仲間は彼らの新しい事業を認めざるを得なくなった。しかし、種をすり替えた者、苗木を盗んだ者の正体が、株仲間内で噂になり始めていた。
ある夜、稲屋の裏口に、ひっそりと人影があった。権兵衛の娘、お昌である。彼女は、父の意地悪な行為に心を痛めていた。
「お昌殿、どうなさいました」
戸口を開けたのは、病の療養から回復し、主に帳面を扱っている留吉であった。留吉は春吉や信助のような活発さはないが、静かで理知的、そして品位のある立ち居振る舞いをしていた。
お昌は顔を赤くした。実は、彼女は以前から、この物静かで落ち着いた留吉に、密かな想いを寄せていた。父親とは正反対の留吉の品格が、彼女の心を捉えていたのだ。
「あの、留吉様。私から、お話ししたいことがございます」
「どうぞ、中へ」
奥座敷で向かい合った二人。
「留吉様、実は、あの朝顔の種に質の悪いものを混ぜたのは、父です。そして、苗木を盗んだのも、父が使った者たちです」 お昌は、涙ながらに告白した。
留吉は驚きつつも、落ち着いた態度で言った。
「お昌殿。それを、なぜ、わたくしに」
「父は、植花と稲屋のやり方や、春吉様たちの成功が妬ましくてたまらなかったのです。特に、春吉様がお芳と一緒になってから、父は格式が踏みにじられたと感じて」
お昌は、留吉の静かな目を見つめた。
「ですが、私は、父のやり方が間違っていると思っています。そして、私……私は、留吉様の、その静かで、品位のあるところが……父とは正反対の心の美しさを、ずっと見ておりました」
お昌は、勇気を振り絞って想いを伝えた。
「私は、あなたたちの事業が、本当に正しいと思っています。焼け跡にお花畑を作るなんて、父の頭では絶対に考えつかない人の心を生かす仕事です」
留吉は、お昌の正直な告白と、自分に向けられた真摯な想いを理解した。
「お昌殿。わたくしどもは、権兵衛殿を悪人として、株仲間内で糾弾するつもりはございません。春吉も信助も、喧嘩で株仲間を割りたいわけではない。わたくしどもは、植木屋全体を、もっと良い方向に進めたいだけなのです」
留吉は、じっとお昌の目を見つめた。
「権兵衛殿は、植木の伝統を深く理解しているお方。その力は、これからの植木界に必要です。わたくしの役目は、勘定方として、その伝統を新しい金の流れに乗せること」
「…どういうことですか」
「お昌殿、あなたの父上は、新しい事業に参加する道を与えられれば、きっとその力を発揮する。あなたから、父上に伝えてほしい。植花と稲屋が、権兵衛殿の松を、大名家への献上品の仕立てに使わせていただきたいと」
留吉は、春吉たちの新しい事業の格式の部分で、権兵衛の得意とする伝統の技を組み込むという、誰も傷つけない和解の策を考えたのだ。
「父の、松を」
「そうです。植花は、格式を重んじる松の仕立て直しを、権兵衛殿に依頼する。これは、株仲間の長老の権威を認めることになる」
お昌は、留吉の優しさと知恵に、胸が熱くなった。
「留吉様……本当に、あなた様は、心の広いお方だ」
翌日、春吉と信助は驚いた。権兵衛が、申し訳なさそうな顔で稲屋に現れたのだ。
「春吉殿、信助殿。わしが、若気の至り……いや、老いぼれの至りで、あなた方の邪魔をした。どうか許してくれ」
権兵衛は、留吉からの「松の仕立て直し」の依頼を、お昌を通じて聞き、自らの過ちを悟ったのであった。
「権兵衛殿、頭を上げてください。わたくしどもは、最初から、権兵衛殿の技を必要としていました」と春吉は笑顔で言った。
「そうですよ。権兵衛の親方のような堅い技と、俺たちの新しい工夫が合わされば、向かうところ敵なしだ」と信助も快く受け入れた。
権兵衛は、再び植木株仲間の重要な一員として、春吉たちの新しい事業に加わることになった。そして、その裏で、留吉とお昌の間に、密かな信頼の糸が結ばれ始めていた。
権兵衛が植花と稲屋の新しい事業に加わったことで、植木株仲間の空気は一変した。特に、権兵衛が手掛ける五葉松の仕立て直しは、春吉たちが請け負った将軍家への献上品に、欠かせない力となった。
「春吉殿、この松は、もう一寸、枝ぶりを整えれば、さらに格調が高まります」 権兵衛は、以前の意地悪な面影はなく、職人としての誇りを持って松に向き合っていた。
「権兵衛殿の松の生命力を引き出す技術は、さすがでございます。わたくしどもには、真似できません」春吉は素直に尊敬の念を表した。
その献上品は、植花の格式と、権兵衛の伝統の技、そして稲屋の流通力と、四人の若者の企画力、全てを結集したものとなった。
「これこそ、まさに江戸の植木界の最高峰だ。植花と稲屋が協力したからこそ、成し得たことだ」
と株仲間も感嘆の声を上げた。
献上品の納入は成功し、植花と稲屋の評判は、江戸中に広まった。株仲間は、もはや春吉たちの新しいやり方を批判する者はいなくなり、むしろ、彼らが企画する植木市や焼け跡の緑化事業に積極的に参加するようになった。
花市の利益や、献上品の収益の一部を、焼け跡の緑化費用に充てるという、留吉の緻密な勘定も、株仲間の信頼を集めていた。
「留吉兄さんの裏方の力が、一番大きかったな。みんな、兄さんの数字の正確さに頭が上がらない」 信助が留吉に言った。
「わたくしは、ただ、みんなの努力が報われるように、公平に流れを整えただけだ」 留吉は静かに笑った。
その様子を、権兵衛の娘、お昌は、離れたところからじっと見つめていた。父の権兵衛は、再び職人として認められたことに、心から満足し、すっかり穏やかになっていた。
「お昌殿、お父上の松は、本当に見事でした」とお芳が話しかけた。 「ありがとうございます、お芳様。父も、春吉様たちのお蔭で、生き甲斐を取り戻したようです」
ある夜、留吉が植花の帳面を整理していると、お昌がそっと稲屋を訪れた。
「留吉様、夜分に失礼いたします」
「お昌殿。何か、お父上に急ぎの用でも」
「いいえ。これは、その……お父様に代わり、御礼に」
お昌は、自分で縫ったらしい、小さな布袋を留吉に差し出した。中には、留吉が仕事で使う墨と筆が入っていた。
「わたくし、留吉様の静かな仕事ぶりを見て、少しでも、お役に立ちたいと思いまして」 お昌は、恥ずかしさから、うつむいたまま話した。
留吉は、そっとその布袋を受け取った。
「お昌殿、ありがとう。わたくしの裏方の仕事を、見ていてくださったのですね」
「はい。留吉様は、誰よりも心優しいお方です。お父様を許してくださったこと、本当に感謝しております」
留吉は、お昌のまっすぐな気持ちに、心を打たれた。
「わたくしは、病で静養しておりましたので、活発さでは春吉や信助に劣ります。ですが、お昌殿が、わたくしの静かな役割を認めてくださるのなら」
留吉は、お昌の目をしっかりと見つめた。
「わたくしは、お昌殿の心の安らぎとなるよう、尽力いたします。これは、堅い誓いです」
お昌は、留吉の静かなる告白に、顔を輝かせた。
「はい、留吉様。私、留吉様と一緒なら、心の安らぎを感じられると思います」
こうして、植花と稲屋の新しい時代の幕開けと共に、もう一つの静かなる恋が、静かに、しかし確かな形で結ばれたのであった。
信助、加賀へ向かう
江戸、文化年間も半ばの頃。老中・水野忠成が、植木屋「稲屋」の主人・留吉と、その弟の信助を呼び出した。
「稲屋留吉。おぬしに、一世一代の大役を任せる」老中・水野忠成は厳かに命じた。
「ははあ。どのような大役でございましょう」 留吉は平伏する。
「将軍家斉公の息女、溶姫様。加賀藩十三代・前田斉泰公への御輿入れだ」水野は一息で言った。
「おお、それはおめでたい」留吉はさらに平伏した。
「うむ。そこで、その婚礼の準備一切を、おぬしに仕切ってもらう。屋敷の植木の選定から、座敷の飾り付け、全てだ。将軍家の威光と、加賀百万石の品格を示す、最高のしつらえを整えよ。先触れとして、すぐに加賀へと向かえ。期日までは、もう残すところ二十日ほどしかない。急げ」
「かしこまりました。しかし、体力的に私にはちと荷が重過ぎる。弟の信助を行かせます」 留吉は静かに答えた。
「信助は、わたくしより、新しい植木飾りや座敷の装飾の才に長けております。必ずや滞りなく、大任を果たして参ります」 留吉は、そう言い切った。
加賀、金沢へ。長旅の疲れもものともせず、信助は加賀藩邸へ乗り込んだ。
「これは驚いた。加賀百万石、噂にたがわぬ見事な屋敷だ。庭の松も見事だ」
信助は感嘆の声をあげた。
「稲屋様、ようこそ。さて、こちら大広間でございますが、婚礼の式場となります」 婚礼を司る家老が厳かに応対した。
「見せてもらうぞ。うむ…」 信助は眉をひそめた。
「この広間の正面のしつらえが、どうにも盆栽やオモトを飾りつけるには、地味過ぎる。このままでは、わが稲屋が誇る最高の盆栽を飾っても、将軍家の姫君を迎える華やかさに欠ける」
「しかし、この掛軸は藩主様が代々」 家老は慌てて答える。
「由緒はわかった。だが、これは祝言の場だ。古き良きものと、新しい門出の光が両立せねば。すぐに代案を出さねば」
信助は、植木職人として、飾り付けの格を上げる方法を、何日も寝食を忘れて考え続けたが、なかなか妙案が浮かばない。
その時、奥から一人の娘が姿を現した。加賀藩に仕える職人の家系の出、加賀の五彩の扱いに長けた、おさやという美しい娘だ。
「その掛軸の周りに、加賀に伝わる五彩を用いた絹の飾り布を、四方八方に巡らせてはいかがでしょう」
「五彩の布、か。それは華やかで目に新しい」
「はい。おめでたい鶴の文様を織り込み、広間全体の白木の色と、掛軸の黒を調和させます。そうすれば、重厚な掛軸はそのままに、植木職人様がお持ちになった盆栽が、その華やかさの中で、一層品格を持って引き立ちます」
信助は思わず手を打った。
「それは名案だ。盆栽の緑と、布の五彩が相乗効果を生む。まさに、その才覚がこの場に必要だったのだ。おさや殿、すぐにその布の製作に取りかかれるか」
「もちろんでございます。今すぐ職人達を集めます。納期は、信助様。七日で整えます」
おさやはそういうと素早く去って行った。
おさやの協力のもと、大広間は数日のうちに、きらびやかな五彩の布と、信助が選定した最高の松の盆栽が調和した、祝言の場へと生まれ変わった。
溶姫様の御輿入れは大成功に終わる。
背景の五彩の布の上に飾られた信助の見事な松の盆栽やオモトが、その品格を遺憾なく発揮した。 江戸から来た者、加賀の藩士、そして将軍家斉付きの目付までもが、信助とおさやの植木と彩りの協調による手腕を褒め讃えた。
「おさや殿、おかげでわしの大役は無事に済みました。あなたの知恵と、機転の利いた判断に心より感謝する」
「もったいのうございます。わたくしは、ただお手伝いしたまでで」 おさやは、顔を赤らめてはにかむ。
「いや、わし一人では、到底成し得なかった。おぬしは、この信助を救ったのだ」 信助は、真っ直ぐにおさやを見つめた。
「おさや殿、わしは、おぬしを江戸へ連れて帰りたい。わしの嫁さんとして、生涯を共に歩んでくれぬか」
おさやは驚き、顔を紅潮させた。
「えっ、わたくしのような職人の娘で、よろしければ」
「決まりだ。おぬしこそ、わしの人生で最高の宝となる。江戸で共に、新しい生活を始めるのだ」
それから数日後。加賀藩邸から江戸へと戻る信助の行列に、おさやの姿があった。
江戸、本郷の加賀藩邸の前に十二日後、到着した。堂々たる朱色の赤門が二人の前にそびえている。
「さあ、おさや。ここが、加賀藩の上屋敷だ。そして、この赤門をくぐれば、わしたちの新しい生活が始まる」
「はい、信助様。加賀を離れるときは、少し不安でしたが、今は楽しみです」
「心配いらぬ。おぬしの持つ五彩の才覚は、わが稲屋の植木と合わせれば、必ずや江戸でも評判となる。わしは、おぬしと共に、新しい未来を築くのだ」
二人は顔を見合わせ、満面の笑みを交わした。
「さあ、行こう」
「ええ」
信助は、おさやの手をそっと取り、二人肩を並べて、威風堂々たる赤門をくぐり抜け、家族の待つ稲屋へと向かった。
「みんな驚くだろうな。特に兄上が、おぬしの才を見たら、目を丸くするぞ」
両親、兄の留吉、妹夫婦の春吉とお芳の顔が次次と思い出された。しかし、父は戻っているだろうか。
信助は、おさやの手を引き、威風堂々たる赤門をくぐり抜けて、本郷の加賀藩邸を後にした。二人の胸は、新しい生活への期待で高鳴っていた。
「おさや。これから向かう稲屋は、わしの家だ。母と兄の留吉、妹のお芳と、その夫の春吉が待っている」
「皆様に、わたくしのような者が、受け入れていただけるでしょうか」
「何を言う。おぬしは、わしの命の恩人であり、妻となる人だ。皆、きっと大喜びするに決まっている」
やがて、二人は稲屋の門前に着いた。信助は深呼吸をして、扉を開けた。
「ただいま戻った」
「おお、信助か。大役、ご苦労であった 」
なんと、父、樹花医の留吉がいた。母のお雪も奥から出てきた。
「信助や。無事に戻って、本当に良かった。して、そのお美しい方は」
久しぶりの父の姿に驚きながらも、おさやを紹介した。
「母上、父上。この者こそ、加賀での大役を成功に導いてくれた、おさや殿だ。そして、わしの妻となる」
両親は、顔を見合わせた後、満面の笑みを浮かべた。
「そうか。そうであったか。おぬしが、ただ盆栽の才のみならず、女の才覚まで見抜いて、連れ帰るとは。感服したぞ」
久しぶりに帰郷した父が、首を上下に振りながら、やや上ずった声で喜びを口にする。
「まあ、おさやさんと仰るのね。どうぞ、楽にしておくれ。長旅でお疲れでしょう」 お雪はいたわりのある言葉をかける。
「わたくし、加賀の職人の家に育ちました、おさやと申します」
そこに、兄の留吉と、妹夫婦、春吉とお芳も集まってきた。
「信助、お帰り。見違えるほど立派になったな。この方は」
「留吉兄上、このおさやが、わしの妻だ。いや妻になってもらう」
信助はしどろもどろになった。
「おさや様、お美しい。信助さんにこんな素敵なお方が」 春吉が大声を出す。
「ようこそ、私は春吉の妻で、お芳と申します。よろしく」
皆の温かい歓迎に、おさやの目には薄っすらと涙が浮かんだ。
「皆様、優しくしてくださって、本当にありがとうございます」
「信助よ。大役を果たすだけでなく、こんな良い嫁さんまで連れてくるとは。わしは、もう何も心配ない。また旅に出られるな」
初代留吉がつぶやく。母、お雪はそれを怖い顔で睨む。
「父上、恐縮です。これも、ひとえに父上の育てのおかげ。そして、おさやの才覚のおかげです」
