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南米ペルーを描く

マチュピチュ遺跡

インカ文明とマチュピチュ遺跡

15世紀のインカ帝国の遺跡

インカ帝国の遺跡を歩く

「この遺跡は標高約2,430m、3mずつ上がる段々畑が40段、3,000段の階段でつながり、遺跡の面積は約13キロメートルで、石の建物の総数は約200戸あります」
とガイドさんが流ちょうな日本語で説明。ところが、歩くのもやっとという状態の観光客に苦笑いしていた。ほとんどの人が高山病。無口になり、ヨタヨタ歩行。説明は度々中断され、休憩タイムとなった。

スペイン人がはたして、こんなところでインカの人々と戦うことができたのか?
ガイドさんに質問すると、全く異なる回答が返ってきた。
「戦いはなかったんですよ。ただ人々が逃げてきたのですよ」

以前、豊田工場で働いていたというペルー人ガイドさんが見事な日本語で解説された。
「ほとんどが感染病。スペイン人が持ち込んだヨーロッパの病原体が免疫のなかったインカの人々を死に追いやったんですよ」

なるほどと感銘して話を聞いた。武器の差もあったに違いないが感染病とは。納得した。スペイン風邪やコレラ、チフス、天然痘。日本も江戸時代末期、外国人が運んできた感染病が大流行した。あれと同じ状況だったに違いない。

マチュピチュは年老いた峰という現地語。当初、遺跡の名前ではなく背後の山の名前だったといわれる。

マチュピチュ遺跡
painted by Ms. Distel

インカ文明が滅んだ理由

マチュ・ピチュの遺跡は誰が発見した?

マチュ・ピチュの遺跡を発見したのは、ハイラム・ビンガム
ハワイ生まれのアメリカの探検家。1911年にイェール大学ペルー探検隊を組織して、7月24日にマチュ・ピチュの遺跡発見。

この時、地元の人が彼に山の名前を教え、それと遺跡が混同されて、それ以来、遺跡をマチュピチュと呼ぶようになったらしい。正確に言うと、背後の山の名前がマチュピチュ山。

さらに正確を記すと、ビンガムは、発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけであるともいわれている。

さらにまたマチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。

インカの王族や貴族のための別荘。軽井沢みたいな避暑地ではなかったかという説が一番主流ではないかとガイドさん。

そうかな?

半分疑問符をつけながら、マチュピチュ遺跡を歩いていたら、太陽の動きを観測するような建物があった。これはもしかすると、太陽神を祭り、農業などのための太陽を使ったカレンダー作りのための観測場では。

ガイドさんにその話をすると「ふんふん」と聞いて反論はなかった。もしかすると、マチュピチュにはそうした要素があったのではないだろうか。天皇が暦の権限を持っていたことと通じるように思えた。農業には季節や時刻が欠かせない。それをつかさどる人が権力者になれるはず。

歩いていると、コンドルの神殿があった。コンドルはインカのシンボル。「コンドルは飛んでいく」という歌を思い出し、ついハミングをしてしまった。悲しいメロディーでスペイン人に追い払われたインカの人々を想像してしまった。

ピサロの計略にかかり滅亡?

皇帝の死でインカの歴史が終息

スペイン人、フランシスコ・ピサロの策略でインカ皇帝アタワルバは捕まり、処刑された。史実上のインカ帝国の滅亡。

周辺地域はアンデス文明が発達。だが、文字を持たないため、解明されていないたくさんの謎を持つらしい。

皇帝の死でインカの歴史が終息
painted by Ms. Distel

スペインの植民地

スペインの圧政に苦悩

1821年ペルー共和国独立

南米各地に独立の機運が高まり、サン・マルティン将軍の元、独立軍はスペイン王党派を破り、ペルー共和国として独立した。

1821年ペルー共和国独立
painted by Ms. Distel

クスコはへそ?

