大地の輝き植木職人お咲の事件簿3

序章:

竹松の五歳祝い

鯉のぼりが一段と高く、風になびいている家が二軒あった。

一軒目は、駒込村、『植木屋お咲』
二軒目は大久保家の下屋敷。『植木屋お咲』のすぐ近くにある。

五月六日、『植木屋お咲』の裏庭は、孫の竹松の五歳の祝いを祝う客で賑わっていた。本来ならば、五月五日の端午の節句に行うべきところを、父親、大久保当主・大久保市之丞がお城に出仕し、将軍にご挨拶を述べなければならない為、一日ずらした。

昨日は、堅苦しいことが嫌いな市之丞、もと清吉は、朝から、とても不機嫌だった。

「染帷子(そめかたびら)なんて着とうない」市之丞は不満顔。

「そんなことをおっしゃらずに」姉さん女房、いや、奥方のさつきは、ニヤリと笑う。

「我慢、我慢。明日は私のお里帰り。あなたもご一緒に」

さつきの言葉で急に機嫌を直して、市之丞はさっそうと城に向かった。

「全く、いつまでも子どもなんだから」姉さん女房は、ペロリと舌を出した。それが昨日のこと。思い出して笑ってしまう。

市之丞の祖母は、徳川二代将軍、秀忠公の隠し子の娘。その血筋は、公になることなく、密かに、家臣の手で守り継がれてきた。それをお庭番から聞き、お世継ぎがなく、取り潰し寸前だった大久保家の養子になるよう、上意をもって、沙汰が下された。

そんな事情は、つゆ知らず、五月六日、お咲と菊次郎は、孫たちがやって来るというので、大忙し。盆と正月が一度に来たように走り回っている。

鯉のぼりは、陽一郎と市之丞(清吉)の時に使った豪華な品。吹き流しなど、特製。亡き梅吉が陽一郎のために持ち金全部叩いて買ったものだ。将来、困難を吹き飛ばせる男になれと祈りを込めて。五月人形は、菊次郎が、江戸一番の人形師、加藤名工に作ってもらった。

青空にゆらゆら揺れる鯉のぼり、家の床の間には、勇ましくも愛らしい五月人形。

「さぁ みんな、柏餅が出来上がったよ」

お咲とさつき、そして、十歳の長女お花、なんと主役の竹松まで皿に盛り上げた柏餅を運んで来た。

「ちまきもあるよ」

菊次郎が、庭から入ってきた。

「大久保家からの差し入れだ」

今、ご家来が持って来てくれたのだ。

「さぁ 揃ったところで、食べましょう」

お咲は、まわりをぐるりと見渡してから、高らかに、食開きを宣言した。

青空はどこまでも高く澄み、ちょうど咲き誇るツツジの紅と、早咲きのサツキの白が、庭の隅々を燃えるように彩っている。牡丹が、女王様は私、主役も私と主張するかのように、茎を凛と伸ばしていた。

古家お咲は、今年五十歳。初老というにはまだ遠い、よく焼けた顔に柔らかな笑みを浮かべ、庭を見渡した。亡き養い親である梅吉とお春がいつも座っていた縁側に、今は娘のさつきが腰を下ろし、その隣で、婿の大久保市之丞が登城姿の堅苦しい裃(かみしも)姿で神妙に座っている。

さつきが「凛々しいお姿」と誉めたため、祝いの席でも裃姿を披露すると市之丞から言い出した。

「とても凛々しくて素晴らしいお姿」

菊次郎は、「お見事」とつぶやき、お咲は、涙まで流している。

市之丞は我慢したかいがあったと胸をなでおろす。でも、そろそろ限界だ。早く、普段の着流しに着替えたかった。

「母上、竹松がまた土を掘り起こして……」 さつきの声には困った色があるが、その顔は楽しそうだ。

主役の竹松は、五歳ながら足が速く、庭の奥にある土の山を、まるで軍馬の如く走り回っていた。その手を引いているのは、十歳になる姉のお花だ。

お花は、竹松とは対照的に、物静かでいつもどこか遠いものを見つめているような目をした娘だった。皆が親しみを込めて「花姫(はなひめ)」と呼ぶお花は、庭の隅で、一本のヤマブキの花びらをそっと指でなぞっていた。

「花姫、何を見ているんだい?」 お咲が問いかけると、お花は小さな声で答えた。 「…おばあ様、花びらの裏側が、陽(ひ)の光で透けています。こんなに薄いのに、どうしてこんなに強い色が出せるのでしょう」

お咲は目を細めた。 「さつきの絵心と、この庭の血が混じり合った、良い目を持っているね」 お花の中には、さつき譲りの絵に対する鋭い視点と、お咲から受け継いだ花への慈しみが、既に溶け合っていた。

その時、一際大きな笑い声が庭の入り口から響いた。 さつきが嬉しそうに立ち上がる。

「まあ、源さんじゃない!」

竹松の祝いに現れたのは、元服を終えたばかりの青年、平賀源内、通称「源さん」だった。源内は、両手に見たこともない色の鉱物と、異国の奇妙な植物の種を抱えている。

「源さん、こんな面白いもの、どこで見つけてきたんだい?相変わらず、無駄なものばかり集めて」

市之丞が、勘定頭らしい几帳面な口調で言った。市之丞の瞳は、庭の賑わいの中にあっても、どこか計算の合わない数字を探しているように退屈そうに見える。旗本として幕府の金庫を扱う仕事は、彼に「ゆとり」を与えていなかった。

源内は朗らかに笑い、お咲の方を見た。

「伊藤伊兵衛様の遺言の通り、無駄なもの、ゆとりこそが、この世を面白くするんです。この子が五歳。五歳という無駄で愛おしい時間こそ、私どもが守るべき大地の輝きではないでしょうか。五歳までは、神様の預かりものというぐらいですから」

源内は、竹松の頭を優しく撫でた。 お咲は、この若き蘭学者の瞳の中に、かつて亡き父と夫が語った「ゆとり」という名の「第三の選択」の光を見つけた気がした。

「無駄なもの… ゆとり…」

古家陽一郎が庭木戸から入って来て、源内の言葉を反復した。

その言葉を合図にしたように、庭の奥の竹林から、ウグイスの鳴き声が響き渡った。

「ホーホケキョ」

一同、その美しい響きにハッとして静まりかえる。初鳴きよりもずっと上手に、淀みなく響き渡る。

「早く、お嫁さんが見つかるといいね」

お花の、その何気なく、素直すぎる言葉に、みんな大笑いとなった。植木屋の庭に、明るい笑声が満ちる。

その笑いに水を差すように、知識欲旺盛な源内が、すぐに口を挟んだ。

「ですが、ウグイスも哀れな鳥です。お咲様。ホトトギスに巣を乗っ取られ、ホトトギスの子どもを懸命に育てさせられることもあるのですよ。自然界は、いつも無慈悲な『実用』で回っています」

源内の言葉は、科学(実学)という現実の厳しさを物語っていた。だが、お咲は優しく微笑み、彼を見返した。

「それもいいわね。源さん」

お咲は、散りゆく花と、新しい生命を見つめてきた、静かな眼差しで答えた。

「ウグイスの声を聞いて育ったホトトギスは、『ホーホケキョ』って鳴いたりしてね。武士の子が、植木屋の心を受け継ぐように。生まれや理屈じゃない、新しい生命のゆとりが、そこから生まれるのかもしれないよ」

そのお咲の一言は、源内の実学の知識を、優しく乗り越えていく。庭のツツジが、新しい太陽の光を浴びて力強く輝いていた。

第一章: 花大作戦 

一桃源郷

その日の古家植木屋の庭は、桃の香りに満ちていた。お咲が丹精込めて接ぎ木した桃の枝には、品種の異なる桃がいくつも実り、まだ青い実ながら、「一木多果」の豊かさを誇っている。まるで、この世の憂いを隔てた桃源郷のようだった。

その桃源郷の縁側に、青山二郎は、まるで泥の中から引き上げられたように、疲れた顔で座り込んでいた。

青山二郎は、隣の家に住むお静の次男で、お咲の幼馴染だった。その後、旗本の青山家の養子になり、家督を相続していた。同心、与力、そして奉行と異例の出世を果たしている。当人申すところ、実力にては無く、家柄をもっての出世と卑下して、笑うておる。その出世頭が頭を抱えて悩んでいる。

「あぁ、だめだ。見てはおられぬ……」

房総の小金牧(こがねまき)を巡回してきた二郎の目には、まだ、広大な牧場の悲惨な情景が焼き付いていた。幕府直轄の牧は、全く管理されず、馬たちは野放し状態、ただ自由に走り回っている。それは一見、雄大だが、その自由は周辺の農村にとっては「破壊」でしかなかった。

「馬の管理が行き届かないばかりか、馬がいることでかえって野生の鹿や猪、狐、狸、猿までもが異常に繁殖し、周辺の畑作を荒らし回っている。農作物は食い尽くされ、踏みにじられる。農民は、米が満足に獲れぬ痩せた土地で、飢えと闘っているのに……」

特に小金牧の周辺は、火山灰が積もった酸性度の高い土地が多く、米の生産がうまくいかない。その上に、幕府から野馬土手(のまどて)の管理や山林の入会地の制限など、重い負担ばかりを課されている。

二郎は、桃の枝から滴る水滴をぼんやりと見つめた。自分の仕事が、この美しい庭が示す「豊かさ」ではなく、「破壊」を生んでいる事実に、胸が張り裂けそうだった。

お咲は、二郎の苦悩を知りながら、静かに茶を淹れた。そして、豊かに実る桃の木を指差す。

「豊穣はね、短慮な欲ではなく、土への『ゆとり』から生まれるものよ。馬を野放しにするのは『ゆとり』ではなく『放置』。土が何を求めているか、知ろうとしない『実学の怠慢』だ」

「実学の怠慢とは…。空理空論のほうが、まだましということか」

お咲は、そのまま庭へ降り、ツツジの葉を二郎に見せた。

「あなたが言う、富士の火山灰が積もった酸性度の高い大地。人が育たないと諦める大地でも、命を燃やす植物はちゃんとあるんだよ。酸性に強い土を好む花は、生命力が強い」

お咲は、すぐに筆を執り、さらさらと紙に書き出した。

「もちろん、この庭で咲き誇る私の好きなツツジ。そして、シャクナゲ、アジサイ、沈丁花、リンドウ、スズラン。どれも、花を咲かせるための『根の強さ』が違う」

さらに、果樹ではブルーベリー、イチゴ、そして、根菜の生姜と書き進める。

「そして、最も大切にせねばならぬものが、これだ」

お咲が最後に書き加えたのは、「青木昆陽のサツマイモ」だった。

「救荒作物として知られる芋は、まさに酸性度の高い痩せた土地にこそ、『命の灯』をともす。あなたの責務は、馬を守ることだけではない。この地で生きる民の『命のゆとり』を守ること。実学を語るなら、真に何が実学か、何が実際に役立つのかを知ることが一番重要だと思うけど」お咲はそこで話を辞めて、一枚の紙を、まるで秘伝の軍書であるかのように、両手で受け取り、書くことに専念した。

それは、救荒作物の一覧表だった。

植木職人の女将から渡された、土と命の知恵が記されたその一覧表は、無為に外国の馬を輸入し続ける幕府の実学よりも、遥かに重く、価値があるものに感じられた。

駒込村の夕暮れ時。

古家植木屋の庭で、夕餉(ゆうげ)の支度が整う時刻。西の空が淡い藤色から朱へと溶け出す頃、「カー、カー」というカラスの鳴き声が、村中に響き始めた。

この鳴き声は、この豊かな土地では「一日の終わりを告げる静かな合図」だ。植木屋の屋根を低く越えていくカラスの群れは、飢えることなく、ただ安寧に自分たちの巣へと帰っていく。その羽音には、明日も変わらず命が満たされるという、この町の『ゆとり』が宿っていた。そして、「カラスが鳴くから帰ろう」と子供たちに帰宅を急がせる合図でもあった。

二郎は、お咲が差し出した茶を一口飲み、その鳴き声を聞いた。この「豊かさの中のカラスの声」は、彼の心に安らぎを与えるはずだった。

だが、二郎の瞼の裏には、先ほどまでいた房総の牧場の光景が焼き付いていた。

そこも同じ夕暮れ時。地平線は血のように赤く、荒れ果てた野馬土手の向こうに沈んでいく。そこに響くカラスの鳴き声は、まるで駒込とは違う鳥の叫びのようだった。

「カー、カー、カー、カカカッ――」

寂しさと、焦燥と、飢え。カラスの群れは、馬の蹄に踏み荒らされた畑の上を旋回し、巣へ帰るのではなく、荒れた大地から何かを貪ろうとするように、執拗に鳴き続けていた。彼らの声には、今日得られなかった「豊穣の終わり」と、明日も続く「破壊の警告」が込められている。

二郎は、駒込で聞こえる安らぎのカラスの声と、房総で聞いた荒野のカラスの声の、二重の響きに心を激しく揺さぶられた。

「この江戸の安寧も、いつまで続くのか……」

二郎は、植木屋の庭で満たされた命が持つ『ゆとり』と、牧場で飢える民が迎える『破壊』の夕暮れが、同じ一つの国で繰り広げられていることに、深い葛藤を覚えるのだった。

そして、その葛藤こそが、彼を将軍吉宗への直訴へと突き動かす、最後の炎となった。

青山二郎は、牧場の馬による被害を将軍、徳川吉宗に直接訴えることを決意した。お咲の教えてくれた、酸性度の高い土地でも栽培できる植物の一覧表、すなわち「命の灯をともす実学の目録」を持って、将軍に会いに行く。

一方、吉宗も、二郎が訴える以前から、馬の育成に苦悩していた。馬に使える予算がないと家臣から言われても、なんとか鹿狩りなどをし、農民の助けに尽力していたが、日本の風土で良質な外国馬を安定的に育成する能力がないことに気づき始めていた頃だったのだ。

二郎の直訴は、吉宗の抱える「進歩と限界」の苦悩に、決定的な一石を投じることになる。

前日、青山二郎が持ち込んだ房総の牧場の話は、古家家の中に重い影を落としていた。「破壊」と「豊穣」の対比は、特に家計を預かる者にとって、無視できない問題である。

その夜、大久保邸の下屋敷では、市之丞が、植木市の売り上げ帳簿を机の上に広げ、眉間に深い皺を寄せて唸っていた。勘定頭という立場は、彼に、すべての物事を「損得」と「効率」で測ることを義務付けていた。

「さっぱりわからん」

彼は高値で売れるツツジやサツキの項目を叩く。なぜこれらを大量に売りさばき、もっと確実に儲けないのか不思議でならない。

二 カスミソウ

「母上(お咲)の仕事は実に非効率だ。特に、これだ」

市之丞は、帳簿の隅を指差した。

「この小さな白い花に、どうしてこれほどの手間をかけるのか。全くの無駄だ。儲けは僅か。植えれば場所を取る。すぐにでも畑から切り捨てて、高値で売れる木を植えるべきだ」

その厳しい言葉に、姉さん女房、さつきは笑みを絶やさなかった。彼女は、隣で筆を持ち替えながら、夫を諭す。

「ごもっともなご意見です、勘定頭様」

さつきは、描いていた牡丹の絵から筆を上げ、その絵の「余白」を指差した。

「ですが、市之丞さま。この牡丹の華やかさも、周りの無地の余白あってこそ引き立つもの。白い小花、カスミソウは、牡丹のような主役の美しさを際立たせる『余白』であり、『脇役の優美さ』です。私たちの人生の『ゆとり』も同じ。必要か、不必要か、どちらでもない時間が、主役の生命を輝かせるのです」

それを横で聞いていた居候の平賀源内が、異国の本草学の知識を交え、大きな声で相槌を打った。

「そうだ、そうだ。花の色を際立たせるには、光と影の曖昧さが必要だ。儲けの数字では測れない、文化的な余白ですよ」

さつきは咳払いして、さらに続ける。

「世の中には、主役の花よりもカスミソウが大好きという人もいる。真ん中の華やかさより、隅っこの静けさが落ち着くという人もいる。霞のような優美さは、主役の花の美を更に美しく見せるものよ」

そして、さつきは、数字と効率で凝り固まった市之丞の核心を突いた。

「あなただって、お奉行様だけでは、何もできないでしょう。あなたのような勘定頭がいて始めて仕事が流れる。もし、無役の、禄(ろく)ばかり食んでいる武士の存在を、儲けがないから無駄だと切り捨ててしまったら、武士の存在価値はなくなりますね」

市之丞の表情に、かすかな迷いと、底知れぬ恐怖が生まれた。

儲からないから、無駄だ。その論理を貫けば、平時の武士、特に無役の旗本など、まさに「全くの無駄」ということになる。自分は、「国という大輪の牡丹を支える、目立たぬカスミソウ」としての存在なのか」

市之丞は、その先を考えることが怖くなった。二郎が持ち帰った「破壊」の現実と、目の前にある「無駄なカスミソウ」。どちらの論理が、自分とこの国の未来を決めるのか。彼は、帳簿から顔を上げることができなかった。

三 タンポポ

庭の一角。先ほどまで、勘定頭としての効率論に悩んでいた市之丞は、今は一転、平賀源内の奇妙な研究に首を突っ込んでいた。源内は、高松藩で生まれ、江戸へ出てきたばかりで、今は市之丞が持つ大久保家の江戸屋敷に居候している。

若き源内は、庭に咲くタンポポを相手に、真剣だった。彼は懐から取り出した天秤ばかりと、定規のような異国の道具を使い、綿毛の重さや、風の速さを細かく測っている。

「ははあ、なるほどね。この比率ならば、計算通りだ。西洋の博物学で、このタンポポの伝播力、すなわち二里以上という飛行距離を、この『数の力』で解き明かしてみせましょう」

源内は、自分の知識の正確さに満足し、得意満面だ。

それを横で見ていた十歳のお花が、小さな声でつぶやいた。

「源さん、そんな難しいことしなくても。そんなことは、そよ風が知っているよ」

この、自然との共存に基づく祖母(お咲)譲りの純粋な知恵に、源内の顔が一瞬にして赤くなる。

そこに、さつきがお花の強力な助っ人になった。

「源さん、お咲おばあちゃんが言っていたわよ。タンポポには、無駄がないって」

源内は目を丸くした。

「無駄がない、とは?」

「タンポポの根っこには、胃痛を治す効能があるし、おしっこもよく出る。薬草として、熱冷ましや、発汗作用もあるらしいね」

さつきが口にする「生活の実学」は、源内が書物から得た「机上の実学」を軽々と凌駕していた。

さらに、今度は市之丞まで、お花に加勢する。さつきに「無駄な武士」の可能性を突きつけられ、迷いの淵にいた市之丞は、タンポポの「多用途な価値」を見つけることで、自分の心の安定を取り戻そうとしていた。

「そういえば、そのタンポポの茎は、中は空っぽだ。梅吉おじいちゃんとタンポポ笛でよく遊んだものだ。そういえば、綿毛が二里以上も飛ぶという話は、蘭学で計算するまでもなく、梅吉おじいちゃんが昔から言っていたんだがな」

市之丞の言葉は、源内にとって決定的な一撃となった。

二里という数字は、西洋の計算で導き出される前に、既に植木屋の「経験」という名の知恵によって、暮らしの中に生きていたのだ。薬効、笛、そして種の飛距離。タンポポという一つの在来種の中にも、「実用」と「遊び」という、人生に必要な『ゆとり』が、全て含まれていた。

源内は、完全に古家一族に完敗した。彼は恥じらいながらも、すぐに筆記用具を取り出し、お咲とさつき、市之丞、そしてお花の言葉を、まるで異国の貴重な知識であるかのように、必死になって書き留め始めた。

この瞬間、源内の目指す「実学」は、西洋の知識だけでなく、日本の暮らしと自然が育んだ「ゆとりある知恵」と融合し、より深いものへと変わっていった。

四 藤の花

老藤(ろうふじ)の秘密。

公儀御用として、古家菊次郎が、さる大名の下屋敷の老朽化した藤棚の「引っ越し」を打診されたのは、ある日のことだった。引っ越しとは名ばかりで、その藤は「お取り潰し」になる大名家の象徴であった。

実は、その下屋敷の持ち主である譜代大名の水野正純は、跡継ぎの問題で窮地に立たされていた。藩主はわずか十五歳だったが、実際は十三歳という極秘情報。流行病で急逝し、まだ将軍に御目見(おめみえ)を済ませていなかった。幕府の厳しい末期養子の禁止の規定により、このままではお家取り潰しは避けられない。

家老たちは既に、家臣のその後の手配や、屋敷の整理をひそかに始めていた。皆が諦念と悲壮感に包まれる中、菊次郎がお咲とともに整理中の庭に入ると、そこに一人の若者がいた。

「小平太!もう、これは我が藩のものではない。下手に拘って、幕府に疑念を抱かれてはならぬ。大切にするのは良いが、もうお前たちの手のものではないのだ」

家老は、その若者――藩主の次男、小平太(水野誠勝)に、厳しい口調でお説教をしていた。

その時、お咲の頭の中に、植木職人ならではの悪巧みが閃いた。お咲はすかさず家老に話しかける。

「ご家老様、こちらの御仁は、どちら様で?」

家老が渋々「亡くなった正純様の弟君にあらせられる」と告げると、お咲は老朽化した藤の幹に手を当て、真剣な眼差しで、菊次郎にも聞こえるように、はっきりと言い放った。

「まだ御目見前。でしたら、亡くなった方は、弟君(小平太)にされたことにして、この小平太様をお世継ぎにされてはいかがでしょう?」

お咲の大胆不敵な企みは、真面目一筋の菊次郎から、機知に富んだ青山二郎へと伝えられ、極秘情報として将軍徳川吉宗の元へ、直接届けられた。

吉宗もまた、人情と法令の板挟みにあった。何の過失もないのに、跡取りがいないという理由だけで、長年幕府を支えてきたお家を取り潰すことは避けたかった。そして何よりも、一度に数千人もの浪人を増やすことは、江戸の平和と治安を脅かす最大の懸念であった。

「そのものの御目見を、即急に行うように」

吉宗の決断は素早く、お咲の企みを汲み取る形となった。誰にも知られずに、亡き正純を兄とすり替え、小平太を藩主として御目見を秘密裏に実行。水野家は、無事に世継ぎ継承ができた。

お咲の当初の仕事であった老朽化した藤棚の「引っ越し」は中止となった。代わりに、その老藤の元気な枝を切って、お咲の指導のもと、水野家のお屋敷すべてに挿し木を施し、若木を育てることにした。

老朽化した藤棚の「再生」は、挿し木による継承という形で結実した。

お咲は、挿し木を終えた後の老藤の幹に手を当て、静かに菊次郎に語る。

「この太い幹に、前の代、その前の代の藤の生命が流れ続けている。命は途切れず、時代を超えて自然と流れるもの。武士の世も、そうであってほしいと願うよ」

菊次郎は、お咲の人情と知恵が、幕府の厳格な法令(末期養子禁止)を破りながら、結果として多くの家臣と江戸の平和を救った事実に、深い迷いの底に沈んでいった。

武士は公僕。もちろんお上のために働くが、庶民の平和があってこその徳川幕府だ。浪人が増え、食べるものがなくなったら、どんな無法が勃発するか分からぬ。

悪とはなにか、善とはなにか? 真面目一筋の菊次郎にとって、「法を破った善」は理解しがたい曖昧さだった。

その時、菊次郎の背中に、温かい声が響いた。

「菊次郎様、とてもきれいな満月よ」

お咲の声。そして、遊びに来ている孫のお花が、庭から満月を指差して叫ぶ。

「おじじさま、みてみて!うさぎさんがおもちをついているよ」

悪も善も、法も人情も、全てを許し、包み込むような満月と、孫の愛らしい無垢な声が、菊次郎の迷いの底に、一筋の安らぎの光を投げかけた。彼は、「ゆとり」とは、「裁くこと」ではなく「全てをあるがままに受け入れること」だと、月明かりの中で悟った気がした。

五 卯の花

卯の花と梅吉の遺訓

五月に入り、植木屋の庭の卯の花(ウツギ)が一斉に小さな白い花を咲かせていた。その花が咲き始めると、江戸は間もなく「卯の花腐し」と呼ばれる梅雨前の長雨を迎える。

お咲は、庭を見渡しながら、数人の職人たちに、早めの植木の移動や、根元の土を固めるよう指示を出していた。その指示は、どこか急(せ)いているようにも見える。

「母上、そんなに急がれて、どうなさいました?今年の長雨は例年並みだと、皆申しておりますが」

庭の様子を見ていた陽一郎が尋ねる。

お咲は、卯の花の枝を指でそっと払い、静かに答えた。

「いや、違うね。今年の卯の花は、例年より三日ばかり早い。そして、咲き方も、枝先に遠慮なくびっしりと、白い花をつけている」

それは、亡き養い親、梅吉親方が常々言っていた『卯の花の早咲きは、その後の長雨の激しさを意味する』という、植木職人として古くから伝わる天候の予兆だった。

「親方はよく言っていたよ。『お咲、花は嘘をつかない。人が暦や鐘の音を信じるように、花は土と空の約束を忠実に守るんだ』とね」

お咲は、さらに空を見上げる。鳶が鋭い弧を描かず、だらりと滑るように飛んでいる。これもまた、梅吉の遺訓、「鳶が低く、空気が重い日は、天が泣く(雨が降る)前触れ」という知恵だった。

その時、源内が息を切らせて植木屋に飛び込んできた。彼は西洋の暦や蘭学の気象書を抱えている。

「お咲様、お止めください。西洋の暦や、最新の観天望気の知識によれば、今年の梅雨入りは穏やかで、急ぐ必要はありません。江戸っ子は、『勘(かん)』で動くから非効率だ」

源内は、自分の『科学的知識』こそが正しいと信じていた。彼は、お咲の「経験則」に基づく判断を、「非科学的な迷信」と断じたのだ。

お咲は笑って、源内が持つ分厚い書物を指差した。

「源さん、あなたの持つ知識は、確かに正確で素晴らしい。だが、それは遠い異国の空を写したものだ。この駒込の土が、今、何を求めているか、その書物は教えてくれない」

彼女は、職人に指示を出しながら続ける。

「この卯の花は、この江戸の、この土の予兆だよ。わたしらは、商売としてではなく、花という『命の約束』を守るために動いている。『実学』とは、異国の知識を輸入することではない。自分が生きる大地と、そこにある命を深く知る知恵のことだと、わしの親方(梅吉)は教えてくれたよ」

二日後、江戸を突然の激しい長雨が襲った。それは、暦が示す「穏やかな梅雨入り」を大きく裏切る、激しい「卯の花腐し」だった。

梅吉の知恵に従い対策を終えていた古家植木屋の植木は、長雨に耐え、一つも傷つくことがなかった。一方、源内の知識を信じ、油断していた近隣の植木屋は、多くの植木を水腐れで台無しにした。

源内は、濡れた書物を抱え、お咲の前に立ち尽くした。知識の傲慢さを打ち砕かれ、「真の実学」が、「ゆとりある経験」の中にこそ宿ることを、心から悟るのだった。

六 蓮の花

梅雨が明けた文月(ふみづき)。南町奉行、大岡越前守忠相から、古家菊次郎に、極秘の不正調査が命じられた。狙いは、代々の代官が、裕福な農民や商人から没収した贅沢品を横流ししていたという、根深い汚職事件である。

この不正を将軍に直接訴えようと、目安箱に入れようとした尾張藩の武士が、何者かに殺害された。その訴状は行方不明となっていた。

しかし、武士の妻からの申し出により、武士が襲われる直前、上野の不忍の池近くの寛永寺の弁天堂に訴状を隠したらしいことが判明する。

菊次郎は、捜査にあたる同心である養子の陽一郎に加え、お咲と、好奇心の塊である平賀源内を伴って、上野へ向かうことを決めた。お咲は「弁天堂のまわりの植生」と、琵琶湖に見立てた池の蓮をみたくて同行を願い出たのだ。

ほぼ同じ頃、不正の訴えが書かれた文書を探す代官の家来たちも、先んじて上野の地に入っていた。駒込からは谷田川をたどれば、不忍池にたどり着く。お咲は川沿いの道を急いだ。

不忍池の蓮が、文月の強い陽光を浴びて、清らかに花を咲かせている。

捜索が始まると、早くも意見が対立した。

「馬鹿げている。こんな場所では到底見つかりません」

源内は、持参した羅針盤や異国の計測道具を駆使し、科学的な観点から弁天堂を分析したが、隠し場所のヒントは見つからない。まして、方向音痴の菊次郎には、広大な敷地での捜索は皆目見当がつかなかった。

その時、武士の妻から、亡き夫が「方位学」を熱心に学んでいたという新たな情報が入る。源内はすぐに否定した。

「方位学など、全くの迷信、知識のない庶民のたわ言です」

しかし、お咲は梅吉親方から習った信じる心の力を主張する。

「源さん。信じる人がいる以上、それは迷信ではないよ。その人にとっての真実だ。そのお武家様は、理屈(理論)ではなく、信仰(人情)に最も訴えかける場所に、命を懸けた訴状を隠した。菊次郎様、武士様が最も大切にした方位は、北辰(北極星)ではないでしょうか」

北を指す弁天堂の裏手、誰も気に留めなかった岩の隙間を菊次郎が叩くと、武士が命を懸けて守り抜いた訴状が、ひっそりと隠されていた。

見つかった訴状は、菊次郎から大岡忠相に渡り、将軍吉宗の元へと届く。しかし、その時にはすでに遅し。

横流しをしていた代官は、不正が露見したことを知り、既に切腹していた。彼は、その不正が親の代から行われていたことで、それが悪いこととは知らず、部下に任せていた。改めて自分の罪の重さを知ったことで、切腹という道を選んだのだ。

それを知った吉宗の決断は、お咲の人情にも似ていた。

「切腹により、自ら罪を懺悔したと見なす」

吉宗は、敢えてこれを公にせず、何事もなかったことにする。法の裁きではなく、自死による償いを優先したのだ。ただ、この事件の解決への菊次郎とお咲の業績は、深く賞賛された。

事件は解決したが、悪人が裁かれず、法が完結しないという結末は、真面目一筋の菊次郎を再び迷いの底に沈ませた。

彼は、不忍池の蓮を、泥の中から水面に向かって静かに伸びる姿をじっと見つめた。

「世の汚濁の中にこそ、真実の清廉さが存在するのか。悪を裁くことだけが、武士の道ではないのかもしれぬ」

菊次郎は、蓮の姿を見て、法ではなく、人情こそが、国を治める根源ではないかと、武士の役目を深く再確認した。

お咲は、ただ無の境地で蓮を眺める。蓮は、人間の短い命など思いもよらない、太古から命を受け継いできた。様々な命の栄枯盛衰、そして善悪の巡りを見つめてきたのだろうと、感慨無量になる。

「蓮は、今も変わらず、お釈迦さまのお側にいるのかしら」

お咲はそうつぶやき、善悪の曖昧ささえも静かに受け入れる、植木職人としての境地を示した。

七 シャガ

桜も咲き終わった卯月の末。昼下がり、自身番には穏やかな空気が流れていた。

陽一郎は、自身番の縁側で頬杖をつき、うつらうつらとまどろんでいた。前夜、町奉行所から預かった吟味書類を読み込みすぎ、少々寝不足だった。手には、飲みかけのぬるくなった番茶が乗った湯呑みがある。

「やれやれ、春は眠い」

陽一郎が大きく伸びをした、その瞬間だった。

「親分、また行き倒れですぜ」

大きな足音とともに、岡っ引きの平助が、土間に飛び込んできた。彼は、身の丈は高いが、いつもやや猫背で、動きはどこか慌ただしい。

陽一郎は、ゆっくりと目を開け、平助の方を見た。平助の顔は、いつもの茶目っ気のある表情だが、今日は眉毛が「へ」の字に曲がっている。大袈裟に困ってはいるが、事態はさほど切羽詰まっていない、という平助の癖を、陽一郎はよく知っていた。

「平助か。また行き倒れとは、ご苦労なことだ」 陽一郎は座り直すと、湯呑みを下に置いた。

「それがね、親分。大弱りなんです」

平助は、そう言いながら、土間の端にある手桶(ておけ)に近づき、柄杓(ひしゃく)で水をすくった。そして、ごくごくと、喉を鳴らして飲み干す。そののんびりとした仕草に、陽一郎は思わず苦笑した。

「大弱り、と言う割には、随分と喉が渇いていたようだな。飯はまだか。腹が減っては、いくさもできぬぞ」

「へへ、親分にはかないませんな。ですが、飯どころの騒ぎじゃないんです。腹は減りましたが、今はそれどころでは…」

平助は、手拭いで口元を拭きながら、陽一郎のそばに寄った。

「それが、その行き倒れの婆さんですが、まったく……」

平助は、言葉を濁す。いつものように、話の重要なところを、ためてしまう癖がまた出た。

「まったく、何だ。早く言え。お前がそんなに困るほどの行き倒れとは、珍しい」

陽一郎は、平助の顔をじっと見つめた。平助は、目を泳がせながら、小さな声で言った。

「その婆さん、倒れた場所が、ちと厄介でして」

「厄介とは」

「はい。その場所が、駒込村(こまごめむら)と駒込片町(こまごめかたまち)の、ちょうど境目(さかいめ)なんです」

陽一郎は、そこで手を打った。

「ああ、なるほど。村役人と町奉行所の、世話の押し付け合い、というわけか。それはご苦労なこった」

平助は、大きく頷いた。

「ええ。まさにそれです。村役人の下っ端どもと、うちの番太(ばんた)が、今、現場で言い争いをしています。『これは村の管轄だ』とか、『いや、町の管轄だ』とか、まるで子供の喧嘩ですぜ。誰も婆さんの心配なんてしていやしない」