その夜、稲屋では、信助とおさやの帰りを祝う賑やかな宴が開かれた。加賀百万石の婚礼を成功させた信助と、その才気溢れる妻、おさやの新しい門出を、家族全員が心から祝福した。
「おさや。これより、わしたち二人の新しい江戸の生活が始まる。不安なことは何もない」
「はい、信助様。皆様、本当に温かくて、わたくし、これからはこの稲屋のために、信助様のために、精一杯尽くします」
「頼むぞ。わしの素晴らしい妻」信助は心からそういい、、晴れやかな笑顔で、おさやの手を固く握りしめた。
花に囲まれた二組の祝言
信助がおさやを連れ帰ってから数ヶ月、稲屋の新しい商いも軌道に乗り始めた初夏。稲屋の大広間は、留吉とお昌、そして信助とおさや、二組の夫婦の合同結婚式の場として、豪華に設えられた。
おさやが加賀から持ち帰った五彩の布が、松の盆栽と共に広間を彩り、庭からは信助が丹精した花々が運び込まれ、祝言の場を飾っていた。
出席者は、両家の親戚に加え、植木の株仲間の面々、そして信助の活躍を見守ってきた奉行の仁斎、植花の古家陽一郎の姿もあった。お昌の父、権兵衛は、娘の晴れ姿に既に涙ぐんでいた。
「さあ、皆さま。本日は、わが稲屋の二人の息子と、二人の嫁を祝っていただき、心より感謝申し上げます」 初代留吉の挨拶。
「お昌、おさや。今日から、二人仲良く、稲屋を支えておくれ」お雪の優し気な声が響く。
お昌の父、権兵衛が立ち上がった。
「留吉殿、信助殿。わが娘、お昌は、少々気が強いが、どうか末永く頼みます」
「そして、信助殿。加賀での大活躍、親として誇りに思う。うう、お昌や、良かったなあ」 権兵衛は、再び手ぬぐいで目元を押さえた。
「権兵衛様、ご安心ください。お昌姉上は、稲屋にとってなくてはならぬ存在です」
「信助がいない間、店のことを切り盛りしてくれたのは、お昌だ。感謝している」
続いて、おさやの席へ、加賀藩の江戸留守家老が厳かに進み出た。
「おさや殿、加賀藩主斉泰公より、祝言の儀、心より祝すとの言伝を預かって参った。遠い加賀より、代わりで恐縮だが、おさや殿の才覚は、殿にも届いている」
「もったいのうございます。殿のご厚意、心に深く刻みます」 おさやはその場にいない殿に頭を下げた。
儀式が滞りなく進み、いよいよ宴席が始まった。
「信助、留吉。新しい二組の夫婦の門出、誠にめでたい。特に、おさや殿の五彩の知恵は、江戸の商いの新しい光となるだろう」
仁斎は目を潤ませて、一言一言丁寧に述べた。
酒が進み、場が温まってきた頃。突然、加賀藩の江戸留守家老が立ち上がり、袖をまくった。
「祝言には、余興が欠かせぬ。わしから、加賀のめでたい踊りを披露させてもらおう」
留守家老は懐からひょっとこの面を取り出すと、突如、ひょっとこ踊りを始めた。その滑稽で力強い動きに、一同は大笑いとなった。
「まさか、藩の重鎮がひょっとこを」
「加賀の人は、祭り好きと聞く。家老様も、その血筋のようだ」
ひょっとこ踊りが終わるやいなや、今度は植花の陽一郎が立ち上がった。
「いやあ、家老様の踊りは見事だ。わしからは、海の幸を象徴する、祝いの舞を」 陽一郎が両手を前に出した。
陽一郎は、腰を低く落とし、両手を巧みに使いながら、エビが跳ねる様子を表現し始めた。そのユーモラスで、細やかな動きは、客の腹筋を震わせた。日頃のまじめなお武家とは思えない踊り。こんな楽しい人だったのかとみんなが見直した瞬間だった。
「お芳さん、陽一郎様のエビ踊り、本当に海老みたい」
「さすが、花を扱う方は、動きも優雅で面白い」お芳も頷く。
広間は、花と五彩の布の華やかさと、余興の笑いに包まれた。
信助は、隣のおさやの手をそっと握った。
「おさや。こんなに楽しい祝言、他にはないだろう。植木と花、五彩の布、そして家族と仲間。全てがわしたちを祝福してくれている」
「はい、信助様。わたくし、加賀の職人として、最高の幸せです。この恩を、必ず稲屋の商いで返します」
二組の夫婦の門出は、江戸の植木屋の歴史に、最も楽しく、華やかな一日として刻まれた。
時は過ぎ、江戸、文化年間の空気も落ち着きを見せ始めた頃。将軍家斉公の治世は、かつての厳しすぎる倹約の反動もあり、町にはどこか華やいだ気配が漂っていた。
本郷の加賀藩邸にほど近い稲屋の本店に、今日は三つの家族が集まった。本家の稲屋を継いだ留吉とお昌。その妹、お芳とその婿、春吉とが営む植花。そして、信助とおさやが、独立して構えた新店彩花の一行だ。
三家族勢ぞろいの七五三
古家陽一郎、二代目仁斎、初代留吉は、すでに泉下の客となられた。しかし、新しい命の芽を受け継いだ子供たち、三歳、五歳、七歳という見事な成長を見せて、広間に行儀よく並んでいた。
「見ておくれ。仁助とお彩ちゃんが三歳、陽介と五郎くんが五歳、そしてお加代ちゃんが七歳。ちょうど揃ったわね」
植花のお芳がはつらつとした声でみんなに声をかける。
「本当だわ。陽介は亡き陽一郎様の陽の字、仁助は仁斎公の名を頂いた。お加代は私の母の名を継いで。みんな立派に育ってくれて、親冥利に尽きるわ」お昌もお芳の言葉を受けていう。
「うちの五郎とお彩も、五彩の布から名を頂きました。この子たちの顔を見るだけで、これまでの苦労が吹き飛びます」
おさやは少し涙目でささやくように言った。
宴の席は、子供たちの成長を祝う和やかな雰囲気で始まった。しかし、食事の手が止まった頃、本家の主である留吉が、少し声を低くして切り出した。
「さて、祝いの席に水を差すようで心苦しいが、本家として、皆に相談せねばならぬ大きな課題がある」留吉は渋い声で述べた。
「兄上、幕府からの御用金の件でございますね」信助が首を少し斜めに向けながら言葉を発した。
「その通りだ。公儀より、わが株仲間に命じられた御用金の額は、到底、一軒の植木屋が抗える額ではない。断れば、店の取り潰しもあり得る。だが、これは返らぬ金だ。ただ差し出すだけでは、先代から築いた稲屋の根を枯らすことになる」
留吉は重みのある言い方をした。実に厄介な問題だ。
「返らないお金を出すなんて。それでは、子供たちの将来が心配だわ」お芳は母親の心でそう言った。
信助が、隣に座るおさやと顔を見合わせ、静かに頷いた。
「兄上。わしたち彩花の夫婦で、この数日、ある提案を練って参りました。御用金を、ただの損失で終わらせない方法です」
「ほう。信助、申してみよ」留吉は体を前に乗り出した。
「幕府に対し、金を差し出す代わりに、ある願いを立てるのです。それは、江戸の町に、草木や農事を学ぶための学び舎、いわば『植彩園』という学校を作る許しを頂くことです」
信助は顔を赤らめていたが、語調は強かった。
「五彩の色が植物から生まれるように、世の中の全ての営みは、土と緑に繋がっています。そこでは、株仲間の優れた職人たちが、現場の知恵を子供たちに教えるのです」 おさやも加わる。
「稲作の改良や薬草の育て方、そして椿や菊、変化朝顔といった花の文化を、次の世代に正しく受け継ぐ。これは、幕府にとっても国を豊かにするご奉公になります」信助は語気を強める。
「学びの学校、か。職人が先生になるのだな」留吉が頷く。
「左様です。御用金という形で納める富を、わたくしたちの職人の知恵と合わせて、江戸の子供たちの未来へ投資するのです。公儀には、御用金の代わりに、この学校の運営を稲屋と株仲間に任せてほしいと交渉します。これならば、公儀の面目も立ち、わたくしたちの技術も守られます」
信助はおさやと何日も相談してきたことを皆の前で滑らかな口調で話す。心ではきちんとまとまっていたが、口に出すのは難しい。うまく言えたかどうか、周囲をじっくり見回した。
「それはいい。陽介や仁助、お加代たちも、そこで学べる」 お芳はすぐ賛成した。
「ただの冥加金として消えるより、ずっと意味がある」春吉も感心したように、即座に同意する。
「信助、おさや殿。おぬしらは、自分たちの繁栄だけでなく、世の中全体へのご奉公を考えておるのだな。植木屋が、ただ木を植えるだけでなく、人の心に知恵の種を植える。これこそが、稲屋の目指すべき道かもしれぬ」稲屋の当主、梅吉ももっともだと首を縦に振りながら述べる。
「よし。この案で行こう。株仲間にも、私から強く働きかける。幕府の役人たちを納得させるだけの情熱を、わしたち家族全員で示そうではないか」留吉は静かに決定事項を述べる。
子供たちが広間を走り回る中、三つの家族は、江戸の未来を切り拓くための、新しい決意を固めた。
「さあ、おさや。これからが本当の勝負だ。五彩の布と植木が繋いだこの縁を、江戸の大きな力に変えていこう」
信助は隣のおさやの目を見て言った。
「はい、信助様。子供たちが大人になった時、この植彩園が江戸の誇りとなっているよう、わたくしも精一杯励みます」
夜の稲屋には、未来への希望に満ちた笑い声が、いつまでも響き渡っていた。
信助とおさやの提案は、留吉を通じて幕府へと届けられた。莫大な御用金の代わりに、荒れ果てた土地を耕し、国を豊かにする人材を育てるという案は、意外にも公儀の関心を引いた。
許可が下りたのは、隅田川沿いにある広大な焼け跡の地だった。かつての大火で家屋が失われ、今は雑草が茂るばかりの場所だ。
「ここだ、おさや。ここがわたしたちの、植彩園の土台になる」
信助は石ころを拾いながら、地面に触れる。
「隅田川の流れが近く、水の便も良いですね。でも、まずはこの石ころだらけの地面を、生きた土に変えなければなりません」
加賀で生まれたおさやは強い意志を秘めた女性だった。
数日後、焼け跡には稲屋、植花、彩花の家族だけでなく、株仲間の職人たちが総出で集まった。
「よし、野郎ども。今日は植木を植えるんじゃない。学び舎の柱を立て、土を耕すんだ。気合を入れろ」 留吉が指示する。
「見て、春吉。あんなに大きな石が埋まっている」
お芳はいつもの元気な声で春吉をうながす。
「本当だ。でも、ここを平らにすれば、子どもたちが思い切り土を触れる場所になる」春吉とお芳は息のあった夫婦だ。
そこに、二組の親子が通りかかった。身なりの良い武士とその息子。もう一組は、泥にまみれた近所の農夫とその子供だ。
「ここで何を始めるのですか。家を建てるにしては、土ばかりいじっているようですが」武士の息子が声をかけてきた。
「おお、坊ちゃん。ここは学校になるんだ。といっても、本を読むだけじゃない。自分の手で種をまき、薬草や米がどう育つかを学ぶ場所だ」信助はていねいに答えた。
「おいらも入れてもらえないかな。字は書けないけど、草取りなら得意だ。字も教えて欲しいし」
「もちろんだ。身分も育ちも関係ない。ここでは、土に触れる者が皆、仲間だ。学びたい人は全部受け入れる予定だ」 信助は二人の少年の顔を見ながら、笑顔で答えた。
建物の建設が始まった。豪華な装飾はないが、風通しが良く、どこにいても外の植物が見える開放的な造りだ。
「信助様、建物の壁の色を工夫しました。加賀の技を活かし、植物が一番美しく見える落ち着いた色合いにしてあります」おさやは自信たっぷりに告げる。
「さすがだ。これなら、子どもたちの感性も磨かれるだろう」
信助はおさやのすることを全て称賛した。自分にない才能がおさやにあることは、信助にとって自分の誇りでもあった。
ある日、現場の指揮を執っていた留吉のもとに、一人の老職人がやってきた。
「留吉さん、俺たちみたいな現場の人間が、本当に先生なんて務まるのかい」老職人はややうつむき加減で小さな声で言った。
「あたりまえだ。あんたの指先にある、あの松の枝振りを整える技は、どんな書物にも書いてない。それを子どもたちに見せてやってくれ。それが一番の学びなんだ」留吉は断言した。
やがて、隅田川のほとりに、木の香りが新しい学び舎が姿を現した。広大な敷地には、実験用の田畑や、珍しい花々を育てる温床も作られた。
「完成だ。名前は、予定通り『植彩園』としよう」
信助の言葉に留吉がすぐに賛成した。
「信助、素晴らしい。この焼け跡から、新しい江戸の知恵が芽吹くのが目に見えるようだ」
留吉は実行力のある信助に絶対の信頼を寄せている。
「さあ、次は中身だ。武家の息子も農民の子も、同じ泥にまみれて、一緒に汗を流す。そんな光景を早く見たいものだ」信助は次の未来を見ていた。
「子どもたちの名前を付けた時の想いが、形になったわね。陽介も仁助も、お加代も五郎もお彩も、みんなここで育っていく」
お芳は春吉と信助に向けてそうささやいた。
「大地の恵みを知る子は、きっと優しい大人になります。明日からは、いよいよ最初の子どもたちがやってきますね」
おさやはお芳だけでなく、春吉と信助、留吉にまで声が届くようにきっぱりと言った。
その言葉を聞きながら、信助は、夕日に照らされる隅田川と、完成したばかりの学び舎を満足げに眺めた。
「さあ、江戸の未来を、この土から始めようではないか」
植彩園に関わった全員が同じ考えだった。
第三章
『植彩園』の開園
隅田川の川風が心地よい、植彩園の開園初日。門の前には、驚くほど多様な人々が集まった。江戸の町人の子、近隣の農家の子、そして立派な身なりの武家の少年たち。さらに、参勤交代で江戸に来たばかりという地方の藩士たちが、物珍しそうに中を覗き込んでいる。
「さあ、皆。よく集まってくれた。植彩園には、上も下もない。この門をくぐれば、皆、土に学ぶ仲間だ」信助は声を挙げた。
「植彩園」の開園式が厳かに進む中、入り口がにわかに騒がしくなった。
「道を開けよ。お通りである」
先触れの声と共に、大勢の家来を従えた一人の武家が姿を現した。その威風堂々とした佇まいに、参列していた人々は思わず息を呑み、左右に分かれた。
「これは、お揃いで。皆様、お早い到着でございますな」
老中、水野忠光が歩み寄り、深々と頭を下げた。
「水野殿、遅れてすまぬ。どうしてもこの目で見たくてな。樹花医の留吉の夢が形になったこの場所を」
武家はそう言うと、真っ直ぐに園の奥を見据えた。
「多くの家来を連れて参りましたが、皆、樹花医の留吉に恩がある者ばかりにございます。式典の邪魔はいたしませぬ。ただ、一目だけでも拝ませてくだされ」
「左様でございますか。稲屋先代、樹花医の留吉殿も、これほどの方々に見守られ、さぞかし喜んでいることであろう。さあ、どうぞ中へ」
水野の案内で、武家の一行は静かに足を踏み入れた。
「見てみろ、あの見事な枝ぶりを。留吉が申していた通り、ここはまさに楽土だな」
「左様にございますな。あの時、枯れ果てようとしていた我が屋敷の桜も、この風景を望んでおりました」
家来たちも、主君の言葉に深く頷き、感嘆の声を漏らした。
それを傍らで膝をつき、頭を下げていたお雪の耳に届いた。
「あの方は……」
