Ms.Distel(山田みち子)にとって、旅は絵のため、絵は旅をするため。そんな人生を歩みながら旅先でたくさんの絵を描き続けて30年。それらの作品を紀行文を添えてお送りします。
イギリス・フランス
モチーフ探し紀行文
絵を描くことは私の幸せ。
今回は、わが青春の思い出のロンドンとフランスのモン・サン=ミッシェルを描き、紀行文を添えました。楽しんでね。💕
美術館散策
ロンドンには美術館や博物館が多々あります。その中でも有名なのが大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・ギャラリー、ヴィクトリア&アルバート博物館等々。
私が最初に訪れたのは大英博物館と帝国戦争博物館。
なぜ?
道筋がわかりやすかったからという理由と料金の安さから。貧乏学生だった私には、とにかくお金がなかった。
たしか、帝国戦争博物館でゼロ戦闘機を見た記憶がある。ロンドンに不時着したと記載されていた。二度目に訪れた時は見当たらなかった。残念でした。
イギリスで特に印象的だったのは、大英博物館で出会った北斎展。今でも思い出すことがある。
次にテート・ギャラリー。この美術館には毎日通って、キャンバスの裏まで見つめるように時間をかけて眺めていた。そんな私に館長さんが何度も声をかけてくれて、絵の説明をしてくれた。点描画の作品などは下絵の絵具の色まで教えてくれた。入館料無料の客にここまで親切に対応する館長さん。イギリスはなんて素晴らしい国だろうと感激の日々を過ごした。
そこで出会ったのは、印象派の作品、モネやセザンヌ、シスレーやドガ。しかし、私が一番感銘を受けたのは、ピサロ。カミーユ・ピサロの大作の前に行ったときに、雷が打たれたようなショックを受けた。百年頑張って描いても勝てないと悟った。
それ以来、日本にピサロの作品がやってくるときは必ず会いに行くのだが、みんな小さな作品。あの大きな作品は幻だったのかと思う日々です。
ビックベンと赤いポスト
◆赤いポストとビックベン

1859年の7月、ビックベンはロンドン市内に時間を知らせる鐘を鳴らした。約96mの高さから流れ出る音は、私が学校で聞いていた音と同じだったので不思議に思って調べると、元祖はビックベン。日本の学校が真似たらしい。ありがとうビックベン!
テムズ河岸を歩く
◆テムズ川からのビックベン

テムズ川はターナーの絵でなじみがあり、何度も河岸を歩いた。朝日、夕日、そしてターナーの描いた淡い曇り空。どんなときにもカモメが飛び交っていて、ホテルの朝食のパンの残りをおすそ分けした。朝食のパンは真っ黒こげで実にまずかった。でも、このホテル、クリスマスが近づくころから毎朝素敵な朝食を運んでくれた。なんとクリスマス・イブには七面鳥でもてなしてくれた。今でもその味を忘れることができないほど。七面鳥を食べたのはそれ一回きりだから。
テムズ川の河岸のベンチは私の休息場所。静かに座っていると、必ず老婦人がそばに寄ってきて、何かを語りかけてきた。
理解できないロンドンなまりの英語だったが、相づちを打っていると、老婦人の顔が笑顔でいっぱいになり、やがて「神に感謝」といいながら離れていった。私がよほど孤独な人間で「助けてあげた」と自己満足したようにも見えた。
ただ私はテムズ川の風景に感動していただけなのに。
私は川の畔が幼い頃から大好きで、時間が少しでもあると、川の畔でヒバリの鳴き声を聞きながら、昼寝をしていた。
ロンドンはとにかく全部好きです。
そして水彩画家のターナーもあの何とも言えない淡い雰囲気が大好きです。
モン・サン=ミッシェル&二都物語
モン・サン=ミッシェルは描きたいと願い続けた憧れの地。
◆朝もやのモン・サン=ミッシェル

苦難の歴史
日本の飛鳥時代、和同開珎が作られた頃にモン・サン・ミッシェルは小さな礼拝堂として生まれた。その後に厳しい戒律で知られるベネディクト派の修道院が増築された。13世紀ごろに今のようなゴシック式の建物になったが、14世紀頃には、要塞として使用された。
その後、フランス革命後は監獄として利用された。
内部の地下に大きな木造りの車輪があり、それを囚人が動かすことで、動力エネルギーにしたと説明を受けた。車輪の間に人が乗り、足を動かすことでエネルギーが生まれる。過酷そのものの世界だったようです。
19世紀になってやっと教会としての役目、信仰の砦としての存在を確立できた。
1979年にユネスコの世界遺産に任命されて今に至る。
西洋の驚異と言われるこの美しい存在物は信仰があるなしにかかわらず、人の心をつかんで離さない。
オムレツを食べる