「ふむ」

陽一郎は、静かに頷いた。駒込村は、江戸の郊外にある農村で、村役人が支配する。一方、駒込片町は、町奉行所の管轄する町人地。その境目は、昔から揉め事の種になりやすい。

「で、どうした。お前は、その揉め事を収めに、私のところにやって来たというわけか」

「はい。親分がいれば、一発で片付くと思いまして。詳しくは、歩きながらお話しします」

平助は、そう言うと、陽一郎の腕を引っ張り出した。陽一郎は、仕方がないというように、立ち上がった。

「まあ、行き倒れを放っておくわけにもいかぬ。よし、行こう」

自身番を出て、現場へ向かう道々、平助は詳しい事情を陽一郎に話した。

「旦那。その婆さん、倒れていた場所が、本当に、境界線のど真ん中なんです」

平助は、歩きながら、大股で踏みしめるように言った。

「駒込村と駒込片町を分ける、小さな石垣があるでしょう。その石垣の真上に、ちょうど頭が乗っているらしいんです」

「なるほど、それは面白い」

陽一郎は、鷹揚(おうよう)に答えた。

「行き倒れとはいえ、見事な倒れ方ではないか。譲り合いとは、いいことだ」

陽一郎の、あまりにも呑気な答えに、平助は、思わず立ち止まった。

「旦那、何をのんきなことを言っているんですか」 平助は、半ば呆れ返ったような顔で陽一郎を見た。

「婆さんは、今も、そのまま倒れたままですよ。飯を食わせたり、寝かせたり、何かとあとの面倒は誰がするんだと思います。村役人は、一文の金も出したくない、世話などしたくないとの一点張りですぜ。」

「ふむ、それはそうだろうな。おかげ参りとかではないのだな。あれはあれでやっかいなものだ。そうでないといいが」

万一、おかげ参りと分かれば、救済しなければならない。

陽一郎は再び歩き出した。平助は、大慌てで陽一郎の後を追う。

「旦那、納得したような顔をしていますが、どういう了見(りょうけん)ですか。婆さんは、町人でもなければ、村人でもない。しかも、おかげ参りでもない。どのお役所も、自分の懐(ふところ)を痛めたくない、というわけですぜ」

「それは、世の常(つね)というものだ、平助」

陽一郎は、空を見上げた。卯月の空は、青く澄み渡っている。

「役人というものは、金と手間のかかることは、なるべく引き受けたくないものだ。ましてや、行き倒れの世話ともなれば、死なれたら、後始末までしなくてはならぬ。当然、譲り合うだろうよ。まず、身元を確認しないとな。次に村継ぎをしないと」

「はぁ……。さすがは旦那。何をするべきか、ご存じ。先手必勝ですね。ただの同心ではありませんな」

平助は、同心、陽一郎を褒めたたえた。心の奥からそう思っているかどうかはわからないが。

「ですが、このままでは、婆さんが飢え死にしてしまいます。とにかく、急いでください。」

「死んでしまったら、検視や身元確認、埋葬とか、これまた面倒だ。だから、私は今、お前の案内で、急ぎ現場に向かっているのではないか」

その時、陽一郎は、にこりと笑った。その笑顔には、何らかの解決策が浮かんだかのような、自信に満ちた光が宿っていた。

「心配するな、平助。この陽一郎に、解決できない難問はない」

「へへ、頼もしいお言葉です」

平助は、ようやく笑顔になり、陽一郎を先導するように、少し早足になった。

現場に到着すると、数十人の野次馬(やじうま)が、小さな石垣の周りに集まっていた。その真ん中で、一人の老婆が、横たわっている。

「おい、そっちは村の境だ。手を出すな」

「何を言うか!婆さんの頭は、こっちの町の管轄に入っているではないか!」

村役人の下っ端と、自身番の番太が、顔を真っ赤にして言い争っている。彼らの足元には、薄汚れた着物を着た、やせ細った老婆が、息をしているのかどうかも分からない様子で倒れていた。老婆の頭を含む上半身は、駒込片町の側に、腰から下は、駒込村の側にかかっている。

「なるほどね」

陽一郎は、一歩前に出た。陽一郎の姿を認めると、騒いでいた人々は、ぴたりと口を閉ざした。町奉行所の同心という身分は、彼らにとって、恐れ多い存在なのだ。

陽一郎は、老婆の倒れている様を、じっくりと観察した。

「これは、まさしく、見事な倒れ方だ」

陽一郎は、感心したように言った。その言葉に、平助も野次馬も、思わず顔を見合わせた。

「旦那、感心している場合ではないですぜ」 平助が小さな声で囁いた。

陽一郎は、平助に、静かに目配せした。

そして、陽一郎は、集まった野次馬に向かって、高らかに、しかし、爽やかな声で宣言した。その声は、春の風のように、人々の心に響いた。

「皆の者、よう聞け。この行き倒れの老婆は、我々、町奉行所が、責任を持って世話をする」

この言葉に、村役人の下っ端は、安堵の表情を見せ、番太たちは、得意げに胸を張った。

「なぜなら、この婆さんの、頭のある上半身は、我々の管轄、駒込片町にあるからだ。頭とは、物事を考え、判断する、最も大事な場所。その大事な頭を、我々が預かる以上、町奉行所が世話をするのが、道理というものだ」

陽一郎は、そこで一息入れた。そして、さらに続けた。

「だが、世話をする場所、人手、そして、金銭の面で、町奉行所が全てを担うのは、いささか無理がある」

「そこで、だ」

陽一郎は、さらに、笑顔を深くした。彼の瞳は、自信と、ある種の悪戯(いたずら)っぽい光を宿していた。

「世話は、駒込村の、『植木屋お咲』に頼む。あそこは、必ず、なんとかしてくれる。この町で、いや、この江戸で、人助けにかけては、右に出る者はいない、心優しい女だからだ」

この宣言に、野次馬はざわめいた。「『植木屋お咲』の名は、この辺りでは、知らない者がいない。困った人を放っておけない、情け深い女だ。

村役人の下っ端は、驚いた顔で陽一郎を見た。

「そ、それは、村の者に世話を押し付けるということでは……」

陽一郎は、その下っ端を、ぴしゃりと遮った。

「何を言うか。我々が、頭、つまり、責任を持つと言ったではないか。そして、世話は、村の者、つまり、人情のある女に頼む。これ以上の、爽やかで、明晰(めいせき)な解決法が、他にあるはずがない」

そして、陽一郎は、さらなる、驚くべき言葉を発した。

「それに、『植木屋お咲』は、私の母上だ。母上に任せておけば、この難題は、必ず解決する。これが、私の、手柄の一つというものだ」

静寂が、辺りを包んだ。野次馬は、この与力殿が、あの評判の『植木屋お咲』の息子であるという事実に、驚きを隠せない。

陽一郎は、平助と、村役人の下っ端に、命じた。

「平助、お前は、老婆を背負え。村役人の下っ端よ、お前は、この婆さんの持ち物、その小さな籠(かご)を持って、私について来い」

老婆は、確かに、小さな籠を抱えていた。陽一郎は、その籠の中を、ちらりと覗き見た。中には、土がついた様々な草花、そして、紫色のスミレに混じって、白い花弁に紫の斑点を持つ、見慣れない花が入っていた。

「あれは……、なんという花なのか」

陽一郎は、平助たちに運ぶように命じ、自身番へ戻るために、足早に立ち去った。

「難問を、いとも簡単に解決してしまった……。さすが、我が旦那。やることが素早い」

岡っ引きの平助は、ただ感心するのみで、言われたとおりに老婆を背負った。老婆は、驚くほど軽かった。

陽一郎からの、突然の頼み。『植木屋お咲』の家は、駒込村でも、少し奥まった、静かな場所にあった。

「あらあら、まあ」

お咲は、岡っ引きの平助から事情を聞かされ、運び込まれた老婆を見て、目を丸くした。しかし、困惑の色は、すぐに消えた。

「陽一郎らしい、実に面白い解決法だね。よし、分かったよ。陽一郎の頼みとあらば、このお咲、断るわけにはいかないさ」

お咲は、岡っ引きの平助から聞いた陽一郎の潔い決断と、自分への信頼を、心から嬉しく思った。

「ご面倒をおかけしやす」」

岡っ引きの平助は、深々と頭を下げて、陽一郎のいる自身番へと戻っていった。改めて、陽一郎のお袋様の偉大さを知った。

その後、お咲は、すぐに老婆の介護に取り掛かった。

「可哀想に、随分と痩せこけているね。まずは、温かいものを口にさせよう」

お咲は、火を起こし、丁寧に米を炊いて、おかゆを作った。そして、少しずつ、老婆の口に運んだ。老婆は、薄く目を開け、かすかに頷いた。

三日三晩、老婆は眠り続けた。お咲は、その間、つきっきりで世話をした。おかゆを口に運び、汗を拭き、着物を着替えさせた。そして、四日目の朝。老婆は、完全に目を覚ました。

「ここは……、どこでございますか」

老婆の、か細い声が、静かな部屋に響いた。

「ここは、植木屋お咲の家だよ。あんたは、行き倒れていたところを、うちの息子が連れてきたんだ。もう大丈夫。さあ、温かいお茶を飲んでおくれ」

お咲は、優しく微笑み、湯呑みを差し出した。

「ありがたや……」

老婆は、涙を流しながら、お茶をすすった。

そして、風呂に入り、垢を落とし、お咲が用意した、清潔な浴衣に着替えた老婆を見て、お咲は驚いた。

「まあ、あんた。思ったよりも、ずっとお若いんだね」

老婆は、顔を赤らめた。

「へへ、もう還暦(かんれき)は過ぎましたが、足腰は、まだ丈夫な方でして」

「還暦過ぎたばかりかい。見かけは、もっと年上かと思ったよ。さあ、元気になったら、あんたの事情を聞かせてもらえるかい。あんたの名前は何だね」

「わたくしは、おかつと申します」

おかつは、お咲の温かい看病と、おかゆのおかげで、すっかり元気を取り戻した。そして、お咲に、自分の身の上(みのうえ)を、とつとつと語り始めた。

「わたくしは、高尾山の麓(ふもと)の村に住んでおりました。小さな村でございます」

「そうかい。高尾山は、山菜が豊富で、良いところだと聞くね」

おかつは、静かに頷いた。

「はい。わたくしは、草花が大好きでして。特に、春になると、山へ行って、様々な花を摘むのが、何よりの楽しみでした」

おかつは、遠い目をした。

「そんな、卯月の、桜が散り、山吹(やまぶき)が咲き始めた頃でございます。ある日、長男の与吉(よきち)が、わたくしに言いました。『おっかさん、今日は天気が良い。山に行かないか』と」

「ほう、息子さんが、親孝行だね」

「ええ。わたくしは、大喜びいたしました。なぜなら、ちょうど、わたくしの大好きなシャガ(著莪)の咲く時期でしたので」

おかつは、陽一郎が運ばせた、小さな籠を、大事そうに撫でた。その中には、確かに、紫色のスミレに混じって、シャガの花がたくさん入っている。

「与吉は、いつになく優しゅうございました。そして、嫁のおつきが、わたくしに、特大のおにぎりを作ってくれました。与吉は、『山で腹が減るといけないからな』と、いつもより大きなものを、と言ってくれました」

「それは、良い息子と嫁さんではないか」

お咲は、微笑んだ。

「ですが、わたくしには、それが、不思議でならなかったのです」

「不思議とはなんですか」お咲は問うた。

「ええ。わたくしを送り出す時のおつきの顔が、涙顔だったのです。いつもは、口数の少ない、地味な嫁ですが、その日は、目を真っ赤にしておりました。『おっかさん、どうか、お気をつけて』と、それだけを繰り返し、与吉の後ろで、泣いておりました」

おかつは、そこで言葉を切った。そして、喉の奥から、絞り出すように言葉を続けた。

「わたくしは、その時は、深く考えませんでした。嫁は、わたくしのことを、心から心配してくれているのだ、と。山に入り、道々の草花、特に、シャガが見事に咲いておりました。わたくしは、夢中になって、花を採り、籠に入れました」

「花の魔力というものだね」

「はい。そして、気がつくと、わたくしは、どこにいるのか、わからなくなってしまいました。与吉もいない。大声で呼んでも、返事がない。わたくしを、置いていったのだ、と、その時、初めて気がついたのです」

おかつは、嗚咽(おえつ)を堪えるように、唇を噛んだ。

「足は、まだ丈夫でございましたので、とにかく、闇雲(やみくも)に歩きました。与吉が、すぐに戻ってくるのではないか、と。ですが、いくら歩いても、見慣れた景色は現れず、腹は減って、喉は渇いて……。そのまま、意識が無くなってしまったのです」

「可哀想に……」

お咲は、静かに、おかつの背中を撫でた。

「籠の中には、紫色のスミレに混じって、シャガがたくさん入っておりました。『これがあれば、もう、いい』と、わたくしは、その籠を抱きしめておりました」

「おかつさん」

「お咲さん。わたくしは、実は、すべてを知っていたのです」

おかつは、突然、顔を上げて、お咲の目を見つめた。

「与吉とおつきが、夜、話し合っているのを、わたくしは、寝床で聞いてしまったのです。三日前の夜でございました」

おかつは、震える声で、その夜の会話を再現した。

「与吉が言いました。『このままじゃ、みんな飢え死にしてしまう。もう、婆さんを乳母捨(うばすて)山に連れて行かないと』と」

お咲は、息を飲んだ。

「おつきは、反対いたしました。『まだ、おっかさんの足腰は、しっかりしています。そんな、恐ろしいことはできません』と、泣いておりました」

「そうだ、おつきは優しい子だ」

「ですが、与吉は、こう言いました。『だから、いけないんだ。まだ足腰がしっかりしているから、おまんま(ご飯)をたくさん食べてしまう。このままでは、冬を越せない。おっかさんには、悪いが、これしか、道はない』と」

おかつは、両手で顔を覆い、しゃくり上げた。

「その翌日、与吉は、わたくしを山に誘い、そして、いつの間にか、いなくなったのです。すべて、与吉の計画通りだったのです」

静かな時間が流れた。お咲は、何も言わなかった。ただ、おかつの手を、優しく握りしめた。

やがて、おかつは顔を上げ、決意の滲んだ目でお咲を見つめた。

「お咲さん。わたくしは、もう、あの家には帰りません。あの山にも、帰りたくありません。与吉とおつきの、その後の生活を、わたくしが邪魔したくないのです」

「おかつさん……」

「わたくしは、元気になったら、この植木屋で、下働きの女として、置いてもらいたいのです。わたくしには、まだ、働く力があります。この恩を、いつか必ず、お返ししたいのです」

おかつは、深々と頭を下げた。

お咲は、おかつの言葉を聞き、深く考え込んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。

「おかつさん。あんたの苦しみは、よう分かったよ。あんたを、このまま帰すわけにはいかない。だが、あんたの息子と嫁さんの気持ちも、分かる気がする。飢え死にするよりは、親を捨てる方が、まだまし、と、与吉は、苦渋の決断をしたのだろう」

「……」

「よし、分かったよ。あんたのその、働くという強い気持ち、私には、嬉しい。植木屋は、年中、人手がいる仕事だ。あんたを、下働きとして、雇うことにするよ」

お咲は、優しく、しかし、きっぱりと言った。

「その代わり、与吉とおつきのことは、もう考えるな。あんたの新しい人生は、ここから始まるんだ。そして、あんたの籠に入っていた、その美しいシャガのように、ここで、強く、根を張るんだよ」

おかつは、涙を拭き、深く、深く、お咲に頭を下げた。

「ありがたき幸せ……。お咲さん。わたくし、一生懸命、働かせていただきます」

こうして、植木屋お咲の家に、一人、新しい家族が加わった。陽一郎がもたらした、奇妙な行き倒れは、人情と慈愛によって、一つの温かい結末を迎えたのであった。

数日後、母、お咲から、全ての事情を聴いた陽一郎は、再び縁側に腰を下ろし、熱い番茶をすすりながら、平助に全ての事情を話した。難問を解決した後の、静かで満ち足りた時間である。

「やれやれ。これで一件落着というわけだ」

陽一郎が湯呑みを置くと、平助は土間に座り込み、まだ興奮冷めやらぬ様子で、頭を掻いた。

「いやあ、しかし、旦那の解決法には、まったく感服いたしましたぜ。あんなに揉めていたのに、『頭は町、世話は母上』とは。誰も文句が言えやしません」

「ふむ。なんどもいうようだが、物事の解決には、理屈と、人情(にんじょう)の、両方が必要だ。そして、どちらが欠けても、人は納得しない」

陽一郎は、静かに言った。

「今回の件は、町奉行所が『頭』という理屈で責任を負い、母上が『人情』で世話を引き受ける。実に、手際(てぎわ)の良い、仕組みではないか」

平助は、深く頷いた。

「いや、本当に。ですが、旦那。それよりも、あの婆さん……、おかつさんの話ですよ。息子と嫁に、乳母捨て山へ追いやられるとは……、あまりにも、あんまりです」

平助は、顔を曇らせた。

「ああ、平助。それこそが、今回の件の、最も難しいところだ」

陽一郎は、番茶を一口すすった。

「おかつさんは、最後、籠の中に、たくさんの草花、特にシャガを持っていたそうだな」

「ええ。小さな籠でしたが、紫のスミレに混じって、あの、白い花に紫の斑点(はんてん)があるシャガが、ぎっしりと入っていました。何かの、お守りだったのでしょうか」

平助は、首を傾げた。

「お守り、か。そうかもしれないし、そうではないかもしれない」

陽一郎は、そこで目を細めた。彼の頭脳は、事件の核心を捉えようと、深く思考を巡らせていた。

「平助よ。おかつさんの話を聞いて、よく考えてみろ。彼女は、シャガの咲く時期が大好きだった。息子に山に誘われ、大喜びで出かけた。嫁が作ってくれた特大のおにぎりも持っていた」

「はい。そして、夢中で花を採っている間に、息子に置いていかれた」

「そうだ。置いていかれた、と分かった時、おかつさんは、絶望しただろう。それでも、彼女は、なぜ、その時採っていたシャガを、放り出すことなく、ずっと抱え続けていたのだと思う」

平助は、腕を組み、唸った。

「さあ……。花が好きだから、というだけでは、飢え死に寸前の婆さんが、重い籠を捨てない理由にはなりませんぜ」

「その通りだ」

陽一郎は、静かに、しかし、はっきりとした口調で語り出した。

「おかつさんは、寝床で、息子夫婦の会話を聞いていた。自分が、家族の生きるための『犠牲』として、山に捨てられることを、知っていたのだ。嫁が泣いていたのは、別れの涙だったのだろう」

「それは、あまりにも、辛い……」

「だが、おかつさんにとって、息子に『山に行かないか』と誘われた、そのひと時が、息子と過ごした、最後の、優しかった思い出となったのだ」

陽一郎は、湯呑みを両手で包み込んだ。

「山で夢中になって採っていたシャガは、息子が、最後に優しくしてくれた、という記憶の証(あかし)なのだ。息子は、自分を捨てに来た。しかし、その時、シャガは美しく咲き乱れていた。花を採るという、純粋な行為に集中できた、わずかな幸福な時間。あれを捨ててしまえば、息子との最後の良い記憶まで、消えてしまう」

「……なるほど」

平助は、目を見開いた。

「シャガは、彼女にとって、息子が自分を捨てたという残酷な現実と、息子がくれた最後の温かい時間を、結びつける、たった一つの糸だったのですね」

「そうだ。だからこそ、飢えと疲労で意識を失う寸前まで、あの籠を離さなかった。籠の中のシャガが、『私は、息子に愛されていた時もあった』という、唯一の証拠だったのだろう」

平助は、しばらく黙り込み、そして、深く息を吐いた。

「旦那の、その物の見方には、いつも驚かされます。行き倒れの持ち物一つで、そこまでの、人の心の機微(きび)を読み解くとは……。さすがは、町奉行所の旦那です」

「ふん。まあ、難問を解決したのだ。少しくらい褒められても良いだろう」

陽一郎は、照れたように、顔を背けた。

平助は、陽一郎への感服を胸に、今度は、植木屋お咲の方へと、思いを馳せた。

「ですが、旦那。それにつけても、お袋様(お咲)ですよ」

「母上のことか。また、何かやらかしたか」

「いえ、やらかした、どころではありません。あの、おかつさんのような、深い悲しみを背負った人を、何の躊躇(ためらい)もなく、下働きとして雇い入れるとは」

平助は、立ち上がり、自身の番の柱に、額を擦りつけるようにして、深く頭を下げた。

「普通の人間なら、行き倒れの世話をするだけでも、金がかかる、面倒だと逃げます。ましてや、乳母捨て山から帰ってきたような、いわく付きの婆さんを、家に置くなんて、とてもできることではありません」

「母上は、そういう人だ。困っている者を、見過ごせない。それが、母上という女だ」

陽一郎は、穏やかな表情で言った。

「母上にとって、おかつさんが、息子に捨てられた可哀想な老婆であると同時に、まだ働く力のある、一人の人間として見えているのだろう。そして、『下働きとして雇ってほしい』という、おかつさんの、生きようとする強い意志を、母上は、誰よりも尊重したのだ」

「そうでございますな……でも、だんな、シャガの根っこには毒があるとも言われますぜ。クワバラ、クワバラ」

平助は、含みのある言葉を呟いた。世の中、善だけでは生きていけないと平助は考えている。しかし、陽一郎には、嫌味のない言葉をかけた。

「旦那は、理屈と明晰さで、あの難問を解決し、おかみさんは、人情と慈愛で、おかつさんの人生そのものを救った」

八 木蓮

季節は初秋に入った頃。しかし、空はまだ夏の残照を湛え、一日の終わりには西の空が不気味な茜色に染まる日が続いていた。

時折、「カナカナカナ」と少し物悲しいヒグラシの鳴き声も響いてくる。

植木屋お咲では、その不穏な空気を察知し、夫の菊次郎が、日中の番所での激務を終えた後も、陽一郎や職人たちと共に庭の補強に当たっていた。菊次郎は、先の藤の花の件で、「法」だけでは守れないもの、「自然の力」の前には人の定めた規則がいかに無力であるかを痛感していた。

その日の午前、お咲は、庭の中心に植えられた紫木蓮(モクレン)の太い幹を見上げていた。木蓮の葉は、例年であればもう少し深く緑を湛えるはずが、どこか色を失い、青ざめたように見えた。

「これは、天の怒りだね。梅吉親方の言っていた通りの顔をしているよ」

お咲が呟くと、奥から平賀源内が、手に持った異国の気象書を広げながら、慌てた様子でやってきた。

「お咲様、ご心配には及びません。 この一帯は高台にあり、河川の氾濫(はんらん)の心配はありません。また、西洋の気象学によれば、偏西風の流れから見て、大きな嵐が江戸を直撃する可能性は低いと断定できます」

源内は、自分の知識の正確さに絶対的な自信を持っていた。彼にとって、お咲や菊次郎の「勘」や「経験」は、依然として「非科学的な迷信」に過ぎなかった。

しかし、お咲は首を横に振った。

「源さん、あなたの知識は、海を越えた国の空のものだよ。この江戸の空は、この江戸の木蓮にだけ、真実を告げている」

お咲は、風もなく蒸し暑いのに、木蓮の葉が裏側の白い産毛を見せてざわめき始めているのを指摘した。

「木蓮は根が浅く、幹が太い。だからこそ、少しの風にも敏感に反応し、自らの危険を教えてくれる。親方は言っていたよ。『木蓮が青ざめて裏葉を見せ始めたら、大地が揺れ、天が裂けるほどの風が来る予兆だ』とね」

その日の夕刻、予兆は現実のものとなった。穏やかだった空が一変し、鉛色(なまりいろ)の雲が江戸を覆い尽くし、轟音と共に激しい大風が吹き荒れ始めた。それは、源内の持ついかなる気象書にも記されていない、江戸特有の暴風だった。

大風は屋敷を揺らし、庭の木々を容赦なく引き裂いた。特に、根の浅い木蓮は、その太い幹ゆえに風の抵抗を強く受け、今にも倒れそうに大きく傾いた。

お咲はすぐに職人たちに指示を出し、木蓮を支えるための太い杭を打ち込み始めた。しかし、風は強く、杭を打つそばから土が削られ、作業は困難を極めた。

源内は、自らの計算の誤りに顔面蒼白となり、ただ立ち尽くすことしかできない。

「計算が狂っている。この風速は、この緯度ではありえない。西洋の知識は、この日本の風土を読み解く力を持っていなかったのか」

その時、お咲が叫んだ。

「源さん。杭の打ち方を梅吉親方流に変えておくれ」

お咲は、梅吉親方がかつて巨大な木蓮を移植した際の古びた絵図を取り出した。その絵図には、杭を『四隅均等』に打つ西洋流ではなく、風の通り道と木の傾きを考慮し、三方を堅固に、一方を意図的に緩く固定する、梅吉独自の補強法が示されていた。

「親方は言っていたよ。『木蓮は、風に逆らうのではなく、受け流すゆとりが必要だ』と。堅く縛りすぎれば、幹が折れる」

源内は、即座に絵図を解読した。それは、風力学の計算と、土壌の弾力性を考慮に入れた、極めて合理的な構造だった。源内が持つ科学的知識は、初めて梅吉の経験則と完全に合致した。

「なるほど。これは、風圧を逃がすための揺れの余白だ。これを日本の『実学』というのか」

源内は、自らの知識を総動員し、お咲の指示のもと、職人たちに、声が枯れるまで梅吉流の杭打ち法を伝えた。

夜通しの作業の結果、翌朝、風が去った後も、木蓮は傾きながらも倒れることなく、しっかりと大地に立っていた。他の植木屋の庭では、多くの大木が根こそぎ倒れている中、植木屋お咲の木蓮だけが、日本の知恵と西洋の知識が融合した証として、そこに残ったのだ。

「やっぱり梅吉親方は正しかった」お咲はつぶやいた。

その時、菊次郎は、吉宗の外国馬導入失敗の原因(日本の風土への適応不足)が、まさにこの「木蓮の教訓」と同じであることに気づいた。

「西洋の理論は、『絶対的な力』で押さえつけようとする。だが、木蓮は、『ゆとり』と『受け流す知恵』で生き延びている。梅吉親方は、それを経験で分かっていたんだ」

お咲の夫であり、与力の菊次郎は、武士として「法で厳しく裁くこと」こそが善だと信じてきたが、この木蓮の姿を見て、「世の荒波を受け流し、命を繋ぐ『ゆとり』」こそが、真の「公僕の役目」ではないかと思い始めた。

悪を裁き切らず、自死による懺悔を許した吉宗の決断(蓮の事件簿)は、まさにこの「ゆとりの杭打ち法」だったのではないか。

お咲は、傾いた木蓮を支える杭に手を当て、そっと菊次郎に語りかけた。

「親方は言っていたよ。『植木職人は、命の医者だ。時には知識で、時には人情で、時には無駄に見える余白で、命を繋ぐんだ』とね」

「木蓮は自然への愛が深く、高潔な心を持つそうよ。葉より先に花が咲く姿がそう見えるらしい。しかも花はみんな北を向く。不思議ね」

お咲は難しいことをいうのはやめて、自分の感じたことをつぶやいた。

その言葉は、武士の道を極めようとする菊次郎の心に、「公」と「私」、「厳格な法」と「人情のゆとり」を両立させる、新たな「武士の覚悟」を刻み込んだのだった。

そして、源内もまた、自分の傲慢な知識が、梅吉親方という名の偉大な先人の知恵によって救われたことを悟り、心から頭を下げた。彼の目指す「実学」は、この瞬間、日本の大地にしっかりと根を下ろしたのだ。

九 姫百合

吉宗が推進する品種改良は、吉宗の「実学」の一環であった。彼は、新しい作物や植物を導入することで、国を豊かにしようと考えていた。

その頃、大久保家の当主、勘定頭、市之丞は、連日のように将軍吉宗の莫大な無駄遣いに頭を抱えていた。特に、長崎から輸入された「象」の飼育費用は、勘定吟味役として目を通す度に、ため息しか出ないほどの額だった。象一頭の飼育に、一体どれだけの金が消えていくのか。先の外国馬の失敗に続き、これは「公儀の無駄」の極みではないか。

そんな市之丞の元に、青山二郎が、公儀御用の依頼を持って訪れた。

「市之丞殿、将軍様が『姫百合(ヒメユリ)』の品種改良を御所望で、その依頼を駒込の植木屋お咲に伝える役割を賜りました」

青山二郎は、先日お咲からもらった「救荒作物の知恵(サツマイモ)」を吉宗に直訴した後、吉宗の興味が「いかに日本の土で新しいものを生み出すか」という点に移ったことを感じていた。

姫百合は、その繊細な美しさとは裏腹に、生命力が強く、日本の風土に適していた。吉宗は、この百合を品種改良することで、新しい「日本の花」を生み出そうとしていたのだ。

二郎が、久しぶりにお咲に再会すると、植木屋の庭は以前にも増して生命力に満ちていた。しかし、二郎の顔は暗い。

「お咲様、姫百合の御用は光栄ですが……将軍様は今、途方もない『無駄』にも熱中されています。御所望の象の飼育費です。その莫大な金額を見るたびに、私は何が『実学』で、何が『無駄』なのか、分からなくなるのです」

お咲は、二郎の苦悩を聞き、静かに姫百合の球根を見つめた。

「二郎さん。馬の輸入は、結果を急ぐ『短慮な実学』だった。だが、象は……少し、訳が違うかもしれないよ」

「わけが違う?」

「将軍様は、あの象で、『人々を驚かせ、楽しませる』という、『文化の力』を試しているのかもしれないね。『ゆとり』は、腹が満たされた後に生まれる『無駄なもの』からしか生まれない。そして、あの大きな象は、もしかすると、この小さな姫百合の改良を助けてくれるかもしれないよ」

数日後、吉宗は、姫百合の品種改良の成功を祈念する「儀式」のため、輸入した象を駒込の植木屋近くまで運ばせ、さらに大久保市之丞と青山二郎にも立ち会いを命じた。

市之丞は、この象の行進と儀式の費用を考え、怒りに震えていた。その費用を試算した膨大な帳簿が、彼の懐に入っていた。

「さっぱり理解できん!この巨獣一頭の飼育費があれば、どれほどの飢えた農民が救えると思っているのだ!」

市之丞は、目の前の象を見ても、「無駄な費用」しか見えない。彼の武士としての存在価値が、「無駄なものを切り捨てる」ことにあると信じているからだ。

やがて、象が駒込の庭先に到着し、その巨体が、周囲の人間を圧倒した。

吉宗の意図は、象の驚くべき知能を使い、姫百合の品種改良を助けさせることだった。吉宗は、象が特定の花の匂いを識別し、受粉を助ける能力や、道具を使う知能を持っていることを、蘭学を通して知っていたのだ。

吉宗は、市之丞に命じた。

「大久保、この象の飼育費は、未来への投資だ。この象が、青木昆陽が持ち込んだサツマイモのように、日本の農業や文化に新たな道をもたらすかもしれぬ。お前も、ただの『勘定』ではなく、この象が持つ『可能性』を勘定に入れよ」

そして、吉宗の命により、象は鼻先で器用に筆を握り、姫百合の図を描き始めた。その絵は、人間が描くよりも遥かに大胆で、生命力に満ちたものだった。

象の知能と、姫百合の繊細な美しさのコントラストに、周囲の人々は度肝を抜かれた。

それを遠くから見ていたお咲は、象の目を見て、その「無駄ではない生命」を理解した。

「この子は、『無駄』ではない。『ゆとり』だよ。吉宗公は、お金で買えない『驚きと文化』を、象で買おうとしている」

お咲は、象の鼻を使い、姫百合の花粉を繊細に運ばせ、品種改良の手助けをさせる様子を、市之丞に見せる。象は、その大きな体とは裏腹に、驚くほどの集中力と優しさで、花の作業をこなしていった。

「市之丞さん、カスミソウを思い出してごらん。象の飼育は、数字上の無駄かもしれない。だが、この象が生み出す『驚き』と、この子が助ける『新しい花』は、人々の心に『ゆとり』をもたらし、世の安寧に繋がるかもしれないよ」

市之丞は、象の絵と、象が花粉を運ぶ姿、そしてお咲の言葉に、激しく動揺した。

(無駄を切り捨てるのが武士の役割。だが、吉宗公は、計算できない『未来の価値』に、莫大な金を投じている。象という『無駄なもの』が、姫百合という『小さな命』を育み、そして人々の心に『ゆとり』を与える……)

市之丞は、勘定吟味役として、象の飼育費を削減するために動くことを一度は決意していた。しかし、この瞬間、彼は「勘定」という狭い視点から解放され、「公儀の安寧」という広い視点で物事を見つめ始めた。