松平定信公の時代から、稲屋の初代、留吉は「樹花医」として、全国の諸大名から厚い信頼を寄せられていた。病んだ名木や枯れかけた庭園を再生させる手腕は高く評価されていた。松平定信公が老中を解任され後、留吉は家業を息子たちに託し、自分は、「樹花医」として、北はみちのくから西は九州まで、生涯を賭して歩き続けたのだ。
息子たちの結婚を心から祝福した後、初代稲屋の留吉は、病でその生涯を閉じた。
その留吉の業績を知れたことが、お雪には何よりの吉報だった。これで、あの世に行って、留吉にご苦労様と言える。
その後、稲屋、植花、彩花の家族、株仲間の職人たちが総出で集まり、植彩園を築き、花や木々だけでなく、学びの場にしようとまとまり、お上に認可願を出したのは、稲屋初代留吉の最後の仕事だった。
その「植彩園」設立の認可願は江戸城内でも評判になっていた。
そんなある日、江戸城の大広間。諸大名が集まる中、一人の藩主が声を上げた。
「水野殿、我らには共通の願いがございます」
老中、水野忠光は静かに視線を上げました。
「ほう。大名の方々が口を揃えて願うとは、穏やかではありませんな」
「稲屋の留吉にございます。あの男の『植彩園』の計画を、何としても実現させていただきたい。木々に命を吹き込み、彩りを添える。あれは民のため、そしてこの国のための悲願にございます。そして、稲屋の先代、樹花医の留吉の夢でもある」
別の大名も身を乗り出しました。
「稲屋の先代、樹花医の留吉は己の命を削るようにして、我らが領地の木々に寄り添ってくれた。あの誠実な働きに報いたい。どうか、上様にお取りなしを」
水野は諸大名の熱意に打たれ、家斉公へ直訴した。やがて公儀の認可が下り、江戸の地に類を見ない美しさを誇る「植彩園」が開園の日を迎えることができたのだ。
式典の席、水野忠光は集まった人々を前に、声を詰まらせながら語り始めた。
「皆様、この庭園の花や木々を見てくだされ」
水野の視線の先には、色とりどりの花々、瑞々しく葉を広げる木々があった。
「この壮大な計画が成ったのは、ひとえに、稲屋初代、留吉の功績でございます。すでにご存じかと思いますが、初代留吉は、すでにお亡くなりになりました。この式典を見ることはできません。残念でなりません」
聴衆の中から小さな溜息が漏れた。水野は潤む涙をこらえ、静かに言葉をつないだ。
「稲屋初代、留吉は、木や花をただの植物とは思っておりませんでした。友のように、家族のように、その痛みに耳を傾け、最期まで誠実を尽くした男にございます。彼がその身を捧げて守り抜いた命が、今、ここで花開いているのです」
吹き抜ける風が、留吉の魂を運んできたかのように、木々を優しく揺らしていた。
水野忠光が静かに語る中、参列していた一人の老藩主が、留吉との思い出を語り始めた。
それは、とある地方の城下にそびえる、樹齢三百年に及ぶ五葉松が枯れかけた時のこと。
「留吉、この松は我が藩の誇りなのだ。どうにか生き返らせることはできぬか」
藩主の切実な訴えに、留吉は地面に膝をつき、根元の土を丁寧に指で掬い上げた。
「殿、この木は泣いております。土が固まり、呼吸ができぬと苦しんでおります」
「木が泣いているだと」
「左様にございます。私はこれから、この方の周りの土をすべて入れ替え、根の先まで薬を届けます。長い戦いになりますが、よろしいでしょうか」
留吉はそれから百日もの間、雨の日も風の日も松の傍らを離れませんでした。泥にまみれ、自分の食事さえ忘れて木に語りかける姿に、家臣たちは呆れ顔で囁きあった。
「稲屋の主は、正気ではないな」
「ただの庭師が、木と話ができるはずがなかろう」
しかし、留吉は嘲笑など耳に入らぬ様子で、幹を優しく撫でながら呟いていた。
「もう大丈夫だ。冷たい水が通る道を作ってやったからな。ゆっくりと、お前の速さで芽を出しなさい」
季節が巡り、春の兆しが見え始めた頃、奇跡が起きた。茶色く変色していた枝の先に、瑞々しい若緑の芽が顔を出したのだ。
「おお、芽吹いた。留吉、松が息を吹き返したぞ」
藩主が歓喜の声を上げると、留吉は力なく笑い、その場に崩れ落ちた。
「これで私も、安心して次の地へ向かえます」
「何を言う。お前の体はもう限界ではないか。少しは休め」
「いえ、私の命は木々の命と一つにございます。あちらの領地でも、助けを待つ花がおりますので」
留吉は止める声も聞かず、小さな薬箱を背負い、また次の旅路へと消えていった。
水野忠光は、この回想を聴き終えると、深く頷いた。
「稲屋初代、留吉殿は、常に己を後回しにされました。植彩園に植えられた一輪の花にも、彼の魂が宿っておりますな」
水野の頬を一筋の涙が伝わった。
「皆々様、どうかこの園を長く愛してやってくだされ。それが、命を削って花々や木々を守り抜いた留吉殿への、何よりの供養になるはずです」
稲屋、植花、彩花の家族、そして、株仲間の職人たちも涙があふれるのを押さえることができなかった。
集まった人々は、静かに木々を見上げ、今は亡き誠実な男の姿に思いを馳せた。
式典は無事に終了した。
そこに、薩摩から来たという若侍が、信助に声をかけた。
「失礼いたす。拙者は参勤交代でこちらへ参ったばかりの者。滞在は数ヶ月だが、ここで学ばせていただくことは叶うか」
「もちろんでございます。一日限りの聴講も、数ヶ月の修行も、全て受け入れましょう。ここで学んだ種を、お国へ持ち帰っていただくことこそ、わしたちの願いです」信助は力を込めて言う。
園内に入ると、信助はまず、立派な袴を着た代官の息子と、裸足の農家の少年を並ばせた。
「よし。最初の修行だ。二人で協力して、この畝を耕し、堆肥を混ぜてくれ」信助はきっぱりと指示した。
「えっ。わたくしが、このような泥を。服が汚れてしまいます」 代官の息子は泣きべそをかきながら言った。
「おい、若様。ぼんやりしてたら、日が暮れちまうぞ。ほら、鍬を貸してみな。こうやって、腰を入れるんだ」農家の少年が笑顔で代官の息子をのぞき込む。
農家の少年が手本を見せると、武家の少年はおそるおそる土に触れた。
「若様、土は汚いものではありません。私たちが身に纏う美しい色の源であり、命を育むゆりかごです」 おさやの優しい声が大地にも響く。
「……温かい。土が、こんなに温かいとは思いませんでした」
代官の息子がしみじみとつぶやく。
その様子を見ていた信助の息子、五郎も、小さな手で草むしりを手伝っている。
「見てごらん。あの子たち、いつの間にか身分の垣根を越えて、教え合っているぜ」 春吉はその光景を笑顔で見つめる。
「本当ね。お互いの得意なことを出し合えば、仕事がずっと早く終わる。これこそが、信助様が言っていた、新しい江戸の姿」
お芳も春吉の言葉に相槌を打つ。
午後になると、各地から来た臨時聴講の人々に向けて、株仲間の老職人が実演を始めた。
「いいか。木の声を聞くんだ。この枝を落とせば、来年はもっと良い花が咲く。これは江戸の知恵だが、お主たちの国でもきっと役に立つはずだ」 老職人は気合いを込めて指南する。
「なんと。わが国の土質に合わせた育て方も、教えていただけるのか」 秋田から来た藩士はこわごわと問う。
「ええ。持ち帰った知恵が、全国で花開き、実を結ぶ。それが『花のお江戸』を本当の意味で日本中に広げるということなのですよ」信助は両手を開き、日本中を包むようなしぐさをした。
夕暮れ時、隅田川が茜色に染まる頃、代官の息子と農家の少年は、並んで川で手を洗っていた。
「今日は驚きました。書物には書いていないことばかりだ」
代官の息子は農家の少年に親し気に話す。
「へへ。また明日も来なよ。次は種まきの仕方を教えてやるからさ」農家の少年は少し誇らしげに姿勢を正す。
信助とおさやは、その光景を満足げに眺めていた。
「おさや。最初の一歩、大成功だな。ここから旅立つ者たちが、未来の日本を耕していくのだ」信助の夢は次に向かっている。
「はい。五彩の彩りのように、多様な人々が混ざり合って、新しい美しい景色を作っていく。そんな園にしていきましょう」おさやもまた信助の夢に彩りを加えた。
植彩園から響く子どもたちの笑い声と職人の怒鳴り声は、江戸の新しい夜明けを告げる調べのように、いつまでも隅田川に響いていた。
植彩園が開園して数年後。隅田川のほとりは、一年中見たこともないような美しい花々と、青々と茂る稲穂に彩られる場所となった。ここでは信助の指揮のもと、子どもたちと職人が一丸となって、植物の限界に挑んでいた。
「よし、みんな。この変化朝顔を見てくれ。おさやの五彩の布のような、複雑な色が混じり合っているだろう。これも、異なる品種を掛け合わせた成果だ」信助は子供たちに言い聞かせる。
「父上、こちらの寒さに強い稲も順調です。乾いた土でも根を深く張るように工夫しました」五郎が快活に答える。
「梅も桜も、この園では季節を問わず元気に育っています。みんなで毎日、土の温度を測ったおかげですね」お彩も加勢する。
将軍家斉公が視察
そんなある日、植彩園に激震が走った。将軍家斉公が視察に訪れるというのだ。
当日、きらびやかな行列と共に家斉公が姿を現した。老中の水野忠成や、多くの家来が付き従っている。
「ほう。これが噂の植彩園か。焼け跡だった場所が、これほど豊かな緑に包まれるとは驚きだ」 家斉が驚きの顔をする。
「上様、ようこそお越しくださいました。ここでは、花の美しさだけでなく、民を飢えから救うための稲の改良も行っております」 信助は、信念を持って進めていることを力説する。
「稲の改良、か。それは国にとって最も大事なことだ。して、そちらにある見たこともない朝顔や牡丹は、どうやって育てたのだ」 家斉も花には強い興味がある。
「恐れ入ります。これらはすべて、身分の垣根なく集まった子どもたちが、日々知恵を出し合い、土に触れて生み出したものでございます」おさやは頭を下げたまま答える。
家斉公は、泥にまみれながらも誇らしげな顔をした子どもたちの姿を見て、頷いた。
「素晴らしい。理屈ではなく、実践の中でこれほどの知恵を育んでいるとは。さて、長旅で少々喉が渇いた。何か珍味があれば、振る舞ってみよ」家斉公は少しひょうきんな顔で、珍しいものはないかと所望した。
信助は、あらかじめ用意していた特別な膳を差し出した。
「上様。こちらは、わが園で牛を飼い、その乳を長時間煮詰めて固めた蘇(そ)でございます。これは古の帝も愛でられたと伝わる、滋養強壮の極みの品であります。どうぞ、お口に合えば幸いに存じ上げます」
信助は古来より、薬用とされていた食べ物を差し出した。
「乳を固めたものとな。ふむ、これは……」
一口食べた家斉公の目が、驚きで見開かれた。
「なんと。濃厚で、口の中でとろけるような深い味わいだ。これほど美味なものが、この江戸で作られているとは。酒の肴にも、菓子にもなりそうだ」 家斉公は何度も頷き、満足そうに微笑んだ。
「水野。この植彩園の試みは、江戸のみならず日本全体の宝となる。ここでの研究と教育をさらに広めるため、幕府として全面的な支援を惜しまぬよう命ずる」
家斉はそう言い残し、名残を惜しむように、花々を見渡しながら去って行った。
「信助殿、やりましたね。上様の御墨付きを頂けるとは」春吉が声をかける。
信助は緊張していたのか、ため息を漏らし、肩の力を抜いた。
家斉公が去った後、園内には歓喜の叫びが上がった。
「信助様。これで、もっとたくさんの子どもたちが学べるようになりますね」おさやはすぐに子供たちに未来に心を寄せる。
「ああ。おさやの彩りと、稲屋の緑が、ついに将軍家をも動かしたんだ。これからは全国から集まる人々を、より温かく迎えられる」信助はおさやのいうことはいつも正しいと頷いていう。
「陽介も、仁助もお加代も。みんな上様にお会いできて、一生の思い出になったわね」 お芳の声はいつもより軽やかだ。
「この子たちが将来、全国にこの知恵を広めていくのが、今から楽しみだ」春吉も子供たちの未来に希望を抱く。
隅田川のほとりに立つ植彩園は、幕府公認の学びの聖地となり、花のお江戸の象徴として、その名を全国へ轟かせていった。
使節団の訪問
隅田川のほとりに立つ植彩園が、幕府の公認を得てから数か月が過ぎ、園内には、異国の言葉が飛び交う不思議な一日が訪れようとしていた。
将軍への拝謁のために長崎からやってきたオランダ使節、さらには朝鮮通信使や琉球使節の面々が、幕府の勧めでこの園を訪れることになったのだ。
「おさや。今日は言葉も文化も違う方々が、この園を視察にくる。緊張するが、土と花の美しさは万国共通のはずだ」
信助はかたわらに静かに佇むおさやに語り掛ける。
「はい、信助様。加賀の五彩の布を門に掲げ、最高の花々で迎えましょう」
まず現れたのは、背の高いオランダ人の一行だった。彼らは園内に一歩足を踏み入れるなり、その整然とした美しさと、子どもたちが熱心に草木を語る姿に目を丸くした。
「オランダの御方は、信じられない。東洋の端にあるこの国に、これほどまでに体系立てられた植物の学び舎があるとは。マルコポーロは日本を黄金の国と呼んだが、それは金のことではなく、この豊かな知恵と、花を愛する心のことだったのだな」
と申しておりますと通辞が使節の話されたことを述べる。
「オランダの方々は、これほど国民全体が花を愛で、研究している国は世界で他にないと、深く感じ入っております」
通辞が長崎からの表敬訪問のオランダ人の話す言葉を、自分の感想も含めて訳す。
続いて到着した朝鮮通信使や琉球使節の面々も、変化朝顔や見事な大輪の菊を見て、何度も頷いていた。
「わが国でも花を愛でるが、これほどまでに多様な品種を、子どもたちが自らの手で作り上げるとは。この教育の仕組みこそ、国の宝である」
朝鮮の使節の通辞は自分が褒められているように胸をそらして通訳する。
「この美しい園の様子を、必ずや持ち帰り、わが王にも報告せねばなるまい」
琉球の使節は流ちょうな日本語で述べた。
信助は、子どもたちに命じて、異国の客人に自分たちの研究成果を披露させた。
「こちらの稲は、寒さにも乾きにも負けません。どうか、皆様の国でも試してみてください」 五郎は自信たっぷりにいう。
「この椿は、雪の中でも咲き誇ります。美しさは人の心を癒やす力を持っています」愛らしいお彩がいうとさらに美しく感じる。
感激したオランダ使節が、大きな皮の袋を信助に差し出した。
「これは、わが国や、はるか西の国々に伝わる花の種だ。バラや、チューリップという名の珍しい花が咲く。この園の素晴らしい土であれば、きっと見事な花を咲かせるだろう。これを日本への贈り物とする」