このモン・サン=ミッシェルには名物料理がある。オムレツです。世界中から訪れる信仰者たちをアネット・プラーネ夫人が迎え入れた時にふるまった料理。疲れ切った巡礼者のための料理。
現代人のように、近くまでバスで行って、贅沢な舌で味わうのとはわけが違う。
昔は肉や野菜、果物は島に運ぶのは大変。そこで素早く調理できる卵料理をふるまう。
美味しい味を求めるのではなく、歴史を知るために食べるなら、それはそれでいいのではと思います。
三度目の訪問は姉を同行した。その時に姉にアドバイス。
「オムレツを給仕しているウェーターさんにボクといえば、少ない量にしてくれるから、ボクボクと言ってみて」
姉は周囲からまずいと聞いていたので、さっそく「ボクボク」と連発したら、ほかの人の何倍も皿に盛りつけてくれた。
フランス語でたくさんは、日本人にはボクと聞こえる。
姉は「あのウェーターさん、私に気があるのかしら」とのんきに喜んでいた。もちろん、全部食べた後、味がしなかったとぼやいていたが。
イギリスのヒストリー
イギリスの歴史は日本の江戸時代初期、グレートブリテン王国として誕生した。日本に始めてきたイギリス人はウイリアム・アダムズ。その彼を側近として、西洋のアドバイザーとして家来にしたのが徳川家康。さつまいもを日本に伝えた人物でもある。
1598年、ウイリアム・アダムズはオランダの東方遠征隊で日本へと向かった。当時、ヨーロッパでは大航海時代が到来し、アジアや新世界へと交易を開始したが、イギリスはかなり遅れ気味。
スペインやポルトガルが海上を制覇、オランダやイギリスは後進国としての存在だった。しかし、1588年にスペインの無敵艦隊はドーバー海峡(アルマダ海戦)でイギリス艦隊に敗北、さらに帰途に暴風雨にあって、大多数の船が沈没してしまった。
結果、スペインの制海権は消失、イギリスにとって代わられてしまった。世界でも栄枯盛衰の例はたくさんある。
その事実を知った上でのウイリアム・アダムズの日本での生活。徳川家康にその事実をていねいに説明することで信頼を得ることができたといえよう。
イギリスとオランダ、そして日本とのつながりはそうした歴史的な背景によるもの。もし、ウイリアム・アダムズが何事もなく、イギリスに帰国していたら、その後の家康の思想や行動はなかったに違いない。ウイリアム・アダムズはオランダ、イギリス、日本の懸け橋になった人物といえよう。
同じ島国、かたや産業革命などで世界を席巻した過去を持つイギリス、一方、島国の門戸を閉ざし、小さく自国を守る平和な時代を築いた日本。
現代社会はどちらを高く評価するのか?
余談ですが、ロンドン美術館の多くの作品が、植民地から運んだ貴重品。大英博物館で最初に見たものがエジプトの象形文字。
「そうか、イギリスの文化は略奪品」
でも、それがあったからこそ、大切に保管されて今日まで人々を楽しませてくれている。日本だったら、とうに消失してしまっただろうと妙なところで感銘している自分がいる。日本の江戸時代の芸術作品の多くが大英博物館に保管されている。ありがたい。
◆本に囲まれた生活は幸せ

二都物語
二都物語は、時代はフランス革命前後。ロンドンとパリを時間的、空間的、思想的に描いた作品。二人の青年、カートンとダーニー。そしてイギリスに住むルーシーという女性。彼女の父親は無罪でありながら、牢屋に閉じ込められていた。
二都物語の内容はとにかく複雑。日本語に訳した中野好夫氏、加賀山氏や佐々木氏などを心底尊敬する。日本語ですら、私には理解するのが困難だった。
その内容の中で、二つ、深く残っているところがある。
当時のパリやロンドンの道路の悪さ。馬車で泥を踏みながら走ることで道路はかなり傷んでしまう。
徳川家康はこのことを知っていて、馬車は走らせなかった。
それから、フランス革命で盛り上がっている男性たちを、玄関先で編み物をしながら眺めている婦人たちが描かれている。
時代の流れの中で人々が悩み、苦しみながらも、自分の信じる行為を最後まで全うしたことをこの小説は描いている。
感動した小説ですが、しばらくはその余韻を保ったままでいたい。読み返す気力が湧くのはいつの日のことか。とにかく疲れました。あまりにすごい本の内容です。
(パリから列車でロンドンに行く間に読んだ本です。)
旅の感動と思い出に感謝
旅をする前は、なんの期待もなく、何となく行くという正直、あまり前向きではない心境の私。でも、飛行機を降りて、未知の空気を吸い込んだ瞬間に、目も心も体も日本にいたようなふわふわした気分は吹き飛びます。
毎日が未知との遭遇。人間にとって好奇心は行動力のエンジンです。そして、もう一つ、なぜか絵が描きたくなります。そして夢中で描く自分をそのまま平然と受け入れているもう一人の自分がいます。
これって、私の幸せかも。
これからも描き続けて行きます。
◆歩きながらモチーフ探し

絵の旅人Ms.Distel(日本語でアザミ)本名は山田みち子。これからもお楽しみに!