「私は、『無駄の勘定』をするために存在するのではない。『真の豊かさ(ゆとり)』を勘定するために存在するのだ」

市之丞は、象の飼育費を「無駄」として切り捨てるのではなく、「文化への投資」として、その「価値」を見出していくことを決意する。彼の「武士としての存在価値」は、「切り捨てる者」から「価値を見出す者」へと、昇華したのだった。

そして、姫百合の品種改良が、お咲と二郎の協力を得て進められる中で、吉宗の野望は、象という「無駄」を通して、「ゆとりある実学」へと、静かに変容していくのだった。

十 サザンカ

師走を間近に控えた、冬の入り口の静かな日だった。

風は肌を刺すほど冷たいが、陽光はまだ名残惜しそうに地上を照らし、庭先に長閑な影を落としている。お咲が手入れを任されている旧家の広大な庭は、草木がその生気を内側へと凝縮させ始める季節を迎え、色数を減らしていた。楓や銀杏の鮮やかな燃えるような色彩は既に落ち、地面に敷き詰められた絨毯となり、踏みしめるたびに乾いた音を立てる。

そんな静寂の中で、ひときわ鮮やかに、そして凛と咲き誇る一団があった。

「あら、もう咲き始めましたか」

お咲は、手袋をはめた指先で、紅色の五弁の花をそっと撫でた。サザンカ(山茶花)である。

同じツバキ科の椿に比べてやや小ぶりな花は、厚い葉の緑の中で、遠慮がちに、だが確かにその存在を主張している。椿が花首ごと「ぽとり」と落ちる潔さを持つとすれば、サザンカは花びらを一枚ずつ「はらり、はらり」と散らす。その散り際が、どこか儚く、そして切ない。その色も決して鮮やかではなく、淡い色であたりを和ませている。

お咲は、腰に下げた剪定鋏を一度カチリと鳴らすと、このサザンカの大株の周りをゆっくりと巡った。ここ数日で冷え込みが増し、ついに固く閉ざされていた蕾の口を開かせたらしい。これから年末にかけて、この庭を訪れる人々の目を楽しませてくれるだろう。

植木職人として、咲くべき時に、美しく咲かせる手助けをする。それがお咲の役目だ。

「よし、もう少し風通しを良くして、お日様の光をたっぷりと入れてあげましょう」

お咲は、サザンカの株元にしゃがみ込むと、内部に入り組んだ細い枝や、病害虫の原因となりやすい密生した枝を、手際よく切り落とし始めた。

その時、ふと、このサザンカを見て、亡き師匠である梅吉さんとの思い出が甦った。

あれは、お咲がまだ梅吉の見習い職人になって二年目の冬。仕事に慣れ始めた頃で、少しだけ天狗になっていた時期だったかもしれない。

「お咲、そこのサザンカの剪定、手伝ってくれ」

梅吉さんは、いつも通り、大きなハサミを腰に下げて、朗らかな笑顔で言った。その頃、お咲は「切る」作業のスピードと効率ばかりを追求していた。

「はい、すぐに形を整えます」

お咲は返事をするやいなや、外側の飛び出た枝を次々と剪定していった。植木職人の基本は、植物を美しく見せること。そして、家や庭全体の調和を乱さないよう、丸く、または四角く、定型に収めることだと思っていた。

数分後、形が整ったのを見て、お咲は満足げに梅吉さんの顔を見上げた。

「師匠、これでどうでしょう。いつも通り、綺麗に丸く収まりました」

すると梅吉さんは、手にしたハサミを置き、枝が減って日の光を浴びたサザンカを、しばらくじっと眺めていた。そして、いつもの悪戯っぽい目を細め、お咲に尋ねたのだ。

「お咲。このサザンカは、お前の目にはどう映るかな」

「はい。丸くて、整っていて、立派な株だと思います」

お咲がそう答えると、梅吉さんは「ふむ」と頷いた後、予想外の行動に出た。

梅吉さんは、懐から小さな手拭いを取り出すと、それを広げた。そして、その手拭いをサザンカの枝の隙間にそっと押し込み、隠したのだ。

「梅吉さん、何を…」お咲は思わず声を上げた。

「まあ、見ておれ」

梅吉さんはニヤリと笑うと、今度は剪定鋏を手に取り、先ほどお咲が切った外側の枝ではなく、サザンカの株の内側の、密集した枝や、日陰になってしまっている部分の小枝を、丁寧に、しかし大胆に切り落とし始めた。

サザンカの枝が落ちるたびに、周囲に広がる太陽の光の輪が少しずつ大きくなる。風が通る隙間が生まれ、まるで植物が深呼吸を始めたかのように見えた。

しばらくして、梅吉さんが手を止めると、サザンカは先ほどよりも一回り、二回り小さくなったように見えた。しかし、驚くべきことに、その姿は先ほどお咲が整えた時よりも、ずっと生気に満ち溢れ、立体的に見えたのだ。

「よし、お咲。このサザンカの秘密を探し当ててみろ」

梅吉さんはそう言って、お咲が気づくのを待った。

お咲は、首を傾げながら、梅吉さんが触れた後のサザンカを注意深く観察した。確かに、見た目の形は整っているが、先ほどとはまるで違う。一本一本の枝が生き生きとして、葉が太陽を反射している。

そして、お咲は、梅吉さんが隠した手拭いを発見した。

「ああ、こんなところに」

手拭いは、枝の奥の奥、これまで光が届かなかったような場所に隠されていた。

梅吉さんは満足そうに笑い、落ちた枝の山を指差した。

「お咲よ。お前は外側だけを見て、人間が見た目に良いと思う形に整えた。だがな、植木職人は、植物を支配するんじゃなく、植物の命を助けるのが役目だ。この手拭いが隠れていた場所には、これまで十分に光も風も届いていなかった。内側の枝が邪魔をしてな」

「……」

「わしが切ったのは、外から見て見栄えが悪くなる枝じゃない。植物自身の健やかな成長を邪魔している枝だ。外の枝を切らなくても、内側の不要な枝を切るだけで、光が入り、風が通り、植物は元気を取り戻す。するとどうだい。外側だって、自然と生き生きとした形になるだろう」

梅吉さんは、手拭いを回収すると、それをパチンと払い、再び腰に下げた。

「植木はな、人間様に見てもらうためにあるんじゃない。そこに生きたいから生えているんだ。そして、わしらが切るのは、その生きたいという命の邪魔をしているものを、少し取り除いてあげる手助けなんだよ」

その梅吉さんの言葉は、お咲の心にストンと落ちた。それまでの「スピード重視」「形重視」の仕事観が、ガラガラと崩れ去った瞬間だった。植物の内側にこそ、真実がある。それは、人間の心にも通じることではないか。

「外側だけが整っていても、内側が病んでいたり、風通しが悪かったりすれば、いずれは枯れてしまう。サザンカに隠した秘密を探し当てたように、人間の心に隠された『秘密』も、外見だけでは見抜けん。内側をよく見てやることが、植木職人にも、人間にも大事なことなんだ」

それ以来、お咲は剪定をする時、必ず株の内側を覗き込み、風の通り道、光の道筋を意識するようになった。それは、事件の真相を見抜く時も、容疑者の心の奥底を覗き込む時も、お咲が常に意識するようになった「師匠の教え」の一つとなったのだ。

風の通り道、光の道。これって、植木だけじゃない。お咲はそう思った。

お咲は再び、目の前のサザンカの大株に意識を集中させた。

切り落とした枝を丁寧に集めながら、お咲の視線は、枝に付く葉の配置へと移った。手のひらほどの大きさの光沢のある緑の葉は、まるで正確な設計図に基づいて描かれたかのように、枝から互い違いに生えている。

これは自然界の調和の極み、「互生(ごせい)」という配置だ。一つの節から一枚の葉が出て、次の葉はその真反対ではなく、少しだけずれた位置から出る。さらに上の葉は、またその少しずれた位置から出る。この配置を繰り返すことで、葉と葉が重なり合うのを避け、すべての葉が効率よく太陽の光を浴びることができる。

「梅吉さんは、これを黄金比の螺旋(らせん)だって言っていたっけ」

お咲は、小さな声でつぶやいた。

太陽の光を独占する葉は一枚もない。上から下へ、互いに譲り合い、少しずつ場所をずらし、まるでダンスを踊るように螺旋を描きながら配置されている。この絶妙な配置こそが、植物が数億年の進化の中で見つけ出した、最も効率的で、最も美しい、生命の形なのだ。

「一枚の花びらが太陽を独占するのでなく、みんな少しずつ寄り添って、陽の光を栄養にする…サザンカは、そういう仕組みだ」

この調和の配置は、サザンカの花にも見られる。五枚の紅い花びらは、完璧な左右対称ではなく、ほんのわずか、角度をずらしながら並ぶ。その「ずれ」があるからこそ、花は立体的な奥行きを持ち、光を受けて陰影を生み、見る者に深い美しさを感じさせる。

梅吉さんが言っていた。

「サザンカの葉も花も、全部が助け合いの印だ。自然界に完璧な支配者なんていない。みんなが少しずつ光を分け合い、風を通し合うことで、全体が最も美しく、最も強く、最も長く生きられるんだ。庭も、世の中も、事件も、みんなこのサザンカと一緒だ。一人がすべてを奪おうとした時に、必ずどこかで綻びが生まれる。植木職人はその綻びを修復する。密偵は、その綻びを見つけ出す。それだけの違いさ」

梅吉さんは、このサザンカの葉の配置を、いつも「譲り合いの螺旋」と呼んでいた。

お咲は、師匠の教えを胸に、切り詰めるべき枝に再びハサミを向けた。それは、光を奪い、風を遮る、「独占欲」の権化のような枝だ。その枝を切ることは、残された全ての葉と花に、新しい命の息吹を分け与えることにつながる。

カチン、カチン、と心地よい金属音が響く。

サザンカの剪定が終盤に差し掛かった頃、お咲の耳に、垣根の向こうから、甲高い女性の声が届いた。お咲が手入れをしているのは、地域の名士である「片岡家」の屋敷だ。

「ありえないわ!あなたは自分のことしか考えていない。絶対に許さない!」

感情的で、切羽詰まった声だった。次に、低い、男性の苛立った声がそれに続いた。

「静かにしろ!近所に聞こえるだろう!」

二人の会話は、サザンカの密生した生垣が緩衝材となり、はっきりとした言葉までは聞き取れない。だが、その声のトーンから、激しい言い争いが繰り広げられているのは明らかだった。

お咲の脳裏に、先ほどの梅吉さんの教えが蘇った。今、垣根の向こうで起きていることは、まさに「譲り合いの螺旋」を破壊しようとする、人間の独占欲が生み出した不協和音ではないだろうか。

お咲はハサミを止め、聞き耳を立てた。植木職人の仕事柄、お咲は「見えないもの」を意識する癖がついている。枝の内側の病、土の中の根の詰まり、そして、この屋敷に充満する、静かだが確かな、不穏な空気。

会話はすぐに途切れた。男性が無理やり女性を連れ去ったのか、あるいは、屋敷の奥へと場所を移したのかもしれない。

静寂が戻った庭で、お咲は立ち上がった。

サザンカの株元に、最後に手を入れていたとき、その足元にある落ち葉の絨毯の中に、一際目立つ、小さなものが埋もれているのを見つけた。

それは、紅色のサザンカの花びらや、乾いた楓の葉に交じって、鈍く光る破片だった。

お咲は手袋を外し、人差し指と親指でそれを拾い上げた。長さ一センチにも満たない、しかし、確かに何かを加工した際に生じたような、わずかにねじれた、光沢のある薄い破片。

(これは…なんだろう)

植木の手入れ中に、庭師が扱うものではない。サザンカの葉や花、土の色とは全く異なる、異質な輝きを放っている。お咲はこれを小さな手拭いに包み、大事に仕事着の懐にしまった。

この美しいサザンカの「譲り合いの螺旋」の足元で、拾われた、たった一つの独占と争いの残骸。

その時、お咲はまだ知らなかった。隣の屋敷、清水家でこれから起こる事件の、最初の証拠を、今、この手に握ってしまったことを。そして、その屋敷の人間たちが、サザンカの教える「黄金比」とは真逆の、「すべてを独り占めしようとする心の病」に冒されていることを。

お咲の視線は、再び、垣根の向こう側、清水家の屋敷へと向けられた。

片岡家の庭の剪定作業を終え、お咲は次の現場へと向かった。次に手入れを依頼されているのは、旧家が点在する丘陵地の一角にある、下屋敷だ。ここもまた、大きな庭を持つ家だったが、清水家のような格式ばった雰囲気はない。

十一 ススキ

清水家のお屋敷の庭の一番奥まった場所に、秋の終わりを告げるように、ススキ(薄)の群生があった。

風に揺れるススキの群れは、何とも言えない物寂しい美しさを醸し出している。陽光を浴びた穂は、銀色の微細な毛を揺らし、まるで無数の小さな炎が揺らめいているかのようだ。

お咲は、そっとススキの群れに近づいた。

多くの庭では、ススキは雑草として扱われがちだ。しかし、この家のご主人は、この風情ある穂の美しさを理解し、あえて庭の一部として残している。お咲の仕事は、枯れた茎や、群生を乱す余分な株を取り除き、来年の春にまた美しい姿を見せるための準備をすることだ。

お咲は、深く息を吸い込んだ。晩秋の空気は、遠い土の匂いと、微かな枯れ葉の香りが混ざり合って、鼻の奥をくすぐる。

「ススキは、ただの穂じゃない。光を編む者だ」

梅吉さんはいつもそう言っていた。

穂の一本一本は細く、頼りないが、群れとなって風に揺れるとき、太陽の光を捕まえて、まるで一枚の光の布を織り上げているように見える。その輝きは、季節が移りゆくことの切なさ、そして、冬が来る前の最後のきらめきを象徴しているようだった。

ススキを見るたびに、お咲は決まって梅吉さんとのある日の光景を思い出す。

あれは、お咲が植木職人の道を歩み始めて間もない、十七歳の頃の秋だった。

梅吉さんの仕事は、時として芸術的なひらめきに満ちていた。ある日、彼は仕事で訪れた古い神社で、大量に刈り取られたススキの穂を前に、にこにこ笑っていた。

「お咲、今日はススキで、お客さんをびっくりさせてやろう」

梅吉さんは、そう言うやいなや、刈り取ったススキの穂の中から、特に美しく、毛並みの良いものだけを選び始めた。そして、それを器用に束ね、太い縄でしっかりと固定した。

「お客さんをびっくり、ですか」お咲は首を傾げた。

「ああ。わしらは、単に木を切るだけじゃない。季節を運ぶのが仕事だ。お客さんが、自分の庭に無い季節の風情を求めていらっしゃるなら、それをそっくり届けてやればいい」

そう言って梅吉さんは、そのススキの束を、そのお屋敷の門前に飾られた、古風な大きな壺の中に入れ、さらにその周囲を、鮮やかな紅葉の落ち葉で飾った。

そして、梅吉さんはお咲に耳打ちした。

「お咲、目を閉じろ」

お咲は言われた通り、目を閉じた。

「いいか。目を閉じると、外の景色は見えん。お前が信じるのは、音と匂いと心だけだ」

梅吉さんは、近くに置いてあった竹箒を手に取ると、ススキの束の根元を、シャッ、シャッ、と軽く叩き始めた。

その音は、まるで、広大な野原に立つススキが、風に揺れている音にそっくりだった。都会の喧騒の中にいるはずなのに、お咲の耳には、竹箒の音が、荒涼とした秋の風となって響いた。

「どうだ、お咲。今、お前が立っているのは、どこだ?」

「……野原です。目の前に、一面のススキがあります」お咲は思わず答えた。

「そうだろう。ススキは、音でもって季節を呼ぶんだ。そして、この穂の匂い、遠くから漂ってくる枯れ草の匂い。これが、お客さんの記憶の中にある秋を呼び覚ます」

梅吉さんは、ススキの穂を一本引き抜くと、お咲の鼻先に近づけた。

「目を開けても、このススキはお屋敷の門前にあるただの飾りだ。だが、目を閉じて、その音と匂いを心で感じれば、そこはもう故郷の野原なんだよ。わしらは、お客さんの心に、その風景を植え付ける。これが、植木職人の魔法だ」

梅吉さんは、その時も満面の笑みを浮かべていた。その仕事は、単なる造園や剪定ではなく、人々の心に寄り添い、失われた季節の記憶を蘇らせる、まるで魔法使いのような行為だった。

お咲は作業を進めるうちに、ススキの群生の中心近くで、妙に土が盛り上がっている部分があることに気づいた。まるで誰かが、つい最近、この群生の中を掘り返したかのような形跡だ。

(こんな所に……?)

お咲は不思議に思い、手の平サイズの移植ごてを使って、その盛り上がった土をそっと掘ってみた。ススキの根は複雑に絡み合っているが、そこには比較的簡単にクワが入っていった。

掘り進めること数寸(すん)。移植ごての先に、硬く、乾いたものが当たった。

お咲は、絡みついた土と根を払いながら、それを慎重に取り出した。それは、丁寧に節が処理された、手のひらに収まるほどの小さな竹筒だった。竹は古びて茶色く変色しており、両端は木蓋でしっかりと密閉されている。

この竹筒が、なぜ庭のススキの根元に埋められていたのか。

お咲は周囲を見回した。邸宅は静まり返っており、人の気配はない。片岡家の庭で見つけた不自然な細工物といい、どうもこの辺りの家は、庭に隠し事が多すぎる。

お咲は、竹筒を懐にそっと仕舞うつもりだったが、その密閉された蓋の間に、わずかな隙間があることに気づいた。好奇心に抗えず、周囲に誰もいないことを確認し、そっと木蓋の一つをこじ開けた。

古びた竹筒の中から、黴臭い匂いと共に、油紙に幾重にも包まれた小さな包みが出てきた。お咲は包みを開き、中身を取り出した。

一つは、手のひら大の小さな絹の紙に描かれた肖像画だった。

描かれているのは、若い女性の顔だ。その描き方は、線は細く、色彩は控えめだが、その人の持つ気品と美しさが際立っている。まさに、格式ある狩野派の筆致を感じさせる、清美な出来栄えだった。女性のまなざしはどこか憂いを帯びている。どこかで見たことがある。そう思った。

そして、その絵に描かれている女性と、もう一つの包みの中に入っていた短冊。

短冊には、美しい筆文字で、古い和歌が記されていた。

古(いにしえ)に 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしやなきし 我がおもへる如(ごと)

(ああ、これは……万葉集の額田王の和歌)

お咲は、その和歌の意味を静かに反芻した。 「昔の人を恋い慕って鳴いているという、あのホトトギスは、ひょっとすると私がいまあなたを思っているのと同じように、誰かを思って鳴いていたのでしょうか」

これは、時代を超えた深い恋慕を歌った、あまりにも有名な歌だ。そして、この肖像画に描かれた女性の表情と、この和歌が完璧に一致している。

そして、その肖像画の女性が、清水家の主人が、深く愛した女性に違いないという予感が、お咲の胸を突き刺した。あの激しい言い争いの原因は、これだったのか。それにしても、なぜか見覚えがある女性の顔だ。お咲はそう思った。

お咲は、竹筒の底に、もう一つ、白い粉末が入った小さな薬袋が隠されているのを見つけた。匂いを嗅いでも、お咲には何の粉末か判別できない。だが、薬袋の隅には、「御馬預(おうまあずかり)」の文字が、わずかに滲んで残されていた。

(御馬預……吉宗公の時代、重要な役目である。そして、馬……)

お咲の胸に、強い予感が湧き上がった。この清水家の秘密、隠された恋、そして、白い粉末に記された「御馬預」の文字。

お咲は竹筒を油紙に包み直し、再びススキの根元に埋め戻した。手がかりを勝手に持ち出すわけにはいかない。しかし、この事実を知った以上、このまま引き下がるわけにもいかない。

享保の改革を進める八代将軍吉宗公は、江戸城下における火消し制度の改革や、目安箱の設置など、庶民のための政治を行った人物として知られるが、同時に馬術にも深い関心を持っていた。

御馬預とは、将軍家に献上される馬の管理や、牧場の監督を任される重要な役職であり、幕府の要人たちが就く職だ。清水家がもし、この「御馬預」と何らかの繋がりを持つならば、事態は単なる痴情のもつれでは済まされない。

(あの白い粉末は、毒なのか、それとも、馬に与える秘薬なのか……)

梅吉さんはかつて言っていた。

「お咲よ。人が一番隠したいもんは、金と欲だ。そして、それが絡み合うと、大抵は恐ろしい事件になる。植木の『病』と一緒だ。根っこを掘り起こさなきゃ、全貌は見えん」

お咲は、ススキの群生を見つめた。風に揺れる穂は、先ほどまでと変わらず、銀色の輝きを放っている。しかし、お咲の目には、その美しい姿が、何か隠された真実を秘めているように見えた。

この事件は、清水家の主人の過去の恋から始まり、幕府の重要な役職である「御馬預」の権力争い、そして、吉宗公の関わる馬にまつわる大きな騒動へと繋がっていくに違いない。お咲の勘が、そう告げていた。

陽が西に傾き、清水家の庭に赤みを帯びた長い影を落とす頃、お咲は帰途についた。

その夜、お咲が住む家の一角は、いつになく賑やかだった。

満月が空高く昇り、銀色の光を「植木屋お咲」の広い庭に降り注ぐ、美しい宵だ。お咲は、師匠である梅吉さんの墓前に供えた後、提灯を提げて、裏庭へと向かった。

そこには、お咲の家族、そして大切な仲間たちが全員集まっていた。

市之丞とさつきは、すでに囲炉裏端で酒を酌み交わしている。さつきの膝には、二人の子どもであるお花と竹松がちょこんと座り、団子を頬張っている。

「お咲おばあちゃん、お疲れさま。今年は本当に良い月だねえ」

さつきが朗らかな笑顔で迎えた。

「ええ、本当に。まるで、ススキの穂が輝いているみたい」

お咲は微笑みながら、そっと皆の輪に加わった。

少し遅れて、裏口から菊次郎と陽一郎が、酒と肴をそれぞれ手にして現れた。菊次郎は、お咲の夫であり、与力として江戸の治安を守る要職にある。陽一郎もまた同心として活躍の場を広げている。

「お咲。遅くなってすまない。最近、吉宗公の馬の献上の件で、評定所が妙に騒がしい。どうも、何やらきな臭い話があるようでな」

菊次郎の言葉に、お咲の心臓が小さく跳ねた。「馬の献上」。昼間、ススキの下で見つけた「御馬預」の文字と、恐ろしいほどに符合している。

そして、最後に、平賀源内が、ゆっくりと、皆の前に座った。源内は、幼い竹松と遊んでやりながら、ふと真面目な顔になる。

「お咲様、最近、清水様のお屋敷の近くを通りかかったんですが、ご家来さんがやけに慌てていましたよ。なんだか、蔵の帳簿が合わないとかで」

源内がもたらした、清水家の「金銭的な不和」の知らせは、過去の恋、権力争い、そして毒物疑惑という糸に、新たに「欲」という糸を撚り合わせた。

月光の下、温かい家族と仲間たちに囲まれながら、お咲の心は揺れ動いた。

(サザンカの教え、譲り合いの螺旋を壊した、人間の独占欲。そして、ススキの下に隠された、過去の真実とはなんだろう。解決の糸口はあるのだろうか。そっとしておいたほうがいいのだろうか)

お咲は、月を眺めた後に、夫、菊次郎の顔をそっと見上げた。まだ事件の全貌は話せないが、協力者として、必ず菊次郎の力を借りることになるだろう。

「ありがとう。さて、冷めないうちに団子を食べましょうか」

お咲は団子を一つ手に取り、月を見上げた。満月は丸く、欠けることなく、すべてを知っているかのように静かに輝いていた。

「うさぎさんにお団子あげたいな」

お花の愛らしい声が響き、古家家には笑いがこだました。

第二章

平賀源内の愉快な訪問

「お咲殿、いるかーい。いやはや、相変わらず良い庭だ。わたくしは、この庭に来る度、頭の奥の埃が全部払われるような気がする」

長屋の裏手に、平賀源内の陽気な声が響いた。この男が来ると、静かな長屋も、まるで祭りのように賑やかになる。お咲は剪定鋏を置き、笑顔で迎えに出た。

「源内さん、本日はどちらから。また新しい『エレキテル』でも作られたのですか?」

「ハハハ!エレキテルも良いが、今日はもっと面白いものを連れてきた。お前さん、蘭学の風を浴びたことはあるかい」

源内がそう言うと、その後ろから、体躯は立派だが、どこかひ弱そうで、凹凸のある顔つきの、見慣れない男が出てきた。

「この者が、吉宗公の馬輸入の件で、はるばるオランダからやってきたという指導員の一人、ヨハネスだ。蘭名が長すぎるので、ヨハさんと呼んでやってくれ」

ヨハネスと呼ばれた男は、大きな手で頭を掻き、日本流にお辞儀をして挨拶をした。

「こんにちは。私のおやくめ、馬。ふるさとでは農夫。日本の花、おもしろい」

「そうか。お咲は腕利きの植木職人だ。馬の知識はさておき、花の話なら、お前さんの方がずっと詳しかろう」源内が面白そうに言った。

お咲は、ヨハネスの素朴な情熱と、源内の好奇心旺盛な目に、すっかり引き込まれた。

「蘭国の植物学、ですか。それは面白そう」

平賀源内はなんでも面白がった。

ヨハネスは、お咲の庭に咲くサザンカや、裏庭の薬草を見て目を輝かせた。

単語ばかりを並べているが、意味は伝わる。

「おみごと。私の国、みるもの、ちがう。つよさ、ある」

実は平賀源内、オランダ語はあまり得意ではない。言葉を習っているより、そこに何が書いてあるのかを知りたい。それなら、直接オランダ人と話したほうが速い。源内は合理的に物事を考える質だった。

お咲は、この新しい出会いが、竹筒の「白い粉末」と「姫百合の悲劇」の真実を解き明かすための、重要な鍵となることを、まだ知る由もなかった。

その頃、お咲の親しい友人でもある青山二郎は、江戸城下を流れる隅田川のほとりで、深い憂鬱に沈んでいた。

次郎がずっと恋い慕っていた女性、お京さん。呉服問屋の娘。その名の通り、京美人のような美しさを持っていた。青山二郎は、いつか必ずお京さんを妻に迎えたいと願っていた。しかし、その願いは叶わなかった。お京さんは、親の命により、とある旗本の元へ嫁いでいったのだ。

「青山さん……二郎さん」

次郎は、遠くから自分を呼ぶ声に気づき、振り返った。そこに立っていたのは、別人のように痩せ細り、目元に深い影を宿したお京さんだった。

「お京さん!どうしたのだ。旗本様の屋敷に嫁に行かれたと聞いておったが」

お京は、青山二郎の問いに答えず、ただ力なく首を振った。

「もう……戻れません。わたくしは、もう穢れてしまいました」

綾の顔や腕には、目に見えて肌が荒れ、不自然な斑点が浮かんでいた。その様子から、二郎はすぐに察した。

梅毒。

嫁入りした旗本が、遊郭通いで得たその恐ろしい病を、お京にうつしてしまったのだ。そして、病が発覚するや否や、「家の恥」として、実家へ一方的に離縁されたのだろう。

「なんてことだ。そんな奴、許せるものか」二郎は怒りに拳を震わせた。

「二郎さん、お願いです。わたくしに構わないでください。あなたの未来を、穢したくありません。実家からも勘当されました。私は不浄の体です。近づかないでください」

お京はそう言って、逃げるように川岸を去ろうとしたが、体力は限界だった。小さな石につまずき、その場に倒れ込んでしまう。彼女の手には、小さな野草の束が握られていた。

二郎が駆け寄り、手を差し伸べたとき、お京は涙を流しながら、その手を拒絶した。

「ああ……どうか、近寄らないで、病がうつってしまう」

お京は、息絶える直前、弱々しく二郎を見つめた。その手からこぼれ落ちたのは、姫百合(ひめゆり)の可憐な花だった。

梅毒という名の暗い濁流が、一人の美しい女性の命を、いとも簡単に奪い去った。

二郎は、泣き叫ぶこともできず、ただ姫百合を抱きしめたお京の亡骸を前に、病の無慈悲さと、旗本の冷酷な仕打ちに対する、深い憤怒に打ち震えていた。

「お京さんの無念は……」

 二郎は自分の無力にただ涙するしかなかった。

青山二郎が体験した悲劇は、江戸を蝕む「国民病」の恐ろしさと、それを引き起こした上層階級の無責任さを浮き彫りにした。

一方、お咲は、陽気な源内と穏やかなヨハネスとの交流で、蘭国の植物学の知識を教えられ、知的好奇心を満たしていた。

早朝、お咲は、姫百合の株を慎重に抱え、清水家の広大な庭へと足を踏み入れた。

庭の中心には、樹齢百年を優に超える見上げるほど大きな黒松がそびえ立っていた

松の根元で、お咲を出迎えたのは、清水家の当主の実母、つまり大奥様であった。大奥様は気品ある老婦人であったが、その目元には深い悲しみの色を湛えていた。

「植木職人様。亡き嫁の供養のため、この松の根元に、せめて可憐な花を植えてやってほしいのです」大奥様は静かに指示した。

お咲は、姫百合を植え付け、土を掘り起こしていると、松の太い根の一部が、黒く変色し、腐敗していることに気づいた。その異臭は土の中に籠もっている。

(この松、根が腐っているわ。外見は立派なのに、内部は病に侵されている……)

お咲は、思い切って、大奥様に進言した。

「大奥様。申し訳ございませんが、この黒松は、根の一部がひどく腐り始めております。このままでは松全体が枯れ、屋敷に災いをもたらします。病の根を断ち切る『根切り』の作業が必要です」

大奥様は、お咲の言葉を聞き、静かに目を閉じた。

「……おっしゃる通りでございましょう。病は、外見だけを繕っても、内側から全てを蝕みます。そして、根を断たねば、永遠に消えることは御座いません」

大奥様のその言葉は、松の病だけでなく、息子(当主)の悪しき行いと、それが嫁にもたらした悲劇の根を断ちたいという、深い願いが込められているように聞こえた。

「植木職人様。どうか、この松を、そしてこの家を救うため、根切りをなさいませ。すべて、あなたのお見立て通りに」

お咲は、大奥様の承諾を得ると、早速、松の根を深く掘り起こす作業に入った。

翌朝、お咲は再び清水家を訪れ、松の根を掘り起こす本格的な作業に入った。土は深く、根は複雑に絡み合っている。腐敗した根を取り除く作業は、生木を切るよりもはるかに難しく、神経を使った。

作業が終盤に差し掛かった頃、腐った根の塊を土から引き抜いた瞬間、その根に絡まるようにして、小さな木札が埋もれているのを見つけた。木札は湿気で黒ずんでいるが、慎重に土を払い落とすと、誰かの名前と、漢方の「山帰来」という文字が、か細く刻まれているのが見えた。

お咲は木札を手に取り、眉根を寄せた。

(山帰来……これは、源内さんが仰っていた、梅毒に使われる東洋の薬。これがなぜ、腐った松の根元に……)

一瞬、思考が止まる。これは単なる薬のゴミではない。……。

お咲は、木札から手を離し、もう一度松の根元を見た。

「あの旗本は、白い粉の毒で妻を苦しませ、救いの手である山帰来まで、この松の根のように腐らせて捨てた……。この松の病は、清水家の主人の心だというのか」

お咲は、深く息を吐き、木札を丁寧に油紙に包み、懐に忍ばせた。この小さな木札は、冷酷な旗本の「悪意の証拠」ではないだろうか。

清水家での根切り作業を終えたお咲は、数日後、再度、清水家に庭の手入れで入った。表向きは、サザンカやカエデの「冬支度」という名目である。

お咲は、胸に確信を抱いていた。この屋敷には、深い闇が、必ずどこかの植木の下に埋まっている。

「さて、どこから攻めましょうか」

お咲は、愛用の剪定鋏をカチリと鳴らし、まずは松やカエデといった表の植木から手入れを始めた。しかし、その真の目的は、竹筒を見つけたススキの群生の奥、そして、白い粉薬の出所を探ることだ。

清水家の庭は、主人の几帳面さが表れたように、無駄なものがない。植木は形よく整えられ、落ち葉一つないほど掃き清められている。

(これほど整然とした庭に、なぜあの竹筒と、根付の細工物などという不自然なものが埋まっていたのだろう)

お咲は、庭師の目を細めて、植木の「内側」を見る。

「ああ、このヒイラギは少し日当たりが悪そうですわね。内部の枝を透かして、もう少し風を通してあげましょう」

そう言って、お咲は庭の奥、ススキの群生へと続く裏手へと向かった。植木の手入れは、人目につかない場所から始めるのが、植木職人の常道だ。

裏手に回ると、すぐそばに小さな厩(うまや)がある。清水家は普段、馬を飼っていないはずだが、そこには一頭の美しい駿馬が繋がれていた。その馬は毛並みが良く、通常の乗用馬とは格が違う。