オランダの使節は高い鼻をさらに高くした。
信助は両手で大切にその袋を受け取った。
「ありがとうございます。この種は、わたくしたちの手で必ずや大輪の花に育て上げましょう。そして、いつの日かこの江戸を、世界中の花が咲き乱れる平和の象徴にいたします」信助は持ち前の強い自信で通詞を圧倒した。
信助は、客人のために、あのチーズを添えた特別な茶菓子を振る舞った。
「おお。これはわが故郷の味に近い。日本の茶と、この白い珍味がこれほど合うとは。まさに、東と西の知恵が混ざり合った素晴らしい瞬間だ」オランダの使節は日本のチーズに感激した。
宴の最後、使節たちは口々にこう言い残した。
「日本は、世界一、花を愛す国民の国だ。この園こそが、その証である。我々は母国に帰り、東洋にこのような誇り高い学びの園があることを広く報告しよう」
オランダの使節は帰国後、すぐにそのことをヨーロッパ全土に報告した。日本に行きたい人は、まず、オランダで情報を集めなければならない。それが、世界の常識になっていった。
客人が去った後、隅田川を渡る風は、どこか遠い異国の香りを運んできた。
「信助兄さん、おさや様。ついに、稲屋の緑と彩りが、海を越えたのね」 春吉は心底、嬉しそうに言った。
「バラやチューリップ。どんな花が咲くのかしら。今から楽しみで仕方がありません」お芳は好奇心の塊。新しいものが好きだ。
「ああ。世界中の人々が、武器ではなく花を持って集まれる場所。それが、この植彩園の進むべき道だ」信助の言葉は、江戸庶民の願いでもあった。
「五彩の色も、混ざり合って美しくなります。これからは、異国の花も、江戸の花も、共にこの土で育てていきましょう」
おさやはいつも色で物事を追求していた。
オランダ使節から贈られた袋の中には、見たこともない形の種や球根が詰まっていた。信助とおさや、そして植彩園の子どもたちは、これを大切に土に埋め、江戸の気候に合うよう工夫を重ねて育てた。もちろん、記録を文字だけでなく、精密に描くことも大切にしていた。
それから数年。隅田川沿いの植彩園は、これまで誰も見たことがないような、不思議で美しい絶景に包まれていた。
「見ておくれ。これが、あの時頂いたバラという花。幾重にも重なった花びらから、なんと芳しい香りが漂うのだろう」信助はおさやにささやく。
「はい。この赤や桃色のバラの横で、わが国の誇る牡丹やツツジも、負けじと大輪の花を咲かせています。和と洋の彩りが混ざり合って、まるで夢のよう」おさやはうっとりした目を見せる。
その後、信助は、園内を回りながら、子どもたちが手入れする様子を見守っていた。
「五郎、お彩。異国の花の具合はどうだ」 信助の問いに五郎は答える。
「はい、父上。チューリップという球根の花は、江戸の春の風にも馴染みました。黄色や赤の鮮やかな色が、まるで五彩の布を敷き詰めたようです」五郎は感動したように返答する。
「バラのトゲには驚きましたが、桜の淡い色と一緒に眺めると、お互いの美しさが引き立ちます。川沿いの花菖蒲も、異国の紫色の花と競うように咲いています」観察力のあるお彩の言葉は貴重だ。
園内には、噂を聞きつけた江戸中の人々が押し寄せていた。身分の高い武士から、長屋の住人まで、皆がその光景に足を止める。
「おい、見ろよ。あの赤い花は、まるで南蛮のビイドロ細工のようだぜ。こっちの椿の深紅とも、よく合っている」 町人の軽やかな声が聞こえる。
「ほう。日本の梅や桜の奥ゆかしさと、異国の花の華やかさが、これほど見事に調和するとは。信助殿の才覚には、恐れ入るばかりだ」信助を知る隠居した武士はひたすら称賛している。
そこへ、絵師の歌川広重が、感銘を受けた様子でやってきた。
「これは見事な出来栄えだ。ただ花を育てるだけでなく、異国の文化と江戸の土着の美を、一つの庭で結びつけたのだな。ぜひこれを描かせてほしい」 広重の言葉には深い感動があった。
「どうぞ、好きなように描いてください。土は一つでございます。どんなに遠い国から来た花でも、わしたちが愛情を込めて接すれば、江戸のツツジや牡丹と共に、こうして手を取り合って咲いてくれます。」
信助は土の大切さを主張する。土は生き物だと考えるからだ。そして、土は、米と違って、人間が作ることができない。
おさやは、五彩の布を広げ、咲き誇る花々の横に添えた。
「布の色も、花の色も、すべては自然が教えてくれる知恵。この園を訪れる人々が、美しいものに触れて、心が穏やかになれば、それこそがわたしたちの喜びです」
信助は、バラと桜が並んで揺れる景色を見つめながら、静かに、だが力強く語った。
「歌川様。これはまだ、始まりに過ぎません。この彩りを江戸全体へ、そして日本中へ広めていく。それが、わたしども植彩園の役目です」信助は江戸っ子らしく、物事をはっきり述べた。
春の柔らかな日差しの中で、異国の香りと、日本の古き良き花の香りが混ざり合い、隅田川を渡る風に乗って、江戸の町へと広がっていった。
悪い噂
隅田川のほとり、植彩園が異国の花々と日本の伝統的な花々で埋め尽くされ、江戸中の人々がその美しさに酔いしれていた頃。予期せぬ影が園を覆い始めた。
きっかけは、江戸参府のオランダ一行や、朝鮮通信使、琉球使節が去ってから数週間後のことだった。江戸の町で、激しい咳や熱を出す者が次々と現れたのだ。
「おい、聞いたか。あの植彩園に異国の花が咲き始めてから、変な病が流行りだしたって噂だぜ」 ある行商の噂が広まった。
「ああ。なんでも、あの派手なバラだかチューリップだかが、毒の粉を振りまいているらしい。異国の菌が花に化けて、江戸を滅ぼそうとしているんだ」棒手振りも噂をさらにばらまいた。
根も葉もない噂は瞬く間に広がり、植彩園の門前には、怒った町人や不安げな顔の役人たちが集まってきた。
「皆、落ち着いてくれ。花が病を運ぶなど、そんなはずはない。この花たちは、わしたちが土から丹精込めて育てたものだ」
しかし、人々の怒りは収まらない。そこへ、株仲間の商売敵でもある意地悪な植木屋、伝兵衛が声を張り上げた。
「信助さん、あんたは欲に目がくらんで、得体の知れない異国の種を持ち込んだ。あれは花じゃない、災いの種だ。奉行所に訴えて、園を焼き払ってもらうからな」伝兵衛は意地悪な顔をした。
「伝兵衛様、滅相もないことを。花はただ、一生懸命に咲いているだけです。病の原因が花にあるという証拠がどこにございましょう」
おさやはできるだけ丁寧に対処した。しかし、騒ぎはどんどん大きくなった。
信助は、事態の深刻さを感じ取り、家族を集めた。
「みんな、苦しい時だが耐えてくれ。おさや、五郎、お彩。まずは、本当に花が原因ではないことを証明しなければならぬ」信助の頼みに、一同大いに沸いた。
「父上、ぼくたちが毎日水をあげているのに、ぼくたちはピンピンしてます。もし花に菌があるなら、真っ先にぼくたちが倒れるはず」 もっともな意見を五郎が述べる。
「そうです。それに、使節の方々が泊まった宿の周りから病が広がっていると聞きました。花ではなく、人が運んできたものかもしれません」お彩が具体的な理論を進める。
信助は、老中の水野忠成公に掛け合い、時間を稼いでもらうことにした。その間に、信助は園内にある薬草の知識を総動員した。
「春吉、お芳。以前、植彩園で研究した、あの熱を下げる薬草を準備してくれ。花が原因だと言うなら、花を育てるこの園の知恵で、病を治してみせる」信助は春吉とお芳夫婦にも頼んだ。
信助とおさやは、異国の花と一緒に育てていた和の薬草を調合し、病に苦しむ人々に配り歩いた。
「これは、バラの隣で育った薬草から作った煎じ薬です。花は毒ではなく、人を救う力を持っています」おさやは丁寧に配った。
数日後、薬草の効果で病人が回復し始めると、風向きが変わり始めた。町を歩くと人々から声をかけられた。
「信助さん、疑って悪かった。この薬のおかげで、家族の熱が下がったよ」
「信助殿、見事だ。医師たちに調べさせたところ、病は使節の荷物や衣服に付着していた異国の菌が原因であり、花とは無関係であることが判明した。むしろ、園の清潔な土と薬草が、江戸を救ったのだ」老中水野忠成公はいつも信助の応援をしてくれる。
信助は、安堵の表情を浮かべるおさやの肩を抱いた。
「伝兵衛さん、聞いたか。花は無実だ。それどころか、異国の花と日本の薬草を一緒に育てていたからこそ、この特効薬が見つかったんだ」信助は伝兵衛のことを嫌いではなかった。ただ、ちょっと苦手だった。
「……へっ、運が良かっただけだろ。だがまあ、その薬草の種、少し分けてくれよ」伝兵衛はすこし遠慮気味に言う。
「ふふ、伝兵衛さんも素直じゃないわね。でも、これでまた一歩、植彩園の絆が深まったわ」
お芳はあははと笑いながら伝兵衛にいう。お芳を子供の頃から知っている伝兵衛は、お芳の言葉に逆らうことは出来ない。あまりになじみ過ぎていた。
信助は、夕日に輝くバラと牡丹を見つめながら、静かに笑った。
「目に見えぬ菌に負けぬ、強い江戸を造らねばならぬな。おさや、これからは花だけでなく、病を退ける植物の研究も、園の大きな柱にしよう」
信助の言葉におさやは即座に賛成する。
「はい、信助様。彩りだけでなく、健やかな暮らしも、この土から育てましょう」
騒動を乗り越えた植彩園には、これまで以上に深い信頼と、新しい研究への情熱が満ち溢れていった。
騒動が収まり、花と薬草の力が証明された植彩園には、これまで以上に活気が満ち溢れていた。信助とおさやは、この経験を単なる思い出に留めず、江戸の新しい力に変えようと動き出した。
「おさや。上様が召し上がったあの白い珍味に、わしたちが研究した薬草を混ぜてみるのはどうだろう。ヨモギやシソの力は、体を健やかにする。これこそが、江戸の新しい特産になるはずだ」
信助の言葉にもちろんおさやも乗る。
「それは名案です。ヨモギは血を清め、シソは気を巡らせます。五彩の彩りを添えるように、薬草の香りを練り込めば、見た目も美しく、体にも良い逸品になりますね」
二人は早速、園内の牛から採れる乳を使い、試作を重ねた。出来上がったのは、爽やかな緑のヨモギが香るものや、鮮やかな紫のシソを纏った、鮮やかな特製チーズだった。
「なんて良い香り。一口食べると、薬草の清々しさが口いっぱいに広がる。これなら、お年寄りから子どもまで、皆が喜んで食べてくれるに違いない」お芳は請け合った。
信助は、この製法を自分たちだけのものにはしなかった。留吉を呼び、株仲間の会合を開いた。
「信助、本当に良いのか。この製法を皆に教えてしまって。彩花だけの独占にすれば、蔵がいくつも建つぞ」 留吉は苦笑いしながら言った。
「兄上、それではいけません。わたくしたち一軒が富むより、株仲間全員でこれを作り、江戸の、そして日本の健康を支えるのです。その代わり、皆で少しずつ利益を出し合い、幕府へ運上金を納めましょう」信助の言葉には私利私欲がなかった。
この提案に、株仲間の職人たちは驚き、そして深く感謝した。かつて信助を疑った伝兵衛も、深々と頭を下げた。
「信助さん、あんたは器が違う。わかった、俺たちも精一杯良いものを作って、稲屋の名に恥じぬ働きをするぜ」
かつて反対していた伝兵衛の意気込みに、他の人は圧倒された。
「薬草チーズ」と銘打たれたこの特産品は、家斉公のもとへも届けられた。
「ほう、これは。以前の珍味に、江戸の薬草の力が加わったか。香り高く、誠に美味である。株仲間が一体となってこれに励み、運上金を納めるとは、見事な心がけだ」家斉公は絶賛した。
「上様。この特製チーズの売り上げにより、幕府の財政も潤い、民の健康も守られております。信助殿の知恵は、国の宝でございます」 老中水野忠成も応援してくれた。
評判は瞬く間に全国へ広がり、隅田川の植彩園には、知恵を求める人々がさらに押し寄せた。
「信助様。わが国でも薬草を育て、この珍味を作りたいのです。どうか、土の作り方から教えてください」 秋田から来た若者。
「五彩の布と、植物から採れる色の関係についても、詳しく学びたい。これをお国に持ち帰り、新しい産業にしたいのです」薩摩から来た老職人は真剣に教えを請うた。
信助とおさやは、訪れる人々を拒まず、すべてを包み隠さず教えた。
「いいですか。土を愛し、植物の声を聞く。それがすべての基本です。ここで学んだ種を、それぞれの故郷で大きく育ててください」信助の話はいつも基本的なことが多かった。
「色の力、薬草の力は、皆を幸せにするためにあります。どうぞ、この彩りを全国へ広めてください」おさやは色の天才だ。
植彩園は、もはや単なる学び舎ではなく、日本中の知恵が集まり、また全国へ流れていく、大きな心臓のような場所になった。
「父上、ぼくも将来、全国を回って、植彩園の知恵を伝えて歩きたいな」 陽介は植木奉行、もしくは植木お庭番志望だった。
「ぼくも、新しい薬草をどんどん見つけて、みんなを病から救いたい」五郎は医者に適していた。
信助は、子どもたちの輝く瞳を見つめ、おさやと静かに微笑み合った。
「ああ。わしたちが蒔いた小さな種が、今、日本中で花開こうとしているんだな」信助は自分の想いが形になる幸せを感じた。
隅田川の流れは、全国から集まる人々の希望を乗せ、穏やかに、そして力強く、花のお江戸の新しい夜明けを運んでいた。
江戸の町に、これまでにない熱気が渦巻いていた。植彩園で学んだ子どもたちが、成長して各地で植木市を開くようになり、それがきっかけで空前の植木ブームが沸き起こったのだ。
浅草の境内や駒込の広い空き地には、色とりどりの幟がはためき、読売が威勢よく瓦版を配り歩いている。
「さあさあ、お立ち会い。本日発表、江戸植木番付だ。駒込、浅草、本郷の三か所で開催された植木市の覇者が、ついに決まったぞ。東の横綱は誰か、西の関脇は誰か、その目で確かめてくれ」
読売があちこちで番付表を売りまくる。
人々が群がる番付表の最上段には、相撲の番付を模して、見事な文字で名前が刻まれていた。
「留吉殿。今年の審査は、例年以上に骨が折れましたな。特に東の横綱、本郷の源兵衛が育てた『五彩朝顔』は、おさや殿の布のように鮮やかだ」 株仲間の長老が、扇子で番付を指しながら楽しそうに語った。
「全くだ。西の横綱に選んだ、参勤交代で来たばかりの薩摩藩士、島津殿の『深紅の椿』も捨てがたい。南国の力強さが江戸の土でさらに磨かれている」留吉も応戦する。
そこへ、豪華な身なりの武士が、鉢を抱えて駆け込んできた。
「これ、留吉。拙者の育てた花菖蒲は、なぜ前頭止まりなのですか。毎日、寝る間も惜しんで肥をやり、話しかけて育てたというのに」 武士は息まいていた。