クスコは標高約3,400m

インカ帝国の首都クスコの繁栄

もともとはキルケ人が支配していた地を1200年頃からインカ人が占拠した。その後インカ帝国の首都として一世紀近く繁栄した。クスコ(Cusco)はケチュア語でへそを意味する言葉。

インカ帝国の首都クスコの繁栄
painted by Ms. Distel

クスコは1983年世界遺産に登録

スペイン人の技術とインカ文明の遺跡が調和された都市、特別な建築様式に文化的な価値があると認定されて、1983年にユネスコ世界遺産に登録された。

その特異な都市の通路のような一角に画廊があり、その中で自称画家の青年と会話。どうしたらいい絵が描けるか?逆に質問されてしまった。
一枚、気に入った絵を購入したら、とても喜ばれた。

クスコのオープン・ギャラリー?

石やレンガ造りの建物を描くときは一枚一枚の境目に光を反射させることで重厚さが表現できる。

クスコのオープン・ギャラリー
painted by Ms. Distel

クスコ市内散策はゆっくりと

斜面の上に街が築かれている

標高3,400mはかなりきつい。富士山は3,776m。普通の人間なら3,000m超えると高山病になってしまう。散策をするときは、とにかくゆっくり歩く。決して走ってはダメ。すぐ頭が痛くなってしまう。一歩一歩、亀のようにのんびり歩こう。

斜面の上に街が築かれている
painted by Ms. Distel

クスコに大地震

インカの石畳は無事!
スペイン人の建てた部分はすべて崩壊

スペイン人がインカを征服してから、スペイン人植民者は数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿を破壊した。そして、彼らは破壊で残った壁を、新都市建設の土台として使用した。

だが、1650年、1950年、1986年と大地震が起こった時、インカ時代の石畳の部分は全く無傷。しかし、占領後にその上にスペイン人が築いた新しい部分は見事に崩落した。

インカ時代の石積みは、石と石の間にカミソリの刃一枚通さないと言われるほどだから
ガイドさんが笑顔で説明してくれた。

大地震でもインカの石畳は無事
painted by Ms. Distel

クスコの建物は緻密

インカ帝国を山の奥に追いやって、インカの礎石の上に建物を築いたスペイン人。兵力は強いが、文明としてはインカが上?

インカでは、農業生産、建築技術、道路網、その上、頭蓋骨の外科手術まで完成度が高かったようです。

クスコのその後は、スペイン植民地とキリスト教布教の中心。農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげで繁栄。
現在はマチュピチュ遺跡への玄関口として有名。特に高山病対策の一つとして、クスコで一泊するといいらしい。

ただし、クスコを散策しながら、なんだか気分が悪くなってきたのを記憶している。美味しいはずの夕食がとてもまずく感じてしまった。高山病が始まっていたのかもしれない。

ちなみにクスコで食べた料理はジャイアントコーン、モラヤ(乾燥ポテト)など、おしゃれなフランス風の盛り付けで実に美味しいはずだった。

余談ですが、ペルーの海岸線は砂漠地帯。こんなに海岸砂漠があることにびっくり。さらに驚くことは、そこで最近、ブルーベリーが生産されて、ペルーの農産物の代表的なものになっているという。砂漠でブルーベリーが生産できる。開発者の努力で奇跡が起こる。世界は常に進み続けているのですね。

ついマチュピチュ遺跡を中心に話題が絞られてしまった。ペルーには他にも地上絵やマリ、見るべきところは沢山ある。
ただ、地上絵を見ようとセスナ機に乗ったものの、パイロットさんの見事な操縦のおかげで乗り物酔いが悪化。地上絵を見るどころではなかった。パイロットさんがいかにハンサムかは覚えているのですが。

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南米ペルーはちょっと遠い。楽天で買うことができるジャイアントコーンで我慢してね。また、少し難解かもしれませんが、「100年の孤独」もペルー人の心を理解するのに役立つかもしれません。ぜひご購入くださいね。

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最近人気の「100年の孤独」を読むと、南米の人の心が少し見えてくるように思う。少し難しいけれど、読みだすと止まらない。

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作成者: Distel

長年、山田みち子として、パソコン絵画を描いてきましたが、AIの人気に押され、その世界を垣間見たら、これが抜群に面白い。今まで描いてきた絵がAIのおかげで思っていた以上に仕上がります。生きることがとても楽しくなりました。これから90歳まで絵を描き続けようとこのサイトを立ち上げました。末永く、ご支援いただければ幸いです。M.Y.Distel (本名山田みち子)

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