「これは、噂の献上馬でしょうか」

お咲は、厩の周辺の土を掘り返す仕事を装いながら、馬の様子を観察した。馬の餌入れの隅には、僅かに薬の匂いが残っている。

「馬の病か、それとも……」

お咲は、厩の裏の植え込みで、根元が妙に緩んでいる一株のツツジを見つけた。ツツジの根元は、他の場所の土とは違い、つい最近、掘り返された痕跡があった。

(ここだわ。きっと、この周辺で何かを混ぜたり、隠したりしていたに違いない)

お咲は、周囲の目を気にしながら、ツツジの根元を、そっと掘り始めた。そして、埋められていたのは、掌サイズの小さな金属製の器だった。丁寧に拭き清められているが、底には微かな銀色の光沢が残っている。

「やはり、ここで何かの薬が調合されていたのね。馬の病治療と偽って、悪徳商人や御馬預の役人が、清水家と結託していた……」

お咲は、機知を利かせ、その器を自分の道具箱の底に、手早く隠した。

手がかりを掴んだお咲は、ススキの群生の奥へと向かう。

竹筒を掘り出した場所に戻り、お咲は、ススキの枯れた茎を取り除く作業を始めた。これは、植木職人として最も自然な行動だ。

「この辺りのススキは、少し密生しすぎましたわね。風通しを良くしてあげないと、病気になってしまいます」

そう言って、お咲は竹筒があった場所とは少しずれた、「譲り合いの螺旋」を最も無視して密集している場所の根元を、深く掘り始めた。

腐った土を丁寧に払い除けると、硬い土の塊の中から、古びた硯箱(すずりばこ)が出てきた。

(硯箱……文を書き、絵を描くためのもの)

お咲は、硯箱を抱えて、誰にも見られないよう、庭の隅の茂みへと移動した。

硯箱を開けると、中には竹筒から出てきたものと同様の和歌の短冊の束と、古びた手紙。そして、底には、金銭の貸借を示す証文の切れ端が押し込められていた。

お咲は、短冊と手紙を手に取り、ゆっくりと読み進めた。

手紙は、清水家の主人から、元妻に宛てたものだった。そこには、「この病が治れば、また戻ってきてくれ」という、言葉が並んでいた。

そして、最も重要なのは、証文の切れ端だった。そこには、「御馬預」の役職名と、高額な金銭、そして、「山帰来」という文字が明確に記されていた。山帰来は梅毒の有効な漢方薬と世間で言われていた。

お咲は、これらは、金と欲にまみれた犯罪の証拠ではないかと思った。

お咲は、集めた証拠を油紙に包み、懐に収めると、涼しい顔で再び庭へと戻った。

「さて、このカエデの枝ぶりは、もう少し優雅に整えましょうか」

お咲は、植木職人として何事もなかったかのように、軽やかに剪定を再開した。その手元からは、心地よい金属音が響いている。

数日後、お咲は再び清水家の庭へと足を踏み入れた。再婚相手の奥方が実家に帰ったとのことで、庭は見る影もなく荒れていた。清水家の主人、清水重隆の心の乱れが、そのまま庭に反映しているようだ。

「あら、このサザンカもカエデも、ひどくお疲れのようね」

お咲は、植木職人としての直感でそう感じた。手入れを拒否したために、枝は伸び放題、落ち葉は掃かれることもなく、風の通り道が完全に閉ざされている。

居間の障子の奥から、清水重隆のやつれた声が聞こえた。

「もういい。母上にはわかってもらえない、病は私だけの問題だ」

お咲はハッと息を飲んだ。この声は、先日の垣根越しの喧嘩の声とは違う。怒りではなく、諦めと絶望に満ちていた。

「病は私だけの問題…」

お咲は、ススキの根元から見つけた器を思い出した。彼は、かつて愛したお京のために、そして今、自分のために、この薬を使っている。誰もが毒とは知らず、必死に命を繋ごうとして。

お咲は、庭の隅にそびえる大きな梅の木に注目した。かつて梅吉さんが植えた、樹齢百年近い古木だ。その幹は力強く、冬の寒さに耐え、春に備えようとしている。

(梅の木は、自らの根を張って、病に耐える。でも、人間は……)

お咲は、剪定鋏を手に取り、大きく伸びた一本の枝を切り落とした。その作業は、まるで清水重隆の心の病の根を探るようだった。

その日の夕方、お咲の長屋で、源内、ヨハネス、そして青山二郎が集まった。

「お咲さん、あなたの話を聞いて、私たちが清水重隆を悪人として裁くのは酷だと感じました」青山二郎は、深くため息をついた。

「あなたの見つけた白い粉は、水銀化合物と判明しました。多くの者が藁にもすがる思いで求める薬です。彼の行動は、お京さんを裏切ったというより、時代の悲劇に巻き込まれた姿でしょう」

ヨハネスは、テーブルに広げられた水銀の調合器を見て、顔を曇らせた。

「ワタシの故郷、フランスとの戦い、家 焼かれた。生きるため、危険な道 選ぶ。オランダ商人、水銀の裏取引、国 繋ぐ。善 悪、言えない」

ヨハネスのとぎれとぎれの言葉は、お咲に、この事件の根源が個人の悪意ではなく、時代の飢餓と絶望にあることを教えてくれた。

お咲は、懐から取り出したジャガイモの小さな種芋を、皆の前にそっと置いた。

「病は、薬で治すしかありません。しかし、私たち植木職人には、飢えという、もう一つの病と戦う使命があります」

「これは、何ですか」源内が目を輝かせた。

「ジャガタライモ、ジャガイモです。荒れた土地でも育つ植物です。これを広めれば、飢饉を乗り越えられるかもしれない。薬の闇があるなら、私たちは、命を繋ぐ光を広めるのです」

お咲は、ジャガイモの種芋を、力強く握りしめた。その感触は、梅の木の逞しい根の感触に似ていた。

翌日、お咲は再び清水家を訪れた。荒れ放題の庭の前に座り込み、手入れを再開しようとすると、障子の向こうから、重隆の弱々しい声がした。

「なぜ、まだいる。もう、私の庭などどうなってもいいだろう」

お咲は、鋏を置かず、淡々とした声で答えた。

「庭はどうなっても良いかもしれませんが、この梅の木は違います。この木は、これから来る厳冬に備えて、自ら幹に力を溜めています。ですが、伸び放題の枝が風を遮り、日の光を独占している。このままでは、冬の寒さに負け、花を咲かせることができません」

お咲は、清水家の裏庭に立つ、樹齢百年の梅の古木に目を向けた。この梅は、清水重隆にとって、かつて愛したお京と過ごした思い出の象徴に違いない。

「清水様。私は、あなたが使われた水銀の薬が、当時の最善の道だったと信じています。それは、誰の悪意でもなく、病と戦うための時代の必死さです。ですが、あなたは今、ご自身の心を病ませ、さらに、この梅の木を苦しませている」

お咲は、梅の枝を指差した。

「この梅の木は、決してあなたを恨んでなどいません。ただ、生きようとしている。その生きる力を、人間が奪ってはいけないのです」

清水重隆は、しばらく沈黙した後、ガラリと障子を開けた。その顔はやつれ、目元には深いクマができていたが、その眼差しには、微かな光が戻っていた。

「……植木職人よ。私の心はもう枯れている。お前がいくら枝を切っても、元には戻らん」

「いいえ。梅の木は、切れば切るほど、幹に力を溜めます。そして、切られた枝の断面から、新しい芽を出す。それは、再生の希望です」

お咲は、鋏を手に取り、大胆に、しかし愛情を持って、梅の木の古く、日の当たらない枝を切り落とし始めた。

カチリ、カチリ。その音は、清水重隆の心を覆っていた硬い殻を、一枚ずつ剥がしていくようだった。

梅の木の剪定を終えた日の夕刻、お咲は、水銀の調合器や硯箱といった証拠を伏せたまま、清水重隆に一つの提案をした。

「清水様。私は、あなたを裁くために来たのではありません。あなたを、そして、あなたと同じように絶望の中にいる多くの人々を、生きさせるために参りました」

お咲は、懐から取り出したジャガイモの種芋を、清水の前に静かに置いた。

「この芋は、蘭国から伝わったジャガタライモ。荒れた土地でも育ち、一つ植えれば、百にも千にもなる、命を繋ぐ光です。飢饉が囁かれる今、この芋を普及させることは、公儀への何物にも代えがたい手柄となります」

清水重隆は、種芋を怪訝な顔で見た。

「それが、私の罪と何の関係がある」

「大いに関係あります。あなたは、お京さんのために、毒を知らずに手に入れました。その道筋を、公儀の信頼に関わる者(御馬預)が悪用し、私腹を肥やしています」

お咲は、菊次郎に託した金銭の証文と御馬預の情報を、遠回しに示唆した。

「私は、あなたの過去の過ちを、法で裁くことはしません。ですが、あなたには、法を超えた贖罪をしていただきたい。あなたの持つ長崎の商人との繋がりを使い、このジャガイモを大量に仕入れ、救荒作物として飢饉に苦しむ人々へ広めてほしいのです」

清水重隆は、お咲の眼差しに、一切の私欲がないことを悟った。それは、法ではなく、生命の価値を問う、植木職人からの厳しくも温かい裁きだった。

「わかった……。私は、自分のために水銀を使い、人の命を脅かした。今度は、ジャガタライモという命の光を広めて、罪を償おう」

清水重隆は、立ち上がり、深々と頭を下げた。彼の心に、梅の木の新しい枝のように、再生の力が宿った瞬間だった。

その夜、お咲の長屋。菊次郎は、清水家から得た水銀密輸の証拠を前に、苦渋の決断をしていた。

「お咲。この証拠で、清水重隆を、そして背後にいる御馬預の役人、大沼を法廷に引きずり出すことはできる。だが、公儀への献上品の流れが密貿易に使われたとなれば、公儀の威信は地に落ちる。そして何より、水銀が毒であるという事実が広まれば、庶民は恐怖と混乱を起こす」

「法は、常に世を治めるためにある。ですが、生命は、法を超えて尊いものです」お咲は言った。

菊次郎は、妻の目を見て、決意した。

「わかった。私は、大沼の悪事を公儀の裏で完全に断ち切る。そして、清水重隆には、ジャガタライモ普及という、命を繋ぐ贖罪を命じよう」

法という刀を握る菊次郎と、命の根を掘り起こすお咲。二人は、法と生命、それぞれの使命を全うすることで、事件の闇を断ち切り、新たな未来を選択した。

数ヶ月後、春。

お咲と清水重隆の尽力により、ジャガイモは飢饉対策の切り札として、江戸城下から少しずつ広まり始めていた。清水重隆は、長崎商人を使い、贖罪の念を持って、大量の種芋を流通させている。彼の表情には、かつての陰りはなく、梅の古木のように、力強い再生の光が宿っていた。

お咲は、荒れた土地に、白い小さな花を咲かせ始めたジャガイモ畑の前に立っていた。

白い花は、梅毒で命を落としたお京が手にしていた、姫百合の可憐さにも似ている。しかし、その根元には、飢えと病に苦しむ多くの人々の命を救う、逞しいジャガイモの根が張っている。

お咲は、心の中で、梅吉さんに語りかけた。

「師匠。私たちは、独占の毒ではなく、譲り合いの光を選びました。この白い花は、お京さんの鎮魂であり、そして、江戸の未来への希望の印です」

蘭国の風とジャガイモの根

その日、お咲は、清水家の荒れた庭の手入れを続けていた。そこに平賀源内に連れられたヨハネスが再びやってきた。

ヨハネスは、お咲の剪定技術に興味津々で、日本の庭園を熱心に観察していた。

「にほんじん、すごい。花 愛す」

お咲が作業の手を休め、茶を勧める。二人は、梅の木の再生について語り合った後、ヨハネスは突然、身振り手振りを交えて、母国の話をし始めた。

ヨハネスは、語尾や助詞、敬語といった日本語の複雑な規則をまだ理解できていないため、まるで詩のように単語を並べる。しかし、お咲にはその言葉の一つ一つが、鮮明な景色となって伝わってきた。

「オランダ、まずしい。ひくい土地、すぐ水がくる。スペイン、フランス、強い。オランダ、弱い」

お咲は、ヨハネスのとつとつとした、語尾も接続語もない会話を静かに聞いていた。そして、海面よりも低い土地で、常に水害の脅威に晒されながらも、強大な隣国に囲まれて必死に生きる、オランダの悲壮な風景をありありと想像した。その必死さは、この江戸の長屋で生きる庶民の懸命さと、どこか重なっていた。

ヨハネスは、ふと目を輝かせ、庭を見渡した。

「にほん、すばらしい。たたかい、ない」

お咲は、ヨハネスが「争いがない平和」を、どれほど貴く感じているかを理解した。

さらにヨハネスは、慎重に周囲を見回してから、小さな声で続けた。

「オランダ、しゅうきょう。キリスト、ある」

お咲は驚きで息を飲んだ。キリスト教は、この国では厳しく禁止されている。幕府の役人、まして異国人が、自らその名を口にするなど、考えられないことだった。なぜ幕府は、このオランダ人を裁かないのか。

ヨハネスは、お咲の驚きを察したように、ゆっくりと説明を加えた。

「しょうぐんさま、カトリックとプロテスタント、よく知っていた」

お咲は、キリスト教のことは何も知らない。というより、その情報すら、危険な文書として恐れられていた。だが、将軍徳川家康が、イギリス人ウィリアム・アダムスなどから、カトリックを信奉するスペインと、プロテスタントのオランダの対立を早くから把握していたという話は、蘭学者を通して聞いていた。

「カトリック、ふきゅう。プロテスタント、しない」

お咲は、ヨハネスの言葉を繋げた。

(将軍様は、カトリックが布教を通じて国を乗っ取ることを恐れ、プロテスタントのオランダとは、交易のみを許したのだ)

ヨハネスは、さらにその理由を付け加えるように、手のひらに円を描いた。

「オランダ、銀がほしい。独立、お金」

ヨハネスが言うのは、まさに国を懸けた悲願だった。当時のオランダ(ネーデルランド連邦共和国)は、スペインの支配から独立するため、多大な軍資金を必要としていた。東方の島国にある石見銀山の銀は、彼らにとって喉から手が出るほど貴重な独立資金だった。

お咲は悟った。彼らは、宗教よりも国家の独立という悲願を胸に、銀を求め、遥か東方の島国にやって来た。野心家であると同時に、祖国を他国の法から解放したいという愛国心に燃えているのだ。

「ヨハネスさん……」

ヨハネスは、支配されることの恐怖、他国の法に従う屈辱、そして「地獄に落ちる」といった死後の支配から国を救いたい一心だった。その勇気と愛国心に、お咲の目頭は熱くなった。

ヨハネスは、自分の身の上話へと移った。

「私、まずしい農家。家、焼かれた」

やはり、彼もまた、戦火の中ですべてを失った一人だった。そして、その極度の貧困と絶望から彼を救ったのが、ジャガイモだったと語った。

「ジャガイモ、ありがたい。長い航海、病気、治る」

ヨハネスは、長い航海の中で多くの水夫が病に倒れる中、ジャガイモのおかげで、自分は病気にならずに済んだと話した。ジャガイモは、荒れた土地でも育つだけでなく、命を繋ぐ栄養を豊富に含んでいるのだ。

お咲は、この話を聞き、改めて決意を固めた。

清水重隆が密輸した水銀が「死の病」を広める毒だとしたら、ヨハネスが命懸けで伝えてくれたジャガイモこそが、飢饉というもう一つの病から民を救う「命の根」だ。

お咲は、ジャガイモ普及の使命が、単なる救荒対策ではなく、「毒の時代」を終わらせ、「命の時代」を始めるための、植木職人としての最も大切な仕事だと強く認識した。

権力者の末路:御馬預・大沼

最も重い罪を負うのは、御馬預の筆頭であった大沼。彼は、公儀への献上品と偽り蘭国から水銀化合物を密輸、梅毒の薬として闇に流すことで巨額の利益を得ていた。

菊次郎は、彼の不正の証拠を握り、密かに公儀の裏で大沼を断罪した。

大沼の動機は、際限のない金銭欲と、権力の独占。彼は、自分が公儀の要職にあることを笠に着て、弱き者を食い物にした。しかし、その権力の「根」は、腐りきっていた。

お咲は、菊次郎の報告を黙って聞いた。

「大沼は、まるで内側から腐った松の根。外見は立派でも、その病はすべてを枯らしてしまう」

清水重隆の再生

清水重隆は、水銀の毒が当時の最善の薬であり、彼自身の行動は時代と病の悲劇であったとしても、お京の死とその後の闇取引に加担した罪は消えないことを知っていた。

彼が取り組んだのは、お咲が提案したジャガイモ(ジャガタライモ)の普及です。彼は、長崎商人との取引は、私腹を肥やすためではなく、命を救うために使い始めた。

お咲は、清水家の剪定を終えた梅の古木を見上げた。冬の寒さに耐えた梅は、切り落とされた枝の断面から、力強く新しい芽を出し始めている。

「清水様。梅は、切られた傷を乗り越えてこそ、立派な花を咲かせます。あなたの過去は消えませんが、その贖罪は、これから咲く命の花となって実を結ぶでしょう」

清水重隆の苦悩は、愛する者を救えない無力感と、その結果として毒に手を染めた罪悪感だった。彼の再生は、「毒」を扱った手が、今度は「生命の根」を植えることに使われることで、成就し始めた。

お咲は、一人でジャガイモの普及を進めたわけではない。

陽一郎は、同心としての情報網を使って、ジャガイモを最も必要としている飢餓の危険性が高い村々の情報を集めた。

市之丞は、ジャガイモの輸送や流通の道筋を確保し、清水重隆の商売を手助けしました。

お咲の仲間たちは、法では裁けない人々の心の病を、優しさと協力という形で癒していった。

やがて春が深まり、江戸の荒れた河川敷や、痩せた畑に植えられたジャガイモの畑が、一斉に白い小さな花を咲かせ始めた 。

このジャガイモの白い花は、梅毒の悲劇で亡くなったお京が最後に手にした姫百合の可憐な姿と重なる。

しかし、姫百合が悲劇の象徴だったのに対し、ジャガイモの白い花は、その下に飢餓から人々を救う、生命力に満ちた種芋を宿している。

お咲は、ヨハネスと共にその花畑の前に立った。

「ヨハさん。この花は、争いのない平和を求めるあなたの国と同じです。そして、生命の強さの証です」

「たたかい、ない。みらい、あかるい」ヨハネスは、目に涙を浮かべながら、片言の日本語で、深く頷いた。

梅雨前の、静かで穏やかな夕刻。お咲の長屋の裏庭では、事件の重い空気がすっかり消え、いつもの温かい時間が流れていた。

清水重隆が贖罪の協力を始めてから、数ヶ月が経っていた。彼の協力を得て、ジャガイモの種芋は着々と全国へと広がり始めている。彼の庭の梅の古木は、見事に再生し、緑の葉を茂らせていた。

お咲は、庭の隅で、梅吉さんの小さな墓石に水をやっていた。

「師匠。あの梅毒の悲劇は終わりました。毒の闇は法で断ち切られ、そして、命の根はジャガイモという形で、江戸の土に張られましたよ」

その傍らには、竹松が座り込み、小さなバケツに入れたジャガイモの種芋を、大事そうに選別している。彼の表情は真剣で、お咲の背中を、着実に追っていることが見て取れた。

「お咲おばあちゃん、この芋は、本当に丈夫だね。こんな小さな種芋から、たくさんの命が生まれるんだから、本当に不思議な仕事だ」竹松が素直な感動を口にした。

縁側では、平賀源内が、お咲の夫である菊次郎と熱心に話し込んでいる。彼らの手元には、ジャガイモの栽培方法を描いた蘭国の図鑑と、日本の気候に合わせた改良案が広げられていた。

「ハハハ!菊次郎殿。お咲のおかげで、わしらは毒の闇を暴いた上に、このジャガイモという素晴らしい宝を手に入れた。蘭学の知識は、人殺しのためではなく、命を救うために使われるべきだ。そうだろう」源内は愉快そうに笑った。

「もちろんです、源内さん。法は人の世を治めますが、あなたの知恵は、人の命を救う。公儀の役人として、感謝いたします」

菊次郎は、事件を通じて、法が届かない「時代の病」があること、そして、それを救うには蘭学や植木の知恵が不可欠であることを痛感していた。彼は今、大沼の不正を断ち切り、江戸の裏側を清めたことで、心から穏やかになっていた。

裏庭の喧騒から少し離れた台所では、さつきが夕餉の準備をしていた。その傍らには、市之丞が座って、子どもたち――お花と竹松――の宿題を見てやっている。

「市之丞さん、このジャガイモの煮物、美味しいわよ」さつきが朗らかな声で笑った。

「ああ。まさか、お咲殿の庭仕事が、飢饉から江戸を救うとはな。まったく、敵わん」市之丞はお咲の活躍を心から誇らしく思っていた。

夕餉が整い、皆が囲炉裏の周りに集まる。市之丞が、お咲に尋ねた。

「お咲おばあちゃん。ジャガイモの白い花が咲いたら、今度はどんな不思議な事件が起こるのかな」

その問いかけに、皆が顔を見合わせて笑った。

お咲は、温かい団欒の中で、夫の菊次郎と、友の青山二郎(彼は今、亡きお京さんの代わりに、蘭学の知識を活かして、公儀の医師たちに梅毒の真実を伝え始めていた)の顔を順に見つめた。

「そうね、市之丞。命の根がしっかりと張った後には、きっとまた、新しい謎の芽が出てくるものよ」

お咲は微笑んだ。この江戸の町に、生命の根が張る限り、人間の心がある限り、彼女の植木職人としての事件は、これからも続いていくだろう。

温かい湯気が立ち上る囲炉裏端で、お咲は次の事件への静かな予感を抱きながら、家族と仲間たちの笑顔に包まれていた。

お江戸: 全国植木市

五月晴れの空は、瑠璃色をとかしたように深く澄み渡り、一点の雲もない。その青い海を、トビが一筋の弧を描きながら、悠然と風に乗っている。草木を揺らす風は爽やかで、初夏の香りを運んでいた。

将軍・徳川吉宗公の命により開催された「 お江戸:全国植木市」は、もはや単なる植木市ではなかった。それは、日本全国の特産物、農の知恵、工芸品、そして人の交流を一堂に集めた、江戸版の「万国博覧会」と呼ぶべき大催し物だった。

隅田川のほとりの広大な敷地は、全国の藩や有力商人によって設営された仮設の小屋や、地方色豊かな屋台で埋め尽くされていた。武士、商人、農民、職人、そして蘭学者まで、あらゆる身分の人々が入り乱れ、地方の方言と商品の叫び声が混ざり合い、熱気となって空に立ち上っていた。

お咲たち「植花」の持ち場は、敷地の隅、あえて目立たない場所に設けられた。

「母上、こんな賑やかな場所、前回よりもずっとすごいよ」

さつきは、華やかな着物姿で、持ち場の番をしながら目を輝かせた。彼女の隣では、夫、市之丞が、手配した植木の搬入を終え、汗を拭いている。

「ああ、今回はすごい。蝦夷地のアイヌの人々が持ってきた珍しい木の実から、薩摩の南国育ちの野菜まで、何でもある。これこそ、梅吉師匠が言っていた『譲り合いの縁』が集まった場所だ」市之丞も昔の清吉に戻って、興奮を隠せない様子だ。

お咲は、胸いっぱいにその熱気を吸い込んだ。ここには、金銭の欲だけでなく、生への情熱と知恵が溢れていた。

「植花」の展示場は、一見すると地味だった。美しく整えられた梅の古木(清水家の再生を象徴)を中央に、その周囲には、蘭国の植物図鑑の写しと、ジャガイモの栽培方法を描いた絵図が丁寧に並べられている。

「このジャガイモは、もう立派な植花の特産品ですね、母上!」

同心、陽一郎は、ジャガイモの種芋を丁寧に並べ、興味を持った農民たちに熱心に栽培方法を説明していた。清水重隆が贖罪として提供した大量の種芋は、すでに全国へ広がる最初の一歩を踏み出していた。

その横で、お咲は来場者一人一人に、梅毒の悲劇を通じて学んだ「根の病」と「再生の力」を静かに語りかけていた。

そこへ、騒々しい声を上げて近づいてきたのが、平賀源内だった。

「おーい、お咲殿。 ワシの小屋はあっちだ。お前たちの展示場は地味すぎるぞ」

源内の張見世は、敷地の中でもひときわ異彩を放っていた。蘭国から取り寄せた奇妙な道具や、自作のエレキテルが展示され、黒山の人だかりができている。

「お咲さん、これを見てくれ」

源内が指差したのは、大きなガラスの水槽だった。その中には、水の力で自動的に水を汲み上げ、小さな植物の鉢に供給する奇妙な装置が設置されていた。しかも、その中で金魚が泳いでいる。

「これは、蘭学の知識を使った自動水やり機だ。 忙しい植木職人も楽になる」

会場からは、歓声と笑い声が上がった。源内の展示は、いつも「面白く、役に立つ」という、蘭学の光を庶民に届けるための工夫に満ちていた。

その賑わいの中、お咲は源内の張見世の隅に、見覚えのない人物の姿を見つけた。

地方の農民らしき男が、源内の奇抜な展示には目もくれず、展示されていた蘭国の病害対策の図鑑を、食い入るように見ている。その男の腰には、見慣れない形の剪定鋏が提げられていた。

男は、図鑑から目を離すと、ふとお咲の展示場のジャガイモの絵図に気づき、静かに近づいてきた。

「これは…ジャガタライモ。貴女方が広めているという、救荒の光でございますか」

男の口調は丁寧だが、その目には、何か深い苦悩が宿っているように見えた。その鋏の形、そして植木に対する真剣な眼差しから、お咲は直感した。

(この人は、ただの農民ではない。植木職人だ。何か大きな病を抱えている……)

地方植木職人との出会い

「植花」の展示場に立つお咲は、平賀源内の派手な張見世の喧騒とは違う、ある種の静かな熱意を感じていた。それは、先ほど源内の見世で図鑑を見ていた、地方の植木職人らしき男が発する熱だった。

男は、お咲の持ち場にあるジャガイモの絵図を何度も見つめていたが、意を決したように声をかけてきた。

「このジャガタライモ……。貴女が広めていらっしゃる、救荒の光でございますか」

男は、その場に不釣り合いなほど丁寧な言葉遣いだった。提げている剪定鋏は、江戸では見かけない、細くしなやかな刃をしており、地方の独特な植木技術を窺わせる。

「ええ、そうです。荒れた土地でも育ち、命を繋ぐ芋ですよ。どちら様で?」

「私は、阿波藩の御用を務めます、松原と申します。植木職人ではありませんが、藩の薬草と染料の管理を任されております」

松原の顔には、どこか疲労の色が濃く、その目には、故郷で抱えている深刻な問題の影が宿っているようだった。

「阿波といえば、藍(あい)ですね。その美しい藍色で、江戸でも評判の染物です」

松原は力なく笑った。「藍は、この藩の命そのもの。ですが、藍を育てるための連作障害に悩まされておりまして……。土が病み、藍の葉が腐ってしまうのです。どれだけ手を尽くしても、根腐れが止まりません」

松原の苦悩は、お咲が清水家の庭で見た、人間の心の病と同じ匂いがした。植物の根腐れは、しばしば人の心の病を映し出す。

お咲は、松原に温かい茶を差し出し、阿波の藍の話を聞いた。

阿波藩の持ち場は、藍の美しい染料を展示していたが、松原の言葉からは、その美しさの裏にある、土と人々の苦闘が見えた。

「藍は、染料になるだけでなく、薬としても使われます。解毒作用や止血作用がある。しかし、その藍の生育のために、土はどんどん痩せ細っていく……」松原は肩を落とした。

お咲は、この話に、先の梅毒の事件と共通する「毒と薬の二面性」を感じた。

「藍は、人を癒す薬にもなれば、土を病ませる毒にもなる。まるで、水銀化合物のようですね。善か悪かは、その使いようと、そして、独占するかどうかで変わる」

お咲の言葉に、松原はハッとした表情になった。

「染料としての藍は、藩の独占事業です。農民たちは、連作障害に苦しみながらも、藩の命令で作り続けねばならない。土が病んでいるのは、まさに人の欲が土に毒を盛っている証拠かもしれません」

松原は、藩の重いしがらみの中で、植木職人お咲の自由な発想に救いを求めているようだった。

そこへ、南国の熱気をそのまま纏ったような薩摩藩の商人が、賑やかな声で二人の会話に加わってきた。彼らの持ち場は、黒砂糖と薩摩焼のガラス細工で飾られていた。

「おいおい、そんな暗い話はよせ!土が病んだら、南国の恵みで治せばよか!」

薩摩の商人は、黒砂糖を差し出した。

「松原さん、この黒砂糖は、薩摩の命の源じゃ!厳しい鉄の生産を支える、甘い命の源じゃ。土が病んだら、休ませればよか。そして、さつまいもや黒砂糖といった、別の作物で藩を潤せばよか」

薩摩は、幕府に隠れて密かに鉄を生産し、ガラス細工という新しい技術を取り入れていた。彼らの知恵と柔軟性は、阿波藩の藍の一点集中とは対照的だった。

お咲は、薩摩の展示物の中から、「さつまいも」の素朴な絵図を見つけた。

「薩摩のさつまいもは、荒れた土地を救う救荒作物ですね。藍の連作障害に悩む阿波の土を、このさつまいもや、私の広めるジャガイモで休ませてはいかがでしょう」

「土は、人を映す。土が病んだら、それは人間が欲張りすぎた証拠。別の命に、その場所を譲り、休ませてあげれば、必ず再生します」お咲は力強く言った。

松原は、黒砂糖の甘みを口にしながら、お咲と薩摩商人の言葉を胸に刻んだ。「独占」と「多様性」。阿波藩の土を救う道筋が、かすかに見えた瞬間だった。

阿波の藍と薩摩の黒砂糖の話が一段落した頃、今度は、肥後六花(ひごろっか)の優美な展示で知られる熊本藩の関係者が、お咲の持ち場に挨拶に来た。

彼らは、肥後菊、肥後花菖蒲、肥後椿といった、独特の美意識で育まれた花々を展示していた。

「この肥後六花は、武士の心意気を映します。華美に流れず、内に強さを秘める」熊本の関係者は誇らしげに語った。

お咲は、その肥後六花の抑制された美しさに、梅毒で亡くなったお京さんの姿を重ねた。

「内に秘めた強さ……」

お咲の言葉を聞き、山形藩の紅花問屋の関係者が、偶然近くを通りかかった。

「紅花は、水銀のような毒はないが、一匁の紅に、一匁の金という、血のような高値で取引される。これもまた、人々の金銭の欲に深く関わっている」

お咲は、この植木市が、単なる商品の陳列ではなく、各地の命と知恵、そして人間の欲望と苦悩が交錯する、「大地の縁」であることを改めて実感した。

吉宗と蘭学の展示

お咲たちが阿波や薩摩の商人との交流を終えた頃、平賀源内の張見世の方角から、再び人だかりが近づいてきた。

先頭に立っていたのは、蘭学者、青山二郎である。その後ろには、異国の知識を学んだ真面目な門弟たちが、緊張した面持ちで付き従っている。

そして、その一団の中に、ひときわ鋭い眼光を持つ、地味な紬の着物を着た若い役人がいた。彼こそが、吉宗公が素性を隠すために用いている偽名、徳田新之助である。吉宗は、自身が推進する蘭学の成果と、庶民の暮らしを密かに視察するために、青山次郎の下っ端という体で市に紛れ込んでいた。

「おや、青山君。そのお供の方は、蘭学館の新しい方かね?」源内が、徳田新之助を値踏みするように言った。

「これは源内殿。こちらは、蘭学館で薬草の管理を任せている徳田と申します」青山二郎は、緊張でやや硬い表情だったが、徳田新之助は落ち着き払っている。

徳田新之助は、源内の張見世に展示された自動水やり機や、蘭国の薬草の図鑑を鋭く観察した後、まっすぐにお咲の持ち場にあるジャガイモの絵図へと向かった。

「そちらのジャガタライモ。貴女方が飢饉対策として普及を試みているそうだが、本当に荒れた土地で育つのか。日本の土壌に根付く保証はあるのか」

徳田新之助の口調は、若い役人とは思えないほど重く、核心を突いていた。

お咲は、この若い役人から法と政治の限界に苦しむ者の影を感じ取った。

「ええ、保証はございます。この芋は、蘭国で、貧しい土地で生きる人々を救ってきた命の根。そして、私たち植木職人が、その根の生命力を信じて、手を尽くしています」

「しかし、飢饉に苦しむ民は、即効性を求める。この芋が育つまで待てるのか。政治は、常に時との戦いなのだ」

お咲は、徳田新之助の言葉を遮るように、梅の古木を指差した。

「政治は時との戦いかもしれませんが、命の再生には、ゆとりが必要です。この梅の木も、一度病んだ根を再生するには、何年もかかります。ですが、一度根が張れば、どんな嵐にも負けない。飢饉の病も同じです。今、希望の根を張らねば、未来永劫、飢餓に苦しむことになる」

お咲の「植木職人としての信念」に満ちた言葉は、将軍である徳田新之助の心に深く響いた。彼は、法や金で解決できない、庶民の「生きる力」の尊さを、改めて突きつけられたのだ。