「ははは。お武家様、熱意は認めますが、少々甘やかし過ぎですな。葉の勢いは良いが、花の気品が今一歩。来年は関脇を目指してがんばりましょう」
別の場所では、町人の子どもたちが、自分たちの番付を巡って言い争っている。
「お彩、見て。ぼくが育てた梅が、浅草場所で『江戸の花名人』に選ばれたよ」 五郎は低い鼻をせいいっぱい膨らませた。
「すごいわね、五郎。でも、私の育てた牡丹も、駒込場所で『東の小結』に入ったわ。来年は絶対に横綱になってみせるんだから」お彩は負けじと言い放つ。
信助とおさやは、その賑わいを見守りながら、隅田川のほとりを歩いていた。
「おさや。武家も町人も、身分を忘れて植木の番付に一喜一憂している。これこそが、わしたちが夢見た光景だ」
「はい、信助様。瓦版で番付が配られるたびに、江戸中が花の話題で持ちきりになるなんて。皆が競い合うのは、剣術ではなく、花の美しさを引き出す技なのですね」
そこへ、再び読売の声が響く。
「次回の番付は、冬の『寒椿・オモト場所』だ。地方の藩士、江戸留守居役の皆様も、自慢の鉢を持って集まれ」
「留吉兄上も株仲間の長老様達も、次の審査のために、今から各地の植木市を回るのに忙しそうだ。わしたちも、新しい品種の研究を急がねばな」 信助はおさやに協力を求める。
「ええ。番付に載る喜びが、さらに新しい知恵を生みます。江戸が丸ごと一つの大きな花園になったようです」
江戸の町は、季節ごとに発行される番付表を楽しみに、人々が鉢を抱えて歩く、まさに「世界一花を愛でる町」へと変貌を遂げていた。
隅田川の植彩園に、ふたたび長崎からの急使が舞い込んだ。今度はオランダの商館長から、特別な依頼が届いたのだ。
「おさや、これを見てくれ。長崎の商館長が言うには、今、海の向こうのオランダやイタリア、スペインという国々では、見たこともない花を絵に描いたり、珍しい品種を競い合ったりするのが大流行しているそうだ」 信助は笑いをこらえていた。
「まあ、海の向こうの方々も、江戸の皆様と同じように花に熱中していらっしゃるのですね」 おさやも笑顔を見せる。
「特に、わしたちが以前贈った種から育った花が、向こうの王室で大変な評判らしい。そこで、もっと驚くような、江戸にしかない色彩の花を贈ってほしいというのだ」
信助とおさやは、園の奥にある特別な温床へと向かった。そこには、おさやの故郷、金沢の五彩を思わせる、独特な色合いの品種が並んでいた。
「おさや、このチューリップを見てくれ。オランダから来た種を、わしたちが改良したものだ」
「これは……。江戸の土と加賀の知恵が混ざり合って、なんとも深い臙脂(えんじ)色になりましたね。それに、花びらの端には、淡い緑がかった色が差している。五彩の布そのものです」
おさやの金沢の五彩は実に珍しい色だった。
二人が育て上げたその花は、これまでの異国の花にはなかった、重厚で神秘的な輝きを放っていた。
数ヶ月後、この「江戸五彩」と名付けられた品種がオランダの競り市に届くと、現地の貴族や絵師たちは腰を抜かさんばかりに驚いたという。
「信じられない。イタリアやスペインの絵師たちは、この深い臙脂色を油の絵の具で再現しようと躍起になっている。金や銀よりも、この江戸の『暗い赤』が欲しいと、国中の王侯貴族が家宝を投げ打って求めている」オランダからの報告書に書かれていた。
信助は、その報告を読んで愉快そうに笑った。
「ははは。江戸の植木市で番付を競っている間に、わしたちの花が、あちらの国の番付でも横綱になってしまったようだな」
信助の笑いに留吉は深く同意した。
「全くだ。あちらの国では、この花を一輪描くために、国一番の絵師が何ヶ月も通い詰めているそうだ。信助、おぬしの作った花が、歴史に残る絵画になるかもしれんぞ」
おさやは、遠い異国の地に思いを馳せながら、五彩の飾り布を整えた。
「私たちの色が、海の向こうの宮殿を飾っていると思うと、不思議な気持ちです。でも、美しさを愛でる心に国境はないのです」おさやは熱狂とは無縁なほど静かに答えた。
そこへ、水野忠成の使いが、新しい瓦版を持ってやってきた。
「朗報です。この『江戸五彩』の評判があまりに高いため、オランダの商館から、返礼としてさらに珍しい金や銀の細工、そして最新の顕微鏡という、小さなものを大きく見る道具が贈られることになりました」 使いは水野忠成の喜びをそのまま伝えた。
「小さなものを大きく見る道具。それがあれば、花の雄しべや雌しべ、さらには葉の裏まで詳しく調べて、もっと新しい品種が作れます」信助も同じく喜びの声をあげた。
「また新しい研究が始まりますね、信助様」
おさやは信助の耳元でささやく。
「ああ。江戸から世界へ。わしたちが蒔いた五彩の種が、今度は地球をぐるりと一周して、さらに大きな知恵となって戻ってくる。これほど楽しい商売はないな」
隅田川のほとりでは、異国の絵師たちが憧れる深い臙脂色の花が、江戸の柔らかな風に揺れていた。それは、世界一の花の都、江戸が放つ、新しい時代の輝きだった。
オランダ商館から届いた大きな木箱の中には、真鍮の筒がついた不思議な道具が収められていた。それが、小さなものを大きく見せる魔法の鏡、顕微鏡だった。
「これは驚いた。おさや、見てくれ。この筒を覗くと、葉っぱの表面がまるで広大な田畑のように見える。小さな花の粉も、一つ一つが立派な実のように輝いているぞ」
「信助様、本当ですね。目に見えないところに、これほど美しい模様が隠れていたなんて。これを使えば、花の配合もさらに詳しく調べられます」
時太郎(後に北斎と名乗る)登場
二人が感嘆の声を上げていると、稲屋の門を叩く激しい音が響いた。そこに立っていたのは、身なりも構わず、髪もぼさぼさの男だった。名は時太郎(後に北斎と名乗る)、自他共に認める絵描き馬鹿である。
「聞いたぞ。オランダから、この世の真理を映す鏡が届いたってな。頼む、一目でいいから覗かせてくれ」
時太郎の声は必至だったが、あまりに汚い格好だった。
「時太郎さんじゃないか。またそんな格好で。最近は食べているのか」信助は呆れて、その先の言葉が出てこない。時太郎は時々植彩園に来て花の絵を写生していた。。
「食うことなどどうでもいい。それより、わしは物の真の姿を描きたいんだ。この目で見たこともない世界があるなら、描かずには死ねん」
時太郎は信助の手から顕微鏡を奪い取るようにして覗き込んだ。すると、その場に固まったまま、一刻も動かなくなった。
「……おお、おお。これは……。風に舞う塵だと思っていたものが、こんなに幾何学的な形をしていたのか。花の命の源が、こんなに躍動しているとは」
時太郎は顕微鏡から目を離すことができなくなった。
「紙だ。筆と墨を持ってきてくれ。今これを描き留めねば、腕が腐ってしまう」
おさやが慌てて画道具を差し出すと、時太郎はその場に座り込み、凄まじい勢いで筆を走らせ始めた。
「時太郎様、少しは休憩してください。お茶も用意しましたから」
おさやの声掛けを時太郎は跳ね返す。
「邪魔をしないでくれ。今、わしの目には江戸の町ではなく、宇宙の理が見えているんだ。この線のうねり、この色の重なり。これこそが、真の五彩だ」
時太郎は、顕微鏡で覗いた微小なの世界と、園内に咲き誇る「江戸五彩」のチューリップや牡丹を組み合わせ、これまでにない奇妙で美しい図案を次々と描き出していった。
「時太郎さん、あんたの絵は、まるで花が生きているのを通り越して、踊っているようだな」
信助の言葉に時太郎は言い返す。
「当たり前だ、信助さん。花は生きている。宇宙の一部なんだ。あんたが作ったこの臙脂色は、血の色であり、大地の心臓の音だ。わしはそれを描いているんだ」
丸一日、時太郎は何も食べず、水も飲まずに描き続けた。あまりの熱量に、植彩園の子どもたちも息を呑んで見守っている。
「時太郎おじさん、すごいや。花の裏側の小さな毛まで、まるで龍の鱗みたいに描いている」五郎は感嘆の声をあげる。
「おじさんの目には、私たちが気付かない魔法が見えている」
お彩もまた時太郎のすごさを見抜いている。
ようやく筆を置いた時太郎は、力尽きたように大の字に寝転んだ。
「はあ、描き切った。信助さん、この絵をあんたにやるよ。わしは、もう顕微鏡は無用だ。小さな世界もいいが、自分の目で見たありのままの姿を描きたい。道具は自分の身一つでいい」
時太郎の言葉に信助は心底呆れ果てて、言葉もなかった。
「時太郎さん、あんたという人は……。でも、この絵を見てくれ。顕微鏡で見た命の輝きが、そのまま紙に宿っている。これを見れば、新しい品種の工夫がどんどん湧いてくるぞ」
信助は天才との大きな差を感じた。時太郎は次の世界へと向かっていた。また戻ってくることを願うしかない。
「時太郎様の絵を元に、新しい五彩の布を織るのも素敵ですね。江戸の伝統と、顕微鏡が見せた未来が、一枚の絵で繋がりました」
大博覧会
おさやは時太郎の先の世界を考えていた。二人は創造という世界において天才同士だと信助は思った。
翌日、時太郎にとっては過去の絵が、瞬く間に江戸中の評判となった。人々は「時太郎の描く花は、魂が宿って夜中に歩き出す」と噂し、その絵を求めて植彩園にはさらに多くの人が集まるようになった。しかし、時太郎の意思は固い。
「時太郎さん、少しは休めよ。またどこかで倒れていたら困る」 信助の忠告など、時太郎の耳には、全く入らない。
「休む暇などない。次は、隅田川の水の一滴を覗かせてもらう。そこに潜む魔物を描き出すまでは、死んでも死にきれんからな」
自分の世界、描きたいものに向かって、心はすでに飛んでいる。
「じゃ、またな」
顕微鏡をのぞいて描いた絵は、全て、信助の部屋に置き去って、時太郎はどこかに行ってしまった。どこに行くかは誰にも告げず。ひっそりと消えるがごとく。
絵描き馬鹿の時太郎と、植物馬鹿の信助。二人の飽くなき探求心は、顕微鏡という新しい目を得て、江戸の文化を前人未到の域へと押し上げていった。
だが、時太郎は絵の描き方や住居など、留まることが苦手らしかった。ある場所であるものを描き切ると、また別の新しいどこかの何かに、熱中してしまう性格のようだ。
しばらく時が過ぎた頃、植彩園の隅にある東屋に、一人の男が居座っていた。よく見れば、あの時太郎。泥にまみれ、髪は伸び放題。お世辞にも小綺麗とは言えない。しかし、花の前で写生する、筆の動きだけは、見る者の目を釘付けにする鋭さがあった。
「時太郎さん、こんなところにいたのですか。たまには顔を洗ったらどうだ。おさやが湯を用意してくれたぞ」 信助は喜びながら、家に来るように誘った。
「信助さん、そんな暇はないんだ。今、この牡丹の花びらの脈が、わしの頭の中でうごめいている。これを描き切らねば、わしは爆発してしまう」
時太郎は、あまりの身なりの汚さと、師匠の教えを一切聞かない一徹な性格ゆえに、どの絵師の門下にも入れなかった。
しかし、その腕は本物だった。顕微鏡を通して見た「命の細部」を、彼は独自の筆致で巨大な波のように描き変えていった。まさに天才である。だが、顕微鏡を知って、そのすごさに驚きながらも、それに頼る自分を嫌悪していた。
時太郎は、自分の目で見たもの、心で感じた姿を描きたかった。
それが、植物を育てるための絵と、時太郎の絵との違いだった。顕微鏡で見た世界は確かにすごい。でも、それだけだった。時太郎はその先を描きたかった。
「牡丹の花に向かって、描き切らねば、わしは爆発してしまう」という時太郎の叫びを聞きながら、おさやは冷静に時太郎を観察した。時太郎は一か所に留まる人間ではなかった。常に未来を見つめている。すでに顕微鏡の世界を超えてしまっていたのだ。
しかし、時太郎は生き物である。食べないと死んでしまう。
「時太郎様、せめておにぎりだけでも食べてください。爆発する前に、飢え死にしてしまいます」
おさやは時太郎に共感しながらも食べることを勧めた。
「いらん。描き損じた。これはゴミだ」
時太郎は、一心不乱に描き上げた紙を丸めると、無造作に背後へ放り投げた。すると、園の生垣の影から、近所の町人たちがぞろぞろと這い出してきた。
「おい、今のを拾え。時太郎さんの『失敗作』だぞ」
町人たちは競って拾う。
「失敗作なんてとんでもない。この朝顔の絵、まるで風の音が聞こえてきそうだ。これを家に飾ると、病気が治るって評判なんだ」
人々は、時太郎が捨てた紙を宝物のように拾い上げ、埃を払って持ち帰っていく。信助はそれを見て、苦笑いしながらおさやに言った。
「時太郎さんが描けば描くほど、うちの植木が売れていくんだから、不思議なものだな。皆、彼の絵に描かれた『命の勢い』を、本物の花にも見出しているんだろう」
ある日、信助は時太郎を連れて、きれいに整えられた園の中央へ向かった。
「時太郎さん、今日は特別なものを見せてやる。おさやが五彩の布を背景に設えた、一世一代の八重桜」 信助はそこに導いた。
おさやの設えた五彩の布に、置かれた見事な八重桜。時太郎はいきなり、その場で筆を執ると、失敗作を捨て去ることも忘れて描き始めた。その時、風が吹いて彼の髪がなびき、汚れの下から驚くほど涼やかな、若者の顔が露わになった。
「まあ。時太郎様、きちんとなさると、あんなに端正なお顔立ちだったのですね」 おさやはクスリと笑った。
「ははは。本人は自分の顔にも、世間の評判にも全く興味がないらしい。ただ、見たものを、見た通りではなく、その真実を描きたいだけなんだな」
時太郎の描いた「八重桜」の絵は、読売を通じて江戸中に広まった。その大胆な描写に魅了された人々は、こぞって植彩園を訪れ、絵と同じ花、八重桜を求めた。
「信助殿。時太郎殿の絵の影響で、今年は例年の三倍の植木が売れています。江戸中の家が、時太郎殿の絵と、稲屋の植木で溢れかえっていますよ」
時太郎は、相変わらず「失敗だ」と言っては名画を放り投げ、また新しい紙に向かっている。
「時太郎さん、あんたが捨てた絵を、皆が大事に飾っているぞ。あんたの絵が、江戸の人々の目を開かせたんだ」信助は時太郎の絵に命を見出していた。生きた絵だ。
「わしは、まだ何も描けていない。次は、根っこが土を掴む瞬間の、あの凄まじい力強さを描いてやる」、
時太郎は自分の目と心を信じて、それを表現するために手を動かしている。完成するまでが自分の絵で、出来上がった絵は、すでに眼中にない。
そんな時太郎に、信助は大博覧会で飾る五彩の布に龍を描いてくれるように依頼した。
五彩の布に時太郎が龍は描く。それは、若き天才、時太郎の筆と、信助の土、そしておさやの色。三つの才能が混ざり合い、江戸の文化は誰も見たことのない、華やかで力強い極致へとむかうはずだ。
「大博覧会」の当日
隅田川のほとり、植彩園の広場には、江戸中の人々が固唾を呑んで見守る異様な光景が広がっていた。今日は、植彩園が主催する「大博覧会」の当日である。
広場の中央には、おさやが丹精込めて織り上げた、幅三丈、長さ十丈にも及ぶ巨大な五彩の絹布が掲げられていた。その純白の絹の上に、若き時太郎が、信助たちの育てた花々を命の糧として、一柱の巨大な龍を描き上げたのだ。
龍は時太郎の目と心の象徴だった。
「おさや。見てくれ。あの龍の鱗一つ一つが、まるでおまえの織った布のように輝いている」 信助はおさやにささやく。
「時太郎様は、花の形を、龍の鱗として描き込まれたのですね。命がうごめいているようです」おさやは感動を言葉にした。
時太郎は、全身墨まみれになりながら、最後の一筆を入れ、筆を地面に投げ捨てた。
「完成だ。この龍は、ただの絵じゃない。江戸の土が、花が、そして職人たちの魂が天に昇っていく姿だ。これは、わしが持っているべきじゃない。この町の守り本神として、寺に寄付する」
その時、龍の絵を背景にして、江戸中の植木職人たちが育て上げた名品が次々と運び込まれた。
「さあ、野郎ども。時太郎の龍に負けないくらい、おまえたちの花の魂を見せてやれ。ここにあるのは、ただの植木じゃない。命の競い合いだ」留吉が号令をかけた。
会場には、水野公も訪れ、その圧倒的な光景に立ち尽くしていた。
「これは……。背景の龍が今にも動き出し、手前の牡丹や花菖蒲を天へと導いているようだ。これほどの気迫、かつて見たことがない」水野公は江戸城内でもこれを話題にした。
町人たちは、五彩の布に描かれた龍の美しさと、その前で誇らしげに咲き誇る花々の競演に、言葉を失っていた。
「おい、あの龍の目を見てみろ。まるで、俺たちの花の育て方を見守っているみたいだぜ」 町人がつぶやく。
「ああ。龍の髭の曲線が、あの懸崖の松の枝振りと重なって、空に吸い込まれそうだ」別の町人が感嘆する。
博覧会が終わるとともに、自分の絵が寺に運ばれていく様子を、時太郎は、満足げに眺めていた。
「信助さん。わしの絵は、こうして誰かの願いを乗せて天に昇るためにあるんだ。花を育てるあんたの仕事も、同じだろう」
「ああ。時太郎さん。あんたの絵があったからこそ、職人たちも自分の花の中に潜む『龍』を見つけることがではきたんだな」
夕暮れ時、絹布に描かれた龍は、夕日に照らされて五彩の色をさらに鮮やかに輝かせた。寺の僧侶たちが列をなし、恭しくその絵を迎え入れる。
「おさや様。あの龍が寺の天井に据えられたら、江戸の町はきっと、これからも花と緑で守られますね」お芳は感慨深げにいう。
「ええ。私たちの育てた花が、時太郎様の筆で龍になり、天へ届く。こんなに誇らしいことはないわ」
博覧会の喧騒の中、信助とおさやは、多くの人々が花を愛で、龍の絵に手を合わせる姿を見つめていた。
「さあ、おさや。龍は天に昇ったが、わしたちはこれからも、この土の上で新しい命を育てていこう」信助はおさやにいう。
「はい、信助様。次の季節には、また新しい彩りを江戸の町に届けましょう」
植彩園から寺へと運ばれていく巨大な龍の絵は、まさに花のお江戸の繁栄と、人々の止まらぬ探求心を象徴する伝説の一幕となった。
龍の絵を見事に描き上げ、寺への寄付を済ませた時太郎だったが、その姿は相変わらず墨と泥にまみれ、異臭すら漂う有様だった。見かねた信助は、稲屋の本家に「植花」「彩花」の面々を呼び集め、時太郎の身を清めるための宴を企画した。
「時太郎さん、絵も完成したことだ。今日は稲屋の大きな風呂に入って、さっぱりしてくれ。おさやが新しい着物も用意してある」 信助が時太郎を誘う。
「風呂か。わしは川の水で十分だが、信助さんがそこまで言うなら入ってやろう」時太郎はしぶしぶ言うことを聞く。
時太郎はふらふらと風呂場へ向かった。しかし、絵のこと以外はからきし無知な若者である。しばらくすると、風呂場から凄まじい叫び声が響き渡った。
「あっちち、熱い。なんだ、これは。足の裏が焼ける。助けてくれ」時太郎の叫び声だった。
驚いた留吉と信助が駆けつけると、時太郎は湯船の底に沈めて足を乗せるはずの「底板」を手に持ち、熱湯に直接足をつっこんで踊っていた。
「何をやっているんだい。その板は浮いてこないように足で踏み沈めて、その上に乗るんだ」留吉は笑いを堪えていう。
「何だと。わしはてっきり、邪魔な板が浮いているから、のけてから入るものだと思ったんだ。江戸の風呂は、底が火事になっているのかと思ったぞ」時太郎はまじめな顔で答えた。
信助は笑い転げながら、板を沈めてやり、ようやく時太郎を湯船に浸からせた。
「いいか、板をしっかり踏むんだぞ。あせらずに、ゆっくり浸かるんだ」信助は実際に自分でやってみた。時太郎は、やっと納得して、ゆっくり風呂に浸かった。
ようやく騒ぎが収まり、風呂から上がってきた時太郎を見て、広間に集まっていた女たちが一斉に声を上げた。
「まあ。やはり、きちんとなさると見違えるようです」 おさやがまず言った。
「本当ね。髪を整えて、おさやさんの用意した藍色の着物を着ると、どこかの若旦那のよう。顔の墨を落としたら、こんなに涼やかな目元をされていたなんて」お芳がうっとりしている。
お昌もお茶を運びながら、感心したように頷いた。 「これなら、どこのお嬢さんに見初められてもおかしくないわね」
時太郎は照れくさそうに頭をかき、差し出された御馳走を頬張りながら、着物の袖をまくった。
「窮屈なもんだな。着物が綺麗だと、筆を振り回して墨を飛ばすこともできん。わしは、やはり汚れている方が落ち着く」
「ははは。時太郎殿、今日だけはゆっくりしてくれ。あんたの龍の絵のおかげで、わしたち職人も新しい元気を貰ったんだ」普段、静かな留吉が大声で笑っていた。
宴の席には、おさや特製の「薬草チーズ」や、稲屋自慢の川魚の料理が並び、子どもたちも時太郎の周りに集まって大騒ぎだ。
「時太郎おじさん、かっこいい。次は僕の似顔絵を描いてよ」 陽介がいうと、五郎も負けていられない。
「ぼくも、龍みたいにかっこよく描いてほしいな」
時太郎は、子どもたちに囲まれながら、少し困ったような、でも嬉しそうな顔をしておにぎりを口に運んでいる。
「時太郎さん。あんたの筆は江戸の宝だが、あんた自身も大切な仲間だ。これからも、時々はこうして風呂に入って、わしたちと飯を食ってくれ」
「気が向いたらな。でも、この薬草の香りがする白い珍味は、なかなか美味い。これなら毎日食ってもいい」時太郎が笑う。
「ふふ。では、時太郎様が風呂に入るたびに、特製の御馳走を用意してお待ちしておりますね」おさやがにこりとする。
笑い声が絶えない稲屋の広間。外には隅田川の静かな流れと、月明かりに照らされた植彩園の緑が広がっていた。家族と仲間、そして一人の若き天才が心を寄せる、穏やかで賑やかな江戸の夜が更けていった。
風呂上がりで見違えるような男振りとなった時太郎が、おさやの用意した真新しい着物で江戸の町を歩くと、道行く娘たちが足を止めた。
「見て、あの方。なんて素敵なの。あんなに凛々しいなんて。お侍様かしら、それとも若旦那かしら」 町娘が騒ぐ。
「まるで絵から抜け出したようなお方ね。とき様って素敵」黄色い声が上がるが、当の時太郎は全く興味がない様子だ。
すれ違う飛脚の足の運びや、重い荷を担ぐ棒手振りの背中の曲がり具合を、食い入るように見つめては指を動かしている。
「ふむ、あの筋肉の捻れ、あそこに墨を置けば命が宿るな」
独り言を呟きながら歩く時太郎に、一人の旅姿の武士が近づいてきた。その武士は娘たちの言葉を聞き、時太郎の顔を覗き込んで目を見開いた。
「貴殿はもしや、あの龍の絵を描いた時太郎殿か」
武士の突然の問いに、時太郎は悠然と答える。
「いかにも。今は身なりを整えられていて、自分でも落ち着かぬのだ。何か用か」
「実は、貴殿にぜひ相談がある。拙者があるお方から命じられ、腕利きの絵師を探して江戸まで参ったのだ。詳しい話は、落ち着ける場所で」
時太郎はその武士を伴い、稲屋へと向かった。広間には留吉がどっしりと座り、たまたま用事で訪れていた植花の春吉も、何事かと耳を傾けることになった。
「わが主君、信州のお大名様のことである。大殿様が病の床におられ、若き吉宗公の時代に江戸で見た象を、もう一度見たいとうわごとのように仰るのだ。若殿様も絵を嗜まれるが、見たこともない象は描けぬ。誰か下絵を描ける者はいないかと探し回り、江戸で貴殿の評判を聞いた次第だ」
時太郎は腕を組み、困った顔をした。
「象か。わしも龍なら想像で描けるが、実在する獣を見たこともないのに描くのは気が引ける。嘘を描くのは、絵師の誇りが許さん」時太郎はきっぱりと断りを入れた。
それを聞いていた春吉が、膝を打って立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ。象のことなら、心当たりがある。うちの初代、お咲おばあちゃんは、江戸に象が来た時に直接会っている。確か、花を描くように細かく、象の皺一つまで写し取った絵を蔵に大切に仕舞っていたはずだ」
「本当か、春吉。それは願ってもない話だ。時太郎さん、その絵を元に下絵を興せば、大殿様の願いも叶うのではないか」
春吉が急いで蔵から持ってきた絵図は、驚くほど精密だった。象の力強い足や、長い鼻の質感が、まるで生きているかのように描かれていた。
「……これだ。この筆致、これを描いた人はただ者ではないな。よし、この絵を模写し、わしの筆で命を吹き込もう。信州へ行く決心がついたぞ」
時太郎の言葉に、武士、神崎丈太郎は感涙にむせんだ。
「おお、受けてくださるか。金は望みのままに出そう。下絵が済んだ後は、領内の寺や神社の神輿にも、ぜひ貴殿の筆を残していただきたい」
話が決まるやいなや、時太郎は窮屈な晴れ着を脱ぎ捨てた。
「やはり、こんな綺麗な格好は性に合わん。いつものゆるい格好で、筆一本抱えて旅に出る。信助さん、おさやさん、世話になったな」時太郎の決断は直感的、考えるということを忘れている。
時太郎は、驚くべき速さで支度を整えると、たちまち信州へと旅立ってしまった。江戸の町に残されたのは、彼が去った後の静けさと、残された数々の素晴らしい花の写生だけだった。
数ヶ月後、江戸では一冊の書物が出版された。名は「華絵図」。時太郎が描き残した緻密な花々に、留吉や信助、春吉がその植物の性質や育て方の解説を添えた、前代未聞の図鑑である。
「時太郎さんは今頃、信州の山の中で、象の絵を完成させて大騒ぎを起こしている頃だろうな」 信助におさやが答える。
「でも、この華絵図があれば、いつでも時太郎様の魂に会えますね。江戸の花が、こうして永遠に残るのは嬉しいことです」
時太郎が蒔いた絵の種は、植彩園の花と共に、江戸の文化という大きな大地に、決して枯れることのない大輪の花を咲かせ続けていた。
信州高遠の城下は、折しも桜が山々を薄紅に染める美しい季節を迎えていた。時太郎は江戸から持参したお咲の象図を元に、若殿と共に数日間にわたって城の一室に籠もり、一枚の巨大な屏風絵を仕上げた。
病の床にある大殿の寝所に、その屏風が運び込まれた。
「……おお、これは。懐かしい。まさに、あの時江戸で見た象ではないか」大殿は涙を流して喜んだ。
痩せ細った大殿の瞳に、力が戻った。屏風には、大地を踏みしめる堂々たる象の姿と、その背後に凛とそびえる富士山、そして風に舞う高遠の桜が描かれていた。
「父上。私が心血を注いで描きました。江戸の絵師、時太郎殿の力も借りて、ようやく完成したのです」若殿は疲れを見せず、自信たっぷりに答えた。
立ち会った家臣たちは、若殿がこれほどまでの名画を描き上げるとは思わず、驚愕して顔を見合わせた。
「なんという神々しさ。若殿様に、これほどの画才があったとは。この象の目、まるで生きているようですな」
「象の皺一つ一つに、命が宿っておる。若殿、まことに天晴れでございます」
家臣たちが感極まって平伏する中、若殿と、江戸まで迎えに行った武士、神崎丈太郎、そして部屋の隅で欠伸をしていた時太郎の三人は、顔を見合わせてニヤリと笑った。
実は、力強い象の輪郭や、富士の稜線、そして命を吹き込むような細部は、すべて時太郎の下絵によるものだ。若殿はその線をなぞり、色を置いただけだったが、その共同作業の中で、二人の間には言葉を超えた絆が生まれていた。
「若殿、筆の運びが良くなったな。これなら、わしがいなくても大丈夫だ」 時太郎は静かにほほ笑んだ。
「時太郎。貴公のおかげで、父への最後のご奉公ができた。礼を言うぞ」若殿は心の底から、時太郎に感謝した。
大殿は、震える手で屏風に触れようとした。
「象が……桜の中を歩いておる。富士が見える。わしの人生も、このように穏やかで、力強いものであったと思いたい」
大殿の顔に、これまでにない穏やかな笑みが浮かんだ。象の絵を見つめながら、最期の瞬間を慈しむように、静かに息を引き取った。
葬礼の場では、大殿の遺志により、この象と桜と富士の絵が見送りの品として飾られた。高遠の厳しい冬を越えた桜が舞い散る中、絵の中の象は、まるで大殿の魂を乗せて、天へと続く富士の嶺を歩んでいくようだった。
「大殿様、良い顔で旅立たれたな。わしの下絵が、誰かの最期を彩る力になるとは、江戸にいた頃には思いもしなかった」
時太郎は自分の筆が世の中のためになったことを喜んだ。
「時太郎殿。貴殿を連れてきたこと、生涯の誇りといたす。若殿も、貴殿との出会いで大きく変わられた」江戸で時太郎を見つけた神崎丈太郎はそのことを心の宝物にした。
時太郎は、高遠の清々しい空気を大きく吸い込んだ。
「さて、わしの役目は終わった。若殿、約束通り、次は領内の神輿に龍を描かせていただくぞ。江戸に帰る前に、信州の空にも龍を飛ばしてやらねばな」
時太郎は自分の絵を思い切って描けることが何よりの喜びだった。金より、飯より、まず絵。それが時太郎だった。絵が描ければ、それだけで満足だった。
その後、時太郎の筆は、信州の地でも数々の伝説を残し、その名は山々を越えて江戸へと、ふたたび響き渡ることになる。
時太郎が信州へ旅立ってから、ちょうど一年が過ぎた。隅田川の風に秋の気配が混じり始めた頃、稲屋の門前に、山のような荷物を背負った大男が現れた。
「おーい、みんな。江戸の空気は相変わらずだな。今戻ったぞ」