その時、平賀源内が、二人の重い対話を破るように、高らかな声で叫んだ。

「おーい!堅苦しい話は終わりだ!蘭学の真髄は、面白く、役に立つことにある!」

源内は、自慢のエレキテル(摩擦起電機)の前に立ち、大きな奇術を始めた。彼は、エレキテルを動かし、摩擦で発生させた静電気の光を、銅線を通して遠くの植木の葉へと導いた。

「見よ!この光は、蘭学の知恵がもたらす、未来の光だ!この光があれば、人は病を打ち破り、暗闇から解放される!」

観衆は、源内のパフォーマンスに熱狂した。源内は、水銀の毒がもたらした闇を知っているからこそ、科学の力を、人々を楽しませ、希望を与える光として届けようとしていたのだ。

お咲は、源内の出し物を見つめ、静かに青山二郎に声をかけた。

「青山さん。源内さんは、『毒を薬に変える知恵』を、皆に教えているのですね」

青山二郎は、源内の姿と、その裏にあるお京さんの悲劇を思い出し、深く頷いた。

「ええ、水銀が毒と知られていなかった時代、私たちは無力でした。しかし、これからは違います。蘭学は、知識を光に変える力を持っています」

徳田新之助(吉宗公)は、エレキテルの光と、お咲の「希望の根」の話を聞き終えると、静かにお咲に語りかけた。

「植木職人よ。貴女の言う通り、命の再生には、ゆとりと信念が必要だ。このジャガイモの普及は、公儀として全力で後押しする」

彼の言葉は、公的な約束そのものだった。

そして、徳田新之助が立ち去ろうとしたその瞬間、彼は植花の持ち場に展示されていた梅の古木に、ふと目を留めた。その梅の幹には、病んだ根を断ち切られた傷跡が生々しく残っていた。

「この梅の木も、一度病んだのか。だが、力強く再生している……」

お咲は、それが清水重隆の贖罪の象徴であると察し、静かに頷いた。

その時、展示場の隅で遊んでいた竹松とお花が、源内の張見世の裏手から、小さな奇妙な土器の破片を拾い上げてきた。破片には、江戸では見たことのない、幾何学的な紋様が刻まれている。

「お咲おばあちゃん!これ、蘭学館の道具の破片かな?なんだか、すごく古そうだよ!」お花が目を輝かせた。

お咲は、その破片を一目見て、蘭学の道具とは違う、もっと古い、日本のどこかの風習に根差したものであることを直感した。

(この植木市には、過去から現代、そして未来へと繋がる、様々な縁(えにし)が集まっている)

東北と北陸の知恵

お咲、菊次郎、陽一郎、さつきの一行は、植木市の北側に位置する、東北・北陸地方の持ち場へと足を向けた。そこには、派手さはないが、厳しい自然の中で生き抜く人々の逞しい知恵が詰まっていた。

仙台藩の持ち場には、樽に詰められた味噌と、丁寧に干された鮭の製品が並んでいた。

「母上、これを見てちょうだい」

さつきが指差したのは、仙台味噌だった。地方の産物に詳しい彼女は言った。

「この味噌は、保存がきくことで有名よ。長い冬を越すための、命の貯蔵庫だわ」

お咲は、味噌の深い香りを嗅いだ。それは、一瞬の流行や利益を追うのではなく、長い年月を見据えて準備する、人々の堅実な心を表しているように感じられた。

越後・村上藩の持ち場にも、同じく鮭の製品が並ぶ。海から遠い江戸で、塩引き鮭や酒浸けの鮭は貴重な品だ。

菊次郎は、役人としての視点から語った。「法は、常に世の治安を守るためのもの。だが、凶作や飢饉の時、民の命を守るのは、この保存食の知恵だ。蘭学のジャガイモが未来の希望なら、これは先人から受け継いだ命の保険だ」

お咲は、ジャガイモの普及という新しい知恵が、これらの古い、確かな知恵と組み合わさってこそ、真の救荒対策となるのだと悟った。種を植えるだけでなく、その後の生活を支える「持続する力」が重要だった。

一行は、山形藩の紅花問屋の持ち場に立ち寄った。鮮やかな紅色に染められた反物が並ぶその一角は、存在感がひときわ目立っていた。

お咲は、紅花の赤を見つめ、静かに手を合わせた。

「この美しい紅のような色が、多くの人の装いや、薬となり、今も生きている」

紅花は、水銀のような毒と薬の二面性を持つ植物とは異なる。その価値は、美しさと引き換えに、血のような高値で取引される人の欲望に起因していた。

さつきもまた、しんみりとした表情で言った。「紅花の赤は、喜びの色であると同時に、欲望の色でもある。それを知っているからこそ、私たちはこの色を大切に扱わなければならない」

その紅花の華やかな強さとは対照的に、越前藩(福井)の和紙の持ち場は、地味ながらも、目を引く堅牢さがあった。

「これは、奉書紙(ほうしょがみ)と申します。公儀の重要な文書にも使われる、最も丈夫な和紙です」と、越前の職人が説明した。

お咲は、その和紙を手に取り、その繊維の強さに感銘を受けた。それは、簡単には破れない、人々の絆のように感じられた。

「この強さは、越後の小千谷縮(おぢやちぢみ)の麻糸の強さに似ていますね。冬の厳しい雪国で、丁寧に繊維を織り込み、命を繋いできた」

越後の長岡藩の持ち場からは、小千谷縮の美しい麻織物が展示されていた。ツツジの木を植えて、山火事から村を守ったというツツジの言い伝えを持つ越後。彼らは、自然の脅威と闘い、耐久性のある知恵を磨き上げてきたのだ。

お咲は、味噌や鮭の保存法、丈夫な和紙や織物、そして紅花の美しさを見て回り、一つの結論に達した。

「命を救うというのは、単にジャガイモという新しい種を植えるだけでは足りないのだわ」

陽一郎が、そのお咲の言葉の先を継いだ。「土を肥やす紅花の搾りかす、長い冬を耐え抜く味噌や鮭の知恵。そして、人々の心を繋ぎ止める丈夫な和紙や織物の技術。これらが、すべて合わさって、初めて国は飢えと病に耐えられる」

お咲は、深く頷いた。

梅毒の事件は、独占(清水重隆の秘密の薬、大沼の不正)が、闇を生んだ。しかし、この植木市に集まった多様な知恵と地方の繋がりこそが、光明を生む。

「法(菊次郎)は、大きな悪を裁く。蘭学(源内、青山)は、未来の光を示す。そして、植木(お咲)は、大地と人の知恵を交換し、一つに繋ぐ縁(えにし)を作る」

お咲は、植木職人として、この「大地の縁」を繋ぐことこそが、吉宗公が望む「生きた政治」であると確信した。

江戸の粋と錦蘭の秘めた力

植木市の最終日。お咲たちは、全国の知恵と熱意に触れ、充実感を覚えていた。

賑わいの名残を惜しむように、彼らはまだ見ていなかった持ち場を巡った。江戸の堀切の持ち場では、美しく咲き誇る**花菖蒲(はなしょうぶ)が展示されていた。

「これぞ、江戸の粋ですね。華美ではなく、端正な美しさ」菊次郎が、故郷の花を誇らしげに眺めた。

対照的に、彦根藩の持ち場は、小さな鉢植えの*錦蘭(きんらん)という、珍しい品種の蘭が静かに飾られていた。蘭は、高値で取引されることが多く、金銭の欲が絡みやすい花だ。

「この錦蘭も、美しいけれど、高すぎる。命の価値を、金で測ってはいけない」お咲は、静かに言った。

その傍ら、小田原藩の持ち場では、提灯職人が色鮮やかな提灯の制作実演を行い、蒲鉾(かまぼこ)の屋台からは香ばしい匂いが漂っていた。川越藩の持ち場には、川越いも(さつまいも)が山積みになっている。

「川越芋、薩摩芋、ジャガタライモ……。皆、命を繋ぐ芋だ。江戸の土に、新しい根がしっかりと張った証拠ですね」同心、陽一郎は、次の時代への変化を肌で感じていた。

人混みが少し落ち着いた頃、竹松とお花は、平賀源内の張見世の裏で、土に埋もれていた小さな破片を、夢中になって掘り起こしていた。その手には、先日の植花の持ち場で拾った土器の破片と同じものが握られている。

「ねえ、お咲おばあちゃん!また見つけたよ!蘭学館の道具じゃない、古い、古い破片だよ!」竹松が駆け寄ってきた。

お咲は、子どもたちが持ってきた破片を受け取り、驚きの声を上げた。

それは、先に発見したものと形と紋様が繋がる、一回り大きな土器の破片だった。破片には、縄文時代を思わせる、幾何学的な紋様が刻まれているが、その土器は素焼きではなく、高度に焼き固められた珍しい材質だった。

「これは……確かに、蘭学の道具や、江戸の焼き物ではない」平賀源内が興味津々で覗き込む。「この紋様は、何らかの祭祀に使われたものかもしれん。そして、この材質、これは相当に古い時代の技術だ」

源内は、その破片を不思議そうに見つめ、独り言のように言った。 「しかし、なぜ、こんな古いものが、蘭学の道具の近くや、この現代の植木市の土の中に埋もれているのだ……?」

お咲は、その土器の破片を、手のひらで転がした。

(水銀の毒が、未来の希望であるジャガイモに繋がったように、この古代の遺物もまた、何か新しい縁(えにし)を私に繋ごうとしているのかもしれない……)

植木市は、過去(古代の土器)から、現代(吉宗の政治、蘭学の知恵)、そして未来(ジャガイモの普及)へと、あらゆる時間と知恵を一つに結びつけたのだ。

菊次郎が、そっとお咲の隣に立ち、優しく言った。「お咲。この植木市は、大成功だ。法では変えられなかった人々の心に、希望の根を張ることができた。お前のおかげだ」

「いいえ、菊次郎さん。これは、全国の知恵と、命を大切に思う人々の絆のおかげ」

お咲は、笑顔で応え、胸元の懐に、その奇妙な土器の破片をそっとしまった。

夕暮れが迫り、全国植木市は静かに幕を閉じた。多種多様な人々が別れを惜しみ、次なる再会を誓い、それぞれの故郷へと戻っていく。

お咲の心には、ジャガイモの白い花のイメージと共に、古代の紋様を持つ土器の謎が、次なる物語の「芽」として、静かに埋められたのだった。

第三章 

二つの花の秘密

「土器の謎」として懐にしまったその破片は、薄い木片を貼り合わせた、手のひらに収まるほどの代物だ った。お咲は夜明け前の薄明かりの中、その破片を取り出し、指先でなぞった。

ふと、木片の裏側に、白い紙が張り付けられていることに気づく。和紙とは違う、ザラリとした紙。その紙の裏には、墨ではなく、異国の濃いインクで、乱れた字が走り書きされていた。

『おさきさま みらいの はな さかせて ヨハネス』

その紙は、全国植木市で出会ったオランダ商人、ヨハネスが別れ際に、言葉ではなく、奇妙な身振り手振りで懐に押し込んできたものだった。

その紙の間から、さらに小さな、芥子粒(けしつぶ)ほどの黒い種が、ころりと畳の上に転がり落ちた。

「未来の、花?」

お咲は、朝露のように小さなその種を、そっと掌に包んだ。異国の風と土の匂いが、微かに漂ってくる気がした。それは、鎖国という厚い壁の向こう側から、密かに届いた「遠い夢」の種だった。

しかし、お咲がその「夢」に心を奪われる間もなく、戸口からけたたましい声が響いた。

「お咲さん!お咲さん!開けてくれ!」

老花火職人、甚兵衛(じんべえ)の若い弟子だった。顔色は土気色に変わり、息を切らしている。

「親方が、もう、時間がねえって…!あの桔梗を、何としてでも…!」

お咲は、ヨハネスの種を再び懐の奥深くへ忍ばせ、迷いなく立ち上がった。

未来の夢はまだ静かに眠らせておく。今はまず、目の前の「過去の愛」に応えることが、植木職人お咲の務めだった。

老花火職人、甚兵衛にとって、その二色(ふたいろ)の桔梗は、単なる花ではなかった。それは、亡き妻・お清(きよ)との、激しくも静かな愛の記憶、そして、人生をかけた贖罪(しょくざい)の証だった。

桔梗の二色は、甚兵衛夫婦の姿そのものを映していた。

青い桔梗は、 甚兵衛が持つ職人としての燃えるような情熱(火)の象徴。それは、祭りごとに夜空を焦がす花火の青白い閃光であり、最高の火花を追い求める彼の激しい人生そのものだった。

白い桔梗は、 妻お清の、静かに甚兵衛の身を案じ続けた深い慈愛の心(水)の象徴。派手さはないが、暗闇の中でこそ際立つ清らかで揺るぎない愛を表していた。

甚兵衛は、若い頃、最高の花火を追い求め、昼夜を問わず工房に籠り、家族や妻の存在を顧みなかった時期があった。彼の青い情熱は、時に家族を焦がすほどの火花となり、お清を何度も悲しませた。

そのとき、お清は何も言わず、静かに二色桔梗を指差して諭した。

「甚兵衛さん。青い情熱も、白い優しさも、どちらか片方だけではいけない。この花が美しいのは、両方が寄り添い、互いの境目を曖昧にしながら咲いているから。両方あって、初めて美しいのですよ」

しかし、その大切な花は、いつしか途絶えてしまった。

甚兵衛にとって、その二色桔梗が咲かなくなってしまったことは、お清への償いがまだ済んでいない、許されていない証拠だった。このままでは、あの世でお清に再会したとき、夫として顔を合わせることもできないだろうと、彼は深く懺悔していた。

甚兵衛の最後の願いは、「永遠の愛を誓う」という感傷的なものではなかった。

それは、「あの二色桔梗をもう一度咲かせること」で、自分がようやく情熱と優しさの釣り合いが取れた証を立てることだった。その花を、祭りの夜空に打ち上げる最高の花火と共にお清に届け、「情熱と慈愛、どちらも大切にする」という新しい決意を、空の上の妻に伝えること。

彼の命の火が消えゆくなか、二色桔梗の再生は、甚兵衛にとって最後の職人としての使命であり、人生の完成そのものだった。

お咲は、甚兵衛の最後の願いを受けて立ち上がった。

「甚兵衛殿の願い、お引き受けしました。全力を尽くします」

老花火職人・甚兵衛の弟子からの知らせを聞いた翌朝。お咲は「二色桔梗」の再生を決意し、最初の手がかりを求めて、富沢町の古物商の加賀屋へ向かった。

富沢町は、江戸城近く、五街道の起点である日本橋のすぐそばにある。木綿問屋が立ち並ぶ江戸庶民の商いの町でもある。

富沢町の雑踏には、金銭が飛び交う熱と、新しい木綿のざわめきが充満していた。反物を積んだ大八車が石畳を軋ませる音、問屋の裏口で帳面を付ける丁稚の算盤の音。お咲は、この濁流に流されないよう、肩を寄せ合いながら歩を進めた。加賀屋の軒先だけが、その喧騒から一歩引いた、古びた静けさを保っていた。

富沢町の加賀屋は、古びた道具から、異国の珍しい絵付け皿まで、時代と場所をまぜこぜにしたような品がひしめき合っている。店の奥に鎮座するご隠居は、火鉢の煙の向こうで、茶を啜っていた。

「おや、お咲さんかい。久しいねぇ。全国植木市の手柄話でも聞かせに来たのかい?」

加賀屋のご隠居は、若い頃は全国の蔵屋敷を回った行商人で、その知識はさながら「生きた図譜」だ。

お咲は、胸の内の切実さを押し隠し、椿の花と手土産を差し出した。

「ご無沙汰しております。この猛暑でございますから、さぞお疲れかと。こちらは、ご隠居様のお口に合うようにと選んでまいりました水羊羹でございます。そして、庭でこっそり育った薄荷(はっか)の葉も少々。どうか、この葉で涼風を呼んでいただき、つるりと召し上がって、お知恵を拝借できれば、この上ない幸いに存じます。」

ご隠居は、深々と刻まれた目元の皺をゆるめ、少なくなった歯を隠すように口元をほころばせた。

「これは、気が利くねぇ、お咲さん! わしの大好物、水羊羹ではないか。しかも、この猛暑に薄荷までも添えてくれるとは、かたじけない。わしのような歯の少ない者には、最高の代物だ。ありがたい、ありがたい」

火鉢の煙の向こうで、その顔は、まるで夏の終わりに咲いた朝顔のように、嬉しそうに輝いた。

お咲は、甚兵衛の桔梗にまつわる話を、火花を散らす職人の情熱と、静かな奥方の愛を込めて話した。そして、最も肝心な部分を打ち明ける。

「あの二色桔梗は、特定の土でなければ、白と青が美しく同時に咲かないそうです。甚兵衛親方は、以前、『あの花は、火薬の匂いがする土で咲いた』と申しておりました。植木職人の勘でしかありませんが、火薬の残りカスが混ざった土、そんなものに心当たりのある場所は…」

ご隠居は、お咲の話を遮らず、静かに聞いていた。やがて、火鉢に静かに炭を足し、目を細めた。

「ふむ。火薬の匂いがする土、か。理屈で言えば、火薬師の作業場か、花火を打ち上げる場所の堆積物だろう。だが、火薬カス自体は毒だ。普通の植物は枯れる」

お咲は俯いた。「やはり、そうでしょうか…」

ご隠居は、やおら立ち上がり、店の隅の棚から、埃を被った古い『園芸図譜』を取り出した。それは、江戸時代初期に描かれた、二色桔梗の絵が描かれた一頁だった。

「お咲さん、この図を見てごらん」

図譜には、桔梗の絵の脇に、奇妙な注釈が書かれていた。花火の絵と、特定の川の名前、そして『八月の水際に積む、黒い土』。

「火薬の匂いがする、という記憶が大切なんだ。昔の花火師は、火薬の原料を川で洗い、そのカスを特定の川岸に捨てた。それはただの毒ではない。時間が経ち、水と土の記憶が混ざり合った『特異な養分』になる。それを先人は知っていた」

ご隠居は、図譜をそっと閉じ、お咲の目を見た。

「あの二色桔梗は、単なる植物ではない。火花と水の愛の記憶が、土の中に残っているのさ。理屈じゃない、人情が作った土だ。あんたが探すのは、今はもう使われなくなった古い花火の打ち上げ場に近い川岸だ。そして、それはきっと、船でしか近づけない場所にある」

「船で…」お咲の脳裏に、水屋の留吉の顔が浮かんだ。

ご隠居は、図譜のページを破りもせず、微笑んだ。

「その花火師の愛の記憶が、今も土に残っているか。それはあんたの腕と心が試されることだ。さあ、次は水を運ぶ船頭の知恵を借りに行くがいい。そして、この椿と水羊羹はありがたく頂こう。代わりに、この古びた茶碗を持っていきな。これには、水が冷めにくいという、人情みたいな仕掛けがあるんでな」

お咲は、静かに茶碗を受け取った。その重みは、次に進むべき道を示してくれていた。桔梗を咲かせるための旅は、まず、水屋の留吉という名の、新たな人情の連鎖へと繋がったのだった。

加賀屋のご隠居から託された「人情の茶碗」を懐に、お咲は外堀に近い、水屋が集まる船着き場に足を運んだ。水屋は、上水が届かない地域に飲み水や生活用水を届ける、江戸の暮らしの要だ。

留吉は、お咲よりかなり年下に見える、日に焼けた快活な若者だった。船着き場に設けられた小さな詰所で、水桶の縄を繕っている。

「留吉さんでいらっしゃいますか?」

お咲が外堀の船着き場付近で留吉を見つけたとき、彼はまさに「棒手振り(ぼてふり)」の真っただ中だった。

留吉の肩に担がれた天秤棒(てんびんぼう)の先には、水を満載した大きな桶が二つ。江戸の家々へ運ぶその水は、生半可な重さではない。一歩踏み出すたびに、しなる棒が肩に食い込み、留吉の額には大粒の汗が滲んでいる。

棒手振りは、江戸の職人の中でも最も辛く、休むことのできない仕事の一つだ。留吉のような地方から出てきた若者が、初期費用が少なく手軽に始められる反面、体力勝負で、水を求める客の急な要望には逆らえない。重い水を運び、長い列を作って待つ人々の元へ届け、その合間にまた水を汲む。彼の生活は、重い水の往復と、止まることのない客の催促によって形作られている。

しかし、お咲の目に映る留吉は、ただ疲弊しているだけの若者ではなかった。

彼は水を求める客一人ひとりに対し、決して顔色を変えず、いつも快活な笑顔で応対している。

「へい、毎度あり!こいつは今朝一番の、いい水だ。これで喉を潤して、今日も一日、頑張ってくんな!」

留吉の笑顔は、単なる商売の愛想ではない。それは、自分の運ぶ水が、人々の暮らしの「命」を支えているという、若者なりの誇りから来るものだ。彼は知っているのだ。自分が一息つけば、誰かの家の火が消え、誰かの喉が渇き、誰かの生活が滞ってしまうことを。だからこそ、彼は決して手を抜かず、重い桶を担いで江戸の細道を駆け抜ける。

そんな彼の姿をいつも遠目で見ていた。

「梅吉さん。毎日、水運び、大儀でございますね。この暑い中、頭が下がります」

お咲は梅吉に近づき、声をかけた。

「ああ、そうだが。植木屋のお咲さん、何か植え込みの仕事かい? 今は水で手が塞がってるが…」留吉は手を止めることなく、愛用の柄杓で水を一杯汲み、お咲に差し出した。「喉が渇いたろ。うちの水は、どこよりもうまいぜ。」

お咲は、その水を一口飲み、「ありがとうございます。大変美味しい水ですね。実は、水のことで、留吉さんにお願いがありまして…」と切り出した。

お咲は、甚兵衛の桔梗が「古い花火の打ち上げ場に近い川岸の水」でなければ咲かないこと、そして加賀屋のご隠居から「船でしか近づけない水の道」にあると教えられたことを伝えた。

「花火の土と水、ですか…。そりゃあ、また変わった依頼だ」留吉は肩に担がれた天秤棒を下ろし、怪訝そうに空を見上げた。

「花火の打ち上げ場は、今はほとんど使われちゃいない古い川筋だ。あそこは水路が複雑で、流れも速い。しかも、近頃は御上の見回りが厳しい。勝手に水なんか汲んだら、すぐ咎められますよ。」

お咲は、その姿に、植木職人としての共感を覚えた。

自分の腕一本で、花の美しさ、木の命を支えること。そして、その命を通じて、依頼人の心の渇きを潤すこと。扱うものは「水」と「土」で違うが、人々の生活に「無くてはならないもの」を届けるという点で、留吉の心意気は、お咲自身の職人魂と通じるものがあった。

(この若者は、ただの棒手振りじゃない。この重い水の中に、人の暮らしを思う優しさを混ぜて運んでいる)

お咲は確信した。桔梗の再生に必要な「命の水」を託す相手は、この、「辛さを笑顔で包むことができる」水屋の若者、留吉以外にいない、と。

「やはり、御上の…」お咲は肩を落とした。桔梗の開花は、花火大会の日という期限がある。表立って動けば、必ず奉行所に目をつけられる。

留吉は、お咲の真剣な眼差しから、この花がただの植木ではないことを察したようだ。彼は静かに水面に目を向けた。

「あのな、お咲さん。江戸の水屋は、表の水の道だけを頼りにしてるわけじゃない。御上が決めた『上水』だけじゃ、江戸っ子は潤わねえ。俺たちゃ、『裏の水の道』を知ってる。」

留吉は声を潜めた。「花火の打ち上げ場へ船で行くのは難しい。だが、その川筋から分岐した『古い洗い場』ならどうだ? 昔、花火の火薬を洗った水が、地下水脈を通じて流れ込んでいる場所がある。そこなら、人目もつかない。」

それは、加賀屋のご隠居が示した「人情が作った土」と、お咲の「理屈を超えた勘」が結びつく、希望に満ちた道筋だった。

「ただ、その洗い場は、今は豪商の裏庭に隠れちまっててね。塀が高くて、水汲み口がほとんど塞がれちまってる。しかも、そこの旦那は、『自分の庭の水は一切外に出さない』って、やけに頑固でね…」

留吉はそう言うと、持っていた柄杓を、お咲の目の前の水桶の縁に、コン、と打ち付けた。

「俺は、水の道は教えられる。だが、その豪商の裏庭に『職人として忍び込む道』は、あんたの仕事だぜ、植木のお姉さん。どうだ、その花火師さんの愛の願い、俺たち水屋にも手伝わせてくれるかい?」

お咲は、留吉の粋な申し出に、満面の笑顔を返した。

「もちろんです。留吉さんの粋な計らい、心から感謝します。このお咲、必ず、あの桔梗を咲かせてみせますから」

こうして、お咲は「土」の記憶を持つ加賀屋から、「水」の知恵を持つ留吉へと人情の襷(たすき)を繋いだ。次に必要なのは、豪商の頑なな心を解きほぐし、秘された裏庭へと入るための知恵だった。次に訪ねるべきは、薬種問屋の富山堂のご隠居かもしれない。

富山堂は本町(ほんちょう)に店を構える老舗で、店内には薬草や珍しい鉱物が放つ独特の匂いが充満していた。お咲が通された奥座敷には、白髪を綺麗に結い上げた富山堂のご隠居が、薬の煎じ具合を確かめながら座っていた。

「富山堂様。急なお願いで恐縮いたします」

お咲は、水屋の留吉から聞いた豪商の話、そして二色桔梗を巡る老花火職人の切なる願いを、隠さずに話した。豪商の裏庭にある古い洗い場から、桔梗の命の水を分けてもらわなければならないこと。しかし、その豪商が非常に頑固で、外部の人間を一切庭に入れないという壁があることを。

ご隠居は、目を閉じ、お咲の話の合間に薬草の匂いを深く吸い込んだ。

「ふむ。豪商の佐野屋のことかい。あの旦那は、この富山堂の古い得意先だよ。病弱でな。特に肺の病を患ってから、庭の珍しい花や木を愛でるようになった。しかし、その分、庭の手入れには神経質で、植木職人を寄せ付けない」

お咲は絶望しかけた。やはり、金で動かぬ相手に、植木職人の腕一本で入れる道はないのだろうか。

ご隠居は、お咲の不安を見透かすように、静かに続けた。

「だが、あの佐野屋には一つ悩みがある。十年前に手に入れた、京から取り寄せた『珍しい椿の木』が、近頃、葉の艶を失い、どうにも花付きが悪いらしい。あらゆる植木職人を追い返したが、その椿は年々衰えている。病は、人のみならず、木にも宿るものだ」

ご隠居は、目の前の火にかけていた薬缶から、薬草を煎じた残りカス、つまり「煎じ滓(かす)」を取り出した。

「お咲さん。人の病も、土の病も、原因はたった一つ。『滋養(じよう)の偏り』だ。あの桔梗が二色に咲く秘訣も、結局は土の滋養の偏りを意図的に作り出すことにある」

ご隠居は、その煎じ滓を小さな壺に詰めながら、お咲に差し出した。

「佐野屋の椿の病は、土の養分が偏りすぎた『慢性の疲労』だ。この煎じ滓には、十年分の薬草の抽出物と、土を中和させるための秘伝の灰が微量に混ざっている。椿の株元に、これをこっそり混ぜてやりなさい。これで椿の葉に『命の艶』が戻れば、佐野屋の旦那はあんたを追い返すまい」

そして、ご隠居は表情を引き締めた。

「これが佐野屋に入るための『表の薬』だ。そして、あんたの桔梗の『裏の薬』も、この煎じ滓の中にある。桔梗の二色咲きには、土を少しだけ酸性に傾ける必要がある。この秘伝の灰が、火薬のカスと混ざり合うことで、その絶妙な偏りを生み出す。理屈じゃない、経験と勘で編み出した土の滋養だ。ただし、使いすぎれば椿も桔梗も枯れる。分量はお咲さんの腕次第だよ」

お咲は、その重みのある壺を両手で受け取った。中には、椿の命を救う薬と、桔梗の二色を開花させる秘薬が同居している。

「ありがとうございます。富山堂様の深いお慈悲、決して無駄にはしません」

ご隠居は最後に、お咲の懐にある小さな影に目を向けた。

「植木職人は、土と、水と、そして人の心の機微を治める医者でもある。佐野屋の旦那の心の壁を崩しなさい。そうすれば、おのずと『水の道』も開かれよう。」

「佐野屋の旦那の心の壁も、椿の病も、わしらが作る薬では根を治できぬ。わしらが出来るのは、症状を和らげることだけだ。だが、本当に効くのは、『日にち薬』じゃ。あんたの心と、あんたの職人としての腕で、旦那の頑なな心にそっと『日にち薬』を塗ってやるんだよ。急いてはいけない、時が経つのを待つのも、植木職人の心根だろう?」

こうして、お咲は「土の記憶(加賀屋)」と「水の道(留吉)」に続き、「土の滋養と心の機微(富山堂)」という、最も困難な壁を越えるための鍵を手に入れたのだった。

「さあさあ、もういいころあいだね。佐野屋さんへおでかけだよ」

留吉から聞いた情報と富山堂から託された煎じ薬を懐に大切に抱え、お咲は軽やかに下駄を鳴らしながら日本橋本町の佐野屋に向かった。

土塀は高く、屋敷全体が冷たい空気を纏っている。門番が目を光らせる表口から入ることは最初から諦めていた。

夏の熱気が、わずかに大地に吸い込まれようとする夕暮れ時。佐野屋の屋敷は、高い土塀に囲まれ、周囲の喧騒を寄せ付けない冷たい空気を纏っていた。門前には、長い日差しが途切れて、濃い影が落ちている。

お咲は、その重厚な門扉の脇に立ち、屋敷の異様な静けさを感じていた。

ふと、門のすぐ脇に立つ一本の木に目が留まった。それは、数年前に枯れてしまったのか、幹は白茶け、細い枝先には葉をほとんどつけていない。その命の勢いを失った姿は、屋敷に秘められた病、佐野屋の旦那が病み、そして椿の木が衰えている「心の冷え」を映しているようだった。

その枯木の、最も高い枝のてっぺんに、一羽のモズ(百舌)が、まるで小さな主人のように寂しげに留まっていた。

モズは動かず、ただじっと、西の空を睨んでいる。その姿は、この屋敷の頑なな閉鎖性と、旦那の「孤高の美意識」を象徴しているかのようだった。

「わびしいねぇ…」

お咲の心に、思わずその言葉が浮かんだ。目の前の光景は、吉宗公の壮大な花火とは対極にある、私的な寂寥(せきりょう)の美しさがあった。豪商の豪奢な暮らしの裏側にある、誰も癒せない「心の渇き」を、この枯木とモズだけが知っているようだった。

お咲は、深く息を吸い込んだ。この静かでわびしい門を越え、彼女は、枯れた木に再び命を宿らせるという、最も困難な使命に挑もうとしていた。懐には、椿を救う薬の灰と、留吉と交わした人情の絆が、夜闇に立ち向かうための勇気を与えていた。

お咲は、植木職人らしく、手入れ道具の入った籠を門の脇に置き、ただ静かに佇んでいた。門の外から、京から取り寄せたという椿の木の先端が、わずかに塀の上に顔を出している。その葉には、病の始まりを示す、艶のない沈んだ色が見て取れた。

やがて、屋敷の重厚な門が開き、一人の男が出てきた。番頭の源八だろう。額に深く刻まれた皺は、旦那の苦労を間近で見てきた証のように見えた。彼は焦燥した顔で、足早に門を閉じようとする。

「失礼いたします、番頭様」

お咲は、静かに、しかし明確な声で呼びかけた。源八は煩わしそうに振り向いた。

「なんだ、あんたは。ここは植木の売り込みは断っている。早く立ち去ってくれ」

「売り込みではございません」お咲は頭を下げた。「門の外から失礼を承知で申し上げますが、あの京から取り寄せられたという椿の木。葉の付き方と、枝の傾きが、どうにも『水疲れ』の兆候に見えます。あのままでは、来年の春を迎えられませんよ」

源八の足が、ピタリと止まった。彼は目を見開き、お咲を値踏みするように見つめた。誰も気づかない、しかし佐野屋の旦那が最も気に病んでいる椿の「命の兆候」を、門の外から一目で言い当てたのだ。

「…あんた、どこの者だ」源八の声は、警戒と動揺を含んでいた。

「私は植木職人のお咲と申します。富山堂のご隠居様より、旦那様の椿への深い志を伺い、参りました」

お咲は、佐野屋の旦那が富山への恩返しとして椿を改良していること、そして富山堂から「椿を救うための薬」を託されたことを、全て正直に話した。

源八は目を閉じた。彼の心の中で、旦那の命令と、旦那の夢を救いたいという切なる思いが激しく葛藤しているのが、お咲にも見て取れた。

「…旦那様の願いは、誰にも邪魔されず、あの椿を育てることだ。部外者を入れるなど、断じてできん」源八は苦渋に満ちた顔で言った。

「わかっております。ですが、その『夢』が、もうすぐ尽きてしまうのですよ!」お咲は一歩踏み出し、深く頭を下げた。「旦那様の志を途絶えさせたくないという、番頭様の心は私も同じです。私も植木職人。命が弱っていくのを見過ごすことはできません! 誰にも気づかれないよう、一晩で作業を終えます。どうか、旦那様の命の木を救うため、お力添えをお願いいたします!」

お咲の職人としての情熱と、佐野屋の深い志を理解しているという言葉が、源八の胸を貫いた。彼は、静かに周囲を見渡した。

「わかった…。旦那様の命の椿のためだ。だが、夜中に、正規の門からは出入りはできん」

源八は、さらに声を潜めた。「夕餉(ゆうげ)が済んだ頃に、裏の物置の脇に来なさい。庭番の若い衆が使う小さな木戸がある。そこで待っていれば、丁稚の伝助が、そっと開けてくれるだろう。ただし、夜明け前には必ず、ここを出ていけ。旦那様に見つかれば、わしもただでは済まない。これは、旦那様の夢を守るための、我らの秘密だ」

お咲は、門前で深々と頭を下げた。これで、最も困難だった「心の壁」は崩れた。次に必要なのは、この夜の闇の中で、桔梗のための水を確保し、椿の命を救うという、植木職人としての腕である。

「ありがとうございます、源八様。必ず、旦那様の椿を元気にしてみせます!」

お咲は、胸に確かな希望を抱き、闇が迫る佐野屋の裏口へと足を向けた。

闇は深く、祭りの喧騒も遠い富沢町の裏手に、佐野屋の屋敷は静かに横たわっていた。

定刻を過ぎた頃、裏の物置脇の小さな木戸が、油をさしたように音もなく開いた。顔を覗かせたのは、丁稚の伝助だった。彼は目をこすりながら、静かに手を招く。

「お咲さん、どうぞ。夜明けまでには必ず…」

お咲は、そっと庭に足を踏み入れた。手にした籠の中には、富山堂の「煎じ滓」、そして、植木市で一目惚れして手に入れた小田原提灯が入っている。

提灯は、蛇腹が滑らかに伸びる、植木職人の夜間作業に特化した優れものだ。お咲がそっと火を灯すと、提灯は周囲を青白く照らし出した。その光は、作業に必要な手元だけを照らし、決して遠くまでは届かない、秘密を守るための光だった。

提灯の光を頼りに、お咲は問題の椿の木へと向かった。遠目から見た通り、椿は「水疲れ」を起こし、土の滋養が偏り、葉の勢いを失っていた。

「佐野屋様の、富山への夢の木よ。どうか、負けないで」

お咲は、提灯を地面に置き、籠から富山堂の煎じ滓を取り出した。細心の注意を払いながら、椿の根元近くの土を掘り起こし、煎じ滓をごく少量、丁寧に混ぜ込んでいく。この灰こそ、富山で育まれた薬草の知恵と、桔梗の二色を咲かせるための酸度の秘密を宿している。

(これは、旦那様と、富山への恩を救う薬。そして…桔梗の命の土を作る鍵)

お咲は、佐野屋の旦那の深い志を思い、土に触れる指先に力を込めた。

椿の作業を終えるか終えないかの頃、土塀の向こうから、微かな水音が近づいてきた。それは、水屋の留吉が、愛用の柄杓で水を揺らさないよう、最大限の注意を払って運んでくる音だ。

木戸が再び開き、留吉が二つの水桶を担いで現れた。彼は汗だくだが、目だけは鋭く光っている。

「お咲さん、これがそうだ。古い打ち上げ場に近い水だ。御上の目を掻い潜るのに手間取ったぜ。この水が、あんたの花火師さんの愛を咲かせるんだな」

留吉は、通常の水屋の水とは違う、この「命の水」の重みを知っている。

お咲は、留吉が運んできた水の一部を、豪商の庭の奥にある「古い洗い場」へと流し込んだ。これは、土壌を活性化させ、桔梗の根が求める「火薬カス混じりの水脈」を一時的に呼び起こすための処置だ。

そして、お咲は留吉が持参したもう一つの空の桶に、洗い場から流れ出る「特別な水」を汲み取った。

「留吉さん、本当にありがとう。この水で、必ず最高の桔梗を咲かせてみせる」

お咲はまだ夜明け前のぼんやりした闇の中で、留吉に頭を下げた。

「留吉さん、本当に感謝いたします。あなたのおかげで、最高の水が手に入りました。これは、ほんのお礼です」

お咲は、道具籠の脇に忍ばせていた新鮮な紫蘇の葉を二枚取り、留吉の手にそっと握らせた。

「こんな葉っぱなんかお礼にならないよ、お咲さん」留吉は困惑した。

「いいえ、これは無形のお礼でございますよ。水屋の秘伝にしてください。この葉を、水を汲む前に、桶の底に軽く擦りつけるだけでいい。紫蘇の香りが、桶の水の悪くなるのを遅らせ、喉越しを涼やかに保ってくれます」

お咲は微笑んだ。

「それは、私が植木屋として知る『命の知恵』でございます。この猛暑のなか、人々の暮らしを支える水屋のあなたの命も、守られねばなりませんからね。これで、留吉さん、あなたが運ぶ水は、どこの水屋のよりも『粋』な水になりますよ」

留吉は、紫蘇の葉を見つめた後、お咲の優しさに顔を輝かせた。

「…へえ!水に香りの涼を呼ぶ知恵、ですか。こいつは、一生の宝になります!ありがとう、お咲さん」

こうして、お咲は桔梗の再生という大きな目的だけでなく、留吉の誇りと健康をも支える、見事な人情の繋がりを完成させたのだった。

夜明け前、佐野屋の庭には、一切の痕跡も残っていなかった。小田原提灯の火が消されると、全ては再び闇に包まれた。お咲が持ち出した水桶の中には、桔梗の二色を咲かせるための「人情と愛の記憶が混ざった水」が、静かに満ちていた。

そして、お咲の懐には、この緊張感の中でこそ、より強く、「未来への夢」を抱くもう一つの種、コスモスの存在があった。

江戸の空を覆い尽くすのは、夜が深まるほどに熱を帯びる、祭りの賑やかな息吹だった。

遠く、両国橋の方向から、地を這うような低い響きが「ドン…」と轟いたかと思うと、間髪入れずに「カラカラ、テン!」と甲高く軽快な音が追いつき、空気を切り裂く。

ドンドン、カラテン。 ドン、ツクドン。

太鼓は、まるで呼吸をするかのように高揚し、江戸の街全体を巨大な一つの生き物に変えていく。祭りの熱狂が、地面を震わせ、甚兵衛の工房の奥の静寂にまで、その「熱」と「律動」を押し付けてきた。

それに混じって、人々の威勢のいい笑い声や、屋台の賑やかな呼び声が、夜風に乗って断続的に流れ込んできた。それは、悲しみを乗り越えようとする江戸っ子の生命力の鼓動であり、やがて夜空を彩る花火の序曲だった。

甚兵衛の工房の裏に、、一鉢の桔梗を、静かに置いていた。

甚兵衛は、弟子の肩に寄りかかりながら、力なくそこに座っていた。その顔はやつれ果てているが、その眼差しは、ただ、一輪の花にのみ注がれていた。

「お咲さん…本当に、咲かせてくれたのかい」

甚兵兵の目の前には、確かに咲いていた、二色の桔梗が。

深い青の花弁は、夜空の色を映したように強く。そして、そのすぐ隣で、月光のように静かな白の花弁が、まるで寄り添うように咲き開いている。

「はい、親方。青い情熱と、白い優しさ。どちらも欠けることなく、綺麗に…奥方様が望まれた通り、一つになって咲いてくれました」お咲は涙をこらえながら答えた。

甚兵衛は、震える手でその花に触れようとするが、それすらも躊躇した。

「ああ、お清。本当に、お前が愛した花だ…」

両国川開きの大花火大会。それは、ただの娯楽ではない。享保(きょうほう)の飢饉で多くの命が失われた後、八代将軍徳川吉宗が人々の鎮魂と、江戸の町に活気を取り戻すために行う、「未来への希望」を打ち上げる儀式なのだ。

甚兵衛の工房の裏庭に座る甚兵衛の目には、この吉宗公の壮大な企画が、妻お清(きよ)への個人的な贖罪(しょくざい)と重なって見えていた。

(吉宗公は、江戸の町の悲しみを空へ打ち上げ、希望を呼び戻そうとした。わしの花火は…わしの悔いと、お清への愛を、天に届ける最後の火花だ。)

遠くの両国橋のあたりから、第一発目の花火が上がった。そして、それに呼応するかのように、甚兵衛の目の前で、お咲が丹精込めて育てた二色桔梗が、夜の闇の中でその花弁を広げた。

深い青は、甚兵衛の燃える情熱。清らかな白は、お清の慈愛の心。二色は、互いに滲み合いながら、「情熱と優しさ、両方あって初めて美しい」という、夫婦の誓いを静かに語りかけているようだった。

「お清…、咲いたぞ。わしの、わしらの花が…」甚兵衛の目から、一筋の涙がこぼれた。

川向こうでは、花火師たちの「技」の競演が始まった。火花が夜空を埋め尽くすたびに、江戸っ子の威勢のいい声が、夜の川面を渡って響いてくる。

「たまやー!」

「かぎやー!」

その激しい歓声と、空を彩る光の洪水の中で、甚兵衛の弟子たちが打ち上げた一発が、他の花火師のそれを凌駕するように高く昇った。それは、師への最後の敬意を込めた、甚兵衛が若い頃に手がけた青と白の「二色花(にしきばな)」だった。

ドォン!

夜空全体が、青白い光と、静謐な白の光で一瞬にして染まる。その光は、まるで甚兵衛の工房の裏庭まで届き、二色桔梗を二重の愛の光で包み込んだ。

甚兵衛は、その光景を、桔梗の青と白、そして夜空の青と白を交互に見つめながら、静かに、そして深く息を吸い込んだ。

「ありがとう、お咲さん。ありがとう、お清…」

甚兵衛は、吉宗公の鎮魂の光と、お清への愛の光の中で、静かに目を閉じた。彼の人生は、桔梗が咲き、花火が散るという、最も美しい「粋(いき)」な瞬間に、永遠の愛の終着点を見つけたのだった。

その時、夜空に一際大きな光が弾けた。それは、甚兵衛が若い頃に手がけた「二色花(にしきばな)」と呼ばれる、青と白が複雑に混ざり合う、彼の代名詞とも言える大花火だった。それは、彼の弟子たちが師への敬意を込めて打ち上げた、愛の鎮魂歌だった。

ドォン!

夜空を青と白が埋め尽くす。その光と音は、一瞬にして工房の裏庭まで届いた。

甚兵衛は、空を見上げ、そして桔梗に目を落とした。

「お咲さんよ…ありがとう。お前さんが、土と水と、そして人様の心を治めてくれたおかげで、わしはやっと、あいつに顔向けができる」

彼の顔に、微かな、そして安堵したような笑みが浮かんだ。彼の胸に、青い情熱も、白い優しさも、全てが満ち足りたのだろう。

「お清…待たせてすまなかったな…」

甚兵衛の意識は、空の花火と、目の前の桔梗の二色の光の中に溶けていった。その手は、青と白の桔梗の葉をそっと包んだまま、静かに、しかし穏やかに、事切れた。

お咲は、涙が溢れるのを止められなかった。しかし、その涙は悲しみだけではない。

種は、必ず、また咲く。

この二色桔梗は、甚兵衛とお清の永遠の愛の証として、そして、江戸の人々の温かい人情が結実した「希望の花」として、今、確かにそこに咲いている。

甚兵衛の穏やかな最期を見届けたお咲は、溢れる涙をぬぐい、静かに桔梗の鉢を抱き上げた。夜空には、今、祭りの最後の花火が、青と白の二色を散らしながら、静かに消えていく。

「親方。約束は果たしましたよ。あとは、この命の力を、未来に繋ぐ番です」

甚兵衛の死は悲しみ(悪)であり、二色桔梗の開花は、人々の協力が生んだ希望(善)であった。しかし、お咲の心に残ったのは、その二つの間で揺らぐ、「曖昧さ」としての深い「ゆとり」だった。

お咲が感じた「美の極地」は、正三角形の完璧な均衡ではなかった。

善(希望の実現)は、留吉の協力、富山堂の慈悲、そして桔梗が咲かせた命の力。

悪(喪失と苦悩)は、甚兵衛の死、佐野屋の旦那の病、そして花火師の過去の悔い。

ゆとり(曖昧さ/残心)は、その二つを受け止める、お咲の「残心(ざんしん)」

桔梗の青と白も、完全に分離した色ではない。花弁の縁で互いに滲み合い、どちらが優勢とも決められない曖昧な美しさを醸し出していた。それは、善と悪、生と死が混ざり合った、この世の「粋」そのものだった。

お咲は、桔梗の鉢をそっと自分の家へ運び入れた。そして、裏庭の隅の秘密の場所へと向かう。

そこには、まだ花をつけていない、背の高いコスモスの若苗が、夜明け前のわずかな光を浴びて、ひっそりと佇んでいた。

このコスモスは、鎖国という閉鎖的な世界を破り、ヨハネスという未来への希望によってもたらされた。

しかし、お咲は知っている。この異国の花を今、江戸の世に「完璧な善」として公表すれば、たちまち奉行所に目をつけられ、その命は摘まれてしまうだろう。

彼女が取るべき道は、善と悪の境目を曖昧にする「ゆとり」だった。

お咲は、この「未来の種」を、誰にも知られることなく、この日陰の庭で、「秋桜(あきざくら)」という、日本の風土に合わせた「偽りの名」を与えて育てる。

この行為こそが、お咲の三位一体の美意識だった。

未来への希望(善)を育む。

社会の閉鎖性(悪)から身を隠す。

そして、その両方を内包し、時が満ちるのを待つ 「残心とゆとりの心」。

お咲は、この未来の花の苗にそっと触れた。

種とは、過去と現在を結び、遠い未来を夢見る、職人としての最も大切な『芽』である。 その未来には、甚兵衛の愛も、佐野屋の志も、そしてヨハネスの夢も、全てが宿っている。

お咲は、この「ゆとり」を抱きしめながら、密かに、しかし力強く、この種を守り続けると心に誓ったのだった。

お咲は、深く一礼し、静かにその場を後にした。懐には、ヨハネスから託された「未来の種」、コスモスが、密かに春を待っていた。

桔梗を巡る騒動が終わり、江戸の熱気もわずかに和らぎ始めた夏の終わり。

お咲は、甚兵衛の桔梗が咲いたことへの安堵を胸に秘めながらも、新たな、そしてより危険な秘密を抱えていた。懐の奥に眠っていた、ヨハネスからの「未来の花」の種。その小さな種は、既に命の力を得ていた。

秘密の花園

お咲が種を蒔いたのは、自宅の裏庭、人目につかない土塀の陰だった。そこは日当たりこそ悪いが、隣家の大きな屋根が、外からの視線を巧妙に遮る、お咲にとっての「秘密の花園」だった。

お咲は、ヨハネスから託されたコスモスの小さな種を手のひらに載せ、日陰の土にそっと埋めた。「未来の花は、焦ってはならない。甚兵衛親方の悲しみを癒すのに時間がかかったように、この新しい夢も、『日にち薬』を必要とするのだろう」。お咲は、種の成長を急かすことなく、ただ静かに、その時が満ちるのを待つと決めた。

「ごめんよ、あんた。こんな日陰に植えちまって。でも、誰にも見られちゃいけない、大切な夢なんだよ」

お咲が、異国の種に語りかけるようにそっと水をやると、種は驚くほど素直に応えた。たった数日で、すくすくと育ち始めた。

しかし、その育ち方は、江戸で知られたいかなる植物とも違っていた。葉は細く、まるで糸のように繊細。茎はまっすぐ、背丈ばかり伸びていく。

「こんなに背が高いなんて…。まるで、空に届こうとしているみたいだね」

その異様な姿は、たちまち近所の「噂の種」となった。

ある日の夕方、水をやっていたお咲は、隣家の二階窓から、近所の口うるさい物知り顔の奥方が、奇妙な角度から庭を覗き込んでいることに気づいた。

「あら、お咲さん。その草は、また珍しい雑草かね?なんだか、ひょろひょろと、まるで異国の妖怪のようだねぇ。この国にはない、縁起の悪い草なんじゃないかい?」

お咲は、胸が凍りつくのを感じながらも、笑顔で切り返した。

「あら、おかみさん、これは『丈高菊(たけたかぎく)』と言いましてね。茎を煎じて飲むと、風邪に効くとかで、薬種問屋から試しにもらったもので。日陰で育てると、こうして背ばかり伸びるんですよ。薬草でございますから、大丈夫ですよ」

そう言って、お咲は慌てて丈の高い茎を少し折り、隣家の奥方に差し出した。奥方は警戒しながらも、薬草という言葉に弱いのか、それを手に取った。

「ふむ、薬草かい。まあ、お咲さんが言うなら…」

お咲は、嘘が露見する前に、この「異国の妖怪」*を、何とか江戸の花として受け入れられる名を与えなければならないと決意する。

秋風が吹き始め、夜が長くなった頃。お咲の秘密の花園の「丈高菊」の頂点に、ついに小さな蕾がついた。

お咲は夜陰に紛れて、その蕾を見守った。そして、初めて咲いたその一輪を見たとき、お咲は息を飲んだ。

八重ではなく一重。大輪でもなく可憐。薄紅色や白、赤紫。花弁は薄く繊細で、風に吹かれるたびに、揺らめく姿はまるで、空に咲く桜のようだった。

「ああ、なんて可憐な…。この秋に咲く、桜…」

その瞬間、お咲の心にその別名が生まれた。

「秋桜(あきざくら)だね。あんたの名は、今日から秋桜だよ」

これは、ヨハネスが夢見た「未来の美しさ」と、お咲が愛する「日本の美意識」が初めて出会った瞬間だった。

桔梗の情熱的な任務とは対照的に、コスモスの育成は静かで、秘密裏に進んだ。しかし、この「秋桜」の命名とお咲の愛情によって、異国の種は江戸の土にしっかりと根を下ろした。

そして、花火大会も終わり、秋空がどこまでも澄み切った日。

お咲がそっと木戸を開けると、背の高いコスモスたちが、風に揺れ、色鮮やかな花弁を惜しげもなく広げていた。

その光景は、あまりに美しく、可憐で、異国情緒がある。たまたま、遠くからそのコスモスを垣間見た人々は、その光景に言葉を失い、ただただ見惚れて、立ち去ることができなかった。

お咲の夢は、静かに、しかし力強く、江戸の空に咲き始めたのだった。

将軍と、植木屋の朝のひととき

季節は、まだ吉宗公が将軍職を家重公に譲り、大御所として影響力を保っていた頃。春の終わり、初夏の気配が感じられる、穏やかな朝である。お咲はまだ老骨に鞭を打ち、植木屋の庭で朝の手入れを欠かさなかった。

縁側に面した庭には、今が盛りと様々な花が咲き乱れている。杜若の凛とした紫、牡丹の華やかな赤、そして、お咲の父・梅吉が大切に育て上げた五葉松の盆栽が、威風堂々と鎮座していた。

朝の光が木々の葉を透かし、庭の隅々まで降り注ぐ。お咲は、柄杓で井戸から汲み上げた水を、一鉢一鉢、声をかけながら丁寧に与えていた。

お咲「おお、お前さんも、喉が渇いたかい。さあ、遠慮せずに飲みな」

お咲「そちらの菊は、もう少し水控えめが良いね。元気の良い子なんだから、贅沢は言わないおくれ」

そんな、誰もいないかのような独り言を呟きながら作業をしていると、不意に、庭の通用門が静かに開く音がした。

お咲「あら、こんな朝早くに、どなたでしょう。今日はお約束など…」

顔を上げると、そこに立っていたのは、一見するとただの厳格な年配の武士とその供の者、そして、その武士の手を引かれた、まだ幼い童(わらべ)であった。

武士は、世間的には大御所徳川吉宗公であり、童は、後の十一代将軍となる幼い家治公であったが、二人は身分を隠し、気ままな散策を楽しんでいる様子であった。

吉宗「吉宗「いや、すまぬ。朝早くから、静かな庭を邪魔してしまったようだ。実は、道すがらのどが渇き、そちらのうまそうな井戸水を、一献、所望したいのだが、よろしいかな」」

吉宗は穏やかながらも威厳のある声で言った。家治は、目の前に広がる色とりどりの花々に目を奪われ、吉宗の着物の裾を握りしめたまま、微動だにしない。

お咲「これは、ご丁寧に。わたくしは、この植木屋の主のお咲と申します。ささ、どうぞ、お上がりくださいまし」

お咲は、目の前の武士の放つ空気に、ただ者ではないことを察したが、普段通りに振る舞った。

吉宗「いや、構わぬ。この辺りの花々が、見事に咲き誇っていると聞き、つい足を止めたのだ。特に、そちらの松が気になる」

吉宗が指差したのは、樹齢百数十年にもなる、梅吉伝来の五葉松の盆栽であった。幹は太く、複雑に曲がりながらも、上に向かって力強く伸びている。

家治「(小さな声で)おじいさま。あの木、なんだか怒っているみたいだね」

家治は、松のねじ曲がった幹を見て、素直な感想を述べた。

吉宗「ほう、怒っているように見えるか、家治」

お咲「おや、それは面白い捉え方でございますね。怒っているというよりは、懸命に生きている、と見ていただければ幸いです」

吉宗「懸命に生きている、か。ふむ、この松は随分と幹が曲がっている。無理に形を整えたのであろう」

お咲「いいえ。この松は、わたくしの父、梅吉が手をかけたものでございます。梅吉は、常々『松は松の生き方を、人が勝手に捻じ曲げてはならぬ』と申しておりました。これは、この松が、長い年月をかけて、風雪に耐え、自然の理の中で自ら選び取った、曲がり方なのです」

お咲は、柄杓を置き、松のそばに静かに膝をついた。

お咲「人は、珍しい形や、派手な姿を好みます。ですが、わたくしども植木職人の仕事とは、人の目を喜ばせるために無理をさせることではございません。その木の持つ、本来の強さを引き出し、自然の流れに沿って整えてあげること。それが、この松が教える、わたくしどもの心得でございます」

吉宗は、目を細めて松を眺め、深く頷いた。

吉宗「なるほど。人の勝手な思い込みを押し付けても、やがては滅びる。自然の摂理に逆らわず、その流れに乗るのが肝要、というわけか。それは、国を治める道にも通じる教えかもしれぬ」

家治は、松から少し離れ、咲き乱れているツツジの鮮やかな朱色に惹かれた。

家治「おばあさま。この赤い花は、どうしてこんなに綺麗なのですか」

お咲「それは、この花が、生きたいと願っているからです。花が色鮮やかに咲くのは、わたくしたちのためではございません。蜂や蝶に『どうぞ、わたくしの蜜を飲んで、体の花粉を他の仲間へ運んでください』と、懸命に訴えているのです」

お咲は、小さなツツジの花を指さした。

お咲「花は、子孫を残すために、必死に美しさを競い合います。人間のように、権力や財力で競うのではなく、ただひたすらに、命の営みを繋ぐために。それこそが、この世の真実の姿ではないでしょうか」

吉宗「そうか。人が手を加えなくても、自然界では、かくも懸命な命の繋がりがあるのだな」

吉宗は、幼い家治を見つめた。お咲の言葉は、将軍職を譲り、世の流れを遠くから見守る吉宗の胸に、深く響いたようだった。

吉宗「植木屋殿。お前の話、大変興味深く聞いた。無理に人の手で形を作り上げようとするよりも、あるべき流れを整え、見守る。それが、長く栄える秘訣かもしれぬ」

お咲「恐縮でございます。わたくしどもは、ただの植木屋。ですが、木々や花は、栄枯盛衰の理を、正直に教えてくれます」

家治は、ツツジの蜜を吸いたい様子で、そっと花に顔を近づけていた。

家治「おじいさま。このお花の香りは、甘い匂いがするよ」

吉宗「家治。お咲殿が言ったであろう。その甘さが、この花が命を繋ぐための、大切な知恵なのだ」

吉宗は、静かに袖から小銭を出し、お咲に渡した。

吉宗「朝の忙しい時分、長々と話し込んでしまった。見事な花と、良い教えを感謝する。また機会があれば、この松を見に来るとしよう」

吉宗と家治は、静かに頭を下げ、来た時と同じく、誰にも気付かれぬよう、植木屋の庭を後にした。お咲は、その背中が見えなくなるまで、深く頭を下げて見送った。

お咲「やはり、ただの武士ではなかったね。全く、朝から、大変な訪問者でございました」

お咲は、吉宗が置いた小銭を手に取り、その重みを感じながら、再び松の盆栽に水をやり始めた。庭の静けさは戻り、花々は、何事もなかったかのように、ただ懸命に咲き誇っていた。

お咲の最期の縁側

縁側に差し込む春の日差しは、病のお咲には温かすぎず、心地よいものであった。庭のツツジが満開を迎え、目に鮮やかな朱や桃色を見せている。お咲の横には、息子の陽一郎が静かに座り、その膝元では、陽一郎の娘であるお花がツツジの枝を手に遊んでいた。 お咲の呼吸は浅く、声もか細い。数日前からの急な悪化であったが、今は穏やかな表情を浮かべている。

お花「おばあさま、このお花、蜜があるのよ。すごく甘くて美味しいの。ほら、ここ」

お花「この花、美味しいね」

お咲「ああ、お花は優しいね。その甘さが、小さな命を繋いでいるのだよ」

陽一郎「そういえば、私も幼い頃、よくそうしておりました。母上に叱られながらも、花の甘さに目を輝かせて」

お咲「叱るわけないでしょう。ただ、あまり蜜ばかり吸って、肝心な虫の役目を奪ってはいけないよ、とは言ったかもしれませんね。ええ、陽一郎。あなたは、わたくしが花に心を奪われ、この植木屋の仕事を続けてきたことを、ずっと見てきました」

陽一郎「はい。母上にとって、花を育て、咲かせることが、何よりも大切な生き甲斐であると、重々承知しております」

お咲「わたくしが、花に価値を見出しているわけではないのです。わたくしたち人間は、どうも、自分の心にある勝手な『見栄』や『欲』を、花にも自然にも押し付けてしまう。困った性分です」

お咲は、か細い笑みを陽一郎に向ける。

陽一郎「「勝手な価値観、ですか」」

お咲「ええ。『この花は珍しいから高い』とか、『人より早く咲かせたから偉い』とかね。人のためではなく、花が懸命に色や形を整えようとするのは、他でもない、蜂や蝶に、自分を見つけてもらうためなのですから」

お咲「花が色づき、蜜を持つのは、小さな虫たちのため。彼らがその甘さを求めて花に来た折、体中に花粉を付けて、また別の花へ運ぶ。そうやって、花の命は次の世代へと繋がり、この世に生き残ってきた。まるで、わたくしたち人間が、お花のような子孫を残そうと、懸命に生きているのと同じことです」

お咲は一つ息を継ぎ、隣のツツジに視線を移す。

陽一郎「人が手を加えなくとも、花は自ずから、命を繋いでいる。それは、本当に、潔い姿ですね」

お咲「そうなのです。自然の摂理という、大きな流れの中で生かされているだけ。わたくしたちはそれを『珍しい』と喜び、『希少だ』ともてはやし、無理に自然の理を捻じ曲げて、勝手に鉢に閉じ込め、手入れを施しても、やがてはその無理が花を滅ぼしてしまう」

お咲「この世の定めとは、常に動いているものです。急激に栄えたものは、必ず衰える。栄枯盛衰とは、よく言ったもので、わたくしのような病の悪化も、きっとその流れの一つなのでしょう。人がどれだけ抗おうとしても、流れは変わりません」

お咲は、お花の小さな頭を優しく撫でる。お花は、おばあさまの柔らかな手に、心地よさそうに目を細めた。

お咲「そうそう。昔、庭の松に変なこぶができたことがあってね。陽一郎が、それを『龍の頭みたいで格好良い』と喜んだから、わたくしが懸命にそれを珍重し、無理に大きく育てようと手を入れたら、その松だけ、あっという間に枯れてしまった。あれには、本当に懲りました。お前はただの瘤(こぶ)だよと、松に笑われた気がしてね」

陽一郎「(笑いながら)ああ、そんなこともありました。母上、あれは幼い私のせいです。松には申し訳ないことをしました」

お咲「いいえ。あれもまた、わたくしにとって大切な教えでした。わたくしは、この花々を見て、人生の終わりに、その大切な理を悟りました。わたくしたち人間も、自然の大きな流れに逆らうのではなく、その流れに乗りながら、生きるべき道を見つけねばなりません」

陽一郎「生きるべき道、ですか」

お咲「ええ、陽一郎。わたくしは、あなたに、わたくしと同じように植木屋を続けろとは言いません。この世の大きな流れ、時の移ろいをよく見て、その中で、自分なりの生き方を、自分で見つけ出すこと。それが、この世で最も大切な、あなたの仕事なのです」

お咲の声はますます小さくなり、まるで風に運ばれる花の香りのようであった。

お咲「お花も、そうですよ。他人が良いと言うもの、珍しいというものにばかり目を奪われるのではなく、この世の美しさ、優しさを、お花の心で、しっかり見つけなさい」

陽一郎は、母の手を両手で包み込んだ。その手は、花を愛し、大地を耕し続けてきた、温かく、しかし力強い手であった。

陽一郎「母上。私は、母上が教えてくださった、この命の繋がりの大切さ、そして、自然の理を、決して忘れません。そして、私の道は、私自身で、必ず見つけます」

お咲は、息子を見つめ、安堵したように、再び静かに微笑んだ。その視線の先には、甘い蜜を求める小さな蜂が、ツツジの花に頭を突っ込んでいる。縁側の光は、お咲の顔を照らし、まるで花のように、清らかに輝いていた。

お咲「ああ、美しい。やはり、この世は、美しい」

その言葉を最後に、お咲は静かに目を閉じた。庭のツツジは、相変わらず鮮やかに咲き誇り、陽一郎とお花に、変わらない自然の理を教えているようであった。

第四章

遠き日の花と、二十年の流れ

宝暦四年。 

世は享保から寛延、宝暦へと移り、将軍の座は徳川吉宗公から家重公、そして家治公へと受け継がれた。季節の移ろいと同じく、人の世にもまた、大きな流れがある。お咲がこの世を去ってから、既に二十年の月日が流れていた。

陽一郎は今も北町奉行所の亡き父・菊次郎から受け継いだ与力として、日々、江戸の治安維持に携わっている。万年与力とは、まさに彼のためにあるような言葉であった。奉行所での仕事は淡々とこなし、私生活では、亡き母・お咲から受け継いだ植木屋の屋敷を守り続けている。

二十年の間、陽一郎は植木職人の看板を下ろしていた。だが、母の教えが彼の胸から消えることはなかった。

陽一郎が朝早くに縁側に出て、火鉢に手をかざしていると、庭の片隅に並べられた五葉松の盆栽に視線が留まる。

「お前もすっかり歳を取ったな」彼は小さく呟いた。

この五葉松は、母お咲が亡くなる直前まで手入れをしていたものだ。今は陽一郎の趣味として、時折、剪定と針金かけを施す程度で、お咲が植木屋を営んでいた頃のような、規模の大きな手入れはしていない。

「二十年か。母上の言う通り、世は流れていく。わたくしだけが、この縁側で止まっているようだ」陽一郎はひっそりと囁く。

その時、背後から、彼に仕える年配の男衆、六蔵が声をかけた。六蔵は、年老いてはいるが、陽一郎の亡き父の代から古家家に仕える古株であった。

「旦那様。今朝は冷えますな。おや、五葉松をご覧になって。旦那様の手に掛かると、一段と風格が増します」

「そう見えるか。だが、わたくしはただ、母が教えた通り、自然の形に逆らわぬよう、枝の流れを整えているだけだ。無理に捻じ曲げても、いずれ枯れるのが常だからな」

陽一郎は六蔵の称賛には耳を貸さない。自分の殻に、自分の生き方に、誰にも侵入されたくなかった。

「旦那様は本当に正直でいらっしゃる。他の植木屋は、奇抜な形や珍しい色に値を付けますが、旦那様は相変わらず、地道なものを好まれます」

六蔵は陽一郎の言葉に同意するように言葉を続けた。

「地道が一番だ。流行り廃り、栄枯盛衰。それは人も植木も同じこと。松は、人の目を気にせず、ただその生命力で生き続ける。だから良い」

陽一郎は自分の地味な生き方が正しいと信じていた。しかし、それが絶対に正しいとは思わなかった。若い頃のような、無鉄砲だが、やる気満々だった自分がふと懐かしく思うこともある。

陽一郎は立ち上がり、そのまま庭の奥、かつて「秘密の花園」と呼んでいた一角へ向かった。そこには、数種類の朝顔が植えられた鉢が並んでいる。彼の唯一の楽しみは、この朝顔の交配を試み、新しい色の花が咲くのを待つことであった。

朝顔と喪失の六年間

「新しい色を求めて交配を繰り返すのは、人間の勝手な欲かもしれぬな」

陽一郎は、咲き誇る濃紫色の朝顔をそっと撫でた。六年前、妻と生まれたばかりの娘を同時に亡くして以来、彼の心は、花の色のように、時々、深い影を落とす。

彼の妻は、病弱であったが明るい女性で、まさに亡き母お咲の面影を宿していた。妻が逆子の難産で亡くなり、ほとんど同時に赤子も息を引き取った時、陽一郎は、母が語った「自然の摂理」の大きさと、「抗えない滅びの流れ」を、身をもって知った。