そこにいたのは、信州の家老や家臣たちが、感謝の印として詰め込んだ巨大な籠を背負った時太郎だった。あまりの重さに、足元の土が沈むほどだ。
「時太郎さんじゃないか。まあ、なんて大きな荷物だ。まるで象でも背負ってきたのかと思ったよ」 信助は大げさにいう。
「おかえりなさい、時太郎様。ご無事で何よりです」
おさやはさっそく、ごちそうと風呂の準備をする。
広間に運び込まれた籠が開かれると、中から信州の香りが溢れ出した。
「さあ、これは土産だ。向こうの家老様たちが、江戸の恩人にと言って持たせてくれた。これは信州そばに、野沢菜漬け、おやきに五平餅だ。あと、これは珍味のイナゴの佃煮だぞ」
時太郎が籠から土産をどんどん出す。
「まあ、イナゴ。少し怖いけれど、食べてみると香ばしくて美味しい。見て、このおやき。まだ信州の山の香りがするみたい」
お芳は声をあげる。
時太郎はさらに、籠の奥から包みを取り出した。
「おさやさん、お芳さんには、信州の紬と、細工の見事な櫛だ。留吉さんには、丈夫な和紙を。そして、ここにいる全員に、檜でできたお椀を持ってきた」
「時太郎さん、あんたという人は。こんなにたくさん、一人で担いできたのか。この和紙はいい。稲屋の帳面が、これでまた格調高くなるな」
和やかな宴が始まった。時太郎は信州での象の絵の話や、神輿に龍を描いて村中がひっくり返るほど喜んだ話を、面白おかしく語った。子どもたちは時太郎の膝に乗り、見たこともない山の暮らしの話に目を輝かせた。
「時太郎さん、もうどこへも行かずに、植彩園の専属絵師になってくれよ。あんたがいないと、顕微鏡の秘密も半分しか解き明かせない」信助が膝を折って、頭を下げる。
時太郎は酒をぐいと飲み干し、窓の外の夜空を眺めた。
「……信助さん。わしは、一箇所に留まる器じゃないんだ。信州で龍を描いている時、ふと思った。わしはまだ、この国の本当の姿を知らない。次は、東海道を歩いてみたいんだ」
「東海道ですか。それは、また遠い旅になりますね」留吉が遠いほうを見るようにつぶやく。
「海があり、山があり、そこには必死に生きる人々がいる。顕微鏡では見えない世の中を見たい。それを見ずして、わしの筆は完成しない。明日にはまた、発とうと思う」
翌朝、夜が明けるか明けないかのうちに、時太郎は身支度を整えた。おさやが持たせた握り飯を懐に入れ、筆一本を腰に差して、彼はまたふらりと歩き出した。
「時太郎さん。元気でな。また、とんでもない土産話を楽しみにしているぞ」信助は手を振りながら大きな声で呼びかける。
時太郎は振り返りもせず、片手を高く上げた。
「ああ。次は、波の音を描いて戻ってくる」
天才絵師は、霧の中に消えるように忽然と姿を消した。しかし、彼の残した信州の檜の茶碗は、稲屋と植花の家族の手の中で、いつまでも温かい温もりを放っていた。
時太郎が東海道へ旅立ってから数ヶ月が過ぎた。江戸の植彩園には、定期的に長距離を走る飛脚によって、時太郎からの荷が届くようになった。
中に入っているのは、手紙ではなく、いつも大量の絵の断片だった。
「おさや、また時太郎さんから届いたぞ。今度は駿河のあたりにいるらしい」
信助がおさやに呼びかける。おさやも喜びの声をあげる。
「まあ。この絵を見てください。富士山の裾野に広がる茶畑と、そこに自生する野の花々が、生き生きと描かれています」
届いた絵には、雄大な富士山だけでなく、道端で一休みする旅人のわらじの綻びや、茶を運ぶ娘の頬の赤み、そして初夏に咲く山つつじの鮮やかな色が、時太郎独特の力強い筆致で写し取られていた。
「この波の絵、見ておくれよ。薩埵峠(さったとうげ)から見た海かしら。波のしぶきの一つ一つが、まるでおさやさんの織る布の糸のように細かくて、今にも水が飛び出してきそうだわ」
お芳もおさやと絵を見ながら、感銘している。
「本当ね。波の間に小さく見える舟に乗った人たちの、必死に漕ぐ姿まで伝わってくる。時太郎さんは、風景だけじゃなく、そこで踏ん張って生きる人たちを愛しているのね」
時太郎の絵は、ただの風景画ではなかった。顕微鏡で培った観察眼が、東海道の自然と人々の生活に注がれていた。 箱根の山道に咲く箱根バラの鋭い棘、浜松の松原を吹き抜ける風の形、そして熱田の宮宿で見た、賑やかな門前市の喧騒。
「時太郎さんの絵は、江戸にいながらにして旅をしている気分にさせてくれるな。見てくれ、この浜ひるがおの描写。砂に埋もれながらも強く咲く花の命を、見事に描き出している」
信助は感銘しながら、お金を送る方法を考えていた。紙代だけでも馬鹿にならない金額だ。
留吉は、届いた絵を一枚一枚、丁寧に板に貼り付けて広間に並べていた。
「これほどの名画を、身内だけで眺めるのはもったいない。稲屋の店先に掲げて、江戸の人々にも見せてやろう」
稲屋の店先に「東海道・命の景色」として時太郎の絵が並べられると、江戸中の人々が足を止めた。
「おい、この富士山。これまで見てきたどんな絵よりも、本物より本物らしいぜ」 町人が感想を述べる。
「花の一輪一輪に、旅の埃まで感じられる。時太郎という男は、風まで描けるのか」隠居は知識を披露した。
そんな中、再び飛脚が息を切らして駆け込んできた。
「稲屋様、時太郎様からの追加です。今回は伊勢のあたりで描いた、カキツバタと人々の祭りの様子だそうです」飛脚が叫ぶ。
「時太郎様は、歩くたびに筆が冴え渡っていますね。江戸に戻られた時には、どんなに素晴らしい境地に至っていらっしゃるのでしょう。時太郎様には顕微鏡なんて、必要ないようね」おさやがしみじみという。
「ああ。彼は今、日本の屋台骨をその足で歩き、その目で命を吸い込んでいるんだ。わしたちも負けていられないな。この絵に負けないくらい、強くて美しい江戸の花を育て続けよう」
時太郎が東海道の空の下で描く、無限に広がる命の連なり。それは、江戸の町に新しい風を吹き込み、人々の心に、まだ見ぬ土地への憧れと、足元の小さな花の尊さを深く刻み込んでいった。
時太郎の旅は、ついに千年の都、京都へと辿り着いた。江戸の活気とはまた違う、静謐ながらも奥深い空気に、時太郎の筆はこれまでにない激しさで動き始めた。
「信助さん、おさやさん。京の都は、どこを切り取っても絵になる。だが、それ以上に歴史の重みが、筆を持つ手にずしりと響くようだ」時太郎は京の都で少し浮かれているようだった。
江戸に届いた包みを開けると、中には嵐山の渡月橋を舞台にした、目を見張るような大構図の絵が入っていた。
「これはすごい。橋を渡る公家や町衆、さらには物売りの姿まで。橋が画面を斜めに突き抜けるような、このダイナミックな構図。時太郎さん、また腕を上げたな」 信助は絶賛した。
「見てください、この桜。江戸の桜は華やかですが、京の桜はどこか妖艶で、散り際の一片までもが物語を語っているようです。背景にうっすらと見える寺の塔が、桜の白さを引き立てていますね」おさやの才能は時太郎に相通じるものがある。
時太郎は京の寺社を巡り、そこに古くから伝わる草花を熱心に写生していた。特に、江戸では見かけないような古流の朝顔や、宮中で愛でられてきた気品ある野草の数々に、彼は顕微鏡で培った観察眼を注ぎ込んだ。
「おさやさん。京の寺には、数百年も前から変わらぬ姿で守られてきた花がある。この朝顔の蔓の巻き方一つに、昔の人の祈りが込められているようだ。江戸の変化朝顔が『躍動』なら、京の花は『永遠』だな」
時太郎は同じ天才の匂いがするおさやにおのれの心を伝える。
「時太郎さん、手紙に面白いことを書いている。鴨川の河原で絵を描いていたら、京の絵師たちが集まってきて、筆使いを見て腰を抜かしたって」 おさやがお芳にいう。
「江戸の若者が、これほどまで自由に、かつ精密に万物を描くとは思わなかったのでしょうね。時太郎さんは、どこへ行っても騒ぎの種だわ」
お芳は少々、江戸自慢をした。しかし、京の都には一度は行きたいとお芳は思っていた。だから、なおさら、時太郎の絵がうらやましい。
時太郎の絵には、鴨川で涼を取る人々の笑い声や、祇園の細い路地から漂う香の匂いまでが染み込んでいるようだった。
「おさや。時太郎さんは京で、花の『形』だけでなく、その『心』を写し取る術を覚えたのかもしれん。このカキツバタの絵を見てくれ。水面に映る影の描き方が、以前とは比べものにならないほど深い」
信助の想いはおさやも同じだった。
「はい。おさやも、この絵から新しい色の着想を得ました。京の古き良き色と、江戸の新しい感性を混ぜ合わせた、特別な絹布を織ってみたくなりました」
時太郎は京の街角で、名もなき職人が丹精込めて庭を手入れする姿や、寺の石段で遊ぶ子どもたちの姿も欠かさず描いていた。
「人は花を愛で、花は人に寄り添う。京の都でわしが学んだのは、時の流れの中に咲く一瞬の尊さだ。信助さん、わしの筆はもう止まらん。次は、さらに西へ、あるいは南へ。この国の命の形をすべて描き尽くすまで、わしは帰りたくない」
何事も夢中になる時太郎。でもすぐに飽きる悪い癖がある。
京の都から戻るのもまもないだろうと留吉は微笑んだ。稲屋は時太郎の港町でいい。時々立ち寄り、風呂に入って、いい男になる場所でいい。留吉はそれを灯台守のようにじっと待っているほうが性に合っている。
「ははは。時太郎らしい。だが、あまりに遠くへ行きすぎて、江戸の味を忘れるなよ。稲屋の皆が、あんたの帰りを待っているんだからな」留吉はお昌に笑いながら言った。江戸から離れたことのない留吉は時太郎の行動力を頼もしくも思っていた。
江戸の植彩園には、時太郎から届く京の彩りが溢れ、それを見た町人たちは、まだ見ぬ都の情景に想いを馳せ、ふたたび花の美しさに目覚めていくのだった。
永代橋落下事件
桜の花見で穏やかな誓いを立てた四ヶ月後。江戸の町を、誰もが予想だにしなかった大惨事が起こった。
十二年振りとなる深川祭の日、人々が歓喜に沸き、永代橋へと押し寄せた。しかし、五代将軍綱吉公の五十歳を祝して架けられた永代橋は、既に老朽化が進んでいた。、そこへ祭りの群衆が一度に押し寄せたことで、轟音と共に崩れ落ちたのだ。
先を行く者が次々に川へ投げ出され、後ろからは何も知らぬ群衆の波が押し寄せる。死傷者は千人を超えるという、未曾有の大事故となった。
稲屋の広間では、留吉とお昌が、青い顔をして信助たちの帰りを待っていた。
「信助とおさやは、朝早くに深川へ向かったきりだ。もしや、あの橋の上にいたのではないか」 留吉は不吉なことを口に出す。
「神様、どうかご無事で。春吉さんとお芳さんは、どうなりました」お昌は神仏に頼るしかなかった。
そこへ、春吉とお芳が、肩で息をしながら駆け込んできた。
「留吉さん、私たちは大丈夫。本当は祭に行くはずだったけれど、家を出てすぐに、お芳の下駄の鼻緒がぷつりと切れてね。不吉だと思って一度戻ったのが、命拾いになった」春吉の明るい声に留吉は心から安堵した。
「橋が落ちたなんて。もし鼻緒が切れなければ、私たちもあの渦の中にいたかもしれません」お芳は胸を押さえた。
その時、泥にまみれた信助とおさやが、ようやく姿を現した。
「皆様、ただいま戻りました。ご心配をおかけしました」
おさやの声と共に信助も現れた。
「祭の飾り付けを早く見たいとおさやが言うので、早めに出かけたのが良かった。帰りもあまりに人が多いので、遠回りをして両国橋を渡って帰ってきたんだ」
一同は、互いの無事を確かめ合い、畳に座り込んだ。しかし、その顔に喜びの色はない。外からは、行方不明者を捜す家族の叫び声が、夜の闇に響いていた。
「人の命とは、これほどまでに儚いものなのか。花が一瞬で散るように、千人もの命が、一瞬で消えてしまうなんて」
留吉は深いまなざしでみんなを見渡す。
「自然の猛威だけではない。人が造った橋が、人の重みで壊れる。自然界の中で命を繋ぐことが、いかに難しく、尊いことか。改めて思い知らされたよ」信助は渋い顔で自分を戒める。
春吉が、震える声を振り絞るようにして言った。
「近江の商人は、売り手よし、買い手よし、世間よしと言うけれど。これからは、そこに、自然よし、を加えなければならない。自然の理に逆らわず、共に生きる道を探さなければ」
春吉がいつも唱える三方よしをさらに強調する。
「なるほど。自然よしか。今日は、その自然の理が、巡り合わせで俺たちの命を守ってくれたのかもしれないな」信助はうんうんと頷きながら言う。
すると、お芳が少しだけ口元を緩め、信助の顔を覗き込んだ。
「いいえ、違うわ。おさやさんのおかげよ。早めに行こうと言ったおさやさんの直感が、信助兄さんを救ったの。兄さんは、これから一生、おさやさんの言うことを聞いて生きることね」
信助は苦笑いしながら、おさやの手をそっと握った。
「ああ。その通りだな。おさや、これからもわしを導いてくれ」
夜が更けても、江戸の町の動揺は収まらなかった。佃島の漁師たちは、松明を掲げ、小舟を出して必死の捜索を続けている。川面を照らす火の光が、命の重さを静かに物語っていた。
「権現様が築かれたこの泰平の世を守るのは、並大抵のことではない。この教訓を、決して忘れてはならない。子どもたちにも、命の尊さと、自然と共に歩む知恵を、しっかりと伝えていこう」信助は力強く言った。
未曾有の災禍を目の当たりにした六人は、明日からまた、土に触れ、花を育てる日常に戻る。それは、亡くなった人々への祈りであり、生き残った自分たちが、この地に再び命の彩りを灯すための、唯一の道だった。
蒸し暑い夏の夜、隅田川の流れだけが、何もなかったかのように、静かに、そして深く続いていた。
永代橋が崩落するという未曾有の災厄から、二カ月の月日が流れた。
植花の春吉は、亡き伯父である陽一郎の姿を、幾度となく夢に見ていた。
それは陽一郎がこの世を去る数日前、縁側で共に庭の花を眺めた穏やかな昼下がりの光景だった。
「春吉、お前にはお咲おばあちゃんと菊次郎おじいちゃんの血が流れている。特にお咲おばあちゃんは、花に関しては誰にも負けない知識と愛情を持った人だった。先日、夢を見たよ。見渡す限りの菜の花や、名も知らぬ美しい花が咲き乱れるお花畑に私は立っていた。すると、遠くの川向こうから、お咲おばあちゃんがにこやかに手招きをしていてね。懐かしい笑顔が見られたよ」
陽一郎はその数日後、眠るように息を引き取った。
春吉は、彩花の信助に向かって、その時の様子をしみじみと語り聞かせた。
「伯父さんの最期は、あのお咲おばあちゃんの笑顔に導かれたような気がする。直前に見た花畑。天国みたいだって言ってた」
そこへ至るまで、二人の心にはあの日の惨劇が重くのしかかっていた。花畑は人の心を一番癒してくれる存在かもしれない。