「わたくしの子は、この世に生き残る摂理を持たなかった。人がどれだけ願おうと、流れる運命は変わらぬ」

陽一郎は運命を静かに受け入れた。

しかし、時折、彼は朝顔の鉢に水をやりながら、遠い日の妻の声と、わずか一日しか見られなかった赤子の小さな顔を思い出す。

「旦那様。奥様とお嬢様の忌み日も近いですな。奥様は、この朝顔の咲く様子を、大変楽しみにしておられました」

六蔵は陽一郎の心の傷を平気で引っ張り出す。それがあたかも陽一郎を癒す言葉であるかのように自信を持って。

「ああ。お峰は朝顔が好きであった。新しい色が出るたびに、子どものように喜んでくれた。『花は子孫を繋ぐために咲く』と母は言ったが、お峰は、ただその美しさのために咲くのだと、わたくしに言ってくれた」陽一郎は、六蔵のいたわりに感謝しながら、言葉を返した。それが上に立つ者の役目であるかのように。

「奥様は、旦那様を和ませてくれる、優しい奥様でした」

六蔵はさらに続ける。

「そうよ。母は『蜂や蝶のため』と言ったが、お峰は『人の心を慰めるために、花は咲くのだ』と笑っていた。わたくしの勝手な思い込みかもしれぬが、お峰は、わたくしのために、もう少し生きてくれるはずだと、あの時、強く願ってしまった。無理に自然を捻じ曲げようとしたのは、わたくしの方だったのかもしれない」

彼は、もう誰にも聞かせることができない、過去への後悔の念を、静かに口にした。

六蔵はそれ以上、陽一郎の心に踏み込まなかった。あまりにも陽一郎の顔が暗く沈んでいたからだった。

陽一郎は、盆栽や朝顔に囲まれてはいるが、植木職人には戻らない。母が花に打ち込んだような情熱を、再び何かへ傾けることは、もうできないように思えた。

彼は与力として、与えられた仕事と、細やかな植木の趣味という、「流れに逆らわない、自分なりの生き方」を見つけていた。妻と娘を失った大きな悲しみも、時間の流れの中で、彼の心の一角に盆栽のように根付いている。

「わたくしは、与力として、このまま万年与力で終わるだろう。昇進の意欲もなく、ただ与えられた日々を、誠実に送る。それもまた、母が言った『自然の流れに乗る生き方』なのかもしれぬ」

彼は、静かに朝顔の花を見つめた。花は、昨日と同じように咲き、蜜を求め来る虫を待っている。

その小さな営みの中にこそ、彼の母が愛し、彼の妻が愛し、そして彼が失った、尽きることのない命の美しさがあるように思われた。陽一郎は、再び五葉松の鉢に目をやり、静かに手を合わせた。

夜の帳が下りる頃、手燭の光が届かぬ庭の隅。陽一郎がそっと見つめる紫陽花の根元には、彼がこの世で初めて与えられた、冷たく湿った土の匂いの記憶があった。

万年与力の陽一郎

古家陽一郎の屋敷は、梅雨が明けたばかりの湿った熱気に包まれていた。与力の仕事から戻った陽一郎は、庭の朝顔に水をやった後、縁側で涼んでいた。十年前に亡くなった妻、お美代の笑顔が、夏の夕暮れ時になると、ふと心に浮かぶ。

その時、下男の六蔵が、冷たい水差しを携えてやってきた。

「旦那様、どうぞ。庭の朝顔も、そろそろ来年の種を考える頃合いでございますな」

陽一郎は、受け取った杯を傾けながら、庭を眺めた。

「ああ、六蔵。しかし、この美しい花を眺めていると、時折、過去の美しさが心に蘇るものだ」

六蔵は、陽一郎の言葉の真意を察し、静かに座った。普段、陽一郎が自分から亡き妻の話を持ち出すことはめったにない。

「奥様…お峰様のことでございますか」

「そうだ。もう十年だ。十年経った。しかし、この縁側で二人で夕涼みをした時の、あの女の笑い声だけは、どうにも消えてくれぬ」

陽一郎は遠い目をした。

「六蔵よ、覚えているか。わしらが所帯を持ってすぐの頃、お美代を隅田川の川下りに連れて行った時のことを」

「ええ、存じております。奥様が、生まれて初めての舟遊びだと、まるで雀のようにはしゃいでおられましたな」

陽一郎は、目を細め、微笑んだ。

「そう、雀どころではない。あの者は、貧しい旗本の三女として育った。贅沢など、知らぬ。隅田川で舟遊びなど、夢にも思わなかったのだろう」

「陽一郎様が、奥様を喜ばせるために、大変な無理をなさいましたな」

「無理ではない。わしは、あの女の笑顔が見たかったのだ。あの頃、わしは養父母を相次いで亡くし、心底、枯れ果てていた。だが、お峰が、そんなわしを、そのスミレのような優しさで、温めてくれたのだ」

陽一郎は、当時の情景を思い出し、言葉に力を込めた。

「舟が、水面を滑る。夕焼けの色が、川に映る。お峰は、まるで子供のように、手を叩いて笑った」

「あなた、見て。水がこんなに綺麗に流れていく。風が涼しい」 「お美代、喜んでくれたか」
「こんなに嬉しいことはないわ。生まれてはじめてなの。ありがとう、あなた」

「わしまで、生まれてはじめての喜びを知った心地がした。わしを、やっと人に戻してくれたのは、あの女だった」

六蔵は、言葉を選びながら口を開いた。

「奥様は、本当に可憐でございました。しかし、まさか、めでたいお産で、ああいう不幸に見舞われようとは…」

陽一郎の顔から、笑みが消えた。

「ああ。逆子であった。医者の手も及ばぬ、不運。わしは、廊下で、ただ神仏に祈るしかできなかった。そして、運命は、残酷な言葉を残した」

陽一郎は、手の甲をきつく握りしめた。

「あなた、赤ちゃんはげんき」

「それが、最後の言葉だ。まだ二十歳であった。可憐なスミレのような女が、命の重さを知らぬまま、逝ってしまった。六蔵。生と死がこれほど隣合わせだとは、あの時、心に突き刺さって、初めて知った」

「旦那様…」

「十年経って、心の痛みは薄れた。しかし、次の妻を娶る意欲は、どうにも湧かぬ。また、わしが愛した女を、命の隣合わせに立たせてしまうのではないか。そう思うと、怖くてたまらないのだ」

六蔵は、深く頭を下げ、同情の念を込めて言った。

「旦那様のその優しさ、奥様は草葉の陰で、必ずや見ておられます。しかし、旦那様。これから先、古家家という武士の家をどうされるおつもりでございますか」

陽一郎は、再び庭の朝顔に目を向けた。その鮮やかな色が、亡き妻の短い命と、自分の消えない孤独を、無言で訴えているように見えた。

「わしには、まだ、答えが見つからぬ。だが、花だけが、わしに明日への希望を見せてくれる。花だけが、命の恐ろしさではなく、美しさを教えてくれるのだ」

陽一郎の胸には、再婚という「武士の務め」と、朝顔という「孤独を癒す道」との間で、深い迷いが横たわっていた。

朝顔の種と迷いの心

宝暦四年、梅雨明け間近の湿気が古家屋敷の庭に重くのしかかっていた。与力の仕事から戻った古家陽一郎は、襦袢姿になり、手拭いで額の汗を拭いながら、自分の「秘密の花園」へと足を踏み入れた。

今年の朝顔市の興奮はまだ冷めやらぬものの、陽一郎の胸には、金銭に対する複雑な感情が渦巻いていた。庭に並んだ選抜中の朝顔の鉢を前に、彼は蹲る。

「美しいな。しかし、お前たちに、なぜ百両もの値がつくのか」

陽一郎は、指先で朝顔の葉を優しく撫でた。

その時、背後から声をかけられた。下男の六蔵である。

「旦那様、また朝顔を見つめていらっしゃいますな」

陽一郎は立ち上がらず、振り返らずに答えた。

「六蔵か。この花に見入ってしまう。まるで、人の世の理とは別の、不思議な力を持っているようだ」

六蔵は、陽一郎の傍らに静かに控えた。

「不思議な力とは、何でございましょうか」

「値だ。値が付くことだ。武士としてまっとうに勤め、米を食らい、米で給金を得ている。しかし、米の価値は下がる一方。ところが、食えぬ朝顔には、百両だの五十両だのの値が付く。百姓の米を作る苦労は一体、何だというのだ」

六蔵は、しばらく黙っていたが、やがて低い声で話し始めた。

「旦那様、それは人の『心』の値ではございましょうか。米は生きていくために『必要』なもの。朝顔は、生きていくことに『楽しみ』を与えるもの」

陽一郎は、ゆっくりと振り向いた。

「楽しみ」

「はい。世の中には、金に糸目をつけぬ豪商や、贅沢を知り尽くした芸妓さんがおります。彼らは、もう米の心配などとうにしておりませぬ。彼らが求めているのは、他の者には得られぬ、一時の心の晴れ。旦那様がお作りになった珍しい朝顔は、それにぴったり当てはまった。言わば、望みを買って行ったのです」

陽一郎は、膝の上に肘をつき、考え込んだ。

「望みか…。母は、朝顔を売ることを、人々に幸せを分けることだと申した。わしは、己の望みのために、種を蒔き、育てている。そして、わしが作った花が、今度は、人の望みとなった。母の言う『善』と、わしの言う『遊び』、そして、世間の『金』が、複雑に絡み合っている。何が正しく、何が間違っているのか、分からぬ」

六蔵は、静かに頭を下げた。

「旦那様の悩まれるお気持ち、お察しいたします。しかし、旦那様の朝顔が、人の心に光を灯したことは、間違いのない真でございます。それにおかげで、わしども下働きも、高い給金をいただける。ありがたいことです」

六蔵は、陽一郎の懐具合が良くなったことを、素直に喜んでいる。その顔に、陽一郎は救われる思いがした。

「そうか。お前たちの給金が増えたのは、わしの望みが、人の望みに変わったおかげか」

陽一郎は、ふと、庭の隅に置かれた小さな麻袋に目をやった。それは、昨年の朝顔市で一番人気だった花から採れた種が入っている。

「六蔵、今年もまた、変わった花が咲いてくれるか。それが、今から楽しみでならぬ」

六蔵は、安心したように微笑んだ。

「きっと、去年よりも、もっと美しい花が咲き、旦那様に楽しい未来を見せてくれるに違いありません」

陽一郎は再び、目の前の朝顔に視線を戻した。彼の心から、一瞬、孤独と迷いが消え、純粋な希望の光が差し込んだ。

「そうだな。六蔵。わしは、ただ、美しい花を咲かせることだけを考えよう。それが、母の道とも、わしの道とも、どこかで繋がっているのかもしれぬ」

夏の早朝、朝日が朝顔の棚を赤々と照らしている屋敷奥。

陽一郎は、身分を隠すかのように袖をまくり、細心の注意を払って花の交配作業をしていた。彼の目の前にあるのは、深い紫色の花弁が細かく裂けた「孔雀(くじゃく)咲き」の朝顔。

「世間では武家の務めを重んじるが、この花との対話こそが、真の己を磨く道。この『孔雀』の奇を、さらに『牡丹咲き』の豪華さと結びつける。人の手で、神の創りたもうた形を超克する。これこそ、刹那の美にかける武士の『道』だ」陽一郎は呟く。

彼は、品種改良の図譜を広げ、植物学的な知見と経験則を組み合わせ、交配の計画を立てる。その手つきは、刀を扱うかのように緻密で、精神的な緊張感に満ちていた。彼の熱狂は、金銭的な道楽ではなく、知の探求と美の創造に向けられていた。

弐. 路地裏の冬吉(成田屋留次郎の幼年期)

その頃、陽一郎の屋敷からほど近い、植木屋や職人が集まる路地裏。冬吉は、陽一郎の屋敷に草木の世話で出入りする植木職人の手伝いをしている。

ある日、冬吉は捨てられた朝顔の種の入った袋を見つけた。それは、陽一郎の屋敷で「徒花(あだばな)」(変化が弱く、選別から外れたもの)として処分された種だった。

冬吉はその種を、路地の裏、日当たりも水はけも悪い、薄汚れた板塀の足元にばらまいた。彼は特に理由もなく、ただ「この種は生きたがっている」と感じただけだった。

数週間後、冬吉が毎日水をやり続けた朝顔の中から、一本だけ異形の双葉が出た。通常の丸い双葉とは異なり、その双葉は**鋭く角ばった「蜻蛉葉(とんぼば)」**だった。これは、複雑な変化(出物)の遺伝子を秘めた「正木」が持つ特異なサインである。

(冬吉のモノローグ) 「親方には『どうせ出物なんか出やしねぇ』って言われた種だ。でもこいつぁ、他のどれとも違う目をしてる。強い。きっと、人には見えないものが見えてるんだ」

冬吉は、知識ではない、天性の直感でその種子の価値を見抜いた。彼の情熱は、学問ではなく、**「生かすこと」**への本能的な喜びだった。

参. 奇跡の出会い

ある朝、陽一郎が市中の朝顔の流行を視察するため、飯田町の裏道を通りかかった。彼の目的は、新たな「出物」を探し出すことだ。

そこで陽一郎の目に留まったのが、冬吉が育てた、まだ蔓を伸ばし始めたばかりの**「蜻蛉葉」**の苗だった。

陽一郎: 「小童よ、その苗…、どうした?」

冬吉は、身なりの立派な武士に声をかけられ、びくっとした。

冬吉: 「へえ。路地裏に捨ててあった種を蒔いたら、こんな葉っぱになりやした。変ですよね。」

陽一郎: (驚きを隠しつつ、静かに)「変ではない。これは**『蜻蛉葉』。大変化の遺伝子を秘めた『正木』**の兆しだ。これを捨てたのは誰だ?」

冬吉: 「さあ、分かりやせん。親方も見向きもしなかったもんです。」

陽一郎は、その苗に注がれた冬吉の純粋な愛情と直感を読み取った。自分の屋敷で知識と技術の粋を集めても、なかなか出ない「奇跡の一本」を、この無学な少年が偶然とはいえ、路地裏で生み出している。

(陽一郎のモノローグ) 「これが、天命か。高貴な庭園の知恵と、貧しい路地の生命力。真の美の探求には、どちらも欠かせぬということか…」

陽一郎は、冬吉に尋ねた。

陽一郎: 「この苗、儂に譲ってくれぬか。代わりに、お前の暮らしが立つだけの金を払おう。」

冬吉は、苗を売る代わりに、**「この苗が咲いた暁には、その花を一度だけ見せてほしい」**と願い出た。金ではなく、自ら生かした花の変化への渇望が、彼(後の成田屋留次郎)の原点となるのだった。

将軍の松と武士の心

江戸城、吹上御殿

宝暦四年、秋風が立ち始めた頃。古家陽一郎は、与力としてではなく、庭方同心として、江戸城の吹上御殿に呼ばれた。

「陽一郎様。お上(かみ)様へ献上される盆栽、拝見仕ります」

老中の側近が、陽一郎が携えてきた小ぶりの五葉松の盆栽を検分した。陽一郎は深く頭を下げたまま言葉を待つ。

「見事な幹の曲がり。葉も濃く、樹勢も強い。お上様の慰めになるであろう」

老中側近の低い声が響く。

「恐悦至極にございます。この松が、将軍様の日々のお疲れを少しでも癒やせれば、本望にございます」

しばらくして、陽一郎は、将軍家重公と世継ぎである幼い家治公が待つ広間に通された。家重公は顔つきこそ険しいが、どこか疲れ切った様子で、座敷に座っていた。その傍らには、まだ十歳前後の家治公が、緊張した面持ちで控えている。

陽一郎は、献上した五葉松を定位置に置き、再び最敬礼した。

家重公は、松を一瞥すると、顎を突き出し、何か低い唸るような声を漏らした。それは、常人には聞き取れぬ、不明瞭な響きであった。

家治公がすぐさま、その声を読み取り、通訳した。

「父上は、申されました。『この松は、なかなかよい。色が深く、見飽きぬ』と」

陽一郎は畏まり、答える。

「将軍様にお褒めいただき、恐悦の極みでございます。私が、種より育て、七年もの間、丹精込めた一鉢にございます」

家重公は、ふたたび、喉の奥から絞り出すような音を発した。家治公は、父の顔色を伺いながら、ゆっくりと通訳する。

「『そなたの献上の松は見事だが、一つ、頼みたい儀がある』と仰せでございます」

陽一郎は姿勢を正した。

「はっ。私に務まることであれば、何なりとお申し付けくださいませ」

家治公は、父の視線が向けられた奥の、飾り棚の一角を指差した。

「あそこにございます。父上が、夜毎、心を砕かれております**『三代将軍』**の松。あれが、今、病に伏しております」

陽一郎は、将軍家三代の権威を象徴すると聞く、伝説の五葉松が、献上品を並べる棚の片隅に置かれていることに驚いた。

目を凝らすと、その松は、噂に違わぬ、五百年もの時を経た重厚な幹を持ちながら、全体的に葉の色が薄く、特に先端の枝には枯れ込んでいる部分が多く見られた。樹勢が明らかに衰えている。

家重公が、苦しげに言葉を連ねる。家治公は、真剣な顔で父の言葉に耳を傾けた。

「父上は、『この松は、祖父である三代将軍家光公の御遺愛。五百年もの間、わが将軍家の威厳を見守ってきた。それが、この家重の代になって、もし枯れるようなことがあれば、世の将軍家への信を失う』と、大変ご心配されております」

家治公は、陽一郎を真っ直ぐに見つめた。

「父上は、この三代将軍の松を、そなたの献上した松と同じように、力強い新芽を出すよう、生き返らせて欲しいと、切に願っておられます」

五百年の時を生きる将軍家の秘宝。その命運が、一介の与力である自分に託される。陽一郎の心臓が激しく鳴った。

「五百年…。それは、金では測れぬ、将軍家の歴史と望みそのものでございます」

家重公は、陽一郎の言葉を聞き取り、深く頷くと、再び唸り声を上げ、家治公に通訳を促した。

「『金はいくらでも払おう。だが、この松を救うことこそ、武士の忠義。そなたの献上した松が持つ、あの生(せい)の力を、この松にも注いでくれ』と」

陽一郎は、家重公の、言葉にならぬ叫びの中に、将軍としての重圧と、孤独な一人の人間としての切なる願いを聞いた。それは、亡き妻子を偲び、朝顔の**「美しさ」という未来の「望み」**に縋る自身の孤独と、どこか重なる。

「承知いたしました。命に変えましても、この『三代将軍』の松を、新芽を出すまで、この手で支えさせていただきます」

陽一郎は、深く、地につくほど頭を下げた。この松を救うことは、金銭への迷いを捨て、武士として、そして園芸を愛する者として、命を繋ぐという、最も高貴な善を為すことに他ならない。

家治公は、安堵したように微笑んだ。

「父上は、『ようやった。これで、わが家の永代も、そなたの手に託された』と仰せでございます」

土の記憶と手の温もり

吹上御殿、秘密の作業場

陽一郎は、御典医や庭方同心の手を借りることなく、松の治療を許された。場所は、吹上御殿の一角にある、人払いされた静かな植木小屋である。

陽一郎はまず、衰弱した「三代将軍」の松を、慎重に検分した。

「六蔵が申した通りだ。この五百年の歴史は、金には換えられぬ」

松の幹には深い捻じれと、苔が生い茂り、威厳に満ちている。しかし、鉢の中の土は硬く締まり、排水の悪さが見て取れた。

「鉢の中が、長きにわたり、息をしていなかったのやもしれぬ」

陽一郎は、庭方として手伝いに来た老同心、佐吉に話しかけた。

「佐吉殿。この松は、いつ頃からこの鉢にございますか」

佐吉は、頬を掻きながら答えた。

「さあ、わしがここに勤め始めた四十年前から、この鉢でございます。植え替えなど、いつ行ったのか。誰も知らぬ。将軍様の大事にされる松ゆえ、下手に触れられなんだのでな」

陽一郎は小さく息を吐いた。

「五百年の松を、四十年間も植え替えずにおったか。これは、松の命綱が、土の中で詰まっておる」

「陽一郎殿、それは、植え替えをするということか。恐れながら、これほどの松を植え替えるのは、命懸けの作業と聞きます。失敗すれば、お上の命に関わるやもしれぬ」

佐吉の声には、恐怖が滲んでいた。陽一郎は松を撫でながら、静かに言った。

「松が望んでいるのは、新しい土と、根に風を通すことだ。このままでは、やがて根が腐り、水を吸えなくなる。そうすれば、将軍家の歴史はここで途切れる」

陽一郎は佐吉の顔を見た。

「佐吉殿。この松を、武士の忠義としてではなく、生きた命として見るのだ。土の中の詰まりを解いてやれば、必ずや、新しい息吹を返す」

佐吉は、陽一郎の真剣な目に気圧され、唾を飲み込んだ。

「…承知いたしました。植え替えは、すべて、陽一郎殿の指図に従います」

鉢の中の決断

陽一郎は、佐吉と共に、慎重に植え替えの準備を始めた。

まず、硬く締まった土を、竹串で丁寧に突き崩し、根鉢を崩していく。

「佐吉殿、この松は、鉢の中の土の記憶を大事にしておる。一気に崩してはならぬ。少しずつ、古い土の記憶を尊重しながら、新しい土の未来を差し込むのだ」

何日にもわたり、地道な作業が続いた。そして、ついに根鉢の表面を覆う、石のように硬くなった古い根を、細い道具で切り開く時が来た。

「ここが勝負どころだ。悪い根を恐れず切り、新しい根の道を作ってやる」

陽一郎は、細心の注意を払いながら、衰えた根を切り詰めた。佐吉は、傍で汗を拭いながら見守る。

「陽一郎殿、大丈夫でございますか。葉が、さらに弱るのではないかと…」

「案ずるな、佐吉殿。松は、切られた根の分だけ、葉を落とし、自らバランスを取る。だが、その後、必ずや新しい根を出す。それが、五百年の松が持つ生命の力だ」

新しい水はけの良い土に植え替え、松を固定し終えると、陽一郎は深く息を吐いた。

家治公の訪問

植え替えから数日後。病状を心配した家治公が、植木小屋を訪れた。家重公の側近も同行している。

家治公は、松の前に立ち、不安そうな顔をした。

「陽一郎殿。松の色が、植え替え前よりも、さらに悪くなったように見えます」

陽一郎は、その言葉に顔色一つ変えず、答えた。

「家治様、ご心配をおかけし、申し訳ございません。今は、松が力を溜めているところでございます。根を切られた松は、まず、土の下で命を繋ぐことに専念いたしますゆえ」

家治公が、陽一郎の顔を覗き込む。

「いつ頃、新芽を出すのか」

「それは、松が決めることでございます。しかし、この秋の間に、必ずや、その青い光を見せてみせましょう。それが、私の武士としての、そして、この松の命に対する誓いにございます」

家治公は、松の幹にそっと手を触れた。

「父上は、この松の命が、ご自身の命と同じように思えてならぬようです。陽一郎殿。頼みます」

「畏まりました。必ずや、松の望みを叶え、将軍家の未来を繋いでみせましょう」

陽一郎は、五百年の松に、自分の孤独や迷いを重ねる。松の命を救うことが、今、自分の人生を正しい道へ導く唯一の善であると確信した。彼は、毎日、松に話しかけ、水を与え、その手の温もりで、松の回復を信じ続けた。

この後、五葉松が無事に新芽を出す場面を描くことで、陽一郎の技術と情熱が報われる感動的なクライマックスを迎えることができます。いかがでしょうか。

繋がれた五百年の望み(クライマックス)

深まる秋、植木小屋の静寂

植え替えから四十日余りが過ぎた。季節は深く進み、吹上御殿の庭木も色を落とし始めている。しかし、陽一郎の心の中には、まだ春が訪れていなかった。

彼は毎日、植木小屋に籠り、「三代将軍」の五葉松に水をやり、その葉色を、幹の熱を、微細な変化も見逃すまいと見つめ続けた。

佐吉は、松に話しかける陽一郎の姿を、遠巻きに見つめるばかりだった。

「陽一郎殿。もうすぐ霜が降ります。新芽が出なくとも、松は枯れてはおりませぬ。これ以上、手をかけるのは…」

佐吉が口を開くが、陽一郎は首を振った。

「佐吉殿。この松は、五百年の間、ずっと将軍家の望みを背負ってきた。今、将軍様が望まれた『新芽』を出させることが、私の役目だ。私自身の望みも、この松に懸かっている」

陽一郎は、朝顔に傾けた情熱と同じ、いや、それ以上の魂を松に注ぎ込んでいた。もしこの松を救えなければ、朝顔の美に懸けた自分の人生も、虚飾に過ぎなかったのではないか、という恐れがあった。

その日の朝、陽一郎がいつものように松の前に膝をついた、その時だった。

青い光の発見

枯れ色が目立っていた枝の先端の、僅かな窪み。その中から、ほんの**一筋の「青い光」**が、かすかに、しかし確かに覗いているのを見つけた。

「……佐吉殿!」

陽一郎は思わず声を上げた。

「どうなさいました、陽一郎殿!?」

「見よ!これだ!これが見たかったのだ!」

佐吉が恐る恐る松の枝先に目を凝らす。小さな、まるで松葉の誕生を告げる翡翠色の針のような、新しい芽が、古い葉の根元から顔を出していた。

「あ…ああ!新芽!五百年の松が、息を吹き返した!まさしく、御世の栄えにございます!」

佐吉は、その場で平伏し、涙ぐんだ。

「三代将軍は、死なぬ…!将軍家は、永代(とわ)に続く!」

陽一郎もまた、その青い芽の前で、深く頭を下げた。新芽は、微小だが、その青は、献上した彼の松の葉よりも、さらに濃く、力強く見えた。

「将軍様、拝見いたしましたか。この松は、望みを捨てていなかった!」

彼はすぐさま、老中側近に報告を上げ、家重公と家治公に松を拝謁させる機会を得た。

最後の拝謁、交錯する想い

植木小屋に将軍父子を迎えるという、異例中の異例の場となった。家重公は、憔悴した様子ながらも、松を見るその目に、確かな期待の光を宿していた。

陽一郎は、「三代将軍」を静かに運び出し、床几(しょうぎ)の前に置いた。

家重公は、松を食い入るように見つめた後、深く、長く、唸り声をあげた。その声は、安堵と、言葉にできない喜びに満ちているように聞こえた。

家治公が、松の前に立つ陽一郎に、声を震わせながら通訳した。

「父上は、仰せでございます。『見事だ…!』」

家治公は、新芽を指さす。

「『その青い針は、まるで、わが幕府の新しき時代を告げる兆しのようである。五百年の命を、わが代で失わせずに済んだ…そなたの忠義、天晴れなり!』と」

陽一郎は深く頭を垂れた。

「将軍様。これは、私一人の力ではございません。松の五百年分の生命力が、自ら道を切り開いたのでございます」

家重公は再び、今度は陽一郎に向け、低い声を上げた。家治公は、その言葉をゆっくりと選んだ。

「『そなたが献上した松は、望みの松。そなたが救ったこの松は、永代(とわ)の松。そなたは、金銭の欲を捨て、この松の命を選んだ善き心を持つ武士である。わしは、そなたの朝顔に懸けた情熱も知っておる。そなたの望み**、わしが必ず叶えてやろう…何を望むか?』」

陽一郎は、顔を上げ、将軍の目を見た。金銭は望まぬ。地位も望まぬ。彼の内にあった迷いは、この五葉松が新しい命を吹き返す姿を見て、晴れ渡っていた。

「将軍様。私が望むものは、ただ一つにございます」

家重公が、微かに身を乗り出した。家治公も固唾を飲む。

「私が望みますのは、ただ…この**『三代将軍』の松が、私のような者に、命を繋ぐことの尊さを教えてくださったこと。そして、私の献上した朝顔が、将軍様の日々のささやかな癒やし**となり続けることでございます」

陽一郎は、将軍の威厳と、五百年の命の尊さの前に、自分の迷いがちっぽけなものであったことを悟った。本当に価値あるものは、金銭ではなく、**「望み」と「命」**を繋ぐことにある。

家重公は、陽一郎の言葉を聞き終えると、しばらく松と陽一郎を交互に見つめていたが、やがて、深く、静かに、**「うム…」**とだけ答えた。それは、全てを理解し、満足した者の声であった。

家治公は、感動に目を輝かせながら、通訳した。

「父上は、『そなたの心、しかと受け取った。そなたの望みは、将軍家の望みとなった』と仰せでございます」

陽一郎は、将軍家の歴史と、自らの朝顔への情熱が、この五百年の松によって一つに繋がれたことを感じた。彼は再び松に目をやり、青い新芽に、自分の未来という確かな望みを見つめたのであった。

二つの望み、二つの家督(最終エピソード)

陽一郎の決意と姪との対話

五葉松「三代将軍」が新芽を出した吉日の夜、陽一郎は、江戸城からの褒美として拝領した反物をお花と二人の息子に届けた。

陽一郎の亡き妹の娘であるお花は、陽一郎の屋敷の台所で、静かに茶を淹れていた。冬吉は十五歳、春吉は八歳。二人は、陽一郎の献上した朝顔の絵図を囲み、興奮して話している。

陽一郎は、子どもたちに背を向け、お花に向かって切り出した。

「お花。わしは、古家家の武士の家督について、決めたことがある」

お花は、陽一郎の真剣な顔を見て、静かに正座した。

「陽一郎様。まさか…養子の儀でございますか」

「そうだ。だが、普通の養子ではない。冬吉。お前を、古家陽一郎の養子として迎える」

冬吉は、驚きに目を見開いた。

「わ、わしでございますか?武士の…家督を」

「そうだ。お前は長男。妹の血を継いでいる。武家の家督は、血が途切れてはならぬ。これから与力の道を、わしが教える。武士としての作法、心構え、すべてだ。古家家の禄は、お前が継げ」

冬吉は、興奮と緊張で、声が出ない様子だ。

陽一郎は次に、お花の方に向き直った。

「そして、お花。お前には、もう一つの古家家を継いでもらう」

「もう一つ…」

「そうだ。植木屋お咲の暖簾、屋号、商売、そして、この屋敷の裏にある品種改良の庭。あの庭の秘術、そして、朝顔の未来を、お前に託したい」

お花は息を呑んだ。

「陽一郎様…女である私に、屋号を継げと仰せでございますか」

「世間は、女が家督を継ぐことを好まぬ。まして、植木屋の株仲間は厳しい。だが、わしの目に、亡き母(お咲)の魂が宿っているのは、お前だけに見える」

陽一郎は、朝顔の絵図を見つめている春吉を指差した。

「お前は、この植木屋の屋号を継ぎ、その技術を春吉に教え込むのだ。春吉が、将来、植木屋お咲の三代目となればよい。お前は、二代目として、わしが裏で支える」

「裏で…」

「そうだ。株仲間への出入り、大口の取引、すべて、わし(古家陽一郎)の名義で行おう。わしは、武士の家督を冬吉に譲った後、隠居の身となる。そして、武士としての最後の忠義として、お前たちの盾となり、師として生きる。植木屋の仕事こそ、わしの望みであり、善であると、五葉松が教えてくれた」

お花は、涙ぐみながらも、力強い決意を込めて答えた。

「陽一郎様。私の心の迷いも、消えました。母が申した**『花を育てて、売ることは、みんなの幸せのため』という道。それを、私が継がせていただきます。春吉にも、しっかりと命を生かすことの尊さ**を教え込みます」

春吉は、絵図から顔を上げ、陽一郎に尋ねた。

「陽一郎様!わしは、お花姉様の言う、一番珍しい美人朝顔を、たくさん咲かせればよいのでございますね!」

陽一郎は、春吉の無邪気な瞳を見て、初めて心から笑った。

「そうだ、春吉。お前は、この世にまだない、最高の美人を作り出すのだ。それは、金よりも、将軍家の禄よりも、遥かに価値のある望みだ」

最後の儀式

その後、陽一郎は、公には冬吉に古家武家の家督を譲る手続きを進め、私的には、お花に植木屋お咲の屋号を譲る、二つの儀式を執り行った。

植木屋の株仲間に呼ばれた小さな宴席で、陽一郎は頭を下げた。

「これからは、この娘、お花が植木屋お咲の店を切り盛りいたします。しかし、わしは、古家の隠居として、株仲間の皆様との義理は、すべて、生涯にわたり担い続けます。お花の技術と情熱は、亡き母、お咲以上。どうか、よろしくお頼み申します」

陽一郎は、女であるお花を守る武士の盾として、最後の務めを果たした。

陽一郎は、自らの秘密の花園の暖簾を、お花の手に渡した。陽一郎は、武士の禄を冬吉に託し、自らは、花を愛する武士として生きる道を選んだ。

彼は今、与力という仕事の苦しみから解放され、母の魂と、春吉の未来という、二つの望みを繋ぐ棟梁として、静かに笑うのであった。

宝暦四年。古家陽一郎は与力として、今日もそつなく勤めを果たした。亡き妻子を悼む日々はとうに昇華されたが、その胸に積もる孤独は、陽一郎を武士の家から遠ざけるようであった。

陽一郎は、夜の帳が下りる頃、手燭の光だけで、屋敷の隅にある紫陽花の株を見つめる。

彼がこの世で初めて与えられた記憶は、この株の根元の、冷たく湿った土の匂いだ。拾われた身。自分は、古家家の**「外の人間」**である。そのことを、養父母であるお咲と菊次郎は一度たりとも口にしなかったが、陽一郎の心は常にそれを抱えていた。

菊次郎は命を懸けて武士の地位を守り、お咲は**「命を生かす」**朝顔に情熱を注いだ。この二つの家を、自分のためにではなく、拾ってくれた父母の血筋に繋ぎ直すこと。

陽一郎が与力の禄で得た金は、父母が残したこの家を保つためのもの。だが、朝顔から得た300両は、その**「恩返し」を成すための清らかな力**であるように思われた。

陽一郎は、庭を覆い尽くす花々を見つめる。彼の望みは、ただ一つ。

「自分は裏方に徹し、血縁の者たちに古家の武士の禄と、お咲の魂たる植木屋の屋号を継がせる。それこそが、二つの家を守り抜いた父母への、唯一の忠義である」

将軍の静と五葉松の理

吹上御殿、五葉松の回復後

五葉松「三代将軍」が新芽を出してからしばらく経った、ある穏やかな昼下がり。陽一郎は、植木小屋から御殿の広間に呼ばれた。将軍家重公は病床にあり、広間にいるのは世継ぎの家治公と、側近のみであった。

家治公は、新芽を出した「三代将軍」の鉢を、献上された陽一郎の朝顔の絵図と並べて眺めていた。

「陽一郎殿。父上に代わり、改めて感謝を申す。五百年の命を繋いでくれた、そなたの功績は大きい」

陽一郎は平伏した。

「恐悦至極にございます。松が自ら命を繋いだのであり、私はただ、その助けをしたに過ぎませぬ」

家治公は、静かに頷いた。

「そなたのその謙虚さこそ、武士の鑑である。しかし、父上がそなたを信頼し、この松を託したのには、深い**理(ことわり)**がある」

家治公は、周囲の側近に目配せし、彼らを下がらせた。広間には、家治公と陽一郎、そして松と絵図だけが残された。

言葉を超えた理解

「父上は、言葉が不自由でいらっしゃる。故に、世間は父上を**『無能』や『暗愚』**と評する者もいる。だが、そなたは知っておろう。父上は、言葉を超えた力で世を動かしておられた」

家治公は、静かに語り始めた。

「父上は、人の本質を、言葉ではなく、目と気配で読まれた。誰が私欲に走り、誰が忠義であるか。一目で見抜く力があった。故に、父上は、田沼意次という、金の理を動かせる人物を登用されたのだ」

「承知しております。世に流れる金を、幕府に取り込むための、父上の大いなる決断と拝察しております」

「うム。そして、父上は、私に一つの教えを残された」

家治公は、五葉松の幹に静かに触れた。

「『将軍は、動いてはならぬ』と」

陽一郎は、思わず顔を上げた。

「動いてはならぬ…でございますか」

「そうだ。吉宗公の時代は、将軍自らが動く**『動の政治』であった。だが、今の世は複雑だ。動けば動くほど、摩擦と混乱を生む。動かすべきは、人の心と、金の流れだ。将軍は、『静かに、すべてを見通す理性の柱』**であるべきなのだ」

家治公は、朝顔の絵図に目を移した。

「そなたの献上した朝顔も、この松も同じだ。朝顔は、自ら変化し、美を咲かせる。松は、五百年の風雪に耐え、静かに時を刻む」

理性と静の将軍

家治公は、穏やかながらも強い視線で陽一郎を見つめた。

「父上が、この松をそなたに託したのは、二つの理由があったとわしは思う」

「何でございましょうか」

「一つは、五百年の命を繋ぐ忠義。そしてもう一つは、そなたの心の静けさだ」

家治公は、静かに立ち上がった。

「わしは、毎朝、朝のお目通りを欠かさぬ。そして、厠に行く時も、決して家臣を起こさぬよう、静かに行動する。それは、わしが将軍として、常に理性を保ち、感情で世を乱さぬという誓いだ」

「それは…まさしく、帝王学でございます」

「そうだ。そして、父上は、そなたの内に、武士の地位や金銭に執着しない『静』の心を見たのだ。そなたは、金銭の誘惑を退け、命を生かすことを選んだ。そなたの朝顔への情熱も、理性の内に収まった情熱であると見抜かれた」

家治公は、陽一郎に優しく声をかけた。

「そなたの恩返しという道、わしは理解した。父上の意向を受け、わしはそなたの武士の家と植木屋の家、二つの家督を繋ぐ道が、最も理にかなっていると判断した。ゆえに、安心せよ。そなたの選んだ道は、**将軍家が認める『静かなる善』**である」

陽一郎は、将軍の深い理解と、言葉の端々から感じられる厳格な理性に、畏敬の念を覚えた。

「家治様…ありがとうございます。私の迷いは、完全に晴れました」

陽一郎は、平伏しながら、心の中で誓った。この**「静」の将軍の治世を、自らも「静かに、裏から支える」**ことが、将軍家への、そして父母への、最も高貴な忠義であると。

宝暦四年 春

江戸城下の【植木屋お咲】。この暖簾は、かつて花見の時期には

第二章

宝暦の頃、冬の冷え込みが厳しいある朝、二代目「植木屋お咲」ことお花は、雪化粧をした六義園へと足を運んだ。主を失い荒れ果てた六義園も、雪が全てを覆い隠すことで、かつての優雅な姿を浮かび上がらせていた。

雪を踏みしめ、小道に沿って歩くお花は、祖母の初代お咲が、この地で様々な植木を慈しみ育てた日々を思い浮かべた。その光景が目に浮かび、熱い涙がこぼれ落ち、頬を伝った。

そんな思いに浸りながら歩いていくと、庭園の隅に小さな藁小屋を見つけた。

「何かしら」

好奇心に駆られたお花が、そっと小屋を覗き込んだその時、背後から男の声がした。

「何かご用ですか」

お花は、はっとして振り返った。そこに立っていたのは、二十代であろうか、すっきりとした体つきの若い男であった。彼は破れがちな着物をまとい、頭の総髪を後ろで一つに結んでいる。

「いえね。ここは、祖母が以前、植木仕事をしていたんでね。その昔を思い出していたんですよ」お花は、とっさに答えた。

男は静かに会釈した。

お花は、雪の中の男の様子を見て、放っておけなくなった。

「よろしければ、朝餉でもいかがですか。近くに、良い茶屋があります」お花は優しく誘った。

男は、わずかに戸惑いの色を見せたが、やがて頷いた。茶屋で、温かい粥を前に、男はぽつぽつと自らの過去を語り始めた。

「私は、正之助と申します。父は、越後騒動で脱藩した武士の息子です」

「武士の」お花は、驚きを隠せなかった。

「はい。父が江戸にいる最中に騒動が起こり、そのまま脱藩し、お秋という女と世帯を持ちました。父の唯一の趣味が植木の育成。それで細々と生計を立てていたのです」

正之助は、粥を一匙口に運び、続けた。

「しかし、母が病で亡くなると、父は気力を失い、その後すぐに病に臥せ、亡くなってしまいました」

「それは、お気の毒に」お花は、そっと茶碗を差し出した。

「私はその後、棒手振りや水屋など、様々な仕事をしましたが、どうにも性に合わず。やはり、花や植木を触っているときが、一番幸せだと悟りました」

正之助は、荒れた六義園を偶然見つけ、管理人から許可を得て、この狭い角地で花々を育て、売りさばいて生きているのだと言う。

「ここでの生活は、決して楽ではありません。しかし、土と花に囲まれていると、心が落ち着くのです」

彼の唯一の財産は、一つの袋に入った花の種であった。

「父が脱藩する時に、故郷から持ってきたものだそうです。『いつか、これを咲かせてくれ』。それが、父の遺言でした」

正之助は、花の種への愛と、父への思いを、静かに語った。

お花は、正之助の清らかな植物愛と、芯の強さに、強く心を惹かれた。それは、家重公の盆花を通して感じた純粋な心と、どこか重なるものであった。

「正之助殿。よろしければ、私の花園で働きませんか」お花は決意を込めて言った。

「私の花園は、駒込にあります。良質な水と肥沃な土がございます。あなたの腕と、その花の種があれば、きっと素晴らしい花が咲かせられる」

正之助は、しばらく黙り込んだが、やがて顔を上げた。その目には、希望の光が宿っていた。

「そのお言葉、ありがたく頂戴いたします。私の命、花と共にある。お花殿の期待に応えたい」

正之助は、植木屋お咲の住み込みとして働くことになった。彼は、その溢れるばかりの植物愛を、余すところなく発揮した。

そして、彼が大切に持っていた袋の中の種から、誰も見たことのない珍しい花々が次々と生まれた。それは、お花と正之助の静かな恋と共に、江戸の園芸界に新たな彩りを与えるのであった。

正之助がお花の花園に来て数月。春を迎えた駒込の花園は、彼の持ち込んだ種から生まれた新しい命で溢れていた。中でも、人目を引いたのは、越後藩が門外不出としてきた幻の雪見椿である。

雪見椿は、花弁が幾重にも重なり、雪の結晶のように白く透明な美しさを持つ。通常の椿よりも寒さに強い生命力を秘めており、その姿は、逆境の中で生き抜いた正之助の人生そのものを映しているようであった。

お花は、その雪見椿を見て、感嘆の声を上げた。

「正之助さん。この椿は、他の椿とは格が違う。雪の中で生きる強い意志を感じます」

「これは、父が越後の山中で見つけ、改良を重ねたものです。故郷の厳しい雪景色を思い出すようだと、父は言っていました」正之助は、静かに答えた。

この珍しい花は、すぐに江戸の園芸家の間で評判となった。「植木屋お咲の花園に、幻の雪見椿がある」という噂は、瞬く間に広がり、その花を高値で買い取りたいという裕福な客が、毎日のように花園を訪れるようになった。

しかし、その評判は、越後藩の江戸屋敷にも届いていた。

ある日、正之助が土を耕す姿を、お花が静かに見つめていた。彼の優しくも力強い手の動きは、お花の心に安らぎを与えた。

「正之助さん。この雪見椿は、きっと大評判になりますよ。あなたのお父様の願いが、今、叶いつつあります」

「それは、お花殿のおかげです。この種を、最高の土と水で育ててくれた」

正之助は、ふと手を止め、寂しげな目でお花を見つめた。

「ですが、この椿の評判が広がりすぎるのは、良からぬことかもしれません」

「どういうことです」お花は、竹筒で水を撒く手を止めた。

「越後では、この椿は、藩主以外は育ててはならぬという掟がありました。この花が、私を危うい立場に追いやるかもしれない」

正之助は、自分の出自が、お花とその花園に迷惑をかけることを恐れた。

「私は、あなたと花園に、これ以上の厄介をかけたくない。私は、ここを離れるべきかもしれません」

彼の口数の少なさとは裏腹に、その言葉には強い決意がにじんでいた。

お花は、静かに彼の隣に歩み寄った。

「正之助さん。あなたは、雪見椿の種を大切に守り抜いた。それは、父の遺言という、何よりも重い武士の心です。その純粋な心に、藩の掟で罰せられる謂れなどありません」

お花は、強い眼差しで正之助を見つめた。

「私は、あなたとこの花を、誰にも奪わせません。かつて、将軍家重公に桔梗を献上したように、この雪見椿も、将軍家への献上品とする手立てを考えます」

「将軍に献上」正之助は、驚きの声を上げた。

「はい。この花は、静かな強さを持つ。それは、清廉な政治を志す家重公の心に、必ず響くでしょう。そして、忠光様にご相談すれば、必ず道は開けます」

お花は、恋する男と、彼の命を懸けた花を守るため、自らの信用と政治的な繋がりを使うことを決意したのだ。彼女の心の中には、愛と、花がもたらす正義が、固く結びついていた。

お花は、正之助の持つ雪見椿と、それと対をなす雪割草も献上品に加えることを考えた。どちらも雪国の厳しさの中で生まれ、清らかな白と強靭な生命力を持つ。それは、家重公の孤独な強さと、お花の決意を象徴するものであった。

お花は早速、大岡忠光のもとを訪れた。

「忠光様。このたび、雪見椿、そして雪割草を将軍家重公に献上したいと存じます」

忠光は、献上品が門外不出の品種である可能性を察していた。

「お花殿。それは、ただの献上ではないだろう。正直に話してくれ」

お花は、正之助の出自の事情と、彼の父が残した種の遺言、そして、藩の掟により彼が命を脅かされている現状を包み隠さず話した。

「彼が育てた花は、人の命を救うほどの美しさを持っています。その美しさが、人の命を奪う道具となるなど、あってはなりません」

お花は、献上することで、その花を公儀の御用品とし、藩の追及から正之助を守ってほしいと強く願い出た。

忠光は、お花の覚悟と、彼女が寄せる正之助への思いを理解した。彼は、お花が以前、家重公の頻尿の悩みや政治の清廉さについて静かに示した知恵と心根を思い出した。

「お花殿。あなたの花への真摯な心と、人の命を尊ぶ心は、必ずや家重公の心を打つだろう」

忠光は、献上の儀を取り計らうことを約束した。そして、献上品を「越後の雪解けの清らかさを映した、稀なる名花」として、将軍家重公へと届けた。

家重公は、献上された雪見椿の潔い白さと、雪割草の繊細な花弁を、静かに見つめた。その簡素ながらも芯のある美しさは、彼の孤独な魂に深く響いた。

「この花は、逆境に耐え、清く咲いた花である」家重公は、そう呟いた。

そして、この二つの花が、藩の掟を越えて、人の命と希望を守るために献上されたことを知る。

家重公は、忠光に命じた。

「この雪見椿と雪割草は、御城の御用品とする。そして、この花を育てた者を、植木御用として召し抱える手立てをせよ」

家重公の叡慮により、雪見の二花は、藩の追及の手から完全に守られた。これにより、正之助は公儀に仕える者となり、越後藩は、御用品を追及する術を失った。

お花は、正之助の命と、彼の父の遺言を守り抜いた。そして、二人の植木仕事を通じた愛は、藩の厳しい掟を超えて、静かな安寧を得たのであった。

月日重ねて、家重公の叡慮により、正之助は正式に公儀の植木御用として召し抱えられた。彼は、お花の花園を拠点とし、雪見椿や雪割草をはじめとする御用品の育成に携わることになった。命の恩人であるお花への深い敬愛と、静かな恋心が、彼の胸に宿っていた。

雪が解け、駒込の庭に穏やかな春の日差しが差し込む頃。二人は、植え替え作業の合間に、雪見椿の傍らで一服していた。

「お花殿。公儀の植木御用という身分を得たのは、すべてあなたのおかげだ」正之助は、心からの感謝を口にした。

「私は、あなたに命を救っていただいた。この恩は、一生忘れない。あなたは、私の命の恩人だ」

お花は、温かい茶を差し出した。

「正之助さん。命の恩人などと、堅いことは言わないでください。私は、ただあなたの花と、あなたの命が失われるのが、惜しかっただけです」

「私の花」

「ええ。あなたの雪見椿と、雪割草には、越後の厳しい雪を耐え抜いた清らかで強い心が宿っています。それは、あなたの心そのものだ。私は、その花を、この世に咲かせたかったのです」

正之助は、お花のまっすぐな眼差しに、愛しい感情が込み上げてくるのを感じた。

ある夕暮れ時、二人は、雪割草の品種改良について話し合っていた。

「この雪割草の深い紫は、まるで夜明け前の空のようです。この色の発現は、土の酸性度をわずかに変えることで、さらに増すだろう」正之助は、専門的な知識を交えながら語った。

「そうですね。あなたは、花の色や形だけでなく、土や水の声を聞いているようだ」お花は、感心して言った。

正之助は、作業の手を止め、お花の方を見た。

「私は、言葉を飾ることが苦手だ。武士の家に育ったが、父の代から世を捨てた。だから、花が私の言葉だ」

「その花が、私にはよく聞こえます」お花は、静かに返した。

「あなたの雪見椿は、『私を見てくれ』と叫んでいました。あなたの雪割草は、『孤独ではない』と囁いています」

お花の言葉に、正之助は驚いた。彼女は、自分の内に秘めた思いを、花を通じて全て理解している。彼は、初めて心の底から理解されたと感じた。

「お花殿……あなたは、私の孤独を知っている。そして、私の生きる道を与えてくれた」

正之助は、お花の優しさと強さに、もはや敬愛だけではない恋情を抑えきれなくなっていた。

ある日、雪見椿の古木の剪定を終えた後、正之助は思い切って、お花に静かに言った。

「お花殿。あなたがいなければ、今の私はない。この命は、あなたのものだ」

お花は、その真剣な瞳を受け止めた。彼女の胸も、とっくに恋心で満たされていた。

「命を救ってくれたからではない。花を愛するその心に、私は惹かれている。私は、あなたの植木御用ではなく、あなたの夫として、生涯を共にしたい」

正之助は、自分から未来への願いを伝えた。その言葉は、潔い椿の花のように、まっすぐであった。それを言い終わった正之助の顔に、初めて安堵と喜びの表情が浮かんだ。

彼は、そっとお花の手を取った。

「お花殿。心よりお礼申す。私は、あなたと共に、花と土と共に生きる。それが、私の一番の幸せだ」

「わたくしこそ、喜んで……」涙にむせび、正之助の目をみつめるばかりだった。

二人は、雪見椿が咲き誇るその場所で、愛と未来を静かに誓い合った。

お花は数日後、大岡忠光のもとを訪れた。

「忠光様。このたび、雪見椿、そして雪割草を将軍家重公に献上したいと存じます」

忠光は、献上品が門外不出の品種である可能性を察していた。

「お花殿。それは、ただの献上ではないだろう。正直に話してくれ」

お花は、正之助の出自の事情と、彼の父が残した種の遺言、そして、藩の掟により彼が命を脅かされている現状を包み隠さず話した。

「正之助が育てた花は、人の命を救うほどの美しさを持っています。その美しさが、人の命を奪う道具となるなど、あってはなりません」

お花は、献上することで、その花を公儀の御用品とし、藩の追及から正之助を守ってほしいと強く願い出た。

忠光は、お花の覚悟と、彼女が寄せる正之助への思いを理解した。彼は、お花が以前、家重公の頻尿の悩みや政治の清廉さについて静かに示した知恵と心根を思い出した。

「お花殿。あなたの花への真摯な心と、人の命を尊ぶ心は、必ずや家重公の心を打つだろう」

忠光は、献上の儀を取り計らうことを約束した。そして、献上品を「越後の雪解けの清らかさを映した、稀なる名花」として、将軍家重公へと届けた。

家重公は、献上された雪見椿の潔い白さと、雪見椿の繊細な花弁を、静かに見つめた。その簡素ながらも芯のある美しさは、彼の孤独な魂に深く響いた。

「この花は、逆境に耐え、清く咲いた花である」家重公は、そう呟いた。

そして、この二つの花が、藩の掟を越えて、人の命と希望を守るために献上されたことを知る。

家重公は、忠光に命じた。

「この雪見椿と雪割草は、御城の御用品とする。そして、この花を育てた者を、植木御用として召し抱える手立てをせよ」

家重公の叡慮により、雪見の二花は、藩の追及の手から完全に守られた。これにより、正之助は公儀に仕える者となり、越後藩は、御用品を追及する術を失った。

お花は、正之助の命と、彼の父の遺言を守り抜いた。そして、二人の植木仕事を通じた愛は、藩の厳しい掟を超えて、静かな安寧を得たのであった。

穏やかな春の日、お花と正之助は、家族と共に花の公園にいた。雪見椿は、今年も清らかな白い花を幾重にも咲かせ、命の強さを示していた。

お花は、椿にそっと語りかけた。

「竹松。喜六。あなた方の志は、この清らかな花として、見事に咲きました」

「意知殿の不正も、腐敗も、もうこの土を汚すことはできません。争いは、遠い場所のこととなりました」

冬吉は、公園の美しさを後世に残すため、筆を動かしていた。春吉は、来園者に花の説明を楽しげにしていた。

「お母上。この椿は、冬の雪に耐えて、春に笑う。だから強いのですね」春吉が、椿から離れ、お花の傍に来て言った。

「そうだ、春吉。強さとは、ただ争うことではない。耐え、清らかさを失わぬことだ」

お雪が、手入れを終えた豆桜の盆栽を持ってきた。

「母上。この桜は、手がかからぬのに美しい。庶民の暮らしの邪魔をしない、良い花です」

冬吉が、一区切りつけて立ち上がった。

「父上。公園の管理は、株仲間の若い者たちも熱心に行っております。不正な土を使わぬという志は、皆に引き継がれています」

正之助は、誇らしげに頷いた。

「銭の力は、人の心に強欲という病を生む。だが、土の力は、命を育む。私たちは、株仲間という正しい土台を築きました」

正之助は、お花の柔らかい手をそっと取り、雪見椿を見つめた。

「お花殿。争いがなくなり、平和になった世で、私は本当に良かったと思っている」

「ええ。お上が信じた、安寧の世は、権力や大名が作るものではありません。花が毎日、静かに咲き、人が心安らかに過ごす。その日常こそが平和であり、私たちの手で育まれるものだ」

お花は、満ち足りた笑顔で頷いた。

植木屋お咲一家は、花と土に生きる静かな日常を再び手に入れた。世の権力と争いの嵐を乗り越え、命と信用が最も尊いという真実を、美しい花々と共に、江戸の人々に示し続けたのである。

世の争いが遠ざかり、平和な春が再び訪れた。植木屋お咲の志は、三代目へと引き継がれることになった。長男の冬吉は絵師の道を極め、お雪は花の研究を続けたため、三代目の跡は、末子の春吉が継ぐことになったのである。

植木屋お咲の庭は、春の光を浴びて豆桜が淡い紅に霞み、雪見椿の清白が際立っていた。家族が一堂に会し、ささやかな祝いの席が設けられた。

正之助が、銚子を取り、春吉に酒を注いだ。

「春吉。今日からお前が三代目だ。竹松の志を継ぎ、植木屋お咲の信用を守り抜くのだ」

春吉は、緊張した面持ちで杯を受け取った。

「父上。母上。兄上、姉上。皆様の教えを胸に刻みます」

春吉は、皆の前で、背筋を伸ばし、大仰に宣言した。

「三代目として、近江商人の精神を学ぶことにいたしました。これを以て、植木屋お咲の志といたします」

冬吉が、興味深げに問いかけた。

「近江商人の精神とは、いかなるものか」

「それは、『三方よし』の心構えだ」春吉は、得意げに言い放った。

「売り手よし。買い手よし。そして、世間よし。この三つが揃うて、初めて商いが成り立つ**。公儀の銭を追うのではなく、世間の安寧を図る。この心構えで頑張ります」

春吉の真面目で意気込んだ宣言に、お雪が静かに笑いを漏らした。

お花は、優しくも、からかうような眼差しで春吉を見つめた。

「春吉。お前は、立派に近江商人の教えを学んだようだね」

「はい。母上。新しい世を築くために、精一杯、努めます」

お花は、くすりと笑い、椿の枝をそっと撫でた。

「だが、春吉よ。その『売り手よし、買い手よし、世間よし』の心構えは、初代お咲、つまり、お前の祖母が、いつも言っていた言葉だ」

春吉は、顔を赤くして固まった。

「ええ。初代お咲は、株仲間ができるずっと前から、『植木屋は世間に安らぎを与えてこそ値打ちがある』と申していた」正之助が、穏やかに付け加えた。

冬吉が大笑いした。

「春吉。お前は、遠回りをして、結局、家の教えに戻ってきたのだな。三代目としては、格好のつかぬ話だ」

「何を言うか、兄上。大切なのは精神だ。精神だ」春吉は、慌てて抗弁した。

一家は、声を上げて笑った。その笑い声は、春の穏やかな風に乗り、庭に咲き誇る****花々の間を通り過ぎていった。

お花は、家族の温かさと、志が三代目に確かに受け継がれたことに、深い安堵を覚えた。争いの世は過ぎ去り、花と信用が根付いたこの安寧こそが、植木屋お咲が辿り着いた真の結末なのである。

エピローグ

時を超えた絆

時: 現代、夏 場所: 北海道、十勝・富良野

広大で清々しい風が吹き抜ける北海道の十勝平野。一面に広がるのは、目にも鮮やかな緑と、力強く咲き誇る花々、そして、どこまでも続く黄金色のジャガイモ畑だ。

この大地で、三つの家族の物語が、江戸時代から続く一本の太い糸で結ばれ、眩い光を放っている。

牧場の光:青山(長政)家の子孫

十勝平野の一角、「青山ファーム」と呼ばれる広大な牧場。ここでは、青山二郎(長政)の子孫である青山悠馬(ゆうま)が、サラブレッドの飼育を営んでいる。

悠馬は、日焼けした精悍な顔つきに、どこか祖先である馬廻りの役目をしたことのある蘭学者・青山二郎の知的な鋭さを宿している。彼の牧場は、科学的な飼育データと、馬一頭一頭への深い愛情によって世界的に知られ、生産したサラブレッドは海を越えて輸出されている。

悠馬が、一頭の若駒のたてがみを優しく撫でる。

「うちの馬は、先祖が蘭学で培った合理性、馬を管理した経験、自然への深い敬意で育っているんだ。無駄がなく、美しく、そして何よりも生命力に溢れている」

悠馬の祖父は、祖先が蘭学で身につけた知識と、馬術への情熱を融合させ、明治時代にこの北海道で牧場を始めた。悠馬は、幼い頃から、曽祖父である青山二郎が、お京さんという女性の悲劇をきっかけに、命の尊さと科学の限界を知ったという物語を聞かされて育った。

「命の価値は、金でも地位でもない。生きる力そのものだ」

彼の牧場には、そんな祖先の魂が、サラブレッドたちの力強い蹄音となって響き渡っている。

花の楽園:お咲(菊次郎)家の子孫

十勝から少し離れた富良野の丘。一面のラベンダーと、色鮮やかな花畑が織りなす「富良野・花の楽園」は、観光客で賑わっている。この楽園を設立し、今や世界的な花の輸出国を担っているのが、植木職人お咲と夫・菊次郎の子孫、*野村咲良(さくら)だ。

咲良の目には、祖先であるお咲と同じ、植物の「内側」を見抜く力が宿っている。彼女は、単に美しい花を育てるだけでなく、その花を植えることで、人々の心に安らぎを与えることを信条としている。

「曾祖母のお咲は、梅吉さんの教えで『独占は破綻を招く』と知った。だから私たちは、この美しい花を誰かの独り占めにせず、世界中の人々に分かち合うの」

咲良は、祖母から伝えられたジャガイモの白い花の物語を大切にしている。それは、悲劇の時代に植えられた希望の象徴だ。彼女の会社は、花の輸出だけでなく、その美しさを求めてやってくる観光客を受け入れ、地域の経済を潤している。

Information

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大地の豊穣:清水家の子孫

十勝平野の最も広大なエリアを占めるのは、清水重之(しげゆき)が経営する大農地だ。彼の農場は、アメリカ式の最新農法を取り入れたジャガイモ栽培の巨大拠点であり、その生産量は日本一を誇る。

重之は、祖先・清水重隆が、梅毒の悲劇の贖罪としてジャガイモの普及に命を懸けた歴史を、一族の誇りとして受け継いでいる。

「清水重隆は、毒を扱った罪を、命を繋ぐジャガイモの普及で償った。私たちの仕事は、その贖罪の歴史を、豊穣の未来として継続することだ」

重之の農地では、最新のトラクターが広大な畑を効率的に耕し、彼らが育てたジャガイモは、「大地の輝き」というブランド名で、世界中の食卓に届けられている。彼は、清水家が江戸時代に負った罪の重さを知っているからこそ、食糧危機という現代の病と、真摯に向き合っている。

夏の日差しが降り注ぐ午後。悠馬、咲良、重之の三人は、重之の農場に隣接するカフェテラスで、収穫されたばかりのジャガイモ料理を囲んでいた。

「まったく、重之のジャガイモは、今年も最高の出来だ。あの当時の水銀が、こんなに素晴らしい食の安全に繋がるなんて、先祖たちも驚くだろうな」悠馬が笑った。

咲良が、富良野の花畑から摘んできた、小さく可憐なジャガイモの白い花をテーブルに飾る。

「私たち三人の始まりは、悲劇と、毒と、金銭という、どうしようもない闇だった。でも、先祖たちは、法を超え、命の価値を信じ、このジャガイモという希望を植え付けた」

重之は、深く頷いた。

「私たちは、彼らが繋いだ心の根の上に立っている。この大地の輝きは、過去の悲しみを、未来の希望に変えた、すべての先祖たちへのエールなんだ」

広大な北海道の大地を舞台に、蘭学(青山)、植木(お咲)、そして贖罪(清水)の三つの魂は、現代の農業と美意識、そして豊かな命の連鎖として、力強く輝き続けている。

時を超えた絆:新千歳空港

真夏の北海道、新千歳空港の国際線到着ロビー。人々の喧騒の中、野村咲良(お咲の子孫)は、大きなスーツケースを持った一人の青年を待っていた。

青年は、青い瞳に金髪、しかし、その立ち姿にはどこか静謐な品格がある。彼は、ヨハネス・ファン・デル・ワールス。蘭学者ヨハネスの五代目の子孫であり、現在はオランダの大学で東洋学を研究している。

「ようこそ、ヨハネスさん。北海道へ」咲良は、笑顔で手を差し出した。

「咲良さん。お久しぶりです。お迎え、ありがとうございます」ヨハネスは流暢な日本語で答えた。

彼は、先祖ヨハネスが辿った困難な航路とは比べ物にならないほど速く、故郷から日本の地に降り立った。しかし、彼の胸には、遠い江戸時代に、祖先が植木職人お咲と交わした「命の光」の約束が刻み込まれている。

「先祖の物語を聞いてから、ずっとこの大地を見たかったのです。ジャガイモが、どれだけ根を張ったのかを」

咲良は、ヨハネスを連れて、十勝平野の青山ファームへと向かった。広大な牧場でサラブレッドを飼育する青山悠馬(青山二郎の子孫)が、二人を出迎えた。

「悠馬さん、こちらがヨハネスさんよ。蘭学の知恵をくれた、ヨハネスさんの子孫」

「会いたかったよ、ヨハネス。君の祖先がもたらした蘭学の知識は、私たちの馬の飼育にも活きている。科学と、命を尊重する精神。それは、時代を超えて繋がっている」悠馬は、力強い握手を交わした。

三人は、牧場の小高い丘に立ち、風に揺れる牧草地と、遠くに見える色とりどりの花畑、そしてジャガイモ畑を見渡した。

「私の祖先、青山二郎は、水銀という毒と、山帰来という薬を巡る悲劇の中で、真の知識とは何かを学んだ。あなたの祖先がいなければ、私たちは真実に辿り着けなかった」

その後、一行は、ジャガイモ栽培の巨大拠点を持つ清水重之(清水重隆の子孫)の農場へと向かった。

重之は、収穫されたばかりのジャガイモをテーブルに広げ、三人を迎えた。

「ようこそ、ヨハネスさん。私の祖先は、絶望的な状況の中で、間違った薬に頼り、過ちを犯した。しかし、その罪を償うために植えたのが、このジャガイモだ。あなたの祖先が伝えてくれた命の光が、この大地に豊穣をもたらしている」重之は、熱い目で語った。

ヨハネスは、テーブルに置かれたジャガイモを手に取り、静かに言った。

「私の祖先も、貧しさから、時に危うい道を選ばざるを得ませんでした。しかし、彼は、『命の価値は、金ではない』と信じ、お咲さんたちにジャガイモの知恵を託した。この豊かな大地と、このジャガイモは、過去の悲劇を乗り越えた、私たちの先祖たちの魂が繋がった証です」

咲良は、お咲が命懸けで守ろうとした「生命の根」が、時代を超え、国境を超え、こうして皆を再会させていることに、胸が詰まる思いだった。

夏の日差しが降り注ぐ午後。悠馬、咲良、重之、そしてヨハネスの四人は、北海道の広大な大地を囲み、先祖たちが残した苦悩と、そこから生まれた希望を語り合った。

蘭学(青山)の知恵、植木(お咲)の情熱、贖罪(清水)の決意、そして異国(ヨハネス)の命懸けの贈り物。この「大地の輝き」は、すべて、江戸時代の過酷な状況の中で、「命を繋ぐこと」を最優先した先祖たちの温かい心の証だった。

「この大地で、私たちはこれからも、新しい命の芽を育てていきます。それが、私たちの子孫としての使命です」咲良は、力強く誓った。

ヨハネスは、深々と頭を下げた。彼の目には、故郷オランダの水辺の風景と、江戸の長屋の植木鉢、そして目の前の豊かな大地が、一つに繋がって見えていた。

彼らが植えた希望の根は、現代の北海道という広大な大地に、しっかりと張り巡らされ、争いのない平和と豊穣を謳歌している。