深川富岡八幡宮の祭礼に沸く江戸の町を一変させた、永代橋の崩落。 「ミシリ」という不気味な音とともに橋が折れ、人々が濁流へ吸い込まれていく。佃島の漁師たちの緊迫した声、肉親を呼ぶ子供たちの泣き声、様々な声や様子を思うと、二カ月経った今も信助の心は晴れなかった。
滑落した橋のたもとに花を捧げる度に、春吉も考えた。
「信助さん、思いついたのですが、この植彩園で、永代橋の犠牲者を悼む慰霊祭を執り行いたいのです。花で囲まれた献花台を備えて、多くの人に参加して頂く」
春吉は、信助を真っ直ぐに見据えて言った。信助は深くうなずいた。
「なるほど、それはいい思いつきだ。生かされたこの命、誰かのために使わねばと思っていた」
信助はすぐにおさやに相談し、稲屋の留吉、お昌の夫婦にも声をかけた。話は瞬く間に広がり、江戸中の植木仲間や門弟たちがこぞって手を貸すことになった。
秋晴れの空の下、慰霊祭の日を迎えた。植彩園には、おさやが丹精込めて仕立てた五彩の布が献花台にかけられ、江戸の秋を彩る花々が溢れんばかりに飾られている。
薄紫色の野菊や、清楚な白い藤袴。陽の光を浴びて黄金色に輝く女郎花に、深紅の鶏頭が彩りを添えてある。入り口から供養の棚へと続く道筋も、可憐なわれもこうや、風に揺れる秋明菊で丁寧に縁取られていた。
そこへ、大切な人を失った人々が静かに足を踏み入れる。
亡くした許嫁を想い、唇を噛み締めながらじっと地面を見つめる若者。
我が子の名を呼び、震える手で数珠を握りしめる老いた母親。
どの顔にも深い喪失の影があったが、花々に囲まれるうち、こわばっていた表情が少しずつ和らぎ、亡き人の面影を慈しむような穏やかな眼差しへと変わっていった。
春吉たちは、そんな一人ひとりの悲しみに寄り添うように、丁寧にお辞儀をして迎え入れた。
そんな折、一人の小さな男の子が、頼りなげな足取りでふらふらと歩いてくるのが見えた。
その小さな手には、一輪の愛らしいなでしこが握りしめられていた。 泥にまみれ、萎れかかったその花を宝物のように持つ姿を見て、おさやは胸を突かれた。
込み上げてくる涙をぐっと堪え、おさやは男の子の目線の高さまで腰を落とすと、優しく語りかけた。
「坊や、そのなでしこ、とても綺麗だね。誰かに届けに来たのかい。お母様はどこにいらっしゃる」
男の子は泣きながら、なでしこを握った指で、遠くの川の方をさした。
「ずっといないんだ。お父も、お母も。これをあげようと思って持ってきたのに。お母の一番すきな花だったんだ」
傍らにいた付き添いの女が、静かに言った。
「あの日、二親を亡くしてしまったのです。どうしてもこの花を供えに来たいと言うので、連れてまいりました」
その言葉を聞いたおさやは、目の前の小さな命を守るべく、即座に決断した。
「わかりました。今日からは、私がこの子の面倒をみます」
信助もおさやの言葉を深く受け止め、男の子の肩に手を置いた。
「お前の本当の両親とは違うが、今日から俺の家に来なさい。お前が大人になるまで、俺がしっかりと面倒をみる」
過去の悲しみは昨日へと流し、信助とおさやは、一輪のなでしこに消えることのない命の灯火を見た。
血の繋がりはなくとも、一本の木に異なる枝を繋ぎ、より強く美しい花を咲かせる接ぎ木のように、この小さな命を自分たちの心に結び、慈しみを持って育てていく。 それこそが、あの日失われた多くの命への、自分たちなりの命の紡ぎ方なのだと、二人は静かに誓った。
老婆の悲しみ
献花台へと向かう人混みがようやく途切れた、静かな午後のこと。植花の春吉は、入り口からゆっくりと歩いてくる二人組の姿に目を留めた。職人風の若い男と、足元がおぼつかない老婆。春吉は何か胸騒ぎがして、思わず駆け寄った。
「お足元が難儀なようで。お手伝いしましょう」
声をかけられた若者は、老婆を背負ってここまで来たのだろう、肩で息を切り、すぐには言葉も出ない様子だった。代わりに老婆が、しわがれた声で応えた。
「せがれが駒込村からおんぶして連れてきてくれたもので、遅くなってしまいました」
若者はようやく呼吸を整えると、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。この老婆、お米さんは、青底翳という目の病を患っていた。今はまだぼんやりと光を感じるものの、いずれは光を失うだろうと町医者から宣告されていた。
追い打ちをかけるように、悲劇が襲った。十二年ぶりの深川祭を楽しみにしていた長男夫婦が、あの永代橋の落下事故に巻き込まれ、帰らぬ人となったのだ。
「植木職人の仲間からこの慰霊祭の話を聞きましてね。お袋に伝えたら、どうしても行きたいと聞きかないのです。親方に相談したところ、親孝行をしてこいと一日休みをくれました。ご面倒をおかけしますが、どうかよろしくお願いします」
次男の太助は、深々と頭を下げた。 お米さんは、遠くの献花台に並ぶ花々をまぶしそうに見つめている。
「若い頃は、花を育てるのが何よりの楽しみでした。けれど今は……」
息子夫婦を失った底知れぬ悲しみと、目が見えなくなることへの恐怖。春吉は言葉を失い、太助からお米さんの手を受け取ると、一歩一歩、献花台へと導きました。
ところが、その道すがらお米さんは何度も立ち止まった。
「あの淡い赤い花は、何という名だい」
「こちらの紫色の花のようなものは、何だろうね」
お米さんは、まるでおさな子のように質問を重ねる。献花台の前で様々な色が混じり合う光景を目にすると、ただただ驚いた様子で、その瞬間だけは悲しみが遠のいたかのようだった。
しかし、お米さんが口にした一言に、春吉は胸が張り裂けそうになった。
「私が代わりに死ねばよかったのだ。目が見えない私は、皆に迷惑をかけるだけ。お役に立つ元気な息子と嫁がいなくなるなんて、仏様も神様も、なんて酷いことをなさる」
静かな境内に、お米さんの号泣が響き渡った。
春吉は、お米さんの涙が止まるまで、何も言わずに背中をさすり続けた。そして、祈りを捧げるように、静かな声で花の名前を唱え始めた。
「これは芍薬、あちらは桔梗。植彩園には今、撫子や女郎花も咲いております」
まるで経文を読み上げるかのように、心を込めて一輪一輪の名前を伝えていった。 やがて泣き声は弱まり、涙も枯れた頃、お米さんは力強く立ち上がった。
「さあ、帰るよ。自分の足で歩く。助けはいらないよ」
その姿は、来た時とは別人のようだった。 悲しみをすべて吐き出した背中に、傾き始めた夕日が差し込む。赤く染まって歩き出すお米さんの後ろ姿には、まるで仏様のような後光がさして見えた。
数日後のことだった。春吉は駒込村にある太助の長屋を訪ねた。あの日、夕日に染まって歩き出したお米さんの姿が、どうしても忘れられなかったのだ。あの姿は、亡き祖母、お咲おばあちゃんの後ろ姿に思えた。
路地の奥にある小さな家の前に立つと、土をいじる音が聞こえてきた。そこには、小さな鉢を前にして、手探りで土を整えるお米さんの姿があった。
「お米さん、先日はお疲れさまでした。植花の春吉です」
声をかけると、お米さんは顔を上げ、細くなった目をさらに細めて微笑んだ。
「ああ、あの時の植木屋さん。わざわざこんな所まで、ありがとうございます」
お米さんの手は泥にまみれていたが、その表情にはあの日献花台で見せた悲壮な影はなかった。傍らでは、太助が心配そうに、けれどどこか嬉しそうにその様子を眺めている。
「お袋ときたら、帰ってきて早々に、また花を育てたいなんて言い出したんですよ。目が見えねえのに無茶だって止めたんですがね」
太助が苦笑いしながら言うと、お米さんはきっぱりとした声で返した。
「無茶なものかね。春吉さんに花の名前を教わっているうちに、不思議と指先が花の感触を思い出したんだよ。長男夫婦のことは、一生忘れられない悲しみだけどね。でも、あの子たちが好きだった季節の花を、この手で咲かせてやりたいと思ったんだ」
お米さんは、手元にある一鉢を愛おしそうに撫でた。
「目はもう、霧の中にいるようです。けれど、花の香りはわかります。茎の太さも、葉の産毛も、指がちゃんと覚えている。これからは、目で見るのではなく、心で花を咲かせるつもりですよ」
その言葉を聞いて、春吉は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「お米さん、それなら私が良い苗をいくつか持ってきましょう。香りの強いものや、葉の形に特徴があるものなら、きっとお米さんの手助けになります」
お米さんは深々と頭を下げ、震える声で言った。
「感謝します。いつかまた目が見えなくなっても、私の庭には花が咲いている。そう思えるだけで、明日が来るのが怖くなくなりました」
老婆の小さな庭には、まだ何の花も咲いていない。しかし、そこには確かに、新しい生きる希望という名の種が蒔かれていた。
季節は巡り、風の中に初夏の匂いが混じり始めた頃、春吉は約束通り、時折、駒込の長屋を訪ねては、お米さんに花の世話を説いた。
ある朝、太助が息を切らせて植彩園に駆け込んできた。
「春吉さん、早く来てやってください。お袋が、お袋が呼んでいるんです」
春吉は胸騒ぎを覚えながら、太助と共に長屋へ急いだ。庭先に辿り着くと、そこには、生い茂る緑の葉の中に、真っ白な花を咲かせた一鉢を抱きしめるお米さんの姿があった。
「春吉さん、咲いたんですよ。私が、自分の手で」
お米さんの目は、もうほとんど光を捉えていないようだった。それでも、彼女の鼻先には一輪の沈丁花が咲いていた。そして、その濃厚で甘い香りが、小さな庭いっぱいに広がっている。
「見事な白です。露を帯びて、一段と清らかに見えますよ」
春吉がそう伝えると、お米さんは震える指先で、壊れ物を扱うように花びらに触れた。
「色はもう、真っ白な霧の中に溶けてしまった。けれど、この香りは、亡くなった息子夫婦がよく笑っていた頃の、あの春の匂いと同じです。花が咲いてくれると、あの子たちがすぐ側に帰ってきたような心地がいたします」
お米さんの目から、ひと筋の涙がこぼれ、白い花びらの上に落ちた。それは悲しみの涙ではなく、どこか清々しい、安らぎの涙に見えた。
「お袋、本当に良かったな。毎朝、指先を泥だらけにして水をやっていた甲斐があったよ」
太助が肩を抱くと、お米さんは力強く頷いた。
香りと共に生きる
「太助、私は幸せ者だよ。目が見えぬおかげで、花の香りがこんなにも深く心に染み入ることを知りました。お迎えが来るその日まで、私はこの香りと共に、一歩ずつ歩いていけそうです」
暗闇の中にいた老婆は、自らの手で育てた花の香りを道標にして、確かな一歩を踏み出した。その顔は、朝露に濡れる沈丁花よりも、ずっと美しく輝いていた。
植彩園の供養の花々は散っても、その心は種となり、次の春にまた芽吹く。
その春も過ぎ、あの忌まわしい事故から三年が過ぎた。
永代橋落下事故三年目。
植彩園の片隅に小さな献花台を作り、植花の春吉、お芳夫婦、稲屋の留吉とお昌夫婦、彩花の信助とおさや夫婦たち六人、そして、子供たち五人、陽介、仁助、お加代、五郎とお彩だけのささやかな供養を執り行った。
隅田川の堤は、薄紅色の桜が満開を迎え、春の柔らかな日差しに包まれていた。植彩園の門前には、これまでの歩みを共にしてきた三組の夫婦が、静かに腰を下ろして花を見上げていた。子供たちは園内を楽しそうに駆け回っている。
「早いものだな。お昌、わしたちが偉大な初代留吉の築いた稲屋の暖簾を預かり、がむしゃらに働いてきた日々が、昨日のことのようだ」留吉はお昌の静けさが好きだった。
「ええ。最初は商売のことばかり。でも、信助さんたちの情熱に触れて、花が人の心を繋ぐことを教わりました。この和紙のように、一枚ずつ積み重ねてきた時間が、今の幸せを作ってくれたのですね」お昌は分別ある大人の女だった。
留吉は、時太郎から届いた和紙を愛おしそうに撫で、隣に座るお昌の手を握った。
少し離れた場所では、春吉とお芳が、一本の見事な桜の木を見つめていた。
「お芳。お咲おばあちゃんが象の絵を残してくれていなかったら、信州への道も開けなかった。植花という名を守る重さに負けそうな時もあったけれど、今は感謝の気持ちでいっぱいだ」
春吉はお芳に正直に話す。お芳も同じ想いだった。
「本当ね。私たちは、先人が育てた土を受け継いでいるだけ。でも、その土を次の世代へもっと豊かにして返したい。それが私たちの誓いね」
春吉は、お芳の言葉に深く頷き、静かに桜吹雪を眺めていた。
そして、信助とおさやは、園の最も高い場所から、江戸の町を一望していた。
「金沢からおさやが来てくれたあの日から、わしの世界には色が溢れ出した。加賀の五彩、異国のバラやチューリップ。そして顕微鏡が教えてくれた、目に見えない命の宇宙。わしたちは、本当に多くの奇跡に触れてきたな」信助はおさやに感謝した。
「はい、信助様。でも、どんなに珍しい花でも、土と水、そして育てる人の心が必要なのは変わりません。私たちは、この大自然の中では本当に小さな、一粒の種のような存在。だからこそ、懸命に根を張り、咲き誇らねばならないのですね」
信助はおさやの肩に手を置き、空に向かって誓うように言葉を紡いだ。
未来への誓い
「これからも、わしたちは植木を、花木を、あらゆる命を慈しみ、育てていこう。江戸を世界一、花を愛でる町にすること。それがわしたちの、終わりのない目標だ」信助は誓う。
「ええ。たとえ私たちがいつか土に還っても、この彩りは次の誰かが受け継いでくれます。花が咲くたびに、わたしたちの思いもまた、新しく生まれ変わるのですから」おさやも答える。
三組の夫婦は、舞い散る桜の花びらの中に、自分たちが育ててきた数々の彩りを見た。異国の使節たちが感嘆した知恵、病を救った薬草の力、そして時太郎が命を吹き込んだ龍の躍動。それらすべてが、今の江戸を形作っている。
「さあ、明日からも忙しくなるぞ。新しい番付表の準備もしなきゃならんしな」 留吉が握りこぶしを高く挙げる。
「蔵の整理をして、薬草の苗を植えよう」 春吉も続ける。
「おさや。次の季節には、どんな色を咲かせようか」
信助はなんでもおさやに相談する。
「何色でも、一緒なら、きっと最高に美しい色になります」
六人の笑い声が、春の風に乗って隅田川の水面を渡っていく。桜の花びらが、彼らの肩に優しく降り積もる。それは、これまで歩んできた道のりへの祝福であり、これから始まる新しい季節への、静かな幕開けであった。
それは春吉の亡き祖母、植木職人お咲の願いであり、稲屋初代留吉が仁斎と共に歩んだ感謝の種でもあった。
完結
